2016年 04月 07日
南京大屠杀死难者国家公祭读本(3-2) |
以下原文と日訳
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南京・辛德贝格瑰株
南京・シンベルグの薔薇
2006年的春天、有几位丹麦人手持着12黄玫瑰株,来到了中国南京。她门不仅参观了侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆,还亲手将这12株黄玫瑰种植在该馆的和平公园内。他们为什么要手棒黄玫瑰来到纪念馆?这美丽又鲜艳的黄玫瑰和惨绝的南京大屠杀又有何种联系呢?
2006年春、何人かのデンマーク人が12株の黄色の薔薇を手にして中国南京を訪れた。彼らは、南京大虐殺記念館を参観するだけでなく、12株の黄色の薔薇を記念館内の平和公園に自ら植えたのである。彼らは何故そのような黄色の薔薇を携えて記念館に来たのだろうか?この綺麗で鮮やかな薔薇と凄惨な南京大虐殺とはどのような関係にあるのだろうか?
1937年12月,日军攻陷南京,肆无忌惮地屠杀中罔俘虏和平民,强奸妇女,烧毁房屋,掠夺财物。
当日军的魔爪伸向江南水泥厂的时候,有一位年轻勇敢的丹麦人,举着带有十字图案的丹麦国旗挡在了工厂门口:"这里是德国和丹麦合资的企业,滚出去!" 他,就是辛德贝格。面对着手持武器的日本兵,他毫不堪让,因为他身后有约2 万名中国难民。
1937 年12 月,南京陥落以降、日本軍は、憚ることなく、捕虜と市民を虐殺し、婦女を強姦し、家屋を焼き尽くし財貨を略奪した。
当時、日本軍は、魔の手を江南のセメント工場に向けようとした時、ある一人の勇敢な若者が十字架の描かれたデンマーク国旗を掲げて工場の前に立ちはだかった。「ここは、ドイツとデンマークの合弁企業だ。消え失せろ!」。彼こそがシンベルグだった。彼は武装した日本軍を前にして怯むことがなかった。彼の後ろには2万人もの中国人難民がいたからだ。
难民们衣衫槛楼,眼睛里充满着恐惧,期待着辛德贝格的救助。辛德贝格本着理性、正义和人道的精神,勇敢担负起保护和救助中国难民的重任。
辛德贝格不忍心看到难民们再受伤害,他与卡尔·京特一起,在难民营插上丹麦和德国国旗,并在难民区周用竖起了"难民营"的标志。有好几次,当日本兵强行闯入江南水泥厂难民营施暴时,辛德贝格总是挥舞着丹麦国旗大声呵斥,日本兵只能悻悻离去。
難民はボロボロの衣服を纏い、その眼に恐怖が溢れていた。シンベルグの救援を期待していた。シンベルグはもともと理性をもち、正義と人道に溢れており、勇敢にも中国難民を保護し救済することの重任を厭わなかった。シンベルグは、難民たちが再三受ける傷害を見るに忍びず、卡尔·京特と一緒に難民区域にデンマークとドイツ国旗を掲げることによって、難民区は「難民駐屯地」であることを示しそうとした。何度かにわたり、日本軍は江南セメント工場に侵入し、難民駐屯地を破壊しようとしたが、シンベルグはデンマーク国旗を振って、大声で叫んで抗議し、日本軍は怒りながらも引き下がるしかなかった。
苏国宝是当年被辛德贝格救助的难民之一。在他的印象中,辛德贝格永远都是20 多岁的小伙子。他晚年回忆:"我感谢他哎,要不是他开办难民营救助我们,南京人死得 ‘边, (南京方言‘多'的意思)呢。" 辛德贝格在南京前后只有1 00 多天时间,经历了整个南京大屠杀浩劫,他保护了约2 万名中国难民。
苏国宝は、当時シンベルグによって救われた難民の一人である。彼のなかでは、シンベルグはいつも二十歳になって間もない若者という印象である。彼は晩年回想し「彼には感謝だ。かれが難民駐屯地を開き我々を助けなければ、南京の死者はもっと多かったに違いない。」シンベルグは、たった100日間あまりしか滞在していなかったが、南京大虐殺の全期間を経験し、二万人の難民を保護することになった。
为纪念辛德贝格在南京的义举,一位丹麦园艺师,耗费三年时间,精心培育出一种独特的黄玫瑰。在丹麦文化里,黄色代表勇气。辛德贝格的故乡奥胡斯市将这种黄玫瑰命名为"永久的南京·辛德贝格玫瑰“。辛德贝格玫瑰将会每一年都绽放在南京,提醒世人牢记历史,崇尚正义,珍爱和平。
このシンベルグの南京の義挙を記念して、あるデンマークの園芸師が3年の歳月をかけて誠心を込めて独特の黄色い薔薇を育てあげた。デンマーク文化では、黄色は「勇気」を表す。シンベルグの故郷オーフス市は、この黄色の薔薇を「永遠なる南京・シンベルグの薔薇」と命名した。シンベルグの薔薇は毎年花開き、人々に歴史を記憶し、正義を敬い、平和を大切にすることを忘れさせない。
by inmylife-after60
| 2016-04-07 11:59
| 歴史認識・歴史学習
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