「ヨーロッパ戦後史(上:1945〜1971)」ノート(2) |
主として犠牲となったのは成人男性(生き残っていたとして)とあらゆる年齢層の女性たちだった。クリニックや医師からの報告によると、ウィーンでは赤軍到着後の三週間のうちにソヴィエト軍兵士によって87000人の女性が強姦された。ベルリンではソヴィエト軍の進撃で、それよりやや多目の数の女性が強姦されたが、その大半は5月2日から7日の週でドイツ降伏直後のことだった。以上の二つは、ともに控え目の数字のはずであり、しかもそこにはオーストラリアへの進撃途上や、ポーランドからドイツへと進攻したソヴィエト軍の行く手にあった村と町での女性襲撃は含まれていないのである。(27)
こうした赤軍の行動は、秘密でも何でもなかった。ユーゴスラヴィアのパルチザン(ゲリラ)活動でチトーの密接な協力者であり、当時熱烈な共産党員だったミロヴィア・ジラスはこの問題を直接スターリンにぶつけた。ジラスが記録しているこの独裁者の反応は、われわれの蒙を啓いてくれる。————「ジラス、おまえは作家のくせに人間の苦しみや人間の心をしらないのか?作家のくせに、血と火と死をくぐり抜けてきた兵士たちがちょっと女をいたぶったからといって連中の気持ちが分からないのか?」(27)
グロテスクではあるけれどもスターリンは半分正しかった。ソヴィエト軍には休暇制度というものがなかった。歩兵や戦車乗務員の多くはロシアからウクライナへと、ソヴィエト連邦の西部を三年間たてつづけの戦闘と行軍で反撃してきたのだった。その進撃の途上で彼らが見聞きしてきたのは、ドイツの残虐行為を示すおびただしい証拠だった。まずヴォルガ川やモスクワ、レニングラード両市へと向かう意気揚々たる進撃であり、次に忌々しくも血みどろの退却があったが、その行く手にいた捕虜、一般市民、パルチザン、あらゆる物に対するドイツ国防軍の暴虐ぶりは、その地表とその地の人びとの魂のなかにはっきりと形跡を残していたのである。(27〜28)
赤軍は西へと進む途上のハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィアでも強姦と略奪(ここでもこの野蛮な表現がふさわしい)を行ったが、ドイツ女性の被害はまさに最悪だった。ドイツのソヴィエト占領地域では1945年〜46年に15万人から20万人の「ロシア・ベビー」が生まれているが、この数字には中絶は勘案されていない————中絶の結果、望まぬ胎児とともに多くの女性が死亡した。生き残った幼児の多くは孤児やホームレスになった子どもの数に加えられた————戦争が捨てた漂流貨物である。(28)
スターリンはすでに戦前からソヴィエト帝国内全民族の強制移住を継続的に実施していた。1939~41年にゆうに100万人を超す人びとがソヴィエト占領のポーランド、ウクライナ西部やバルト海沿岸地方から東方へと強制移住させられた。同じ時期にはナチもポーランド西部から75万人のポーランド人農民を東方へと強制退去させ、空いた土地を「在外ドイツ人」、つまり民族としてのドイツ人に提供した。彼らは東ヨーロッパの占領地域にいたドイツ人で、新たに拡張されたドイツ帝国への「帰国」となったのである。これによっておよそ12万人のバルト・ドイツ人のほか、ソヴィエト占領のポーランドから13万6000人、ルーマニアから20万人、その他がこの地域に移住してきた————数年後にはそのすべてが追い立てられるのだが。したかって、ドイツ占領の東方地域の人種の強制移住やジェノサイト(集団殺戮)というヒトラーの政策は、中世以来広範囲に広がったドイツ人入植地のすべてをドイツ帝国に帰属させる(さらには新たに犠牲者から奪った土地に住まわせる)というナチの計画と直接関連づけて理解しなくてはならない。ドイツ人はスラブ人を追い払い、ユダヤ人を絶滅させ西からも東からも奴隷労働者を輸入したのである。(32)
こうして1945年におこったこと、そして1年前から起こりかけていたことというのは、民族浄化と強制移住の未曾有の実践だった。そのなかには「自発的な」民族分離も含まれていた。安全でもなければ歓迎されてもいないポーランドを離れたユダヤ人生存者やユーゴスラヴィアの支配下で暮らすよりは、イストラ半島[アドリア海北端]から退去したイタリア人がその例である。占領軍に協力した少数民族の多くはドイツ国防軍と一緒に退却して、その地の少数民族あるいは赤軍からの報復を回避し、その後戻らなかった————すなわちユーゴスラヴィアにいたイタリア人、ハンガリーに占領されたが、今やルーマニアの支配と復帰したトランシルバニア[ルーマニア中部・北西部]の北部にいたハンガリー人、ソヴィエト連邦西部にいたウクライナ人などである。(34)
第一次大戦の決着においては、新たに設けられたり変更されたりしたのは、国境線のほうで全体として住民はその場に留まった。1945年の後に起こったことは、その反対のことであり、大きな例外を除き国境線は、概して元のままその代わり人びとが移住させられた。西側の政策立案者のあいだには、ヴェルサイユ条約の少数民族条項は失敗であり、それを蒸し返そうとするのは、誤りだという気持ちがあった。こうした理由から、彼らは唯々諾々と強制移住に同意したのである。中東ヨーロッパの生き残り民族が実効ある国際的保護を受けられない場合には、もっとゆとりある場所に彼らを送り込んだらよかろう、いうわけだ。「民族浄化」という言葉はなかったが、現実は確実に存在した————そしてそれが大きな避難や困惑を呼び覚ますにはほど遠い状況であった。(37)
例外は、いつもながらポーランドだった。ポーランドの地理的再整理とは、その東部国境地帯の6万9000平方マイルをソヴィエト連邦に取られる代償として、オーデル・ナイセ両川の東側のドイツ領から地味のよい4万平方マイルを受け取るという劇的なもので、その影響をこうむる土地に住むポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人にとっては重大問題であった。しかし1945年の諸事情の下ではこれは異常なことであり、むしろスターリンが自分の帝国の西辺でもくろんだ全般的な領土再編の一環として理解すべきだろう。つまりスターリンは、ルーマニアからベッサラビア[現在のモルドヴァとウクライナの一部にわたる地域]を取り戻し、ルーマニアとチェコスロヴァキアからそれぞれブコヴィア[ルーマニア北東部]とサブ・カルパティア[カルパティア山脈]のルテニア[ポーランド南東部とウクライナ西部にまたがる地域の歴史的呼称]を奪い取り、バルト諸国をソヴィエト連邦に併合し、戦争中にフィンランドから奪ったカレリア地方を保持したのである。(37)
第一に、外国軍隊のたてつづけの占領は必然的にその地の支配者の権威と正当性を浸食した。名目上自律を謳っていてもフランスのビッシー政権は————ヨゼフ・ティソ神父のスロヴァキア政権や、ザグレブに置かれたバヴェリッジのウスタシャ政権と同じく、ヒットラーを頼りにするその手先であり、大半の人びとはそれを知っていた。オランダやボヘミヤでナチに協力した現地当局は、都市レベルでは一定の指導性を保持したものの、それはご主人様であるドイツ軍の意向に抵触しない限りのことだった。もっと東のほうでは、ナチそして後にソヴィエトは既存の制度機構に替えて自分たちの人員や組織を据えたのだが、その地における分裂や野心を一時でもうまく利用したほうがいい場合は別だった。皮肉なことだがすくなくとも1944年までその地で一定の実質的な独立を確保したのは、ナチと同盟した結果自治を任された国々————すなわちフィンランド、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー————だけであった。(48)
ドイツとソヴィエト連邦の中心地域とを除くと、第二次大戦に巻き込まれた大陸ヨーロッパの国家のすべてはすくなくとも二度占領された————はじめは敵軍によって、次は解放軍によって。国によっては————ポーランド、バルト諸国、ギリシャ、ユーゴスラヴィアのことだが————占領は5年で3回に及んだ。たとえば、ギリシャでは、戦前の独裁者メタクサスは旧来の議会政治階級を排除した。ドイツ軍はそのメタクサスを解任した。次にドイツ軍も追い出され、その協力者たちが危険な立場となり、面目失墜となった。(48)
旧来の社会的・経済的なエリート層の一層こそおそらく劇的変化の最たるものであった。ナチによるヨーロッパ・ユダヤ人の殲滅は、そのこと自体が破壊的だったというだけではない。ユダヤ人が医師や弁護士や実業家や大学教授という専門職を勤めていた中央ヨーロッパの数多くの町や都市が甚大な社会的な影響をこうむったのである。しばらくするとすでに見た通り、多くの場合、同じ町でその地のブルジョアジーの重要な部分————つまりドイツ人————も排除された。その結果、社会的風景の根底的な変容だった————そしてポーランド人、バルト人、ウクライナ人、スロヴァキア人、ハンガリー人その他の人びとが退去していった人びとの仕事(と家)を踏襲した。(48〜49)
中東ヨーロッパにおいて、その地の住民が追放された少数者に取って代わったという水平化プロセスこそ、ヒトラーがヨーロッパ社会史にもたらした永続的貢献である。ドイツの計画は、ポーランド及びソヴィエト連邦西部のユダヤ人とその地の教育あるインテリ層を壊滅し、それ以外のスラブ人を新たな農奴の地位に陥れ、土地と統治権とを再移住したドイツの手に収めることだった。しかし赤軍が到着しドイツ軍が追われることで、その新状況はソヴィエト軍による真に急進的な計画に特段の適合性をもっていることを明らかにした。(49)
こうなったのは、占領期間中に起こったのが、暴力で強制された急速かつ上方向の社会流動現象だったというだけではなく、法治国家における法と社会習慣の完全な崩壊でもあったからである。ドイツによる大陸ヨーロッパの占領は、全能かつ遍在的な力の監視下での平和と秩序の到来と考えていては誤解を招きやすい。すべての被占領地域のなかで最も広範な治安と抑圧が行き届いたポーランドにおいてさえ、社会は新たな支配者を無視して機能しつづけていた。ポーランド人は、地上と並行的な地下世界を自力でつくりあげ、新聞、学校、文化活動、福祉活動、経済交換、さらには軍隊さえあった————すべてはドイツ軍によって禁じられた活動であり、違法で身に大きな危険を招く行為だった。(50~51)
要するに、各人が各人に対して恐れを抱く、十分な理由があったのだ。個人が個人に猜疑心をもち、何らかの逸脱とか不当権利の廉でたちどころに他人を告発した。上からの保護は当てにできなかった。実際のところ、権力をもつ者ほど無法なふるまいが多かった。1939〜45年の期間、大半のヨーロッパ人にとって権利など————市民的な権利、法的な権利、政治的な権利のいずれも————もはや存在しなかった。国家は、法と正義の保管所であることを止めてしまったどころか、ヒトラーの「新秩序」政府は、それ自体が最悪の略奪者となった。生命と身体にたいするナチの態度はひどいものであることは間違いないが、財産に対する彼らの扱いこそ戦後世界のあり方を決めた最重要の現実的遺産である。(51)
ドイツの占領下では、財産権などあっても偶然的なものであった。ヨーロッパのユダヤ人は金銭、商品、家屋、店舗、事業などをいとも簡単に剥ぎ取られた。彼らの財産は、ナチ党員、その協力者、その友人のあいだで山分けされ、残りはそれぞれの地域社会で略奪や窃盗の対象とされた。しかし押収や没収は、ユダヤ人に限らなかった。所有の「権利」など頼りないもの、無意味なものであり、権力者の善意か利害か気まぐれだけに依拠していることが見せつけられたのである。(51)
こうした急進的・強制的な財産処理が続くなかで、負け組のみならず勝ち組も生まれた。ユダヤ人その他の民族的犠牲者が追い払われた後、その店舗やアパートメントには現地の人びとが住みつき、その道具類、家具類、衣類は、新しい持ち主に没収されるか盗み取られた。このプロセスが最も進んだのがオデッサからバルト海までの「キリング・ゾーン」であったが、しかしどこでも起こった————1945年、強制収容所の生存者たちがパリやプラハに帰還すると自分の家には戦時中の「不法占占拠者」が住みついていることが多く、彼らは断固自分の権利を主張して立ち退きを拒んだ。こうして何十万人のふつうのハンガリー人、ポーランド人、チェコ人、オランダ人、フランス人などが、ナチが行ったジェノサイトの受益者となったばかりか、共謀者となったのだ。(51)
新たに解放された西ヨーロッパ諸国家の状況は、当時最悪だった。アメリカ合衆国ドイツ管理委員会のジョン・J・マイクロの言葉によれば、中央ヨーロッパで起こったことは、「経済、社会、政治の完全な崩壊であって、……ローマ帝国に崩壊を別にすれば、その規模たるや歴史的前例のないこと」だった。マイクロは語っていたのはドイツのことで、そこでは連合国軍政府が、法や秩序や公益業務や通信・運輸や行政などすべてを無から作り上げねばならなかった。しかし少なくとも彼にはその資源があった。東のほうでは、事情ももっと悪かったのである。(53 )
戦争がすべてを変えた。エルベ川の東では、ソヴィエト政府と現地の代表者たちが、過去との急進的な決別がすでに始まっていた亜大陸を継承した。これまで完全な権威失墜とはなっていなかったものまでが、今や回復不能な損傷をこうむった。オスロやブリュッセルやハーグからの亡命政府は、亡命先のロンドンから自国へと帰還して、1940年に放棄せざるを得なかった正当な権威の回復を望むことができた。ところがブカレストやソフィア、ワルシャワ、ブタペスト、またプラハでさえも、旧支配者たちには未来はなかった。彼らの世界はナチによる現状改革の暴力によって掃討されていた。回復不能の過去に取って代わるべき新たな秩序の、政治形態の決定だけが残った。(53)