シリーズ中国の歴史⑤『「中国」の形成』ノート
これまで、中国の古代から現代までの中国全史を読んだことがなかった。もちろん66年の文革以降の中国の動きに関心を持つ身として、さまざまな歴史小説や辛亥革命以降から現代史に関する本は読んでいたが、この30年前後の著しい経済発展と最近のその存在感の拡大に直面し、しっかりと再び学習することが必要だと感じて、読むことにした。
ここには、これまでの自分の描いていた中国のイメージとは異なる実相が描かれているが、中国がユーラシア東部史という視界から描かれており、上記のシリーズのコンセプトにあるように、編年体ではなく、中国の東西南北の境界との関係性を基軸に展開するテーマ史として記述されているのが特徴である。
とりわけ、注目すべきことは、中国は、どのような対外関係を持つことによって、発展してきたのか、とりわけ中国と夷狄との関係のあり方に関する交流交易史に注目すべきこと、また中国では、漢民族が支配する王朝は少数派であり、むしろ異民族が支配する時代が多数派であり、今日に至る民国政府以降の中国は、漢と明以来の漢民族の政権であること、中国社会は易姓革命で政権が変化するが、基本的に官僚機構が実権を握り、地域社会の支配勢力と結びついて、支配する多元的な統治方法をとってきたことなどである。
今日の中国に関する話題の多くは、経済的な発展とともに周辺国家との軋轢と紛争、少数民族の同化など、中華民族の復興をスローガンにした民族同化への志向が強烈である。新疆、チベット、モンゴルなどは、明末から清朝の版図拡大と崩潰のプロセスを見ることなくして語れない。さらに現在の中国を見る視点として、19世紀から20世紀の清末から辛亥革命を経て、戦後に至るプロセスも欠かせない。
現代中国を外形的に見れば、それは辛亥革命によって打倒された清朝のおおよその版図に等しい。現在の中国の主権領域は、清朝によって形成された「藩部」を含むエリアで構成されている。まず、清朝の成立とその後の支配形成プロセスを見ながら、共産党政権が生まれる経緯を辿るために、現代に直結する『第5巻「中国」の形成』からノートを作成した。
このノートのフィナーレは、やはり習近平の今日の「中国夢」が「夢」でしかないとする論説である。
最後から読むのも良いかもしれない。
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【旧王朝(明朝)との関係】
明王朝の「朝貢一元体制」は、自らの「中核」以外の「外夷」を一律に非「中華」として見なす秩序体系を作り、内と外を隔離し、「朝貢」しか対外関係の存在を認めなかった。
明王朝は「外夷」を「北虜南倭」と呼んだが、16世記の北虜を継承する勢力は、東から満洲・モンゴル・チベット・新疆ウイグルであり、清朝はこれを「藩部」と呼んだ。
「南倭」を継承する中国沿岸の海洋勢力は、倭寇も日本の鎖国で衰退し、廈門・台湾も清王朝に併合された。清時代に入り、華人の海洋進出が進み、南シナ海を経由して来航する諸外国との貿易関係に発展した。これが「互市」(ごし)である。
15世記以来、周辺に位置する諸国(朝鮮、琉球、ベトナム)は、明朝の勢威に服する姿勢をとり、朝貢・冊封の関係をとり結び、その後の関係はおおむね清朝に継承され、これを当時のことばで「属国」と称した。
【清朝形成の概略】
清朝は、1616年ヌルハチがマンジュで即位し、ホンタイジが36年大清国を建国し、37年朝鮮を属国(清朝への服従と明朝年号使用)とし、チャハルなどの内蒙古を吸収し、44年入関し、華北を支配、62年明の残党政権「南明」を倒し、68年海禁を解除し、沿岸部と台湾を占領し、97年ガンダルを攻略し外蒙古を領有し、1720年チベットを帰服させ、1755年ジュンガルを滅ぼし新疆を支配し、日本と西洋などを「互市」とし、沿岸部・台湾、江南、華北を「直省」とし、内蒙古、外蒙古、チベット、新疆を「藩部」とする大清帝国を形成した。
【ヌルハチと遼東】
しばしば漢語で「塞外」という。漢人から見れば、万里の長城の外の北方だからであり、その「塞外」は遼河をだいたいの境として、西は草原、東は森林だった。この東の森林に暮らしていたのがジュシェン(女真/女直)人であり、かつて12世紀に金王朝を建てた末裔でもある。
世界規模の商業ブームは、その特産物の人参や真珠、貂皮に対する需要を押上げ、日本列島から朝鮮半島に流れ込んだ大量の金銀は、絹製品や綿製品など、中国物産の買い付けに当てられ、その一部は銀の対価として日本へ運ばれる。
こうして、遼東でもかつて沿岸で猖獗した倭寇と同じように交易が活発化し、武装商業集団の活動が顕著になった。漢人がつとに入植した半島を含む遼東南部は、明朝の支配下にあり、柵・塁でできた「辺牆」で区切られた境界は、ジュシェンの住地に楔のように突き出し、商業に依存する軍閥がその内外であいついて興った。その最後最大の成功者がヌルハチである。
【入関】
山海関を突破できずに亡くなったホンタイジの後継者となった数え7歳の順治帝(1643年~1661年)の摂政王として実権を握ったのが、ホンタイジの弟:ドルゴンである。
ドルゴンが1644年、明朝へ出兵したその頃、明朝の内乱下における最も大きな勢力を有した李自成は、地元の陝西省の西安を占拠し、新たな王朝の樹立を目指し、北京に進軍し、北京が陥落した。
明朝が「流賊(李自成ら反乱軍)」を阻止できなかったのは、清朝に対する防衛に力を注いでいたからである。その前線に立っていたのが、呉三桂であり、彼は、遼東の出身で、寧遠で明軍を指揮していた。明朝政府は、「流賊」が北京に迫ると、その呉三桂を首都に戻したが、間に合わなかったのである。
呉三桂のもとに北京陥落の報が届いたのは、途上の長城南方の灤州(らんしゅう)である。長城東端の要衝、山海関には、ドルゴン率いる清軍が迫っていた。呉三桂は、前方には北京の流賊、背後には清軍に挟撃される形勢となり、敵国の清朝に援助を求めた。呉三桂には帰順を強いる清朝の前に、拒む選択肢はなかった。明清交代の瞬間(1644年)である。
【南明の滅亡】
ドルゴンは南京に陪都し再興を図る明朝福王(万歴帝の孫)に対して以下のように批判した。
「わが朝が北京に君臨したのも、流賊から取り戻したものであって、明朝から簒奪したものではない。流賊は明朝の仇敵であっても、我が朝の罪人ではない。にもかかわらず、われわれは明朝の恥を雪いで大義を明らかにしたのである。いま南方に天子をたてるというのなら、あえて天に二日あらしめるに等しい。」
南明は1662年滅亡し、元号は康熙元年。1644年の「入関」から清朝を率いた摂政王ドルゴンは、執政6年、39歳で没し、親政を始めた順治帝もその後およそ10年、24歳で崩御した。後を継いだ康熙帝(在位1661年~1722年)はまだ9歳の幼齢、リーダーの相次ぐ早世で、清朝の前途はまだまだ険しい。
【三藩】
かくして南明が亡び、平時に復しても、「三藩(雲南の呉三桂・広東の尚可喜・福建の耿継茂)」はなお藩主として華南に居座った。大軍を擁し、管内の人事も北京の容喙(ようかい)を許さない。なかんずく当代随一の兵力と戦歴をもつ雲南の呉三桂の存在は、清朝にとって殆ど、割拠・敵国同然であった。
局面が動いたのは、1673年広東の尚可喜が老齢のため引退を申し入れた時である。これを受けた康熙帝は、平南王府そのものの撤廃を命じた。狙いは、「三藩」最大の勢力を誇り、擅恣(せんし)をきわめる呉三桂だった。広東・福建の両藩も呉三桂に与し、いわゆる「三藩の乱」となる。
1681年、呉三桂の後を継いだ呉世璠が自害し、8年にわたる大乱は収束した。それは「流賊」「南明」「三藩」と形を変えながら存続してきた明末以来の割拠勢力の消滅を意味する。清朝のもとで中国本土の政権はようやく一元化したのである。
【鄭成功】
清朝に敵対を続けた勢力のもう一方の中心は、海上にある。それを代表したのが、鄭芝龍と鄭成功父子の勢力である。
鄭芝龍は福建人。日本との取引に従事した貿易商人で千にも上る武装船団を擁していた。やがて拠点を日本の平戸から福建に移し、かねて台湾に入植していたオランダ東インド会社との貿易で富を築いた。その彼が平戸藩士の娘との間にもうけたのが、鄭成功である。
東シナ海の制海権を握り、海上から大陸を攻撃し、江南を奪回するのが、鄭成功の基本戦略であり、1659年には、浙江沿岸から北上、南京まで迫る勢いを見せ、清朝を狼狽させた。しかし結局、戦線を維持できず、長江から撤退を余儀なくされた。
たいせいを立て直すために1661年台湾で勢力を広げていたオランダ人を駆逐し、本拠地とした。鄭成功は、翌年39歳の若さで世を去ったものの、以降二代20年間にわたり、滅亡した南明の元号「永暦」を使用し、清朝を悩ませた。
【互市】
互市とは交易、取引をややいかめしく言った漢語である。明代ではあらゆる対外関係は、周辺国の朝貢を通じてしかあり得ないという「朝貢一元体制」であった。そうでない「互市」はとりもなおさず密輸・不法にほかならない。かつての「倭寇」がその典型である。それが鄭氏政権の降服とともにいわばようやく合法化されたと言える。
既存の民間貿易に、権力がむやみに介入、干渉し、取引を力づくで規制してはかえって反抗を招き、治安が悪化する。清朝は、自らが遼東の武装商業集団だっただけに、その機微はおそらく理屈抜きに感覚でわかっていた。交易の要衝に税関を設け、取引の上前を取って財政収入とするほか、最低限の秩序を保てるように規制を定めて、遵守を求めた。
【ジュンガル(新疆)】
清朝は、モンゴル帝国の正統・正当な後継者と言えるかどうかはともかく、満洲人とモンゴル人が一体となってできた政権であることはまちがいがない。1680年代の段階で清朝と一体化したのは、今の地理的な範囲で言えば、内モンゴルである。当時のモンゴル部族では、西方を「オイラト」といい、東方を「ハルハ」と呼ばれたいた。
当時のモンゴル人の精神的な支柱はチベット仏教であった。モンゴル帝国のクビライからはじまるその信仰も、17世紀半ばにオイラトがチベットを制覇したことで、ダライマラ五世が教主の位に即き、現在に続く「ゲルク派」の優位が確立した。オイラトの権勢はハルハを凌ぐようになった。
そのような中で、登場したのがオイラト東部のジュンガル部族の「ガンダル」である。彼は、ダライマラ5世から「天命を受けた王」の称号が授けられ、草原の覇業に着手する。ガンダルがまず征服したのが、西方の東トルキスタン、天山山脈の南北にオアシス都市が点在するトルコ系ムスリムの住地である。イリ渓谷が以後のジュンガルの本拠となった。
オイラトとハルハの関係は、ハルハがダライマラの権威を詐称したことに激怒したガンダルによって、修復不能な関係に陥り、ガンダルは1688年にハルハを攻撃、制圧し、東はモンゴル高原から、西はトルキスタンに及ぶ一大帝国を打ち立てた。康熙帝は、ハルハ難民を受入、1691年ハルハの新たな盟主となり、1696年ガンダル打倒の親征を行い、現在のアルタイ山脈以東の今のモンゴルのほぼ全域が清朝の版図となった。
【チベット仏教との関係】
康熙帝は、ガンダルとの戦いを通じて、モンゴル人の精神的なよりどころになっていたチベット仏教が重要なことを痛感した。モンゴルに君臨するなら、その信仰は同じゲルグ派のチベット仏教でなくてはならない。ここでもジュンガルとの対決は不可避となった。
ジュンガルは1717年チベットに侵攻し、清朝の支持するダライマラ6世を廃した。康熙帝はこれに対抗し。新たにダライマラ7世を擁して、チベット遠征を敢行し、1720年ジュンガルの勢力を駆逐し、チベットを清朝の保護下においた。
清朝は以後、ダライマラ護衛のために、ラサに軍隊と大臣を駐在させたが、ダライマラの政教一体の統治には、ほとんどくちばしを挟むことはなかった。こうして、満洲人、モンゴル人、チベット人は、チベット仏教という共通の紐帯でむずばれ、それぞれ異なる統治のもとにありながらも、同一の清朝皇帝をチベット仏教の大施主として受け入れた。
【清朝の統治構造】
清朝は、リアリズムに徹し、現状をあるがままに認め、不都合のない限り、そこになるべく統制も干渉も加えようとはしなかった。チベットには、ダライマラの政教一致の統治に委ね、ハルハモンゴルには、盟旗制という部族編成をしき、大臣(アンバン)の監視のもとで、従前の基底社会に介入することはなかった。また本土の漢人の基底社会に対しても前代の明朝の皇帝制度・行政機構をほぼそのまま踏襲した。
【康熙帝の評価】
康熙の61年間の治世は、単に清朝の黄金時代であっただけでなく、実に、中国の更に広くアジアの絶対君主制の最も盛大で光栄の時代であった。以上は往年の碩学・植村清二の評価は、ほぼ手放しの称賛と言ってよい。植村が評価したのは、諸葛亮の「鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)をこよなく愛した帝のひたむきな政務の奨励、献身的な生涯であった。
廃太子という廃嫡騒動を「白碧の微瑕(はくへきのびか)」として軽んじなかったのは、碩学の宮崎市定である。明君といわれた康熙帝も家庭人として寧ろ失格者だった。辛い採点である。そもそも、『大学』にも「天子は、四海を以て家と為す」とされ、「天下」の統治は「家庭」から広がるというのが、当時の常識であった。
いかに偽善であろうと、漢人の輿論の支持を得ること、そして「懐に飛び込んで、相手をなだめる」ことが、清朝の支配にまず必要であった。漢人・中華王朝のやり方を踏襲し、明君・善政がなくては、君臨そのものが危うくなる。康熙帝は、その中で、倦まず弛まず何十年もの間、迎合につとめ、明君の評価を勝ち得た。その君臨は、成功だったというべきだろう。しかし、君臨の成功と統治の成功とは、必ずしも同義ではない。
【雍正帝の刷新】
1722年康熙帝の崩御に伴い、後継者となったのが、その第四子、45歳の雍正帝である。即位後直ちに継承を争った姻戚関係にある大官らを処罰し、フリーハンドをえた雍正帝は、1735年までのおよそ13年間の治積は、税制・行政・人事・官制など、漢人の統治の対して断行した多くの改革は、父と子をはるかに上回って重要だという評価は衆目の一致するところである。
俸給の乏しい官僚の不法な付加税や公金流用に歯止めをかけ、収入不足を埋め合わせる職務手当を支給した「養廉銀」。地方官の任用に実地の研修期間を加えて、政務に習熟させた人事制度。中央政府の意思決定を敏活ならした軍機処の設立。皇位継承に以前のような混乱の生じないように配慮した太子密儀の法など、清朝独自の制度を創出したのが雍正帝であった。
【奏慴政治】
雍正帝は、康熙帝までの「因俗而治」(その土地の習俗・習慣に即して統治する)を排して、大多数の慣例・通念に挑戦した。その道具立てが「奏慴(そうしゅう)政治」である。「奏慴」とは、個々の官僚、地方大官が皇帝に直接送る私信、いわば親展状のことである。
雍正帝は、それに直接コメントを朱筆で書き込み返送した。この書き込みを「硃批(しゅひ)」というが、そのやりとりを通じて、官僚たちに所轄地の詳しい情報を上げさせ、それぞれ個別直接に臨機応変の指示・訓戒を与えた。
雍正帝は抵抗を受けそうな改革を、まず水面下で発案・試行・検討させてから、正式ルートにのせて実施した。画一的な固定的な形式的な手続きに流されず、それぞれの現実の事情に即応した改革が可能となったのも、奏慴政治という裏面・非公式のルートを設定してからこそである。
【報われぬ献身】
雍正帝は、地方実地の事情に暗く、かつ自らの権力行使が掣肘しかねない既存の諸官庁を経由せずに、直接に総督・巡撫の適否を見極めて、直属の代理人とする「在地主義」に徹した。しかし、「因俗而治」のままで、裏面の奏慴政治で「衰世」に抗う実務をすすめるしかなかった。これはおびただしい手間と労力を伴うものであり、その負担は、帝本人の生活と身体にのしかかった。
朝は4時に起床、6時には百官が出勤して、公開の政務が午後まで続いた。8時の就寝時間以降の夜の時間を、奏慴のやりとりにあて、深夜に及ぶこともあった。そうした献身的な治世の末に、1735年58歳で崩御した。しかしその改革事業は、後世から見れば、殆ど烏有に帰した。
帝の善意と努力からすれば、悲劇的な経過だと言っていい。宮崎定一がいう通り、「報いられることが案外少なかったばかりではなく、予期に反した逆効果さえ生んだ」という。雍正帝とその時代の重要性は否定すべくもない。しかし帝がめざし、一定の成果をあげた事業がその意味を失い、かつての「衰世」のあり様に戻っていくのが、以後170年の歴史課程だった。
【康熙乾隆】
乾隆帝は、祖父の康熙帝を過剰に意識していた。60年という在位年数・江南巡幸の繰り返しという祖父になぞった行動様式を見れば、それは明らかである。父に対する無関心・沈黙ぶりとはおよそ対照的だった。そこに「康熙乾隆」という時代概念の出てくる所以がある。
こうした命名はそもそも厳粛な雍正時代を忌み嫌った漢人エリートのものだろう。それは明らかに、主観的な意思が働いているフレーズであり、乾隆による康熙への回帰・祖述の意味合いが強く、さらに言えば、優越も含んでいた。
【康熙デフレから乾隆インフレへ】
乾隆帝といえば、贅沢の権化である。現在の故宮博物館の名だたる美術工藝の逸品は、そのコレクションであり、離宮の建設や度重なるお大尽の行幸など、浪費のエピソードも枚挙に暇がない。
一口に「康熙乾隆」と言っても、西暦では、およそ二世紀に跨がる。大凡、康熙は17世紀後半、「乾隆」は18世記後半の時期にあたり、それぞれの様相をあえて表現するなら、前者は、戦乱・不況、後者は、平和・好況の時代だった。帝王のパーソナリティよろしく、両時代はまったく対蹠的世相だった。
戦乱・デフレと貿易制限のすすんでいた康熙時代が景況へと転換したのは、海上の脅威であった鄭成功政権を降して、1684年海禁が解除され、大陸からの渡航も、海外からの来航もできる「互市」が整備される1680年代からである。
それまでは、廈門・台湾に拠った鄭成功の海上勢力に対抗して、海禁・遍界令が実施され、貿易は制限され、しかも当時世界随一の金銀産出国であり、中国の主要な貿易相手であった日本の鎖国以降、17世紀後半から日本との貿易は減少していたからある。
【乾嘉の学】
流行した文化・学問もそんな世相にふさわしい考証学だった。「事実求是」のスローガンのもと、一世を風靡した。19世紀の初めまで、その盛期が続いていたため、乾隆と次代の嘉慶の年号と合わせて、しばしば「乾嘉の学」とも称す。
考証学とは、古典を正しく読むために、その書かれた時代になるべく近い資料を網羅的に集めて対照し、文字の誤りなどを証明、訂正してゆく、すこぶる科学的な学問であった。いわゆる近い時代とは漢王朝のものであり、その文献の研究が主となっていたので、考証学を「漢学」と通称する。
清代最大の文化事業といえば、、18世紀後半・乾隆時代の「四書全書」編纂だった。そんな考証学が盛んだったのは、18世紀は、それを可能とする社会じょうたい、つまり大変な好景気だったからである。必ずしも裕福でなかった学者たちも、政府・商人から援助を受けて考証学に打ち込むことができた。司書全書の解題の「総目提要」はじめ、当時の夥しい著述は、現代でも役立つ学問的な成果が少なくない。
【文字の獄】
こうした考証学は、すでに明代からはじめり、明末にはほぼ形成されていた。当初は、むしろ古典の研究を通じて、現実政治に役立てる「経世済民」を目指すものであった。現在の外敵である「清朝」をターゲットとする攘夷思想も横溢(おういつ)する。17世紀の碩学・黄宗義も顧演武もその典型だった。しかし、そうした外夷・清朝などを排斥する思想は、清朝支配下に入ると、急速に希薄化する。
なぜそうなったのか。清朝による思想統制、言論弾圧によるというの通説である。「文字の獄」が代表的で、言論統制による筆禍事件である。「夷」という文字すら、書くのが憚れ、違反者は、極刑をもって脅かされた。
漢人知識人が萎縮したのは間違いない。しかし、その弾圧に追随し、他人を批判し、告発をくり返したのも、知識人であった。「異民族」支配による圧殺と見るのは、民国時代以降の民族主義・中国ナショナリズムによる評価であろう。
考証学が盛んだった清朝時代、誰もが考証学しかやらず、他の学問学派を軽蔑する風潮が蔓延した。それも、体制順応で、権力に迎合し、視野狭窄で、異端に非寛容な漢人知識人の性向がしからしめたものに他ならない。
「四書全書」編纂は考証学に従事する学者に糊口の資を与えると同時に、「攘夷」思想を含んで清朝統治を阻碍する有害な図書を捜査、観閲、摘発する狙いもあり、いわば飴と鞭の事業、つまり「文字の獄」に他ならない。
【乾隆の盛世】
俗に言われる「乾隆の盛世」を生み出した原動力は、明朝時代の「北虜南倭」の経済統制の失敗を受け継いだ康熙時代の商業不振から脱し、17世紀後半の解禁による対外貿易の開放にあった。日本との貿易が18世紀も減退したが、東南アジアとインドとの貿易(茶・磁器と香辛料・木材・米穀・綿花)が堅調に推移した。しかし最大の要因は、西洋との貿易が加わったことにある。
18世紀後半に入ると、西洋からの商人がおびただしく中国にやって、その商品は、生糸・磁器、とりわけ注目すべきは、茶であった。欧米ではイギリスを中心に、喫茶の習慣が定着し、常習性も手伝って、中国にしか生産できない中国茶の輸入は右肩上がりで伸長した。
ところがアメリカの独立戦争の終結と100%以上の高関税を回避する密輸の横行で、イギリスの茶の買い付けが円滑に行かなくなり、1784年、イギリス政府は、茶の関税を10分の1に引き下げたことによって、西洋諸国の大量の茶の買い付けと消費需要が高まり、大量の銀が中国に流入した。これが好況の要因に他ならない。
ちょうど、康熙デフレとは逆の因果関係にあった。17世記前半までは日中貿易が銀の供給地であり、18世紀後半以降は、イギリス・西欧貿易が日本に取って代わった。つまり、銀の流入いかんが景気を左右する経済の体質だったということになる。ここに由来する事象を抜きに明清時代の歴史を考えることはおよそ不可能である。
【清代の市場構造】
当時の産業構造は、東北東三省の大豆生産、江南の生産財・消費財生産、湖広(湖北と湖南)の米穀生産、広州地方の茶・生糸生産などの地方間で分業しており、内需に乏しく、自給率が高く、地域間の取引に必要な銀の供給が止まると、不況に陥る構造であった。景気浮揚につながる商品需要はほぼ外需つまり海外との貿易であった。
生産・流通の拡大には、需要と銀が必要であったが、大陸では、明代からすでに銀鉱脈が枯渇し、貨幣となる貴金属はほぼ、海外からの輸入に頼らざるを得なかった。そうした条件が、明清時代の外国貿易の動機になっており、明代に「倭寇」を引き起こし、清代に「互市」制度をもたらす所以である。
清代の幣制は、銀と銅銭で成り立つ「銀銭二貨制」であり、地域市場内では銅銭を用い、地域市場間では銀を用い、銀1両=銅銭1000文とされていた。しかし実際は、銅銭の価値は、地域市場単位で異なり、銀の需要も変動するため、銀と銅銭のレートも変動した。銀は、いわば変動為替の外貨に相当した。
銀は、地金のまま流通した。スペイン、メキシコなど海外諸国の鋳造銀貨もあったが、価値は、形状とは無関係であり、純度と重量に決まった。銀は、中国全域の長距離交易と納税に用いられ、海外の貿易決済に使われたのである。
【盛世か衰世か】
ともかく、18世紀、海外からの銀の流入で好況の続いた乾隆の時代は安んじて贅沢に耽ることもできたし、知識人エリートたちも思う存分、考証学に打ち込み、社交を楽しんだ。安逸を満喫してうる平和と繁栄の時代だったことは間違いない。
「盛世」を定義した顧炎武のセリフを想起してみたい。「盛世には、小官が多く、衰世は大官が多い」と言った彼は、同時時代の明末清初を「衰世」と断じた。それから百年余り経つ「乾隆の盛世」は、果たして、「盛世」だったのであろうか?結論を先に言えば、さして変わらないか、いっそう悪化したかもしれない。というのも、この時期爆発的に人口が増加したからである。
【人口爆発】
騒乱と不況の17世紀、1億以下に落ち込んだ人口は、18世紀に入り底を打って増加した。未曾有のインフレ好況に伴い、人口(漢人の概数)は、18世紀半ばに3億に達し、19世紀に入ると4億を突破した。当時としては爆発的な増加である。
原因は掴みにくいが、経過と結果は見易いところがある。つまり膨大な銀の流入・貨幣の供給による需給の喚起と交易の促進、それに刺激された物価の高騰上昇と生産の拡大と人口の激増が並行し、両者が相関関係にあることだけは間違いない。
当時の漢人洪亮吉は「農民は以前の10倍に増えたが、田地は増えていないし、商人も10倍に増えたが、貨物が増えた訳ではない。これでは年中つとめても生涯余裕がなく、品行が正しくとも野垂れ死し、悪ければ略奪に走りかねない」と指摘した。
洪亮吉は、のちに時世批判を直言したために、時の嘉慶帝の逆鱗にふれ、流罪に処せられたが、その危惧は不幸にも的中する。
【移民】
「増えていない」既存の田地で「増えた」人々を養うには限界がある。当時傾斜地でも栽培できるタバコ・とうもろこし・サツマイモが新大陸から伝わり、土地から溢れた人々は、江西・湖北・湖南・広西・貴州・雲南の山地に向かった。
移り住んだ先は、山岳地帯ばかりではなく、海を超えて台湾、海外に渡り、或いはモンゴル草原や東三省にも移住の波が及んだ。特に東三省は注目に値する。この動向は、清朝の入関以降、漢人の入植が開始された17世紀の後半から始まったが、1740年には「封禁」という移住禁止令が発せらた。
東三省は清朝の勃興の故地であるから、目に余ったのかもしれない。しかし移民の波はもはや止めることはできず、禁令は有名無実と化し、森林地帯であった満洲人の故郷は、漢人の一面の農地に変貌した。
ヌルハチが勃興した頃の人参・貂皮から、特産品は、この辺りが原産地だった大豆となった。食用としての大豆とともにそこから搾取する油、また搾油後に豆粕が良い肥料となったことから、有望な作付品種としてたちまち普及した。
【貧困化】
人口爆発に伴う貧富の格差は、16世紀以降顕在化し、この時期に定着した。都市部では、19世紀の初めの広州で「十数元」で金融資本家になれるようなごく少額の貸し借りが頻繁であった。19世紀末の揚州では、慈善家が資金を出し合い、「借銭局」を設け、貧民向けに銅銭800文から5000文まで無利子で、2400戸、総額400万文を貸し付けた。
このような零細な融資の需要に応えるために「典当業」が発展した。これは一種の質屋である。抵当に乏しく融資の需要が高ければ、必然的に金利は上昇し、それだでも紛争が起こりやすい。その背後にあったのは、夥しい貧民の存在だった。当時の西欧人の記録に中国の高利に言及しないものがなかったのもこのような社会事情に由来した。
都市部ばかりではなく、農村の貧困はもっと深刻である。狭小な耕地を小作する農民なら、商品作物ばかり作っているわけにはいかない。産物が売れなければ、すぐに財産を失って、生活ができず、生存のために自給自足の生産がどうしても欠かせない。地域市場内部の自給率が高く、内需が小さかったのは、このためである。
【西洋と東洋の分岐】
貧民だけに止まらない。富める者は好況のおかげで、ますます富裕になった。その典型として範を垂れたのが時の天子・乾隆帝である。「乾隆の盛世」では、彼を筆頭に奢侈の風潮が都市の富裕層で蔓延し、絢爛たる消費文化が展開した。
奢侈と消費が盛んなのに投資ができないのは、貸借リスクが大きく、資金の回収が難しいからである。大きな事業資本を揃えるには、いかに富裕でも、自己資金だけでは足らない。なるべく多くの人から、遊休資産を集めることが、捷径(しょうけい:近道)である。
その場合、なりより重要なのは、信用であり、見知らぬ人に資金を提供しても、確実に返済してもらえる保証、リスク回避の仕組みが欠かせない。それには、ヒックスのいう公権力・国家による「規則」つまり権力による広域的、統一的な金融の管理、市場の規則、背任への制裁を可能うとする仕組みを構築しなければならない。
イギリスを嚆矢(こうし:始まり)とする株式会社や銀行・公債がその典型であり、この仕組みは、共通に適用される法律体系を持ち、政治・経済・社会を一体的にコントロールする制度の構築を根幹とする。この制度設計と運用に権力が介入できたかどうかが西洋と東洋の分岐となった。
【中間団体】
明代の初めは、民間社会を統治していたが、大航海時代以降、民間社会と向き合う官僚が減少した。一言で言えば、官民の乖離に他ならない。明末になると、各省で総督・巡撫という「大官」が設置され、県以下の末端に、地域に影響力を持つ「郷紳」たちが台頭した。官民が完全に分離しなかったのは、両者の間をかろうじて「郷紳」がつないでいた。
民間に関わる政務といえば、それは主に税金の徴収と犯罪の処罰である。それぞれ「銭穀」「刑名」と言う。しかし実務は、地域のごく少数の顔役である「郷紳」「紳董(しんとう)」に請け負わせていた。いわゆる「包」「包攬(ほうらん)」である。通貨の設定など本来行政の行う業務も、民間の緩やかな組織によって実施された。ここでは、「中間団体」とよぶ。
この中間団体は、結合の契機によって、様々な形態があった。「宗族」という血縁集団もあれば、地縁でまとまる同郷団体も、また同業団体(ギルド)も少なくない。漢語では、「会」「帮」といい、仲間の集まりという意味である。同郷なら、「寧波帮」のように地名を冠し、「救貧」など慈善事業であれば、「善会」と称した。
ところが、18世紀の後半になると、人口と移民の増加に伴い、中間団体が増殖し、移民が、不満を募らせ、反体制に傾くのは、理の当然である。新開地には当局に反撥して、「淫祠・邪教」を奉ずる秘密結社・宗教団体が夥しく生まれた。明代に定着した官民の乖離と相剋が一層拡大したのが、清朝の時代であった。
【新疆命名】
乾隆帝が即位したさい、なお、清朝の存立は、岩盤ではなかった。最大の敵対者が、厳存していたからである。後期時代からモンゴル・チベットを争覇してきたジュンガルは健在で、その存在が、安全保証上、依然として最大の課題だった。
1745年ジュンガルの英王が没すと、統率を失ったジュンガル部族は、分裂し、内紛状態となった。実権を握った部族長が1754年に当主との関係が悪化し、清朝に投降してきた。これを機に乾隆帝は、5万の軍を動員し、投降者の手引きを受けて、ジュンガルの本拠イリ渓谷に侵攻し、わずか100日で当主を捕縛した。
清軍は、1758年天山南路のムスリムが服従しないのをみて、大挙侵攻し、翌年に東トルキスタン全域を制圧し、天山北路を合わせた地域を「新疆」と命名した。「新しい境地」という意味である。
【皇清の中夏】
「新疆」の成立は、清朝にとって百年来の宿敵の消滅であった。三百年続いた清朝の歴史の分水嶺である。乾隆帝の矜持を端的に示した言辞が著名な「皇清の中夏」である。「中夏」はすなわち「中華」と全く同じと考えて良い。つまり漢・唐・宋・明の「中華」とは異なる、モンゴル・チベット・ジュンガルをも併せた清朝独自の「中華」という誇示であった。
満州人・清朝は、もともと「中華」の漢人・明朝に非ざる「外夷」であった。それを虚心に自覚し、遊牧世界だけでなく、漢語世界にも、海洋世界に対応できる複眼をもって、「チベット仏教」、或いは、「朝貢」と「互市」という複数の秩序を打ち立て、バランスよく併存させ得た。
しかし、乾隆時代を通じて、明代さながらの「華」と「夷」二分法に回帰してしまった。その典型が、貿易の拡大と国交の樹立を求めるマカートニー大使に手交された1793年英国国王ジョージ3世宛の乾隆帝の勅令である。曰く「天朝は、物産が豊かで満ち溢れており、外夷の物品に頼る必要などさらさらない。」
乾隆帝は、「盛世」の空前の好況が、イギリス・欧米による中国産品(生糸・茶・陶磁器など)の買い付けとこれに伴う未曾有の量に登る銀流入によるものであり、その量的な拡大は、何よりも産業革命によるものであることを意に介することはなかった。
【十全武功】
乾隆帝の「中夏=中華」を自認する清朝は、自足と自信が顕著であった。それは、裏返せば、危機感の鈍麻・危機感の喪失であり、弛緩・緩みに等しい。ひいては、実態から乖離した傲慢と虚飾を招く。ほかならぬ乾隆帝の典型的な行動・事績に典型としてあげられるのが、「十全老人」の自称であり、「十全武功」の誇示であった。
「十全」とは完全無欠の意であり、「武功」とは60年に及ぶ治世で10回の遠征すべてに勝利したという偉業の誇示であった。ジュンガルの3回と四川の大金川・小金川の2回を合わせて5回。ビルマ遠征、台湾反乱の鎮圧、ベトナム内乱の鎮圧、ネパールとチベット紛争介入の5回を合わせた10回の武功である。
「盛世」の名君として、世評の高い「十全老人」乾隆帝の治世は、虚栄に満ちた時代であり、18世紀後半の東アジアの紛れもない一面である。明敏な乾隆帝は、発言の隅々に、それなりの憂慮が垣間見ることができるが、具体的な対策がなかった。清朝は危機感と緊張感を欠いたまま、19世紀を迎えることになった。
【予感】
マカートニー大使とその使節団は使命を果たすことができなかったが、手ぶらで帰国したわけではなかった。彼らの滞在中に繁栄を極めた清朝をつぶさに観察した報告書は、英語圏の中国研究の創始となり、傾聴すべき所見も少なくない。
彼は「自分が生きている間に清朝の瓦解が起こっても驚かない」との観測は、彼の没した1806年までに瓦解することはなかったが、「些細な衝突で散った花火から、中国の端から端まで、反乱の焔が燃え広がるかもしれない。」との観測は正鵠を射ている。19世紀の歴史をたどれば、稀有の洞察だと言って良い。
マカートニー大使は、政権に抗する暴動などの社会不安・治安悪化の情勢を正確に指摘し、秘密結社とともに当局の統制できない中間団体の健在を看破していた。マカートニー大使が帰国してわずか2年後の1796年、白蓮教徒の乱が起こったのである。
【白蓮教徒の乱】
移住者が多かったのは、湖北・湖南・江西・四川などの山岳地帯である。住民の少ない未開地の入植した移住者の間で広まったのが、白蓮教信仰であり、彼らは、秘密結社を結成した。とりわけ四川・湖北・陜西三省が交わる地域の活動が活発だったのは、権力が浸透しにくかったからである。
邪教とみなされ追い詰められた信者は、1796年組織的に武装して当局に反抗する蜂起に至った。しかし組織だった反乱ではない。しかし、清朝は平定に10年前後の歳月を要した。それは、清朝の常備軍:八旗・緑営が役に立たなかったからである。
ヌルハチは、狩猟組織をベースに、満州人の属する八つの地域から「八旗」と名づけ、入関以前に服従したモンゴル人と漢人も、編入され、満州人と並んで、「旗人」と呼ばれていた。八旗は、政権中枢の軍事力を担い、首都及び少数の要地に駐屯していた。
緑営は、清朝が北京に入って以後、明朝漢人の旧軍を再編したものである。八旗を凌駕する人数を擁し、漢人居住区に少数づつ、多くの地点に散在し、警察機能を担った。当時の漢人社会では、八旗・緑営と「秘密結社」以外に武装勢力はいなかった。
【団練】
1804年に反乱終結の報告があるまで、清朝は、数千万元の財政支出を余儀なくされ、北京の財政貯蓄が底払いしたという。それでも、緑営と八旗だけでは、反乱軍を平定できなった。その中で、大きな役割を果たしたのが、「団練」である。
官兵で、反乱軍を鎮圧できないとなれば、自分たちの土地は、自ら守るしかない。そこで現地の住民に一種の自警団・義勇兵を結成させ、反乱軍に対抗できるようにした、これを「団練」といい、また郷里の義勇兵という意味で、「郷勇」と呼ばれた。
現実に反乱軍と交戦したのも、「団練」であって、いわば、民間の武装勢力どうしが殺戮し合う構図である。こうして、以後の漢人社会は、全般的に武装するのが常態化し、治安維持のための方策自体が治安の悪化をもたす結果となった。
【嘉慶帝・道光帝】
乾隆帝の後を継いだのは、1796年に即位した息子の嘉慶帝である。即位してまもなく白蓮教徒の反乱が起こり、もはや、虚栄と糊塗を許されない時代に入った。嘉慶帝に始まる19世紀の前半は、前世紀とうって変わり、国内政治・対外関係の両面で多事な半世紀になった。この時局に遭遇したのが、嘉慶帝とその後を受け継いだ道光帝である。
清朝は、その政権体質として、善政を布かなくてはならない宿命を負っていた。嘉慶・道光の父子二帝も、父祖三代の例に漏れず、聡明且つ良心的に善政につとめた君主であり、江南の塩専売改革を担った陶澍(とうじゅ)、アヘン戦争で有名な林則徐を登用した。
急速なインフレにも関わらず、税収・俸給も定額のまま、殆ど据え置きの支給額だった。それでは、上は、中央の宰相から下は地方の下級官僚まで、贅沢をしなくとも生計を立てていけるはずもない。もはや、百年前の雍正帝時代の非違と汚職が急速に広がっていった。
【民間委託】
漢人社会は巨大化、多様化したのに対して、政府権力は相対的、絶対的に縮小し、無力化する。社会は権力の許容力をはるかに超えるスケールとなったのであり、漢人に対する清朝の皇帝独裁では、もはや対処することができなくなったことを意味した。
軍事を地元民間の中間団体に委託する手法としての団練は、その後の漢人統治の主流となり、陶澍(とうじゅ)の手がけた改革も、その手法の一つであった。非合法であった零細な民間業者に徴税を委託し、税収上の成果をあげた。この方式を「票法」という。
この中間団体への民間委託の行政改革は、その後の財政改革・政治改革の出発点となった。それは、内政ばかりでなく、外交関係も同様であった。その経過をアヘン戦争、アロー号戦争、太平天国の乱を巡る経緯を追いながら検証する。
【アヘン貿易】
産業革命に伴う資金需要が増え続ける英国では、茶の対価として大量の銀を持ち出す貿易への批判が高まった。そこで、植民地化を進めていたインドで生産したアヘンを中国に持ち込んだところ、売り上げが伸び、茶の支払いによる銀の流失を相殺できるようになった。いわゆる三角貿易の形成である。
中国から見ると、産業革命は進展するのに比例し、アヘンは入ってくる仕組みになる。麻薬のアヘンは当然、清朝でも、禁制品であり、輸入すれば、不法、密輸である。ところが、アヘンの輸入が急増し、アヘンの対価として、中国内の銀が流出し、地域市場の銀・銭の交換レートが激変し財政及び経済に混乱を招いた。
しかし、アヘン密輸は、清朝側で、密売に従事する秘密結社の存在なくして成立しない。白蓮教徒などと同様に、舶来の密売品という資金源があることで、遥かに強力だった。矮小化した政府当局の統制と取締が及ばず、急速な治安悪化と、アヘン中毒者が蔓延した。
【アヘン戦争】
道光帝も、座しできず、アヘン禁制を実行すべくとった方策が、広州に来航する英国商人からアヘンを没収し、毀却することだった。1939年林則徐を起用し、守備良く没収に成功した。しかし、生命財産の危機に晒された英国商人が、1940年本国政府を動かし、遠征軍を派遣させた。
アヘン戦争は、明らかにアヘンの密売と密売人を守る戦争であった。同時に中国国内でもアヘンの密売が根絶されることを恐れる秘密結社は、清朝政府当局に敵対し、外国勢力と内通する勢力でもあった。彼らは、官憲から「漢奸」と呼ばれ、外敵と結託するという語感である。
漢人社会は、政権・体制の埒外に逸脱して外国と通じる「漢奸」を絶えず、生み出す構造になっていた。アヘン密売は、外国との取引という外形を除けば、白蓮教徒や塩の密売と同様であり、このような民間社会にどう対処するかがその後の清朝政府の課題となった。
【アロー号戦争】
戦争は英国が勝利して、1842年にむずばれた南京条約は、新たな開港地を開き、領事裁判権・最恵国待遇と協定関税を取り決めた不平等条約であった。しかし清朝の対外姿勢と世界秩序に対する考え方は、旧態依然であり、通商制度などを改革することなく、貿易も伸びなかった。
業を煮やした英国は、1856年仏国と共同出兵し、広州を占領し北上、首都北京に近い天津に侵攻した。清朝は、北京に近い天津まで来ると狼狽し、和平交渉に応じ、英仏米露の要求を呑み、1858年天津条約を締結した。しかし清朝は姿勢を変えず、反故にしようと目論んだ。
そのため、批准交渉は、暗礁にのりあげ、軍事衝突が起こり、忽ち和平が破れた。英仏連合軍は、1860年、アロー号の臨検をきっかけに、天津から上陸し、北京を占領した。第二次アヘン戦争、その船舶名から、アロー号事件という。
【太平天国】
1850年秋、江西省の山間部、圭平県金田村で上帝会が蜂起した。上帝会とは、キリスト教をもとにした新興宗教であり、洪秀全を教祖する教団であった。洪秀全を初め教団構成員は、広東省の出身が多く、客家と呼ばれる言語・風俗・習慣の異なる南方からの新来移民だった。
1851年はじめに純粋な信仰に加えて、清朝を打倒し、1万人規模で集まり、自分たちの「天国」である「太平天国」を建てると宣言した。江西省の山間から、北上し、湖南から湖北に入り、長江に達する頃には、数十万規模の大勢力となった。1853年3月には南京を占領して天京と改称し首都としたが、この時には二百万人の規模になった。
1850年2月末道光帝が崩御、息子の咸豊帝が20歳で即位した清朝は、アロー号戦争とともにも、北京をめざす北伐軍、武漢をめざす西伐軍を派遣する太平天国の進軍も加わり、文字通り、内憂外患に陥った。
【多発する動乱】
太平天国に限らず、当時かつての白蓮教徒と変わらない武装結社が、漢人社会の至る処に存在していた。湖南省は、アヘン密売で成長した天地会、三合会など、秘密結社の活動が盛んなところだった。
太平天国は、その只中に飛び込んで、急成長をとげ、南京・鎮江・杭州など八旗の駐留する大都市を陥れる大勢力となった。華南、華中の不逞分子、反権力的な勢力を糾合した存在が大平天国だった。
同じ頃、淮河水域に起こった捻軍、陜西・甘粛の一帯、雲南で相次いだ回民の反乱などに共通する要因・構造は、18世紀以来の漢人社会の人口急増と流動化にあり、そこから生じた武装結社の増殖で積み重なった矛盾が爆発し、1850年代の動乱となった。
【曽国藩と湘軍】
1850年代のはじめ、各地に夥しい団練(在地自警団)の中で、焦点になったのはやはり湖南省である。母親の喪で湖南に帰省した曽国藩に北京政府から団練を組織統率するよう下命された。曽国藩は当時、文部省次官という高官であっただけでなく、当代随一の知識人であった。
曽国藩は、秘密結社の巣窟だった湖南の治安回復を徹底すべく、敵対しそうな嫌疑者の捕縛と処刑を大々的に行った。彼が「首切り役人」と誹謗されるのも、故なきことではない。自らも非難を覚悟で踏み切った措置だった。
しかるにちに、軍隊の組織に取り掛かる。同郷人を中心に自分の友人・門人を集め、彼らを部下の将校として、小規模な団練をそれぞれに統率させた。自らの私的関係をそのまま、軍事指揮系統に置き換えただけであった。しかし、素人ばかりだったが、いかなる公的な軍事組織より、鞏固(きょうこ)な結束と士気を誇った。
各地に散在し、バラバラの団練がまとまった軍隊となった。曽国藩は、湖南省の別称「湘(しょう)軍を冠して湘軍と呼ばれた。湘軍は以降十年以上にわたり、長江周辺で、死闘を繰り広げ、1864年に天京(南京)を陥れ、太平天国を滅した。
【内乱の本質】
清朝が前代明朝治世下の漢人を統治するためにあたって、実地の行政は、各省全域を管轄する総督・巡撫に一任していた。地方大官を北京から緊密に統制することで、在来の皇帝政治を維持してきた。雍正帝の施策は、いわばその典型であった。
しかし、19世紀に入り、内外に動乱を引き起こす武装団体の跋扈は、政府権力も想定していなかった。それを補ったのが、民間委託と言われる現象であった。その軍事的典型が、団練とそれを結合した湘軍であった。
またこの時期に、在地当局は、アヘンなどの密売を認可し、禁制品を取引する秘密結社を抱き込むと同時に、上納金を獲得する慣例が普及しており、これを「釐金(りきん)」と言った。これが団練・湘軍などの新軍隊を維持する新財源となり、反体制的な武装勢力を抑え込む手段となった。
この民間委託を最も多く掌握したのが、湘軍を率いた曽国藩である。清朝は、彼と彼の部下を各省の総督と巡撫に任命することで、拡大する民間委託を既存の官僚組織に組み込み、地方大官の裁量を大幅に認めて、18世紀後半以降の動乱に対処しうる装置とした。これを「督撫重権」という。
【同治中興】
1860年英仏軍が、北京に侵攻すると、は、紫禁城を退去し、長城を超えて熱河の離宮に逃れた。北京に残留し事後を託された皇弟恭親王奕訢(えききん)が講和を取りまとめた。結ばれた天津条約・北京条約は、公使の北京駐在、賠償金、開港地の増加、内地旅行権、キリスト教の普及、アヘン貿易の合法化など一層の列強に有利な条約であった。
清朝側は、もはや「外夷」の操縦などと嘯くわけにもいかず、強要された国際関係の履行をそれなりに果たさなければならない。恭親王は、自ら西洋諸国との対応、交渉にあたるべく、総理衙門(がもん)をもうけた。いあば外務省である。
1861年咸豊帝が崩御し、側近が、実権を握り、数え6歳の咸豊帝の遺児を帝位につけ、北京に帰還した。しかし新帝の生母・西太后は、北京に残留していた恭親王と謀り、先帝側近の権臣を粛清し、新たな政権を発足させた。「辛酉(しんゆう)政変」である。
幼君に代わり、君臨したのは、母后の西太后である。顔を晒さず、御簾(すみ)を下ろして、百官に対するので、「垂簾聴政」と言った。翌年「同治」と改められた年号は、「同(とも)に治める」という意味であり、皇帝独裁を否定した新体制を象徴したものとされる。
同時代の漢人が同治年間を「中興」の時代とみたのは、自分たちの尽力で危機を乗り越えた清朝の復活であり、地方の「督撫重権」と北京の「垂簾聴政」の組み合わせをその制度的枠組みとした。
【李鴻章】
督撫重権を創始し、そのリーダーとなったのは、湘軍を作った曽国藩である。しかしそれを活用したのが、その高弟・李鴻章であった。李鴻章は、父が科挙合格の同期生だったよしみで、曽国藩に師事し、1847年25歳で科挙に合格した。しかしその後、朝廷の命令で安徽省合肥に帰郷し、団練を組織した。1858年敗走し、湘軍に身を寄せ、曽国藩の部下として行動した。
1860年太平天国は、東進して、江南デルタに侵攻し、中心都市の蘇州を陥れ、上海を残すのみとなった。曽国藩は、その救援のため、李鴻章を抜擢し、別働隊の「淮(わい)軍」を作らせた。淮は、淮河、その流域の安徽省をさす。淮軍は、1862年初めに上海に進駐し、江南デルタの奪回に成功した。
李鴻章の掌握した上海は、当時すでに第一の貿易港に発展し、西洋列強の利害も大きい。周辺の江南デルタと合わせ、最も富裕な地であり、経済の心臓部を成していた。こうした西洋諸国との関係と経済的優位が李鴻章の比類なきの政治的資産となった。
太平天国が滅亡した後も、淮軍は、北京を脅かしていた捻軍を平定した。淮軍の故郷・安徽省は、捻軍の猖獗した地であり、両者はいわば同じ地域社会から生まれた双生児だった。湖南省の太平天国軍と湘軍との関係の再現というべきであり、淮軍は1868年捻軍を制圧するのである。
湘軍の総師・曽国藩は、太平天国滅亡後、湘軍の大部分を解体し、李鴻章と淮軍に肩代わりする方針をとった。李鴻章は、1870年に曽国藩の直隷総督の任を引き継ぎ、4半生世紀にわたり、直隷総督・北洋大臣のポストにあって、清末の軍事と外交の中枢を担った。
【洋務】
李鴻章と淮軍は、北京の外港にあたる天津を本拠に、富裕な江南デルタをあわせて掌握し、人口の稠密な沿岸地域の治安維持にあたった。淮軍は、義勇軍であったが、李鴻章の私兵同然であるにもかかわらず、さながら国防軍の地位をしめ、清朝第一の精鋭と存続した。
李鴻章にとって、淮軍がその権威の根幹であったことから、その維持強化を最も重視し、実質的なキャリアをスタートさせた上海の実戦経験から、彼は、西洋近代の兵器・装備・技術を高く評価し、自軍に積極的にとり入れ、軍需工業と関連事業を創設、推進した。「洋務」である。
これを好機と見る人材が、李鴻章のもとに多く集まった。後に中華民国の大統領となる袁世凱もその一人である。こうした事業は、明治維新の「富国強兵」「殖産興業」にあたる。官民一体の文明開花に邁進した日本に対して、同時代の漢人社会は、政府当局と乖離していたので、資本調達や法整備が不可欠な近代企業の組織や経営がうまく進まなかった。
のみならず、李鴻章とその事業に対する敵対者が多かった。頭から外国・西洋を蔑視、憎悪する郷紳ら攘夷論者である。大多数の漢人官僚は、在地有力者を兼ね、儒教の通念に言えば、軍事・武力は、忌むべきであり、しかも「外夷」の西洋人とつるむなどとは、「中華」のエリートの風上にも置けない。それが一般の輿論であった。
そんな李鴻章とその事業を庇護したのが、西太后だった。皇帝の代わりを務める西太后は、李鴻章の実力と政策をオーソライズすることで、清朝政権に安定をもたらし、李鴻章は、西太后の権威を借りることで、反対の多い事業を曲がりなりにも、実行できた。二人の組み合わせが、漢人統治の内政・外交が円滑に進んだのである。
【新疆建省】
清朝下のムスリムは、新疆ばかりではない。東に隣接する甘粛(かんしゅく)・陝西(せんせい)、南の雲南にも多く、「回民」と呼ばれ、他の漢人社会と同じく、やはり中間団体を形成していた。1860年代に、太平天国と同様に、騒乱を引き起こした。「回乱」という。
甘粛・陜西でその鎮圧にあたったのが、曽国藩と並んで、湘軍を指揮し、太平天国と戦った総督の左宗棠(さそうとう)であった。甘粛・陜西の回乱は、しかし、そこに止まらず、新疆のオアシス都市で起こっていた暴動が共鳴し、1864年に大反乱を引き起こす。
折しも、ロシアも中央アジア大制服も進め、1870年代には、西トリキスタン全域を支配下に置いた。この波紋が新疆にも及び、ロシア支配下の西隣のコーカンドの有力者・ヤークーブ・ベクが、カシュガルに侵攻し、本拠地として、独立政権を樹立した。新政権は、ロシア・英国と通商条約を結び、新疆全域が清朝から離脱する事態となった。
左宗棠が東隣の甘粛の回乱を平定した(1873年)のは、ちょうどその頃であった。彼はその余勢を駆って新疆遠征を行い、1877年天山南路の入り口・トルファンを奪取し、ヤークーブ・ベクが逝去するとそのカシュガル政権もにわかに瓦解し、ロシア支配下のイリ地方を除き、再び清朝に帰属した。
国際法の慣例に違う清朝側の不手際で、一触即発の危機に陥りつつも、互いの譲歩で1881年、ペテルブルグ条約で妥協し、イリ地方は清朝に引き渡され、中露の国境線を確定していく。清朝が採用した施策は、漢人社会と同等の「督撫重権」であり、1884年に新疆省を新設し、巡撫を置いた。ムスリムの社会の自治を否定、「因俗而治」を転換した。
【琉球処分】
日本は、明治維新で体制が一新され、隣国清朝との正式な国際関係を構築すべく、1871年9月
日清修好条約を結んだ。交渉にあたったのが、北洋大臣の李鴻章である。彼は、明治日本を潜在的な軍事的な脅威と見做し、この条約に「所属の邦土」の相互不可侵の条項を入れ、「属国」の朝鮮を含めた範囲の安全保障を確立しようとした。
しかし、台湾出兵事件が起こった。日本側は、琉球人=日本人が台湾の住民に殺されたにもかかわらず、清朝政府が、責任を負おうとしなかったため、現地を国際法上の「無主の地」と見做し、出兵に及んだ。しかし清朝側から見れば、琉球人は日本人ではなく、出兵は明らかに修好条約違反である。李鴻章は日本を仮想敵国とした北洋艦隊の建設を開始した。
そもそも台湾出兵事件の原因は、琉球人の位置付け、ひいては琉球の帰属問題にあった。清朝側は、講和にあたって、琉球宮古島の漂流民を「日本国属民」と認め、日本側は、以前から進めていた琉球の内地化を推進し、1875年琉球に清朝への朝貢を停止させ、1879年首里城を接収し、沖縄県とした。いわゆる「琉球処分」である。
琉球処分は、清朝にとって入関直後から朝貢してきた琉球王国が滅亡し、日本によって「属国」が奪われたことに他ならない。李鴻章に言わせれば、これまた修好条約に定めた「所属の邦土」不可侵に違反であって、台湾出兵に続く暴挙であった。李鴻章にとって、重大なのは、同じ「属国」である朝鮮であり、外敵が隣接する事態は断じてあってはならない。
【属国の変容】
清朝による属国を含む東アジア全体に及ぶ安定を揺るがしたのは、琉球と同じく、日本の西洋化にあった。明治政府は、従前の日朝関係を刷新するアプローチを試み、朝鮮政府と対立を深め、1876年2月江華島条約を締結した。その第一条に朝鮮を「自主の邦」と定め、日朝関係を独立国どうしの西洋規準の国際関係にしようとした。
朝貢とは、周辺国が、清朝に貢物を持参し、臣礼をとることで、礼儀上の上下関係を持つことに過ぎない。清朝は原則として、属国の行動、内政外交に干渉しない範囲で、19世紀後半の西洋諸国や日本と新たに条約を結んでも、朝鮮・琉球・ベトナムなどの周辺の「属国」とは旧来の関係を保っていた。
しかし、台湾出兵以降、清朝は慣例の再考を余儀なくされた。日本を牽制するため、1882年、朝鮮に米・英・独の列強と条約を結ばせてせた。そこには必ず「朝鮮は、清朝の属国である」との声明を出させた。清朝は、西洋的な属国的な意味を織り込んで、朝鮮への干渉を強化した。
【日清戦争】
それが露わになったのが、1882年7月に起こった「壬午軍乱」である。朝鮮の軍隊の反乱に端を発した内乱であり、清朝は、ソウル派兵に踏み切り、武力行使を断行し、反乱を鎮圧した。清朝は、「属国」に対する軍事的な「保護」権を主張し、その根拠を古来の「朝貢」儀礼としており、ベトナム・ビルマとも係争と衝突が避けられなかった。
この典型的な事件が1884年12月の「甲申政変」である。朝鮮政府の実権を握る一派に反撥する少壮の改革派が、日本の軍事援助を受けて起こしたクーデータである。ソウルに駐留する清朝が出動し、改革派を支援する少数の日本軍を制圧し、全面戦争になりかけない事態となった。
1885年4月に、伊藤博文と李鴻章が交渉し、合意した天津条約で、日清双方が朝鮮半島から撤兵し、危機を回避した。その後均衡をもたらしたが、1894年春、朝鮮全羅道で「東学」が蜂起し、その鎮圧のため、朝鮮政府が清朝に援軍を求めたことから、破局が訪れた。
「属国」関係による「保護」と「自主」規定に基づく「独立」が俄かに矛盾をきたし、独立を主張する日本が1894年7月25日に豊島沖で海戦に及び、29日成歓・牙山で激突し、8月1日にともに宣戦布告し、9月陸戦で平壌の戦い、海上で黄海海戦に勝利した日本が戦勝した。
【政治思想の変容】
日清戦争の敗北で、清朝の無力をみてとった帝国主義列強による利権分割が一層激しくなった。借款の供与に始まり、鉱山・鉄道の利権や租借地の奪取、勢力図の画定と続く。同時代のアフリカ同様に、いわゆる「瓜分」の趨勢に他ならない。
この危機感は、まもなく政治思想の転換をもたらす。実用から離れた考証学を反省し、目前の課題に応すべく、経典の新たな解釈を打ち出す学派が既に19世紀の前半から盛んになった。この時代には、これを現状からの改革に用いる動くが強まり、その代表が康有為であった。
光緒帝の信任を得た康有為の目指した「へんぽう」は、明治日本をモデルにした体制変革である。康有為は儒学者として、その変革を儒教に託した。宗教改革や民権を孔子の教義に沿って提唱した。しかしこの変法への賛否も激しく、結局挫折し、失脚した。
【日露戦争】
変法後の「新政」も「革命」も体制・制度の西洋化、中央集権の国家体制を実現し、清朝を国民国家に作りあげることで、外圧と「瓜分」に対抗しようとした。その外圧は、八カ国連合軍の北京占拠を招く「義和団事件」で最高潮を迎えた。清朝は、国際的に従属的な地位に置かれたばかりか、ロシアが大軍で東三省を占領・支配した。
隣接する朝鮮半島を勢力下におきたい日本と、ロシアの南下を嫌う英国は、1902年日英同盟を結び対抗した。双方の対立は、解消せず、1904年2月日露戦争が始まる。未曾有の凄惨な戦争は、奉天(現瀋陽)の占領と日本海海戦の勝利で、日本の優勢で終わり、1905年9月ポーツマス条約が結ばれた。
日本は、満鉄などをロシアの有した利権を譲り受け、列強の仲間入りし、局外中立を宣言した清朝は、戦場にされた東三省を失わずにすんだ。しかし日露戦争の結果は、日本モデルを注目されることとなった。帝政ロシアが敗れ、欧米流の立憲制に転換した日本が勝利したことで、近代国家体制を採用すれば、滅亡を免れ、自強もできると認知されたからである。
【「中国」の誕生】
かくして、西洋化・近代国家形成は、もはや動かしがたい大義となった。列強が自分たちがバラバラにして滅ぼしかねない、という「瓜分」に対する恐怖心・危機感が、漢人の知識人から払拭されることはなかった。この危機感が、清朝の統治する範囲は一体不可分な国土だという意識を形成する契機となった。
こうした立場の人々は、日本漢語で自らを「支那人」、自国を「支那」と呼んだ。China/chineを漢字に置き換えた語であり、西洋人・日本人が当然と考える国民国家を含意していた。従って、当時の「支那」は、全く差別用語ではなかった。
新鮮なニュアンスを持った新語・外来語であり、現状を打破し、旧体制をつくりかえ、統一した近代国家の形成を目指す意思を表していた。この外来語の「支那」を由緒ある、馴染み深い漢語に置き換えることで、今の「中国」という呼称と国家概念ができた。
梁啓超は「支那」「中国」だけでなく、日本漢語を駆使し、旧来の漢語概念を西洋化し、国家主義などの新しい思想を普及させた、これがのちに口語体の現代中国語を作り、儒教などの旧思想などを否定した文学革命・思想革命思想の先駆を成した。
新しい「中国」を治める政権は差し当たって清朝しか存在しない。その政治・制度を作り変えようとする動きが顕著になった。こうし転変は、清朝政権にも、清朝が君臨する漢人以外の世界にも、影響した。その最たるものが、にわかに説得力を持つに至った「中国」一体化の追求である。
【領土主権】
その梃子として、登場するのが、西洋的な近代国家の概念たる「領土」「主権」という日本漢語であった。清朝政権は漢人以外の住地「藩部」を「領土」として、そこに対する「主権」を主張し、支配を強化しはじめたのである。しかしそうした動きには20世紀に至って初めて起こったことではない。
新疆と同じ頃に、台湾省が設けられた。いずれも1880年台にロシア、日本、フランスという外敵に備えた措置であり、対外危機の産物である。20世紀に入り、漢人の統治とおなじく、省をもうけ、総督と巡撫を置くことを「領土主権」を保持する手立てとして新たな意味を持つに至った。
20世紀の初めの「瓜分」の重大な脅威は、東三省に及んだ。日露が戦争に訴えるほどの角逐の場となり、戦後も各国勢が浸透していた。清朝は1907年遅まきながら東三省総督をおき、漢人の各省と同じ体制に改めた、日露戦争の結果、かろうじて確保できた「領土」と「主権」を守ろうとする試みである。
【チベット】
清朝は、康熙帝以降、モンゴルの覇権を争ったジュンガルとの死闘を通じて、チベットとチベット仏教の持つ重要性を認識していた。とりわけ乾隆帝は、チベット仏教を尊崇保護し続け、ダライラマに対する大施主のみならず、転輪聖王の地位が与えられ、「菩薩王」と称され、その治世で、「満・蔵・蒙」を一体とするチベット仏教世界の統治秩序が完成した。
清朝のチベットの周辺国との関係では、ヒマラヤ諸国のネパール、ブータン、シッキムなどとの紛争以外は、大きな紛争はなかったが、しかし南に隣接するインドとの関係は、19世紀後半以降、英国がインドを植民地支配してから、ヒマラヤ諸国を通じて、チベットの交易を望んだことから、大きな問題となった。
英国は、ロシアの南下政策の恐怖から、インドを防衛するために、介在するチベットとの関係を緊密にすることを重視した。インド政庁は、ラサ遠征を敢行し、ダライラマ政権と直接交渉し、1904年にラサ条約を結んだ。これは、チベットが清朝を「宗主国」のもとにあることを認めた上で、英国との関係を自ら「直接に」取り決める合意であった。
清朝は、これに驚愕し、これまでの「因俗而治」を捨てて、「領土」統治に転換する。それは、漢人の各省と同じ体制にすることであった。東隣の四川省では、東チベットに漢人の入植をすすめ、ラサに赴任した漢人大臣が軍事的・政治的支配を強化した。
1910年2月、四川から清軍がチベットに侵攻し、ラサを占拠した。ダライラマ13世は難を避け、インドに亡命する。しかし翌年10月辛亥革命が勃発し、四川省の清朝権力も崩壊し、チベットの清軍は駆逐された。ダライラマはラサに帰還し、チベットの事実上の独立を果たした。
【モンゴル】
広大なモンゴルを大まかに区分すれば、清朝皇室と婚姻関係を持つゴビ砂漠以南の「内蒙古」と、より緩やかな主従関係を持つゴビ砂漠以北の「外蒙古」に分けられる。清朝は、外蒙古に対して、チベット仏教を保護する「菩薩王」として君臨し19世紀を通して目立った紛糾や混乱が見られない。
20世紀に入ると、清朝「新政」は、モンゴルに及び、進駐軍を増派し、王公や僧侶の優遇を制限し、漢人の活動制限を撤廃する政策が「内」「外」を通じて行われた。長城に隣接する「内蒙古」では、漢人の入植がすすみ、モンゴル人の牧地の減少を目の当たりにした「外蒙古」に不安が募った。
1910年北京政府の任命で「外蒙古」のフレー(現ウランんバートル)に大臣として赴任し、清朝「新政」政策を推進したのが、三多(サンド)である。三多は、杭州生まれの科挙学位を持つモンゴル人であったが、モンゴル全域への「領土主権」による一体化を推進した。
「外蒙古」の公王・僧侶はこれに強く反発し、翌1911年には北京からの離脱を図り始めたいた。そこに舞い込んできたのが、10月辛亥革命勃発の知らせであった。直ちに、三多を追放し、チベット仏教の転生者・第八世ホトクトを「ボクド・ハーン」に推戴して、「独立」を宣言した。
【漢人と「五族」】
モンゴルの新政権の樹立は、1911年12月29日である。はるか長城の南、南京で、やはり清朝から「独立」した漢人の各省代表を中華民国臨時政府を組織した。清朝中央からの離脱は、チベット・モンゴルだけではなく、漢人も同じであった。清朝は名実ともに解体した。
中華民国は、1912年2月12日、清朝の宣統帝溥儀から正式に遜位を受けて、漢人主体の政権として発足した。その際「満・漢・蒙・回・蔵」の五族を合わせて、領土を完全し、一大中華民国と為す」という条件がついていた。民国政府は、こうして清朝の規模をそのまま受け継ぐ法的根拠を有したのである。
孫文は、1912年元日付で、「臨時大統領就任宣言書」で「五族」を合わせて、一人となすと定義し、この「統一」されて「一人」に擬せられる「民族」を後年「中華民族」と通称する。周知の通り、「中華民族」の「統一」こそが、民国時代から現在迄を一貫する史実経過と不可分なタームとなった。
【割拠の構造】
各省督撫に君臨していた清朝が退場し、すでに外国と直結していた各省が自立した結果が、1911年辛亥革命以降の第二革命、第三革命の各省の「独立」である、以降の軍閥混戦に他ならない。その典型的事例を挙げるとすれば、東三省「満州」である。
新開地の東三省では、貴金属が乏しかったため、金融に紙幣を用いることが多く、「現地通貨」としての紙幣発行は、省レベルで百種にのぼったという。この多様な紙幣を奉天票という少額紙幣の発行で整理したのが、軍閥の張作霖政権であった。
「現地通貨」の奉天票を外界と繋いだのが、日本の朝鮮銀行・横浜正金銀行が発行する銀行券が「地域間決済通貨」の役割を果たし、かつ日本円と英ポンドとの対外決済を担保した。この信用構造を支えたのが、張作霖と関東軍・満鉄であり、満州国はそうした多元的な役割を果たすことで、一元的な地方政権、更には独立国家に化そうしたのである。
このような構造は、1930年代に米英と結びつき、最大最強の規模を誇り、「中央」を標榜した政権が、南京政府であり、辛亥革命以降、最も長持ちした政権は、孤立主義を掲げてた山西省の閻錫山政権である。
統一的な国民経済・近代国家とは逆の事態である。にもかかわらず、知識人エリートは、あくまで、郷紳として、在地勢力を支持することに傾いていた。国民国家の実現を阻んでいたのは、「帝国主義」ばかりではなく、それはむしろ、「中国」の歴史的現実とそこから遊離した「民族主義」とも言える。
【国民党と共産党】
革命家孫文は、絶えず内外情勢に応じて、革命理論「三民主義」を発展させ、1920年代には、反帝国主義と社会主義革命を包含する革命理論となり、1924年ロシア革命に大きな影響を受けて、集権的な組織と党直属の軍隊を持つ党組織に国民党を改組した。
国民党の改組に伴い、1921年上海でコミンテルの支部として発足した共産党もこの点でことならかったことから、国民党は、改組とともに共産党員の加入を認め、1924年国共合作が成立した。翌年逝去した孫文の提唱した国共合作の「革命」は、著しく勢力を拡大した。
孫文を継承した蒋介石はが党直属の国民革命軍を率い、北伐を敢行した。南京に国民政府を樹立し、1929年、北京政府を倒し、全国政権の地位を固めた。各地バラバラで、貧富の格差と上下関係に分断された「中国」を統一「国家」に作り上げることが、「国民革命」の課題であった。
しかし蒋介石の南京国民政府は、結局その解決ができなかった。蒋介石は経済の心臓部江南上海を掌握し、英米の支持をえるために、1927年2月12日、反共クーデタを敢行し、ソ連・共産党と手を切り、旧来の貧富と上下関係が乖離した社会構成を克服する「中国」の統合は実現できなかった。
【抗日戦争から中華人民共和国へ】
日本による「偽満州国」の建国以降、日中関係は交戦状態に移行し、「抗日」行動は、「反帝国主義」「民族主義」の理念と一致し、エリート指導層がまとまる機運に転じ、第二次国共合作・民族統一戦線の形成に至った。日本帝国主義という敵対者の出現が、国民国家の形成を促した。
日中戦争は、1937年、盧溝橋事件・第二上海事変で全面化し、当初は日本が優位を占めていたが、国共ともに、内陸に退いて、頑強な抵抗を続けた。この構図は、経済的、軍事的に有利でありながら、内陸の地方軍閥と共産党を撲滅できなかった南京国民政府を彷彿させるものである。
抗日戦争は総力戦の様相を呈し、総動員体制を余儀なくされ、民間人を把握し、こぞって動員しなくてはならなかった。久しく民間社会を直接治めることができなかった在来の政府権力がかつてなし得なかったことが実現した。権力は、半ば強制的に基層社会へ浸透し、上下の一体化、社会の一元化の契機を得た。
抗日戦争は、1945年日本の敗戦で終了したが、和平は訪れず、国共内戦に突入し、敗れたのは、蒋介石国民党であった。国民政府は、戦争による財政破綻、戦後の拙劣な経済政策と通貨管理でハイパーインフレを招き、日本から奪回した沿岸都市部の経済先進地域で人心を失った。
かたや共産党を率いる毛沢東は、「農村から都市を包囲する」と呼号し、まさくしくその通りの経緯をたどり勝利する。時に1949年10月1日中華人民共和国の建国である。しかし前途は多難であり、国民党が逃れた台湾とは、米ソ東西の冷戦構造に組み込まれ、建国早々の1950年の朝鮮戦争もあり、その存立も危ぶまれる情勢だった。
【戦時統制と計画経済】
かつて南京国民政府は、幣制改革を通じて、通貨統一を試み、ポンド・ドルとリンクした「法弊」を発行していたが、戦争と内戦で外貨との兌換制が失われると、各地雑多な貨幣、軍票が出現し、国民政府自体の崩潰を免れなかった。
これに対して、共産党政権下の大陸は、世界経済とほぼ断絶したが、逆に独自で強力な経済統制が可能となり、各地の雑多な通貨を駆逐し、人民元による全国一律の管理通貨制を引くことができた。
経済統制とは、いわゆる計画経済の断行であり、農村部では農業の集団化、都市部では、商工業事業の国営化である。これを通じて、人口の大多数を占める農村での格差解消と権力浸透がすすみ、零細な企業がほとんどを占めた商工業も国営化も大きな抵抗もなくできた。このような政権が、在地社会に根付いたことも、国民政府を含めてあり得なかった。
【文化大革命】
56年に始まる「百花斉放・百家争鳴」は、ソ連のスターリン批判で高まる共産党支配に対する不信を払拭することを目的に都市部の知識人の自由な発言を促したが、いざ始まってみると、想定したレベルを超える体制批判と党幹部指弾が噴出した。共産党政権は、にわかに弾圧に転じ、この発言者を「右派」のレッテルを貼り、知識人の社会的な地位を奪う「反右派闘争」を展開した。
この反右派闘争で担い手を失った文芸思想・科学技術が大きにたち遅れ、その後の大躍進の悲劇を導く。「大躍進」とは、急進的な社会主義化で、農工業で年率20%の大増産を実現するという経済成長計画であったが、常道を逸した政策は、経済に大混乱をもたらし、数千万人にのぼる餓死者を出す惨禍となった。
大躍進を主導した毛沢東に代わって政権を運営した国家主席劉少奇と総書記の邓小平は、疲弊した経済を立て直し、一部に市場経済を取り入れ、60年代半ばには、生産の回復の兆しを見え始めていた。強く反発した毛沢東が発動したのが文化大革命である。
【文化大革命から社会主義市場経済へ】
毛沢東らは、資本主義に転向した反逆者から、実権を奪うために、劉少奇らを「資走派」・「実権派」というレッテルを貼って、攻撃した。これだけなら、権力争奪の戦術に過ぎない。しかし遙かに重要なのは、それに呼応して出現し、凶行のかぎりを尽くした紅衛兵が登場した現象であり、この動きが一向に収束しなかった過程である。
劉少奇をはじめ「実権」を握る指導層と知識人たちは、酷い憎悪・迫害を受け、夥しい犠牲者を出した。紅衛兵と彼らを供給する下層の人々が上層のエリートをここまで敵視できらたのは、本質的に、外者・敵対者だったからである。エリートを輩出する富裕な都市と農村出身の下層民とが隔絶した二元構造社会のなせる技である。
文革は、燦燦たる結果に終わり、経済の落ち込みが著しかった。「資走派」邓小平は復権した所以である。文革の「革命」「階級闘争」、上下の一体化は不可能であることから、二元構造のまま、共産党の支配を維持し、かつ経済を再建する方針に転じたのが、1978年に始まる「改革開放」であり、のちに「社会主義市場経済」へと進んだ。
「社会主義市場経済」は権力と民間が役割を分担した点で、毛沢東が克服できなかった二元っ構造の社会構成に見合い体制だった。旧来の上下乖離・二元構造に根差す特質・弊害も免れ得ない。いまは、それを「格差」や「腐敗」と呼ばれる現象である。
【一つの中国とその矛盾】
継続する経済発展は、あくなき富の追求を生み出し、格差の拡大・腐敗の蔓延・犯罪の多発などの社会不安・治安悪化を引き起こした。胡錦濤政権で顕著になっていたそんな趨勢に、最も危機感を抱いたのは、当の共産党である。反「腐敗」キャンペーンをはじめ、「法治」の強化・言論の統制に勤しむ習近平の体制がほどなく安定して盤石となった。
民国時代より標榜してきた「五族」からなる「中華民族」の「統一」も現実には正反対であった。辛亥革命時に独立したモンゴルも、「領土の一部」と条約に明記しながら、1920年代に社会主義国家として、名実共に独立し、体制を変えながら、現在に至っている。
辛亥革命で督撫重権から軍閥支配に移行していた新疆省では、ムスリム住民が、1930年から40年代にカシュガル・イリで東トルキスタン共和国を建て、中国からの独立を図った。これはかつてのジハンギールの反乱・ヤークーブ・ベグ政権の再現であり、2009年「ウイグル騒乱」に継続していると解することができる。
【習近平という現状】
その新疆は、中華人民共和国が「解放」し、「中華民族」を構成する「少数民族」の「ウイグル族」の「自治区」となった。「領土主権」の新たな措定である。現在でそこで、「職業訓練」という名の同化が進行する。その事情は、内モンゴルなどの他の自治区も変わらない。
かつ深刻なのは、チベットである。チベットは、民国当初に、事実上の独立を果たしていた。しかし、民国政府は執拗に東チベット=「西康省」の内地化を図り、インドが独立し、イギリスの影響力が削がれると、中華人民共和国は、ラサに軍事的に制圧し、「解放」を実現している。
このように「一つの中国」、「中国」の一体化は、いまに始まったことではない。それは、清朝の多元共存、20世紀初頭以来の歴史的な淵源にまで遡って考えなくは、理解できない問題である。目前の「中国」を巡っては、新疆・香港・台湾などの先鋭化した問題や、南シナ海、尖閣などの「領土」係争もある。
習近平体制は、「社会主義強国」化による「中華民族の偉大な復興」を目指し、いずれも強硬な姿勢を崩していない。そんな強権を清朝時代以来、牢乎と存在する歴史の遺制と格闘するほかない、政権の宿命的な弱さの哀れとみてしまうのは、歴史家の偏見であろうか。
【中国夢と中華民族】
習近平現国家主席の「中国夢」の根幹にあるのは、「中華民族の偉大な復興」であり、「中華民族」を英訳すれば、the Chinese nationである。それを「復興」するとは、もともと存在していたnationに欠損のあるまま、しかるべき回復を見ていないということに等しい。
この論理には、いくつものに疑問符がつく。「中華民族」の存在と「復興」にはやはり首を傾げざるを得ない。単一無二の国民国家であるためには、「中国」も「中華民族」も一つでなくてはならない。従ってその「中華民族」とは、「多元一体」を定義とする。
「一体」なので、一つのであるはずながら、元来は「多元」だった。その「一体」化を図る進行中のプロセスだとすれば、それはまだ「一体」ではあり得ない。「中華民族」という「多元一体」が夢である所以である。
【清朝の時代的位置】
東アジアの「多元」的な趨勢は、明末のカオスから始まっていた。それは、朝貢一元体制など一元化を目指した明朝の硬直的な制度に起因する。清朝は、多元化という情勢に対応すべき体制改革・制度改革でカオスを収拾する役割を果たし、繁栄をもたらした。
確かに目覚ましい成果であり、しかし幻惑されてはならない。清朝の実力・実績は、過大評価できない。多元を一元に転化させる力量はなかった。実現できたのは、「因俗而治」という対処療法を通じた多元共存に過ぎない。
20世紀の初めに「中国」の「一体」化が清朝の多元共存のシステムに代わった。そうした「中国」化の動きに反発し、かつての「藩部」は「独立」に向かい、華北、江南の各省も、軍閥混戦で分立をを免れなった。国民党・共産党が政権を掌握すると、逆に「一体」の「中国」を実現しようとする。20世紀の「中国」史とは、「一体」と分立のせめぎ合いだった。
21世紀の現代で、「多元一体」の「中華民族」も、「一つの中国」も、なお「夢」の段階にある。台湾が、大陸と距離をとり、新疆・チベット・内蒙古などの「中国内部」に組み込まれた「自治区」では紛争を重ね、「中国」に「回帰」したはずの香港も、「一国両制」が機能不全に陥った現状である。なればこそ、政権は、「夢」の実現に固執してしまうのであろうか。
(完)