2016年 04月 07日
南京大屠杀死难者国家公祭读本(3-1) |
『安全区与人道救援(安全区と人道救護)』より
写真〜金陵学院難民所職員:左から四人目が魏特琳、五人目が助士の程瑞芳。
小学生版に南京安全区国際委員会の設立経緯と金陵女子文理学院の救援活動に関する記述があったので紹介します。
この読本は、教員用ではなく、小学生が理解し学習するものとして編集されたものです。
日本の小学生低学年の教科書がどの程度の漢字を扱っているのか分からないので、比較したわけではありませんが、実際中国でこの程度の漢字はらくらく音読してしまうという体験を瀋陽でしたことを思い出しました。
瀋陽にある九一八歴史祈念館(柳条湖事件)には、父母を伴って子供らも一緒に参観しています。最初子供らは、展示解説文の文章などは読めず、ただ展示品を観ているだけだと思っていたのですが、なんと柳条湖事件後の関東軍の作戦意図に関する展示解説文をすらすらと淀みなく朗読し始めました。えっと振り返り、その集団をみると、小学生3、4生くらいにしか見えませんでした。
中国の小学生は、この程度の中国語を音読し理解することは十分可能だと思った次第です。
尚、ジョンラーベの日記で、国際委員会発足が11月19日、委員長就任が11月22日とされています。
以下原文と日訳
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1937 年11 月12 日,日军占領上海后继续向南京进逼。面对即将到来的战火,一些中外人士不约而同地想到,要仿效法国神父绕家驹在上海設立南市难民区的做法,在南京设立安全区。11月17日,时任金陵女子文理学院教务長和教育系主任的美籍教师明蛇・魏特琳,以及金陵大学美籍教授米尔士、貝茨、史迈斯等多人,与美国大使馆官民佩克联系. 倡议在南京没立安全区。后来,南京安全区国际委員会成立,徳国西门子洋行驻南京办事处負責人均翰・拉貝被推挙为主席。
1937 年11 月12 日,上海を占領した日本軍は、南京に向けて進軍を開始した。まさに戦火が南京に及ぼうとした時、何人かの中国人と外国人達は、はからずも同じ思いに達して、フランス人神父绕家駒(Robert Jacquinot de Besange, S.J.)が上海南市に作った避難区のやり方にまねて南京に安全区を設立する。
11月17日,当時金陵女子文理学院の教務長であり、教育学部主任であった米国籍教師明蛇・魏特琳(Minnie Vantrin)は、金陵大学美籍教授米尔士(W. P. Mills)、貝茨(M. S. Bates)、史迈斯(Lewis S. C. Smythe)らとともに米国大使館館員佩克と連絡し、南京に安全区をつくることを提案した。その後南京安全区国際委員会が成立し、ドイツシーメンス南京支社長の均翰・拉貝(John Rabe)が委員長に推挙された。
为了便于开展工作,安全区国际委員会总部于12月2日迁入宇海路5号办公。安全区国际委員会委員们夜以継日,全力以赴地投入到安全区的工作。13日,南京沦陥后,日军以捜捕中国士兵为名,肆无忌惮闯地問人安全区杀人、強奸、抡劫,使难民的生命財产到扱大的威胁。马吉(John Magee)、貝茨、魏特琳、投贝、史迈斯等亲眼目賭了日军的种种暴行,井留下了相关的文字、照片纪录,其中部分材料成为战后审判日本战犯的証据。
救援活動を直ちに展開するために、安全区国際委員会本部は、12月2日、寧海路5号に事務所を移転した。委員会メンバーは、夜に日を継いで、全力で安全区の活動に専念した。13日、南京陥落以降、日本軍は、中国兵の捕縛を名目に安全区に憚ることなく進入し尋問し、殺人、強姦、略奪など避難民の生命と財産にとって甚大な脅威となった。马吉(John Magee)、貝茨、魏特琳、投贝、史迈斯らは、自ら目撃することとなった日本軍のあらゆる暴行を文字に写真に書き留め記録し、その記録は戦後の日本戦犯裁判の証拠となった。
当吋,在金陵女子文理学院设立了专门收容妇女和儿童的难民所,南京大屠杀期間,这里成为日军暴行发生最为頻繁的难民所之一。負責管理难民所的魏特琳女士毎天都不得不奔走于校园的各个角落,赶走ー批批前来施暴的日军。她就像母亲守炉着自己的該子一祥,守炉着中国妇女和儿童不受日军的伤害。她那双因缺少睡眠而布満丝的眼晴,始终高度警惕地注視着校因四周。只要看到有日本兵过来,地便会张开双臂,一边竭尽全力保炉身后的妇女和儿童,一边怒不可遏地沖着日本兵大声阿斥:“离开这些可怜的妇女和該子! "
有一天,一位老太太到金陵女子文理学院的紅十字会食堂要一碗米粥,魏特琳得知粥已经没有了,立刻把自己的粥给了她,并対她悦:“你门不要担心,中国将永远不会灭亡,而日本注定必将失敗。"
当時金陵女子文理学院は、婦女と子供だけを収容する避難所を設立していた。南京大虐殺期間には、ここが、日本軍の暴行が最も頻発した避難所の一つとなった。避難所責任者の魏特琳は、毎日学院内の各所を奔走していちいちどころからともなくやってきて暴行しようとする日本将兵を追い払うことを余儀なくされた。彼女は自分の子供を見守る母の如くに中国婦女と子供を日本軍からの危害を受けないように保護していた。彼女は、睡眠不足から充血した両眼を晒して終始高い警戒心をもって学院内の周辺を監視していた。また彼女は、日本兵が近づくのを見るとすぐに両腕を広げ、自分の後ろの婦女と子供を全力でしっかりと防護し、ある時は、怒りを抑えることができずに、日本兵に進み寄って大声で「この不憫な婦女と子供に近寄るな!」と叫んだりしていた。
ある日、一人の老婦人が金陵女子文理学院の中国赤十字の食堂にやってきておかゆを一膳求めてきた。魏特琳がもうすでにおかゆがないことを知り、すぐに自分のおかゆを与えて、彼女にこう言ったという。「心配はいりません。中国は永遠に滅亡することはありません。それに日本は必ず敗れます。」
by inmylife-after60
| 2016-04-07 11:52
| 歴史認識・歴史学習
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