2017年 04月 06日
南京・揚州「秋子的故事」に関する調査訪問記 |
南京・揚州「秋子的故事」に関する調査訪問記
2017年3月28日より4月5日まで、以下の目的で、南京及び揚州を調査訪問した。
①「南京利済巷慰安婦旧址陳列館」への照会について
②「歌劇秋子」のシナリオの入手について
③「揚州市警察学会秘書長朱德林氏」へのインタビューについて
④「宮毅一郎」の日記(日本語)の入手について
⑤「尋夫団」に関する脚本上の記述について
⑥当初目的以外の訪問について
2)「南京利済巷慰安婦旧址陳列館」への照会について
上記南京陳列館の所轄は、南京大虐殺記念館所轄であるが、日本政府の組織したという「尋夫団」という翻訳の根拠を検証するために訪問した。3月30日陳列館ビジターセンターで訪問目的を伝えると史学研究担当の劉広建さんが対応され面会することができた。劉さんは、この秋子歌劇の由来である速報「揚州の日本兵自殺せり」の記載のある「抗戦文芸」創刊号(現物)を持参し、この歌劇のモデルであることを説明し、「尋夫団」は1942年2月初演の歌劇「秋子」として完成した脚本に由来すると説明された。
3)「歌劇秋子」のシナリオの入手について
2014年公演シナリオは、南京芸術学院がシナリオと演出を担当したことから、42年初演シナリオとの相違の有無とシナリオを入手するため、3月30日南京芸術学院工業デザイン教授の銭慶利さんと面会した。そこで判ったことは、2014年再演の歌劇「秋子」と1942年初演との違いは、舞台を揚州ではなく南京としたこと、作詞と作曲を新しくしていること、日本兵宮毅の上官が初演では大尉、再演では大佐である他、宮毅と秋子の基本的な配役は民国時代につくられた初演の歌劇「秋子」と同様であること、初演シナリオは、どこにあるかは判らない。再演の脚本に「尋夫団」の文言であり、再演脚本で確認してほしいということであった。尚2014年再演シナリオは、南京芸術学院の陳健先生のご厚意で入手することができた。また1942年初演シナリオは、南京大学院生の調査により、「中国抗日戦争時期大後方文学書系」第7編歌劇第二集「陳定:秋子」として掲載されていることがわかり、南京大学付近の「唯楚書店」にて購入することができた。
4)「揚州市警察学会秘書長朱德林氏」へのインタビューについて
当初3月31日11時に揚州江都市にて面談の予定であったが、前々日に「上級組織の同意を得ることができなかった」との連絡があり、面談できないこととなった。また同時に朱德林氏から紹介頂いた揚州在住の市民研究者である柏涛さんとの面談も同様の理由で面談することができなかった。院生の説明によれば、中国では一般市民が外国人との公式的面会はできないとのこと、そのために所属組織の許可を得る必要があると言う。とりわけ日本人との関係では、特に政治的・外交的な問題を含むこともあるらしく、極めて微妙な関係をもつとのこと。訪問相手は一般市民であり、様々なリスクを配慮して、面会を断念されたのだと言う。揚州の柏涛さんからは、お詫びとして、揚州に関する慰安婦調査に関する2015年8月6日江都日报掲載記事「仙女庙“慰安所”调查记」を提供頂いた。尚朱德林さんが発見された「抗戦文芸」(1938年6月18日出版)の速報「揚州の日本兵自殺せり」(全文)はすでに南京師範大学張連虹先生経由で入手済みである。
5)「宮毅一郎」の日記(日本語)の入手について
揚州市档案館を訪問し、調査する予定であったが、外国人による中国の档案調査は、30日前に事前申請を必要であり、今回は断念した。中国人研究者などの紹介を通じた照会申請を行う予定である。
6)「尋夫団」に関する脚本上の記述について
全文の翻訳は今後の作業として、ここでは、秋子の「尋夫団」に関連する記述のみを記す。
①初演シナリオでは宮毅は小隊長(原文:排長)、上官は大尉として登場する。
・「私達の捜夫団は彼ら(軍閥:筆者注)によって解散させられた。私の妹は収監された。それは反戦が理由である。」
・「軍閥に騙された。私は甘んじない。主人を慕い、慚愧の思いで宮毅と会った。故郷の婦人達がまさか軍閥に騙されて故郷を離れようとは」
②再演シナリオ記載について
・「騙されて海を渡り、見慣れない土地に到着した。無理をして楽しそうに振る舞いながら、しかし限りない悲しみのなかにいる」
・「慰安所は人間地獄のようだ。慰安婦とは良家の子女を娼婦にすることに等しい」
・「私達の捜夫団は貴方(軍閥:筆者注)によって解散させられ、幾多の子女が挺身隊に入った」
・「私は毎日涙で顔を洗った。今日こそ私に教えてほしい。私の主人は何時帰ってくるのか」
・「天皇の呼びかけに直ぐさま応じて男は外で敵と戦えるが、女はできない」
③シナリオ記載事項について上記をみる限り、初演と再演のシナリオは、いずれも、「尋夫団」ではなく「捜夫団」と記されており、「尋」と「捜」は和訳すれば、「尋ねる」と「探す」である。しかし「尋」のニュアンスは、ある限定された対象を想定して「尋ねる」と言えるが、「捜」はもっと広い範囲を捜索するというニュアンスを感じた。これがどうして「尋夫団」となったのかは判らない。これは再度確認することが必要である。
また「軍閥」とは具体的に何を指すのかはシナリオの記述だけでは判らない。これも再度確認することが必要である。
初演と再演の比較では、「捜夫団」に関する記述は、再演シナリオの方が多いことが判る。これは、単なる脚色なのか、ある一定の史料的裏付けをもつ記述なのかは現状では不明である。ここも今後の調査を必要とする。「尋夫団」の由来がこのシナリオにあることは判明した。
7)当初目的以外の訪問について
今回の調査目的以外に幾つかの関連する施設を訪問した。
① 「中国”慰安婦”歴史博物館」の訪問
3月29日 2016年10月に開館した「中国”慰安婦”歴史博物館」を訪問した。この博物館は、上海師範大学の東部キャンパス(文系キャンパス)の最も高い校舎である「文苑楼」2階にある。見学後に「秋子的故事」に関する史料があるかとの問い合わせに対応してくれた日本語を話す院生の李青凌さんと話すことができた。李さんが今日は蘇智良教授がいるので会ってみませんかと言われて、教えて頂いた研究室で名刺交換し、「秋子的故事」に関する私の文書を渡し、今後の調査について、協力をお願いすることができた。今後の調査を進めていくうえで、得難い援軍を得た気持ちになった。今回の訪問調査も共有して、何か関係する情報を含めて今後交換していくことにしたい。
②揚州虐殺惨案碑の訪問
1937年12月以降敗戦までの間、揚州における虐殺事件は12件ほど記録されている。その内惨案碑として見学できる以下の碑を訪問した。
・万福橋虐殺惨案碑
揚州市内からバスで約20分にある長江を跨ぐ大きな橋の西側にある記念碑を尋ねた。抗日戦争勝利50周年記念事業で建設された碑である。事件は1937年12月14日揚州を占領した日本軍により、17日早朝、物資輸送の使役をさせていた揚州一般人を橋の双方から追い詰め、両端から機銃掃射で橋から河に飛び込んだ幸存者1名を除き400名余が虐殺されたという。現在万福橋は巨大な橋梁が完成しているが、惨案碑は現在水門となっている万福門西詰めにある。
・头桥虐殺惨案碑
1938年10月5日、头桥村で日本軍による中国青年と客人など60人民間人の内、50人余が虐殺、30余棟を焼き払われた事件。この日は旧暦の8月12日にあたり、「八一二惨案」として記憶されている。訪問した日が4月2日であり、丁度広陵地区「虹橋高校」生徒による「清明節」の慰霊行事が行われる予定とのこと、祭壇などの準備が行われていた。地元の高校生への記憶の継承である。
今回の調査にあたり、南京大学近現代史の孫江教授研究室の院生である程善善くんと王瀚浩くんに多大な協力を頂いた。とりわけ揚州をともに訪問して頂き、私の我が儘なリクエストに応えくれた程善善くんに大変お世話になった。ここに付して感謝致します。
以上
by inmylife-after60
| 2017-04-06 19:26
| 中国訪問記
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