2016年 04月 17日
堀尾輝久:「憲法九条と幣原喜重郎」(『世界』2016年5月号)を読む。 |
堀尾輝久:「憲法九条と幣原喜重郎」(『世界』2016年5月号)を読む。
安倍内閣の安保法制(戦争法)の次の狙いは、「憲法改正」と伝えられている。憲法改正論者は、9条を含む現行憲法を「アメリカ占領軍(GHQ)によって押しつけられた憲法」として、改憲論議を席巻しようとする。とりわけ憲法9条の成立過程に関しては、その真偽を明示的に示される検証がないとの理由から「押しつけられた」とする論者が多い。
この論考は、9条制定過程に関する真偽について、発足まもない自由民主党政府のもとに設置された憲法調査会(1956年設置、57年岸首相始動)の会長を務めた高柳賢三の論述に注目し、改めて高柳とマッカーサー元帥・ホイットニー准将との往復書簡(昭和34年2月発行)の原文及び翻訳資料(国会図書館憲政資料室所蔵)から、その成立過程を明らかにしようするものである。
まず論考は、この憲法調査会最終答申(1964年)の前に高柳賢三がこの活動のまとめとして発表した「憲法第九条——その成立過程と解釈」(雑誌「自由」1961年12月号)に注目する。そこには以下の記述があると言う。
「第9条の発祥地は東京であり、(1946年)1月24日のマッカーサー・幣原会談に起因する点は疑われていないが、その提案者は幣原かマッカーサーかについて日本でもアメリカでも、疑問とされていた。(中略)しかし調査会の集めたすべての証拠を総合的に熟視してみて、わたしは、幣原首相の提案とみるのが正しいのではないかという結論に達している」(76〜77頁)。「“日本国憲法第9条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップを表徴する不朽の記念塔である”とするマ元帥の言葉は正しい(87頁)。」
この引用の根拠となる判断として、会長高柳賢三が自らアメリカに赴き、ホイットニーを介して行った3つの質問(①占領統治のあり方②天皇制問題③第九条問題)に対するマッカーサーから得た書簡内容について、第九条問題を以下のように明らかにしている。
「3. 貴下の印象は正しいものであります。第九条のいかなる規定も、国の安全を保持するのに必要なすべての措置をとることを妨げるものではありません。わたしは、このことを憲法制定の当時述べましたが、その後(中略)自衛隊を設けるよう勧告しましたが、本条は、専ら外国への侵略を対象としたものであり、世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才とえい知の記念塔として永存することでありましょう」とあると言う。
しかし、会長高柳賢三は、まだこの文面を信じなかったという。日本での解釈を述べた上で、再度の質問を以下のように行ったという。
「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文を入れるように提案しましたか? それとも首相はこのような考えを単に日本の招来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対してそのような考えを憲法に入れるよう勧告したのですか。」
マッカーサーは、1958年12月15日、これに対して「戦争を禁止する条項は憲法に入れようという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対して、わたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関して、おそるおそるわたしくに会見の申込をしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも賛成であるというと、首相は、明らかに安堵の表情を示され、わたくしを感動させました。」
筆者は、同時に九条を生み出した力は、幣原とマッカーサーだけでなく、それを支える力として以下のように提起している。
「それを支えていたものとして、国内での、中江兆民、田中正造、内村鑑三など九条につながる日本の平和思想、国際的には、カント、ユーゴー、ジョレース。デューイもそのなかにいた戦争違法化の思想運動、そして不戦条約、さらには国連憲章。加えて原爆と敗戦の体験のなかでの国民の厭戦と平和への渇望と希求。それこそが九条を生み出す土壌であり、それを支える力であった。」
by inmylife-after60
| 2016-04-17 15:56
| 歴史認識・歴史学習
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