2017年 08月 13日
雲南訪問記 〜九郷に遊ばない雲南は徒労なり〜 |
7月22日紹興から戻った翌23日午後南京から上海を経由して昆明に向かった。雲南は、昆明の他、大理、麗江などの景勝地が多く、人気の高いエリアである。大理や麗江の何れかを組み込むことも考えたが、移動に伴うリスクを考えて、今回は羅平を組む込む旅程を組んだ。
23日より昆明に5泊(実質4泊)、28日より羅平に2泊し、30日昆明から上海を経由し、31日朝に羽田に帰国するという日程である。30日は羅平から移動オンリー24時間のタイトな日程となった。結果オーライであったが、これはかなり冒険的な行程だった。
7月23日(日)
23日昆明便が虹橋第2ターミナル出発のため南京南から上海虹橋に向かう。虹橋は、3月の南京行きの際に利用したが、あまりそのメリットを実感できなかったが、上海を起点とする中国国内便への乗り継ぎ客には、非常に便利であることがわかった。というのは「上海虹橋」駅を下りると、すぐに東口側に「虹橋第2ターミナル」の案内が現れて、それに従うとそのまま第2ターミナルのチェックインカウンターに着いてしまうからだ。歩いて15分程の感覚(因みに成田空港 LCCターミナルは、第2ターミナルから20分かかる)であった。
日本でいえば、名古屋を新幹線で発ち、羽田空港ターミナルに接続した新幹線羽田駅に降り、そこから国内航空便に搭乗するという感覚である。
しかし昆明行国内便は3時間遅れて出発、昆明には午前26時過ぎに到着、26時半過ぎに白タクで市内に向かう。市内と空港のタクシー料金相場である100元を払う。白タク運ちゃんはホテルが判らないらしく、私のアプリ「高徳地図」をナビにしてホテルに着いた。
ホテルは、23階建ての大型マンションであり、一般住民と変わりなく住む(泊まる)というものであり、マンション1階には24時間の「キオスク型」店舗がある。あてがわれた部屋は23階2LDKタイプの昆明駅と長距離バス発着センターを見下ろす部屋であった。設備は古いが、眺望と広さは申し分がなく、夜の眺めも格別の部屋であった。
7月24日(月)
深夜27時到着して明日の準備を済ませて、28時に就寝。午前8時過ぎに起床。マンション1階にある食堂で朝食をすませ、昆明駅に向かう。昆明駅は、駅前に仮設ゲートができており、仮設二階に武警、両脇は交警が警備し、構内には乗車券をもっていないと入れない厳重警備体制が敷かれていた。最寄りの地下鉄駅を探して「環城南路駅」に着く。駅BOX係員に交通カードを買いたいと尋ねると「東風広場駅」で買えると案内され、2元でトークンを買い、「東風広場駅」で交通カードを購入した。
ガイドブックにあったNie耳(中国国歌作曲者)故居に行きたいと思い、東風広場駅から地上にでたところにある交番で、「Nie耳」のピンインを尋ねたが、そこにいた数人の男性警官はわからず、奥から出で来た婦人警官が「Nie’er」と教えくれた。バスで「南屏街」に向かう。ここが昆明の中心街らしい。
ここからガイドブックを見ながら北上すると「昆明老街」という清及び民国時代の「銭王街」にでた。ガイドブックによれば、この付近にNie耳故居があるという。
銭王街は、清末の実業家:「王chi」に由来する。
この銭王街は、光華街を間に挟んだ全長約400メートル程の通りであり、現在ここには、外形をそのままにして、しゃれた内装を施した飲食店、バー、茶館、文具店、画材店などの商業施設や文化施設、博物館などが立ち並ぶ通りとなっていた。
しかしNie耳故居は昆明老街景区旅客センターをはじめ様々な人に聴いたが、最後まで判らなかった。
しかしこれは翌日行った西山・龍門石窟正門横にある「Nie耳記念館」で彼の生家の住所は、銭王街から2つ西にある「甬道街72 号」であることがわかった。この通りは通ったと思うが、故居施設・碑などもなかったと思う。どういうわけか、この周辺の道路と建物は工事が行われており、あったとしても閉館だったと思われる。
昼食後にバスで雲南民族村にいったが、いわばテーマパーク施設であり、入場したが、直ぐに引き返し、対面にある「雲南民族博物館」に行ったが、生憎休館日だった。今日は月曜日であることを忘れてしまっていた。不覚である。昆明滞在中にいくチャンスを狙っていたが、とうとう行けなかった。
仕方なく市内に戻り、南詔時代の東寺塔と西寺塔を見学した。西寺塔は、広場に面した位置から見学はできたが、東寺塔の境内は「茶花園」となっており、高い柵で囲まれており、この日は閉館日で入園できなかった。掲示によれば、開館日は水曜日から日曜日までの9時から5時である。
7月25日(火)
今日は、西山森林公園にいく。
ここは市内から南西15キロほどの景勝地である。郊外の景勝地としては近郊にあるが、市内から1時間半程かかった。8時ホテルの前に在来線バス亭:春城路から51路バス(2元)で「高yao」まで約1時間かかった。ここで龍門石窟景観区のチケットを買わないといけないらしい。88元という。この費用にはここ高yaoから龍門正門までのバス代、正門から龍門石窟近くまでのリフト代、石窟の入場券と帰りの観覧車の4つを含むらしい。選択の余地はなくバスをまつ。
15分位で龍門石窟景観区正門(↑)に着き、リフトを待ち、石窟入場口まで20分位、眼下の湖の景観を楽しむという趣向であった。リフトで隣に座った上海からの孫を連れて観光にきた老人から、湖(dian池)をみてここも汚染が激しいと嘆く言葉を聞いた。みな人々の思う気持ちは変わらないと実感した。日本も50年前は、都市公害と工場汚染が激しかったこと、そこから環境技術を発展させたと伝えた。なんとか理解してくれたようだ。
龍門石窟は、1781年より楊さんと70名の石工が22年かけて完成させたものらしい。
たしかに狭い洞窟に沢山の仏様が安置され、
11時過ぎに電動車で景観区正門に戻り、市内に戻ろうとしたら、「Nie耳記念館」という方向掲示板を発見した。
国歌となった経緯は展示解説によれば、以下の通りである。
義勇軍行進曲は、1935年4月抗日映画「風雲儿女」の主題歌として作曲され、すぐに流行し、抗日全民戦争に従軍する兵士達を鼓舞する歌となった。その後建国直前の1949年9月27日第1回政治協商会議(筆者注:共産党と人民民主党派による統一戦線的協議体、現在もあるが、形骸的存在)にて国歌として決定した。1978年3月5日共産党第5回全国人民代第1次会議にて国歌として議決したが、その際文化大革命の左派的影響を受けて、党派的な歌詞に改修され、各界からの異議が寄せられた。1982年第5回全人代5次会議で元の歌詞に戻す決定がなされたと言う。
この義勇軍行進曲を作曲したのが、Nie耳だった。Nie耳は1912年昆明生まれ、幼い頃から音楽を愛好し、雲南省立第一師範在学時、学芸祭で女優に扮し主役を演じたという。1928年共青団入団、1933年共産党入党、1935年春に義勇軍行進曲を作曲した。
しかし、1935年春に田漢(義勇軍行進曲の作詞者)ら革命派文芸作家が相次いで逮捕され、4月1日Nei耳も逮捕対象者であるとの情報を得た党組織は、若い有為な革命文芸戦士を保護するため、彼が強く望んだ海外渡航の希望を受け入れ、4月15 日上海から日本に渡り、欧州とソ連に赴く措置をとった。しかし日本滞在中の7月17日、神奈川県鵠沼海岸を遊泳中溺死したという。享年24歳。1954年11月に藤沢市海岸鵠沼海岸遭難地附近に石碑が建てられたという。
Nie耳は亡命に近い状態で何故日本に向かうことになったのか?1935年春の局面は、共産党が瑞金を放棄して1934年10月長征を開始し1935年10月延安入りする時期にあたり、国共対立が最も激化し、あらゆる戦線で共産党が壊滅的状況となった時代と言える。Nie耳には悲運と言う他ない。
2時過ぎに一端ホテルに戻ってから雲南省博物館にむかった。市内はとても渋滞しており、4時過ぎに博物館の出口側に到着した、5時閉館なので、1時間ほどしかない。
出口から入館し、2階に上がり、一番近い「大理国」の展示ブースに入る。
「百年風雲」と題して近現代の雲南の歴史には、幾つかの歴史的事件の紹介があった。興味の惹かれた事件が「馬嘉理事件」である。
展示によれば、1874年英国は清との協定によりミャンマー側から雲南に至る鉄道建設のための探検隊を派遣することになった。1875年2月英国公使館書記官通訳:馬嘉理(Margary:マーガレー)が雲南からミャンマーに赴き探検隊を向かることになった。探検隊がミャンマーから雲南に入境するとの情報は周辺軍民の疑惑を喚起し、当地官吏李珍国は軍民を組織しこの入境を阻止する行動に訴えた。2月21日当地軍民は探検隊の入境を阻止し、馬嘉理を殺害した。英国探検隊はミャンマー側に撤退したが、その後英国は清朝政府を脅迫し、「烟台条約」を締結した。
この展示を読んですぐに日本の生麦事件(1862年9月)のことを思い出した。殺害に至る経緯は異なるが、異国人が跋扈して母国の地を荒らすことへの義憤から、外国人(いずれも英国人)を打ち払う事件に他ならない。英国は「烟台条約」で賠償金(20万両)とともに雲南をはじめ南岸都市の開港と重慶、四川などへの通商便宜、及び租界地の保障などを実現することとなった。
4時45分頃に女性係員が退館を促すので「hai没来五点」と5分間位猶予を頂いたが、50分を過ぎると「時間到了!」といって出口に追い立てられた。
博物館を退館して、バス停に向かう対面側に雲南省武警本部の建物があった。この国の姿を告白するスローガンを見つけてしまった。「听党指揮 能打勝杖 作風優良」
7月26日(水)
今日は石林(shilin)にいく。
そこで石林行の専用バスチケットを買う(34元)。11時17分発の石林風景区行は12時35分に着いた。着いた場所は石林旅游汽車客運站である。
風景区入口はどこかと捜したが、よく判らない。聴いた方向に向かったが、電瓶車(電気自動車)の停車場に人が並んでいたが、チケットを買う場所がない。歩いていく人の姿をみて、先をすすむと、やっと景観区建物らしきものを見つけて、遊覧券(優待130元)を買う。
ここの景観区入口までのコースは以下のようになっていた。
1)バス亭の建物から石林風景区旅客中心にいく(歩いて3~4分)。2)石林風景区旅客中心でチケットを買う。3)電瓶車専用券売り場でチケットを買う(25元)4)電瓶車発着場にいき、電瓶車で石林風景区入り口にいく。5)帰りは入り口と同じ出口から電瓶車で最初に発見した停車場まで帰るというものだった。
漸く13時に風景区入り口に到着。
石林の語源に関する掲示があった。
「石林」の初出は屈原(紀元前340〜278年)の「天問」(紀元前310年)に天文、地理、歴史、哲学に関する170余りの問題のなかに「どうして石林があるのか」と問われているという。この石林がここ昆明の石林であるかどうかの証明できないが、「石林」という言葉は初出であり、世界的に石林:「Stone Forest」が使われていると言う。
石林旅游汽車客運站内の食堂で食事して、17時50分石林を出発、東部汽車客運站を経由して、市内バスで部屋に戻ったのは20時30分だった。
7月27日(木)
今日は昆明から80キロ北東にある「九郷風景区」にいく。冒頭の「九郷に遊ばない雲南は徒労なり」と豪語する渓谷と鍾乳洞の景勝地である。
昨日と同じく東部汽車客運站へ向かう。5元で直通バスがあることがわかり、駅前の汽車客運站に向かう。始発が7時とあったが、7時13分に発車した。たしかに高速道路を使うので、7時45分東部汽車客運站に着いた。ここで九郷風景区の直通バスが発着する「宜良」に向かう。
しかしここでトラブルが発生した。客运站のバス券売り場で「宣良(xuanliang)」というと34元と言われ、切符を渡され、そのまま安全検査をおえて改札口を通過し、九郷风景区行きバスに乗ろうとしたら、運転手が私の切符をみて「これは違う」と言われた。キツネに摘まれた思いで、良く見ると「宜良」は、「宣」ではなく「宜」であることがわかった。もう一度、二階の切符売り場に戻り、退票改票(キャンセル変更)窓口で「宜良(yiliang)」に変更してほしいとお願した。宜良行は25元だったが、変更手数料5元かかったので、4元損失を補えた勘定となった。しかし最初の「xuanliang」は一体何処だったのだろうかと自問した。
8時17分東部汽車客運站を出発し、宜良には9時19分に着いた。案内ではここに「21路」に乗ると書かれていたので、路線バスだと理解して、路上を捜したが見当たらない。市内バス亭にいた方に聴いたら、宜良汽車客運站でパス券を買わなければならないことが判った。九郷風景区まで35キロ、料金は10元だった。9時45分宜良を出発した。
漸く11時少し前に九郷风景区正門前に着いた。
正門で入場券(90元を優待60元)と帰りのリフト券(30元)を買った。渓谷そして鍾乳洞ともにここは世界有数の景観をもつことは疑いがない。
11時20分に入場し12時50分に退場した。最後の10分位は地底から地上に這い出すような登り坂となり、息を切らせて辿りついた。出口を真っ直ぐ行くと、乗馬場が待っていた。その横の売店で西瓜を買ったところ、馬で帰らないかと誘われた。ここから馬で入り口まで帰れるとのこと。40元だという。リフト券は買わない方がよかったと後悔した。
ここ九郷風景区は豪語するだけの景観をもつ観光地だと納得した。
7月28日(金)
今日は羅平に向かう。昆明から快速で3時間ほど東にある貴州省に隣接した街である。ここは金鶏峰からの景観と九龍瀑布群風景区にいくことにした。
昆明を9時前に出発、羅平には12過ぎに着く。
ホテル前のバスで10分程の羅平汽車客運站で「板橋」行のマイクロバスに乗り金鶏峰バス亭で降りて景観展望台(観景台)を目指した。
バス通りの反対側に向かい、金鶏峰はどこかと何度か聴いてやっとその山に入る路地(この家↑の左側路地)を見つけることがきた。
この景観を考えれば、10元は安いと思った。しかし夜間20元とはどういうことであろうかと自問した。松明でも炊いてくれるということかと思案した。
ここから見下ろす景観は以下の通りである。
ホテルに戻り、近くの食堂で夕食をとった。この食堂は羅平人民病院の入院部の前にある女性老板経営の「吉連餐館」である。
ここの面の形状が名古屋のきしめんと同じて米でつくられた「巻粉」がとても美味しかった。食べきれず、「打包」してもらい、ホテルで残りを食べることにした。この「巻粉」は、昆明空港で昼食をとったとき、面専門店で頼んでみたが、判らないと言われた。「巻粉」はここ羅平だけの名前なのだと思った。
7月29日(土)
今日は、九龍瀑布群風景区にいく
周辺にはそれらしいバス亭がないので、付近の方に聴くと、マイクロバスの運転手らしき若者と呼びつけて、紹介してくれた。九龙瀑布に行きたいというと、ニコニコしながら、マイクロバスに案内してくれた。もう一つの風景区の「多依河風景区」にも行きたいと行ったら九龍瀑布と多依河風景区は往復80キロであり、300元だという。彼は九龍瀑布群風景区についたところで、入り口の観光案内図を前に連れ出して、私に九龍瀑布と多依河風景区と羅平との関係を説明してくれた。羅平のホテルまでお願いすることにしてこの観光を終えてここに着いたら電話すると番号を確認して分かれた。
九龍瀑布群風景区は羅平から東北に35キロ。中国の六大瀑布の一つとされる。
この展望台で査さんという貴州省から観光にきた農家の方(下の写真)と知り合った。
九龍瀑布群風景区(95元優待なし)は一見の価値は十分にあると思ったが、多依河風景区(優待35元)はメンテナンス状態が悪く、あまりお勧めできない。
査さんとは、多依河風景区で分かれ、板橋までバスで戻り、羅平にむかったが、羅平汽車客輸站ではないロータリー交差点で「到了!」と言われて下ろされた。タクシーに乗ってホテルに着いた。
昨夜と同様「吉連餐館」で夕食、明日の荷物をまとめて、就寝。
7月30日(日)
今日は、「羅平→昆明駅→昆明空港→上海虹橋→上海浦東→羽田」という24時間の移動日である。羅平発の列車は定刻発(7:11)の定刻着(11:04)だった。昆明駅に近い昆明汽車客運站から昆明空港直行バス(13元)11:30発に乗車。定時の12時15分空港着。昼食休憩し、13:55チェックイン。定刻の14:25出発。ここまでは順調だった。上海浦東まで11時着けばいいのだから、十分過ぎる余裕だと思った。
しかし、昆明を飛び立って2時間ほどで何故が窓から山並みが見えた。随分低空飛行だなと眺めていると下降していることがわかった。上海虹橋着は18:35なので、早すぎると思い、耳を凝らして案内に集中した。なんとか「guiyang(貴陽)」に行くらしいことが聴き取った。しかし何故かはよく判らない。「天気」という単語が幾度か出てきたので、これは雷など気象条件による待避ではと思った。
約1時間後の17:30頃、貴州省の首都「貴陽」空港を出発したが、また一時間位で下降しはじめた。今度はどこだろうという不安より、今日は上海浦東からの帰国便に間に合わないのではという最悪の予測に苛まれはじめた。今度は機内から下ろされ、トランジェットチケットが渡され、ロビー待機となった。そこは貴陽よりさらに西にある上海とは逆の六盤水空港であった。
18:36六盤水空港を再出発、今度は上海に飛んでほしいと願うばかりである。漸く21:30上海虹橋到着したが、しかしなかなかバゲージが出てこない。23時迄に浦東にいけばなんとかなると思い、最短で浦東にいくことを考え、タクシーを除けば、虹橋から浦東行きのリムジン以外にないと判断、リムジン発着ターミナルを探した。丁度国内線を出たところに案内カウンターがあったので、浦東行きバスはどういけばいいかと聴いた。彼女はメモ用紙に「先下楼B1。経過平行賦梯后、上電梯至1F。找候車室第2、就是机場一線。」と書いてくれた。「地下1階に降りて,歩く歩道にのり、エレベータで1階へ。第二待合室を捜せば、そこが空港線(30元)だ。」10時丁度の便で10時50分浦東につくことができた。やれやれである。
今回の旅行は、上海虹橋が中国の国内旅行者にとって、多様な交通機関のトランジェットネットワークの優れたハブであることを学ぶ機会となった。
by inmylife-after60
| 2017-08-13 15:49
| 中国訪問記
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