福島県飯舘村第 19 行政区懇談会報告 |
福島県飯舘村第 19 行政区懇談会報告
〜「みみずのように土をはんで生きていけと言うのか」
ところ:相馬市大野台第六応急仮設住宅団地集会所
おはなし:自治会長庄司さん、管理人北原さん
飯舘は多くの山を控えた村であり、標高 700 メートルから 900 メートル前後の広い高原にあります。八割方は山林です。私達は、以前から高い山から流れる清らかな澤の水を飲んで生活していましたが、現在は、澤からの水も飲むこともできず、帰村して農作物を栽培すると言っても、飯舘村のもつイメージからは、買ってくれるところがあるのかどうかとても不安です。農協がコンビニと共同して販売スタンドを建てるとか、平成28 年には役場が、平成29年には中学校、高校なども飯舘村に戻るとか言われていますが、避難先から子供達、住民が戻ってきてくれるのかどうか不安でなりません。5 年の歳月もあり、飯舘に戻ってくるということは、とても大変なことだと思っています。
ここの避難民は、当初 360 名でしたが、もともと高齢者が多く、現在 240 名位に減ってきました。早く戻りたいという思いも、運転のできるうちはよいが、それができなくなった時のことや自分らだけの暮らしとそのゆく先のことを考えると如何ともしがたい思いに駆られます。冬になれば、雪掻きもあり、村に帰る人が少なければ、村道の除雪さえままならない状態になった時のことを思うととても心配でなりません。以前飯舘村に戻った時に身体の具合が悪くなった際に救急車が自宅前 200 メートルの処までしか行けず、腰まで雪が積もったなか、タンカーをゾリ状にして救急車まで運び、一命をとりとめたという消防士の話を聞きました。私達の部落民も多くの月日が流れて、また元のように戻り集まるのはとても困難だと思っています。この仮設に居る方は、どう考えているのかわかりませんが、誰も家を買い求めたという話も聞きません。心配して黙ってただ考え込んでいるということではないかと察しています。飯舘ではこれまで家がつぶれたということは聞いたことがありませんでしたが、二年前の 2メートルの大雪では、家屋が潰れたと聞きました。家にいれば、屋根の雪降ろしができて、潰さずにすんだはずだと思っています。ここの避難民は、皆このような原発事故があってはならない、このような事故の起こる世界をなくしてほしいと思っています。先祖が残してくれた農地も荒れ放題です。昔から「親爺の心ひとつで、田畑は米ともなれば、荒れ地ともなる」と伝えられています。国の力で農地は荒れ放題にされました。以来事故のために飯舘だけでなく、大熊、双葉をはじめ県内の至る所で、大変な被害になりました。このような事故が起きて本当に悔しさで胸が一杯になります。先日のお彼岸で、先祖の墓に「もう 5 年もなるから、祖先の田んぼを耕さねばならない。今度は一緒に暮らす」と言ってきました。近いうちに方針を変えねばならないかと思っています。
北原:ここは、被災した 2011 年 7 月に開設されました。ここに来る前は、福島市内でアパートを借りて夫婦で避難していました。飯舘では夫の両親と会社勤めの夫と 4 人暮らしでした。家では飯田牛、生花、高原野菜などの仕事を手伝っていました。被災後、両親は牛と犬の面倒をみる必要から避難せずに仕事を続けていました。
8 月末に自治会ができましたが、7 月開設時に管理人をやってくれと言われました。最初は清掃とかの仕事かと思いましたが、管理人は、飯舘村とここの避難民とを繋ぐ仕事でした。ここは飯舘村用の最初の避難住宅として開設されました。飯舘村は村外に 20 行政区があり、ここは 19 行政区です。 最初は 360 名 164 戸です。各戸の部屋は人数によって違い、1 名は4畳半、2名は4畳半の2部屋、3名以上は6畳と4畳半2部屋の3部屋です。それに台所とトイレ、風呂です。家は長屋形式です。隣とは 10 センチ間隔、壁は石膏ボードです。床は一枚の板張りであり、音が各部屋に響く構です。入居時は、夏だったこともあり、窓を開けざるをえず、すべての雑音、話し声、TV の音が聞こえる状態でした。前の家との間隔も 2 メートル強です。以前は広い高原の農家暮らしであったこともあり、庭に緑も畑もない圧迫感に耐え難い感覚も覚えました。飯舘は、高原だったために夏は涼しく、冬は寒いところでしたので、暑さに馴れることができずとても大変でした。夜の 9 時位まで暑くて家に入る方はいませんでした。
最初の 2 ヶ月間は、同じ村民とはいえ、全く面識のない方ばかりでしたので誰にもこの仕事を手伝ってもらえる状態にはなく、一人で市からの配布物をポステングしていました。しかし、仕事はそれだけでは終わらずに、お酒で気を紛らわす方とのおつきあい、様々な苦情と余震による安全装置作動で起こるお湯やシャワーへの対応、お部屋間の騒音などあらゆることが持ち込まれるようになりました。
ようやく 8 月末に自治会ができました。現在の庄司会長は、仮設にきてから奥様が亡くなり体調を崩された初代から引き継いで頂いた会長さんです。自治会のできた時に班制度を作りました。2 棟毎に 1 名、28 棟ですから 14 名の方に班長になって頂きました。ここの仮設は、飯舘村では最後の最後に入居された方ですので、皆さん、高齢者の方です。4 月 21 日全村避難命令以降、子育て、妊婦の方からの避難が始まりましたが、そのあとに避難先を探そうとしましたが見つからず、ここに来たという方が多いのです。子供達のいる方は、学校の近くに又は東京などに避難しましたが、そうはいかない方がここに入居したわけです。帰るに帰れない方には政府と東電への憤懣を持ちながらここに来たというか、来ざるを得なかった方々ばかりです。
現在、4 年半が過ぎて今度は帰るという話が持ち上がっていますので、どうするかを決めなければならない状況にあります。 来年には村役場も戻り、平成29年3月には、私達も戻らなければならないことになっています。子供達のいる世代も、私達の世代も新たな決断が迫られているということで、別の意味で、悩みを抱えている状況です。本当に戻っていいのか、たとえに戻ったとしても、ライフラインとともに隣近所だった顔見知りの方もいないなかで、しかも若い方が一緒に住まなくなった時に、買い物や病気の時にどうするのかを考えると、やっていけるのかどうかとても不安になります。いままで地面にあったものはすべて食べることが出来ましたが、今度は、汚染された土地にできたものは食べる気にはなりません。そのような土地に帰ることはとてもできないとの思いからどうすればよいのかを思い悩む毎日です。他の福島県内に集団で避難したところもありますが、ここは、顔見知りのいない方が殆どなので、悩みは尽きない状態だと思います。
質問1:帰還はいわば、避難民への「攻撃」、つまり暮せる状況にないなかで、帰還したからには、もう賠償はしないとの情報を聞いたことがありますが、それは本当のことですか?
庄司:それは本当です。恐らくそれで打ち切ると思う。このままではたぶんそうなると思う。北原:いろいろな意味で、差が付けられています。例えば学校に通う費用にしても、ここの相馬市に通う児童は 5 千円、飯舘の方は1万円というようなやり方です。庄司:住民票を飯舘村以外に移すことを奨励しているのだと思います。飯舘村の住民票をもったまま、居住・通学などを始めとする他の市町村に帰属する住民サービスを受けさせないのです。住民票があれば、当然固定資産税を含めて負担して頂きますというのです。現在、村内の3000 棟の家屋類を撤去する費用をもつとの話があります。政府の予算で、500から 600 もある母屋、畜舎、ハウス、作業場などを壊す訳ですが、これも先に帰村する者が優先され、最後の帰村者まで補償されるのかどうか分かりません。北原:いま除染で土地の表面を 5 センチほど剥がしていますが、田んぼも畑も庭の土もすべて剥がす訳です。別の土を入れてくれるというのですが、どの山かも分からない、どんな土かも分からない。いままで何十年もかけて育ててきた土壌とはまったく違う土をもってきても何の補償にもなりません。農業とは、土壌、土づくりそのものだからです。
質問2:紅葉のときに綺麗な浪江町の風景を見に行きましたが、周辺の路地に大きな黒い袋の山が沢山ありました。里は除染しても、山林からの放射性物質が流れてくる訳ですから、いくら除染したとしても何年かかるのでしょうか?耕せない土地に戻れ、戻れば補償しないという話は、あまりにひどい仕打ちだと思います。周囲の山の除染はどうなるのでしょうか?庄司:山林を試験的にやっているところもありますが、土袋をいくら積み上げても山の面積は半端ではないので、片付きません。しかも効果もないことから、除染業者への発注は先細りという状態です。身体でいえば、蠅一匹にも満たない位の土地に土袋を積みあげても、夢にも役立つという実感はありません。
石原:いま除染対象は家の周りの 20 メートルです。最初は、山も畑も綺麗に除染して頂いたようですが、現在は帰村を前提にしているため、家の周りだけになってしまいました。役場とその付近の町の状態をみてほしいのですが、その不気味さがよく分かります。その地域は、現在黒い土袋は 5 段重ねのうえに緑色のビニールで覆われた形で堆積されています。その上に吸気用の煙突が立っています。紅葉の里山は確かに綺麗でも、市内の様子を帰村したい人が見たときに帰ろうと思えるのかどうか、本当に恐ろしい光景だと思います。現在の除染は、里山側に住む住民に対しては家の周辺だけの除染であり、除染した時には確かに線量は下がりますが、山林側から流れてくるために線量はすぐにまた戻るという「いたちごっこ」のような状況です。もっとよい方法はないものかといつも思っています。
質問3: 仮設の夏は暑いとのことですが、部屋にはクーラーはないということですか、或いは仮設故に効かないということでしょうか?
石原:まず天井が低いです。エアコンは最初各戸に一台でした。その後改善されて各部屋に1 台付きました。また冬は寒いとうことで二重サッシに改修されました。畳部屋も最初は1部屋でしたが、2 部屋目も畳に出来るようになりました。エアコンにゆいていえば、私達は村で使ったことがなく、自然の風に浴びて涼をとってきたので、身体が馴れていないのです。エアコンが必要な日数は 1 週間から 10 日位なものでした。エアコンは急激に冷えるので、風邪を引くような方もおりました。自然の涼に比べてエアコン暮らしは快適ではなかったと思う。
質問5:いまは、住民票を移さないと学校にいけないということでしょうか?
石原:いまは特例で住民票を移すことなく通うことができています。帰村の段階でどうするかを決めないといけなくなると思っています。仮設には当初 10 名でしたが、現在は 2 名しか通学者はいません。
質問6:帰村できる状態になったとして、帰村したい方はどのくらいの割合でしょうか?
石原:この間飯舘村の方で最近も含めて 2 回ほどアンケートをとりましたが、帰村したいが3 割、帰村しないはが 3 割、分からないが 4 割でした。周りの状況をみて決めたいという方です。
質問7:除染してもその後また汚染が続くという状態で未来永劫除染が保障される状況のないなかで、帰村するということをどのように受け止めていますか?
石原:やはりお年寄りは、戻りたいという人が多いです。死ぬときはやはり自宅で死にたいと言っております。
庄司:はい、いままでの補償金で食いつなげということだと思います。それでもなければ、ミミズのように土をはんで生きて行けということだと思います。
質問8:除染がどこまで徹底されるのか?山林を含めた完璧な除染と費用措置がとられなければ、簡単には帰村できないと思うのですが、国や東電はどういう判断なのでしょうか?
石原:国は年間被曝線量を 20 ミリシーベルトまでは安全であり、健康上問題がなく、現状飯舘は 20 ミリ以内なので、帰還できるとの判断です。最初は 1 ミリシーベルトでしたが、緊急時対処として 5 ミリだったのが、いまは、20 ミリでも大丈夫という判断に後退しています。最近では、低線量(作成者注:「ラドン温泉」?)の方が逆に健康が良くなるという学者の情報も流され、まったく心配ないという方もおり、どれを信用してよいか分からず、迷ってしまう状態になっています。臭いもしないし、頭が痛いなどということもないので、知識がないこともあり、何がよく何がよくないのかが分からない状況です。
質問9:しかし耕作や栽培ができない土地でどうやって商品として出荷するのでしょうか?
石原:村では、試験的にすでにやっているようです。OK ができれば、出荷できると言っております。庄司:売るとなれば、食べ物の場合は、簡単には売れないし、買わないと思います。たとえ、花を作ったとしても墓地に供える花をかっても、家の仏壇に供える花は買いません。
石原:しかし村では食べ物は無理だとしても花をつくる施設を検討しています。村は道の駅もつくり、コンビニを直売所として提供すると言っています。
質問 10:山元町では、水耕栽培でいちごをつくっていますが、飯舘村では、土地からではなく、装置産業化して栽培するような技術的な裏付けなどはされているのでしょうか?
庄司:花をつくれと言っても、飯舘全村でそんな沢山つくっても、豊作貧乏で儲かりません。震災以前に飯舘には 8 つの直売センターがありました。みんなでつくった場合、どう考えても生活が成り立つ見込みはありません。
石原:私は村ではないので詳しくはわかりませんが、村としては以前から大規模栽培をやってきた技術と経験を活かしたいという思いがあると思います。それと絡めて花をやりたいのではと思います。しかし水耕栽培はしたことがないので、どのような判断と見通しなのかはよくわかりません。
質問 11:飲料水の汚染はどうなのでしょうか?
石原:水そのものの汚染はありません。相馬市の水の取水地は飯舘ですが、水そのものの汚染はありません。水によって運ばれてくる残土、草、微粒子に付着した汚染物質を川魚が食べるので、川魚を食べてはいけないと注意しています。また、川底に沈殿した汚染物質が拡散によって水中に浮き上がることを想定して、川で遊んだり側溝を崩したりすることは止めるよう指示しています。
手塚:帰りの時間もあり、約束の時間も過ぎてしまいました。庄司様、石原様、大変お忙しいなか貴重なお話をお聞かせ頂き、大変ありがとうございました。拍手で感謝したいと思います。(大きな拍手)
http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/03/14122534.php
「ご存知だと思いますが、この日本という国では普通の人々は 1 年間に 1 ミリシーベルト以上の被曝をしてはいけないし、させてもいけないという法律がありました。それに対して、私のように放射線を取り扱いながら仕事をし、給料をもらっている人間は 1 年間に 20 ミリシーベルトまではいいだろうという法律があったのです。
では、なぜ 1 ミリシーベルトや 20 ミリシーベルトという数字が決まったかというと、それまでの被曝なら安全だから、ではないのです。被曝というのはどんなに微量でも危険があるということが現在の学問の到達点です。20 ミリシーベルトは当然危険だけれども給料をもらっているのだから我慢をしなさい、といって決められたわけです。」
世界には ICRP(国際放射線防護委員会)とか、IAEA(国際原子力機関)という組織があって、事故などの緊急時には1 ミリシーベルトから20ミリシーベルトぐらいの被曝はもう我慢させなさいという勧告を出しているのです。それを利用して日本でも 20 ミリシーベルトぐらいまでは我慢させてしまおうということを決めたわけです。」