2011年 04月 15日
岩田 靖夫:「人間愛」の社会へ(『世界』2011年5月号より) |
岩田 靖夫:「人間愛」の社会へ(『世界』2011年5月号:引用要約)
岩田 靖夫(東北大名誉教授:専攻哲学)
【地震の災禍のなかで】
「少なくとも災害時において人間の喜びとは、人びとが助け合うことである。水をどうしようか、と思っていたとき、近所の人が水のありかを教えてくれた。しばらく先の農家が自宅の井戸を開放してくれたというのだ。毎日、そこへ、バケツ、鍋、ペットボトルなどを総動員して、水を頂きにいった。」
【自然への畏れの喪失】
「科学技術は、人間が自然の法則と力を理解し、それを人間の生活の向上に利用して役立てるとき、すなわち、人間愛と結びついている限り、大きく人間の幸せに寄与する。鉄道も飛行機も医療技術も通信手段も、人間の幸せを大きく前進させた。しかし、それは人間が科学技術をコントロールできている限りである。
もしも、人間がそれをコントロールできなくなれば、どんなに恐ろしい事態が起こるかわからない。このことを現実の事態として明らかにしたのが、この大震災における福島原子力発電所の爆発である。」
【不自然な経済社会の出現】
「経済活動の基本には倫理が必要である。経済活動とは本来、人間が生きるために必要とする衣食住のための物資の確保であった。しかし、富の蓄積がこの本来の目的を超えて自己目的化したとき、際限のない富の蓄積が始まる。それがさらなる欲望の暴発を引き起こし不自然な社会経済が出現する。
不自然な社会経済は、人間のための経済社会とはならない。経済は、その本来の目的を想起すべきではないか。誰のため、何のための経済なのか。経済は人間がよく生きるために仕えるべきものなのではないか。」
【いま「よく生きる」とは】
「では、人間は何を喜びとしていきているか。それは、他者との交わりである。他者を愛すること、他者から愛されること、他者を助けること、他者から助けられること、それが人間の喜びである。
他者(人間)は、自由な存在者として無限の高みにたっている。その他者から声をかけられ、手を差し伸べられ、助けられ、愛されるということは、自分自身の力では獲得できない畏ろしい喜びをわれわれに与える。まさにこのことが逆説的にも、この大災害の時に明らかになったのではないか。」
【人間の未来のために】
「この大災害は、人間の生き方を根本から考え直す機会を与えてくれた。もしかしたら、もう半ば手遅れなのかもしれないと危惧されるとしても、それでもプラトンの言い方を真似れば、祈りながらあるべき道を探し求める以外にないであろう。
アウシュビッツの大虐殺と広島・長崎への原爆投下を犯してしまった人類は、もう償うことの不可能な罪を犯してしまったのかもしれない。そうではないとしても、それを反省しない人類には、多分救いはない。
しかし心ある人びとは贖罪の業に祈りながら励むことはできるであろう。その祈りと贖罪の業が天に嘉(よみ)せられるかどうかも分からない。
ただ、今回の禍が明らかにしていることは、人間がこのまま、何の反省もなしに、欲望の拡大と利己主義を続ければ、もはや地獄しかないであろう、ということである。
禍を人間の未来への希望にどうつなげるか。「人はいかの生きるべきか」。このソクラテスの問いが現代に重く投げかけられている。」
by inmylife-after60
| 2011-04-15 14:00
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