2016年 04月 06日
皇姑屯事件歴史博物館について |
2015年01月19日14:02来源:辽宁日报
沈阳将建皇姑屯事件历史博物馆(图)
〜瀋陽にまもなく建設される皇姑屯(こうことん)事件历史博物馆〜
核心提示
核心的ポイント
沈阳市皇姑区天山路211号,有一座拥有百年历史的英式老建筑。记者昨日获悉,沈阳市政府决定将它建成皇姑屯事件历史博物馆,于今年10月1日对外开放。该馆建成后,将与沈阳大帅府、“九一八”历史博物馆、筹建中的甲午战争陆战纪念馆和黄海海战纪念馆(威海市刘公岛)一道,共同组成完整的日本侵略东北历史研究基地。
瀋陽市皇姑屯天山路211番地には百年の歴史をもつ一つの洋館がある。記者は昨日、瀋陽市がここに「皇姑屯歴史博物館」を建設し、本年10月1日からの一般公開を決定したことを知った。
この記念館の建設によって、瀋陽の「張氏帥府博物館」と「九・一八歴史記念館」、現在建設中の「日清戦争陸戦記念館」と「黄海海戦記念館」とともに日本の東北地方侵略に関する包括的な研究基地となる。
■皇姑屯事件历史博物馆今年“十一”免费开放
皇姑屯歴史博物館は、本年建国記念日に無料公開される。
目前皇姑区正面向社会征集关于皇姑屯历史及沈阳铁路历史的相关文物资料。
按照计划,皇姑屯事件历史博物馆将于今年“十一”建成并免费向市民开放。皇姑区文体局副局长王明宠告诉记者,除了建设皇姑屯事件历史博物馆,展出日本关东军谋杀张作霖事件现场场景,皇姑屯火车站周边历史风貌也将被还原,使其成为再现辽宁近现代史的重要组成部分。
現在皇姑区は、皇姑屯地区及び瀋陽鉄道に関連する文物と資料を一般から収集している。
皇姑区文化スポーツ局副局長王明宠氏は、記者に対して皇姑屯歴史博物館の他に日本関東軍張作霖爆殺事件現場現況を展示し、当時の皇姑屯駅周辺風景を再現することによって、遼寧省を近現代史の重要な構成部分であることを知らせたいと述べた。
沈阳市政府决定建皇姑屯事件历史博物馆,“一是这座建筑本身就是火车站的附属建筑,离皇姑屯火车站只有200米的距离;二是‘皇姑屯事件’让皇姑屯成为沈阳历史乃至中国近现代史上都颇有影响的地名。 ”王明宠说,“基于这些考虑,市里决定在保护老建筑的同时,还原历史场景,将此处建为皇姑屯事件历史博物馆。 ”
瀋陽市による皇姑屯事件歴史博物館建設の決定は、第一にこの建設自体が、駅舎の付属建築物であり、皇姑屯駅よりたった200メートルの距離にあり、第二に皇姑屯事件によって皇姑屯は瀋陽の歴史と中国近現代史に多大な影響を与える地名となった。王明宠氏は「このような考えに基づいて、市では、洋館建築の保存と同時にその風景の再現のために、この地に皇姑屯事件歴史博物館を建設することにした」と告げた。
在皇姑区文体局,记者看到了上海八汇设计公司的方案——皇姑屯事件历史博物馆规划占地面积近3000平方米,分为室内、室外两部分。室内主体建筑除入口略加改造外,基本沿袭原有格局,共分6个展厅。序厅部分模拟老车站的内部空间,以雕像、石刻等形式展现记录1928年6月4日震惊世界的皇姑屯事件;第一展厅展示皇姑屯民国风貌,适时表现街道全景复原,商铺小贩人来人往,重现当年的历史风貌;第二展厅以浮雕的形式表现20世纪东北地区中日俄各势力分布。主要展示张作霖早期出道的经历,以及那时东北及中国内外部纷争压迫的史实;第三展厅主要表现直皖大战和两次直奉大战这段历史,记载了北洋政府的风云变幻;第四展厅复原张作霖拒签日张密约的场景,中央设置井式沙盘,利用地下空间表现皇姑屯爆炸事件情景;尾厅最后一部分记录了皇姑屯事件的后续影响以及对事件的反思。
記者が皇姑区文化スポーツ局にて閲覧した上海八汇设计公司の設計図によれば、皇姑屯事件歴史博物館は、室内と室外併せて3000平方の敷地を有する。建物は、エントランス部分の改造が施されてはいるが、基本的に原型を踏襲し、あせて6つの展示ホールに分けられている。展示ホールは駅舎の内部空間を模擬し、彫像や石像形式にて1928年6月4日の世界を震撼させた皇姑屯事件を再現している。第1展示ホールは、皇姑屯市民の風貌、往時の町並みなど全景の復元、商店商人達の往来、当時の歴史風景を重視している。第2展示ホールはレリーフによって20世紀の東北地域における中国・日本・ロシアの勢力分布を表し、主要な展示は、张作霖の初期の活動経歴及び当時の東北と中国内外紛争、圧迫の史実、第3展示ホールは、直皖大戦と直奉大戦の歴史と北洋政府の激動と変容を記載し、第4展示ホールは、張作霖が日張密約へのサインを拒否する場面を復元し、中央に井戸を模した砂盤を配置し、地下空間を利用して、皇姑屯爆炸事件の状況を再現している最後の展示ホールは、皇姑屯事件以降に続いた影響と事件に対して省みるべきことを記録している。
占地2000多平方米的室外部分将搭建一个约100平方米的序厅,样式模仿民国老火车站的样式,带领观众走近一段历史。此外,博物馆还将复原皇姑屯事件中张作霖被炸的火车,作为室外景观。
2000平米を越える敷地には、約100平米ほどのエントラス塔を設け、当時の駅舎の様式を模倣し、参観者を歴史の一齣に誘導する。この他、博物館は、皇姑屯事件で张作霖被炸された汽車を外観として復元する。
■拆除违建时发现百年历史建筑
違法建築撤去時に百年来の歴史的建築物を発見する。
皇姑区天山路211号位于沈阳皇姑屯火车站西侧,多年来一直被大大小小的违建房包围着。
2013年9月6日,皇姑区有关部门对计划征收做商业用地的天山路南铁路地块进行摸底走访,结果发现,其中有个建筑比较特别,外面乱搭的违建房都是红砖,中间的主房却是青砖瓦建筑。
一位老住户还拿了一块曾从主房上剥落下来的青砖头给工作人员看,上面竟然刻有英文字母P.M.R。
皇姑区天山路211番地は、瀋陽皇姑屯駅の西側にあり、長い間、大小様々な違法建築に囲まれていた。2013年9月6日皇姑区では、商業地域への課税徴収部門が天山路南鉄路周辺を詳しく調べた結果、その中のある建物が特別であり、外観も荒れた違法な建物は赤煉瓦であり、中央の建物は、青煉瓦の屋根をもつ建物であった。ある一人の老人が、その建物の屋根から剥がれ落ちた一枚の青煉瓦を作業員に見せ、その表面に意外にも英文字P.M.Rが刻まれていた。
昨天,一位曾参与走访的明廉社区工作人员告诉记者,为了弄清这栋老房子的来历,大家四处求证,终于弄明白了那3个英文字母分别是 “北京”、“奉天”、“铁路”3个单词的英文缩写。
昨日、かつてに一緒に訪れた明廉社区作業員によれば、この老建築の来歴を明らかにするために皆至るところ確証を調べたところ、ついにその3つの英語文字は、「北京」「奉天」「鉄路」の3つの単語のイニシャルであることを突き止めたという。
皇姑区文化馆馆长赵伟权和辽宁社会科学院专家工作室研究员张志强介绍说,这座建筑起脊高、波形铁瓦、青砖磨缝,分为主房、辅房和耳房,是典型的中英合璧的建筑,在当时应是配合铁路建设的。
2013年年底,皇姑区作出决定:此地块不进行商业开发,进行保护。很快,这座青砖建筑被保护起来。
皇姑区文化館館長赵伟权と遼寧社会科学院専門班研究員张志强によれば、建物の高さ、波状甍の堅さ、煉瓦の研磨、主室、補助室、小部屋の配置から見て、これは典型的な中国と英国に折衷建築であり、当時鉄道とともに建設されたものであると言う。
2013年年末、皇姑区は決定を出してこの地の商業開発を止め、地域保存を進めるとした。直ちにこの青煉瓦建物を保存することとした。
随着文物单位的介入,这座老建筑的历史变得越发清晰:1913年,英国传教士盖了这座建筑。 1914年冬天,日本人占领这座建筑,将它改成奉天妇婴医院。据说,1922年到1943年期间,在沈阳居住的日本人生孩子都是在这所医院。
新中国成立后,它被改成招待所。1956年又被车辆厂分给职工做宿舍。上世纪70年代以后,老职工的孩子们长大了,人口多了,陆续在原建筑的外围搭建了很多违建房。
文化遺産組織の関与に伴って、この老建築物の歴史的変遷が一層明らかになった。この建物は、1913年英国宣教師によって建設され、1914年冬日本人によって占拠され、婦人小児病院となった。1922年から1934年までの間、瀋陽に住む日本人小児病院であった。
新中国の成立以降、ここは、接待所となったが、1956年更に車輌工場勤務の工員用宿舎となった。70年以降、工員達の子供達が成長し、人口増加に伴い、続々とこの建物の外側に違法な建物が建てられるようになった。
现在,随着老建筑周边的违建、征收房屋全部被拆除,建筑面积740平方米的“奉天妇婴医院”露出了真面目。
在清理发掘过程中,工作人员发现了200多块具有百年历史的青砖,上面均有P.M.R的代码。这些青砖已被保管起来,将在修缮这处旧址时派上用场。
現在、この老建築物周辺の違法建物と課税対象住居はすべて撤去され、建築面積740平米の「奉天婦人小児病院」がその本来の姿を現したのである。
この整理発掘作業から、工員達200枚を越える百年の歴史をもつ青煉瓦と表面のP.M.Rという暗号を発見したのである。
■皇姑屯火车站曾是最早的“沈阳站”
皇姑屯駅は、最も初期の「瀋陽駅」であった。
皇姑屯火车站如今依然还在使用,但已不复当年繁华。据1910年出版的《京奉铁路旅行指南》记载,当时该站名为“沈阳站”,这应是见诸史料最早的“沈阳站”。
19世纪末20世纪初的沈阳城,正处于近代工业化的萌芽阶段,而作为城市近代化象征之一的铁路,在沈阳也逐渐成为老百姓习惯的交通工具。
自俄国人途经沈阳修建中东铁路 (后被日本人改名为南满铁路)以来,陆续有京奉铁路、安奉铁路、奉海铁路等线路从沈阳经过,沈阳修建了数座火车站。
皇姑屯駅は現在も使用されているが、往時のような頻繁な往来ではない。1910年発行の「京奉線旅行ガイ」の記載によれば、当時のこの駅名は、「瀋陽駅」とある。これは、資料に見える最初の「瀋陽駅」である。
19世紀末から20世紀初頭の瀋陽市は、まさに近代工業化の萌芽の段階であり、市街近代化の象徴として鉄道は、瀋陽近隣の市民達に定着した交通手段となった。
ロシア人が、瀋陽を経由して建設された中東鉄道(その後日本人が南満鉄道と改名)以来、京奉鉄道、安奉鉄道、奉海鉄道の路線が瀋陽を起点としたことから、瀋陽は幾つかの駅が建設された。
1907年,清政府主持修建京奉铁路,站点就是今天的皇姑屯火车站。清初时,皇姑屯原本是一个很小的村子。相传在老罕王努尔哈赤占领沈阳后,打猎来到此村,村女黄桂被老罕王收为干女儿,死后葬在村子里。于是此村便叫黄桂屯,一直到清朝末年,黄桂屯还是一个属于沈阳县的自然屯。
1907年清政府によって京奉鉄道が建設され、起点駅が今日の皇姑屯駅だった。清朝の初期には皇姑屯はもともと一つの小さな村であった。伝えられるところによれば、老罕王ヌルハチによって瀋陽が占領され、この地に狩りに出かけた時に村の娘黄桂をヌルハチの義理の娘として、死後この村に埋葬したと言う。やがてこの村を黄桂屯と呼んだ。清朝末期までここ黄桂屯はずっと瀋陽県のありふれた村であった。
由于铁道的开通,又是终点站,皇姑屯也就不再是一个屯子了,开始有了商号、货栈、药房、饭庄、油坊、表店、银匠铺、刻字社、照相馆、邮局……当时的皇姑屯还有皇姑坟、积善寺等建筑物,每年4月18日和逢五、逢十都有庙会。
鉄道の開通と終着駅となったため皇姑屯も昔のままの村となることができず、商店、倉庫、薬局、大型食堂、油屋、時計屋、装飾品店、印鑑店、写真館、郵便局ができはじめた。当時は、皇姑墓地や積善寺などもあり、毎年4月18日並びに毎月5日と10日の付く日に縁日が開かれていた。
1913年,皇姑屯地区划入奉天市第六特别区,设第六警察署。皇姑屯火车站做了几年终点站后,因为车站与沈阳方城距离过远,清政府与日本达成协议,通过南满铁路的一段将京奉铁路向方城城根方向延长了一些,并在小西边门外开设新站,“沈阳站”挪到此处后,原来皇姑屯附近的车站就改为 “皇姑屯站”了。
1913年皇姑屯地区は奉天市第六特別区と編入され、第六警察署が置かれた。皇姑屯駅は、数年終着駅として使われた後に、駅と瀋陽城郭との距離が遠いことから、清朝と日本の協議に基づき、南満鉄道通過のために京奉鉄道を城郭側に延長し、かつ小西通用門の外側に新駅を開設し、そこに瀋陽駅を移した後に、もともとあった皇姑屯付近の駅を皇姑屯駅と改めた。
■皇姑屯事件发生在皇姑屯火车站附近
皇姑屯事件は、皇姑屯駅付近で発生した。
在中国近现代史上,皇姑屯站名气很大,主要缘于1928年发生的“皇姑屯事件”,张作霖乘坐的列车被日本人炸毁于车站附近的三洞桥处。
中国近現代史における皇姑屯駅の名は広く行き渡っており、1928年に発生した皇姑屯事件に由来する。張作霖の乗車した列車は日本人の手によって駅付近の三洞桥で爆破された。
在沈阳城的西北侧,有两条铁路相交于一座立交桥,桥上是南满铁路,桥下是京奉铁路。南满铁路从哈尔滨到大连,当时由日本关东军控制。日俄战争结束后,俄军战败,日本从俄国人手里夺得了南满铁路的经营权。京奉铁路从沈阳到北京,当时由张作霖的东北军控制。这两条铁路在皇姑屯火车站东侧不远处的三洞桥相交叉。
瀋陽市街の西北に二つの鉄道線路が交差する一つの交差陸橋がある。橋の上が南満鉄道、下が京奉鉄道である。南満鉄道は哈爾浜から大連まで当時は日本の関東軍の管理下にあった。日露戦争終でロシア軍が敗れ、日本がロシア人の手から南満鉄道の経営権を奪取した。京奉鉄道は瀋陽から北京まで当時は張作霖の東北軍の管理下にあった。両鉄道は、皇姑屯駅から東側の遠くない三洞桥で交差する。
1928年5月,北伐军直逼京津地区,日本人感到奉系军阀政权已岌岌可危,但仍想从其手中捞到最大限度的好处。于是,一面支持张作霖,出兵山东对抗北伐军,一面又向张作霖施加压力,威逼张作霖及早退回东北,企图把“满蒙”从中国本土肢解出去,置于日本势力之下。北伐军逼近北京时,日本驻华公使威胁张作霖“将来奉军败兵如经山海关,日兵须将其缴械”。张作霖在答复中表示,“东三省及京、津为中国领土,主权所在,不容漠视”。至此,日本决意除掉张作霖。
1928年5月、北伐軍が、北京天津地区に迫った時、日本人は、奉天政権の瓦解が近いと感じ、且つ自らの手中に最大限の利益を掠め取ることを考えた。そこで、張作霖を一面で支持し、北伐軍に対抗するために山東に出兵し、一面でまた張作霖に圧力を加え、張作霖を脅し東北から早く退去させ、満蒙を中国から分離し、日本の勢力下に置くことを意図した。北伐軍が北京に肉薄した時、日本駐華公使は、張作霖に対して、「将来奉天軍が負け、山海関に至れば、日本軍は武装解除しなければならない」と脅した。張作霖は、これに対して「東北三省及び北京天津は、中国領土であり、主権は中国にある。軽視することは許されない。」と答えた。ここに至って、日本は張作霖の抹消を決断した。
1928年6月,张作霖抵挡不住南京国民政府军队的“北伐”,只得通电求和,被迫放弃北京回东北老家,准备由北京乘火车退往沈阳。关东军司令村冈长太郎打算派人刺杀张作霖,但这一行动不易掩盖罪责,遂由高级参谋河本大作策划炸火车,调动工兵在张作霖归奉的列车经过地点──沈阳皇姑屯车站南满铁路与京奉铁路交叉处预埋炸药。
1928年6月張作霖は南京国民政府軍の北伐への抵抗が続かず、和平を通知するのみで、北京から追われて東北に戻るため、北京経由の瀋陽行きの列車に乗る準備をした。関東軍指令官村岡長太郎は、張作霖の刺殺計画を考えたが、この行動と責任の隠蔽は容易ではないことから、河本大作高級参謀に列車爆破を測らせ、工兵を使い張作霖が帰奉する列車の通過点—瀋陽皇姑屯駅南満鉄道と京奉鉄道の交差陸橋に爆薬を配置することにした。
6月3日凌晨,张作霖离开北京,处处都有警戒。因为三洞桥上是南满铁路,是日本人的地盘,此处没有设防。 6月4日清晨5时18分,列车驶出皇姑屯火车站, 5时30分,列车被炸。
6月3日未明、張作霖は、北京を離れてからも、至る処を警戒した。しかし三洞桥は、南満鉄道上にあり、日本人の地盤であり、防禦することは出来なかった。6月4日早朝5時18分列車は皇姑屯駅を通過し、列車は5時30分爆破された。
“皇姑屯事件”中,除黑龙江督军吴俊升当场死亡,张作霖受重伤,于6月4日上午9时30分不治而亡之外,还有18人被炸死,53人被炸伤,死伤达73人。日本为掩盖真相,诬指系 “南方便衣队员”所为。直至1946年7月,“远东国际法庭”开庭审判日本战犯时,日本前田中内阁海军大臣冈田启介出庭作证,供认张作霖被炸是关东军所为。
皇姑屯事件では、黒竜江省督軍吴俊升はその場で死亡、張作霖は重傷を負ったが、6月4日9時30分時点では、この二人以外に、18名が爆死し、53名爆破負傷し、合計73名は死傷した。日本は、この真相を隠蔽するために、「南方便衣兵」の仕業として事件をでっち上げた。
1946年7月に至り、日本の戦犯を審議する極東国際裁判で、日本の前田中内閣海軍大臣岡田啓介が出廷し、証人となって張作霖爆破は関東軍の作為であると自供した。
by inmylife-after60
| 2016-04-06 13:05
| 歴史認識・歴史学習
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