2011年 04月 14日
岩波書店「世界」5月号〜3.11大震災から何を問うべきか〜〜 |
3.11大震災から何を問うべきか〜岩波書店「世界」5月号〜
岩波書店「世界」5月号は、東日本大震災・原発災害特別編集と題して、3.11大震災から偶然「死」を免れた私達が、この大災害から何を汲み取り、残された「生」をどのように生きるのかを問う特集である。
短文にも鋭く光り輝く論考がすくないない。共感できる段落をここに紹介したい。
■大江健三郎:「私らは犠牲者に見つめられている」P30(ルモンド紙記者との問いに)
「日本というあいまいな国、という私の定義は、さらに意味を明らかにしたと思います。その意味のいま現在きわだってきている側面は、破局に面している・危機的な行きづまりにいたっている、その「あいまいな日本」の逃れがたさということです。
1994年に私の言及した「あいまいな日本」は、なお執行猶予にある、あいまいな国でした。あいまいなの対義語は、はっきりしているです。「あいまいな日本」とは日本人という主体が、この国の現状と将来において、はっきりとしたひとつの決定・選択をしていない、それを自分で猶予したままの状態です。そして、他国からもおなじく猶予されていると感じている状態です。
なによりそれは、過去についての国の過ちをはっきりさせないままでいる。その国の人間として責任をとらずにいる、という状態です。さらに現状としての日本の態度を、はっきりさせないでいれば、将来にかけて二様、三様の決定・選択がありうる、と考えることです。日本人はあいまいさゆえの〔自分にもよくわかっていない〕国の発展がありうると考えていました。」
「あの本(「あいまいな日本」)を書いてから時がたち、いま「最後の小説」を書いています。老年の私が、この狂気(制禦できないかもしれない幾つもの大暴力が動き始めている社会)を生き延びることができれば完成できる長編の扉に、ダンテの「地獄篇」最終一行を引用しています。
かくてこの処をいでぬ、再び諸々の星をみんとて(山川 柄三郎訳)
■鶴見俊輔:「敗北力」P45
「今回の原子力事故に対して、日本人は、どれほどの敗北力をもって対することができるのか。
これは日本文明の蹉跌だけでなく、世界文明の蹉跌につながるという想像力をもつことができるのか。原子炉をつくりはじめた初期のころ、武谷三男が、こんなに狭い、地震の多い島国にいくつも原子炉をつくってどうなるのかと言ったことを思い起こす。この人は、もういない。」
■坂本 義和:「人間のおごり」P46
「とっさに頭をよぎったのは、起こった自然の前に自分がこんなに小さく無力な存在なのかということだ。すぐに思ったのは、「環境保護」という言葉がいかに人間中心の観念か、だった。環境を人間が保護するのではなく、自然環境が人間の生存を保護してくれてきたということなのだ。」
「多くの人命をあずかっていながら「想定外」ですむ問題ではない。しかも地震や津波は、「想定」したものものと異質の災害では全くない。かれらの「想定」におごりがあったのではないか。原発だけでなく、はるかに設計・製作が容易なはずの二つの火力発電所までこわれたとは、地震国日本で、いったいどういう「事故」を「想定」していたのか。
原発は、そもそも自然界に存在しないウラン235を原材料にするという点からして、根本的に自然に逆らう「おごり」の発想の産物なのだ。」
by inmylife-after60
| 2011-04-14 16:06
| 読書・学習・資格
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