2017年 01月 07日
日本人慰安婦:「秋子的故事」に関する調査について |
日本人慰安婦:「秋子的故事」に関する調査を今年一年かけてやってみる。
【1938年4月日本人兵士と日本人慰安婦の無理心中事件のあった揚州緑楊旅社】
1.調査動機について
昨年2016年8月に南京利済巷慰安婦旧址陳列館を訪問した際に展示されていた「秋子的故事」をみて始めてこの事件と事実を知った。同伴してくれた南京師範大学の院生から、南京では、有名な話として伝承されているとのことであった。
その後12月に再び南京を訪問した時に頂いた「性奴隶梦魇/南京利済巷慰安婦旧址陳列图集」で始めてその経緯を知ることができた。
以下に掲げる記述は前記图集からの転載と筆者和訳である。
1)秋子的故事(中文)
「新婚刚三个月的日本青年宫毅,被日本政府征兵前往中国。不久其妻秋子和家乡的姐妹参与了日本政府组织的“寻夫团”。该寻夫团的脚步一离开日本,就被强行改编成随军“慰安妇”。一天,在华的年轻士兵宫毅要慰安所提供一名军妓,他万万没想到,那名军妓正是其妻子秋子。在两扬州绿杨旅社(当时的慰安所)见面两人,感怀、哀叹、痛苦,因反对这场惨无人道的战争,双双自杀于扬州的绿杨旅社。」
2)秋子の物語(筆者和訳)
「新婚三ヶ月の日本青年「宮毅」は日本政府の招集により中国に従軍した。それから間もなく彼の妻秋子と近隣の姉妹らは日本政府が組織した「尋夫団」に参加した。この尋夫団は日本を離れるや強制的に従軍慰安婦に改組された。ある日揚州駐留の青年兵士は、慰安所にて一人の「軍妓」を提供された。その「軍妓」は何とあろうか妻秋子であった。慰安所で再会した二人はこの出会いを悲しみ嘆き苦しみこの残忍極まりない戦争を忌み嫌い、揚州慰安所(緑楊旅社)で連れ添って自刃した」
しかし、このような歴史的事実及び伝承は日本では全く聴くこともなく、一般にまったく知られていないと思われる。
日本語によるネットで、「秋子的故事」と「南京」で検索したところ、私の今回の訪問記が最初に現れたことから見ても、殆ど知られていない秘話であると思われる。
2.調査対象について
1)「宮毅」の実在証明(出征地と揚州駐留)
2)「宮秋子」の実在証明(出発地と揚州滞在)
3)「尋夫団」の実在証明と結成主旨と目的及び活動内容と範囲
4)「尋夫団」参加者の従軍慰安婦への転身経緯と成立要因
5)無理心中現場である「绿杨旅社」情報の収集
6)無理心中事件に関する一次記録(新聞・雑誌など)の収集
7)重慶公演に至る経緯とシナリオ制作プロセスの収集
8)戦後の中国における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
9)戦後の日本における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
3.調査の仮設について
1)「宮毅」の足跡
南京攻略戦経過要図によれば揚州攻略部隊は天谷支隊であり、上海から南京への進軍で最北経路の13師団の南側を西にすすみ、鎮江で北上渡河し、揚州に向かったという。宮毅の部隊は、天谷支隊つまり第11師団歩兵第10旅団(松山)の可能性が高いと思われる。
戦史叢書『支那事変陸軍作戦1』によれば、天谷支隊は、青島作戦のため待機していたが、上海での苦戦を受けて、1937年9月3日上海呉淞に上陸し、12月8日鎮江に進入し付近砲台を占領し、13日鎮江付近で揚子江を渡河し、14日揚州を占領し、15日仙女廟占領江北大運河を遮断したと言う。37年12月13日南京陥落後の駐留軍として17日以降第16師団が城内を担当したのに対して天谷支隊は、城外を担当し敗残兵狩りなどを行い、1月22日以降、復員する2月下旬まで南京全域を統治管理したと言う。
つまり、宮毅は1937年12月14日揚州に駐留し、2月下旬に復員する南京駐留部隊とは別にそのまま揚州に事件のあった38年4月まで駐留していたということになる。
第11師団歩兵第10旅団に関する記録の有無と所在から調査しなければならない。
2)「宮秋子」と「尋夫団」の足跡
秋子の足跡は、上記の3)尋夫団の調査と不可分の関係にあり、補足しがたいであろう。尋夫団そのものの調査が前提となる。従って日本政府の慰問団活動から調査を進めることが不可欠となる。また日本人慰安婦に関する実態があまりに公表させていないので、ここは手がかりがないかもしれない。しかし日本人慰安婦に関する情報をもつ早稲田奉仕園にあるVAWW RAC(バウラック)経由で手がかりを探すしかない。
3)「绿杨旅社」情報の収集
事件現場である「绿杨旅社」をネットで調べてところ、日本軍による揚州占領中の重大事件として、この事件が記録されていることが判った。
該当する記事は以下の通りである。
「其二是,一对日军未婚夫妻,因厌战和不堪凌辱,双双自杀于绿杨旅社。一位78岁的扬州耆老告诉笔者,当年他有个住在新胜街东首的亲戚对他说,一天,有位日军年轻士兵要慰安所提供一名军妓。晚上,当这位士兵和慰安所提供的军妓见面时,相互惊呆了。原来这名军妓是这位士兵的未婚妻子,就在这位士兵征召入伍充当侵华工具来到中国时,他的未婚妻也随之被征为慰安妇来到中国,想不到竟在扬州绿杨旅社见面,彼此悲喜、愧悔交加,抱头痛哭,各自诉说自己的不幸遭遇。因反对这场惨无人道的侵略战争,最后,双双自杀于绿杨旅社。第二天上午,服务员见其房门迟迟不开,遂站在方凳上透过窗户玻璃朝里看,看他俩躺在床上一动不动,直至打开房门,才发现已经停止呼吸。日军司令部怕影响士兵情绪,随即悄悄地处理了这起事件。」
「第二は、一組の日本軍内縁夫妻が厭戦と屈辱に耐えきれず、绿杨旅社で連れ添い自殺があった。78歳になる揚州の高齢者が、当時住んでいた新勝街の東側の親戚から聴いたことを筆者に語ったことして、ある日、日本軍青年兵士が慰安所で慰安婦を紹介され、夕方慰安所で慰安婦と面会したところ、お互いに驚愕した。その慰安婦は、その兵士の内縁の妻であり、この兵士は徴兵されて、中国への侵略部隊に充当され、未婚の彼女もこれに伴い、慰安婦として中国に派遣されて、思いも寄らずに、ここ绿杨旅社で再会し、彼我ともに悲しみ、後悔を増して、慟哭するばかりとなり、お互いに自分の不幸な境遇を訴えた。このような悲惨な非人道的な侵略戦争を恨み、最後に連れ添って自殺した。翌日、従業員は二人が部屋からなかなかでてこないことから、踏み台に乗って窓ガラスから中を覗くと、二人はベッドに横たわり一つも動くことがないので、すぐに扉を明けたが、すでに息の途絶えていることがわかった。日本軍指令部は兵士の心情への影響を恐れて、こっそりと事件を処理した。」
この記述で利斉巷慰安婦陳列館の記述と異なる点は以下の通りである。
①夫妻を「未婚夫妻」として、「新婚三ヶ月の夫妻」との記述と異なる。
②妻は、夫を追って中国に派遣されたとしその経緯の詳細はない。
の2点とともに内密に処理したはずの事件がどのように知れ渡ったのかという疑問が残る。
同時に第三者情報特有な信憑性を問われるが、記述の対比として以下の点に関する第一次情報源に関する経緯を解明することがもとめられる。それは
①「新婚三ヶ月の夫妻」という夫妻の来歴を特定した根拠
②「尋夫団」という日本政府慰問組織を特定した根拠
③「内密に処理した」という事件の詳細を知り得たルートの3点である。
4)無理心中事件の一次記録(新聞・雑誌など)の収集
この事件の一次記録は、「秋子的故事」を中国語検索で判る一次史料は、これを報じた揚州の新聞である。しかし、見出しは読めるが、内容を全く読むことができない。
まずこれを確保することである。
またこの第一報以降、この事件に関する続報、及びこれに関する記録の収集である。
*追記:その後調べた結果、この報道は「大公报」であることが判った。この新聞は1902年に天津で創刊されて、1936年時点では大公报上海版が発刊されており、この上海版に掲載された可能性がある。
大公报は現在も発刊されているが、香港版だけであると言う。
(2017年1月8日記す)
5)重慶公演に至る経緯とシナリオ制作プロセスの収集
これに関する収集はどこにあるのかは不明である。現在も公演を続ける南京芸術学院が最大の情報ソースをもつ可能性が高いと思われる。
*追記:1942年1月重慶初演には当時の周恩来と郭沫若が観劇したという。
(2017年1月8日記す)
6)戦後の中国における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
これも南京芸術学院が最大のソースをもつと思われる。
7)戦後の日本における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
手がかりは全くない。
以上
【1938年4月日本人兵士と日本人慰安婦の無理心中事件のあった揚州緑楊旅社】
1.調査動機について
昨年2016年8月に南京利済巷慰安婦旧址陳列館を訪問した際に展示されていた「秋子的故事」をみて始めてこの事件と事実を知った。同伴してくれた南京師範大学の院生から、南京では、有名な話として伝承されているとのことであった。
その後12月に再び南京を訪問した時に頂いた「性奴隶梦魇/南京利済巷慰安婦旧址陳列图集」で始めてその経緯を知ることができた。
以下に掲げる記述は前記图集からの転載と筆者和訳である。
1)秋子的故事(中文)
「新婚刚三个月的日本青年宫毅,被日本政府征兵前往中国。不久其妻秋子和家乡的姐妹参与了日本政府组织的“寻夫团”。该寻夫团的脚步一离开日本,就被强行改编成随军“慰安妇”。一天,在华的年轻士兵宫毅要慰安所提供一名军妓,他万万没想到,那名军妓正是其妻子秋子。在两扬州绿杨旅社(当时的慰安所)见面两人,感怀、哀叹、痛苦,因反对这场惨无人道的战争,双双自杀于扬州的绿杨旅社。」
2)秋子の物語(筆者和訳)
「新婚三ヶ月の日本青年「宮毅」は日本政府の招集により中国に従軍した。それから間もなく彼の妻秋子と近隣の姉妹らは日本政府が組織した「尋夫団」に参加した。この尋夫団は日本を離れるや強制的に従軍慰安婦に改組された。ある日揚州駐留の青年兵士は、慰安所にて一人の「軍妓」を提供された。その「軍妓」は何とあろうか妻秋子であった。慰安所で再会した二人はこの出会いを悲しみ嘆き苦しみこの残忍極まりない戦争を忌み嫌い、揚州慰安所(緑楊旅社)で連れ添って自刃した」
しかし、このような歴史的事実及び伝承は日本では全く聴くこともなく、一般にまったく知られていないと思われる。
日本語によるネットで、「秋子的故事」と「南京」で検索したところ、私の今回の訪問記が最初に現れたことから見ても、殆ど知られていない秘話であると思われる。
2.調査対象について
1)「宮毅」の実在証明(出征地と揚州駐留)
2)「宮秋子」の実在証明(出発地と揚州滞在)
3)「尋夫団」の実在証明と結成主旨と目的及び活動内容と範囲
4)「尋夫団」参加者の従軍慰安婦への転身経緯と成立要因
5)無理心中現場である「绿杨旅社」情報の収集
6)無理心中事件に関する一次記録(新聞・雑誌など)の収集
7)重慶公演に至る経緯とシナリオ制作プロセスの収集
8)戦後の中国における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
9)戦後の日本における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
3.調査の仮設について
1)「宮毅」の足跡
南京攻略戦経過要図によれば揚州攻略部隊は天谷支隊であり、上海から南京への進軍で最北経路の13師団の南側を西にすすみ、鎮江で北上渡河し、揚州に向かったという。宮毅の部隊は、天谷支隊つまり第11師団歩兵第10旅団(松山)の可能性が高いと思われる。
戦史叢書『支那事変陸軍作戦1』によれば、天谷支隊は、青島作戦のため待機していたが、上海での苦戦を受けて、1937年9月3日上海呉淞に上陸し、12月8日鎮江に進入し付近砲台を占領し、13日鎮江付近で揚子江を渡河し、14日揚州を占領し、15日仙女廟占領江北大運河を遮断したと言う。37年12月13日南京陥落後の駐留軍として17日以降第16師団が城内を担当したのに対して天谷支隊は、城外を担当し敗残兵狩りなどを行い、1月22日以降、復員する2月下旬まで南京全域を統治管理したと言う。
つまり、宮毅は1937年12月14日揚州に駐留し、2月下旬に復員する南京駐留部隊とは別にそのまま揚州に事件のあった38年4月まで駐留していたということになる。
第11師団歩兵第10旅団に関する記録の有無と所在から調査しなければならない。
2)「宮秋子」と「尋夫団」の足跡
秋子の足跡は、上記の3)尋夫団の調査と不可分の関係にあり、補足しがたいであろう。尋夫団そのものの調査が前提となる。従って日本政府の慰問団活動から調査を進めることが不可欠となる。また日本人慰安婦に関する実態があまりに公表させていないので、ここは手がかりがないかもしれない。しかし日本人慰安婦に関する情報をもつ早稲田奉仕園にあるVAWW RAC(バウラック)経由で手がかりを探すしかない。
3)「绿杨旅社」情報の収集
事件現場である「绿杨旅社」をネットで調べてところ、日本軍による揚州占領中の重大事件として、この事件が記録されていることが判った。
該当する記事は以下の通りである。
「其二是,一对日军未婚夫妻,因厌战和不堪凌辱,双双自杀于绿杨旅社。一位78岁的扬州耆老告诉笔者,当年他有个住在新胜街东首的亲戚对他说,一天,有位日军年轻士兵要慰安所提供一名军妓。晚上,当这位士兵和慰安所提供的军妓见面时,相互惊呆了。原来这名军妓是这位士兵的未婚妻子,就在这位士兵征召入伍充当侵华工具来到中国时,他的未婚妻也随之被征为慰安妇来到中国,想不到竟在扬州绿杨旅社见面,彼此悲喜、愧悔交加,抱头痛哭,各自诉说自己的不幸遭遇。因反对这场惨无人道的侵略战争,最后,双双自杀于绿杨旅社。第二天上午,服务员见其房门迟迟不开,遂站在方凳上透过窗户玻璃朝里看,看他俩躺在床上一动不动,直至打开房门,才发现已经停止呼吸。日军司令部怕影响士兵情绪,随即悄悄地处理了这起事件。」
「第二は、一組の日本軍内縁夫妻が厭戦と屈辱に耐えきれず、绿杨旅社で連れ添い自殺があった。78歳になる揚州の高齢者が、当時住んでいた新勝街の東側の親戚から聴いたことを筆者に語ったことして、ある日、日本軍青年兵士が慰安所で慰安婦を紹介され、夕方慰安所で慰安婦と面会したところ、お互いに驚愕した。その慰安婦は、その兵士の内縁の妻であり、この兵士は徴兵されて、中国への侵略部隊に充当され、未婚の彼女もこれに伴い、慰安婦として中国に派遣されて、思いも寄らずに、ここ绿杨旅社で再会し、彼我ともに悲しみ、後悔を増して、慟哭するばかりとなり、お互いに自分の不幸な境遇を訴えた。このような悲惨な非人道的な侵略戦争を恨み、最後に連れ添って自殺した。翌日、従業員は二人が部屋からなかなかでてこないことから、踏み台に乗って窓ガラスから中を覗くと、二人はベッドに横たわり一つも動くことがないので、すぐに扉を明けたが、すでに息の途絶えていることがわかった。日本軍指令部は兵士の心情への影響を恐れて、こっそりと事件を処理した。」
この記述で利斉巷慰安婦陳列館の記述と異なる点は以下の通りである。
①夫妻を「未婚夫妻」として、「新婚三ヶ月の夫妻」との記述と異なる。
②妻は、夫を追って中国に派遣されたとしその経緯の詳細はない。
の2点とともに内密に処理したはずの事件がどのように知れ渡ったのかという疑問が残る。
同時に第三者情報特有な信憑性を問われるが、記述の対比として以下の点に関する第一次情報源に関する経緯を解明することがもとめられる。それは
①「新婚三ヶ月の夫妻」という夫妻の来歴を特定した根拠
②「尋夫団」という日本政府慰問組織を特定した根拠
③「内密に処理した」という事件の詳細を知り得たルートの3点である。
4)無理心中事件の一次記録(新聞・雑誌など)の収集
この事件の一次記録は、「秋子的故事」を中国語検索で判る一次史料は、これを報じた揚州の新聞である。しかし、見出しは読めるが、内容を全く読むことができない。
まずこれを確保することである。
またこの第一報以降、この事件に関する続報、及びこれに関する記録の収集である。
*追記:その後調べた結果、この報道は「大公报」であることが判った。この新聞は1902年に天津で創刊されて、1936年時点では大公报上海版が発刊されており、この上海版に掲載された可能性がある。
大公报は現在も発刊されているが、香港版だけであると言う。
(2017年1月8日記す)
5)重慶公演に至る経緯とシナリオ制作プロセスの収集
これに関する収集はどこにあるのかは不明である。現在も公演を続ける南京芸術学院が最大の情報ソースをもつ可能性が高いと思われる。
*追記:1942年1月重慶初演には当時の周恩来と郭沫若が観劇したという。
(2017年1月8日記す)
6)戦後の中国における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
これも南京芸術学院が最大のソースをもつと思われる。
7)戦後の日本における「秋子的故事」に関する取り扱いについて
手がかりは全くない。
以上
by inmylife-after60
| 2017-01-07 23:14
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