2016年 12月 16日
16.12.15 南京大虐殺79カ年2016年東京証言集会参加記 |
南京大虐殺79カ年2016年東京証言集会参加記
昨日(12月15日)、水道橋韓国YMCAで開催された「南京大虐殺79カ年2016年東京証言集会〜忘れてはならない事実がある〜」に参加した。
YMCA前には右翼と覚しき連中が通州事件糾弾などのプラカードをもって、集会への抗議行動が行われていた。
通州事件とは、37年7月日本傀儡政権である冀東防共自治政府に置かれた支那駐屯軍の軍事訓練をうけた保安隊(中国人軍隊)が、関東軍爆撃機の保安隊訓練所誤爆への疑心暗鬼から起こした日本軍への反乱及び日本人居留民への暴虐行為事件である。かれらは、この事件がなければ、南京虐殺を起こらなかったといい、中国人も虐殺したではないかとよく持ち出す事件である。
この集会には昨年まで幸存者による証言が行われていたが、現在までご存命の107名の方もご高齢で日本渡航が困難なことから、今回は2名のビデオによる南京避難区(3.85平方㎞)における敗残兵狩りに関する証言であった。
敗残兵狩りは、南京陥落の13日から、松井岩根指令官らの入場式が行われた前日の16日までをピークとして、その後南京は、第16師団(編成地:京都)と第11師団(編成地:善通寺)天谷支隊(揚州攻略部隊)が残留し、南京城内(50平方㎞)は、第16師団の第30旅団の佐々木到一少将が指揮し、警護・粛正・宣撫工作の責任者として敗残兵狩りが行われた。
この敗残兵狩りは、男性で民間人と判定された者に「安居証」を発行すると宣言し、元兵士だったものは自首すれば、生命と仕事を与えるが、その後の検査で元兵士であることが判明した場合は、銃殺にするという方法で実施された。26日南京大学のテニスコートにて第一回「査問工作」が実施され、難民登録に参加した3000名ほどの内、200名以上が自首した。しかし彼らはその後五台山と漢中門外の運河で銃殺乃至刺殺されたと言う。12月30日には更に追い打ちを掛けて、1月5日まで登録を拒否した者は「元兵士」と見なし銃殺すると発表したと言う。
蒋介石をはじめ国民党幹部と親しく,済南事件まで国民党の革命を支援してきたと言われる陸軍きっての中国通であった佐々木到一少将は1月5日の日記に「査問打ち切り、この日迄に城内に摘出せし敗残兵約2000名、城外近郊にあって不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関(揚子江岸)において処分せるもの数千に達す」と記した。
尚、佐々木到一の来歴は、戸部良一『日本陸軍と中国―「支那通」にみる夢と蹉跌』講談社に詳しい。
今回の証言集会には、昨年12月に退職した南京大虐殺記念館館長であった朱成山さんから、1992年5月より23年間に渡る記念館の活動に関する通訳を交えた90分程の講演があった。
以下、朱元館長の語られたことのうち、印象に残ったことを中心に記す。
1)1994年12月の第一回慰霊式典開催の由来について
今年23回目を迎える12・13慰霊式は国家公祭として3回目だが、1994年に600名規模で始めて開催され、南京全域で防空警報を鳴らし、武装警察に捧げ銃と献花という方法で行われたと言う。
このような慰霊式典は、館長が1994年8月に訪日し広島で11万人が参加する原爆慰霊式典に参加したことが契機だと語った。
中国では、これまで自らの成功を皆で喜ぶ式典:戦勝式典はあっても、自らの恥と覚しきことを皆で晒す慰霊式典という発想がなかった。広島がそして長崎が毎年同じ日に政府が慰霊式典を開催することを目の当たりにして、帰国後南京で始めて南京大虐殺受難者を哀悼する慰霊式典を開催し、6年後の2001年9月18日柳条湖事件(満州事変)が引き起こされた瀋陽(旧奉天)でも防空警報を発する記念式典を開催するようになったという。
2)南京大虐殺受難者に対する調査活動と受難者支援について
受難者証言の収集は、1997年70周年の時に南京市全域の500万人ほどの市民のうち、70歳以上の方を対象にして、14700名余りの大学生、高校生、中学生が参加して、虱潰しの調査を行い、約2300件の体験事例を収集し、1213名の生存者の証言を得たと言う。この調査には20名程の日本の大学生、高校性と保護者が参加して、その後の国際的な影響力をもったという。この活動は、受難者への支援を行う「南京大虐殺幸存者援助協会」の設立を促し、国際的な口述証言の蓄積に繋がり、今日幸存者への医療費用、入院費用、慰問金、死亡者お見舞い金、及び生活補助金などの支援活動を実現する契機になったと言う。
3)国際的な協力による記念館資料の充実について
館長を引き継いだ時(1993年)の館所有の史資料は100件に満たなかったという。一次資料の収集はいまの世代がやらないと次の世代に大きな負担を強いることになるとの判断から、最重要の活動として取り組んだ。マギーの16ミリビデオを取得するために、エール大学に赴き、オリジナルコピーを頂き、またジョンラーベの日記を含む記録を取得するために、ドイツに赴いた。ジョンラーベの日記は有名だが、予期しなかったことだが、当時の写真が127枚もあることが判った。また日本には、南京戦線に参加した日本兵254名の口述記録など、今後第一世代が逝去することを想定した史資料の収集を最重要課題として取り組んできたという。
4)記念館の無料開放の実施について
中国に個人旅行で行ったことのある方は体験されている通り、南京大虐殺記念館に限らず、中国各地に開設されている歴史記念館は殆ど無料である。また民間の博物館、世界遺産などの入場料は、60歳以上半額になる。
現在当たり前となった無料開放は南京市の要請により南京大虐殺記念館が最初に実施したと言う。初期は殺到する入場者に対応できずトラブルとなったが、その後施設の拡充を含めて様々な改善を通じて今日の記念館の運営モデルをつくることができたと言う。
中国全土の博物館は4700館弱ほどあるが、現在その85.5%に当たる4013館が無料開放するようになったと言う。
5)南京大虐殺受難者数について
虐殺の本質は、その過多に関わらないことを前提に、虐殺の規模と程度という視点から、科学的に検証することを厭わないと言われた。
この数字の根拠は、言うまでもなく、現政府が成立する以前の1946年の二つの戦犯法廷での判決である。南京法廷は、「30万人以上」、東京法廷は「20万以上」であり、尚東京法廷は、「揚子江に投げ込まれた死体や土中などその他の方法で処理された死体は含んでいない」という条件付きであった。
次の根拠は、死体埋葬記録である。①崇善堂、同善堂などの慈善団体による18万5千の埋葬死体、②個人による埋葬遺体3万5千人、③偽政府(汪兆銘政権)による6200名の埋葬死体、④日本軍による死体損壊の痕跡が15万体。合わせて38万以上というのが基礎数値。これに慈善団体による埋葬死体と日本軍による損壊死体、及び毀損死体と埋葬死体の重複を配慮したとしても、30万人は下らないというのがその根拠と言う。当時慈善団体への埋葬手数料は一死体当たり0.4元(4角)であったと言い、運河や揚子江での浮遊死体処理は重複が避けられなかったと言う。
今回、はじめて館長を通じて歴史的記憶に関する取り組みを伺い、南京記念館の取り組みには、政治的意図と排外主義的な「反日キャンペーン」としての記念館活動というイメージをもつことができない。
広島や長崎を始め、東日本大震災の罹災者がその受難者を追悼し、その再現を繰り返さない意思を共有するオブジェクトとしての記念施設建設とその慰霊行動は、国家概念による政治的な対立を越えて、人びとが自然に行う行為であることを再確認することができたと思う。
南京大虐殺を忘れてはならないと語る日本人を「反日的」とレッテルを貼る連中がもし逆の立場で虐殺を受けたとなれば、当然日本に同様な記念館を創ることは想像に難くない。しかしそうではなく、国民国家という概念ではなく、日本と中国、韓国など近隣に暮らす同じ生命を授かった人間の慰霊と追悼として、その活動をその再現を避けるための不可欠な営みとして継承するこが、罹災者・受難者に対するいまを生きる私達の世代の最も大切な行いなのだと思う。
昨日(12月15日)、水道橋韓国YMCAで開催された「南京大虐殺79カ年2016年東京証言集会〜忘れてはならない事実がある〜」に参加した。
YMCA前には右翼と覚しき連中が通州事件糾弾などのプラカードをもって、集会への抗議行動が行われていた。
通州事件とは、37年7月日本傀儡政権である冀東防共自治政府に置かれた支那駐屯軍の軍事訓練をうけた保安隊(中国人軍隊)が、関東軍爆撃機の保安隊訓練所誤爆への疑心暗鬼から起こした日本軍への反乱及び日本人居留民への暴虐行為事件である。かれらは、この事件がなければ、南京虐殺を起こらなかったといい、中国人も虐殺したではないかとよく持ち出す事件である。
この集会には昨年まで幸存者による証言が行われていたが、現在までご存命の107名の方もご高齢で日本渡航が困難なことから、今回は2名のビデオによる南京避難区(3.85平方㎞)における敗残兵狩りに関する証言であった。
敗残兵狩りは、南京陥落の13日から、松井岩根指令官らの入場式が行われた前日の16日までをピークとして、その後南京は、第16師団(編成地:京都)と第11師団(編成地:善通寺)天谷支隊(揚州攻略部隊)が残留し、南京城内(50平方㎞)は、第16師団の第30旅団の佐々木到一少将が指揮し、警護・粛正・宣撫工作の責任者として敗残兵狩りが行われた。
蒋介石をはじめ国民党幹部と親しく,済南事件まで国民党の革命を支援してきたと言われる陸軍きっての中国通であった佐々木到一少将は1月5日の日記に「査問打ち切り、この日迄に城内に摘出せし敗残兵約2000名、城外近郊にあって不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関(揚子江岸)において処分せるもの数千に達す」と記した。
尚、佐々木到一の来歴は、戸部良一『日本陸軍と中国―「支那通」にみる夢と蹉跌』講談社に詳しい。
今回の証言集会には、昨年12月に退職した南京大虐殺記念館館長であった朱成山さんから、1992年5月より23年間に渡る記念館の活動に関する通訳を交えた90分程の講演があった。
以下、朱元館長の語られたことのうち、印象に残ったことを中心に記す。
1)1994年12月の第一回慰霊式典開催の由来について
今年23回目を迎える12・13慰霊式は国家公祭として3回目だが、1994年に600名規模で始めて開催され、南京全域で防空警報を鳴らし、武装警察に捧げ銃と献花という方法で行われたと言う。
このような慰霊式典は、館長が1994年8月に訪日し広島で11万人が参加する原爆慰霊式典に参加したことが契機だと語った。
中国では、これまで自らの成功を皆で喜ぶ式典:戦勝式典はあっても、自らの恥と覚しきことを皆で晒す慰霊式典という発想がなかった。広島がそして長崎が毎年同じ日に政府が慰霊式典を開催することを目の当たりにして、帰国後南京で始めて南京大虐殺受難者を哀悼する慰霊式典を開催し、6年後の2001年9月18日柳条湖事件(満州事変)が引き起こされた瀋陽(旧奉天)でも防空警報を発する記念式典を開催するようになったという。
2)南京大虐殺受難者に対する調査活動と受難者支援について
受難者証言の収集は、1997年70周年の時に南京市全域の500万人ほどの市民のうち、70歳以上の方を対象にして、14700名余りの大学生、高校生、中学生が参加して、虱潰しの調査を行い、約2300件の体験事例を収集し、1213名の生存者の証言を得たと言う。この調査には20名程の日本の大学生、高校性と保護者が参加して、その後の国際的な影響力をもったという。この活動は、受難者への支援を行う「南京大虐殺幸存者援助協会」の設立を促し、国際的な口述証言の蓄積に繋がり、今日幸存者への医療費用、入院費用、慰問金、死亡者お見舞い金、及び生活補助金などの支援活動を実現する契機になったと言う。
館長を引き継いだ時(1993年)の館所有の史資料は100件に満たなかったという。一次資料の収集はいまの世代がやらないと次の世代に大きな負担を強いることになるとの判断から、最重要の活動として取り組んだ。マギーの16ミリビデオを取得するために、エール大学に赴き、オリジナルコピーを頂き、またジョンラーベの日記を含む記録を取得するために、ドイツに赴いた。ジョンラーベの日記は有名だが、予期しなかったことだが、当時の写真が127枚もあることが判った。また日本には、南京戦線に参加した日本兵254名の口述記録など、今後第一世代が逝去することを想定した史資料の収集を最重要課題として取り組んできたという。
中国に個人旅行で行ったことのある方は体験されている通り、南京大虐殺記念館に限らず、中国各地に開設されている歴史記念館は殆ど無料である。また民間の博物館、世界遺産などの入場料は、60歳以上半額になる。
現在当たり前となった無料開放は南京市の要請により南京大虐殺記念館が最初に実施したと言う。初期は殺到する入場者に対応できずトラブルとなったが、その後施設の拡充を含めて様々な改善を通じて今日の記念館の運営モデルをつくることができたと言う。
中国全土の博物館は4700館弱ほどあるが、現在その85.5%に当たる4013館が無料開放するようになったと言う。
虐殺の本質は、その過多に関わらないことを前提に、虐殺の規模と程度という視点から、科学的に検証することを厭わないと言われた。
この数字の根拠は、言うまでもなく、現政府が成立する以前の1946年の二つの戦犯法廷での判決である。南京法廷は、「30万人以上」、東京法廷は「20万以上」であり、尚東京法廷は、「揚子江に投げ込まれた死体や土中などその他の方法で処理された死体は含んでいない」という条件付きであった。
次の根拠は、死体埋葬記録である。①崇善堂、同善堂などの慈善団体による18万5千の埋葬死体、②個人による埋葬遺体3万5千人、③偽政府(汪兆銘政権)による6200名の埋葬死体、④日本軍による死体損壊の痕跡が15万体。合わせて38万以上というのが基礎数値。これに慈善団体による埋葬死体と日本軍による損壊死体、及び毀損死体と埋葬死体の重複を配慮したとしても、30万人は下らないというのがその根拠と言う。当時慈善団体への埋葬手数料は一死体当たり0.4元(4角)であったと言い、運河や揚子江での浮遊死体処理は重複が避けられなかったと言う。
今回、はじめて館長を通じて歴史的記憶に関する取り組みを伺い、南京記念館の取り組みには、政治的意図と排外主義的な「反日キャンペーン」としての記念館活動というイメージをもつことができない。
広島や長崎を始め、東日本大震災の罹災者がその受難者を追悼し、その再現を繰り返さない意思を共有するオブジェクトとしての記念施設建設とその慰霊行動は、国家概念による政治的な対立を越えて、人びとが自然に行う行為であることを再確認することができたと思う。
南京大虐殺を忘れてはならないと語る日本人を「反日的」とレッテルを貼る連中がもし逆の立場で虐殺を受けたとなれば、当然日本に同様な記念館を創ることは想像に難くない。しかしそうではなく、国民国家という概念ではなく、日本と中国、韓国など近隣に暮らす同じ生命を授かった人間の慰霊と追悼として、その活動をその再現を避けるための不可欠な営みとして継承するこが、罹災者・受難者に対するいまを生きる私達の世代の最も大切な行いなのだと思う。
注:済南事件
1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣(第二次山東出兵)された日本軍と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件
by inmylife-after60
| 2016-12-16 18:16
| 歴史認識・歴史学習
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