2012年 10月 14日
再び尖閣諸島領有に関する歴史的経緯について |
下関条約の清国全権代表:李鴻章
すでに2回にわたり、尖閣諸島領有に関する見解とともにその解決のための共同管理の提案に賛同する署名を表明してきたが、これまで述べられていない尖閣諸島の領有に関する論評【岩波書店世界11月号「尖閣問題に内在する法理的矛盾〜「固有の領土」論の克服のために(羽根次郎)」があったので、ここに紹介する。論議するに値する論評であると思う。
1)外務省ホームページに書かれていないこと
① 領土編入までに10年を要した経過の欠如
② 清朝政府による沖縄帰属に関する抗議の事実
2)尖閣諸島編入までの明治政府の判断と対処
①1871年(明治4年)宮古島官民が漂着した台湾現地で原住民によって54名が殺害される「琉球漂流民殺害事件」(中国名:「八瑤灣事件」(ばつようわんじけん))が起こり、明治政府はこれを報復するために1974年(明治7年)に先住地地域を攻撃占拠する。台湾出兵である。
② 北京で行われた事件和議交渉に当たった大久保利通の太政大臣(現在内閣総理大臣)三条実美宛書簡に以下の記述があるという。
『これによって、琉球がわが国の版図であることの形跡を表しました。しかしながらまだはっきりとした結論を得るには難しく、琉球の帰属を巡り、各国から異議が持ち出されることがないだろうとまでは言い切れません。』。
(*この時代における対立は、尖閣諸島以前に琉球諸島(琉球王朝→琉球藩→沖縄県)の帰属そのものにあったということに他ならない)
③ 1875年明治政府は、1609年薩摩藩侵攻以来薩摩藩の支藩と呼ぶ琉球藩に対して、「清朝との朝貢-冊封関係の廃止と明治年号の使用を命令する。
この措置に清朝駐日公使何如璋は、属国とする琉球への命令に「これを許せば、中国が宗主権をもつ「朝鮮」「台湾」にも及ぶ」との危機感からこれに猛烈に抗議したという。
④ 1879年(明治12年)3月政治政府は廃藩置県を断行し、琉球藩の廃止と沖縄県の設置をして、沖縄への排他的な支配権確立を狙ったという。
⑤ 1880年(明治13年)8月から10月迄この琉球帰属問題を巡る日本と清朝との交渉で清朝からの依頼で調停に乗り出したのが、アメリカ前大統領グラントであり、「分島改約」だった。日本政府はこのグラントの意図に沿って、以下の提案を清朝に行ったという。
『わが日本の商民が中国の内地で貿易を行う際に一律西洋人と同じ扱いにすべきであります。またそうなれば、わが国も琉球の宮古島と八重山山島を中国の領土と定めて、両国の国境線を引いても構いません』(李鴻章と折衝した竹添真一郎口上書)つまり、中国内地の通商権の取得のために宮古島と尖閣諸島を含む八重山諸島を中国領とすることを提案したということに他ならない。
⑥しかし清朝は当時、露国との領土交渉もあり、対露交渉が決着するや、順調に進んでいた日本との「分島改約」も、清朝内部の批判から、交渉が頓挫して、日清修好条約も改定されなかった。また日本国内では「台湾基隆の石炭鉱脈につながる琉球南部諸島(これを先島諸島という)を放棄する意志のないこと」を表明するに及び、先島諸島は日本領に止まったという。
⑦1885年(明治18年)9月沖縄県令西村捨三が内務省山県有朋への「尖閣への国標設置上申書」に対して10月外務卿(現外務大臣)井上肇は山県有朋宛に以下の判断に基づき、これを却下したという。『井上はここで、尖閣諸島が「清国の国境にも接近」しており、各島の中国名もあることなどを根拠に「国標を設置し、開拓などに着手するのは、またの機会に譲」るべきと述べている。』
⑧日清戦争直前の1893年(明治26年)11月、沖縄県知事奈良原繁は漁業取締のための標抗設置の設置を申請した。
⑨1895 年(明治28年)1月14日、尖閣諸島に「標抗」設置の閣議決定で占有を開始し、実効支配に移行した。
3)尖閣諸島の領有権に関する歴史認識について
尖閣諸島に関する領有権に関して、両国の歴史認識との観点から留意すべきことが二つあるという。
一つは、中国の伝統的な「版図観」であり、もう一つは、明治政府による琉球処分との関わりである。
①中国の伝統的な「版図観」について
沖縄の帰属問題を論じるうえで、重要なのは、1871年締結の日清修好条規第1条にあるという。
『「両国に属したる邦土も各々礼をもって相待ち、聊かも侵越することなく永久安全を得せしむべし」とあり、この「邦土」の概念の曖昧さを付く森有礼に対して、清朝全権大使李鴻章は、「では、将来条約改正の時に属したる邦土に「十八省及び高麗、琉球という文言を書き添えるべきですね」と応えたという」。つまり清朝は、属国を「外藩」として中国の一部を構成すると解釈していたという。
従って1885年(明治18年)9月沖縄県令による標抗設置に対して、外務卿井上肇は、尖閣標抗は、すなわち「琉球問題」に波及することとなり、この1885年段階では北洋艦隊をもつ中国に勝ち目がないとの判断から却下したものであるという。
また中国は「琉球」を属国と判断するのは「朝貢・冊封・元号(正朔)」の関係をもつ国であり、税や政治はその属国に任せる統治手法をとるが、しかし中国の一部を構成するとの認識をもっていたと言う。
② 明治政府による琉球処分との関わり
先に時系列で台湾出兵以降の琉球及び先島諸島の帰属交渉経緯に明らかなように、台湾に出兵する明治政府は、琉球漂流民殺害事件(1871年)の報復を口実にしたが、1872年第一次琉球処分による琉球王国から琉球藩への改称により、琉球藩民=日本国民とする出兵の正当化のロジックを構築したと言う。
日本の標抗設置に至る日清間交渉で、尖閣諸島に関する領有に関する記録は皆無であるという。
それは、事実上の琉球領有を意図する琉球藩及び沖縄県設置に清朝高官は、強く反対するが、琉球海域に存在する尖閣諸島も当然ながら、琉球王国内であることから、その領有をあえて主張する必要がないからである。
尖閣諸島の帰属問題は、つまり琉球諸島の帰属問題であることを知っておくことが不可欠であると言う。
4)日清戦争と尖閣諸島の帰属について
琉球諸島の帰属問題は、日清戦争によって日本が台湾を割譲したことをもって決着することとなった。下関条約は、尖閣を含む琉球諸島南部(先諸島)を国内問題(沖縄県所属)であるとの認識から、尖閣諸島はおろか琉球列島の帰属問題も交渉の俎上に上ることもなかったと言う。
つまり、実態としてはともかく、法理的な意味で沖縄の帰属問題は、棚上げにされてしまった。しかも、尖閣諸島もまた割譲の対象としてではなく、ぎりぎりのタイミングで沖縄県の管轄に編入されたために下関条約の議論から抜け落ちてしまったという。
5)結語
『尖閣諸島放棄を企図したのは、中国ではなく、日本である。そして沖縄全体の帰属を争った清朝には、尖閣諸島に限った帰属問題を争う論議を出す必要がなかった。この二点が不可視化されることで尖閣諸島は「固有の領土」たる地位を手に入れる。外務省のホームページにはこの2点の説明がない。』
以上
by inmylife-after60
| 2012-10-14 21:52
| 政治・外交・反戦
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