2016年 04月 07日
佐藤優「世界史の極意」ノート(2-2) |
第三章宗教紛争を読み解く極意
シリアとイスラム国
「イスラム国の拡大は、シリア情勢と深く関連します。シリア問題を読み解くキーワードは、「アラウィ派」です。アラウィ派は、シーア派の一派と書かれていますが、全く違います。アラウィ派は、キリスト教と土着山岳宗教など様々な要素が混じった特殊な土着宗教です。例えば、一神教にはありえない輪廻転生を認め、クリスマスのお祝いもする。シリアは、スンニ派が7割、アラウィ派は1割です。何故そのアラウィ派がシリアを支配しているのか。これは、シリアを信託統治下においたフランスの統治政策:少数派を植民地支配の道具とする常套手段によるものです。それは、ジェノサイトがおきたルワンダと同じで、ベルギーが少数派のツチ族を多数派のフツ族より優遇したことが原因です。
アラブの春がおきた時、シリアにはスンニ派の「ムスリム同胞団」がいなかった。元アサド大統領の父が皆殺しにしたためです。それに混乱を加速させたのが、レバノンからアサドを支援するシーア派の過激派組織「ヒスボラ(神の党)」です。これでアサド側の反抗に今度は、アルカイーダ(スンニ派ワッハ−ブ派)が対抗して、大混乱となり、イスラム国がこれに便乗して支配を強化した。」)(P168~170)
イラクとイスラム国
「さらに重要なこととして、イラクにおけるスンニ派のアイデンティティが変容し、イラク戦争後の新政権(シーア派12イマーム)では、多数派のシーア派が権力を握り、スンニ派は蔑ろにされ、そこにつけ込み、オマル油田(シリア最大の油田)とは桁外れの油田のあるイラクを狙ったのです。(P171
バチカンの戦略
「この危機(イスラム国誕生)を深く認識したのがバチカンです。ベネディクト16世ローマ教皇の生前退位(2013年2月)は、1415年グレゴリオス12世以来、598年ぶりの出来事です。この時は3人の教皇が鼎立し、ボヘミヤのフスを異端処刑し、信仰分裂が起きました。フスの処刑後、鼎立する皇帝をすべて退位させ、マルチィヌス5世を選出、教会の統一を回復した。(P178)
「バチカンの世界戦略の第一段階は、ヨハネ・パウロ二世のとき、共産主義を崩壊させることであり、1991年のソ連崩壊で実現します。第二段階は、イスラム戦略であり、その戦略は、イスラム穏健派を見方につけるための「異文化対話」路線です。また次いで厄介なのが、中国です。中国政府は、国内カトリック教会の高位聖職者の人事権がバチカンにあることを認めていません。バチカンと中国政府は、外交関係が存在しない。
キリスト教学の特徴
「19世紀啓蒙主義の最盛期、イエスはどこで生まれ、どこでどう行動し、どこで死んだのかというデータを徹底的に調べた。実証研究の結果、1世紀にイエスがいたことも、いなかったということも証明できませんでした。ここでイエスの歴史研究は、完全に袋小路に入り、その後二つの流れが生じます。」(P184)
「一つは、イエスが存在しないことを前提に人間がいかにして神という概念を創ってきたのかを考える方向。このアプローチが、宗教学であり、無神論の立場を形成する。もう一つは、イエスがキリスト(救世主)であると信じていた人たちが存在したことまでは、実証できると考え、救いの内容を研究する方向に向かいます。これが近代プロテスタント神学の主流派です。P184
「ちなみにヨーロッパの大学は、神学部がないと総合大学(ユニバーシティ)を名乗ることができません。神学は、虚の部分を扱う虚学ですが、虚の部分すなわち「見えない世界」を扱わないと学問は成立しない。このような知恵をヨーロッパ人はもっているのです。185
「ユダヤ教からすれば、イエスは明らかに異端です。そのために彼は謀反の罪でユダヤ教幹部に捕らえられ、ローマ総督によって処刑されます。処刑後イエスが復活したという信仰となり、キリスト教が成立する。
「初期キリスト教の伝播に当たって決定的な役割を果たしたのがパウロ(改名前サウロ〜65年)であり、イエスには会ったことのないパウロが「復活のイエス」に出会い、イエスの教えのあり方を根本的に変えたのです。サウロは、ユダヤ共同体内部でイエスの教えを広めることに限界を感じ、共同体の外部に布教し、教会をつくることを決心した。
「キリスト教という宗教を創ったのはパウロであり、イエスはキリスト教の教祖であり、開祖はパウロということになります。」(188)
実念論という考え方
中世初期のキリスト教には特徴的な思考法として「実念論」と呼ばれる考え方があります。三角形には様々なものがありますが、すべてを含む一般的な三角形は頭のなかにしか存在しません。ではこの一般的な三角形は実在するでしょうか?
実念論は、実在すると考えます。つまり、目には見えないけれど、確実に存在するものがあると考えるのが実念論です。この反対が「唯名論」です。近代科学は、経験を重視することから、唯名論の延長にあります。
現在でも実念論はイギリスに残っており、政治エリートに共有され、成文憲法がありません。条文としての憲法はないが、確実に憲法は「存在」するという感覚をイギリス人はもっています。その感覚がそれぞれの時代に応じて、具体的(マグナカルタ、権利章典)形で表現されるわけです。
プロテスタント神学の変容
18世紀以前のプロテスタンティズムでは、神は天上にいると考えられてきました。しかしケプラー以降の天体観と宇宙観と矛盾したことをうけて、神学者シュライエルマッハ−がその転換をはかりました。
シュライエルマッハ−は、カント、ヘーゲルと並ぶ重要人物であり、「近代プロテスタント神学の父」と言われています。彼は宗教の本質は直感と感情だと言った。つまり「神は心のなかにいる」と考えたのです。
しかし、神がこころのなかにいるという考えは、危ういものを含んでいる。何故かというと、自分の主観的な心理作用と神が区別できなくなってしますからです。神は全体的な存在です。自らの心のなかに絶対的存在を認めることで、人間の自己絶対化の危険性が生じたわけです。
この延長線上に神なんて自分の心の作用にすぎないという無神論も生み出してしまいます。
「不可能性の可能性」としての神学
「このシュライエルマッハ−の唱えた「神は心のなかにいる」という説を打ち破ったのが、現代神学の父、カール・バルトです。彼は物理的な意味での天上にはいないと認めて、「上にいる神」と言いました。人間は神ではないから、神について知ることは一切できない。語ることもできない。しかし説教する牧師は神について語らなくてはならない。だから神学は「不可能の可能性」に挑むことだと主張したのです。」
「カール・バルトは、第一次世界大戦に衝撃を受けて、1919年に上梓した「ローマ書講解」で神の居場所を再転回しました。何故か?1914年で人間社会を神なしに解釈する啓蒙主義が崩壊したからです。」
「イギリスの歴史家エリック・ボムズボームは、フランス革命の始まる1789年から第一次世界大戦の始まる1914年までを「長い19世紀」と呼んだ。この長い19世紀は、啓蒙の時代、神がいなくとも、理性を正しく使い、合理的に考えれば、世界は進歩すると考えたのです。
「さらにまた、19世紀はナショナリズムの時代でもあった。ナショナリズムの台頭を背景にこころのなかの絶対者の位置にネイション(民族)が忍び込んでくる。ここに国家と民族という大義のまえに人が身を投げ出す構えが出来上がり、その延長戦に第一次大戦をみました。
啓蒙から目をそらしたアメリカ
アメリカはヨーロッパと違い、二次大戦を経てもなおも啓蒙の精神が盛んで非合理な情念(プレモダン的な「見えない世界」が人間を動かすという感覚をよく理解していません。そのため、啓蒙思想や合理的思考のもたらす負の帰結に対する洞察が働かず、問題が先送りされ、その影響として現在の問題から目をそらせてしまいました。そのツケとして格差問題、貧困、排外主義、領土問題、民族紛争の形で浮上してきました。ナショナリズムは近代人の宗教であり、そこでは、「不可能の可能性としての神」を直視することなく、目に見えない超越的なものの欠落を短絡的に埋める代償物としてナショナリズムが要請されてしまっているのです。
イスラムの特徴
イスラムは一神教であるユダヤ教とキリスト教の影響を強く受けています。
アッラーとは、唯一神そのものを指す言葉であり、英語でいえば「ゴッド」です。偶像崇拝を禁じ、神の前の平等を説く点でキリスト教と共通していますが、イスラムは、更に主張を徹底させていて、教徒内部の身分、階級、民族の差を認めず、専門の神官階級が存在しません。
ワッハーブ派とカルヴァン派
イスラム過激派は、殆どがスンニ派のハンバリー学派に属します。イスラム原理主義やテロ運動の殆どは、ハンバリー学派から出ています。
ハンバリー学派の一つにワッハーブ派がある。18世紀宗教改革者ワッハーブは、サウジ王と協力し、ワッハーブ王国をつくりますが、これが現在のサウジアラビア王国の素地をつくります。現在もサウジアラビアの国教はワッハーブ派です。
ワッハーブ派は、コーランとハディーズ(ムハンマド伝承集)しか認めません。個人崇拝も墓参りもしない。ムハンマドの時代の原始イスラム教への回帰を唱え、極端な禁欲主義を掲げます。
アルカイーダもイスラム国も、ワッハーブ派の武装グループです。マグレブのアルカイーダ、チエチェンのテログループ、アフガンのタリバンなど、イスラム過激派はワッハーブの系統です。
キリスト教とのアナロジーで考えるとこのワッハーブ派に近いのは、プロテスタントのカルヴァン派です。
但し、両者には決定的な違いがあります。それは、キリスト教にはイエス・キリストという媒介項があることです。
キリスト教において、イエス・キリストという媒介項を必要とする理由は、人間には原罪があるからです。しかしイスラムには原罪という観念がありません。この楽観的な人間観が最大の問題です。だから神が命じれば、聖戦の名のもとにあらゆるものを破壊することが可能となります。
キリスト教の場合、人間には原罪があるため、地上は悪の世界です。地上は罪ある者で占められ、そこには差別、抑圧、病気、苦しみ、貧困があることは自然の状態となります。それに対して、イスラムの場合、「ジン」という妖怪が悪さをしていると考えるので、自分の内なる悪についての反省がなく、一度信じることができれば、どんな暴力も肯定されてしまうのです。
イランのもつ二つの顔
1501年イランにサファヴィー朝が成立します。このサファヴィー朝朝は、シーア派の12イマーム派を国教に定めます。これ以前は、モロッコから新疆ウイグルまでイスラムベルトとして一つのものでした。イランがシーア派になったために、イランは、スンニ派のオスマン帝国とムガル帝国にサンドイッチされる状態になりました。
サファヴィー朝は何故シーア派を国教としたのか。それはペルシャ・アイデンティティの確立のためです。サファヴィー朝においてシーア派とペルシャ・アイデンティティが結びついたのです。
パレスチナ問題の発端
パレスチナ問題の発端は、一次大戦まで遡ります。パレスチナは、一次大戦当時、オスマントルコ領でした。オスマントルコは、バルカン戦争で失った領土回復のために、ドイツ、オーストラリアの陣営として戦います。戦争が始まると、イギリスは、中東でトルコと戦火を交えますが、この時、戦争を有利にすすめるために、三枚舌外交を展開します。
第一に戦後のアラブ人の独立と引き替えにアラブ人にオスマントルコに対する反乱を起こさせます。トルコ支配に憤るアラブ人のナショナリズムを利用したわけです。
第二にイギリスは、フランス、ロシアとの間でトルコ領の分割する秘密協定を結びます。(サイクスピコ協定)
第三にパレスチナへの帰還を切望するユダヤ人に「民族的郷土=ナショナルホーム」の建設を約束します。(バルフォア宣言)
トルコの敗戦で、イギリスの信託統治となったパレスチナにユダヤ人の入植を認め、30年代のヒットラーのユダヤ人絶滅運動で難を逃れるユダヤ人がパレスチナに次々と入ってきます。これをアラブ人は、黙認するわけにはいかない。アラブ人は激しい抵抗運動が起きます。二次大戦が終わると国連の分割案が議決され、48年イスラエルが建国された。
4・戦争を阻止できるか
EUとイスラム国を比較する。
EUの本質をなす概念は、ラテン語の「コルプス・クリスティアヌム」です。コルプス・クリスティアヌムとは、ユダヤキリスト教の一神教の伝統とギリシャ古典哲学とローマ法の3つの要素から構成された「キリスト教共同体」を指します。
では何故EUが生まれたのか?それは、ナショナリズムの抑制です。宗教的価値観を中心とした結びつきには、民族やナショナリズムを越えていくベクトルが確認できます。一方
イスラム国もまた、国家と民族の枠をグローバルなイスラム主義によって克服しようとする運動です。しかしEUと決定的に違うのは、国家と民族の枠を越えて人を殺す思想になってしまっているということです。
イスラム原理主義の暴走を食い止める方策
アーネスト・ゲルナーの「民族とナショナリズム」におけるイスラムの教義を下敷きにすれば、イスラム原理主語の特質を以下のように指摘できる。
1)儒教のように哲学的思弁を使わずに簡単に宗教と道徳が一致させることができたため、近代化の嵐のなかでも生き延びることができた。
2)儒教より強いのは、強力な超越概念をもつから。
3)神とこの世の人間をつなぐ仲介者がいないので政治的道徳的な内容が曖昧で幅が広くなり、広域で影響を発揮することができる。
4)超越的な唯一神の信仰は、知的整合性を無視することができる。
5)近代的な学問手続きや論理整合生を無視して、「大きな物語」をつくることができる。
ムスリムコミュニストの台頭に対して、スターリンの執った方策は以下の通りだった。
1)イスラム原理主義の信仰対象、習慣などを尊重し、摩擦を起こさない。シャーリアを尊重せよ。
2)イスラム系民族のもつエトナを刺激し、イスラムへの帰属意識より民族意識を強化する。
エトニを刺激し、ネイションを対置することで、イスラム原理主義の浸透を防ぐのです。
プレモダンの精神をもってモダンをリサイクルする
現代の新帝国主義の時代は第三次世界大戦には至っていませんが、ウクライナ、パレスチナ、イラク、シリアなどでは、核を使わない戦争が続いています。こうした戦争や紛争を解決するには、たった一つしかありません。それは、ヨーロッパがそうであったようにもうこれ以上殺し合いをしたくないと双方が思うことです。
その境界線は、定量化することはできません。しかしその一線は必ず存在する。その一線をできるだけ下げることが戦争を阻止する目的に適うことになります。
そのためには、二つの可能性があると考えています。一つはもう一度啓蒙に回帰することです。人権、生命の尊厳、愛、信頼といった手垢のついた概念に対して、不可能だと知りながらも語っていく。それはバルトの言う「不可能の可能性」を求めることです。
もう一つはプレモダンの精神、言い換えれば、「見えない世界」へのセンスを磨くことです。イギリスの特徴として、実念論が国家の中核にあることを挙げました。「目に見えなくとも存在するもの」がこの国では近代的な民族を越える原理となって人々を統合してきました。もはや合理的なことだけ国家と社会の動きは説明できないでしょう。実念論の世界の再現です。
私たちは、「みえない世界」へのセンス磨き、国際社会の水面下でおこっていることを見極めなければなりません。
あとがき
恩師藤代泰三先生:「チョークでたくさんの点を書いて、それを線で結んだあと、こう言った。」
「皆さん、ここに書いた図の意味が分かりますか。この点は、一人一人の人間です。その人間がさまざまな人と相互に関係している。この世に生を受けた、たった一人の人間を除外してしまっても歴史は成り立たないと僕は考えます。ヘーゲルが言うように絶対精神が弁証法的に発展していくというような単純な流れを歴史はとらない。もっと複雑な現象です。他人の気持ちになって考えること、他人の体験を追体験することをどれだけ繰り返すかで。歴史理解の深さが変わってきます。そして歴史を類比として理解するのです。皆さんはまだ若いので、私がなにを言っているのかよくわからないと思います。ヘーゲルやマルクスのように強力な世界観に基づいて歴史をダイナミックに読み解いていく手法に魅力を感じると思います。しかしそういう哲学や神学は、どこかで具体的な人間を見失ってしまうのではないかと僕は危惧します」
この講義をした頃、藤代先生は、67歳で私と滝田くんは、20歳だった。私たちは今年55歳になる。当時の藤代先生と年齢が近づいてくるとともに、先生が伝えたかったことが皮膚感覚でわかるようになった。」
シリアとイスラム国
「イスラム国の拡大は、シリア情勢と深く関連します。シリア問題を読み解くキーワードは、「アラウィ派」です。アラウィ派は、シーア派の一派と書かれていますが、全く違います。アラウィ派は、キリスト教と土着山岳宗教など様々な要素が混じった特殊な土着宗教です。例えば、一神教にはありえない輪廻転生を認め、クリスマスのお祝いもする。シリアは、スンニ派が7割、アラウィ派は1割です。何故そのアラウィ派がシリアを支配しているのか。これは、シリアを信託統治下においたフランスの統治政策:少数派を植民地支配の道具とする常套手段によるものです。それは、ジェノサイトがおきたルワンダと同じで、ベルギーが少数派のツチ族を多数派のフツ族より優遇したことが原因です。
アラブの春がおきた時、シリアにはスンニ派の「ムスリム同胞団」がいなかった。元アサド大統領の父が皆殺しにしたためです。それに混乱を加速させたのが、レバノンからアサドを支援するシーア派の過激派組織「ヒスボラ(神の党)」です。これでアサド側の反抗に今度は、アルカイーダ(スンニ派ワッハ−ブ派)が対抗して、大混乱となり、イスラム国がこれに便乗して支配を強化した。」)(P168~170)
イラクとイスラム国
「さらに重要なこととして、イラクにおけるスンニ派のアイデンティティが変容し、イラク戦争後の新政権(シーア派12イマーム)では、多数派のシーア派が権力を握り、スンニ派は蔑ろにされ、そこにつけ込み、オマル油田(シリア最大の油田)とは桁外れの油田のあるイラクを狙ったのです。(P171
バチカンの戦略
「この危機(イスラム国誕生)を深く認識したのがバチカンです。ベネディクト16世ローマ教皇の生前退位(2013年2月)は、1415年グレゴリオス12世以来、598年ぶりの出来事です。この時は3人の教皇が鼎立し、ボヘミヤのフスを異端処刑し、信仰分裂が起きました。フスの処刑後、鼎立する皇帝をすべて退位させ、マルチィヌス5世を選出、教会の統一を回復した。(P178)
「バチカンの世界戦略の第一段階は、ヨハネ・パウロ二世のとき、共産主義を崩壊させることであり、1991年のソ連崩壊で実現します。第二段階は、イスラム戦略であり、その戦略は、イスラム穏健派を見方につけるための「異文化対話」路線です。また次いで厄介なのが、中国です。中国政府は、国内カトリック教会の高位聖職者の人事権がバチカンにあることを認めていません。バチカンと中国政府は、外交関係が存在しない。
キリスト教学の特徴
「19世紀啓蒙主義の最盛期、イエスはどこで生まれ、どこでどう行動し、どこで死んだのかというデータを徹底的に調べた。実証研究の結果、1世紀にイエスがいたことも、いなかったということも証明できませんでした。ここでイエスの歴史研究は、完全に袋小路に入り、その後二つの流れが生じます。」(P184)
「一つは、イエスが存在しないことを前提に人間がいかにして神という概念を創ってきたのかを考える方向。このアプローチが、宗教学であり、無神論の立場を形成する。もう一つは、イエスがキリスト(救世主)であると信じていた人たちが存在したことまでは、実証できると考え、救いの内容を研究する方向に向かいます。これが近代プロテスタント神学の主流派です。P184
「ちなみにヨーロッパの大学は、神学部がないと総合大学(ユニバーシティ)を名乗ることができません。神学は、虚の部分を扱う虚学ですが、虚の部分すなわち「見えない世界」を扱わないと学問は成立しない。このような知恵をヨーロッパ人はもっているのです。185
「ユダヤ教からすれば、イエスは明らかに異端です。そのために彼は謀反の罪でユダヤ教幹部に捕らえられ、ローマ総督によって処刑されます。処刑後イエスが復活したという信仰となり、キリスト教が成立する。
「初期キリスト教の伝播に当たって決定的な役割を果たしたのがパウロ(改名前サウロ〜65年)であり、イエスには会ったことのないパウロが「復活のイエス」に出会い、イエスの教えのあり方を根本的に変えたのです。サウロは、ユダヤ共同体内部でイエスの教えを広めることに限界を感じ、共同体の外部に布教し、教会をつくることを決心した。
「キリスト教という宗教を創ったのはパウロであり、イエスはキリスト教の教祖であり、開祖はパウロということになります。」(188)
実念論という考え方
中世初期のキリスト教には特徴的な思考法として「実念論」と呼ばれる考え方があります。三角形には様々なものがありますが、すべてを含む一般的な三角形は頭のなかにしか存在しません。ではこの一般的な三角形は実在するでしょうか?
実念論は、実在すると考えます。つまり、目には見えないけれど、確実に存在するものがあると考えるのが実念論です。この反対が「唯名論」です。近代科学は、経験を重視することから、唯名論の延長にあります。
現在でも実念論はイギリスに残っており、政治エリートに共有され、成文憲法がありません。条文としての憲法はないが、確実に憲法は「存在」するという感覚をイギリス人はもっています。その感覚がそれぞれの時代に応じて、具体的(マグナカルタ、権利章典)形で表現されるわけです。
プロテスタント神学の変容
18世紀以前のプロテスタンティズムでは、神は天上にいると考えられてきました。しかしケプラー以降の天体観と宇宙観と矛盾したことをうけて、神学者シュライエルマッハ−がその転換をはかりました。
シュライエルマッハ−は、カント、ヘーゲルと並ぶ重要人物であり、「近代プロテスタント神学の父」と言われています。彼は宗教の本質は直感と感情だと言った。つまり「神は心のなかにいる」と考えたのです。
しかし、神がこころのなかにいるという考えは、危ういものを含んでいる。何故かというと、自分の主観的な心理作用と神が区別できなくなってしますからです。神は全体的な存在です。自らの心のなかに絶対的存在を認めることで、人間の自己絶対化の危険性が生じたわけです。
この延長線上に神なんて自分の心の作用にすぎないという無神論も生み出してしまいます。
「不可能性の可能性」としての神学
「このシュライエルマッハ−の唱えた「神は心のなかにいる」という説を打ち破ったのが、現代神学の父、カール・バルトです。彼は物理的な意味での天上にはいないと認めて、「上にいる神」と言いました。人間は神ではないから、神について知ることは一切できない。語ることもできない。しかし説教する牧師は神について語らなくてはならない。だから神学は「不可能の可能性」に挑むことだと主張したのです。」
「カール・バルトは、第一次世界大戦に衝撃を受けて、1919年に上梓した「ローマ書講解」で神の居場所を再転回しました。何故か?1914年で人間社会を神なしに解釈する啓蒙主義が崩壊したからです。」
「イギリスの歴史家エリック・ボムズボームは、フランス革命の始まる1789年から第一次世界大戦の始まる1914年までを「長い19世紀」と呼んだ。この長い19世紀は、啓蒙の時代、神がいなくとも、理性を正しく使い、合理的に考えれば、世界は進歩すると考えたのです。
「さらにまた、19世紀はナショナリズムの時代でもあった。ナショナリズムの台頭を背景にこころのなかの絶対者の位置にネイション(民族)が忍び込んでくる。ここに国家と民族という大義のまえに人が身を投げ出す構えが出来上がり、その延長戦に第一次大戦をみました。
啓蒙から目をそらしたアメリカ
アメリカはヨーロッパと違い、二次大戦を経てもなおも啓蒙の精神が盛んで非合理な情念(プレモダン的な「見えない世界」が人間を動かすという感覚をよく理解していません。そのため、啓蒙思想や合理的思考のもたらす負の帰結に対する洞察が働かず、問題が先送りされ、その影響として現在の問題から目をそらせてしまいました。そのツケとして格差問題、貧困、排外主義、領土問題、民族紛争の形で浮上してきました。ナショナリズムは近代人の宗教であり、そこでは、「不可能の可能性としての神」を直視することなく、目に見えない超越的なものの欠落を短絡的に埋める代償物としてナショナリズムが要請されてしまっているのです。
イスラムの特徴
イスラムは一神教であるユダヤ教とキリスト教の影響を強く受けています。
アッラーとは、唯一神そのものを指す言葉であり、英語でいえば「ゴッド」です。偶像崇拝を禁じ、神の前の平等を説く点でキリスト教と共通していますが、イスラムは、更に主張を徹底させていて、教徒内部の身分、階級、民族の差を認めず、専門の神官階級が存在しません。
ワッハーブ派とカルヴァン派
イスラム過激派は、殆どがスンニ派のハンバリー学派に属します。イスラム原理主義やテロ運動の殆どは、ハンバリー学派から出ています。
ハンバリー学派の一つにワッハーブ派がある。18世紀宗教改革者ワッハーブは、サウジ王と協力し、ワッハーブ王国をつくりますが、これが現在のサウジアラビア王国の素地をつくります。現在もサウジアラビアの国教はワッハーブ派です。
ワッハーブ派は、コーランとハディーズ(ムハンマド伝承集)しか認めません。個人崇拝も墓参りもしない。ムハンマドの時代の原始イスラム教への回帰を唱え、極端な禁欲主義を掲げます。
アルカイーダもイスラム国も、ワッハーブ派の武装グループです。マグレブのアルカイーダ、チエチェンのテログループ、アフガンのタリバンなど、イスラム過激派はワッハーブの系統です。
キリスト教とのアナロジーで考えるとこのワッハーブ派に近いのは、プロテスタントのカルヴァン派です。
但し、両者には決定的な違いがあります。それは、キリスト教にはイエス・キリストという媒介項があることです。
キリスト教において、イエス・キリストという媒介項を必要とする理由は、人間には原罪があるからです。しかしイスラムには原罪という観念がありません。この楽観的な人間観が最大の問題です。だから神が命じれば、聖戦の名のもとにあらゆるものを破壊することが可能となります。
キリスト教の場合、人間には原罪があるため、地上は悪の世界です。地上は罪ある者で占められ、そこには差別、抑圧、病気、苦しみ、貧困があることは自然の状態となります。それに対して、イスラムの場合、「ジン」という妖怪が悪さをしていると考えるので、自分の内なる悪についての反省がなく、一度信じることができれば、どんな暴力も肯定されてしまうのです。
イランのもつ二つの顔
1501年イランにサファヴィー朝が成立します。このサファヴィー朝朝は、シーア派の12イマーム派を国教に定めます。これ以前は、モロッコから新疆ウイグルまでイスラムベルトとして一つのものでした。イランがシーア派になったために、イランは、スンニ派のオスマン帝国とムガル帝国にサンドイッチされる状態になりました。
サファヴィー朝は何故シーア派を国教としたのか。それはペルシャ・アイデンティティの確立のためです。サファヴィー朝においてシーア派とペルシャ・アイデンティティが結びついたのです。
パレスチナ問題の発端
パレスチナ問題の発端は、一次大戦まで遡ります。パレスチナは、一次大戦当時、オスマントルコ領でした。オスマントルコは、バルカン戦争で失った領土回復のために、ドイツ、オーストラリアの陣営として戦います。戦争が始まると、イギリスは、中東でトルコと戦火を交えますが、この時、戦争を有利にすすめるために、三枚舌外交を展開します。
第一に戦後のアラブ人の独立と引き替えにアラブ人にオスマントルコに対する反乱を起こさせます。トルコ支配に憤るアラブ人のナショナリズムを利用したわけです。
第二にイギリスは、フランス、ロシアとの間でトルコ領の分割する秘密協定を結びます。(サイクスピコ協定)
第三にパレスチナへの帰還を切望するユダヤ人に「民族的郷土=ナショナルホーム」の建設を約束します。(バルフォア宣言)
トルコの敗戦で、イギリスの信託統治となったパレスチナにユダヤ人の入植を認め、30年代のヒットラーのユダヤ人絶滅運動で難を逃れるユダヤ人がパレスチナに次々と入ってきます。これをアラブ人は、黙認するわけにはいかない。アラブ人は激しい抵抗運動が起きます。二次大戦が終わると国連の分割案が議決され、48年イスラエルが建国された。
4・戦争を阻止できるか
EUとイスラム国を比較する。
EUの本質をなす概念は、ラテン語の「コルプス・クリスティアヌム」です。コルプス・クリスティアヌムとは、ユダヤキリスト教の一神教の伝統とギリシャ古典哲学とローマ法の3つの要素から構成された「キリスト教共同体」を指します。
では何故EUが生まれたのか?それは、ナショナリズムの抑制です。宗教的価値観を中心とした結びつきには、民族やナショナリズムを越えていくベクトルが確認できます。一方
イスラム国もまた、国家と民族の枠をグローバルなイスラム主義によって克服しようとする運動です。しかしEUと決定的に違うのは、国家と民族の枠を越えて人を殺す思想になってしまっているということです。
イスラム原理主義の暴走を食い止める方策
アーネスト・ゲルナーの「民族とナショナリズム」におけるイスラムの教義を下敷きにすれば、イスラム原理主語の特質を以下のように指摘できる。
1)儒教のように哲学的思弁を使わずに簡単に宗教と道徳が一致させることができたため、近代化の嵐のなかでも生き延びることができた。
2)儒教より強いのは、強力な超越概念をもつから。
3)神とこの世の人間をつなぐ仲介者がいないので政治的道徳的な内容が曖昧で幅が広くなり、広域で影響を発揮することができる。
4)超越的な唯一神の信仰は、知的整合性を無視することができる。
5)近代的な学問手続きや論理整合生を無視して、「大きな物語」をつくることができる。
ムスリムコミュニストの台頭に対して、スターリンの執った方策は以下の通りだった。
1)イスラム原理主義の信仰対象、習慣などを尊重し、摩擦を起こさない。シャーリアを尊重せよ。
2)イスラム系民族のもつエトナを刺激し、イスラムへの帰属意識より民族意識を強化する。
エトニを刺激し、ネイションを対置することで、イスラム原理主義の浸透を防ぐのです。
プレモダンの精神をもってモダンをリサイクルする
現代の新帝国主義の時代は第三次世界大戦には至っていませんが、ウクライナ、パレスチナ、イラク、シリアなどでは、核を使わない戦争が続いています。こうした戦争や紛争を解決するには、たった一つしかありません。それは、ヨーロッパがそうであったようにもうこれ以上殺し合いをしたくないと双方が思うことです。
その境界線は、定量化することはできません。しかしその一線は必ず存在する。その一線をできるだけ下げることが戦争を阻止する目的に適うことになります。
そのためには、二つの可能性があると考えています。一つはもう一度啓蒙に回帰することです。人権、生命の尊厳、愛、信頼といった手垢のついた概念に対して、不可能だと知りながらも語っていく。それはバルトの言う「不可能の可能性」を求めることです。
もう一つはプレモダンの精神、言い換えれば、「見えない世界」へのセンスを磨くことです。イギリスの特徴として、実念論が国家の中核にあることを挙げました。「目に見えなくとも存在するもの」がこの国では近代的な民族を越える原理となって人々を統合してきました。もはや合理的なことだけ国家と社会の動きは説明できないでしょう。実念論の世界の再現です。
私たちは、「みえない世界」へのセンス磨き、国際社会の水面下でおこっていることを見極めなければなりません。
あとがき
恩師藤代泰三先生:「チョークでたくさんの点を書いて、それを線で結んだあと、こう言った。」
「皆さん、ここに書いた図の意味が分かりますか。この点は、一人一人の人間です。その人間がさまざまな人と相互に関係している。この世に生を受けた、たった一人の人間を除外してしまっても歴史は成り立たないと僕は考えます。ヘーゲルが言うように絶対精神が弁証法的に発展していくというような単純な流れを歴史はとらない。もっと複雑な現象です。他人の気持ちになって考えること、他人の体験を追体験することをどれだけ繰り返すかで。歴史理解の深さが変わってきます。そして歴史を類比として理解するのです。皆さんはまだ若いので、私がなにを言っているのかよくわからないと思います。ヘーゲルやマルクスのように強力な世界観に基づいて歴史をダイナミックに読み解いていく手法に魅力を感じると思います。しかしそういう哲学や神学は、どこかで具体的な人間を見失ってしまうのではないかと僕は危惧します」
この講義をした頃、藤代先生は、67歳で私と滝田くんは、20歳だった。私たちは今年55歳になる。当時の藤代先生と年齢が近づいてくるとともに、先生が伝えたかったことが皮膚感覚でわかるようになった。」
by inmylife-after60
| 2016-04-07 11:42
| 歴史認識・歴史学習
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