2017年 04月 09日
揚州・鎮江訪問記(2017/3/28〜4/5) |
揚州・鎮江訪問記(2017/3/28〜4/5)

3月28日より4月5日まで、1938年4月前後におきた揚州市の日本兵と日本人慰安婦の心中事件(新婚の日本人夫妻であった「宮毅一郎と秋子」)を描いた歌劇「秋子」の史実との関わりを調査するために、上海を経由して南京・揚州・鎮江を訪問した。
調査及び揚州の虐殺記念碑訪問は、「南京・揚州『秋子的故事』に関する調査訪問記」に記したので、ここではそれ以外の訪問記をまとめてみたい。
1)スマホソフト「高徳地図」について
今回初めて昨年12月南京で買った中国メーカー(HUAWEI)製のアンドロイドスマホ(15000円前後)で目的地への徒歩を含むルート案内のソフトである「高徳地図」を使った。このソフトはとても賢く、違う方向にいくと「そっちは違う」「右に曲がれ」「頑張れ」「あと100メートルで右に曲がれ」等のアナウンスを発する優れものである。これによって、全ての訪問先を検索し、移動手段毎に最適ルートを表示してくれる。日本から持ち込むとGPSを使うため、相当の使用料を請求されるため、中国専用スマホとして使うことにした。またSIMへのチャージも極めて簡単に移動体通信ショップ以外でも主要駅のボックスショップでチャージすることができる。10日間前後の使用で50元(900円)あれば十分である。
2)上海の訪問先(1泊2日)
南京への直行便はあるが、便が少なく、料金も高い。上海から高鉄でいく方が時間は掛かるが、安くて便利である。今回は訪問先(上海師範大学)に近い虹桥空港を使い、上海に一泊し夜高鉄で南京南駅に入った。帰りはG・D系の高鉄(95.5元=1720円)ではなく、Z系の普通列車(46.5元=840円)を使った。
①上海虹桥空港について
今回、初めて上海虹橋空港を使った。日本でいえば、羽田国際空港というイメージを持っていたが、全く違っていた。少なくとも第一ターミナル内の空港サービスは、日本の地方空港以下である。2階にあると言われた銀行ATMは中国農業銀行しかなく、あたりを見渡しても、それらしいサービスショップもない。明日南京に行く高鉄の実券を確保するために、虹橋火車駅に地下鉄で行く。虹橋火車駅にある高鉄窓口で予約バウチャーとパスポートを出して実券を確保した。周辺がどうなっているかを案内所で聞いたが、中国銀行もなく、地元銀行しかないところであった。浦東空港より、市内に近く、高鉄の乗り換えが便利という場所のメリット以外の価値は乏しいと感じた。
②魯迅故居について
ホテルの最寄駅:地下鉄12号線曹宝駅から曲阜駅で8号線に乗り換え、虹口足球場駅に着く。9時過ぎに魯迅公園前の4番出口から外にでた。目の前に6分咲き位の桜が咲いていた。20本くらいある。魯迅記念館は公園内にあり昨年夏に見学した。この時魯迅故居は改修休館中で見学できなかった。記憶ではすこし離れたところにあったと感じたが、とりあえず魯迅記念館の守衛に尋ねたら、ここではなく「山小三区」だと言うので、高徳地図で出てきた方向にいくと、大陸新邸という優秀歴史建築に指定された赤煉瓦づくりの3階建てのアパート群があった。
ここは1925年に日本の東亜株式会社により建造されたと記されていた。ここ虹口周辺は日本の上海租借内であり、第二次上海事件の引き金になった日本士官の殺害事件(実際は、上官から因果を含めて、わざと発砲事件を起こすために、自害覚悟で国民党管理地区に士官車両で乗り込んだとの説もある。)は、ここ虹口周辺にあった日本軍司令部から出発したものと記憶している。ここはやはり日本にゆかりのある地区なのだと思った。このような開発区にあるアパートが魯迅の最後の棲まいであったという。
1933年4月から1936年10月逝去まで3年半を過ごした故居は1階が応接間と台所と風呂があり、2階が魯迅の書斎と寝室、3階が子供部屋と客人用寝室があった。日本人から送られた置物や息子が生まれて16日目の油絵などが飾れていた。ここは20分おきに説明員がきて、日本語、中国語、英語で説明してくれる。半分日本語半分中国語の説明で大体の様子がわかった。

③中国“慰安婦”歴史博物館
上海師範大学の大きな白いゲートに入り、キャンパス地図をみると、「百度百科」の検索にあった「第一棟教学」という案内があったので行ってみると理系の実験研究棟であった。留学生センターで再確認したら、反対側のキャンパスの一番高い建物だと言う。名前は「文苑楼」とあった。「百度百科」のこの案内では判らないと思った。

④龍華烈士記念館
龍華烈士記念館は現在改修中で休館だった。いつ開館するのかと聞いたら10月(国慶節)頃という。来年には間違いないと言われた。近くにある「龍華古寺」を参観して、ホテルに戻り、バスと地下鉄を乗り継いで上海橋虹駅に向かうルートを選択した。しかしこの時間帯は渋滞が激しく、45分で着くはずが、地下鉄駅迄で1時間以上かかり、上海橋虹駅高鉄改札口にようやく発車時刻の7分前に着いた。危うい綱渡りだった。
3)南京の訪問先(1泊2日)
①ジョンラーベ旧居
ジョンラーベとは1937年上海事変以降、南京に迫る日本軍の進攻から南京市民とともに南京に押し寄せる難民を保護するために設けられた「国際安全区」の責任者となったナチ党員でシーメンス南京支社長である。南京における中国軍民の虐殺を初めとする蛮行から軍民を守るために命をかけたドイツ人である。
旧居は、南京安全区内にあった私邸を保存したものであり、現在は南京大学の構内にある。この記念館は、外からも入れる専用の入り口があり、地下鉄1号線の「珠江路」の広州路側出口から歩いて1分と近い。ジョンラーベの生い立ち、南京での活動、本国との連絡などに関する展示がある。30分程で十分見学できる。

②南京大学記念館
南京大学の院生と南京大学記念館を見学した。1902年開学以降の南京大学の歴史的事件と文献に関する展示館である。南京大学は江沢民との関係が深いと言われた。教科書では抗日運動は北京を中心に記述されているが、南京における五・四運動や、国共内戦時代における反民国政府運動に関する資料の展示などがあった。
4)揚州の訪問先(3泊4日)
揚州は南京から北東に100㎞程にある人口400万人弱の中規模都市である。ここは、春秋戦後期から繁栄し、とりわけ随の煬帝以降開発された淮河と長江を結ぶ京杭大運河の要衝として東シナ海に面した塩田から塩を買い付け全国に物流する一大拠点として繁栄を極める都市となった。6度目の渡航で日本に辿り着き、奈良に唐招提寺を建立した鑑真和尚が修行した大明寺、杭州の西湖と並ぶ人口湖である痩西湖などをもつ街である。また塩商達の私邸、またその資金で造営された庭園などが多数公開されている。
①緑楊旅館・大陸旅館
緑楊旅館は、1938年12月14日揚州占領直後に上海派遣軍第11師団天谷支隊が司令部を設置した場所であり、上官を対象とする慰安所が設置された場所である。揚州の中心街のシンボルである「文昌阁」の近くにある緑楊旅館は、民国時代初期に揚州で建造された4階建ての洋館であり、1階は4階までの吹き抜けの大きなホールになっており、1階奥には資料室があった。主に民国時代の蒋介石など著名人の来館者の写真が展示してあったが、日本占領時代に関する史料は置いていなかった。民国時代においては羽振りのよい旅館であった面影を感じることができた。
大陸旅館は、緑楊旅館の斜向かいにある宮秋子が自殺した旅館であるが、現在工事用の覆いで確認できなかったが、外壁はそのまま残し、内部を全面改装する工事が行われていた。
尚宮毅一郎は、左衛街(現広陵路)の小さな旅館で自殺したとされるが、旅館名の記載がなく、所在は不明である。

②痩西湖
揚州の象徴であり、最大の景勝地である痩西湖を南大門から北大門まで2時間程掛けて歩いた。
1933年4月から1936年10月逝去まで3年半を過ごした故居は1階が応接間と台所と風呂があり、2階が魯迅の書斎と寝室、3階が子供部屋と客人用寝室があった。日本人から送られた置物や息子が生まれて16日目の油絵などが飾れていた。ここは20分おきに説明員がきて、日本語、中国語、英語で説明してくれる。半分日本語半分中国語の説明で大体の様子がわかった。

上海師範大学の大きな白いゲートに入り、キャンパス地図をみると、「百度百科」の検索にあった「第一棟教学」という案内があったので行ってみると理系の実験研究棟であった。留学生センターで再確認したら、反対側のキャンパスの一番高い建物だと言う。名前は「文苑楼」とあった。「百度百科」のこの案内では判らないと思った。
早速2階にある「上海師範大学慰安婦歴史博物館」に入る。大学の図書館スペースを割いてつくられた博物館で50坪前後位だと思う。大きく3つのスペースに分かれており、1918年のシベリア出兵に伴う婦女暴行対策として開始された慰安婦の始まりから、1932年の第一次上海事変以降の慰安婦の制度的な確立と全土への拡大と慰安婦幸存者の被害と訴訟などの「展示室」と慰安婦に関する「出版物」展示と映写室があった。おもに上海を中心に南京と海南における慰安婦の展示が多かった。南京の慰安婦記念館に比べるとこじんまりした博物館である。

龍華烈士記念館は現在改修中で休館だった。いつ開館するのかと聞いたら10月(国慶節)頃という。来年には間違いないと言われた。近くにある「龍華古寺」を参観して、ホテルに戻り、バスと地下鉄を乗り継いで上海橋虹駅に向かうルートを選択した。しかしこの時間帯は渋滞が激しく、45分で着くはずが、地下鉄駅迄で1時間以上かかり、上海橋虹駅高鉄改札口にようやく発車時刻の7分前に着いた。危うい綱渡りだった。
3)南京の訪問先(1泊2日)
①ジョンラーベ旧居
ジョンラーベとは1937年上海事変以降、南京に迫る日本軍の進攻から南京市民とともに南京に押し寄せる難民を保護するために設けられた「国際安全区」の責任者となったナチ党員でシーメンス南京支社長である。南京における中国軍民の虐殺を初めとする蛮行から軍民を守るために命をかけたドイツ人である。
旧居は、南京安全区内にあった私邸を保存したものであり、現在は南京大学の構内にある。この記念館は、外からも入れる専用の入り口があり、地下鉄1号線の「珠江路」の広州路側出口から歩いて1分と近い。ジョンラーベの生い立ち、南京での活動、本国との連絡などに関する展示がある。30分程で十分見学できる。

南京大学の院生と南京大学記念館を見学した。1902年開学以降の南京大学の歴史的事件と文献に関する展示館である。南京大学は江沢民との関係が深いと言われた。教科書では抗日運動は北京を中心に記述されているが、南京における五・四運動や、国共内戦時代における反民国政府運動に関する資料の展示などがあった。
4)揚州の訪問先(3泊4日)
揚州は南京から北東に100㎞程にある人口400万人弱の中規模都市である。ここは、春秋戦後期から繁栄し、とりわけ随の煬帝以降開発された淮河と長江を結ぶ京杭大運河の要衝として東シナ海に面した塩田から塩を買い付け全国に物流する一大拠点として繁栄を極める都市となった。6度目の渡航で日本に辿り着き、奈良に唐招提寺を建立した鑑真和尚が修行した大明寺、杭州の西湖と並ぶ人口湖である痩西湖などをもつ街である。また塩商達の私邸、またその資金で造営された庭園などが多数公開されている。
①緑楊旅館・大陸旅館
緑楊旅館は、1938年12月14日揚州占領直後に上海派遣軍第11師団天谷支隊が司令部を設置した場所であり、上官を対象とする慰安所が設置された場所である。揚州の中心街のシンボルである「文昌阁」の近くにある緑楊旅館は、民国時代初期に揚州で建造された4階建ての洋館であり、1階は4階までの吹き抜けの大きなホールになっており、1階奥には資料室があった。主に民国時代の蒋介石など著名人の来館者の写真が展示してあったが、日本占領時代に関する史料は置いていなかった。民国時代においては羽振りのよい旅館であった面影を感じることができた。
大陸旅館は、緑楊旅館の斜向かいにある宮秋子が自殺した旅館であるが、現在工事用の覆いで確認できなかったが、外壁はそのまま残し、内部を全面改装する工事が行われていた。
尚宮毅一郎は、左衛街(現広陵路)の小さな旅館で自殺したとされるが、旅館名の記載がなく、所在は不明である。

揚州の象徴であり、最大の景勝地である痩西湖を南大門から北大門まで2時間程掛けて歩いた。
ここの見所は「五亭橋」である。痩西湖は、河をせき止めて湖にした人口湖であり、清の乾隆帝の頃から開発され現在に至る。
もう一つは二十四橋だが、これが両側からの階段が24段であることが命名の由来という。これ以外にも様々な施設と趣向を凝らした岩石などの庭園や盆栽、花園などがあり、また湖畔には飲食施設があり、家族で楽しめる場がつくられている。入園料が120元だが、とても楽しめる湖畔である。
③大明寺
大明寺は、痩西湖の北大門から15分程にある。鑑真を輩出した名刹である。寺内には、奈良の唐招提寺のフォルムを模した鑑真記念の仏塔が造営され、また寺内には鑑真学院など鑑真に因んだ寺塔が並ぶ。また种楼と呼ばれる9層の寺塔があり、有料で痩西湖周辺を眺望することができる。 ④天寧寺(中国扬州佛教文化博物馆)
天寧寺は、市内中心部にあり、揚州における仏教伝来とその後の仏教文化の形成に関する博物館であり、7世紀末の仏教伝来、遣隋使や遣唐使など日本からの使節団の受入の窓口になった寺院である。館内には、鑑真や遣唐使に使われた船舶などの模型が展示されている。
また天寧寺は明末における清の進攻に対する抵抗の拠点であり、清による虐殺現場であるとともに日本軍による揚州占領時の虐殺現場として記録されているが、寺内にはそれを示す碑などはなかった。
⑤揚州八怪記念館
揚州における絵画と書道に関する天才八名を称える記念館である。その価値が判らずに、唯々そうなのかと納得するばかりの参観であった。
⑥史可法記念館
史可法は明朝末の政治家である。明末の北京における李自成の反乱で明政権は崩壊し、清勢力の進出に明朝皇族は南下した。史可法は、明政権の継承のために揚州に逃れ、清との抗戦を決断し、10日間に渡る揚州防衛戦を戦う。約80万人が虐殺されたという「揚州十日」と呼ばれる事件である。1645年4月25日44歳で殺されるが、揚州人にとっては漢民族の英雄として記憶される人物という。揚州には「史可法路」と命名された通りがある。
⑦廬氏古宅
1897年江西塩商廬紹緒によって建設された130余の部屋をもつ揚州で現存する最大の塩商住宅である。ここは現在もこの部屋のなかで、実際に飲食を提供する会食施設になっており、一番奥の庭園には「零点餐厅」というレストランがある。私邸とは思えない大規模な建物である。
⑧何園
何園は、何氏によって1883年に造営された清末建築芸術の粋を凝らした大型私邸庭園である。二階建てで回廊によって行き来できる建物の中庭に池と東屋があり、とても趣きのある庭になっていた。当日は土曜日だった為か、学生多数が何園の東屋をデッサンしていた。

⑨揚州双博館
揚州の西側にある二つの博物館と歴史館を併設した博物館である。活版印刷に関する博物館と揚州の古代から現在にいたる歴史館である。とりわけ活版印刷博物館は一見の価値あり、紙と活版に関わる歴史を春秋戦国時代から単体の活字ができた宋代、そして色彩をもつ活版印刷に至る経過を詳細に描いており、とても漢字文化の生き様を知る博物館である。また揚州の中国における経済的位置の変遷、文化的価値形成などが良くわかる歴史的経緯を学ぶことができる展示になっていた。やはり塩商のもつ経済的発展は、揚州の文化的集積を支えた背景であることを理解することができた。
⑩个園
この庭園の由良は、竹林である。个園の「个」とは竹の葉から取ったものだと言う。ここは長方形の庭園で、竹林をベースにした庭園だが、岩石を用いた庭園形式である。建物内に様々な嗜好を凝らした装飾があるようだが、あまり興味の沸くものがなかった。何園の方が印象に残った。
⑪東関古渡(東関歴史文化旅遊区)
京杭運河の渡し場に伴い関所に栄えた宿泊飲食施設街である。若者達の人気のショップやフードサーブス、お土産店が約1キロ以上に渡って連なる商店街といったところである。ここにはマルコポーロ記念館があると言われたが行かなかった。
5)鎮江の訪問先(1泊2日)
鎮江は揚州の南にある長江で隔てられた対岸の街である。揚州から高速バス(18元330円)で40分程の距離にある。三国時代は呉孫権の北端である。鎮江は、日中戦争時には上海から常州をへてここで長江を渡航し、揚州を占領する中継地であった。また三国時代に魏の曹操と対抗するために、蜀との同盟を約した呉の名将周瑜の設計と言われる甘露寺をもつ街でもある。鎮江は主に金山、北固山、焦山の3つの観光地を訪問した。
①鎮江博物館
鎮江の西部にある博物館だが、鎮江の歴史を知ろうと思い、参観したが、揚州のような歴史館がなく、早々に退散した。
②金山公園
仏教寺である。般若心経の教典にある文字が目に止まった。頂上にある仏塔の下まで急な階段がきつかったが、そこから鎮江を眺望できた。

③北固山(甘露寺)公園
ここは、甘露寺とあるが、山城だと思った。甘露寺は周瑜の設計である。魏との北端を守る山城としか思えない楼閣である。
またここには柿本人麻呂の「和歌」〜天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」〜の碑があった。ここにある由来は判らなかった。

④焦山公園
5分程の渡し船に乗り参観する修行僧の読経が絶えない禅宗寺である。とても優雅な橋と勇壮な寺塔をもつ寺であり、とても落ち着く寺院である。また境内にはアヘン戦争時に対英艦船への大型砲台土塁史跡があった。

6)鎮江からの帰路
もう一つは二十四橋だが、これが両側からの階段が24段であることが命名の由来という。これ以外にも様々な施設と趣向を凝らした岩石などの庭園や盆栽、花園などがあり、また湖畔には飲食施設があり、家族で楽しめる場がつくられている。入園料が120元だが、とても楽しめる湖畔である。

大明寺は、痩西湖の北大門から15分程にある。鑑真を輩出した名刹である。寺内には、奈良の唐招提寺のフォルムを模した鑑真記念の仏塔が造営され、また寺内には鑑真学院など鑑真に因んだ寺塔が並ぶ。また种楼と呼ばれる9層の寺塔があり、有料で痩西湖周辺を眺望することができる。
天寧寺は、市内中心部にあり、揚州における仏教伝来とその後の仏教文化の形成に関する博物館であり、7世紀末の仏教伝来、遣隋使や遣唐使など日本からの使節団の受入の窓口になった寺院である。館内には、鑑真や遣唐使に使われた船舶などの模型が展示されている。
また天寧寺は明末における清の進攻に対する抵抗の拠点であり、清による虐殺現場であるとともに日本軍による揚州占領時の虐殺現場として記録されているが、寺内にはそれを示す碑などはなかった。
⑤揚州八怪記念館
揚州における絵画と書道に関する天才八名を称える記念館である。その価値が判らずに、唯々そうなのかと納得するばかりの参観であった。
⑥史可法記念館
史可法は明朝末の政治家である。明末の北京における李自成の反乱で明政権は崩壊し、清勢力の進出に明朝皇族は南下した。史可法は、明政権の継承のために揚州に逃れ、清との抗戦を決断し、10日間に渡る揚州防衛戦を戦う。約80万人が虐殺されたという「揚州十日」と呼ばれる事件である。1645年4月25日44歳で殺されるが、揚州人にとっては漢民族の英雄として記憶される人物という。揚州には「史可法路」と命名された通りがある。
⑦廬氏古宅
1897年江西塩商廬紹緒によって建設された130余の部屋をもつ揚州で現存する最大の塩商住宅である。ここは現在もこの部屋のなかで、実際に飲食を提供する会食施設になっており、一番奥の庭園には「零点餐厅」というレストランがある。私邸とは思えない大規模な建物である。
⑧何園
何園は、何氏によって1883年に造営された清末建築芸術の粋を凝らした大型私邸庭園である。二階建てで回廊によって行き来できる建物の中庭に池と東屋があり、とても趣きのある庭になっていた。当日は土曜日だった為か、学生多数が何園の東屋をデッサンしていた。

揚州の西側にある二つの博物館と歴史館を併設した博物館である。活版印刷に関する博物館と揚州の古代から現在にいたる歴史館である。とりわけ活版印刷博物館は一見の価値あり、紙と活版に関わる歴史を春秋戦国時代から単体の活字ができた宋代、そして色彩をもつ活版印刷に至る経過を詳細に描いており、とても漢字文化の生き様を知る博物館である。また揚州の中国における経済的位置の変遷、文化的価値形成などが良くわかる歴史的経緯を学ぶことができる展示になっていた。やはり塩商のもつ経済的発展は、揚州の文化的集積を支えた背景であることを理解することができた。
⑩个園
この庭園の由良は、竹林である。个園の「个」とは竹の葉から取ったものだと言う。ここは長方形の庭園で、竹林をベースにした庭園だが、岩石を用いた庭園形式である。建物内に様々な嗜好を凝らした装飾があるようだが、あまり興味の沸くものがなかった。何園の方が印象に残った。
⑪東関古渡(東関歴史文化旅遊区)
京杭運河の渡し場に伴い関所に栄えた宿泊飲食施設街である。若者達の人気のショップやフードサーブス、お土産店が約1キロ以上に渡って連なる商店街といったところである。ここにはマルコポーロ記念館があると言われたが行かなかった。
5)鎮江の訪問先(1泊2日)
鎮江は揚州の南にある長江で隔てられた対岸の街である。揚州から高速バス(18元330円)で40分程の距離にある。三国時代は呉孫権の北端である。鎮江は、日中戦争時には上海から常州をへてここで長江を渡航し、揚州を占領する中継地であった。また三国時代に魏の曹操と対抗するために、蜀との同盟を約した呉の名将周瑜の設計と言われる甘露寺をもつ街でもある。鎮江は主に金山、北固山、焦山の3つの観光地を訪問した。
①鎮江博物館
鎮江の西部にある博物館だが、鎮江の歴史を知ろうと思い、参観したが、揚州のような歴史館がなく、早々に退散した。
②金山公園
仏教寺である。般若心経の教典にある文字が目に止まった。頂上にある仏塔の下まで急な階段がきつかったが、そこから鎮江を眺望できた。

ここは、甘露寺とあるが、山城だと思った。甘露寺は周瑜の設計である。魏との北端を守る山城としか思えない楼閣である。
またここには柿本人麻呂の「和歌」〜天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」〜の碑があった。ここにある由来は判らなかった。

5分程の渡し船に乗り参観する修行僧の読経が絶えない禅宗寺である。とても優雅な橋と勇壮な寺塔をもつ寺であり、とても落ち着く寺院である。また境内にはアヘン戦争時に対英艦船への大型砲台土塁史跡があった。

鎮江からは、観光後に鎮江駅から南京駅までK系(快速)一般列車を使った。1時間位はかかるはずであるが、どういうわけか20分程早く着いた。南京が終点の列車なのだと思ったが、日本では発着のホームの制約でこのような芸当はできないと思われるが、主要駅にプラットフォームが10本以上ある中国では、よくあることらしく、乗務員の「到南京!到南京」の発声にさっと席を立ち、出口に殺到していた。
南京駅から南京大学に隣接する古本屋で秋子の初演シナリオを掲載した書籍を購入した。翌日南京から上海駅へ普通列車(K系)を使い、浦東空港から成田に帰った。
以上
by inmylife-after60
| 2017-04-09 23:32
| 中国訪問記
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