2013年 04月 16日
ダイエット日記 365日間のまとめ(2012.3.28~13.3.27) |
【日記のはじまり】
今日で、ダイエット日記を書き始めてから丁度一年になった。去年年初にダイエットをしなければとカロリー計算のやり方を検索していたら、あるダイエットサイトに出会った。しかしダイエットは食事より運動、とくに歩くこと、走ることをメインにしたダイエット日記になってしまったために、このダイエットサイトでは全くの少数派だと思う。
(日本ウォーキングセラピスト協会代表理事:長坂 靖子氏による)
【歩きはじめる】
最初から走ろうとは思っていたわけでない。歩くことの延長だった。昨年1月下旬から始めたウオーキングを続けていたらどんどん減量していくのが楽しくなってきた。 このサイトに登録した頃には、年初71キロだった体重は65キロになっていた。しかし前回の失敗経験からここからが本当のダイエットなのだという気持ちで登録して、日記をつけることにした。
【走りはじめる】
昨年3月下旬から、走り始めるようになった。いつも歩いていた自宅周辺の遊歩道でさっそうと走る人をみていたからだ。歩くだけではこれ以上減量はできないという推測からやってみようと思った。それは、「歩かないランニング」と命名する走り方だった。この日が3月29日(木)である。体重は65.3Kg、体脂肪25.8%、身体年齢53歳だった。最初の4キロ走は、各ラップ:8:58:03、8:56:05、8:45:09、8:32:01。タイム:35分13秒、平均ラップ:8分48秒だった。この日からランニング記録が始まった。
【マラソンを走る】
走り始めて、日記を付けはじめて知った様々な方の日記から目に止まって離さない日記があった。それはマラソンを走る方の日記だった。これがマラソンに関わるスタートとなった。そのための走法の学習、推薦する本の読破、そしてランニングクラブへの入会という選択となった。ランニングクラブはランナーには欠くことのできない先人達の失敗談の宝庫だった。どこにも公表されていない忘れることのできない体験だからだ。それは一子相伝による暗黙智の継承の場に等しい。
【最初の挫折】
ランニングクラブに入会して、本格的にランニングを始めてから迎えた最初の挫折は、7月15日のクラブの日曜LSD企画の20キロ走だった。走りおえた翌日から右膝の腸頸靱帯炎で走れなくなってしまった。右膝関節痛との付き合いはこの時からである。この日から走ることを控えることとした。まだ20キロを走る筋力と走法が備わっていなかったのだ。フィットネスクラブ入会を決断して、約一ヶ月の間、スイミングと歩行マシンによるビハビリを続けて、8月15日から定番4キロランニングを6分半ラップで走ることを再開した。この一ヶ月は走れないことの辛さを学ぶ機会となった。やはり走れることにまずは感謝しなければならない。この頃の体重は1キロ増えて59キロ前後になっていた。
【ハーフを走る】
まずは、ハーフマラソンに挑戦することにした。9月から自宅周辺の4キロ走とランニングクラブでの定例練習をミックスした週間計画をつくり、10月下旬の手賀沼ハーフマラソンで2時間以内をめざすことにした。自宅周辺の4キロをベースに水曜朝練のベイコースランニングのフルコース11キロ走で走力を鍛えることになった。この東京湾沿いの長い海岸線で平坦な道をひたすら消失点にむけて走り続けることは、忍耐力をつける訓練になったようだ。このベイコースランニングは、クラブでなければ聴けない話も併走しながら聴くことができた。
【2時間9分】
ハーフ2時間をきるためにはキロラップは6分を切らねばならない。10月から、速く走ることだけをひたすら意識してハーフマラソンに挑戦した。3回の日曜日LSD(ロングスローディスタンス)で20Km走を完走しこの大会に備えた。平坦で走りやすい手賀沼は自分の周りで走る適当なペースメイカーを捜して、その背後をひたすら追走するレース運びを心がけた。前半を6キロ半ラップ、後半を6分ラップで走り、2時間9分というこれまでの練習では想像できないタイムで完走できた。とくに最後の1キロをゴールにむけてラッシュできる余力には驚くばかりだった。
【フルマラソンへ】
11月からはようやくフルマラソンを走る練習を始めた。最低3ヶ月との考えから、1月下旬に開催される館山マラソンにエントリーしていた。ランニング本にはフルマラソンを完走するには最低30キロを体験することが必須と書かれていた。最初の挑戦が11月23日の皇居30キロマラソン、次が12月30日のお台場30キロLSDだった。30キロ走は、ハーフマラソンで体験できなかった関節炎症を発症するレースとなった。皇居では、20キロを過ぎてからペースがダウンし、太股の付け根に痛みを覚えて脚があがらず、またお台場では20キロを過ぎてから持病と思われる右膝外側の関節痛で走ることができず歩きながらの走りとなった。
【二度目の挫折】
年末LSDの右膝痛は、ショックだった。夏場のビハビリで克服できたと思っていたからだ。時限爆弾として関節痛が身体にまだ埋め込まれていたことが判明したわけだ。1月下旬のフルマラソンに暗雲の立ちこめる正月だった。しかもレース10日前に風邪を引き、甘い観測でしっかりとした通院と処方をせず、二日前にやっと走れる状態で迎えることになった。ランナーには風邪が大敵だということを実感させられた。風邪には治療薬がない、つまり自己免疫の向上以外に方法はないのだ。しかも心肺を著しく低下させるからだ。これはフルマラソンのレース計画に重大な作戦変更を余儀なくされた。
【フルマラソンの洗礼】
心肺の劣化した病み上がりの体調であることを配慮して、当初計画のキロ6分から7分に変更してレースに臨んだ。30キロまでは楽勝だった。しかし32キロからの長い登りを前にしてはじめて歩き、再び走りはじめた34キロから右膝外側の痛みで走れる状況ではなくなった。32キロの歩きが意志の敗北とするならば、34キロは身体の敗北だった。34キロからのゴール程長く感じたランはこれまで経験したことがない。あと8キロとは、自宅周辺で自主練習の距離だけに余計長く感じたのかもしれない。38キロからは、空腹に襲われて持参した羊羹を食べては、給水所の水をしこたま飲んでゴールに辿りついた。タイムは5時30分だった。
【フルマラソンからの宿題】
ランナーには一度しかない初フルマラソンは、もっとも基本的な宿題を突きつけるレースとなった。つまり32キロの歩きは、風邪による病み上がりを言い訳にできそうだが、34キロの歩きは、意志ではなく走行による故障であって自力、自分の力の問題だと言わざるをえず、言い訳の対象にならないことは自明だった。
完走できたことは嬉しいが、今後のマラソン完走にとって致命的な欠陥の解決を宿題として突きつけられたことに等しいと思えた。
やはりまだフルマラソンを走る体幹も筋力も持久力をもっていないのだと認めざるを得なかった。
【光明の2月9日】
フルマラソンを終えて次のランニングクラブの例会で、隊列から離れて、暁さんからの指導とアドバイスが初フルの宿題への光明になるとは全く考えていなかった。これは飽くまで暁さんの先輩としての好意だったからだ。
しかしこれは、これまでの走りをコペルニクス的に転換するものだった。つまり和服で身を包んで裾を気にして摺り足で走るランニングからタイツで身を固めてバネと蹴りの推力で走るランニングへの転換だったからだ。膝への負荷を軽減するために採った摺り足は、つまり最も膝周りの靱帯を痛める走法だったのだ。この日2月9日(巻末に教えられた内容あり)が3月下旬の古河マラソンの「不歩完走」のスタートとなった。
【二つの核心】
古河マラソンの終盤34キロをすぎてあと8キロ地点にきて、今日は歩くことなく完走できそうだと感じ始めたとき、図らずも涙が溢れてきた。これでやっと館山初フルマラソンの宿題を解決できるフラットフォームができたとおもったからだ。
核心は二つ。歩く時は、膝裏をしっかり伸ばして歩くこと。そして走る時は、地面を捉えて膝裏をしっかり伸ばして地面を踏みつけることを忘れないことだ。これが身体に損傷を与えずに歩くことなくフルマラソンを完走できるメソッドだとおもった。
【365 日のまとめ】
このダイエット日記によって生み出されたものは、これからの生き方に大転換をもたらすかもしれない。
365日計り続けた体組成データ、書き続けたダイエット日記、記録し続けた走行ラップ、身体のメカニズムと栄養に関する知識、ダイエットの蓄積、体幹による走法の取得、「歩き方」の習得、42.195キロを支える走法の習得など、これからの生き方に計り知れない資産となるに違いない。
ダイエットは、結局のところ終わりのないプロセスであり、自分の身体の一部として「普段の振る舞い」とならなければ、達成できないということなのだと思う。
つねに現実を知ること(計測すること)、そして現実から眼を背けないこと、自分としっかり向き合うこと、そして自分を信じて努力することでしかどのようなダイエットも達成されないにちがいない。
ダイエットとは、人それぞれの生き様そのものなのだということに尽きるのだと思う。
【365日間の結晶】
2012年3月28日(朝) 2013年3月28日(朝)
体重Kg 65.1 体重Kg 55.1
体脂肪率% 25.5 体脂肪率% 21.1
内臓脂肪レベル 11 内臓脂肪レベル 6
骨格筋率% 31.9 骨格筋率% 35.0
基礎代謝Kcal 1516 基礎代謝Kcal 1379
BMI 23.5 BMI 20.2
体年齢 53 体年齢 41
(計測:OMRON HBF-202)
再録日記
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2013年2月9日ダイエット日記(再録)
今日はランナーズクラブの定例練習日。風が強いが、晴れた天気となった。ミーテング後に総合公園に移動し、ストレッチとドリルの後に7分コースのグループに入り走り始めたら、暁さんが隣に現れて、「教えたいことがある」と言って、隊列から離れて広場に向かいマンツーマンで走り方に関するコーチを受けた。
それは大枠以下の通りだった。
まず、体幹による走法とは長い棒を路上に垂直に落としたときに跳ね上がる反発力で走る走法のことだという。やってみろと言われて最初にやったのは、屈伸せずに脚を伸ばし、足底全体で地面を捉えてピョンピョンジャンプしろということだった。そして骨盤を左右に動かしてスキーの滑走方法のひとつであるシュテムクリスチャニアのように足のかかとを左右に動かする訓練をしろという。
走る時の点検ポイントは、①走りの司令塔である肩胛骨に動きをつくりだす肘をしっかり上げて、真後ろに引くこと、②背筋をピンと伸ばして姿勢を垂直に正して、骨盤をしっかり前に出すこと、③足は靴底全体で地面をしっかり捉えて、地面からの反作用を推力にすることの3点であり、これをLSDで常に意識して走るのだと言う。これは金哲彦のランニングメソッドの考え方と一致するものだった。
それから筋力トレーニングでは、身体背面側の筋力とくに大臀部とハムストリングスの強化が不可欠であること。そのために腹筋と背筋だけでなくスクワット(膝を身体面から前に出さないこと)が重要だと言われた。自分は3キロアレーで毎日スクワットを欠かなさいという。
暁さんからのコーチを受けて、今後に展望が切り開けそうな心持ちになった。フルマラソン30キロ以降に膝が痛くて走れなくなる走り方に抜本的な問題があると思っていた矢先のコーチだけにとても納得できる内容だった。
自分が最も誤解していたのは、上下動を少なくするには脚を地面に叩きつけないで、忍者の忍び足のように這うように走ることが必要と思っていたことである。着地の瞬間は膝をしっかり伸ばして走れという暁さんの指摘は、走法のコペルニクス的な転換に他ならない。
3月24日の古河フルマラソンに向けたトレーニングは、この走法で走ることを意識したランニングを日課とすることにする。またスクワットは必須のトレーニングアイテムとすることとした。
(完)
今日で、ダイエット日記を書き始めてから丁度一年になった。去年年初にダイエットをしなければとカロリー計算のやり方を検索していたら、あるダイエットサイトに出会った。しかしダイエットは食事より運動、とくに歩くこと、走ることをメインにしたダイエット日記になってしまったために、このダイエットサイトでは全くの少数派だと思う。
(日本ウォーキングセラピスト協会代表理事:長坂 靖子氏による)
【歩きはじめる】
最初から走ろうとは思っていたわけでない。歩くことの延長だった。昨年1月下旬から始めたウオーキングを続けていたらどんどん減量していくのが楽しくなってきた。 このサイトに登録した頃には、年初71キロだった体重は65キロになっていた。しかし前回の失敗経験からここからが本当のダイエットなのだという気持ちで登録して、日記をつけることにした。
【走りはじめる】
昨年3月下旬から、走り始めるようになった。いつも歩いていた自宅周辺の遊歩道でさっそうと走る人をみていたからだ。歩くだけではこれ以上減量はできないという推測からやってみようと思った。それは、「歩かないランニング」と命名する走り方だった。この日が3月29日(木)である。体重は65.3Kg、体脂肪25.8%、身体年齢53歳だった。最初の4キロ走は、各ラップ:8:58:03、8:56:05、8:45:09、8:32:01。タイム:35分13秒、平均ラップ:8分48秒だった。この日からランニング記録が始まった。
【マラソンを走る】
走り始めて、日記を付けはじめて知った様々な方の日記から目に止まって離さない日記があった。それはマラソンを走る方の日記だった。これがマラソンに関わるスタートとなった。そのための走法の学習、推薦する本の読破、そしてランニングクラブへの入会という選択となった。ランニングクラブはランナーには欠くことのできない先人達の失敗談の宝庫だった。どこにも公表されていない忘れることのできない体験だからだ。それは一子相伝による暗黙智の継承の場に等しい。
【最初の挫折】
ランニングクラブに入会して、本格的にランニングを始めてから迎えた最初の挫折は、7月15日のクラブの日曜LSD企画の20キロ走だった。走りおえた翌日から右膝の腸頸靱帯炎で走れなくなってしまった。右膝関節痛との付き合いはこの時からである。この日から走ることを控えることとした。まだ20キロを走る筋力と走法が備わっていなかったのだ。フィットネスクラブ入会を決断して、約一ヶ月の間、スイミングと歩行マシンによるビハビリを続けて、8月15日から定番4キロランニングを6分半ラップで走ることを再開した。この一ヶ月は走れないことの辛さを学ぶ機会となった。やはり走れることにまずは感謝しなければならない。この頃の体重は1キロ増えて59キロ前後になっていた。
【ハーフを走る】
まずは、ハーフマラソンに挑戦することにした。9月から自宅周辺の4キロ走とランニングクラブでの定例練習をミックスした週間計画をつくり、10月下旬の手賀沼ハーフマラソンで2時間以内をめざすことにした。自宅周辺の4キロをベースに水曜朝練のベイコースランニングのフルコース11キロ走で走力を鍛えることになった。この東京湾沿いの長い海岸線で平坦な道をひたすら消失点にむけて走り続けることは、忍耐力をつける訓練になったようだ。このベイコースランニングは、クラブでなければ聴けない話も併走しながら聴くことができた。
【2時間9分】
ハーフ2時間をきるためにはキロラップは6分を切らねばならない。10月から、速く走ることだけをひたすら意識してハーフマラソンに挑戦した。3回の日曜日LSD(ロングスローディスタンス)で20Km走を完走しこの大会に備えた。平坦で走りやすい手賀沼は自分の周りで走る適当なペースメイカーを捜して、その背後をひたすら追走するレース運びを心がけた。前半を6キロ半ラップ、後半を6分ラップで走り、2時間9分というこれまでの練習では想像できないタイムで完走できた。とくに最後の1キロをゴールにむけてラッシュできる余力には驚くばかりだった。
【フルマラソンへ】
11月からはようやくフルマラソンを走る練習を始めた。最低3ヶ月との考えから、1月下旬に開催される館山マラソンにエントリーしていた。ランニング本にはフルマラソンを完走するには最低30キロを体験することが必須と書かれていた。最初の挑戦が11月23日の皇居30キロマラソン、次が12月30日のお台場30キロLSDだった。30キロ走は、ハーフマラソンで体験できなかった関節炎症を発症するレースとなった。皇居では、20キロを過ぎてからペースがダウンし、太股の付け根に痛みを覚えて脚があがらず、またお台場では20キロを過ぎてから持病と思われる右膝外側の関節痛で走ることができず歩きながらの走りとなった。
【二度目の挫折】
年末LSDの右膝痛は、ショックだった。夏場のビハビリで克服できたと思っていたからだ。時限爆弾として関節痛が身体にまだ埋め込まれていたことが判明したわけだ。1月下旬のフルマラソンに暗雲の立ちこめる正月だった。しかもレース10日前に風邪を引き、甘い観測でしっかりとした通院と処方をせず、二日前にやっと走れる状態で迎えることになった。ランナーには風邪が大敵だということを実感させられた。風邪には治療薬がない、つまり自己免疫の向上以外に方法はないのだ。しかも心肺を著しく低下させるからだ。これはフルマラソンのレース計画に重大な作戦変更を余儀なくされた。
【フルマラソンの洗礼】
心肺の劣化した病み上がりの体調であることを配慮して、当初計画のキロ6分から7分に変更してレースに臨んだ。30キロまでは楽勝だった。しかし32キロからの長い登りを前にしてはじめて歩き、再び走りはじめた34キロから右膝外側の痛みで走れる状況ではなくなった。32キロの歩きが意志の敗北とするならば、34キロは身体の敗北だった。34キロからのゴール程長く感じたランはこれまで経験したことがない。あと8キロとは、自宅周辺で自主練習の距離だけに余計長く感じたのかもしれない。38キロからは、空腹に襲われて持参した羊羹を食べては、給水所の水をしこたま飲んでゴールに辿りついた。タイムは5時30分だった。
【フルマラソンからの宿題】
ランナーには一度しかない初フルマラソンは、もっとも基本的な宿題を突きつけるレースとなった。つまり32キロの歩きは、風邪による病み上がりを言い訳にできそうだが、34キロの歩きは、意志ではなく走行による故障であって自力、自分の力の問題だと言わざるをえず、言い訳の対象にならないことは自明だった。
完走できたことは嬉しいが、今後のマラソン完走にとって致命的な欠陥の解決を宿題として突きつけられたことに等しいと思えた。
やはりまだフルマラソンを走る体幹も筋力も持久力をもっていないのだと認めざるを得なかった。
【光明の2月9日】
フルマラソンを終えて次のランニングクラブの例会で、隊列から離れて、暁さんからの指導とアドバイスが初フルの宿題への光明になるとは全く考えていなかった。これは飽くまで暁さんの先輩としての好意だったからだ。
しかしこれは、これまでの走りをコペルニクス的に転換するものだった。つまり和服で身を包んで裾を気にして摺り足で走るランニングからタイツで身を固めてバネと蹴りの推力で走るランニングへの転換だったからだ。膝への負荷を軽減するために採った摺り足は、つまり最も膝周りの靱帯を痛める走法だったのだ。この日2月9日(巻末に教えられた内容あり)が3月下旬の古河マラソンの「不歩完走」のスタートとなった。
【二つの核心】
古河マラソンの終盤34キロをすぎてあと8キロ地点にきて、今日は歩くことなく完走できそうだと感じ始めたとき、図らずも涙が溢れてきた。これでやっと館山初フルマラソンの宿題を解決できるフラットフォームができたとおもったからだ。
核心は二つ。歩く時は、膝裏をしっかり伸ばして歩くこと。そして走る時は、地面を捉えて膝裏をしっかり伸ばして地面を踏みつけることを忘れないことだ。これが身体に損傷を与えずに歩くことなくフルマラソンを完走できるメソッドだとおもった。
【365 日のまとめ】
このダイエット日記によって生み出されたものは、これからの生き方に大転換をもたらすかもしれない。
365日計り続けた体組成データ、書き続けたダイエット日記、記録し続けた走行ラップ、身体のメカニズムと栄養に関する知識、ダイエットの蓄積、体幹による走法の取得、「歩き方」の習得、42.195キロを支える走法の習得など、これからの生き方に計り知れない資産となるに違いない。
ダイエットは、結局のところ終わりのないプロセスであり、自分の身体の一部として「普段の振る舞い」とならなければ、達成できないということなのだと思う。
つねに現実を知ること(計測すること)、そして現実から眼を背けないこと、自分としっかり向き合うこと、そして自分を信じて努力することでしかどのようなダイエットも達成されないにちがいない。
ダイエットとは、人それぞれの生き様そのものなのだということに尽きるのだと思う。
【365日間の結晶】
2012年3月28日(朝) 2013年3月28日(朝)
体重Kg 65.1 体重Kg 55.1
体脂肪率% 25.5 体脂肪率% 21.1
内臓脂肪レベル 11 内臓脂肪レベル 6
骨格筋率% 31.9 骨格筋率% 35.0
基礎代謝Kcal 1516 基礎代謝Kcal 1379
BMI 23.5 BMI 20.2
体年齢 53 体年齢 41
(計測:OMRON HBF-202)
再録日記
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2013年2月9日ダイエット日記(再録)
今日はランナーズクラブの定例練習日。風が強いが、晴れた天気となった。ミーテング後に総合公園に移動し、ストレッチとドリルの後に7分コースのグループに入り走り始めたら、暁さんが隣に現れて、「教えたいことがある」と言って、隊列から離れて広場に向かいマンツーマンで走り方に関するコーチを受けた。
それは大枠以下の通りだった。
まず、体幹による走法とは長い棒を路上に垂直に落としたときに跳ね上がる反発力で走る走法のことだという。やってみろと言われて最初にやったのは、屈伸せずに脚を伸ばし、足底全体で地面を捉えてピョンピョンジャンプしろということだった。そして骨盤を左右に動かしてスキーの滑走方法のひとつであるシュテムクリスチャニアのように足のかかとを左右に動かする訓練をしろという。
走る時の点検ポイントは、①走りの司令塔である肩胛骨に動きをつくりだす肘をしっかり上げて、真後ろに引くこと、②背筋をピンと伸ばして姿勢を垂直に正して、骨盤をしっかり前に出すこと、③足は靴底全体で地面をしっかり捉えて、地面からの反作用を推力にすることの3点であり、これをLSDで常に意識して走るのだと言う。これは金哲彦のランニングメソッドの考え方と一致するものだった。
それから筋力トレーニングでは、身体背面側の筋力とくに大臀部とハムストリングスの強化が不可欠であること。そのために腹筋と背筋だけでなくスクワット(膝を身体面から前に出さないこと)が重要だと言われた。自分は3キロアレーで毎日スクワットを欠かなさいという。
暁さんからのコーチを受けて、今後に展望が切り開けそうな心持ちになった。フルマラソン30キロ以降に膝が痛くて走れなくなる走り方に抜本的な問題があると思っていた矢先のコーチだけにとても納得できる内容だった。
自分が最も誤解していたのは、上下動を少なくするには脚を地面に叩きつけないで、忍者の忍び足のように這うように走ることが必要と思っていたことである。着地の瞬間は膝をしっかり伸ばして走れという暁さんの指摘は、走法のコペルニクス的な転換に他ならない。
3月24日の古河フルマラソンに向けたトレーニングは、この走法で走ることを意識したランニングを日課とすることにする。またスクワットは必須のトレーニングアイテムとすることとした。
(完)
by inmylife-after60
| 2013-04-16 08:06
| ランニング
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