2020年 06月 25日
マクニール:「疫病と世界史」を読む |
マクニール:「疫病と世界史」を読む
新型コロナウイルスの蔓延によって、自宅で過ごす機会が増えたことを利用して、落ち着いて本を読むことができた。友人から紹介されて読んだ『感染症と文明〜共生への道』2011年(山本太郎)にマクニールの「疫病と世界史」からの引用と紹介があったことから、読んでみたくなり、上下巻に渡るノートをつくりはじめた。
この本の前に偶然ホモ・サピンエス全史を読んでいたので、人類と文明の誕生に関わる認識には大きな差はないが、ハラリのキーワードは剰余価値を生み出すカラクリとしての「虚構」にあるが、マクニールのキーワードは、地球上の動植物の生命活動である食物連鎖に不可欠である「寄生」にある。
この本は、序論に示されているように、『西欧の興隆————人類共同体の歴史』を書くための準備の一環として、スペイン人のメキシコ征服に関する書物を読み進んでいくうちに抱いた「コルテスが一体なぜこれほどの小人数で勝ちを収めることができたのか」という疑問からであって、直ちに発表を意図したものではなかった。
出版を意図した背景は、著者の「コッホが初めてコレラ菌を同定した1884年からWHOが天然痘根絶に成功した1976年の間の、感染症制圧の努力と成就に見えたものは、実は人類の手による生態学的均衡の根本的な混乱のひとつだった。にもかかわらず感染症が戻ってきつつある様子は、われわれが永久に、そして改変の余地なく生命の網の目にとらわれた存在であることを教えている」という認識にある。
マクニールは、まず人類発祥の地であるアフリカの熱帯雨林に高度に完成した自然を、「寄生体と宿主、競争相手の寄生体同士、宿主とその食物という三つの次元の何れにも、高度に進化完成した自然のバランスが保たれるのを可能とする」環境と捉え、何百万年も前から「人類が、熱帯雨林の生態的環境を変え始める以前は、食う者と食われる者の間のバランスは長い間ほとんど安定していたと推測してまず間違いない」と言う。
この人類が、狩猟時代で生き抜くことを「人類がこの離れ業(:地球規模の展開)をなし遂げたのは、大幅に異なる種々様々な自然環境のもとで、熱帯生まれの生物たる彼らが生存できるようなミクロの環境、各種の衣類と家屋の発明が、極端な気候から人体を隔離し、氷点下での生存さえ保障したのだ。」と考え、これは、自らの生物的な適応ではなく、「様々な環境に対処する文化的適応と発明が生物的適応の必要度を軽減させた」と言う。
人類が狩猟時代から飼育と栽培の歴史時代に移行した詳細はまだわかっていない。それは、飼育と栽培の対象となった動植物からみれば、「特定の有用な性質を中心として偶然的なあるいは人為的な淘汰が施され、その結果、それら動植物の生物学的形質に急速で大幅な変化が生じた」という。
これは、「人びとが特定の動植物だけを繁殖させて、自然の様相を一変させ、他の種をそこから締め出そうとし、その結果、生態的な多様性が失われ、地域的な動植物のポピュレーションが均一化」し、そして、この人類の行為が、「競争相手の捕食者の活動をできるだけ制し、増大した食物をただひとつの種、ホモ・サピエンスだけの消費に供するものにしたために、食物連鎖を短縮させた」と言う。
マクニールのオリジナリティは、このような歴史時代以降における人類の生命を、「病原体によるミクロ寄生と大型肉食動物によるマクロ寄生のはざまで辛うじてつかの間の無事を保っているに過ぎない存在として捉え、この後者の代表格を、古来一貫して、ほかならぬ人間仲間(:人類)」にあるとしたことにある。
つまり、人類の生命を「ミクロ寄生」と「マクロ寄生」という二つの視点とその相互関係から捉え、これを歴史学の検証すべき視座として提起したことにある。
ミクロ寄生とは、疫学的なアプローチであり、マクロ寄生とは、社会的・経済的・政治的なアプローチに他ならない。そして最も重要な視点は、その相互関係にある。
人類は、前述したように、生物学的な適用ではなく、文化的な適用によって、自らの種の生命を紡いできた存在である以上、ミクロ寄生のプロセスに果たす人類の社会的・経済的・政治的な適用、つまり文化的な適用の継続的努力なくして、生命の維持と人類の発展はないと考えなければならない。
私達は、マクニールが言う巻頭と巻末に示された警告を忘れてはならないと思う。
巻頭:「われわれは、依然として地球のエコシステムの一部であり、食物連鎖に参加し、それゆえに、様々な植物と動物を殺し喰らい、一方われわれの身体は、多種多様な寄生生物に対して、食い物に満ち溢れた沃野を提供している。地球のエコシステムにいかなる変化が起ころうと、人類の本質的条件は変わらない。たとえ、われわれの知識と行動が進歩し、病気の発生を防ぎ、食べ物の種類が豊かなになろうとも関係ない。」
巻末:「過去に何があったかだけでなく、未来に何があるのかを考えようとするときには常に感染症の果たす役割を無視することは決してできない。創意と知識と組織はいかに進歩しようとも、寄生する形の生物の侵入に対して、人類は極めて脆弱な存在であるという事実は、覆い隠せるものではない。人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的パラメータであり、決定要因でありつづけるであろう。」
以下ノート。尚【】内の見出しは、ノート作成者のものであり、原作には序論以外各章内の見出しはない。
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「疫病と世界史」(上・下)ノート
2007年12月20日中公新書
著者:ウイリアム・H・マクニール
訳者:佐々木昭夫
原著:「Plagues and people 1976」
序
P11
1976年には医者たちの多くが、感染症なるものは、人間の生命に深刻な影響を及ぼす力をもう持っていないと信じていた。科学的な医学は、病原菌に対して遂に決定的な勝利を収めたと思ったのだ。新しく発見される抗生物質、比較的簡単な予防法、公衆衛生上の様々な措置が感染症の予防と治療を容易にした。WHO(世界保健機関)は、本書が出版されたと同じ年に天然痘を事実上この地上から根絶することに成功し、楽天的な人たちは、ひとつひとつのそしてすべての感染症を孤立させ治療するのに十分な医学上の努力が世界的な規模で実行に移されさえすれば、例えばはしかのような他の感染症も同じ道を辿るだろうと信じて疑わなかった。
P12
実は1976年の天然痘根絶は、WHOが第二次世界大戦以来感染症による人類の死を減少させるのに著しい成功をおさめてきた、その頂点をなすものだったということは今では明らかである。その時以降感染症を引き起こす微生物が反撃を開始した。エイズの出現は、このプロセスの最初の注目すべき事件である。エイズを発症させるHIV−1ウイルスは、やがて同定されたが、にもかかわらず期待に反して、それはまだ治療に結びついていないのだ。
マラリア、結核その他の誰でも知っている感染症の耐性を備えた系統が勢いを増してきているという事実は、われわれ人類の身体を食い荒らす寄生生物に対する二十世紀の数々の勝利なるものが、実は、宿主である人類と病原菌の間に大昔から成り立っているバランスが異常に劇的で激しい混乱状態に陥ったことの、第二の、そして多くの点でははるかに重要な現れに他ならない。
P13
二十世紀が終わりに近づくにつれて、様々な感染症が戻り来つつあり、時には人類の生命に対する昔ながらの深刻な意味を取り戻しつつあるのは、間違いないことらしい。医学者は、自分たちの強力な介入の手を強めるほど、病原菌の生物的進化の速度をますます早めると言う、思っても見なかった結果を生じ、次々に現れる薬品の攻撃に耐えうる頑健さを病原菌に与えているという事実を認め始めている。
【エイズについて】P13
起源について。1980年代にエイズが発見され、医者たちはまだHIV−1の感染は迅速かつ容易に治療できるようになると期待していたころ、関連するウイルスがアフリカのサルの一種に存在することが分かった。このことは、このウイルスがヒトに感染する形をとったのが、おそらくごく最近のことで、寄生の対象をサルからヒトへ変えたときのことと思われた。だが、HIV-1がずっと以前からヒトの感染症だったことを示す、はるかに有力な証拠がある。
このウイルスのすこしずつ異なるいくつもの系統が地球上の様々な区域でヒトの集団に存在し、それが今や進化をはじめ、遺伝子組み替えを経て、地球的な新種へと変容しつつあるらしいという事実である。各地の系統が入り混じり、強靱で生命力のある集団が数を増やし、力の劣る連中は犠牲になって消えていく。1980年代に確認された疾病としてのエイズそのものも古いウイルスのいくつもの系統の遺伝子組み替えによってHIV-1と呼ばれるウイルスが新たに生み出され、これ故これは、祖先型のウイルスのもつ様々な特性を備えている可能性がある。
遠い過去に各種HIVウイルスが辿った道筋はどうあろうと、1970年代にエイズが突然爆発的に出現した原因には、ヒトの行動様式に変化が生じ、宿主から宿主へのウイルスの移動が容易になった事実があるのは確かなようだ。そうした変化のひとつにアメリカ合衆国やその他の地域で、男性同性愛者の性的乱交が増加したということがあった。第二の変化は、ヘロインの静脈注射その他気分を盛り上げる麻薬使用の増加で1970年代に安価なプラスチック製の注射器が普及して広まった。
こうした風習が一般化するにつれて、HIVウイルスは宿主から宿主へと移っていくのが、はるかに容易になるからである。
エイズの感染のしかたは知れ渡ると、性的乱交熱が、冷却し、麻薬の静脈注射も、以前ほどの魅力がなくなってしまったのは事実のようだ。将来この病気の発生は、こうした人間の行動の変化を反映するのは間違いない。少数の向こう見ずな個人だけが、危険率が高いだろう。おそらく、それは社会階層の両極端に分化して集中する。
P19
今日の飛行機による旅行は、この疾病均質化の過程がますます加速され続いていくことを保障する。それはHIV−1だけでなく、他の全ての、ヒト、動物、植物の感染症について言える。その意味するところは、あるひとつの新しい、そして特に適用のうまくいった感染症が出現すると、それは、瞬く間に、地球全体に広がるということだ。インフルエンザ・ウイルスは、そうした性質をもち、ほとんどの毎年新しい変種を進化させているから、まさに典型的であるといえるが、ほかにも、普通は、まだ同定されていないウイルスが沢山あって、われわれ人類を絶え間なく苦しめている。
ヒトの(そしてヒト以外の)疾病が異常なスピードで進化しつつあるのは、明らかでで、その理湯は単にわれわれ人類の行動の変化が、異なる系統の微生物間の交雑をかってないほど容易になっているということであり、一方奔流のように次から次へと生み出させる新しい医薬品そして殺虫剤の、激しく様々に変化する攻撃を受け、感染微生物の側も、存亡の危機にあって抵抗を続けているということである。
P21
一言でいえば、今日人類が自然の生態系に介入していることが主な原因で、生物進化が最高速度で進行している。われわれ人類が感染症にさらされている状態は、速やかに改善されつつあるが、それも大きく見れば、生態学的な関係の調整、再調整の一部に過ぎず、将来いかなる方向に向かうかは依然として未知のままである。こうも言えよう、生物学的な進化はあらゆる前例を越えて、大自然の運行への人類の介入によって追い付かれ、加速されている。その介入を導くものは、現代化学であり、それを促してやまないものは、激増しる世界人口であると。
ローベルトk・コッホが初めてコレラ菌を同定した1884年からWHOが天然痘根絶に成功した1976年の間、感染症制圧の努力と成就と見えたものは、実は、人類の手による生態学的均衡の根本的な混乱のひとつだった。にもかかわらず感染症が戻ってきつつある様子は、われわれが永久に、そして改変の余地なく生命の網の目にとらわれた存在であることを教えている。たとえ、好ましくない事態を改善するのにわれわれがいかに巧みであり、他の生物を取り除くのにいかに成功しようともそうなのだ。
P22
われわれは、依然として地球のエコシステムの一部であり、食物連鎖に参加し、それゆえに、様々な植物と動物を殺し喰らい、一方われわれの身体は、多種多様な寄生生物に対して、食い物に満ち溢れた沃野を提供している。地球のエコシステムにいかなる変化が起ころうと、人類の本質的条件は変わらない。たとえ、われわれの知識と行動が進歩し、病気の発生を防ぎ、食べ物の種類が豊かなになろうとも関係ない。
本書は、また、宿主である人間と病原菌の間の移り変わる均衡に生じた顕著な出来事の数々を探っている。これは一つの劇的な物語であり、ようやくその政治史と文化史にとっての重要性が広く認識されてきた。それゆえに私は二十年以上昔に書いたこの本を読者諸氏におすすめし、感染症がどんなにわれわれ祖先たちの生命を脅かしてきたか、諸氏自身の眼でしっかりと見据えて頂くようお願いする次第である。
1997年3月15日
序論
P23
[本書の執筆動機]
おおよそ二十年前、私が『西欧の興隆————人類共同体の歴史』を書くために準備の勉強を重ね、その一環として、スペイン人のメキシコ征服に関する書物をあれこれ、読んでいたときのことである。ご承知のように、エルナンド・コルテスは六百人にも足らぬ部下を率いて遠征に出立し、数百万の民を擁するアステカ帝国を征服した。一体なぜこれほどの小人数で勝ちを収めることができたかという疑問が私を捉えた。
P25
アステカ人がコルテスと彼の部下を首都から追い払ってから4ヶ月後、天然痘が首都に突発した。コルテス攻撃を指揮した首領自身、この病気で最初に斃れた一人だった。このような疫病が完全に未経験な住民を襲うときは恐ろしいことになる。どう対応したらいいのか、何をなすべきか、誰も知らない。彼らは、遺伝による或いは、後天的な抵抗力を全く欠くから、この最初の大虐殺だけで、おそらく、全住民の三分の一か、四分の一が死んだ。
P26
流行病が、インディオの側にだけ一方的に打撃を与えたことは、スペインのアメリカ征服が、軍事的のみならず文化的にもあのように容易に達成された事実を理解する鍵を与えてくれたわけである。なぜインディオの方では、侵入者スペイン人を掃滅してくれるような自分たちの疫病をもっていなかったのであろうと。こうした問いに対する解答をあれこれ仮定的に考えていくと、やがて、歴史家がこれまで見落としていた人類の歴史のある一面が次第に明らかになってきた。
それはつまり、人類と感染症の遭遇の歴史であり、また感染症の支配地域を越えて接触が生じた場合が生じた場合に、常に新しい流行がそれまでその猛威に対する免疫を獲得していなかった住民の間に広がり、それが重大な様々な結果を生んできたという事実である。
P27
だが実をいうと、一地域の住民が、それまで経験したことがない感染症にはじめて襲われた時にいかなる事態が生ずるかということの二度にわたる絶好の実例が過去にあり、その記憶はヨーロッパ人の脳裡からまだ決して消えていないのである。すなわち、この現象の最大の例としてあの十四世紀の黒死病(ペスト)があり、下って十九世紀のコレラ大流行が第二の例である。
P28
だがごく普通の病気がそれに対するすでに過去に経験したことのある住民の間に流行する場合と、その同じ病気が、それに対する免疫を完全に欠く一地域に襲いかかった時の惨状とは、全く別物なのだという事実に対する無理解こそ、これまでの歴史家がこの問題全体に充分な注意を払わなかった根本の理由なのである。
P29
本書の目指すところは、様々に変化する病気の伝播のありようがいかに古代から現代まで一貫して人間世界の出来事に大きく影響し続けてきたかを示すことによって、感染症の歴史を歴史学的説明の場に引き入れることにある。私の立てた示唆や推測の多くは仮設にすぎない。私の所説を確証あるいは、訂正すべく、難解で多種多様な言語の専門家によって是非とも古いテキストの注意深い検討がなされる必要がある。
P30
私が言わんとすることの細部の是非はともかく、人類が自然界全体のバランスの中で、常に変化してやまない特殊な位置を占める事実に対する一層深い理解こそ、われわれが歴史を考えていく上で、不可欠の重要事項である、ということは異論がないはずであり、その自然界のバランスにおいて、感染症の果たす役割は、過去のみならず、現在にあっても、基本的な重要性をもつことを疑う者はいないであろう。
P30
[若干の基本概念]
疾病や寄生という現象は、生物界全般にわたって、重要な役割を演じている。ある生物体にとっての食物獲得の成功が、そのまま、その宿主(しゅくしゅ)にとっては、忌まわしい感染或いは発病を意味するのである。そして、あらゆる動物は食物を他の生物に依存している。人類もその例外ではない。
P31
食物の獲得という問題と、これまで人類の共同体が採ってきた種々様々なその方法とは、経済史でおなじみの題目である。ところが、どうすれば、他の生物体の食物にされないですむかという問題は、それほどなじみ深いといえない。要するに人類はごく初期の段階で、ライオンやオオカミなどの大型肉食動物を恐れなければならない理由があまりなくなってしまったからである。
にもかかわらずわれわれは、大部分の個々の人間の生命を、病原体によるミクロ寄生と大型肉食動物によるマクロ寄生のはざまで、辛うじてつかの間の無事を保っているに過ぎない存在として捉えることができる。そしてこの後者の代表格は、古来一貫して、はかならぬ人間仲間に決まっていた。
ある種のミクロ寄生生物は重い病気を引き起こし、短時間のうちに宿主を死に至らしめるが、また宿主の体内に免疫反応を生じさせ、逆に、彼らの方が殺され駆逐されてしまう場合もある。また時には、こうした病原体である微生物が、何らかの理由で特定の宿主の体内に保存されたままいるような場合があり、この宿主は保菌者として自分ではそれとわかるほどの発病はしないのに、他人に病気を感染させる可能性をもつということになる。だが、宿主たる人間との間にもっと安定した関係を確立しているミクロ寄生生物も存在する。
P32
太古にしてすでに、狩猟者たる人類の技術と威力は競争相手の肉食動物を遙かに凌駕していた。人類は以後、他の肉食獣に捕食される危険をあまり感ぜずに食物連鎖の頂点に立ったのである。ところが一方では、それから長い期間、食人ということが、隣接する共同体間の相互関係の主要な側面をなしていた事実がほぼ確実視されている。これはつまり、勝った側の狩猟人がライオンやオオカミの群れと正に同一の存在となったことを意味する。
さらに後になって、食物生産がある共同体にとって、ひとつの生活形態となった時、緩和された形のマクロ寄生というべきものが可能となった。つまり、征服者が食物を生産者から奪い去りそれを消費することで、労働に従事する者への新しい形の寄生体となったのである。特に肥沃な地方では、この種の人間同士の寄生関係をかなり安定した形で確立できることが分かった。
事実、人類最初の諸文明は、服属させた共同体から収穫物の一部を奪取し、その共同体が一年また一年と不定期間生存を続けるに足るだけのものを残しておくというやり方が可能となった時に、成立したのである。
P33
文明史の基礎をなしてきた食物と寄生体のこの相互関係は、個人個人の体内での同じような関係と対応する。感染に対する防禦で最も重要な役割を果たす白血球は、侵入者を食べて消化してしまう。白血球が消化できない生物体は寄生体をなって居座り、今度は彼らが、人体内で、自分の栄養となる物でさえあれば、片端から捕まえて消化にとりかかる。
P34
もちろんどんな場合でも限界点があって、それを越えるとそれまで存在していた組織体系は崩壊する。そういう破局的事態は2つの方向をとる。全体がもっとも単純で小さな部分に分解してしまい、その各部分がそれぞれの均衡構造をもち落ち着くか、或いは逆に、小部分がもっと大きな複雑な全体に吸収されてしまうからである。わかりやすい例を挙げれば、肉食の場合に食い手は食物の細胞と蛋白質をより単純な物質に分解するが、やがてそれを使って、新しい食い手自身の蛋白質と細胞をつくりあげるのである。
P37
宿主としての人類と感染性の生物体との間の交渉が長く続き、その間何世代も経過し、また双方ともその個体が充分に多い場合には、遂に双方の存在を同時に可能とする相互適応の構造が生じる。速やかに宿主を殺してしまう病原体は自分自身の世代の連鎖をすすめていくことがききなくなるからである。またその反対に感染性の病原生物が寄生体となって棲み着くことが出来ないほど感染に対する完璧な抵抗力を備えた人体は、これまた病原生物の生存にとって重大な危機であることは明らかだ。
P39
この熱帯マラリア原虫のパターンはまず、周期的な大量の赤血球を解体破壊する。その際、宿主の人体は、高熱を発し、血液中を浮遊し、一日か二日で再び新しい赤血球に寄生体として定着する。この過程が、宿主の人体に発熱と衰弱をもたらし、マラリア原虫には、蚊を介して、他の宿主に乗り換えることによっておのれを永続させる機会を与えることになる。蚊がヒトの血液を摂取する時に自由に運動している形のマラリア原虫を一緒に吸い込むからである。
P40
腺ペストの寄生体は、パストゥーレラ・ペスティスと呼ばれるが、これは、齧歯類とそれにたかるノミを侵し、人体に進入するのはむしろまれである。大きな都市に住む齧歯類のある種では、パストゥーレラ・ペスティスとの遭遇は、地上の都市住民たるヒトにとっての天然痘やはしかのような幼児期の病気にすぎない。しかし、この病気がそれまでそれを体験していない齧歯類とヒトの集団に侵入した時、はじめて、異常な事態が出来する。その状況は、われわれの祖先をして、腺ペストの襲来こそ世にたぐいない恐るべきものと畏懼(いく)せしめるに足りた。
P42
人間の病気には、こうした媒介者なしで、宿主から宿主に直接に、またそれだけ遅滞もなく移っていくものがある。結核、はしか、天然痘、水疱瘡(みずぼうそう)、百日咳、おたふく風邪、インフルエンザなどがこの部類に入る。これらは文明化した諸民族にとって、周知の伝染病の一覧表を成しているといえよう。結核とインフルエンザを除き、一度感染すれば、長期の、多くは一生涯の免疫が得られる。従来は、こうした病気にかかるのは、主として小児に限られ、その結果、ワクチンなどの人工的手段がまだ普及していないため,疾病伝播のパターンが変えられていない地域では、現在でも、子供らがこれらの病気に苦しんでいる。
ところが、同じ感染症が、これまでまともに蒙ったことのない住民に広がると、患者のかなりの割合が死亡し、しかもどういう訳か、血気盛んな青年男女が他の年齢層よりも死ぬ割合が高い。つまり未経験の住民の中に進入した場合、これらの伝染病は共同体そのものを破壊し、あるいは欠陥化する可能性があるということである。天然痘とそれに続く幾つかの病気がアステカとインカの文明を破壊したのが、まさにその好例である。
第1章 狩猟者としての人類
P48
人体が毛に覆われていないという特徴は、まず滅多に氷点下になることのない温暖な気候での育ちをはっきり物語っている。両眼の視野の重複から来る正確な距離感、物を掴むことのできる手の働き、それに第一に、われわれがほとんど木に登ってばかりいる高等下等各種のサルと外見上明らかな近縁関係にある点など、これらは、人類の祖先が樹上生活を営んでいたことを示している。歯の形状は、雑食性を示し、くだものの種や果肉、昆虫の幼虫、植物の若芽などの方が、大切な食物だった。
野生の霊長類の寄生生物には、様々なダニ、ノミ、マダニ、蠅、蠕虫(ぜんちゅう)の類に加え、多種類の原生類、菌類、バクテリア、さらに百五十種以上のアルボ・ウイルスの宿主になっている。野生のサルを侵す生物には他に、十五から二十種のマラリアがある。普通ヒトがかかるマラリアは4種類に過ぎない。もっとも類人猿は、ヒト系統のマラリア原虫に感染することがあり、ヒトの方でも、サルにみられるある種のマラリアにかかることがある。
P49
霊長類、蚊、原虫の三者には、恐らく非常に長い間の進化的適応が行われてきたことがわかる。さらにマラリアに関する生物の現在の分布状況、今日知られている古代のマラリア地理などを考慮すると、サハラ以南のアフリカが、この形の寄生現象が発展してきた主要な、殆ど唯一の中心地だったと見られる。
この高温多湿な環境のなかでは、しばしば、単細胞の寄生生物も宿主の体以外の外で長期間生命を保つことが可能となる。つまり、寄生体となる潜在的可能性をもった生物が独立した生物体の形で、かなり長い間生存することができる。これは、別の面からすれば、宿主となるべき生物体は、例え、ポピュレーション(ひとつの種の生物の群れと群れに属する個体の総数)がひどく希薄であっても広範な感染と汚染を経験しえるということである。
P50
では、われわれの祖先である猿人や原人が絶えず病気であったといえば、それほどでもなかった。というのは、数限りない種類の熱帯性の寄生症は、恢復も遅いが、危険な程の重症に達するのもかなり遅いという特徴を備えているからである。
同じ事実を違った角度から眺めれば、熱帯雨林は、寄生体と宿主、競争相手の寄生体同士、宿主とその食物という三つの次元の何れにも、高度に進化完成した自然のバランスが保たれるのを可能とすると言える。何百万年も前、つまり人類が、熱帯雨林の生態的環境を変え始める以前は、食う者と食われる者の間のバランスは長い間ほとんど安定していたと推測してまず間違いない。
P51
人類の祖先の生物的な進化が彼らの体内に寄生する生物、彼らの食らう肉食獣、彼らに食われる植動物の三者と進化の歩調が揃っている限り、この一種すき間なく編まれた生物界の網の目に重大な変化が生じることはなかった。
ところが、人類がそれとは全く違う種類の進化、つまり学習される行動を積み重ねて、それを次第に文化的伝統と象徴的意味体系に完成させていくという進化を示し始めた時、連綿と続いてきた生物界のバランスはそれまで見られなかった混乱に直面することとなった。
P52
アフリカ大陸のサバンの周辺部を彷徨っていた猿人の集団の間に狩猟能力を高める継承可能な変化が生じれば、必ずそれ相応に報われたわけである。狩猟に際してより効果的な共同作業を可能とする肉体的心理的な技術を身に着けたグループには膨大な利益が約束された。
初期の人類は、緊急の場合にお互い同士でできるだけ効果的に助け合うための意志伝達の手段を次第に向上させることによって、また自らの貧弱な筋肉とたかの知れた歯と爪の力を幾倍にもする道具と武器を完成することによって、こうした利益を手中にしたのであった。
P53
このような状況にあっては、新しく生じた形質は,好結果を生むとなると、それは急速に積み重ねられていった。この種の急激な変化は生物学者が「定向進化」と呼ぶもので、多くの場合新しい生態的ニッチェ(生態的地位、生物のひとつの種が生態系全体の中に占める場)への移行と関連するとされる。
こうした進化的発展が続くうちに、言語の発達という画期的な出来事が起こった。発音のはっきりした言葉への道が開かれるためには、脳、舌、喉の形成を支配する遺伝上の変化が必要であり、ひとたび言語は成立すると、今後は、社会的諸機能の統一ということの飛躍的な発展が可能となった。
P54
この言語が、はじめて狩猟者たちをはじめて完全な人類に変えたのであり、社会的文化的な進化という新しい次元は、間もなく、この擡頭しつつある人類をめぐる自然の生態的バランスに深刻なこれまでになかった新しい情況を付け加えたのである。
P55
深刻だったのは、今日でもアフリカの各地に発生する睡眠病の病原体であるトリパノソーマの脅威に曝されることになったことである。この生物体は各種のカモシカ類の体内にごく普通の寄生生物として棲み着き、ツェツェ蠅を介して宿主間を移動し、そして、蠅にも宿主の野生動物にもこれといった病気の兆候は生じない。ところが、人体に進入すると、ひどい全身麻痺を起こさせる。このトリパノソーマのある種は、二週間かそこらで、宿主の人間を死に至らしめる程である。
P57
人類のそもそもの発祥地たるアフリカでは、狩猟者としての人類は、周囲の自然環境との間にある程度安定した関係を確立した。人類による大型草食食獣の狩猟は、アフリカ大陸で約50万年前に開始された、木や石の武器で武装した狩猟隊の実力が完全に発揮されたのは、約10万年前になってからである。
P58
人類の出現が、他の生物に与える衝撃を緩和する上で最も有力だったのは、恐らく、アフリカ大陸では、汚染と感染が特に豊富かつ精密なメカニズムを備えているという事実だったと思われる。寄生現象が人類と共に進化し、人類の数が増えるにつれて力を強める傾向を持っていたのだ。アフリカで猖獗をきわめている蠕虫や原生類の寄生生物の多くは、免疫反応を生じさせない。この事実は、きわめて精妙で自律的な生態的バランスが保たれることを可能とする。つまり、ヒトの数が増えると感染の度合いも高くなる。人口密度が高くなるに従って寄生体が宿主から宿主に移動する機会が増大する。
P64
ほぼ紀元前4万年から同1万年の間に、狩猟人の群れが南極大陸を除く地球上の陸地の大部分を占拠してしまった。四万年前から三万年前の間に彼らは小集団に湧かれて、オーストラリアに入った。さらにその5千年から一万五千年後、別の連中が今度はベーリング海峡をなんとか渡りきり、アジアからアメリカ大陸に入った。何千年も経ないうちに、人類のポピュレーションは、南北両アメリカのあらゆる気候帯に広がり、紀元前八千年には、ティエラ・デル・フエーゴ(南米大陸の最南端のマゼラン海峡を隔てた大きな島)に達した。
このように一種類の大型動物が地球全体に展開するということはそれまでなかった。人類がこの離れ業をなし遂げたのは、大幅に異なる種々様々な自然環境のもとで、熱帯生まれの生物たる彼らが生存できるようなミクロの環境をつくりだすことを覚えたからである。各種の衣類と家屋の発明がその秘訣でこれが、極端な気候から人体を隔離し、氷点下での生存さえ保障したのだ。言葉を換えていえば、様々な環境に対処する文化的適応と発明が生物的適応の必要度を軽減してしまったわけである。
P65
紀元前4万年から同1万年の間の、人類の異常なほどの発展には、自然環境へのこの文化的適応ということがまず決定的だったことは否定し得ないが、実はもうひとつ無視できない要因がある。われわれの先祖が熱帯の自然環境をあとにしたあとにした時、彼らはそれまでの人類、また今日でも熱帯に住む人類が曝されている寄生生物や病原体から逃れることできたのである。そこで健康と活力が改善され、人口の増加はこれまでに例を見ない規模で繰り広げられることになった。
P68
様々に異なる気候帯への人類の拡散は、共同体間に高低様々な被寄生度の格差ともいうべきものをもたらした。気候がより寒冷・低湿になるにつれて、生息する生物体の種類は減少するという事実は要するに、ヒトを苦しめる可能性をもった寄生生物の数と種類が少なくなるということでもある。それに気温や湿度が低くなり、炎暑と日照の季節が短くなるにつれて、宿主から宿主への移行の成功を保障する条件が乏しくなる。そこで、感染と汚染に地域的格差が生じ、高温多湿の風土から寒冷または低湿、あるいはその両方を兼ね備えた地方に移動する人類にとって。未知の寄生生物に遭遇するおそれはあまりないということになる。一方、南の高温多湿の地方に潜んでいる様々な感染症や寄生病は、低温の北国や低湿な砂漠からやってくる侵入者にとって変わらぬ脅威であり続けるというわけである。
P69
別の見方をすると、この被寄生度の格差は次のように言い表すことができる。それは、人類が、寒冷・低温といった風土の奥深く入り込んでゆくにつれて、彼らの生存にもっぱら大型動植物との生態的関係に依存する度合いを次第に強めたということである。熱帯地方であれほど決定的だった微少な寄生生物との生態的バランスということは、さほど重要でなくなってしまったのだ。
そしてこの違いにはひとつの重大な意味が潜んでいる。ほとんどすべてのミクロ寄生生物は、小さすぎて肉眼では見えない。ということは、顕微鏡その他、ヒトの観察力の巧妙な補助手段が開発されるまで、誰一人そうした生物体との遭遇なるものを理解した者はいず、それをコントロールすることもろくにできはしなかった。ヒトは、実際に目で見、手で試すことができる物を扱う場合には、それほどの働きを示す知力を備えているというのに、ミクロ寄生生物と人類の関係は、十九世紀に到るまで、大体において生物学的だった。つまり意識的な制御の能力の及ばぬものだったのである。
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温帯における古代の狩猟民たちは、比較的短命だったと推測されているにもかかわらず、大体のところ、すこぶる健康に恵まれた連中に違いない。彼らが健康だったことは、オーストラリアとアメリカに現存する狩猟民族の生活からも推測できる。といってもこれはある意味当然のことなのだ。なぜなら、生物学的な進化の遅々たる歩みからすれば低温・寒冷の条件に適応した微生物とそれらが宿主間を移行する方式をつくりだし、それによって、世界の温帯・寒帯の風土に入り込んでいく狩猟民のしかも少人数でほとんど孤立した共同体の内部に、熱帯と同じレベルの感染と汚染を維持されるようになるためにはとても時間が足りなかったからである。
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そうした調整作用は人類の生活に影響するようになるより前、宿命的な一連の新発明がまたもや、人類と環境の関係に革命的な変化をもたらした。食糧生産は、人口数の爆発的増加を許し、都市と文明の誕生を促す。そして人類のポピュレーションは、ひとたびそうした大共同体に集中したが最後、潜在的な病原体に対して有り余る豊かな食料資源を提供することとなった。そのさまは、われわれの遠い祖先が、アフリカの草原で大型総則獣の群れにはじめて相対した時の驚異的な状況を彷彿させるものがある。今度は、微生物どもが人類の村落・都市・文明の発達がもたらした新しい状況下で、思う存分の狩猟を期待することができるというわけである。大共同体への人類の集合が生んだこの好機を彼らがいかに利用したかが次章の主題である。
第2章 歴史時代へ
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大型狩猟獣の夥しい種の絶滅は、5万年前にアフリカで始まり、二万年前には次第にアジアとヨーロッパに広がり、約1万1千年前、南北アメリカに特に際立った形で現れた現象だが、これは、それまでもっぱら大型獣を仕留めることをめざして技術を向上させてきた狩猟獣狩猟民にとって、非常な打撃だったであろう。
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飼育と栽培の始まりについて詳しいことはまだわかっていない。人類と飼育栽培の可能性をもつ様々な種との間に相互適応が行われた過程があったと考えざるを得ない。それは、飼育と栽培の対象となった動植物の方では、特定の有用な性質を中心として偶然的なあるいは人為的な淘汰が施され、その結果、それら動植物の生物学的形質に急速で大幅な変化が生じたということである。
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変化にはいくつかの共通の現象が眼につく。まず第一に、人びとが特定の動植物だけを繁殖させて、自然の様相を一変させ、他の種をそこから締め出そうとしたということである。その結果、生態的な多様性が失われ、地域的な動植物のポピュレーションが均一化するという現象がどこでも見られた。同時に人類の行為は、競争相手の捕食者の活動をできるだけ制し、増大した食物をただひとつの種、ホモ・サピエンスだけの消費に供するものだったから、食物連鎖が短縮されることとなった。
自然界における食物連鎖を短縮するという目標は、人類に終わることのない苦役を課するものであった。ところで、家畜の群れや畑の収穫物を動物の捕食者から保護することは、いかに絶え間ない警戒を要するとはいえ、老練な狩猟者である人類にとって、それほど深刻な問題ではなかった。だが他の人間どものからの保護ということは別問題だった。人間の略奪者の襲撃からの安全をなんとか達成したいという執念が、政治組織なるものを生み出す根本の動機であり、その過程は、現在でも決して完結していない。
人類の生活にとって第一に大きな意味をもったのは、雑草を退治するという仕事だった。人口全体の大きな役割を占める人びとの、果てしない努力を必要としたからである。人びとが自然の状態で極相(一地域の植物の群落が周辺の環境と影響しあいながら、種の構成の変化を繰り返したあと、最終的に落ち着いた状態)にある植物の群落を一掃し、自分のひいきとする作物に都合のよい生態的ニッチェを拡大するという形で自然環境を徹底的に造り変える方法を発明した時、人類の力は格段の伸展を見せた。二つの方法が特に有力であった。本来は湿地というわけではない普通の土地に水を人工的に湛水(たんすいさせるのと、掘り起こしたり犂(すき)で耕したりして土壌の表面を物理的に変化させるという二つである。
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農耕によって自然の生態的バランスを崩すことにはもう一つ別の側面があった。食物連鎖の短縮と飼育栽培する限られた種の動植物の増殖は、同時に寄生生物にとっての潜在的食物の密集を意味していた。そして最も強力な寄生生物の殆どが小さすぎて眼に見えないから、さすがの人類の知力も、何十世紀にもわたり彼らの跳梁に対して余りに有効な手を打てなかった。
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一箇所に定着する共同体の住民は、同じ風土において狩猟民だった彼らの先祖やいまでも狩猟を続ける同時代人に比べ、寄生虫その他の寄生生物にはるかに濃厚に汚染されていたと考えるべきである。不潔な生活用水を介していとも簡単に宿主から宿主へと移動する寄生生物もあったに違いない。これもヒトの共同体が永久的にひとつの場所にとどまり、あらゆる日常生活に用いる水を毎年同じ水源から得ている場合、その害を受ける可能性が格段に高かったであろう。
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初期の農耕が水利灌漑に依存する度合いの強かった地域、メソポタミア、エジプト、インダス河流域、さらにはペルシャ湾岸地方などでは、単純な構造の、そして多かれ少なかれ孤立した村落とは異なり、複雑な社会的統制なるものを必要とした。運河や水路の計画と建設、それを維持していくための共同作業、そして何よりも、我勝ちに水を奪い合う人びとに灌漑で引いた用水を割り当てる仕事、すべてが何らかの意味で権威ある統率力の存在を必要とし、それを招来した。都市と文明はこうして誕生した。その特徴は、村落の生活では想像もできない程大規模な労働力の組織化と諸技術の専門化だった。
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古代における寄生の形は、今日のそれと僅かに違っていたかもしれない。だが、生物的進化は、人間的歴史的な規準からすれば、恐ろしく緩慢な歩みしか示さないから、ほんの5千年程前に灌漑農作の開始によってつくられた環境条件を利用した寄生生物の生活形態は、灌漑農耕民と、稲作農民の健康被害に与えている現在のそれと殆ど同じだったと考えられる。ここでの寄生生物で重要なのは、吸虫類で、住血吸虫類を引き起こす。
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これは厄介な、宿主を次第に衰弱させる病気で、こんにち、世界でおよそ1億人が、罹患していると推定される。吸虫の生活環は貝類とヒトを交互に宿主とするもので、幼虫は、微細な自由に遊泳する形態で、一方から他方へと水中を移動する。吸虫に侵された巻き貝————代表的な貝類の宿主はしんでしまうことが多い。だがこれが蔓延しているポピュレーションでは」、大体年少期に重症を呈し、以後はそれほど激越な症状を示すことはあまりないが、頑固にいつまでも体内に残る。
古代エジプトの灌漑農民は、紀元前1200年にはもう侵されていたが、実際にはもっと古くからだったに違いない。古代シュメールとバビロニアにも蔓延したかどうかは確証がない。だがこれらの二つの大河流域地方の間に密接な交流があったからその可能性は充分に考えられる。遠く離れた中国でも最近発見された紀元前2世紀とされるきわめて保存状態のよいミイラの体内に、吸虫がその他何種かの寄生虫とともに見いだされた。
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住血吸虫症で確実なことは、どこであろうとこれが蔓延したが最後、その地の農民層は無気力で、衰弱しきった存在に化してしまいがちだったという事実である。以降彼らにとっては、田畑での農作業や灌漑用の水路工事といった日常の労働に大きなこんな困難が伴うばかりでなく、それに劣らず体力を要する重労働、外敵の侵入を迎え撃つとか異民族の支配と経済的収奪を払い除けるといった大仕事を果たすなど、彼らにはもはや思いもよらないこととなる。
換言すれば、吸虫類とそれに類する寄生虫症がもたらす肉体的疲労と慢性的な不快感は、人類が恐れなければならぬ唯一の大型肉食獣、すなわち戦争と征服を目的として組織された、武器を携えた同類たる人類による侵略行為の成功を招来するものだったのである。
歴史家は、国家の建設、租税の徴収、収奪といった事実をこうしたコンテキストで考えることに馴れてはいないが、このような類のミクロ寄生とマクロ寄生間の相互協力ということは、ごく普通の生態的現象なのである。
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農耕灌漑に基礎を置く社会を特徴づける専制政治なるものを確立した原因を従来説明されてきたように水利事業の実施と統制に関する技術上の要請というだけでなく、長時間手足を水に浸けて働く農民を侵し、その心身を衰弱させていた病気という要因を疑う方が理に適っているだろう。エジプトの疾病は古代のヘブライ人には想像もつかず、現代の歴史家が考えてみようともしない形でファラオの権力と結びついていたかもしれないのだ。
寄生生物が目にみえないため認識できなかった間は、人類の知力もただむやみやたらに流行病の外に現れた現象と取り組むだけであった。それでも人びとは時折、感染の危険を減少させるような食物規定や衛生上の掟を作りだすことがあった。
よく知られているのは、ユダヤ教やイスラム教で豚肉の食用を禁じていることである。これは西アジアの村落で豚が、汚物処理の役を務めていて、人糞その他の「不浄な」物質を平気で食っている事実を知れば納得がいく。豚肉を食べる時に完全に熱を通さないと無数の寄生生物を容易に人体に感染させ得る。それは、現在の旋毛虫症の研究からも明らかである。けれども古代に豚の食用が禁じられたということは、なんらかの試行錯誤を経て判断を下したのではなく、豚の行動に対する本能的な嫌悪感からきたものであろう。
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ハンセン病患者の一般社会からの隔離ということにも、背後に似たような感情があった。これも古代のユダヤ教の掟で定められていて、肌と肌との接触によって写る病気の危険を減少させたに違いない。水あるいは砂でもって体を洗うことも、イスラム教とヒンズー教の祭祀でえ重要な項目を占めている。これも時に疾病の蔓延を防ぐ効果があったであろう。
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あらゆる文明化した共同体に疾病への罹患に関して一つの共通した重大な変化とは、農耕民の人口密度が増していき、ある限界を超えると、バクテリアとウイルスの汚染が、ヒト以外の動物の中間宿主に頼らずとも、いつまでも存続する事態が生じたということである。
このバクテリアとウイルスの進入は、人体内に免疫なるものを生じさせるが、これは宿主————寄生体の関係にドラステックな二者択一を課する。つまり、宿主と寄生体の相互作用を免疫反応が支配したとき、結果は、侵されたヒトのすみやかな死か、しからずんば完治および進入した寄生体の人体組織からの追放という、極端に分かれる二筋道のいずれか以外にはない。
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宿主の死、しからずんば完治という二筋道に追い詰められる疾病は、つまるところ潜在的宿主の人数に頼るほかない。共同体が数千人という規模を備え、人と人との出会いが頻繁なため、絶えず一人から別の一人へと感染は広がっていく場合のみ、こうした病気は、存続できる。規模が大きく、複雑な組織を有し、人口密度が高く、そして例外なく都市を中心とし、また都市に率いられた共同体である。だから中間宿主なしに直接ヒトからヒトへ移動する、感染性のバクテリアないしウイルス疾患はとりわけ文明特有の病気なのである。それらは、はしか、おたふく風邪、百日咳、天然痘その他、現代人がみなよく知っている普通の小児病である。
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感染症疾患というミクロ寄生と軍事行動というマクロ寄生の間に生存する相似性を指摘しておくことも無駄ではあるまい。文明化した共同体がある水準以上の富と技術を蓄積したときに、初めて戦争と収奪が経済的に引き合う事業となる。だが収穫物を力ずくで奪い去ることは、それが、農耕労働者をすみやかに餓死させるとしたら、これは不安定な形のマクロ寄生である。
文明の歴史のほんの黎明期にあって、成功した略奪とは、征服者となった連中のことだ。つまり、収穫物の全部ではなく、一部だけを奪うという形で、農耕民を収奪する手法を編み出した者たちである。試行錯誤を重ねるうち、一種のバランスが生じて、農耕民は、自分達の生存に必要とする以上の穀物その他の作物を生産することで、こうした形の略奪に耐えるようになる。この剰余生産物は、ヒトによるマクロ寄生に抵抗するための抗体と見なすことができる。成功した政治権力とは、租税、年貢を納める者に外敵の侵入と破壊的な略奪に対する免疫性を与えることのできる存在である。
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それは、軽度の感染がその宿主に免疫による抵抗力をつけさせ、死をもたらす悪性の病気の侵入から守ってくれるのと等しい。病気に対する抵抗力は、抗体の形成を促進することと、それ以外の生理的な防衛手段の活動力を高めることによって得られる。政治権力は、食糧及び原料の剰余生産を督促して、その抱えている暴力の専門家が適切な規模の人数としかるべき武器を備えることができるほどに生産力をたかめようとする。どちらの場合の防衛手段も宿主のポピュレーションに相当の負担を課することになるが、それは、突然の死をもたらす災厄に間歇的に見舞われるという事態に比べれば、なんとか我慢できる負担なのだ。
成功した政治権力を確立するということは、一個の途方もなく強力な社会を、他の共同体の眼前に出現させることであった。その社会が抱える暴力の専門家連中が大部分の時を食糧の生産や食物の探索に過ごす人びとを圧倒しそこなうことはまずあり得ない。ちょうとよい程度に病気にかかった社会、つまりウイルスとバクテリアによる感染症が風土病として恒常的に根を下ろし、絶えず感受性のある個体に侵入して抗体を形成し続けるといった社会は、単純にして健康な社会と対比するとき、疫学的に言って、これまた恐ろしく強力な社会なのである。
それ故、強大な軍事的政治的組織を拡大してゆくことになるマクロ寄生は、バクテリアとウイルスによるミクロ寄生と合した時、ヒトのポピュレーションが生み出す生物学的な防衛機能を、有力な援軍としてもっていると言える。ようするに、戦争と疾病には、単純な比喩以上の深い関係があるのであり、悪疫はしばしば軍隊とともに、あるいは軍隊のあとに付いて行進したのだ。
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幾たびとなく、人類のポピュレーションは何らかの新しい局地的な疾病のために激減することがあったと想像される。そしてまた、感受性のある利用可能なヒトの宿主が死に絶えたために、侵入した病原体がせっかく見いだした初期農耕民の体内組織という好個の餌場から追放されたことも幾度となくあったであろう。だが、たとえそうだとしても家畜という存在は、何度も繰り返しヒトを侵す可能性のあるウイルスとバクテリアの感染症をすでに慢性的に保有していたに違いないから、再感染の基盤はいるもでも残っていたのである。
牛、馬、羊といった動物が感染症の慢性的保有者だったであろうと想像することは、この連中の野生の状態の生息ぶりからも可能である。これらの動物は群居性であり、ヒトの狩猟民が数を増やし、彼らの生活を大きく変えてしまうはるか以前からユーラシア大陸の草原で巨大な群れをなして草をはんでいた。彼らは、単一種の大ポピュレーションを構成していたため、バクテリアとウイルスの感染症が根を下ろすのに必要な条件を満たしていたわけである。
恐らくこうした感染症は、いわば動物の小児病だったわけで、感受性をもつ幼獣を絶え間なくだが、ほとんど害を与えずに侵し続けいたに違いない。ところがひとたびヒトのポピュレーションに移行すると、これらの病原体は極度に有害な存在と化すのが普通であったのであろう。人体は、新しい侵入者に対して、まだなんの獲得免疫をもっていなかったからである。
P111
ひとつのポピュレーションに含まれる感受性を持った個人の数、さらには、彼らが集団で生活していたか、離ればなれであるかといったことも基本的に重要である。例えば、近代以降、感受性のある若者が集まる代表的な二つの場は、学校と兵営である。今日の西欧化された社会で、小学校なるものが小児病を広める上でどんなに大きな役割をはたしていた。また十九世紀、予防接種が制度化する以前、田舎からフランス陸軍に召集された壮丁(労役・軍役にあたる成年の男子)は、すでに感染を経験してほとんど免疫を得ている都会生まれの同輩に比べて、種々の感染症にひどく罹りやすく、時には重症に陥ることもあった。その結果、軍隊では、身体強健な農夫の倅どもの方が、都会の貧民街から徴集された栄養不足の虚弱青年の連中よりもずっと高かったのである。
新しい宿主への感染に成功するために必要な寄生生物の総量、ひとりから他のひとりへと感染症が伝わっていくのに要する時間、その伝播の態様、互いに感染症をうつし合う機会の多い生活習慣、こういったすべての要因は複雑に絡んで、いつどれほどの人数が発病するのかが決まる。あるひとつの病気がいつまでも生き残るためには、一個の巨大なメガロポリスのような形でヒトの宿主が集合していることを要するといった場合も希ではない。
P113
さらに最近の研究によれば、この流行パターンを維持してゆくためには、麻疹は常時すくなくとも七千人の感受性のある個人をその中に含むポピュレーションを要することが証明された。今日の出生率、都会での生活様式、子供を学校に通わせる習慣————学校は、はじめて麻疹のウイルスに接する子供が大勢クラスにいて、瞬く間に感染の広がる場所である————、そうした種々の条件を考慮すると、現代の都市で麻疹が存続できる最低限の住民数は、約50万人ということになる。
【都市とヒト・ヒト感染】上P116
ヒトからヒトにうつる文明特有の感染症は、紀元前3000年より以前にははっきりとした形をとって定着するには到らなかった。ところが、いよいよそれらの病気は風土病的に根を下ろして感染を持続していくようになると、ユーラシア大陸の各地に散在する文明の中心地毎に種類の異なる感染症は確立するという状況が生じた。そのことを証明するのは次のことである。ちょうどキリスト世紀の始まる前後の時代、それまで離れ離れになった文明社会相互の間に、交渉が恒常的に組織されると、ひとつの文明から他の文明へと激しい病状を伴う感染症が広がっていったのである。
第一にこの上なく明白なことは、人的資源の再生産構造が、文明という環境を利用してはびこる病気との絶えざる接触からくる人口の恒常的な減少傾向に対応するものとならねばならなかったということである。都市というものは、ごく最近まで、周辺の田園地帯から相当な数の流民を絶えずうけいれなければ、その成員数を維持してゆくことができなった。
P117
だから文明化された社会生活の基本構造は地方の農耕民を二重の意味で必要としていたことになる。つまり、彼らはただ都市の住民を養うために、彼ら自身が消費する以上の食糧を生産するだけでなく、子供を余分に産んで、その子供たちがやがて都市に流れ込み、都市住民の数を維持する役割を果たさなければならないのだ。田舎の余剰人口はまたマクロ寄生つまり戦争と収奪およびそうした事件に付き物といってよい飢餓から来る消耗を補うものでなければならなかった。
だが、田舎の出生率と、都市に流れ込んだ田舎の過剰人口が生を営むことを許されるニッチェとの間に、安定した均衡が保たれていると言えるような好ましい状態は、そういつもあるわけでなく、しかも短期間続くだけだった。
P118
この人口移動のパターンは都市が誕生したときから存在していた。たとえば、紀元前3000年と紀元前2000年の間に、古代メソポタミアでセム語人口がシュメール語人口にとって代わった驚くべき人類は、恐らくこの種の人口移動の直接の結果である。推測するにセム語を話す民衆が、大量にシュメールの諸都市に流れ込んだので、古い言語を話す住民を圧倒してしまったのだ。それでもシュメール語は、学問及び宗教関係の言葉として細々と残ったが、日常語は完全にセム系アッカド語に代わった。この言語交代の要因としてまず考えられるのは、都市の急激な膨張であり、更に可能性が強いのは、病気、戦争、飢餓などによる都市住民の異常な減少である。
P119 ハプスブルグ帝国
1850年以降、都市の急速な膨張と新種の疾病であるコレラの蔓延という二つの要因が相まって、ハプスブルグ帝国に永年の間確立していた文化的構造が崩壊するに到った。ボヘミヤとハンガリーの町々に移り住んだ農民は改めてドイツ語を習得しようとするのが長い間の習慣であった。彼らの子孫は、二、三世紀後に言語においても意識においてもドイツ人になりきってしまう。十九世紀に入るとこのプロセスが崩れ始める。帝国内の諸都市に移住したスラブ語とハンガリー語を話す住民が、ある線を越えた時、新来者が日常用語としてドイツ語を習得する必要がなくなった。やがて民族主義的な理念が根を下ろし、ドイツ的であることは、非愛国的と見なされるに到る。その結果、わずか半世紀のうちに、プラハは、チェコ語、ブタペストは、ハンガリー語が使用される都市に代わったのである。
P120
文明は、田舎から都市への食糧と移住民という二つのものの流入が無かったならば、存続できなかったであろう。だから、田舎の高い出生率を維持し鼓舞してきた道徳律なるものが、文明社会の社会構造にとって欠くことができなかった土台だったと言っても決して言いすぎではない。すべてとは言わぬまでも大部分の農民社会で、早い結婚と子沢山ということが、立派に道徳を守り神の恩寵に浴しているしるしと見なされていた上、他のいかなる手段にもまして確実に老後を保障してくれるものであった。
P121
このような文化的、社会的、生物学的な諸要素がどのように作用しまた互いに影響し合っていたかの正確な実態は全く分からない。ただ確かなことは、成功した文明はすべて、田舎から都市への物資と人の流入をなんとか確保していたということ、またはそれは、宗教と法と習慣の強制力を動員することで可能であったということである。
P122
真に安定したマクロ寄生の構造が長期間存在したことは殆どなかった。文明の歴史の激しい乱高下を繰り返す変動の軌跡を描き続けてきたのである。平和と繁栄の期間がしばらく続くと人口は、増加してマクロ寄生の消費吸収(つまり殺戮に処理)の能力の限界を超えるに到る。すると今度は既成の社会秩序の崩壊による死亡率の急上昇という現象がでてくる。農民一揆、内乱、外敵の侵入と略奪、さらにそうした事件に間違いなく付随する猛烈な飢餓と疾病————生半可な手段では、農民の数を規制して適当な人口のバランスを保つことが不可能な場合、常にこういう異常事態が発生し、人口を破滅的に減少させる役割は果たすのである。
P123
「外部」からの侵入は、病原菌であれ武装した人間どもであれ、常にこのサイクル(乱高下を繰り返す変動の軌跡)の運行を攪乱する可能性をもつ。さらに農作物の深刻な不作をもたら異常気象を加えて、大部分の文明社会では、この三つ(飢餓・疾病を含む)の外的要因が極めて大きな影響力を持ち、しかも頻繁に繰り返されため、農民数の変動と社会の安寧秩序の度合いの間に存在するはずの密接な相互関係がややもすると隠されたしまいがちである。
P125
文明は、既に発展の極の達した大中心地から、その文明の根底をなす文化的諸要素を新しい土地へと輸出するものなのである。もちろん、相手の方も新しく創造するよりも、借用して模倣する方がずっと楽だということもしばしばあったであろう。だが、この事実にはもうひとつ重大な要因があり、そここそ、文明社会がなぜあのように比較的やすやすと新しい領土に広がっていくかを説明してくれる。それは、意図的な政策やマクロ寄生の諸構造からでてきた結果ではなく、ミクロ寄生の力学から生じた現象である。
P126
ヒトの巨大なポピュレーションの内部でのみ生きながらえる「小児病」と共存することを覚えたとき、文明社会は一個の強力きわまる生物学兵器を手に入れた。この兵器は、これまで孤立していた小さなヒトの集団と接触する際、常にその威力を発揮した。文明社会特有の病気が、その病原菌に曝された経験を待たないポピュレーションにむけて放たれたとき、これは極度に高い罹患率を示し、しかも、もはや小児だけがかかる、深刻ではないとは言えないが、なんとかきりぬけられる病気ではなく、老若を問わず成員多数の生命を奪い去る疾病だったのである。
そうした悪疫の及ぼす破壊的な影響は、恐らく単に多数の生命を奪うというだけではない。その点でどれほど猛烈だったとしてもである。生き残った者が精神的にすっかり打ちのめされてしまうことがしばしばなのだ。これほどの厄災に前もって用意するよう教えてくなかった伝統的な信仰と習慣に対して彼らは、完全に信を失ってしまう。また、新しい感染症は、特に社会の青年層に対して最大の威力を振るう場合が多い。
壮青年のかなりのパーセンテージが一回の疾病で失われてしまった共同体は、物質的にも精神的にも自立していくのが困難となろう。それが、一回だけでなく、文明に伴う同じとように破壊的な他の感染症に続けて、何度も襲われた場合、共同体の構造的一体性は妹違いなく崩壊し去る。
P127
この疫学的プロセスの進行には、軍事的侵略という要素と分かちがたく結びついていて、それを覆い隠す結果となっていたも事実である。そして重要なことは、戦争や交易といった事績がしばしば文明社会の記録に逐一書き留められて後世に伝わるのに反して、文字を持たぬ弱小の周辺地域の住民に流行した疾病は後に記録が残らない、という事実で、そのために、従来の歴史家は、文明を有する諸民族が都市的生活環境のおかげで、自分らの血液の中にがっちりと装備するに到った生物学兵器に対して、十分な注意を払うことがなかったのである。
P133 インドカーストの形成
インド文明は、インドの東部と南部を占める様々な原始的共同体に対して、消化吸収しまうことをせず、森の種族の子孫を下層のカストと規定し、彼らを半ば自立した機能を備える構成分子として、ヒンズー教の同盟体に組み込むことによって、拡大した。
もちろんほかにも様々な要素や考え方がインド社会におけるカスト原理の形成や維持に影響している。だが、カストの枠を越えて、身体的接触をもつことに対する忌避の存在、タブーを犯した場合に体を清めるために守るべき念入りな規定、これらは、インド社会において次第にカストとして固定していった様々な社会集団の間で、相互に安全な距離を保とうとした時に、病気への恐れがいかに重要な動機であったかを暗示する。その間、抗体による免疫と寄生虫症に対する抵抗力が次第に両者の間で均等化し、或いは、当初の差異が大きく減ったあと、ようやくアーリア語を話す侵入民族が、タミル語を話す住民と安全に共存できるようになったのである。
第3章 ユーラシア大陸における疾病常生地としての各部圏の間の交流 紀元前500年から紀元1200年まで
【ローマ帝国衰亡の契機】上P193
ローマ帝国の境界内で継続的に人口が減少した理由のひとつは、重大な未知の悪疫の発生・流行が繰り返されたことである。その規模において、紀元165年—180年のアントニウス朝時代の疫病と完全に比肩しうる新しい流行が、251年から266年にかけてローマ世界を襲った。この時の方がローマ市に報告された死亡数ではむしろ多い。最盛期には、1日に5千人が死んだとされる。そして地方の人口が受けた打撃は、前の大流行の際によりもむしろ大きかったと信ずべき理由がある。
われわれは、これらの二度にわたる人口動態上の大災害は実ははしかと天然痘という今日誰でもが知っている小児病中最も強力な二種類の病気が地中海世界の住民に初めて持続的な形で到来した事実を示すものないかとの推測を禁じ得ないのだ。
165年から266年まで、未知の疾病という強力な打撃が、地中海世界心臓部の富を枯渇させ、地中海世界の商業活動が最も活発であったいくつかの経済的中心地で、都市住民の大きな割合の人間が、急速に死亡したとき、現金の国庫への流入が激減した。兵士たちに今まで通りの賃金を支払うことができなくなり、反乱を起こした軍隊は文明社会に戻ってきて、地中海世界の心臓部全体に長いローマの平和が作り上げた無防備の地域を襲い、実力で奪える限りのものを奪い去った。そしてその結果、より一層の経済的衰退、土地の無人化、人的災厄が到来した。
地中海世界の各地に起こったと推測される事態は、大凡次のような要約することができる。ひとつの我慢できる程度のマクロ寄生のシステム————紀元後1世紀におけるその構造は、帝国の軍隊と官僚機構が、ギリシャ・ラテン的都会的生活様式に強いあこがれを抱いているのが普通だった地方的土地所有者の様々な厚い層に依存して支えられているという形であり、それが2−3世紀に悪疫のもたらした荒廃が深刻な打撃を与えたとき、耐え難いほど頭でっかちになってしまったということである。
それ以降、ローマ社会のマクロ寄生的諸要素が、人口と生産活動に破壊をもたらすこととなり、それに起因する飢餓、移住、切り捨てられ、流浪する人びとの群れが集まって散らばっていくという状態が、また逆に悪疫的な感染症に対して人口をさらに減少させる新たな機会を提供した。
この全過程において、疫病が果たした役割の大きさを昔から歴史家は充分に認識していた。だが、かれらは、免疫や抵抗力を全く欠く住民に新しい感染症は到来したときいかに異常な猛威を振るうかという点に無知だったために、最初のあの二種の疫病には、衰亡の全過程のそもそもの口火を切るという重大な意味があった事実を常に軽視することとなった。
【地中海世界の衰退に拍車をかけた腺ペスト】上P202
地中海世界に対する次の重要な疫病は、542年に到来し、750年迄間歇的に流行した。542年から543年にかけて流行したユスティニアヌス大帝時代の疫病は、腺ペストだったと断言できる。その後の二世紀間に地中海沿岸の各地に断続的に現れた感染症もすべて腺ペストとは限らない。
この腺ペストは、遠い国との交渉の発展ということがとりわけ大きな意味をもっている。
われわれがピロコピウスの書を信頼するに足るものとみなす根拠は、彼の記述が近代における腺ペストのヒトのポピュレーションにおける伝播のパターンと完全に一致している点である。近代の医学研究では、この感染症は、患者の咳やくしゃみで空中にばらまかれる粘液の飛沫を肺に吸い込むことで、ヒトの宿主からヒトの宿主へと直接にも移動し得ることが判明した。最新の抗生物質の力によらない限り、この空気感染で罹った肺ペストは例外なく死をもたらす。そうした強烈な性格のため、空気感染による肺ペストの流行は決して長く続かない。
西ローマ帝国の二度にわたる疫病の大流行と同様にこのペストがもたらした政治的影響は極めて大きかった。地中海世界に帝国の統一を恢復しようとしたユスティニアヌス大帝の努力が失敗した理由の大半は、ペストのお陰で国庫の収入が激減したことに帰せられる。634年突如としてアラビア半島から群がり出たイスラム教徒の軍勢に対して、ローマとペルシャがほんの形だけの軍事的な抵抗しか示すことができなかった事実も、542年以降繰り返し地中海沿岸地方に到来し、イスラムの帝国的な勢力拡大の最初の重要な段階と時期を等しくした人口動態上の災厄を考慮すると理解が容易になる。
さらに広い視野に立って観望すれば、アンリ・ピレンヌがかなり以前に指摘し、有名になった大きな地位の転換、ヨーロッパ文明を代表する中心地としての地位が地中海世界から次第に失われ、もっと北の諸地方の重要性がはっきり増大したという転換には、長い間繰り返されたペストの流行が果たした役割は非常に大きい。ペストが流行するのは、地中海の港湾都市からすぐ近くの、容易に到達できる地域にほぼ完全に限定されていたからである。
【日本の感染症】上P226
文献に残る最も古い中国大陸との交渉は552年に始まる。この年、仏教を伝えんと朝鮮からの使節が日本本土に初めて足跡を印したが、異国人たちは、恐らく天然痘と思われる致死率の高い未知の病気を持ってきた。そして約1世紀の585年同じ様に重大な悪疫の発生はまたもや見られた。
698年にははるかに持続的な流行がはじまり、以後15年間にわたり日本全国に飛び火した。この病気は、735年—737年に再発し、さらに763—764年に発生、そして26年後の790年「30歳以下の男女がことごとく罹った」という大流行があった。この疫病の再発を示す年代記的な記録は13世紀まで続く、13世紀になってようやく通常の小児病となり、日本列島に永住の地を見いだしたのである。小児の病気という記述は、1243年にはじめて現れる。(原典:日本疾病史:富士川遊:東洋文庫133)
第4章 モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変
紀元1200年から1500年まで
【ペストとモンゴル帝国〜ヨーロッパペスト前史】下
ユーラシアの文明化した共同体を相互に隔てていた広い空間を越えて、恒常的な交流が確立したことから生じた疫学的適用現象は西暦900年ころに完了し、比較的安定したパターンが達成された。しかし2つの構造的に不安定な要因が依然として存在していた。その一つは、極東と西欧で人口が持続的に累積し、巨大な数に達しつつあったこととともに、陸路海路ともに東西の交流パターンに一層の改革が進んだことである。
マクロ寄生・ミクロ寄生のパターンに大きな影響を与えた最初の変化は、アジアを横断する陸上の商隊交通の発展・強化で、その頂点は、ジンギス汗(1167−1227)の建設したモンゴル諸帝国の支配下に於いてである。一日に百マイルずつ何週間も走り続ける騎馬飛脚や、緩慢な歩みではるばる遠い距離を行き来する商隊や軍隊の織りなす一大交通網が、この帝国群を1350年代までに一つに結んでいた。しかしこの頃になると、中国に反乱が勃発し、1368年(明成立)にはモンゴル人はこの最も豊かな征服地から完全に放逐されたのである。
モンゴル支配下の交通網の発展は、いまひとつの重大な結果をもたらした。古代の中国シリア間の中央アジア砂漠に点在するオアシスとオアシスを辿るシルク・ロードに加えて、かつてあまり通らなかった中央アジア砂漠の北側の広漠たる草原を通ったのである。
疫学的見地からするとこの商隊路網が北に広がったことはひとつの重大な事態を招いた。草原地帯各地の野生の齧歯類小動物が未知の感染症の保菌者と接触することとなり、そして病気には恐らく腺ペストも含まれていたのだ。
かれら齧歯類のある種は慢性的にパストゥーレラ・ペスティス(ペスト菌名)に侵されるようになった。かれらが地中に掘りめぐらす穴は,シベリアと満州の厳しい冬の寒さにも耐えて、パストゥーレラ・ペスティスが年中生き続けるのに非常に好都合な局地気候を作り上げた。そうした穴は、動物と昆虫が複合的共同体をなして共存していたために、ペスト感染が永久的に持続することが可能であった。
【ヨーロッパペストの発症経路】
1252年~53年以降、モンゴル軍は、雲南省とビルマに侵入し、不注意にもペスト菌を自らの故郷の草原に棲む齧歯類の群れに移し、それが今日になって恒常的な感染パターンになったということは、それほど想像力を飛躍させなくとも容易に理解できよう。
しかしこの感染に関する中国の記録として、「河北に疫病が発生し、人口の10分の9が死んだ」とされる1331年まで、疫病に関する記録はないのである。
アレッポのイスラム教徒のイブン・アル・ワーディによれば、この病気は、「暗黒の地」で発生し、先ず北アジアで広がったのち、文明世界に侵入した。最初に中国を襲い、ここからさらにインド、そしてイスラムの各地に及んだという。アレッポは、それ自体商隊都市であり、14世紀には、アジアの草原地帯を縦横に走る交易路が集中するかなめの地点であったから、ペストの蔓延について正確な情報を得るのに好都合な位置を占めていた。
結局のところ、最も可能性の高い解釈はこうなる。ペスト菌は、1331年中国に侵入し、それは雲南省————ビルマに古くから自然に存在する中心地から直接に広がったか、或いは、満州————モンゴリアの草原の穴居性齧歯類に確立したばかりの感染源から流れでたかの何れかである。その後16年間、この感染症は、アジアの商隊路を旅し、1347年クリミアに到達する。ここからペスト菌は、舟に乗って飛び火し、各地の港へそしてそこから内陸へ放射状に延びる道を通ってヨーロッパと中東のほとんどすべての地域へ侵入した。
【ペストのもたらした影響】
ペストに対する反応をお祭り騒ぎに解消しようとする最初の本能的行為は、醜聞かつ極端な形を取った。ドイツとドイツに接する地方では、鞭打苦行者の集団が,お互い血みどろに打ち合うことと、ユダヤ人を襲撃することで、神の怒りを和らげようとした。ユダヤ人は、ペストの毒を故意にばらまいた下手人と見なされ、迫害されるのが常だった。
鞭打苦行者の集団は教会と国家の既存の権威を一切認めず、資料を信ずるなら、彼らの祭祀は、しばしば、参加者の集団自殺の観を呈した。鞭打苦行者の及びそれ以外の連中によって口火を切られたドイツ系ユダヤ人への攻撃は、ヨーロッパにおけるユダヤ人社会の中心地の東方への漸進を加速させられることになった。ポーランドは、ペスト襲来の第一ラウンドを殆ど免れた国だった。そして一般民衆のユダヤ人への襲撃はここにも発生したが、王権は、ユダヤ人が身に着けている進んだ都市諸技術故に彼を庇護した。
世俗語が、正式の文書にも使われるようになり、西ヨーロッパの知識人の間で、共通語としてのラテン語が衰退していった現象は、この古代語を自在に操れるまでに習得していた聖職者や教師が大勢死んだことで早められた。絵画も突然の不可解な死に繰り返し直面して引き起こされた、人間の生についての暗いビジョンを反映した。トスカナ地方の画家たちは、ジオットの晴朗な画風に反発し、宗教的情景や人物を描くにも、より峻厳で聖職者好みの描き方をするようになった。「死の舞踏」は共通の主題となり、ヨーロッパ芸術のレパートリーに入った。
ペストの経済的影響は甚大だった。北イタリアやフランドルのような高度に発達した地域では、13世紀の景気のよい時代が過ぎ去り、過去のものになるに従い、階級間の激しい軋轢があらわになった。ペスト大流行は、賃金と価格のパターンをいきなり大きく混乱させたから、少なくとも短期的にはこの闘争を激化させる役割を果たした。90年程前、ソラルド・ロジャースは、ペストが下層階級の諸状況を改善し、また農奴制を破壊することで、自由の伸展に大きく貢献したと論じた。かれの考えによるとペストに起因する労働力不足は、賃金労働者をして競合関係にある複数の雇用者と駆け引きすることを可能として、その結果彼らの実質賃金は改善されることとなったというのである。
時と共にペストによって、ひきおこされた大混乱は次第に沈静したが、それでも、ヨーロッパ全体の文化と社会に或る二つの大きな価値転換が生じたことがはっきり認められた。
ペストが猖獗を極めているとき、完全な健康を保っている人物が、24時間も経たずに悲惨な死を遂げてしまうということがざらにあった。このことは、世界の神秘を説明しようとする如何なる努力も疑わしいものにするに足りた。トマス・アクィナス(1225〜74)の時代を特徴づける主知的神学への信頼はこのような試練に耐えて生き延びることができなかった。これに対して、澎湃として起こった潮流は、神秘主義であり、これは、説明も予測もできぬ、深刻で純粋に私的なやりとりで神との霊的統一を目指すものであった。
第二に教会の既存の儀式と聖礼典の手法は、前代未聞のペストの出現に対処するには、余りに不十分でむしろ信仰心をぐらつかせる結果を広げる程だった。14世紀には、大勢の僧侶が死んだ。後継者は、まだよく訓練されておらず、しかも彼らが相手にしなければならない群衆は、公然と敵意をむき出しにしてくることはなくとも、これまでになく冷笑的になってしまった連中だった。ペストは或る人間を斃し、他の者を見逃すその不条理のうちには、神の正義など到底求むべくもなかった。
教会特有のどうしようもない硬直性とは打って変わって、諸都市の行政当局、特にイタリアのそれは、激越な悪疫の挑戦にかなり素早い対応をみせた。埋葬措置を指導し、食糧の供給を確保し、遠隔検疫を設定し、医者を雇い入れ、その他流行時における公的、私的な行動規制を定めるなど、大わらわの活躍をした。この活力こそ、1350年から1550年までの二世紀間に、ヨーロッパの諸都市、特に上に立つ世俗の権力との争いはあまりなかったドイツとイタリアで、都市国家が一種の黄金時代を迎えた原動力となった。
第5章 大洋を越えての疾病交換 紀元1500年から1700年まで
【大航海時代の感染症】
1450年から1550年までの大航海時代に三種の新しい感染症が特に目立った動きを示したが、そのいずれもが、戦争の副産物としてヨーロッパ人の眼前に初めて出現した。そのひとつは、いわゆる「イギリス発汗熱」で、これは短期間の流行の後消え去ったが、他の二つの病気、梅毒と発疹チフスはいまでも続いている。
梅毒、発疹チフスは、ともにヨーロッパに現れるのは、1494年から1559年という長い年月に継続したイタリア戦争の期間内だった。フランス王シャルル8世が1494年にナポリに差し向けた軍隊に、梅毒は、悪疫としての姿を現わした。フランス軍の撤退後、シャルル8世は兵を解散させたため、近接する国々に梅毒を広く拡散させた。梅毒を新しい病気とみなしたのは、ヨーロッパだけでなく、インド、中国、日本もそうだった。インドには、1498年バスコ・ダ・ガマの率いる船乗りとともに現れた。中国には1505年、日本にその後まもなく到来したが、これはポルトガル人が初めて広東に来るよりも12年も前であった。
発疹チフスは1490年ヨーロッパに初めて出現した。キプロス島で従軍していた兵士によってスペインに持ち込まれた。次いで、イタリア半島の支配権を争うスペインとフランス間の戦争に際して、イタリアにもたらされた。1526年ナポリを包囲攻撃していたフランス軍は、この病気のために撤退を余儀なくされたとき、発疹チフスは、改めて広く知られ、おそれられた。そのとき以後、継続的に発疹チフスは発生し、その都度、軍を壊滅させ、或いは、監獄、貧民救済所、その他文字通りシラミだらけの施設をからにするなどし続け、第一次世界大戦では、この病気で二百万人から三百万人が死んだ。
発疹チフスは結局、集団と貧困の病気だった。発疹チフスに死んだ貧民のほとんどは、たとえ、菌を保有するシラミが彼らの死を促さなかったとしても、他の病気によって片付けられてしまったであろうことは、統計学的な確率からも間違いない。特に都市のスラムやそれに近い環境、つまり栄養の悪い人々が惨めに蝟集している場所では、無数の他の感染症————結核、赤痢、肺炎などが獲物を奪い合っていた。
【1300年から1700年の感染症】
やはりなんといっても悪疫たりえる感染症の発生パターンの変化こそ、人類整体学の基本的な里程標であり、それは現在も同じなのだ。世界史的な時間の尺度から巨視的みれば、1300年から1700年の間に生じた疫病の「飼育化」はひとつの根本的な大変化と見なすべきことがわかる。これは輸送手段の二大革命————モンゴル人による陸上のそれとヨーロッパ人による海上のそれから、直接生じたものだ。
ところで文明化した形のヒトからヒトへうつる感染症は、都市の誕生と、そこで相互に接触しあう50万人もの人間の群れの発生に伴って登場したものだ。最初このような状況は、地球上の限られたいくつかの場所だった。その一帯の農耕生産がことに豊かであり、また輸送網が出来上がっていて、生産物を帝国の首都たる中心都市に集め易い場所である。以後何千年かの間にこれらの文明に特有の感染症は、二重の役割を演じた。
そのひとつは、いままでは孤絶していたが文明中心地からやってきた保菌者と急に接触してはじめた共同体の住民を多量に斃すことで、こうした小さな原始的集団を、誇張を続ける文明社会の支配体制内に吸収しやすくするという役割だった。他方でその同じ感染症が、文明化した共同体そのものの内部にあってあまり文明化しない部分を襲い、特定の都市や地方の共同体に侵入して、孤絶していた住民に対するのと同様の大量殺戮の力を発揮することであった。
【アメリカ大陸のインディオの惨禍】
最初の遭遇は1518年だった。天然痘がイスパニューラ島に到達し、インディオ住民に激しく襲いかかった。生存者は、わずか千人過ぎなかった。イスパニューラ島から1520年にメキシコに上陸した。
1525年か26年に遂にインカ領に入った。ここで引き起こされたことはアステカと同様ドラステックだった。
インカの王は首都を離れ、北方での戦闘の指揮を執っているとき、この病気(天然痘で死に、王位継承者も死に、正式の後継者もいなくなった。そこで内戦が勃発し、このようなインカ帝国の政治構造は危殆に瀕していたまさにそのときに、ピサロと手下がクスコに到着し、財宝を強奪したのである。彼はまともな軍事的な抵抗にはろくに遭わなかった。ここで二つのことを強調しておきたい。
第一に疫病が特別に恐ろしい紛れもない一つの神罰であるとする点でスペイン人もインディオも一致していたということである。第二は、インディオに対してあれほどに無慈悲な力を振るった恐るべき病気も、スペイン人は全くと言っていいほどなんの影響もなかったという事実である。
最初に天然痘が到来し猖獗を極め、総人口の3分の1ほどを斃して去ったあと、直ちに、はしかが天然痘に踵を接して現れ、1530年から翌31年メキシコとペルーに広がった。さらに15年後の1546年に別の疫病が出現した。恐らく発疹チフスと思われる。
スペイン人がアフリカ大陸から連れてきた奴隷を通じて、インディオを待ち受けていた危険な病気、そのうち新大陸に根を下ろした最も重要な二種の病気は、マラリアと黄熱病であった。
第6章 紀元1700年以降の医学と医療組織がもたらした生態的な影響
【産業革命後のイギリスの種痘開発】P149
産業革命以降のイギリスの人口と病気の歴史は、特に示唆的な意味を持った。穀物その他の食糧が海外から大量に流れはじまる1870年代以前、イギリスの都市人口の増大には、地方における食糧の増産が不可欠であった。それは、農機具、肥料、作付けの順序、種子の選択、食糧の貯蔵と保存の方法などに様々な改良が加えられるようやくなった。そのなかで最も重要な変化は、雑草を抑制する手段としての休閑の廃止であった。
17世紀後半、その誕生の地から発して、北海の両岸へと広がっていったこの「新農法」にはいまひとつ思いがけない副作用があった。蕪とやはり休閑に代わって植えられた重要な作物である「むらさきうまごやし」は、ヨーロッパ農業ではこれまで不可能だった程の大量の畜牛用の飼料を準備することとなった。牛は、マラリア病原体の宿主となり得ないため、蚊が常に人血よりも牛の血を選ぶ習性は牛の頭数が増えていったヨーロッパ各地で、マラリアの感染の連鎖を断ち切る結果を生んだ。
この新しい農耕が普及したことから生じた複雑な生態的影響はそれにとどまらない。家畜の頭数が増加しため、人間の食物に肉と蓄牛が多くなり蛋白質の摂取が増え、このことが、あらゆる種類の感染症に関してヒトが体内に抗体をつくる能力を高めたはずである。
18世紀のイギリスにおける病気の発生状況に生じたもう一つの重大な変化は、予期せざる偶然の生態系改変の結果ではなく、逆にこの上なく自覚的な「種痘」という医学的な技術のもたらしたものである。この免疫法は1721年イギリスに導入された。そのやり方は、天然痘患者の膿疱から採取された膿を被術者の皮膚につけた小さな傷の中に入れるというものであった。
有能な田舎医者エドワード・ジェンナーがワクチンを発見し、1798年その実際の成果を発表した。ジェンナーは、乳搾りの娘たちが決して天然痘に罹らないことに気づき、それは、牛の世話をしながら、牛痘に罹っているためではないかと推測したためだった。
【世界的な規模で蔓延したコレラ菌】P169
産業社会がつくりだした疾病状況に生じた最初の、そして多くの意味で最も重要な現象は、コレラの地球規模の大流行であった。この病気は、ベンガル地方に大昔から風土病として根を下ろしていて、時折インドや近隣で疫病として猛威を振るっていた。病原体はバクテリアであるが、水中に長時間独立した生物体として生存する。このコレラ菌は、口から人体に入った場合、胃酸に殺されなければ、消化器内で急速に増殖し、激烈で劇的な症状を現す。
この病気が最初ヨーロッパ人の注目を引いたのは、1817年カルカッタの背後地に発生して、異常な程に激しさに達した時だった。そこからインドの他の地方に広がり、やがてインド亜大陸とそれに連なる地方に拡大した。事の真相は、恐らくインドの各地にコレラを伝播する古くから確立したパターンが新しくイギリスによって、押し付けられた通商上・軍事上の移動のパターンと交差したためである。
流行の拡大は、二つの道筋をとった。一つは陸上で、範囲は小さかった。1816年から18年にかけてインドの北部国境地帯で一連の軍事活動をおこなっていたイギリス軍はベンガル州の本拠地からコレラを持ち帰り、敵軍のネパール人とアフガン人を感染させた。しかし海路による伝播は、はるかに劇的で、1820年と22年の間に船舶はコレラをセイロン、インドネシア、東南アジアの大陸部、中国、日本にもたらし、アラビア、イラン、シリア、アナトリアなどに蔓延した。しかし、この出来事は、はるか広範な1830年代のコレラ菌大移動のほんの前触れに過ぎなかった。
1826年、ベンガル地方から新しいコレラの流行は発進し、速やかに以前のルートを辿って、南ロシアに入り、ロシアの対ペルシャ戦争、及び対トルコ戦争、それに1830—31年のポーランド反乱に伴う軍事行動のため、1831年迄に漸次コレラは、バルト海に到達し、そこからイギリスに伝わった。翌年にはアイルランドに侵入、アイルランドからカナダに伝播し、南に下り、アメリカ(1832年)とメキシコ(1833年)に広がった。
1854年、ロンドン在住の医師ジョン・スノーは、市内の中心部に一地区で発生したコレラの元を辿るとすべて一つの汚染された飲料水の水源に行き着くことを発見し、証明した。だがスノーの論議は、情況証拠だけに依拠するものとされ、注目されなかったが、1880年代に顕微鏡で病気を起こす「細菌」が発見されて、医学界に承認されることとなった。
この方法で突き止められた最初の細菌は、炭疽菌と結核のバクテリアだった。前者が、パストゥールによって1877年から79年に、後者は、コッホによって1882年に発見されたのである。
【公衆衛生政策の起源】P184
イギリスへのコレラの最初の侵入(1832年)を機として、各地に保健委員会の設立が相次いだ。1848年コレラが再びイギリスに再上陸すると、中央保健員会は、公衆衛生上の計画を制度化した。イギリス国内の大小の都市から無数の不潔物の発生源を除去しようとし、全国に上下水道を敷設する事業に取り組んだ。
下水道は何ら新しいものではない。1840年代の新基軸は、ベンサムの功利説を奉ずる改革者エドウィン・チャンドウィックが先頭に立って、開発したもので、滑らかな陶製の細い下水管を敷設して、十分な量の水を通して、汚物を人間の居住地から遠く離れたところにある汚物溜めに集めるという方式であった。ここで汚物を適切に処理し、肥料として販売するということまで彼は期待していた。
チャンドウィックの計画は、完全に実現されるにはほど遠かったが、彼の指導のもとで、中央保健委員会は、1848年から54年までの設置期間内に産業革命によって出現した都市が過去のいかなる都市よりもはるかに健康的たるえることを実証してみせたのである。さらに動脈と静脈のように張りめぐらされた上下水道網による給水と汚水処理システムは、非常識なほど膨大な経費を要するわけでもなく、ヨーロッパと海外のヨーロッパ人居住地の都市共同体が到底手がだせない程ではないことがわかった。もっともアジアでは、昔から人糞を肥料として使う習慣がなかったので、新しい上下水道システムが普及することはなかった。
古くからの自由都市として、ハンブルグは、新興のドイツ帝国内で自治を保ち、水は、エルベ河から特別の処理を施すことなく、直接引いていた。プロインセンに属するアルトナ市の市街は、ハンブルグと隣接していたが、ここでは、用心深い政府によって水道を濾過する施設があった。1892年にコレラがハンブルグに発生したとき、流行はこの二都市を分ける大通りの一方にのみ広がってゆき、反対側には全しょう全然入り込まなかった。瘴気(「悪い空気」)説信奉者が好んで説明に利用した大気と土地は、両市を分かつ境界にまたがって同一であったから、コレラの発生する場所を決定するのに、飲料水が根本的に重要な役割がはたしている事実が、これ以上ありえぬ程明瞭の形でしまされたのである。
【都市と田舎の関係性の変化】P188
欧米の主要都市は、1848年から54年にかけてイギリスで開発された保健衛生と上下道水の新しいレベルに追い付くべく努力を重ね、19世紀末迄には何らの達成をみていた。その結果、都会の生活は、かつてないほど病気からの安全が保障されることになった。コレラと腸チフスばかりでなく、それほど深刻ではない、水を介して広がる無数の感染症が激減したのである。幼児死亡率を高めていた主な原因の一つが、次第に大きな統計学的意味を失っていった。
そこで1900年には、都市なるものが発生して以来ほとんど5千年という長い年月をかけて初めて都市人口が田舎からの流入人口に依存せずとも自らその数を維持し増やしてさえゆくことが可能となった。これは大昔から続いてきた人口動態の構造に生じた抜本的な変化だった。
この変化の持つ意味重大だった。都市が自ら人口増を保っていけるようになるにつれ、地方から移住してきて都市生活を始めるというパターンは、新しい困難にぶつかった。田舎からの移住者は前より増え、前よりずっと文化程度の高くなった都市生まれの連中を相手に競争しなければならなかった。この連中は、以前は田舎からの新参者に委ねられていた仕事をやってしまうのである。そこで構造的な都市人口の高死亡率のために、世界のあらゆる大都市で後背地としての田舎からやってくる上昇志向の個人に対して、生活の場が開かれていたときに比べて、社会的な流動性は激しく鈍化した。
さらに一層重要なことがあった。田舎の安定した共同体でどこでも、習俗によって婚姻が規制さていて、その結果出生率が、おおよその死亡率と離村する移住者の率にほぼ見合いものとなっていた。例えば、持参金と結納金に関する細々とした掟のために新郎新婦がある程度の資産を手に入れ、新家庭が彼らの両親の生活と同じ位の水準を保つことができるようになるまで結婚は、延期されるという具合だった。
それに反して都市という環境では、伝統的に人口の損傷が甚だしいという事情もあって、早い結婚と出産を似たような規定は、有産階級に限られるという特徴があった。都市の貧しい青年たちは、雇われ仕事が世襲ということはあまりなかったので、両親が隠居する年齢に達するまで待たなければならない理由はなにもなかった。そうしたわけで、都会の諸条件のもとでは、早期の結婚と生殖に対する規制は緩められるか完全に廃れてしまった。
そのほか都市と田舎の人口動態上の関係に関わる問題として、働くということの意味の変化、社会階層と土地所有の間の関係性の喪失、群衆なるものに対する人びとの心理的反応等々のことがある。この都市と田舎の伝統的な関係の変化は、地球上のあらゆる場所で、人類と二十世紀の出会いの基軸をなす重要な状況であることは間違いない。そして、この変化の背後には、十九世紀ヨーロッパのコレラへの恐怖から出発した、都市生活における医学行政上の一連の改革が存在するのだ。
【医療活動の国際的協力】P192
コレラとの遭遇を契機とする最初の医学上の国際会議は、1851年に遡る。これは各国の専門家がパリに集まり、長い間論争の的になっていた隔離検疫制の問題に決着をめざし、それがコレラその他の病気に対して有効かどうかを決めようとしたのである。地中海地方各地の医者や役人はペストを防ぐべく発達した種々の方策を受け継いでいたので、概して感染説をとる者が多く、隔離検疫の有効性を信じていた。イギリスその他北方ヨーロッパの衛生改革主義者たちはそういう古色蒼然たる考え方」を避難し、悪疫を発する塵芥や汚物からたち上る瘴気こそ病気の主たる原因と主張した。
この国際的な共同作業がこれ以前になんの成果を挙げていないということでは決してない。活動の主な舞台は最初エジプトであった。コレラが初めて接近した1831年という早い年に、アレキサンドリア駐在のヨーロッパ列強の領事は、エジプトの近代化を推進していたアルバニア戦士出身の君主メフメット・アリーに招かれ、首都のために、彼らで保健委員会を作るようにとの要請を受けた。以降これは西ヨーロッパにとって保健行政の前哨基地として存続し、メッカ巡礼の疫学的な運命を追跡したり、病気のエジプト国内における危険性などを警報し続けた。
それゆえ、1883年コレラがエジプトに来襲したとき、ヨーロッパ各国の医師団を数班現場に派遣し、細菌学の最新の成果を実地に検証し、従来の防疫措置を慎重に一歩すすめたものでしかなかったが、結果は目覚ましかった。わずか数週間のうちに、ドイツ人ローベルト。コッホはコレラの病原菌の発見を告げた。そこで、前述した細菌説が、圧倒的に優性となったが、それだけではない。コレラ感染の本質が分かった途端、様々な予防法がはっきりしたのだ。科学的消毒薬と加熱処理で細菌を殺すことができ、患者の取扱いを注意深く行えば、他に病気をうつすことが防げた。1893年迄にコレラのワクチンが開発された。こうして十九世紀末には、近代科学としての医学がこの恐るべき病気への効果的な対応策を発見したのである。
【キナ樹皮とマラリア薬の開発】 P195
処理するのが容易でない感染症もいろいろとあった。ヨーロッパの医者は、すでにお1650年頃から、マラリア患者の体力が著しく衰退する病状は南アメリカ産のキナの樹皮を水その他の液体に浸けて煎じたものを飲めば、軽減できる事実を知っていた。この煎じ薬の医学的な有効成分が後にキリーネと知られるのである。だが、そうした効き目のある樹皮を採取すべき木の種類が何であるかについて混乱があり、また粗悪品が、商品として流通した等のことから、この療法はやがて信用を失った。プロテスタントの人びととの間では特にそうだった。この樹皮の知識を熱心に世界に説いたのは、イエズス会士だったので、彼らに対する不信感が、彼らの広める治療にまで及んだというわけだ。
1954年、オランド人が、ジャワにキナの木の農園を開いたと聴き、初めてヨーロッパ人は、正しい種類の樹皮を間違いなく手に入れることができるようになった。事実十九世紀後半におけるヨーロッパの勢力圏の拡大を如実に示すアフリカ大陸奥地への探検旅行は、オランダ人の農園が産するキニーネなしには不可能だったであろう。1942年日本軍が、ジャワを占領したとき、キニーネに代わるマラリア薬の開発が急務となり、共同研究が推進され、アタブリンその他数多くの卓効のある新薬を合成するようになったのである。
【パナマ運河と感染症】 P197
黄熱病は,マラリア以上に強い関心の的であった。それは感受性を有する成人の生命を奪うのがマラリア以上であったことと、カリブ会へのアフリカの帝国主義的な勢力拡大を挫折させる原因となる畏れが十分あったからである。ところが、黄熱病は、ウイルス疾患なので、十九世紀の細菌学者は使っていた方法では、この病原体はとても確定できなかった。それでもウォルター・リードを長とするアフリカの研究班はキューバに赴いてこの病気と取り組み、蚊によって伝染することをつきとめた。1901年、蚊の繁殖場所を征伐することでハバナから黄熱病かを追放する作戦が開始され、遂に成功を収めたが、それは、アメリカ陸軍の威光と資金はこの医学作戦を援けたという事情が大きかった。
1901年のハバナは、1898年の米西戦争の結果、スペイン帝国の軛から脱してまだ間もなかった。この後、パナマ地峡を貫通する運河を建設しようという計画が動きを増すにつれて、アメリカの野心と戦略的な関心が決定的にカリブ海地方に向けられた。これより先にこの地峡に運河を掘ろうとした1881年から88年にかけてのフランスの試みは、費用が膨大な額に上ったため、放棄せざるを得なかった。それもマラリアと黄熱病のために労務者の死亡率が極めて高かったのが原因であった。だから運河の開通に成功するためには、蚊の媒介する病気を抑えることが何より肝要ということになった。そこでえ、アメリカの政治指導者たちと軍指令官たちは、これまで前例のない多額の予算をその仕事に任じられた医務官の使用に供した。
テング熱と黄熱病の感染拡大を畏れ、惨禍を未然に防ぐために、設立されたばかりのロックフェラー財団は、1915年に黄熱病の研究と制圧を全地球的規模で推進する計画をたて、その後二十年間にこの病気の複雑なしくみについて多くの事がわかった。南アメリカの西海岸にあった感染の中心地は、すべて一掃してしまうことができた。1937年には、安価でよく効くワクチンがやっと開発され、黄熱病は、人間の生命にとって以前ほど重大な病気ではなくなった。
【マラリアと殺虫剤DDT】P199
黄熱病に対する成功に気をよくしたロックフェラー財団は、1920年代に入るとマラリアも同じように制圧しようと企てた。黄熱病をカリブ海諸都市から追放したときのような蚊の駆除はいくつかの国、例えばギリシャなどでは実現した。だが、蚊に対する安価な武器が手に入り、マラリアの世界的発生を十分効果的に押さえ込むことができるようになったのは、第二次世界大戦後、殺虫剤DDTがつくられてからであった。ちなみに第二次大戦後のマラリア制圧の作戦本部は、民間組織であるロックフェラー財団から「世界保健機関:WHO」という公的機関に移った。これはまさにそのような作業を公的かつ国際的な形で、推進していくことを目的として、1948年に設立されたのであった。
ところが、幾つかの場所では、その結果として人口増加率に生じた変化は驚くべきものであったため、それは逆にかつてのマラリアと同じくらい甚だ厄介な問題となった。加えてDDTの大量撒布は、広範囲な種類の昆虫の生命を奪い、また時には、この化学薬品に汚染された生物を餌とする動物を毒殺することもあった。もうひとつ、好ましくないまた予想もされなかった事態は、DDTに抵抗力を有する何系統かの蚊が出現したことだった。だが、化学者はより強力な殺虫剤を合成することでそれに応え、現在のところ、昆虫が化学的な攻撃に対する耐性を獲得するよりも一歩早くそうした薬のヴァリアントをつくりあげることに成功している。だが、人類と昆虫の間の科学戦が長期的には一体どのような生態的結果をもたらすかは、まだ一向に分かっていないのだ。マラリアが永久的に抑えられるかどうかも確かでない。
【軍隊における病死率】P202
軍事医学行政の飛躍的進歩は、二十世紀の開幕ともに実現した。それまでは、最良の状態に管理の行き届いた軍隊が、しかも作戦行動に従軍している最中でさえ、病気のために敵軍のいかなる軍事行動によるよりはるかに多くの死者を出すのが常であった。例えば、クルミヤ戦争(1853〜56年)で、イギリス兵は、赤痢による病死者の方がロシア軍の武器による戦死者の合計より10倍多かった。それから半世紀近く経ったあとのボーア戦争(1899〜1902年)でも、公式記録の報ずるイギリス軍の病死者は、敵軍の軍事行動による死者の5倍に上った。ところがそれからわずか二年後に組織的な予防接種と厳重な衛生管理がいかなる成果を挙げ得るかが日本人によって示された。すなわち日露戦争(1904〜1905年)での日本軍の病気による損耗は、敵軍の軍事行動による死者の4分の1以下だったのである。
その後十年間に世界の主要国の軍隊では、日本軍のした通りにするのが常道となった。つまり、腸チフス、天然痘、破傷風などのありふれた感染症の一連の予防接種を制度として新兵に受けされたのである。それ以前にもヨーロッパの或る国ぐにの軍隊はナポレオンの創始した先例を遵守し、新兵に種痘を施すのを当然のこととしていた。奇妙なことに、当のフランスでは、1815年以降、平時にはこの慣行を廃止することにしてしまったが、プロイセンでは、続けられた。その結果1870〜71年の普仏戦争の際、天然痘のため約二万人のフランス兵が戦闘不能に陥ったのに、敵のドイツ兵は、免疫のお陰で無事だったという事態が生じた。
【発疹チフスと梅毒】P203
第一次世界大戦前の十年間にもう一つの重大な医学上の発見がヨーロッパ諸国の軍隊の免疫的状況を一変させた。発疹チフスを広げるのにシラミが果たす役割が1909年から12年にかけてようやく突き止められたのである。他の普通感染に対する組織的な予防接種と共に、この発見こそ、1914年〜18年の間、北フランスの塹壕内に数百万の兵員を集中させるという未曾有の作戦を医学的に可能したのであった。実は、1915年東部戦線に発疹チフスが突発した時も、組織と規律が整っている限りは、前線における病死者が敵軍の軍事行動による戦死者の数を上回ることが決してなかった。だが、その点が崩れたとき、1915−16年のセルビア戦線や1917−18年のロシア軍のように、疾病は、兵士市民の区別なく襲いかかり、昔ながらの高致死性を発揮するのであった。
梅毒は、第一次大戦中、衛生隊の活躍をあざ笑うように大いに流行しや唯一の病気で、事実イギリス軍では梅毒が疫病的と言ってよいほどの罹患率に達した。軍医達は、最初のうち措置に窮するほどだったが、それは医学的理由というより倫理的理由によるところが大きかった。
【インフルエンザ・ウイルス】P207
未来において人類に対して極めて重大な影響を与える可能性を少なくとも潜在的に有している類の疾病であり、その好例を1917年〜1918年にかけてのインフルエンザの疾病の大流行にみることができる。インフルエンザはずっと以前から存在し、その感染のスピードと免疫の持続期間の短さ、それに病原ウイルスの不安定性で際立っている。1918年—19年にはアメリカ、ヨーロッパ、アフリカの軍隊が北孵卵¥スペインに合流したため、未曾有の規模を備えた疾病が出現する環境が整ったのである。新しい系統のウイルスが犯人で、これは、宿主たる人間に対してこれまでにない破壊力を持っていた。流行は、全世界に広がり地球上の殆どすべての人間が感染し、二千万人或いはそれ以上が死んだ。インフルエンザが来襲すると、医療従事者は皆すぐ仕事が過重となり、医療活動が停滞した。だがウイルスがあまりに強い感染力を持っていたため、却って、深刻な事態はあっという間に過ぎてしまい、数週間のうちに全人類が以前の生活に戻り、病気は速やかに消え去った。
1918年以降、一世代の研究によってはっきり異なる3系統のウイルスが確定され、そのいずれに対してもワクチンをつくることが可能となった。だが、インフルエンザ・ウイルスはそれ自体が極めて不安定で、化学的構造をしばしば変化させる性質を持っているため、問題を複雑化した。前の年受けたワクチンが人体の血液中につくった抗体などに歯が立たなくなってしまったウイルスによって、新たに広範な疾病的流行は始まることは、ほぼ確実なわけだからである。それ故インフルエンザ・ウイルスの目まぐるしい変化、いやその他の感染症でも病原生物が突然異変を起こす可能性は、今日の世界にあって、依然として深刻な問題なのである。
1957年、香港に新しく「アジア型」の変種アジア風邪が現れたその一例である。この時アメリカでは、疾病的な力に達する前にこの新種に対するワクチンがかなり多量に生産され、それは発生と感染力の強化を抑止するに足りた。けれどもそのことは、保健行政当局と民間の事業家が速やかにインフルエンザの新しい系統を確認し、間髪を入れずに大規模なワクチン生産に取りかかるということがあって初めて実現したのである。たとえ、突然変異を起こしたわけでなくとも、或る正体不明の寄生生物が古くから慣れ親しんできた生態系ニッチェを離れ、この地上でこれほど目立った存在になってしまった密集する人類を襲い、目新しく、時には、破壊的でもある高致死率の病気に見舞われるということは十分に可能性がある。
最近インドと東南アジアに発生したコレラは、セレベス原産の新しい型の細菌によるが、これは典型的なコレラ菌をバンガル地方とその周辺のすみかから追い払って、それにとってかわったのだった。この種の予想不可能な生物学的な変動の最近の例は、前述のナイジェリアにおけるラッサ熱とウガンダにおけるオニョンニョン熱の辿った神秘な一部始終である。
【むすび】P210
技術と知識は、大部分の人間にとって、病気との通常の出会いのありようを大きく変えたが、人類を、目にみえぬミクロの寄生生物からの攻撃と、他の人間によるマクロ寄生に挟まれているという、大昔から続いている境遇から脱け出させてくれなかった。なるほど、人間社会が食糧生産者と彼らを収奪する者とにきれいに分けられるかつての単純明確な両極分化は、農耕が科学的に行われるようになったことと、食糧生産者が、自分では直接食糧を生産しない人びとからサービスと物資の供給を受けている事実によって大きく変わったのは確かにである。
だが、この機械化された官僚によって管理された今日にあっても、生産者と消費者の関係を調整するという昔ながらの問題は、一層複雑化して残っている。たとえ、地球大的ではなく、局地的なものにせよ、破壊的な過度のマクロ寄生の危険からの安全を確保してくれそうな体制は、持続的で安定した形のものとしてはまだこの世界に現れていないのだ。二度にわたる世界大戦は、局地的にせよ破壊的な結果をもたらした。また多種多様な意図で始められる革命に伴う戦争が過去に於けると同様、世界の住民の広範な層を再び飢餓と死にに直面させることもあるだろう。
他方、急激な人口増によって益々確実となってきたのは、食糧供給と人類の飢餓との間にまだ存在する余裕が現在は速やかに消え去りつつあり、異常な危機の際の用心にとっておくべき食糧がどんどん少なくなっている事実である。そのような事態に際しては、医者、農民、行政官、或いは、現代を特徴づける、誰でも知っているが、この上なく錯綜した、物資と労務の流通構造を維持する仕事に従事している人びとの手腕ということが、現在の人口の水準を保つ上で極めて重要な鍵となる。
過去二、三世紀の真に驚くべき成果を考えれば、予期しなかった飛躍的進歩が再び実現し、現在考え得る限界を超えて可能性の幅を広げるということが起こらないとは決して言えない。だが現在のところ、また近い未来にあっても人類は、地球という惑星がいまだかつて経験したことがない巨大な生態的な大変動のさなかにある。だから遠くない過去におけると同様にごく近い未来に予想されるものは、決して安定などではなく、ミクロ寄生とマクロ寄生の間に存在するバランスに生じる、一連の激しい変化と突発的な動揺に他ならない。
過去に何があったかだけでなく、未来に何があるのかを考えようとするときには常に感染症の果たす役割を無視することは決してできない。創意と知識と組織はいかに進歩しようとも、寄生する形の生物の侵入に対して、人類は極めて脆弱な存在であるという事実は、覆い隠せるものではない。人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的パラメータであり、決定要因でありつづけるであろう。
完
by inmylife-after60
| 2020-06-25 18:06
| コロナウイルス
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