2010年 09月 18日
無隣庵 |
蹴上から三叉路を下り、右折すれば南禅寺山門に繋がる小さな交差点がある。そこを左折して下ると右手にあるのが「無隣庵」である。ここは以前から知る名園と言われるところだが、この庭園の所有者を認めることを不当としてこれまで参観を拒否してきた。
明治維新が結局のところ、戦陣訓として「虜囚の辱めを受けず」をまともに貫いて玉砕する日本人の婦女の姿と人類史史上初となる原子爆弾の投下に象徴される「大日本帝国」の自滅への道を拓き、日本人を塗炭の苦しみに導いた戦犯が、この庭園の所有者であると思うからである。
昨日、南禅寺周辺の受領を幕府から奪い取って明治の元勲や成功者が琵琶湖疎水をふんだんに使う日本庭園を明治初期に造園したことを伝えるテレビをみた。
無隣庵を作庭した小川治兵衛は、作庭に口を出す元勲に「貴方は、幾百万の兵卒を指揮することができたもしれないが、石木のことは私にまかせなさい」と諫言したと言う。義のない戦争に幾百万の兵卒に赤紙を発行した責任を、この男は自覚していたかどうか定かではない。いや全く自覚さえ覚束ない元勲だったに違いない。
明治維新が結局のところ、戦陣訓として「虜囚の辱めを受けず」をまともに貫いて玉砕する日本人の婦女の姿と人類史史上初となる原子爆弾の投下に象徴される「大日本帝国」の自滅への道を拓き、日本人を塗炭の苦しみに導いた戦犯が、この庭園の所有者であると思うからである。
昨日、南禅寺周辺の受領を幕府から奪い取って明治の元勲や成功者が琵琶湖疎水をふんだんに使う日本庭園を明治初期に造園したことを伝えるテレビをみた。
無隣庵を作庭した小川治兵衛は、作庭に口を出す元勲に「貴方は、幾百万の兵卒を指揮することができたもしれないが、石木のことは私にまかせなさい」と諫言したと言う。義のない戦争に幾百万の兵卒に赤紙を発行した責任を、この男は自覚していたかどうか定かではない。いや全く自覚さえ覚束ない元勲だったに違いない。
by inmylife-after60
| 2010-09-18 06:49
| 京都寺社仏閣
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