日本人慰安婦:「秋子的故事」の裏にある日本兵の絶望 |
新年に入り、「秋子的故事」を調査しようと決意し、インターネットの検索サイトにアクセスして、アプローチを続けてきた。本日、漸くその一端である一次史料に近い新聞「揚州晩報」(2016年4月07日)に掲載された記事を見つけることができた。それは、1938年発刊の雑誌「抗戦文芸」に「鮑雨」という署名で投稿された記事である。
その記事を読んで更に驚愕した。日中戦争(1938年当時)の揚州(南京の西北側にある由緒ある都市)では毎日日本兵の自殺者が発見され、その自殺方法の狂気さが紹介されているのである。つまり日本兵の自殺は、常態化しており、しかも奇形化していることを示す記事である。
そして、宮毅一郎が何故、自殺を選んだのかを彼が記した冊子をもとに再現するものであった。
彼のメモの最後には、こう書かれていたと言う。
「支那人民应该和日本人民联合起来打倒日本军阀」
以下、揚州晩報の記事を掲載する(日訳文責は筆者にある)
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扬州晩报 2016年04月07日 星期四
秋子事件首刊《抗战文艺》自杀地为大陆旅社并非绿杨
近日,扬州文化人、市警察学会秘书长朱德林先生研究发现,去年重演的反战歌剧《秋子》最早并非刊登在《大公报》上,它的流传是从《抗战文艺》开始的,这是目前发现最早刊登“秋子事件”刊物,而秋子自杀地点应是大陆旅社,而非绿杨旅社。
最近、揚州の文化学者で市警察学会秘書長朱德林が、研究発表を行い、昨年再演された反戦歌劇「秋子」に関する報道について「大公報」が最初ではなく、その流布は「抗戦文芸」であり、これが現在「秋子事件」に関する最初の掲載記事であり、且つ秋子の自殺場所は、「大陸旅館」であって「绿杨旅館」ではないと発表した。
追溯《秋子》的源头,网络和相关文献多称来自《大公报》1938年4月报道。朱德林随即调取了1938年《大公报》全年缩印本,一页一页仔细翻阅,结果没有找到任何有关“宫毅与秋子”的报道。
「秋子」に関する情報源は、ネットや関連文献の多くは1938年4月の「大公報」と称せられてきた。朱德林は、直ちに1938年の「大公報」縮刷版を一頁毎に調べた結果、「大公報」には何ら「宮毅と秋子」に関する報道を探すことができなかった。
在一次资料查询中,朱德林意外发现了一篇署名“鲍雨”,发表在第1卷第9期《抗战文艺》(1938年6月18日出版)上的通讯《扬州的日兵在自杀》。在这篇文章中,秋子事件的来龙去脉有着完整介绍。鲍雨所写的“秋子事件”主要地点是在扬州城新胜街的大陆旅社而非绿杨旅社(两家为斜对门);秋子上吊的地点在大陆旅社,而宫毅自杀的地点是左卫街上的一家小旅馆。
第一次資料を調査して、朱德林は意外にも「鲍雨」と署名された記事を発見した。それは、第1巻第9期「抗戦文芸」(1938年6月18日出版)の速報「揚州の日本兵自殺せり」であった。この文章のなかで、秋子事件の全貌をきっくりと紹介されている。鲍雨の書いた秋子事件の主要現場は、揚州新勝街の「大陸旅社」であって「緑楊旅社」ではない(斜向かいである)。また「秋子」の首つり現場は、「大陸旅社」であるが、「宮毅」の自殺場所は左衛街の小旅館である。
朱德林说,《扬州的日兵在自杀》发表后,宫毅和秋子的故事便迅速被国内许多报刊转载或转述,自杀地点也变成了绿杨旅社。
朱德林曰く、「揚州の日本兵自殺せり」が発表された後に、宮毅と秋子の物語は、迅速国内多くの新聞に転載記載されて、自殺場所が「緑楊旅館」となった。
《解放》杂志第67期(1939年3月20日出版)上,刊登了中共中央青年工作委员会副书记冯文彬于1938年11月19日至21日在西北青年救国联合会第二次代表大会上的总报告《中国青年运动的新方向》。文中,冯文彬引用了上述故事,并且改为“……宫毅就在扬州新胜街大陆旅馆自杀了……同时秋子也上吊死了。”他还表示:宫毅和秋子正如许多日本青年一样,还没有能够走上积极和中国青年联合起来反抗日本帝国主义的道路,终于可怜地牺牲了,这正是我们的责任所在。
“通过信息比对,《抗战文艺》应是国内关于秋子事件的最早报道。”朱德林说。
雑誌「解放」第67期(1939年3月20日出版)には中共中央青年工作委員会副書記冯文彬が1938年11月19日より21日まで西北青年救国联合会第二次代表大会の報告集「中国青年運動の新方向」を掲載している。文中で冯文彬はこの故事を引用し、改めて「……宮毅は楊州新小街の大陸旅館で自殺し……同时秋子も首つり自殺した」を書いている。彼は更に「宮毅と秋子は、沢山の日本人青年と同様に、また積極的に中国青年と積極的に連合して日本帝国主義に反抗する道に進むことができず、哀れな犠牲となってしまった。これこそ正に我々に責任が存在する。」
「この情報を対比すれば、「抗戦文芸」は国内における「秋子事件」に関する最も早い報道である」と朱德林は言う。
(略)「抗戦文芸」の足跡の紹介であり、省略する。
扬州的日兵在自杀(摘选)
揚州の日本兵自殺せり(抜粋)
近来,扬州日兵们患着一种流行性的“狂症”——自杀狂。差不多每天都有自杀的士兵被发现。自杀的方法,很残酷,割颈切腹外,还有割生殖器而致死的。
最近、揚州日本兵に一種の「狂気病」が流行している。——自殺狂である。殆ど毎日、自殺する兵士が発見され、自殺の方法は極めて残酷であり、首筋部と腹部以外に生殖器を切って自殺する。
最近有一个士兵,名叫宫毅一郎的,年不过二十六岁,他用刀子把脸貌先毁了,然后割开喉管而死。在死在扬城左卫街一个小旅馆里,死后仍紧执着那把小刀。
最近、名を宮毅一郎という兵士は、まだ26歳足らずであるが、彼は、短刀を用いて顔面を切り裂き、その後に咽喉を切り裂いて自刃した。揚州市内左衛街の小さな旅館で死んだが、短刀がしっかりと刺されたままであったと言う。
使人更注意的,是他自杀这一个晚上,新胜街大陆旅馆(敌人的慰安场)同时上吊死了一个日妓,名秋子。她是一个年轻美貌的女子。
更に注意してほしいのは、彼が自殺した翌日の夜、新勝街大陸旅館(日本人慰安所)にて名を秋子という日本女性が首つり自殺した。彼女は若い美貌な女性であった。
一般都认为宫毅和秋子的死,是一件不值得注意的“情死”,但问题并不这样的简单。他俩究竟是何关系?为什么要自杀?一时无从探知,直到在该旅馆房间的地板缝里拣出一本记事册以后将一切问题都解决了。
一般の人は、宮毅秋子の死は、注目に値しない「情死」と思われるかも知れない。しかし問題は、そんなには簡単ではない。彼と彼女は、一体どのような関係だったか?なぜ自殺に及んだのか?一端詮索を離れて、旅館のベッドに残された彼の冊子を見れば、一切の疑問が解決した。
他是长崎人,离开祖国,来到异邦后,差不多已有五个月,他是第七次被征出来的,那时他和秋子结婚不过四个多月。他还有一个年老的母亲和一个妹妹。平时,他靠了一爿小纸烟店维持生活,虽然贫苦,但还过得去。自从来到这广大的中国后,他无日不在思念他的亲人。从北战场到东战场,大小仗经过数十次,带了好多次的花。
彼は長崎の人であり、祖国を離れて異邦にきて、5ヶ月ほどであった。彼は七回目の出征であった。その時彼は秋子と結婚して四ヶ月にもならず、彼には一人の年老いた母と妹がいた。普段彼は小さな紙煙草の店で生計を立て、貧困ながらも暮らすことができた。そのようなところから、この広大な中国にきて、彼は家族のことを思わない日はなかった。北の戦場から東の戦場へ、大小数十回の戦闘、何度も名誉の負傷を負った。
前三月里接到妻子三封信,每接到一次信,都增加他一分烦恼。信上告诉他国内生活如何艰难,吃的用的,价钱逐渐增加,捐税也逐渐增加,可是自己店里的营业反日见清淡。
この三月中に妻から三通の手紙を貰い、一通を受けとる毎に煩悩が増すばかりであった。手紙で彼に国内の生活がいかに困難で、食べたり、用いたりするのに物価が段々上がり、税金と寄付金も順次増えていく、しかし自分のお店の営業は、日増しにさっぱりである。
最近二月,接不得他妻子的信了,他开始怀疑她,他消极地想自杀,一星期以来,常听说大陆到了几个新的女子,有一个弟兄告诉他在大陆看见一个女的,和他妻子照片上的脸一样。他那时还不信他妻子能到辽远的异邦来,到今晚上大陆来一看,才证实了,原来她是被征来“慰问”皇军的。同时她还告诉他,妹妹因反对出征被关在牢里,母亲已急死了。他愤恨,他羞愧,他没路走了,除自杀之外。
最近2ヶ月、彼の妻からの手紙を受けておらず、彼は彼女を疑い始め、消極的になり、自殺を考えはじめていた。一週間前から、大陸旅館に何人かの新しい女性が来たと言われ、ある同僚から大陸旅館で見た一人の女性が彼の妻の写真の顔と同じだったと告げられた。
彼はその時に彼の妻がこのような遠い異国に来られるとは信じることができなかった。今晩、大陸旅館で会い、やっと確かめることができた。彼女はもともと皇軍の慰問に徴用されたのだった。同時に彼女は、妹は徴用に反対したために牢に繋がれて、母はすでに錯乱状態になってしまった。彼は憤慨し、恥辱し、自殺の以外に道がなかったのである。
在册子最后的一页上,写着几个日文大字:“支那人民应该和日本人民联合起来打倒日本军阀!” (鲍雨)
冊子の最後の頁に彼は大きな日本語で「支那人民は日本人民と連帯して、日本の軍閥を打倒するために立ち上がるべきだ」と書いた。(鮑雨)