2012年 02月 27日
大原幽学記念館を訪ねて |
先日、JUUC協同組合塾で元コープこうべの井上淳信さんの講演で紹介された千葉県旭市にある大原幽学記念館を訪問した。
1996年(平成8年)千葉県旭市に開設された大原幽学記念館
大原幽学(1797〜1858)は江戸後期から幕末に生きた尾張藩出身の武士の身でありながら、武士としての生き方を全うする道を絶たれて、上方を放浪し、1821年(文政4年)25歳で滋賀米原の黄檗宗提宗に師事し、寺領にて易と観相、儒教、農学、医学、社会福祉などを学び、献身の道を選択、信州上田と小諸にて、聖学と称する講義を行い、道友(門人)を得るが、藩主からの禁令により、江戸に至る。その後鎌倉を経由して浦賀から房総に渡り、現在の旭市(旧干潟町・長部)に定住し、性学と呼ぶ民衆感化の教導所を開講し、約4000人と言われる道友を集めて、農業改革を取り組み、子孫永々相続講を組織し、これを原点に「先祖株組合」(農業協同組合)を結成する。天保9年(1838年) 3月という。
大原幽学記念館正面入り口からみた展示館
「先祖株組合」は、5両相当の耕地を組合に供出し、全員で耕作するが、その収益を積み立て、100両を超える収益につき、その半分を各家が相続し、半分を子孫に積み立てておくという。また組合員の農業と生活に必要などの道具や商品を共同購入を行う今日の「Aコープ」ともいうべき消費組合を併設したという。
幽学のめざす理想は、儒教の「孝」と身分にふさわしい「分相応」を説くが、人々の平等な社会と安寧な生き方をもとめたものと言われ、毎月、男子の会合、女子の会合を定期化し、女子教育を重視したという。また自分の子供を他人に預ける今日のホームスティ教育とも言える換子教育を実施したという。
十日市場名主林伊兵衛家の幽学設計の三世帯同居住宅(大原幽学史跡史跡公園)
幽学の農業協同組合は、江戸時代の幕藩体制の収奪と商品経済の浸透、自然災害で疲弊する江戸後期の農村にあって、小作農民としての暮らしと子孫繁栄の道しるべとして、多くの農民門人を集め、とりわけ名主などからの支持を得て、拡大する。しかしその教えである「ばくち、かけごと」の禁止は、農民からの寺銭収入を絶たれる博徒との敵対関係をもたらすとともに、農作効率の引き上げをすすめる「検地」とは異なる受領地の改変(「土地整理や土地交換」)は、徴税代官との軋轢を産みだし、幽学の開く講堂「改心楼」への乱入・襲撃事件を引き起こした。幽学は、この事件に連座し、6年間に渡る訴追係争を強いられ、乱入者5名は追放処分、また道友には科料処分、自身は100日間の謹慎処分の判決を受け、「改心楼」他教導所の取り潰しと組合の解散、土地の割り戻しを命じられ、この顛末への自責の念から、謹慎明けの20日後、自刃したという。(享年62歳)
大原幽学の性学などを教えた改心楼絵図(記念館掲示絵図より)
大原幽学は、二宮尊徳、大蔵 永常と並ぶ江戸後期の三大農政学者の一人として、岩波書店日本思想大系52巻にも取り上げられているが、幽学の農業協同組合と消費組合について、日本の協同組合に関する書物には、まったく言及がないために、殆ど知られていないという。
しかし、簡単な伝記に記された株組合の来歴とその理想とする社会の姿は、高く評価されてしかるべき業績であり、協同組合のあり方としても、学ぶ価値があると思った。
大原幽学が設計した自宅の復元家屋
(尚、この記事を書くに当たってアテネ社「大原幽学〜農村理想社会への実践」鈴木久仁直著を参考とした。)
1996年(平成8年)千葉県旭市に開設された大原幽学記念館
大原幽学(1797〜1858)は江戸後期から幕末に生きた尾張藩出身の武士の身でありながら、武士としての生き方を全うする道を絶たれて、上方を放浪し、1821年(文政4年)25歳で滋賀米原の黄檗宗提宗に師事し、寺領にて易と観相、儒教、農学、医学、社会福祉などを学び、献身の道を選択、信州上田と小諸にて、聖学と称する講義を行い、道友(門人)を得るが、藩主からの禁令により、江戸に至る。その後鎌倉を経由して浦賀から房総に渡り、現在の旭市(旧干潟町・長部)に定住し、性学と呼ぶ民衆感化の教導所を開講し、約4000人と言われる道友を集めて、農業改革を取り組み、子孫永々相続講を組織し、これを原点に「先祖株組合」(農業協同組合)を結成する。天保9年(1838年) 3月という。
大原幽学記念館正面入り口からみた展示館
「先祖株組合」は、5両相当の耕地を組合に供出し、全員で耕作するが、その収益を積み立て、100両を超える収益につき、その半分を各家が相続し、半分を子孫に積み立てておくという。また組合員の農業と生活に必要などの道具や商品を共同購入を行う今日の「Aコープ」ともいうべき消費組合を併設したという。
幽学のめざす理想は、儒教の「孝」と身分にふさわしい「分相応」を説くが、人々の平等な社会と安寧な生き方をもとめたものと言われ、毎月、男子の会合、女子の会合を定期化し、女子教育を重視したという。また自分の子供を他人に預ける今日のホームスティ教育とも言える換子教育を実施したという。
十日市場名主林伊兵衛家の幽学設計の三世帯同居住宅(大原幽学史跡史跡公園)
幽学の農業協同組合は、江戸時代の幕藩体制の収奪と商品経済の浸透、自然災害で疲弊する江戸後期の農村にあって、小作農民としての暮らしと子孫繁栄の道しるべとして、多くの農民門人を集め、とりわけ名主などからの支持を得て、拡大する。しかしその教えである「ばくち、かけごと」の禁止は、農民からの寺銭収入を絶たれる博徒との敵対関係をもたらすとともに、農作効率の引き上げをすすめる「検地」とは異なる受領地の改変(「土地整理や土地交換」)は、徴税代官との軋轢を産みだし、幽学の開く講堂「改心楼」への乱入・襲撃事件を引き起こした。幽学は、この事件に連座し、6年間に渡る訴追係争を強いられ、乱入者5名は追放処分、また道友には科料処分、自身は100日間の謹慎処分の判決を受け、「改心楼」他教導所の取り潰しと組合の解散、土地の割り戻しを命じられ、この顛末への自責の念から、謹慎明けの20日後、自刃したという。(享年62歳)
大原幽学の性学などを教えた改心楼絵図(記念館掲示絵図より)
大原幽学は、二宮尊徳、大蔵 永常と並ぶ江戸後期の三大農政学者の一人として、岩波書店日本思想大系52巻にも取り上げられているが、幽学の農業協同組合と消費組合について、日本の協同組合に関する書物には、まったく言及がないために、殆ど知られていないという。
しかし、簡単な伝記に記された株組合の来歴とその理想とする社会の姿は、高く評価されてしかるべき業績であり、協同組合のあり方としても、学ぶ価値があると思った。
大原幽学が設計した自宅の復元家屋
(尚、この記事を書くに当たってアテネ社「大原幽学〜農村理想社会への実践」鈴木久仁直著を参考とした。)
by inmylife-after60
| 2012-02-27 17:06
| 協同組合
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