2017年 01月 02日
2016年歴教協日中交流委員会:南京企画参加記 |
1)参加契機と参加動機
この企画を知ったのは、11月初旬に私達が12月10日に開催する「20世紀歴史理解度調査シンポジウム:戦争実感を持たない世代に戦争を始めとする歴史像をいかに育てるか」の提題者の一人として齋藤一晴先生にお願いしたことがきっかけでした。齋藤先生からこの企画を知り、8月から9月にかけて南京に一ヶ月程滞在していたことも忘れて、中国高校生がどのような授業を受けているのかを知りたいと参加させて頂いた。今回参加して、中国の高校学校の現状と問題、今後の方向性を知ることができただけでなく、中国高校生の日本への関心の高さを知り、日本における現代中国に関する認識と対応について考える機会となりました。企画に参加してとても充実した5日間を過ごすことが出来たことに感謝する次第です。
2)南京名門高校授業の参観
最初の南京金陵中学(日本の高校)では、二年生を対象とする「自然地理との対照〜日本の歴史文化の理解」と題する授業を参観した。日本の自然地理環境に伴う日本民族の特性に関する授業、翌日は南京第一高校では一年生を対象とする「南京大虐殺」に関する授業を見学した。南京大虐殺に関する今日の南京市民の認知度と平和戦争観などの意識調査に関する授業であった。尚日本側の行った各高校での授業参観について省略させて頂きます。
【南京第一中学の授業風景】
【南京金陵中学】
南陵高校の授業は、私にとって刺激的な授業であった。それはこれまで「日本民族とはなにか」という問いをしたことがないことによる。
この授業は、日本の地理的資源的狭隘さを俯瞰しながら日本人がどのような行動特性と意識構造をもつものなのかを問うものであった。自然地理環境と民族特性は一定の相補関係がもつが、それを直線的な因果関係とするには無理があるものの、考察すべき価値をもつ授業だと思った。教員の提起する問い:「菊」と「桜」のもつ印象について6人毎に行われたグループ討議の報告を素材に皇室と宗教、恋と愛、陶淵明と気品高さ等の高校生のもつイメージを引き出しながら授業が進められた。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト「菊と刀」と和辻哲郎からの引用による日本と日本人論を紹介し、最後のまとめとして日本人とその著書を通じて自ら学び、自ら判断することが必要と結んだ。
授業後に高校生30名程が参加して行われた交流会では、日本の授業において多用される図版と絵などの分かりやすさに対する評価とともに織田信長、木曾義仲、謳いなどの詩歌、「ものの哀れ」とはなにか、三島由紀夫の自殺の原因、仏教伝来以降の日本の宗教観の変遷、神道の発生過程、外国文化への移入政策、韓国とは異なる日本の漢字政策、デザインやアニメなど日本の芸術性の高さの生まれる要因環境などの質問が相次いだ。
彼らの日本の過去の歴史と現在への関心は、日本人の中国への関心に比べてそのレベルの高さに驚愕させられた。彼らの問題意識は、今日の中国の今日的現状を対照的に思い浮かべながら、日本の文化的伝統を維持しながら経済的な成長と発展を実現したことにあるように思えた。
ある高校生から、日本人の様々な良い面を感じているが、日本人からみて中国人のもつ良い面とはどのように感じていますかとの質問があったので、自分がこの間中国に滞在して中国人の普段の姿と行動を見て感じていた「喜怒哀楽を憚りなく発すことを厭わないこと」という感想を伝えた。これは日本の今日の若者が失ってしまった生態ではないかと思っていたからである。
その後最近発表された歴史教育に関する素案として以下の4つが紹介された。
①「時空」の明確化〜時間軸を伴った地図など図表の活用による判断力の育成
②「歴史事実」に対する分析能力の育成〜文字から図表の読み取り能力の育成
③「試験の変更」〜分野別(政治・経済・文化)から総合的思考と判断力への転換
④「概念とその理解」から「歴史事実」から出発した「総合的分析力」の育成
つまり、教えられたことを記憶するのではなく、事実をしっかり分析し、そこから読み取れることは何かを問い、未来に活かせる能力を磨こうという方針だと感じた。
この方策は、正しいが故にどのような方法で実現していくのか、日本の学校教育にも問われる問題と課題だと思った。
今回の授業では、6人グループでの学習場面を見学して、この学習方法は高校での普遍的方法かを問うことができた。先生からこのような方法は、ここでは1年生を対象にしたタイプであり、2年生以上は模擬試験と大学受験の関係からこの方法は採用していないと言う。中国では3年生の6月に実施される「高考」(全国大学統一入試)で志望校の合否が判定されることから、入試問題との関係もあるが、一発勝負の受験環境ではグループ学習を重視した授業方法には制約があるのだと思った。
【日本側の授業「明は琉球に何を求めたか 〜進貢船は手作り】
【南京第一中学】
南京第一中学では、高校1年生を対象とする45分間の「南京大虐殺」に関する授業を見学した。この授業は、金陵中学とは対照的に教員によるパワーポイントによる授業であり、幾つかの部分を生徒が補充する形式で行われた。典型的な公開授業の方法だと思った。
教員から南京大虐殺と南京第一中学の卒業生が中国航空隊に入隊し、南京爆撃に飛来した日本軍機と英雄的に戦った同窓生との交流などを10分ほど紹介したあとに、13日の第3回国家公祭式典にむけて取り組んだ「抗日戦争と南京大虐殺」に関する街頭アンケート調査に関する取り組みが生徒より紹介された。
調査カ所(商業地区5、観光地地区1、図書館博物館地区2、学校地区2)。サンプル数は、街頭インタビュー者456名に対して拒絶者223名、成功率51%。有効数239(無効38名)である。また年齢構成は、10〜18歳20%、19〜40歳28%、41〜60歳44%、60歳以上8%。階層構成は、学生20%、企業職員44%、企業経営23%、退職者8%。南京大虐殺はいつだったかの認知度は、判らないが18%、時期は正確に言えないが22%、正確に知っていたのは、59%。虐殺人数は30万人が84%、20万が8%、判らないが8%。国家公祭日は、知っているが74%、正確には判らないが18%、判らないが7%。1945年8月15日は、日本の無条件降伏日が48%、南京解放日37%、南京陥落日14%。抗日戦争期間は、1938年〜1945年が37%、1937年〜1945年22%、1937年〜1949年が40%。
次に最近、南京大虐殺に関するテレビドラマなどが放映されているが、この虐殺に関する誤ったイメージを与えるドラマや場面があることに注意してほしい。また公祭日の三日前にある集団虐殺現場で日本の侍に扮して巌流島の決闘場面を放映する番組もあったと紹介された。
中国では忘れることができない日本の侵略戦争に対して、日本の安倍政権下ではこの戦争は侵略戦争ではなく、アジア諸民族を解放する聖戦だとして、A級戦犯をも合祀する靖国神社に参拝する閣僚が絶えない。2001年以降の「新しい歴史教科書」には、「南京事件」を南京軍民に多数の死傷者が出たとし、犠牲者数などの実際には様々な見解があり、今日でも論争が続いている」との記述であり、歴史改竄の動きがとまらない。
しかし南京大虐殺は史実として極東戦争裁判にて判決文1231頁のなかに記されており、中日戦争に関わる南京裁判では虐殺戦犯として第6師団長谷寿夫らが起訴され、死刑を宣告され、1947年4月26日南京郊外の雨花台にて執行された。
今年で3回目を迎える国家公祭日12月13日当日の様子が紹介され、ある日本人による「紫金草」の植樹による追悼と平和への願いの活動を紹介し、怨念を晴らすためではなく平和を祈願する象徴として「紫金草行動」が提起され、公祭日を迎える取り組みをすすめたと紹介された。
その後、アンケートに関わった生徒が登壇し、中日戦争に関わる市民のアンケート結果を発表した。南京大虐殺をどう見るかについては①「とても残忍な行為であり、心が痛む」が25%。「国家的な恥であり、忘れてならない」が35%、「落伍すれば必ず殴られる、これは一種の警告である」が20%、「日本は誤りを認めて軍国主義的な萌芽を産ませてはならない」が20%。今後の日中関係に関する見方として①「戦いがあるかも知れない」が25%、「中日の平和的発展を望む」が44%、「あまり関心がない」11%、日本の侵略書を罵倒する」が18%であったと報告した。
生徒よりの南京市民の比較的理性的な反応と回答を評価するまとめのあと、教員より、集団虐殺のあった現場記念碑として「下関・魚雷栄(39000人以上)」、「鼓楼・漢中門(2000人以上)」、「建業江東門(10000人以上)」、「玄武・北極閣(2000人以上)」、「雨花・花神寺(27239人以上)」、「栖霞・燕子磯江(50000人以上)」の写真とともに市内の記念碑の所在を示す地図を紹介した。また地下鉄「大行宮」にある「利斉巷慰安婦旧跡記念館」、「神岸門」に残る砲弾壁、「南京抗日航空烈士記念碑」、地下鉄珠江路にある「ジョンラーベ記念館」、南京大学にある「金陵大学安全区記念碑」、地下鉄天隆寺にある「南京民間抗日戦争博物館」を紹介した。
その後、世界の広島、アウシュツビッツなどの慰霊記念館を紹介しながら、2014年12回全人代第7回会議で決定した二つの国家公祭日として、9月3日抗日戦争勝利記念日、12月13日南京大虐殺殺難者を紹介し、最後に平和宣言としての鎮魂詞を解説して全員の起立で合唱した。その後生徒達が参観者に紫金草徽章を渡して、授業を終えた。
【南京第一中学(生徒1万人)との懇談会での校長先生の挨拶(左が校長先生)】
3)南京大虐殺記念館の参観
南京記念館では、朱成山前館長の後任の張建軍館長(49歳)からの挨拶を受けた。94年の広島の原爆慰霊式に参加し、これを参考に南京で始めて市主催の慰霊式を挙行し、幸存者を探す本格的調査を日本人を含む南京学生とともに実施し、南京大虐殺を体験した外国人との国際的な史料収集を開始し、現在の記念館活動の典型を創った前館長の仕事を引き継ぐ張建軍館長の今後の活躍に期待したい。
【朱成山前館長の後任:現張建軍館長(49歳)】
今回の参観で、これまで知らなかったことを学ぶことができた。昨年の国家公祭日式典から慰霊式典に献花された紫金草に関わる活動についてである。
【徽章:紫金草】
【紫金草の花】
紫金草は、学名を「オオアラセイトウ」と言い、中国では「諸葛菜」、日本語で「むらさき花だいこん」とも呼ばれる。もともと日本にはない野草であった。この花の来歴は1912年(明治45年)中国人留学生(王長春さん)の案内により、東大薬学科を卒業した山口誠太郎さんが上海、蘇州、南京を訪れたことから始まる。南京の美しい街並みともに紫金山の姿が故郷・茨城県石岡市から見える筑波山に似ていることに親しみを覚えたという。
再び39年日本陸軍衛生材料廠長として訪れた南京は、その光景が一変し、大虐殺直後の凄まじい廃墟であった。この荒廃した街でしかし健気に咲く紫色の花を見つけ、戦争の悲惨さの反省と、平和への「鎮魂花」にしようとその種子を日本に持ち帰り、この花が、紫金山の麓に咲いていたことから「紫金草」と名付け、40年春に庭に咲いた花を平和の花として、その後、種子を東京の山の手線沿線をはじめ各地に広めたと言う。
66年4月日本に住む華僑青年が朝日新聞文芸欄に日本にないはずの紫色の野草は「二月蘭」と呼ばれ、この花をみてとても懐かしいと投稿し、当時77歳になっていた誠太郎さんは夫人からこの文章を読み聴かされて、朝日新聞に連絡し、その来歴と種を無償提供することを申し出たと言う。1985年筑波世界園芸博覧会にて息子さんが参加者に100万粒の種を提供し、世界にこの由来を告げたと言う。
この来歴に感動した大門高子さん(小学校教員)が「紫金草物語」という合唱朗読詩を作詞し、大西進さんが作曲し、98年に初演されてから、これを歌う合唱団が日本各地(東京、府中、千葉、石川、大阪、奈良、宮城)に誕生し、全国紫金草ネットワークとして発足し、2001年には南京で公演して以降、南京と北京で計5回の中国公演を行ってきたという。
14年11月、12月13日の公祭日式典を迎えるにあって、南京電視台が紫金草行動を呼びかけ、その一環としてデザインされた紫金草徽章を付け、紫金草を献花する慰霊式典が挙行されたという。
以下の歌詞を添付する。
「平和の花 紫金草」(:hepingdehua zijincao)【作詞】大門高子【作曲】大西進
1、花が咲いている 紫の 野の 風にゆれる やさしい花よ 海を越えた 平和の種 想いをよせて
花が咲いたよ 和平的花 紫金草 フォービンディホァー ツーチンツァオ(以下一回リフレイン)
2.花は見ていた 戦争の悲しさ 風と歌う レクイエム 過去のあやまち 忘れぬように 祈りをこめて
花を捧げよう 和平的花 紫金草 フォービンディホァー ツーチンツァオ (以下一回リフレイン)
3.花と生きる 広い空見上げて風よ教えて 心のきずなを 大地の友と 共に生きる誓いを胸に
花を咲かそう 和平的花 紫金草 フォービンディホァー ツーチンツァオ (以下三回リフレイン)
記念館訪問の後、幕府山と長江の間にある「草鞋峡」に建てられた侵華南京大虐殺草鞋峡遇難同胞記念碑(南京集団虐殺で最大規模の5万7千余人受難者)を訪問し、多摩地区の参加者の献花に立ち会った。その後「五馬埠頭」という船着き場から長江を見学した。ここは「化龍麗地」として南京四十八景の一つであると言う。五馬埠頭には4頭の馬と大きな1頭の龍の彫像があり、「五馬」の由来は、紀元317年西晋の「八王の乱」を逃れた5王であり、ここ草鞋峡から南京市内に勇躍し司馬容が建業(現南京)を首都する東晋を建国したとの碑文を参加者の川上先生と確認することができた。
【五馬埠頭の彫像】
4)南京利斉巷慰安婦旧址記念館の参観
南京利斉巷慰安婦旧址陳列館は、地下鉄「大行宮」駅から歩いて5分程の市街地にある。この「大行宮」は、地下鉄2号線と3号線が交差する中継駅であり、南京市立図書館、総統府博物館、江寧織造博物館、六朝美術館などの観光施設があり「新街口」とともに南京市の中心部に位置する。
【南京利斉巷慰安婦旧址記念館正面】
利斉巷慰安所は、南京における日本軍の最大の慰安所であり、南京を占領した中支那方面軍は、指令部を総統府に置き、付近にあった国民党中将楊普慶が35年から37年に掛けて建造された洋館を接収改修し、軍指定の慰安所としたと言う。
日本軍による最初の指定慰安所は、1931年11月海軍陸戦隊司令部が貸座席であった「大一サロン(大一沙龍)」を指定したことに始まる。この時期の「慰安婦」は日本人であれ,朝鮮人であれ、娼妓であり, 貧困な山地などから募集された若い女子である。
【上海の大一サロン(大一沙龍)。南京に続く旧跡陳列館の候補建物と言われる】
1932年月淞滬戦役(上海攻防戦)に伴い、絶え間なく上海に援軍を増派し3月迄に上海における陸軍は三万人を超え、大規模な強姦事件や軍紀の弛緩と性病の氾濫につながることを防ぐために,上海派遣軍の岡村寧次副参謀長は、上海の海軍にならって,関西で一回目の陸軍「慰安婦団」を募集し,戦闘の前線に日本軍将兵に性サービスを提供する慰安所を設けた。この「慰安婦団」募集こそ、陸軍による組織的「慰安所」の始まりである。
故に日本軍の慰安所のツールは上海にあると言える。記念館展示によれば、南京は21カ所だが、上海には166カ所の慰安所が設置されたと言う。桁違いの数である。
以下に南京と南京周辺の慰安所の統計表を示す。(統計年次は不明)
南京及び周辺地区における慰安婦施設統計表
駐留地/軍人数/慰安婦数/当慰安婦
南京 25000/141/178
下関 12000/17 /705
常州 1197/9 /133
丹陽 1602/ 6/267
蕪湖 21100/109/194
総数 60899/282/215
慰安婦記念館で一番驚いたことは、「秋子的故事」として現在でも南京を始め各地で開演されている歌劇であった。この故事は1938年4月に起きた事件記事をもとに1941年1月歌劇「秋子」としてシナリオが完成し、重慶にて42年1月31日に初演されたと言う。
【1938年4月に揚州で起きた事件記事】
「秋子的故事」とは、南京大虐殺記念館で頂いた「南京利斉巷慰安婦旧址記念館陳列図集」によれば、以下の通りである。
「新婚三ヶ月の日本青年「宮毅」は日本政府の招集により中国に従軍した。それから間もなく彼の妻秋子と姉妹らは日本政府が組織した「尋夫団」に参加した。この尋夫団は日本を離れるや強制的に従軍慰安婦に改組された。ある日揚州駐留の青年兵士は、慰安所にて一人の「軍妓」を提供された。その「軍妓」は何とあろうか妻秋子であった。慰安所で再会した二人はこの出会いを悲しみ嘆き苦しみこの残忍極まりない戦争を忌み嫌い、揚州慰安所で連れ添って自刃した」と言う。
【2014年12月11日の南京公演場面】
5)交流企画に参加して
この企画旅行は、日中両国の「和解の道」へのプロセスを探ることにあったのだと改めて思った。
加害者側の和解には、まず「過去に生起した現実」を「真実」と認め、その「実現に対する謝罪と再現させない表明」がない限り、被害者との和解は成立しない。それは、国家と国家間に限らず、国家と個人間、個人と個人間の紛争の解決に不可欠な普遍的なプロセスである。
そしてアジア太平洋戦争に関する歴史認識の基点として、この戦争を[起こった戦争:发生战争]と見るか、或いは[起こした戦争:发起战争]として見るかによって、この戦争像に関わる記憶の落差は、計り知れないものとなることである。
日本は中国と1972年に国交を回復するが、1982年教科書検定にて「過去(アジア太平洋戦争)に生起した現実」を国連定義の「侵略」ではなく「進出」と書き換え「侵略」を「聖戦」と改竄し、アジア市民への戦争責任と賠償を土下座外交と吐き捨てる態度を続けてきたことを思えば、和解への道程は遙かに遠ざかるばかりとも言える。
中国における南京大虐殺に関わる本格的研究発表は85年だが、発表の直接的な契機は82年以降の日本の政府文部省による教科書検定における歴史改竄であり、これまでの日本政府への刺激的対応を回避する外交路線を見直し、抗日戦争の歴史的性格を明確にした歴史認識路線に転換した。
それはこれまでの歴史記述を中国革命史と中国共産党史から転換し、更には87年「文革」(66年開始)で否定した走資派路線を「改革開放」と再定義し、解放特区という極めて限られた地域で実行し、全面的な資本主義経済への移行を準備する路線に転換する。その路線の危機的帰結が1989年第二次天安門事件である。その後の愛国教育政策は政権の正当性を立証する活動として、江沢民政権において推進されてきた。
今日の日中関係の冷たさは、この日本政府における歴史改竄とこれを契機とする中国政府の政権の正当性を国内外に確立する愛国救国路線推進の拮抗関係を反映したものだと思う。
いま最も懸念することは、72年から89年までの中国政府の対日外交指針として貫かれていた「政府と、政府の施策によって戦争に狩り出された市民とを明確に峻別し、市民そのものを憎まない」とする基本姿勢が日本における憲法9条を含む改憲勢力の肥大化によって反故にされることである。そのような事態にならないよう日中両国の市民間の友好を深めることが不可欠だと痛感した。
最後にこの企画を準備された歴科協日中交流委員会、今回の団長小林先生と事務局長齋藤先生に敬意を表したい。同時にこの企画の中国側への手配、参加者への通訳、とサポート、最後の会食におけるアコーディオン演奏などをして頂いた南京人民政府の孫曼さんに心から感謝したい。
また参加者から様々な知見と情報を頂いた。とりわけ松陰訓子さんからは、戦前の学校教育に携わった「芦田恵之助」の「七変化」の話を通じて、今日の学校教育の再生にもつながる教育の原点を授けて頂いたように思う。
参加者の皆様へ「本当にありがとうございました。」
この企画を知ったのは、11月初旬に私達が12月10日に開催する「20世紀歴史理解度調査シンポジウム:戦争実感を持たない世代に戦争を始めとする歴史像をいかに育てるか」の提題者の一人として齋藤一晴先生にお願いしたことがきっかけでした。齋藤先生からこの企画を知り、8月から9月にかけて南京に一ヶ月程滞在していたことも忘れて、中国高校生がどのような授業を受けているのかを知りたいと参加させて頂いた。今回参加して、中国の高校学校の現状と問題、今後の方向性を知ることができただけでなく、中国高校生の日本への関心の高さを知り、日本における現代中国に関する認識と対応について考える機会となりました。企画に参加してとても充実した5日間を過ごすことが出来たことに感謝する次第です。
2)南京名門高校授業の参観
最初の南京金陵中学(日本の高校)では、二年生を対象とする「自然地理との対照〜日本の歴史文化の理解」と題する授業を参観した。日本の自然地理環境に伴う日本民族の特性に関する授業、翌日は南京第一高校では一年生を対象とする「南京大虐殺」に関する授業を見学した。南京大虐殺に関する今日の南京市民の認知度と平和戦争観などの意識調査に関する授業であった。尚日本側の行った各高校での授業参観について省略させて頂きます。
【南京金陵中学】
南陵高校の授業は、私にとって刺激的な授業であった。それはこれまで「日本民族とはなにか」という問いをしたことがないことによる。
この授業は、日本の地理的資源的狭隘さを俯瞰しながら日本人がどのような行動特性と意識構造をもつものなのかを問うものであった。自然地理環境と民族特性は一定の相補関係がもつが、それを直線的な因果関係とするには無理があるものの、考察すべき価値をもつ授業だと思った。教員の提起する問い:「菊」と「桜」のもつ印象について6人毎に行われたグループ討議の報告を素材に皇室と宗教、恋と愛、陶淵明と気品高さ等の高校生のもつイメージを引き出しながら授業が進められた。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト「菊と刀」と和辻哲郎からの引用による日本と日本人論を紹介し、最後のまとめとして日本人とその著書を通じて自ら学び、自ら判断することが必要と結んだ。
授業後に高校生30名程が参加して行われた交流会では、日本の授業において多用される図版と絵などの分かりやすさに対する評価とともに織田信長、木曾義仲、謳いなどの詩歌、「ものの哀れ」とはなにか、三島由紀夫の自殺の原因、仏教伝来以降の日本の宗教観の変遷、神道の発生過程、外国文化への移入政策、韓国とは異なる日本の漢字政策、デザインやアニメなど日本の芸術性の高さの生まれる要因環境などの質問が相次いだ。
彼らの日本の過去の歴史と現在への関心は、日本人の中国への関心に比べてそのレベルの高さに驚愕させられた。彼らの問題意識は、今日の中国の今日的現状を対照的に思い浮かべながら、日本の文化的伝統を維持しながら経済的な成長と発展を実現したことにあるように思えた。
ある高校生から、日本人の様々な良い面を感じているが、日本人からみて中国人のもつ良い面とはどのように感じていますかとの質問があったので、自分がこの間中国に滞在して中国人の普段の姿と行動を見て感じていた「喜怒哀楽を憚りなく発すことを厭わないこと」という感想を伝えた。これは日本の今日の若者が失ってしまった生態ではないかと思っていたからである。
その後最近発表された歴史教育に関する素案として以下の4つが紹介された。
①「時空」の明確化〜時間軸を伴った地図など図表の活用による判断力の育成
②「歴史事実」に対する分析能力の育成〜文字から図表の読み取り能力の育成
③「試験の変更」〜分野別(政治・経済・文化)から総合的思考と判断力への転換
④「概念とその理解」から「歴史事実」から出発した「総合的分析力」の育成
つまり、教えられたことを記憶するのではなく、事実をしっかり分析し、そこから読み取れることは何かを問い、未来に活かせる能力を磨こうという方針だと感じた。
この方策は、正しいが故にどのような方法で実現していくのか、日本の学校教育にも問われる問題と課題だと思った。
今回の授業では、6人グループでの学習場面を見学して、この学習方法は高校での普遍的方法かを問うことができた。先生からこのような方法は、ここでは1年生を対象にしたタイプであり、2年生以上は模擬試験と大学受験の関係からこの方法は採用していないと言う。中国では3年生の6月に実施される「高考」(全国大学統一入試)で志望校の合否が判定されることから、入試問題との関係もあるが、一発勝負の受験環境ではグループ学習を重視した授業方法には制約があるのだと思った。
【南京第一中学】
南京第一中学では、高校1年生を対象とする45分間の「南京大虐殺」に関する授業を見学した。この授業は、金陵中学とは対照的に教員によるパワーポイントによる授業であり、幾つかの部分を生徒が補充する形式で行われた。典型的な公開授業の方法だと思った。
教員から南京大虐殺と南京第一中学の卒業生が中国航空隊に入隊し、南京爆撃に飛来した日本軍機と英雄的に戦った同窓生との交流などを10分ほど紹介したあとに、13日の第3回国家公祭式典にむけて取り組んだ「抗日戦争と南京大虐殺」に関する街頭アンケート調査に関する取り組みが生徒より紹介された。
調査カ所(商業地区5、観光地地区1、図書館博物館地区2、学校地区2)。サンプル数は、街頭インタビュー者456名に対して拒絶者223名、成功率51%。有効数239(無効38名)である。また年齢構成は、10〜18歳20%、19〜40歳28%、41〜60歳44%、60歳以上8%。階層構成は、学生20%、企業職員44%、企業経営23%、退職者8%。南京大虐殺はいつだったかの認知度は、判らないが18%、時期は正確に言えないが22%、正確に知っていたのは、59%。虐殺人数は30万人が84%、20万が8%、判らないが8%。国家公祭日は、知っているが74%、正確には判らないが18%、判らないが7%。1945年8月15日は、日本の無条件降伏日が48%、南京解放日37%、南京陥落日14%。抗日戦争期間は、1938年〜1945年が37%、1937年〜1945年22%、1937年〜1949年が40%。
次に最近、南京大虐殺に関するテレビドラマなどが放映されているが、この虐殺に関する誤ったイメージを与えるドラマや場面があることに注意してほしい。また公祭日の三日前にある集団虐殺現場で日本の侍に扮して巌流島の決闘場面を放映する番組もあったと紹介された。
中国では忘れることができない日本の侵略戦争に対して、日本の安倍政権下ではこの戦争は侵略戦争ではなく、アジア諸民族を解放する聖戦だとして、A級戦犯をも合祀する靖国神社に参拝する閣僚が絶えない。2001年以降の「新しい歴史教科書」には、「南京事件」を南京軍民に多数の死傷者が出たとし、犠牲者数などの実際には様々な見解があり、今日でも論争が続いている」との記述であり、歴史改竄の動きがとまらない。
しかし南京大虐殺は史実として極東戦争裁判にて判決文1231頁のなかに記されており、中日戦争に関わる南京裁判では虐殺戦犯として第6師団長谷寿夫らが起訴され、死刑を宣告され、1947年4月26日南京郊外の雨花台にて執行された。
今年で3回目を迎える国家公祭日12月13日当日の様子が紹介され、ある日本人による「紫金草」の植樹による追悼と平和への願いの活動を紹介し、怨念を晴らすためではなく平和を祈願する象徴として「紫金草行動」が提起され、公祭日を迎える取り組みをすすめたと紹介された。
その後、アンケートに関わった生徒が登壇し、中日戦争に関わる市民のアンケート結果を発表した。南京大虐殺をどう見るかについては①「とても残忍な行為であり、心が痛む」が25%。「国家的な恥であり、忘れてならない」が35%、「落伍すれば必ず殴られる、これは一種の警告である」が20%、「日本は誤りを認めて軍国主義的な萌芽を産ませてはならない」が20%。今後の日中関係に関する見方として①「戦いがあるかも知れない」が25%、「中日の平和的発展を望む」が44%、「あまり関心がない」11%、日本の侵略書を罵倒する」が18%であったと報告した。
生徒よりの南京市民の比較的理性的な反応と回答を評価するまとめのあと、教員より、集団虐殺のあった現場記念碑として「下関・魚雷栄(39000人以上)」、「鼓楼・漢中門(2000人以上)」、「建業江東門(10000人以上)」、「玄武・北極閣(2000人以上)」、「雨花・花神寺(27239人以上)」、「栖霞・燕子磯江(50000人以上)」の写真とともに市内の記念碑の所在を示す地図を紹介した。また地下鉄「大行宮」にある「利斉巷慰安婦旧跡記念館」、「神岸門」に残る砲弾壁、「南京抗日航空烈士記念碑」、地下鉄珠江路にある「ジョンラーベ記念館」、南京大学にある「金陵大学安全区記念碑」、地下鉄天隆寺にある「南京民間抗日戦争博物館」を紹介した。
その後、世界の広島、アウシュツビッツなどの慰霊記念館を紹介しながら、2014年12回全人代第7回会議で決定した二つの国家公祭日として、9月3日抗日戦争勝利記念日、12月13日南京大虐殺殺難者を紹介し、最後に平和宣言としての鎮魂詞を解説して全員の起立で合唱した。その後生徒達が参観者に紫金草徽章を渡して、授業を終えた。
3)南京大虐殺記念館の参観
南京記念館では、朱成山前館長の後任の張建軍館長(49歳)からの挨拶を受けた。94年の広島の原爆慰霊式に参加し、これを参考に南京で始めて市主催の慰霊式を挙行し、幸存者を探す本格的調査を日本人を含む南京学生とともに実施し、南京大虐殺を体験した外国人との国際的な史料収集を開始し、現在の記念館活動の典型を創った前館長の仕事を引き継ぐ張建軍館長の今後の活躍に期待したい。
今回の参観で、これまで知らなかったことを学ぶことができた。昨年の国家公祭日式典から慰霊式典に献花された紫金草に関わる活動についてである。
紫金草は、学名を「オオアラセイトウ」と言い、中国では「諸葛菜」、日本語で「むらさき花だいこん」とも呼ばれる。もともと日本にはない野草であった。この花の来歴は1912年(明治45年)中国人留学生(王長春さん)の案内により、東大薬学科を卒業した山口誠太郎さんが上海、蘇州、南京を訪れたことから始まる。南京の美しい街並みともに紫金山の姿が故郷・茨城県石岡市から見える筑波山に似ていることに親しみを覚えたという。
再び39年日本陸軍衛生材料廠長として訪れた南京は、その光景が一変し、大虐殺直後の凄まじい廃墟であった。この荒廃した街でしかし健気に咲く紫色の花を見つけ、戦争の悲惨さの反省と、平和への「鎮魂花」にしようとその種子を日本に持ち帰り、この花が、紫金山の麓に咲いていたことから「紫金草」と名付け、40年春に庭に咲いた花を平和の花として、その後、種子を東京の山の手線沿線をはじめ各地に広めたと言う。
66年4月日本に住む華僑青年が朝日新聞文芸欄に日本にないはずの紫色の野草は「二月蘭」と呼ばれ、この花をみてとても懐かしいと投稿し、当時77歳になっていた誠太郎さんは夫人からこの文章を読み聴かされて、朝日新聞に連絡し、その来歴と種を無償提供することを申し出たと言う。1985年筑波世界園芸博覧会にて息子さんが参加者に100万粒の種を提供し、世界にこの由来を告げたと言う。
この来歴に感動した大門高子さん(小学校教員)が「紫金草物語」という合唱朗読詩を作詞し、大西進さんが作曲し、98年に初演されてから、これを歌う合唱団が日本各地(東京、府中、千葉、石川、大阪、奈良、宮城)に誕生し、全国紫金草ネットワークとして発足し、2001年には南京で公演して以降、南京と北京で計5回の中国公演を行ってきたという。
14年11月、12月13日の公祭日式典を迎えるにあって、南京電視台が紫金草行動を呼びかけ、その一環としてデザインされた紫金草徽章を付け、紫金草を献花する慰霊式典が挙行されたという。
以下の歌詞を添付する。
「平和の花 紫金草」(:hepingdehua zijincao)【作詞】大門高子【作曲】大西進
1、花が咲いている 紫の 野の 風にゆれる やさしい花よ 海を越えた 平和の種 想いをよせて
花が咲いたよ 和平的花 紫金草 フォービンディホァー ツーチンツァオ(以下一回リフレイン)
2.花は見ていた 戦争の悲しさ 風と歌う レクイエム 過去のあやまち 忘れぬように 祈りをこめて
花を捧げよう 和平的花 紫金草 フォービンディホァー ツーチンツァオ (以下一回リフレイン)
3.花と生きる 広い空見上げて風よ教えて 心のきずなを 大地の友と 共に生きる誓いを胸に
花を咲かそう 和平的花 紫金草 フォービンディホァー ツーチンツァオ (以下三回リフレイン)
記念館訪問の後、幕府山と長江の間にある「草鞋峡」に建てられた侵華南京大虐殺草鞋峡遇難同胞記念碑(南京集団虐殺で最大規模の5万7千余人受難者)を訪問し、多摩地区の参加者の献花に立ち会った。その後「五馬埠頭」という船着き場から長江を見学した。ここは「化龍麗地」として南京四十八景の一つであると言う。五馬埠頭には4頭の馬と大きな1頭の龍の彫像があり、「五馬」の由来は、紀元317年西晋の「八王の乱」を逃れた5王であり、ここ草鞋峡から南京市内に勇躍し司馬容が建業(現南京)を首都する東晋を建国したとの碑文を参加者の川上先生と確認することができた。
4)南京利斉巷慰安婦旧址記念館の参観
南京利斉巷慰安婦旧址陳列館は、地下鉄「大行宮」駅から歩いて5分程の市街地にある。この「大行宮」は、地下鉄2号線と3号線が交差する中継駅であり、南京市立図書館、総統府博物館、江寧織造博物館、六朝美術館などの観光施設があり「新街口」とともに南京市の中心部に位置する。
利斉巷慰安所は、南京における日本軍の最大の慰安所であり、南京を占領した中支那方面軍は、指令部を総統府に置き、付近にあった国民党中将楊普慶が35年から37年に掛けて建造された洋館を接収改修し、軍指定の慰安所としたと言う。
日本軍による最初の指定慰安所は、1931年11月海軍陸戦隊司令部が貸座席であった「大一サロン(大一沙龍)」を指定したことに始まる。この時期の「慰安婦」は日本人であれ,朝鮮人であれ、娼妓であり, 貧困な山地などから募集された若い女子である。
1932年月淞滬戦役(上海攻防戦)に伴い、絶え間なく上海に援軍を増派し3月迄に上海における陸軍は三万人を超え、大規模な強姦事件や軍紀の弛緩と性病の氾濫につながることを防ぐために,上海派遣軍の岡村寧次副参謀長は、上海の海軍にならって,関西で一回目の陸軍「慰安婦団」を募集し,戦闘の前線に日本軍将兵に性サービスを提供する慰安所を設けた。この「慰安婦団」募集こそ、陸軍による組織的「慰安所」の始まりである。
故に日本軍の慰安所のツールは上海にあると言える。記念館展示によれば、南京は21カ所だが、上海には166カ所の慰安所が設置されたと言う。桁違いの数である。
以下に南京と南京周辺の慰安所の統計表を示す。(統計年次は不明)
南京及び周辺地区における慰安婦施設統計表
駐留地/軍人数/慰安婦数/当慰安婦
南京 25000/141/178
下関 12000/17 /705
常州 1197/9 /133
丹陽 1602/ 6/267
蕪湖 21100/109/194
総数 60899/282/215
慰安婦記念館で一番驚いたことは、「秋子的故事」として現在でも南京を始め各地で開演されている歌劇であった。この故事は1938年4月に起きた事件記事をもとに1941年1月歌劇「秋子」としてシナリオが完成し、重慶にて42年1月31日に初演されたと言う。
「秋子的故事」とは、南京大虐殺記念館で頂いた「南京利斉巷慰安婦旧址記念館陳列図集」によれば、以下の通りである。
「新婚三ヶ月の日本青年「宮毅」は日本政府の招集により中国に従軍した。それから間もなく彼の妻秋子と姉妹らは日本政府が組織した「尋夫団」に参加した。この尋夫団は日本を離れるや強制的に従軍慰安婦に改組された。ある日揚州駐留の青年兵士は、慰安所にて一人の「軍妓」を提供された。その「軍妓」は何とあろうか妻秋子であった。慰安所で再会した二人はこの出会いを悲しみ嘆き苦しみこの残忍極まりない戦争を忌み嫌い、揚州慰安所で連れ添って自刃した」と言う。
5)交流企画に参加して
この企画旅行は、日中両国の「和解の道」へのプロセスを探ることにあったのだと改めて思った。
加害者側の和解には、まず「過去に生起した現実」を「真実」と認め、その「実現に対する謝罪と再現させない表明」がない限り、被害者との和解は成立しない。それは、国家と国家間に限らず、国家と個人間、個人と個人間の紛争の解決に不可欠な普遍的なプロセスである。
そしてアジア太平洋戦争に関する歴史認識の基点として、この戦争を[起こった戦争:发生战争]と見るか、或いは[起こした戦争:发起战争]として見るかによって、この戦争像に関わる記憶の落差は、計り知れないものとなることである。
日本は中国と1972年に国交を回復するが、1982年教科書検定にて「過去(アジア太平洋戦争)に生起した現実」を国連定義の「侵略」ではなく「進出」と書き換え「侵略」を「聖戦」と改竄し、アジア市民への戦争責任と賠償を土下座外交と吐き捨てる態度を続けてきたことを思えば、和解への道程は遙かに遠ざかるばかりとも言える。
中国における南京大虐殺に関わる本格的研究発表は85年だが、発表の直接的な契機は82年以降の日本の政府文部省による教科書検定における歴史改竄であり、これまでの日本政府への刺激的対応を回避する外交路線を見直し、抗日戦争の歴史的性格を明確にした歴史認識路線に転換した。
それはこれまでの歴史記述を中国革命史と中国共産党史から転換し、更には87年「文革」(66年開始)で否定した走資派路線を「改革開放」と再定義し、解放特区という極めて限られた地域で実行し、全面的な資本主義経済への移行を準備する路線に転換する。その路線の危機的帰結が1989年第二次天安門事件である。その後の愛国教育政策は政権の正当性を立証する活動として、江沢民政権において推進されてきた。
今日の日中関係の冷たさは、この日本政府における歴史改竄とこれを契機とする中国政府の政権の正当性を国内外に確立する愛国救国路線推進の拮抗関係を反映したものだと思う。
いま最も懸念することは、72年から89年までの中国政府の対日外交指針として貫かれていた「政府と、政府の施策によって戦争に狩り出された市民とを明確に峻別し、市民そのものを憎まない」とする基本姿勢が日本における憲法9条を含む改憲勢力の肥大化によって反故にされることである。そのような事態にならないよう日中両国の市民間の友好を深めることが不可欠だと痛感した。
最後にこの企画を準備された歴科協日中交流委員会、今回の団長小林先生と事務局長齋藤先生に敬意を表したい。同時にこの企画の中国側への手配、参加者への通訳、とサポート、最後の会食におけるアコーディオン演奏などをして頂いた南京人民政府の孫曼さんに心から感謝したい。
また参加者から様々な知見と情報を頂いた。とりわけ松陰訓子さんからは、戦前の学校教育に携わった「芦田恵之助」の「七変化」の話を通じて、今日の学校教育の再生にもつながる教育の原点を授けて頂いたように思う。
参加者の皆様へ「本当にありがとうございました。」
by inmylife-after60
| 2017-01-02 22:27
| 歴史認識・歴史学習
|
Trackback
|
Comments(0)