2017年 01月 09日
日本人慰安婦:「秋子的故事」〜「抗戦文芸」を読んで〜 |
日本人慰安婦:「秋子的故事」〜「抗戦文芸」を読んで〜
揚州晩報2016年04月07日(木)付け記事で紹介された「抗戦文芸(1938年6月18日出版)」にある「揚州の日本兵自殺せり」の記事は、日本人慰安婦:「秋子的故事」に関する初出の記事として極めて史料的価値が高く、事件の概要を把握する上で不可欠な情報である。
執筆者の鮑雨が語るように日本人男女の情死という次元を越えて、戦争そのもののもつ本質を捉える上で大きな意味を提起した事件であると言える。
この事件の全体像を明らかにすることは、私を含めて戦争とはなにかを語る原体験を持たない世代が圧倒的な多数派を形成するなかで、再び戦争のきな臭さが漂う「積極的平和主義」なる欺瞞を語る今日の日本において一層際だった特性をもつと思われる。
それは第一に故国日本から遠く離れた戦地における若き日本人夫妻の自殺であり、第二に皇軍がアジアで繰り広げてきた戦場における「兵士と慰安婦」の自殺であり、第三にお国のための出征と慰問に名を借りた慰安という二重の強制の下での「自殺」であり、第四にその根元(日本軍閥)を捉えても、何も打開できない絶望と失意の下での自殺であるからである。
それは心中などという感傷を越えて、祖国と自分をも抹殺する慚愧の自刃に他ならない。
ここでは、この記事を通じて、先の調査事項に照らして明らかにされたことを確認しながら、今後の調査事項について考えてみたい。
1)「宮毅」の実在証明(出征地と揚州駐留)
「宮毅」は、宮毅一郎であった。長崎の生まれという。新婚4ヶ月での7回目の出征。家族は妻と老いた母と妹の4人。生業はたばこやさんだという。自殺現場は、緑楊旅館ではなく、左衛街の小旅館とのこと。ここに毅一郎のノート(日本語)が残されていたという。今回の記事記載は抜粋であり、全体の記載内容は不明。
長崎は、大牟田師団の管轄であり、大村連隊区である。揚州攻略部隊の「第11師団第10旅団:天谷支隊」ではないことになる。だから、天谷支隊の復員で帰国する部隊とは異なる揚州残留になったと思われる。しかし揚州駐留に至る経過はわからない。
2)「宮秋子」の実在証明(出発地と揚州滞在)
自殺が首つりであったこと、その現場は緑楊旅館ではなく、大陸旅館という情報以外に「秋子」に関する情報はない。
秋子は「皇軍を慰問する目的」で中国に派遣されたという。その経緯は記載されていない。「慰問」は中国語も「慰問:Weiwen」で同様である。「尋夫団」と翻訳した日本語がどのようなものかは不明である。しかも妹はこの慰問団不参加が理由で投獄されたという。
3)「尋夫団」の実在証明と結成主旨と目的及び活動内容と範囲。
上記以外は不明。宮毅のメモ全文を見ないと判らない。日本での裏付けが不可欠である。
4)「尋夫団」参加者の従軍慰安婦への転身経緯と成立要因。
秋子側の記録がないため、不明である。
5)無理心中現場である「绿杨旅社」情報の収集。
これは二重の誤認であった。無理心中ではなく、単独首つりであり、場所は大陸旅社であった。大陸旅館に関する情報の収集が必要。
6)無理心中事件に関する一次記録(新聞・雑誌など)の収集。
一次史料として「抗戦文芸(1938年6月18日出版)」掲載の「揚州の日本兵自殺せり」との記事を特定できたが、まだメモの全文は未公開。
7)重慶公演に至る経緯とシナリオ制作プロセスの収集
製作者は特定できている。
今後の調査事項を整理すると以下のようになる。
1)発生時期について
この記事のなかでも、この事件の場所を特定する情報はあるものの、発生した期日に関する情報がない。
この雑誌の発行が38年6月とすると、事件は最低一ヶ月前後の前の5月前後か4月以前となる。大公報が4月とあることから、4月であったのかも知れない。しかし、それ以上は特定できない。
2)「宮毅一郎」について
個人と家族に関する概要は把握できたが、7回に渡る出征、戦闘参加、負傷などの痕跡があるものの、揚州駐留までの経緯は不明。旧日本軍の大村連隊に関する記録を調査する必要がある。
大村連隊とすれば、第18師団麾下の歩兵第46連隊に属する。第18師団は上海戦の苦境を脱するために派遣された杭州湾上陸部隊であり、南京戦では第10軍麾下である。杭州湾金山衛上陸作戦は11月5日であり、南京最南部側(撫湖)からの攻略部隊となっており、撫湖とは対極にある揚州に駐留するとは考えに難い。時間軸は成立するかもしれないが、空間軸からみて、大村連隊とは考えにくい。
とすると彼はどのような経路で揚州に行ったのであろうか?もしかすると生まれは長崎でも、妻と暮らす実家は、第11師団第10旅団編成地周辺の丸亀乃至松山だったのかもしれない。
3)「宮秋子」の参加した「尋夫団」について
これも殆ど判らない。皇軍慰問団に参加したことは間違いないとして、その
慰問団と「尋夫団」との関係も不明である。しかも慰問団拒否による妹の投獄も事実とすれば、この慰問団は特殊な目的をもったものだったとも考えられる。
日本における「皇軍慰問団」に関する記録と記事などの情報を収集することが必要である。
4)一次史料の全文入手について
当面、「抗戦文芸」である。この雑誌記事を発見した揚州文化人の朱德林さんが「秋子的故事」に関する情報の鍵を握っていると思われる。
まずは、「抗戦文芸」(1938年6月18日出版)の《扬州的日兵在自杀》記事の全文入手が最重要課題である。
以上
揚州晩報2016年04月07日(木)付け記事で紹介された「抗戦文芸(1938年6月18日出版)」にある「揚州の日本兵自殺せり」の記事は、日本人慰安婦:「秋子的故事」に関する初出の記事として極めて史料的価値が高く、事件の概要を把握する上で不可欠な情報である。
執筆者の鮑雨が語るように日本人男女の情死という次元を越えて、戦争そのもののもつ本質を捉える上で大きな意味を提起した事件であると言える。
この事件の全体像を明らかにすることは、私を含めて戦争とはなにかを語る原体験を持たない世代が圧倒的な多数派を形成するなかで、再び戦争のきな臭さが漂う「積極的平和主義」なる欺瞞を語る今日の日本において一層際だった特性をもつと思われる。
それは第一に故国日本から遠く離れた戦地における若き日本人夫妻の自殺であり、第二に皇軍がアジアで繰り広げてきた戦場における「兵士と慰安婦」の自殺であり、第三にお国のための出征と慰問に名を借りた慰安という二重の強制の下での「自殺」であり、第四にその根元(日本軍閥)を捉えても、何も打開できない絶望と失意の下での自殺であるからである。
それは心中などという感傷を越えて、祖国と自分をも抹殺する慚愧の自刃に他ならない。
ここでは、この記事を通じて、先の調査事項に照らして明らかにされたことを確認しながら、今後の調査事項について考えてみたい。
1)「宮毅」の実在証明(出征地と揚州駐留)
「宮毅」は、宮毅一郎であった。長崎の生まれという。新婚4ヶ月での7回目の出征。家族は妻と老いた母と妹の4人。生業はたばこやさんだという。自殺現場は、緑楊旅館ではなく、左衛街の小旅館とのこと。ここに毅一郎のノート(日本語)が残されていたという。今回の記事記載は抜粋であり、全体の記載内容は不明。
長崎は、大牟田師団の管轄であり、大村連隊区である。揚州攻略部隊の「第11師団第10旅団:天谷支隊」ではないことになる。だから、天谷支隊の復員で帰国する部隊とは異なる揚州残留になったと思われる。しかし揚州駐留に至る経過はわからない。
2)「宮秋子」の実在証明(出発地と揚州滞在)
自殺が首つりであったこと、その現場は緑楊旅館ではなく、大陸旅館という情報以外に「秋子」に関する情報はない。
秋子は「皇軍を慰問する目的」で中国に派遣されたという。その経緯は記載されていない。「慰問」は中国語も「慰問:Weiwen」で同様である。「尋夫団」と翻訳した日本語がどのようなものかは不明である。しかも妹はこの慰問団不参加が理由で投獄されたという。
3)「尋夫団」の実在証明と結成主旨と目的及び活動内容と範囲。
上記以外は不明。宮毅のメモ全文を見ないと判らない。日本での裏付けが不可欠である。
4)「尋夫団」参加者の従軍慰安婦への転身経緯と成立要因。
秋子側の記録がないため、不明である。
5)無理心中現場である「绿杨旅社」情報の収集。
これは二重の誤認であった。無理心中ではなく、単独首つりであり、場所は大陸旅社であった。大陸旅館に関する情報の収集が必要。
6)無理心中事件に関する一次記録(新聞・雑誌など)の収集。
一次史料として「抗戦文芸(1938年6月18日出版)」掲載の「揚州の日本兵自殺せり」との記事を特定できたが、まだメモの全文は未公開。
7)重慶公演に至る経緯とシナリオ制作プロセスの収集
製作者は特定できている。
今後の調査事項を整理すると以下のようになる。
1)発生時期について
この記事のなかでも、この事件の場所を特定する情報はあるものの、発生した期日に関する情報がない。
この雑誌の発行が38年6月とすると、事件は最低一ヶ月前後の前の5月前後か4月以前となる。大公報が4月とあることから、4月であったのかも知れない。しかし、それ以上は特定できない。
2)「宮毅一郎」について
個人と家族に関する概要は把握できたが、7回に渡る出征、戦闘参加、負傷などの痕跡があるものの、揚州駐留までの経緯は不明。旧日本軍の大村連隊に関する記録を調査する必要がある。
大村連隊とすれば、第18師団麾下の歩兵第46連隊に属する。第18師団は上海戦の苦境を脱するために派遣された杭州湾上陸部隊であり、南京戦では第10軍麾下である。杭州湾金山衛上陸作戦は11月5日であり、南京最南部側(撫湖)からの攻略部隊となっており、撫湖とは対極にある揚州に駐留するとは考えに難い。時間軸は成立するかもしれないが、空間軸からみて、大村連隊とは考えにくい。
とすると彼はどのような経路で揚州に行ったのであろうか?もしかすると生まれは長崎でも、妻と暮らす実家は、第11師団第10旅団編成地周辺の丸亀乃至松山だったのかもしれない。
3)「宮秋子」の参加した「尋夫団」について
これも殆ど判らない。皇軍慰問団に参加したことは間違いないとして、その
慰問団と「尋夫団」との関係も不明である。しかも慰問団拒否による妹の投獄も事実とすれば、この慰問団は特殊な目的をもったものだったとも考えられる。
日本における「皇軍慰問団」に関する記録と記事などの情報を収集することが必要である。
4)一次史料の全文入手について
当面、「抗戦文芸」である。この雑誌記事を発見した揚州文化人の朱德林さんが「秋子的故事」に関する情報の鍵を握っていると思われる。
まずは、「抗戦文芸」(1938年6月18日出版)の《扬州的日兵在自杀》記事の全文入手が最重要課題である。
以上
by inmylife-after60
| 2017-01-09 12:04
| 歴史認識・歴史学習
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