2016年 04月 08日
「ヨーロッパ戦後史(上:1945〜1971)」ノート(1) |
トニー・ジャット著「ヨーロッパ戦後史(上:1945〜1971)」ノート(1)
「ヨーロッパ戦後史(下)」プロローグ:「死者の家から」:ファイナルフレーズ
「これから先、アウシュビッツの焼却場からある種のヨーロッパを築きあげることが何故それほどまでに重要と考えられたのか、その理由を思い起こそうとするならば、歴史だけが頼りになる。
恐ろしい過去の標識や記号で結び合わされた新しい〈ヨーロッパ〉は、注目すべき成果ではあるが、過去の重荷を永遠に背負いつづけなければならない。ヨーロッパ人がこのきわめて重要な絆を保持しようとするなら、すなわちヨーロッパの過去が引きつづきヨーロッパの現在に、訓戒の意味と道徳的目的を備えさせると言うのであれば、次々と生まれる世代にいちいち新たに教えてやらなければならない。
ヨーロッパ連合は、歴史に応えるものになりえるだろうが、歴史に代わるものとは決してなり得ないのである。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西側における急進的な変化の可能性が拓かれたのは、少なからずアメリカからの援助(及び圧力)のおかげだった。人民戦線の————さらには共産主義の————指針の魅力は薄れてしまった。どちらも困難な時代に適用される処方であって、西側では少なくとも1952年以降は、もはやさほど困難な時代ではなかったのである。したがってその後の数十年間には戦後すぐの時期の不確かな状況など忘れられてしまった。しかし1945年には状況が一変する可能性————いまにも状況が変わる公算————がきわめて現実的なものと思われたので、西ヨーロッパが今ではがわれわれが知っている新たな進路を取ったのは、古き悪霊ども(失業、ファシズム、ドイツの軍国主義、戦争、革命)の復活を阻止するためだった。脱民族の、福祉国家の、協調的で平和なヨーロッパ生まれたのは、今日のヨーロッパ理想主義者たちがたわいのない回想で思い描くような楽観的・野心的・前進的な企図からではなかった。それは不安が産み落とした虚弱な赤ん坊だった。ヨーロッパの指導者たちは、歴史の陰でおびえながら社会改革を実行に移し、過去を寄せつけないための避妊具として新たな諸制度を建設したのである。(9−10)
第二次世界大戦後のヨーロッパの歴史にテーマ性がないと考えているわけではない。まるで反対にテーマはひとつならずある。キツネさながらにヨーロッパはたくさんのことを知っている。
第一に、これはヨーロッパの衰弱の歴史である。ヨーロッパを構成する諸国家のどれとしても、1945年以後は国際的ないし帝国的な地位など望めなかった。この法則の二つの例外————ソヴィエト連邦と、ある程度イギリス————はともに自らを半ヨーロッパにすぎぬと考えており、いずれにせよ本書で語られる時期の終わりには両者ともに大いに衰弱してしまった。他の大陸ヨーロッパの大半は、敗北と占領の屈辱に甘んじた。ファシズムからの解放を自力で勝ち取ることができず、支援なしでは共産主義を阻止できなかった。戦後ヨーロッパはアウトサイダーによって解放された————あるいは閉じ込められたのだ。(10—11)
第二に20世紀後半十数年のあいだにヨーロッパ史の「マスター・ナラティブ(大きな物語)」というものが色あせてしまった。進歩や文化、革命や変革のモデルに則ってこの世紀の前半にヨーロッパを分裂させた政治的企てや社会運動を焚きつけた、あの偉大なる十九世紀のさまざまな歴史理論は姿を消したのである。これもまた汎ヨーロッパというバランスに描いてみてこそ意味を成す————西側における政治的な熱気の衰退(周辺的な少数派知識人は別として)は、理由はまったく別だったにせよ、東側における政治的な信念の喪失や公式マルクス主義の権威失墜を道連れにしていたのだった。(11)
第三にそして過去のヨーロッパが失ったイディオロギー的大望に替わる控えめな代役として、遅ればせながらも————しかもおおむね偶然的に————「ヨーロッパ・モデル」が登場した。「社会民主党的」「キリスト教民主党的」な立法の折衷的な混合と「ヨーロッパ共同体(EC)」及びそれを受け入れた「ヨーロッパ連合(EU)」のカニの横ばい的な制度拡大から誕生したこの「ヨーロッパ・モデル」とは、社会的交流と国家間関係とを調整する顕著に「ヨーロッパ的」なやり方のことだった。子育てから国家間の法的規範に至るすべてを包括するこのヨーロッパ的アプローチは、ヨーロッパ連合とその加盟諸国が有する官僚的諸慣行以上のものを表象しており、それは二一世紀はじめの時点で前向きなEU加盟諸国の指針となり、手本となり、アメリカに対するグローバルな挑戦となり「アメリカ的生き方」と競合する魅力となったのである。(11〜12)
ヨーロッパは戦争中の苦難の過去へと再突入しつつあるのではない————その正反対にそこから離れつつあるのだ。今日のドイツは、その他のヨーロッパと同じく、過去五〇年間で未だかつてないほどに二○世紀の歴史に自覚的である。しかしそれは、ドイツが前世紀へとひきもどされているという意味ではない。この点に関して、歴史は決してその場を立ち去らなかった。この本が示そうとしているのだが、第二次大戦の長い影は戦後ヨーロッパに重くのしかかった。しかしその罪の全面的な受け入れなど可能だ。ヨーロッパの近い過去についての沈黙は、ヨーロッパの未来を構築するための必要条件なのである。ほぼ二国に一国の割合で起こったつらい論争の後の今日では、善き意図に基づく公式の記憶の正典に対してドイツ人とてついにおおっぴらに疑問を呈し得ると感じて当然なのだ。この点はわれわれにはおもしろくないかもしれないし、それは良いきざしではないかもしれない。しかしそれが一種の終結であることは確かだ。ヒトラーの死から六○年、彼の戦争とそれがもたらした諸結果は歴史になりつつある。ヨーロッパの戦後は長く続いたけれどもそれが最終的に結末を迎えつつある。(15)
第一部戦後・1945————1953年
I 戦争が遺したもの(1)
実際のところ「ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)」政権のドイツに占領された国々————東西はウクライナからフランスまで、南北はギリシャからノルウェーまでの国々では、第二次大戦とは何を措いてもまず一般市民にとっての体験だった。軍隊同士の正式な戦闘が行われたのは、戦争のはじめと終わりだけであった。その中間で戦争とは占領であり、弾圧であり、搾取と絶滅であり、兵士と突撃隊員や警察によって一般市民の日常生活と囚われた幾千万の人びとの生命が支配されたのだ。戦争のあいだ中、占領され続けた国にもあり、いたるところで恐怖と欠乏があった。(20)
第一次大戦とはちがって、第二次大戦————ヒトラーの戦争————はほぼ全世界にとっての体験となった。しかもそれは、長期にわたった————始めから終わりまで参戦していた国(イギリス、ドイツ)にとって六年近くも続いた。チェコスロバキアでは1938年10月ナチのズデーテンランド占領で、戦争は一足先に始めっていた。東ヨーロッパとバルカン諸国では、ヒトラーの敗北が終戦とはならなかった。ドイツの退場後もながい間、(今度はソヴィエト軍による)占領と内戦が続いたのである。(20)
いわずもがなだが、占領をともなう戦争は、ヨーロッパでこれが初めてだったわけではない。それどころか17世紀ドイツにおける「三十年戦争」では、外国の傭兵部隊が農村に住みついて地元住民を恐怖で支配したので、その記憶は各地の神話やおとぎ話として、その後三世紀にわたって民衆のなかに保存されていた。近くは1930年代でスペインのおばあちゃんたちは言うこときかない子どもを叱るとき「ナポレオンが来るよ」と脅したものだ。しかし第二次大戦の被占領体験には特有の強烈さがあった。その理由の一端は、被占領住民に対するナチならではの姿勢にあった。(20)
それまでの占領軍は17世紀ドイツにおけるスウェーデン軍であれ、1815年以降のフランスにおけるプロイセン軍であれ、現地に住みついて地元市民を攻撃殺害してもそれは、時たまのむしろ偶発的なことだった。ところが、1939年以降にドイツの支配下に入った人びとは、ドイツ帝国への奉仕を強いられるか、死滅を運命づけられるかのどちらかだった。ヨーロッパの人びとにとってこれは新しい経験であった。(20)
したがってヨーロッパの近代国家が他のヨーロッパ人を征服し搾取するという目的を最初から掲げて全力で臨むというのは、第二次大戦が始めてだった。戦い、そして勝つために、イギリス人は自らの資源を略奪し蕩尽した。戦争が終わる頃までにイギリスは国民総生産の半分以上を戦費で当てるようになっていた。ところがナチ・ドイツのほうは、とりわけ戦争後期には、その犠牲者から奪い取った経済資源を最大限に活用して戦争を遂行した(ナポレオンも1805年以降これを同じことをしたが、その効率ははるかによかった)。ノルウェー、オランダ、ベルギー、ボヘミヤ[チェコの中西部でチェコ語称チェヒ]とモラヴィア[チェコ東部でチェコ称モラヴァ]、そしてとりわけフランスでは、ドイツの戦争遂行に不承不承の膨大な助力を強要された。これらの諸国の鉱山、工場、農地、鉄道は、ドイツの必要を満たすように命じられ、住民たちはドイツの軍需生産に徴用された————始めは自分の国のなかで、後にドイツまで連れていかれて。1944年9月段階でドイツには748万7000人の外国人がいたが、その大部分がむりやり連れてこられた人びとであり、ドイツの労働者の21%を占めていた。(21)
しかし最大の物的損害を引き起こしたのは、1944年と45年に行われた西側連合軍によるかつてない大規模な空爆とスターリングラードからプラハまで赤軍がおこなった情け容赦のない進撃だった。フランス大西洋岸の諸都市ロワイアン、ルアーブル、カーンは、アメリカ空軍によって破壊された。ハンブルグ、ケルン、デュッセルドルフ、ドレスデン、その幾十ものドイツの都市が、イギリスとアメリカの絨毯爆撃によって灰燼に帰した。東部では、ベラルーシの首都ミンスクの80%が戦争終結までに破壊され、ウクライナのキエフは瓦礫と化し、ポーランドの首都ワルシャワでは、1944年の秋、家という家、街という街が退却するドイツ軍によって意図的に火を放たれ、爆破されたのである。ヨーロッパの戦争が終わったとき、すなわち1945年5月の最後の14日間で4万トンもの砲弾が浴びせられてベルリンが赤軍に陥落したとき、このドイツの首都は、くすぶりつづける瓦礫とねじ曲がった金属片の山にすぎなくなっていた。その建物の75%が住居不可能な状態だった。(22)
しかしフランス人はそれと自覚していなかったが、まだしも幸運だった。イギリス人、オランダ人、デンマーク人、イタリア人とて同様に幸運だった————オランダでは、21万9000ヘクタールの土地にドイツ人が押し寄せ、1945年時点で鉄道、道路、運河による輸送の40%まで落ち込んだし、ノルウェーでは、ドイツに占領されていたあいだに、戦前の14%を失ったのだが。うまく利用するだけのためだったにせよ、西ヨーロッパに対するナチのあつかいには幾らかの敬意がこもっており、西ヨーロッパ人はその返礼としてドイツの戦争遂行に対する妨害や反抗をかなり手加減していた。東部及び東南ヨーロッパにおけるドイツ占領軍は無慈悲だったが、それは各地————とりわけギリシャ、ユーゴスラヴィア、ウクライナ————のパルチザンが彼らに対して絶望的ながらも不屈の戦いを挑んだためだけではなかった。(24)
したがって、ドイツ軍の占領とロシア軍の侵攻と、パルチザンの戦争とが東欧で引き起こした物質的な結果というものは、西欧において戦争がもたらした結果とまるで桁違いだった。ソヴィエト連邦で戦争期間中に破壊されたのは7万の村落と1700の都市、それに3万2000の工場と4万マイルの鉄道が加わった。ギリシャでは、この国の生命線というべき商船の三分の二が失われ、森林の三分の一が荒廃し、1000の村が姿を消した。同時にドイツは、占領費用をギリシャの支払い能力を無視してドイツ軍の必要に応じて支出する政策をとったので、ハイパー・インフレを招来してしまった。(24)
ユーゴスラビアの損失は、ぶどう園の25%、全家畜の50%、耕作地と鉄道橋の75%、戦前にあった住居の5分の1、その乏しい工業資産の3分の1、加えて戦前の人口の10分の1が失われた。ポーランドでは、標準ゲージの鉄道の4分の3が使用不能になり、農場の6分の1が生産不能になった。町や都市の大部分が機能停止状態に陥った(全滅したのはワルシャワだけではなかった)。(24)
しかしながら、たいへんな劇的なこれらの数字が伝えるのも事態の一端————陰鬱なる物理的な背景でしかない。ヨーロッパの人びとが戦争中にこうむった物的な損害はひどいものであったが、その人的損失と比較すれば、取るに足らないものだった。戦争が起因となった1936年から1945年のあいだに死亡したヨーロッパ人の数は、おそらく3650万人と見積もられている(これは戦争勃発時のフランスの全人口に等しい)————ここには同期間中に自然死をとげた人は含まれていないし、当時及びその後に戦争のために避妊したり、中絶されたりした子どもの数も含まれていない。(24〜25)
死者の総数は、死者の総数は信じがたいものだ(この数字には日本人やアメリカ人など非ヨーロッパ人の死者は含まれていない)。1914年〜18年の大戦の死亡者数もひどいものだが、それが小さくみえてしまう。これほどの短期間にかくも多数の人が殺された戦いは、歴史の記録にない。しかも衝撃的なのは、死者に占める非戦闘員の数である。すくなくとも1900万人、つまり全死亡者数の半分以上なのだ。一般市民の死者数が軍人の死者数を越えたのは、ソ連、ハンガリー、ポーランド、ユーゴスラヴィア、ギリシャ、フランス、オランダ、ベルギー、ノルウェーだった。(25)
以下に一般市民の死因をあげよう。死の収容所と、南はオデッサから北はバルト海までのキリング・フィールドにおける大量殺戮。病気、栄養不足、飢餓(意図的その他)。ドイツ国防軍、ソ連赤軍、あらゆる種類のパルチザンによる人質の射殺および焼殺。一般市民に対する報復殺人。戦争全期にわたる東部戦線、1944年6月ノルマンディー上陸から翌年5月ヒトラーの敗北までの西部での、農村および都市における空爆・砲撃・歩兵戦の巻き添え。難民の列に向かって故意に行われた機銃掃射。軍需産業と刑務所における奴隷労働のあげくの死。(25)
こうした数字から考えると戦後のヨーロッパ、とくに中東ヨーロッパが急激な男性不足に見舞われたとしても驚くに当たらない。ソヴィエト連邦では女性の数が男性を2000万人も上回ったが、これを正常にもどすのに1世代30年を要するアンバランスである。ソヴィエトの農村経済は、あらゆる種類の労働を大幅に女性に依存していたが、それは男性のみならず馬もほとんどいなかったからである。ユーゴスラヴィアでは、15歳以上の男性は、すべて銃殺するというドイツ軍の報復作戦のせいで、成人男性が一人も残っていない村が数多くあった。ドイツ自体においても、1918年生まれBの男性の三人に二人はヒトラーの戦争を生き延びることができなかった。詳しい数字の残っているベルリン郊外のトレプトウ地区では1946年2月の時点で、19歳から21歳の成人女性1105人に対して男性はわずか181人しかいなかった。(26)
戦争も最後の数ヶ月となって、ソヴィエト軍が中央ヨーロッパとプロイセン東部へ押し寄せているとき、その前方を幾百万の一般市民————大半はドイツ人————が逃亡していた。
アメリカの外交官ジョージ・ケナンは、その光景を回想記のなかでこう述べている。「ソヴィエト軍の進入によってこの地方を見舞った災厄は、近代ヨーロッパのいかなる経験も絶している。現存するすべての証拠で判断する限り、ソヴィエト軍が通過した後に、地元住民が男も女も子どもも一人として生き残っていなかい地域がかなりあったのだ。……ロシア軍が……この地の住民を掃討したやり方は、かつてのアジア遊牧民以来その類例を見ないものだ。」(27)
第二次世界大戦後のヨーロッパの歴史にテーマ性がないと考えているわけではない。まるで反対にテーマはひとつならずある。キツネさながらにヨーロッパはたくさんのことを知っている。
第一に、これはヨーロッパの衰弱の歴史である。ヨーロッパを構成する諸国家のどれとしても、1945年以後は国際的ないし帝国的な地位など望めなかった。この法則の二つの例外————ソヴィエト連邦と、ある程度イギリス————はともに自らを半ヨーロッパにすぎぬと考えており、いずれにせよ本書で語られる時期の終わりには両者ともに大いに衰弱してしまった。他の大陸ヨーロッパの大半は、敗北と占領の屈辱に甘んじた。ファシズムからの解放を自力で勝ち取ることができず、支援なしでは共産主義を阻止できなかった。戦後ヨーロッパはアウトサイダーによって解放された————あるいは閉じ込められたのだ。(10—11)
第二に20世紀後半十数年のあいだにヨーロッパ史の「マスター・ナラティブ(大きな物語)」というものが色あせてしまった。進歩や文化、革命や変革のモデルに則ってこの世紀の前半にヨーロッパを分裂させた政治的企てや社会運動を焚きつけた、あの偉大なる十九世紀のさまざまな歴史理論は姿を消したのである。これもまた汎ヨーロッパというバランスに描いてみてこそ意味を成す————西側における政治的な熱気の衰退(周辺的な少数派知識人は別として)は、理由はまったく別だったにせよ、東側における政治的な信念の喪失や公式マルクス主義の権威失墜を道連れにしていたのだった。(11)
第三にそして過去のヨーロッパが失ったイディオロギー的大望に替わる控えめな代役として、遅ればせながらも————しかもおおむね偶然的に————「ヨーロッパ・モデル」が登場した。「社会民主党的」「キリスト教民主党的」な立法の折衷的な混合と「ヨーロッパ共同体(EC)」及びそれを受け入れた「ヨーロッパ連合(EU)」のカニの横ばい的な制度拡大から誕生したこの「ヨーロッパ・モデル」とは、社会的交流と国家間関係とを調整する顕著に「ヨーロッパ的」なやり方のことだった。子育てから国家間の法的規範に至るすべてを包括するこのヨーロッパ的アプローチは、ヨーロッパ連合とその加盟諸国が有する官僚的諸慣行以上のものを表象しており、それは二一世紀はじめの時点で前向きなEU加盟諸国の指針となり、手本となり、アメリカに対するグローバルな挑戦となり「アメリカ的生き方」と競合する魅力となったのである。(11〜12)
ヨーロッパは戦争中の苦難の過去へと再突入しつつあるのではない————その正反対にそこから離れつつあるのだ。今日のドイツは、その他のヨーロッパと同じく、過去五〇年間で未だかつてないほどに二○世紀の歴史に自覚的である。しかしそれは、ドイツが前世紀へとひきもどされているという意味ではない。この点に関して、歴史は決してその場を立ち去らなかった。この本が示そうとしているのだが、第二次大戦の長い影は戦後ヨーロッパに重くのしかかった。しかしその罪の全面的な受け入れなど可能だ。ヨーロッパの近い過去についての沈黙は、ヨーロッパの未来を構築するための必要条件なのである。ほぼ二国に一国の割合で起こったつらい論争の後の今日では、善き意図に基づく公式の記憶の正典に対してドイツ人とてついにおおっぴらに疑問を呈し得ると感じて当然なのだ。この点はわれわれにはおもしろくないかもしれないし、それは良いきざしではないかもしれない。しかしそれが一種の終結であることは確かだ。ヒトラーの死から六○年、彼の戦争とそれがもたらした諸結果は歴史になりつつある。ヨーロッパの戦後は長く続いたけれどもそれが最終的に結末を迎えつつある。(15)
第一部戦後・1945————1953年
I 戦争が遺したもの(1)
実際のところ「ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)」政権のドイツに占領された国々————東西はウクライナからフランスまで、南北はギリシャからノルウェーまでの国々では、第二次大戦とは何を措いてもまず一般市民にとっての体験だった。軍隊同士の正式な戦闘が行われたのは、戦争のはじめと終わりだけであった。その中間で戦争とは占領であり、弾圧であり、搾取と絶滅であり、兵士と突撃隊員や警察によって一般市民の日常生活と囚われた幾千万の人びとの生命が支配されたのだ。戦争のあいだ中、占領され続けた国にもあり、いたるところで恐怖と欠乏があった。(20)
第一次大戦とはちがって、第二次大戦————ヒトラーの戦争————はほぼ全世界にとっての体験となった。しかもそれは、長期にわたった————始めから終わりまで参戦していた国(イギリス、ドイツ)にとって六年近くも続いた。チェコスロバキアでは1938年10月ナチのズデーテンランド占領で、戦争は一足先に始めっていた。東ヨーロッパとバルカン諸国では、ヒトラーの敗北が終戦とはならなかった。ドイツの退場後もながい間、(今度はソヴィエト軍による)占領と内戦が続いたのである。(20)
いわずもがなだが、占領をともなう戦争は、ヨーロッパでこれが初めてだったわけではない。それどころか17世紀ドイツにおける「三十年戦争」では、外国の傭兵部隊が農村に住みついて地元住民を恐怖で支配したので、その記憶は各地の神話やおとぎ話として、その後三世紀にわたって民衆のなかに保存されていた。近くは1930年代でスペインのおばあちゃんたちは言うこときかない子どもを叱るとき「ナポレオンが来るよ」と脅したものだ。しかし第二次大戦の被占領体験には特有の強烈さがあった。その理由の一端は、被占領住民に対するナチならではの姿勢にあった。(20)
それまでの占領軍は17世紀ドイツにおけるスウェーデン軍であれ、1815年以降のフランスにおけるプロイセン軍であれ、現地に住みついて地元市民を攻撃殺害してもそれは、時たまのむしろ偶発的なことだった。ところが、1939年以降にドイツの支配下に入った人びとは、ドイツ帝国への奉仕を強いられるか、死滅を運命づけられるかのどちらかだった。ヨーロッパの人びとにとってこれは新しい経験であった。(20)
したがってヨーロッパの近代国家が他のヨーロッパ人を征服し搾取するという目的を最初から掲げて全力で臨むというのは、第二次大戦が始めてだった。戦い、そして勝つために、イギリス人は自らの資源を略奪し蕩尽した。戦争が終わる頃までにイギリスは国民総生産の半分以上を戦費で当てるようになっていた。ところがナチ・ドイツのほうは、とりわけ戦争後期には、その犠牲者から奪い取った経済資源を最大限に活用して戦争を遂行した(ナポレオンも1805年以降これを同じことをしたが、その効率ははるかによかった)。ノルウェー、オランダ、ベルギー、ボヘミヤ[チェコの中西部でチェコ語称チェヒ]とモラヴィア[チェコ東部でチェコ称モラヴァ]、そしてとりわけフランスでは、ドイツの戦争遂行に不承不承の膨大な助力を強要された。これらの諸国の鉱山、工場、農地、鉄道は、ドイツの必要を満たすように命じられ、住民たちはドイツの軍需生産に徴用された————始めは自分の国のなかで、後にドイツまで連れていかれて。1944年9月段階でドイツには748万7000人の外国人がいたが、その大部分がむりやり連れてこられた人びとであり、ドイツの労働者の21%を占めていた。(21)
しかし最大の物的損害を引き起こしたのは、1944年と45年に行われた西側連合軍によるかつてない大規模な空爆とスターリングラードからプラハまで赤軍がおこなった情け容赦のない進撃だった。フランス大西洋岸の諸都市ロワイアン、ルアーブル、カーンは、アメリカ空軍によって破壊された。ハンブルグ、ケルン、デュッセルドルフ、ドレスデン、その幾十ものドイツの都市が、イギリスとアメリカの絨毯爆撃によって灰燼に帰した。東部では、ベラルーシの首都ミンスクの80%が戦争終結までに破壊され、ウクライナのキエフは瓦礫と化し、ポーランドの首都ワルシャワでは、1944年の秋、家という家、街という街が退却するドイツ軍によって意図的に火を放たれ、爆破されたのである。ヨーロッパの戦争が終わったとき、すなわち1945年5月の最後の14日間で4万トンもの砲弾が浴びせられてベルリンが赤軍に陥落したとき、このドイツの首都は、くすぶりつづける瓦礫とねじ曲がった金属片の山にすぎなくなっていた。その建物の75%が住居不可能な状態だった。(22)
しかしフランス人はそれと自覚していなかったが、まだしも幸運だった。イギリス人、オランダ人、デンマーク人、イタリア人とて同様に幸運だった————オランダでは、21万9000ヘクタールの土地にドイツ人が押し寄せ、1945年時点で鉄道、道路、運河による輸送の40%まで落ち込んだし、ノルウェーでは、ドイツに占領されていたあいだに、戦前の14%を失ったのだが。うまく利用するだけのためだったにせよ、西ヨーロッパに対するナチのあつかいには幾らかの敬意がこもっており、西ヨーロッパ人はその返礼としてドイツの戦争遂行に対する妨害や反抗をかなり手加減していた。東部及び東南ヨーロッパにおけるドイツ占領軍は無慈悲だったが、それは各地————とりわけギリシャ、ユーゴスラヴィア、ウクライナ————のパルチザンが彼らに対して絶望的ながらも不屈の戦いを挑んだためだけではなかった。(24)
したがって、ドイツ軍の占領とロシア軍の侵攻と、パルチザンの戦争とが東欧で引き起こした物質的な結果というものは、西欧において戦争がもたらした結果とまるで桁違いだった。ソヴィエト連邦で戦争期間中に破壊されたのは7万の村落と1700の都市、それに3万2000の工場と4万マイルの鉄道が加わった。ギリシャでは、この国の生命線というべき商船の三分の二が失われ、森林の三分の一が荒廃し、1000の村が姿を消した。同時にドイツは、占領費用をギリシャの支払い能力を無視してドイツ軍の必要に応じて支出する政策をとったので、ハイパー・インフレを招来してしまった。(24)
ユーゴスラビアの損失は、ぶどう園の25%、全家畜の50%、耕作地と鉄道橋の75%、戦前にあった住居の5分の1、その乏しい工業資産の3分の1、加えて戦前の人口の10分の1が失われた。ポーランドでは、標準ゲージの鉄道の4分の3が使用不能になり、農場の6分の1が生産不能になった。町や都市の大部分が機能停止状態に陥った(全滅したのはワルシャワだけではなかった)。(24)
しかしながら、たいへんな劇的なこれらの数字が伝えるのも事態の一端————陰鬱なる物理的な背景でしかない。ヨーロッパの人びとが戦争中にこうむった物的な損害はひどいものであったが、その人的損失と比較すれば、取るに足らないものだった。戦争が起因となった1936年から1945年のあいだに死亡したヨーロッパ人の数は、おそらく3650万人と見積もられている(これは戦争勃発時のフランスの全人口に等しい)————ここには同期間中に自然死をとげた人は含まれていないし、当時及びその後に戦争のために避妊したり、中絶されたりした子どもの数も含まれていない。(24〜25)
死者の総数は、死者の総数は信じがたいものだ(この数字には日本人やアメリカ人など非ヨーロッパ人の死者は含まれていない)。1914年〜18年の大戦の死亡者数もひどいものだが、それが小さくみえてしまう。これほどの短期間にかくも多数の人が殺された戦いは、歴史の記録にない。しかも衝撃的なのは、死者に占める非戦闘員の数である。すくなくとも1900万人、つまり全死亡者数の半分以上なのだ。一般市民の死者数が軍人の死者数を越えたのは、ソ連、ハンガリー、ポーランド、ユーゴスラヴィア、ギリシャ、フランス、オランダ、ベルギー、ノルウェーだった。(25)
以下に一般市民の死因をあげよう。死の収容所と、南はオデッサから北はバルト海までのキリング・フィールドにおける大量殺戮。病気、栄養不足、飢餓(意図的その他)。ドイツ国防軍、ソ連赤軍、あらゆる種類のパルチザンによる人質の射殺および焼殺。一般市民に対する報復殺人。戦争全期にわたる東部戦線、1944年6月ノルマンディー上陸から翌年5月ヒトラーの敗北までの西部での、農村および都市における空爆・砲撃・歩兵戦の巻き添え。難民の列に向かって故意に行われた機銃掃射。軍需産業と刑務所における奴隷労働のあげくの死。(25)
こうした数字から考えると戦後のヨーロッパ、とくに中東ヨーロッパが急激な男性不足に見舞われたとしても驚くに当たらない。ソヴィエト連邦では女性の数が男性を2000万人も上回ったが、これを正常にもどすのに1世代30年を要するアンバランスである。ソヴィエトの農村経済は、あらゆる種類の労働を大幅に女性に依存していたが、それは男性のみならず馬もほとんどいなかったからである。ユーゴスラヴィアでは、15歳以上の男性は、すべて銃殺するというドイツ軍の報復作戦のせいで、成人男性が一人も残っていない村が数多くあった。ドイツ自体においても、1918年生まれBの男性の三人に二人はヒトラーの戦争を生き延びることができなかった。詳しい数字の残っているベルリン郊外のトレプトウ地区では1946年2月の時点で、19歳から21歳の成人女性1105人に対して男性はわずか181人しかいなかった。(26)
戦争も最後の数ヶ月となって、ソヴィエト軍が中央ヨーロッパとプロイセン東部へ押し寄せているとき、その前方を幾百万の一般市民————大半はドイツ人————が逃亡していた。
アメリカの外交官ジョージ・ケナンは、その光景を回想記のなかでこう述べている。「ソヴィエト軍の進入によってこの地方を見舞った災厄は、近代ヨーロッパのいかなる経験も絶している。現存するすべての証拠で判断する限り、ソヴィエト軍が通過した後に、地元住民が男も女も子どもも一人として生き残っていなかい地域がかなりあったのだ。……ロシア軍が……この地の住民を掃討したやり方は、かつてのアジア遊牧民以来その類例を見ないものだ。」(27)
by inmylife-after60
| 2016-04-08 18:52
| 歴史認識・歴史学習
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