日中戦争全史(上・下)を読む
先月8月30日に昨年11月ツーリング中の転倒事故で顔面、頸骨、頸髄、口蓋を損傷し入院した学生中国研究会の先輩である笠原十九司先生がその後の手術・ビハビリなど闘病生活の末に奇跡的(奥様の言)に事故前の状態に快復され、元気に研究活動を再開されたとの近況に接して開催された先生を囲む会に参加した際に頂いた「日中戦争全史」を読んだ。
9月半ばに南京で開催された「歴史認識と東アジアの平和」フォーラムでお目にかかったときに、8ヶ月に及ぶビハビリ体験について伺うことができた。頸髄(C1)損傷で失った尿の排泄制御、口蓋損傷で失った食道と気道の制御という健常人に当たり前の機能を快復するビハビリがどれほど過酷であったかを話され、その過酷さを思うとあと最低10年は生きないと元がとれないと話されていた。
そうまでさせた動機は、自分のライフワークとしての「日中戦争」の全貌を解き明かす「日中戦争全史」を世に出したいという強烈な意志であったにちがいない。闘病の期間中に最終校正を得て7月に高文研から出版された。初版後に増刷されており、好評だという。
『戦争にはかならず「前史」と「前夜」がある。戦争はある日突然偶発的に不可抗力的に起こるものではない。』この本の最大の目的は、戦争の前史はどのように形成され、いつ頃戦争勃発回避が不可能な状態になったのかを解き明かし、それを回避する知恵を国民が身につけることにあるとする。
読み終えた感想として、目的の第二に、戦争体験を持たない世代が圧倒的多数となった現在、日中戦争はどのような戦争だったのかを中国大陸の戦争体験を日中双方の証言と記録に基づき再現し、その卑劣な実態を知ることで戦争を二度と起こさないようにすること。更には目的の第三に、戦争はどのように進められたのかについて、戦争に至る意志決定の経過、作戦決定とその執行経緯と実態を明らかにすることで国策決定者の恣意的な権力執行と責任不問が表裏になる構造を亡国の極みとして再現させないことにあるように思えてならない。
以下、論旨を紹介する。
1 前史と前夜へ向かう転換点はいつか?
前史の開始を1915年の「対華21ヶ条要求の強要」と捉え、満州事変の前史を1918年のシベリア出兵とし、前夜に向かう転換点を1928年とする。著者はシベリア出兵を利用して改組発足したある部隊がその後どのような役割を果たしかに着目する。注目すべきは尼港(にこう)事件の役割という。
1928年の年表を紐解くと、以下の事象が列挙されている。普選実施、三一五事件、第二次山東出兵、済南事件、張作霖爆破(皇姑屯:こうことん)事件、治安維持法改正、パリ不戦条約調印、張学良による易幟(えきし:北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、国民政府に帰順した)である。この年のもつ意味を実感できるかと思う。中国で出版されている抗日戦争に関する著作も、皇姑屯事件から説き起こしていることを思い出した。
当時21ヶ条要求の外交文書では、日本は辛亥革命で建国された中華民国公使であった伊集院彦吉の進言で「中華民国」「中国」という呼称を使わず、「支那」と呼称することに決定し、中国側の要請する「中華民国」呼称を拒否したという。またその後の「満蒙開拓団」の先駆となる在郷軍人会による「満州武装移民団」は、張作霖爆破のスイッチを押した独立守備隊(鉄道警備隊)中隊長の東宮鉄男によって構想されたという。
皇姑屯事件は、関東軍高級参謀河本大作大佐が仕組んだものであり、張作霖を殺害したのは、国民党軍の仕業として、南満州を占領しようとして計画されたものであり、この策略は1931年の柳条湖事件で再現され、日中戦争に至る15年戦争への起点となった。
2 日中戦争はどんな戦争か?
これまで日中戦争をその起点である1931年9月18日柳条湖事件から1945年9月9日南京における降伏署名と降伏命令までの通史を扱った著作はない。とりわけ日本では、日中戦争期間では、南京陥落までの記述は多いが、その後の中国戦区の実態、とりわけ1941年12月アジア太平洋戦争のマレー・真珠湾戦の開始以降は、対米戦争を中心とする記述が主であり、中国戦区の推移と実態はほとんど知られていないに等しい。この著作の異彩を放つ所以である。
その異彩とは以下の5つである。
1) 日中戦争は、中国一撃論に代表される膺懲(懲らしめること)で相手を恐怖に陥れ、妥協と譲歩をせまり、利権と収奪をほしいままにする傀儡政権づくりにその本質があったこと。
2) 日中戦争は、軍備予算獲得と対米戦争準備のために行われた謀略と責任逃れに終始する海軍に負うところが大きく、対米開戦の直接的起因である南進策としての南部仏印侵攻とマレー真珠湾作戦は、海軍主導による開戦であったこと。
3)日中戦争は、アジア太平洋戦争の開始に伴い、その性格が根本的に変化し、開戦後4ヶ月後の1942年4月18日に発生する東京をはじめとする日本横断の空襲を契機に皇居への爆撃に驚愕し、中国戦区を日本の戦争遂行のための兵站基地として維持することを主目的とする作戦に変更されたこと。
4) 日中戦争は、国民党軍と共産党軍の二つの戦場における戦闘が余儀なくされ、対米開戦後は、経済制裁に伴う物資確保を目的とする収奪と徴発のために、対日抗戦区(共産党支配地域)への「治安戦」と称する細菌戦と毒ガス使用を含む三光作戦を強行したこと。
5)日中戦争は、その泥沼的戦線拡大に伴う打開策としての自存自衛のために南進政策を選択したが、それが米英と中国の軍事同盟を発起させ、1942年1月1日の連合国26カ国による「連合国共同宣言」を生み出し、日本と中国との戦争から日本と連合国との戦争の一部としての「中国戦区」となったこと。日本の勝ち目が失われ、中国の負けが回避されたこと。
海軍による渡洋爆撃と重慶など中国主要都市への爆撃は、なぜ必要であったのか、三光作戦とはどのような作戦だったのか、その実態はどのようなものだったのか、細菌毒ガス戦ではなぜ日本兵をもその被害者とならざるをえなかったのか、皇居への空襲を恐れて対米開戦の後に行われた最大の作戦とはどのような作戦だったのか、日中戦争の最大規模の作戦と言われる「大陸打通作戦」とは何のための、どのような作戦だったのかを体験者による証言を交えて、詳細に記述されている。
3 戦争はどのように進められたのか?
日中戦争の開始からその終焉に至るまでの日本の戦争と個々の作戦に関する意志決定は、一貫して共通するプロセスがある。作戦発動は、事件の捏造と謀略によるものであり、常に邦人保護を名目にした作戦であったことである。
同時に作戦決定プロセスは、日本の軍隊が天皇と参謀本部のもとに一糸乱れぬ統制と規律による上意下達の組織とのイメージをもつ。たしかに、戦場における戦闘場面では、天皇のために死ぬことを下命する戦陣訓に代表される上意下達として貫徹されるが、日本における参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)における作戦策定及びその執行のプロセスは、その様相をまったく異にする。
それは、日本の軍隊が天皇が統帥権(所有する)をもつ皇軍として成立し、その帷幕としての参謀本部と軍令部が作戦を立て、天皇が皇軍に下命する体系にあったことに起因する。つまり責任は天皇がもつはずであるが、明治憲法は、天皇を「統治権の総攬者」=絶対的権力者としたことで、だれも責任を負うことがなく、処分されても、又結果が不全であっても、再び復職、昇進して新たな職務を担うという人事が繰り返されたことである。
その事例をあげれば、以下の通りである。
1) 張作霖爆破(奉天市)事件(皇姑屯:こうことん)事件:1928年6月4日)
首謀者:関東軍高級参謀河本大作。田中義一首相は、事件が日本軍の仕業との確かな証拠をもち、河本を軍法会議で厳格な処分をすると天皇に上奏するとしたが、陸軍首脳の反対をうけて、行政処分のみとした。天皇の逆鱗にふれた田中義一は総辞職し、二ヶ月後に狭心症で死亡。河本は参謀職を解任されたが、参謀本部に勤務、4ヶ月後に就任する石原莞爾と作戦計画づくりに参加する。
2) 柳条湖(奉天市)事件(満州事変:1931年9月18日)
首謀者:関東軍高級参謀石原莞爾。満鉄路線爆破後張学良の東北辺防軍北大営を襲撃、旅順にあった関東軍司令部を19日朝に奉天(現瀋陽)に移動し、在鮮二個師団を増派した。若槻内閣は、不拡大方針を決定し、関東軍司令官に通達したが、石原らは、居留民保護を目的に吉林へ出兵する。林朝鮮軍司令官はこれに呼応して、天皇の勅令をえることなく、越境させた。奉天、吉林占領は陸軍中央の統制違反であり、越境は統帥権侵犯であったが、閣議決定が不可欠な出兵経費も裁可もされ、まったく処分されることがなかった。
3) 第一次上海事件(1932年1月18日)
首謀者:関東軍高級参謀板垣征四郎。国際連盟による「満州国」建国への注目を反らすために僧侶を襲撃死亡させて、日本人に武装させて、中国官憲との衝突事件とさせた。板垣らは、32年3月1日満州国を樹立させた。この事件は戦後上海駐在日本公使館付き武官田中隆吉と川島芳子らであることが判明した。
4)盧溝橋事件(1937年7月7日)
戦線拡大首謀者:武藤彰参謀本部作戦課長、牟田口廉也支那駐屯軍歩兵第一連隊長。日本軍伝令が方向を誤って中国側陣地に発砲したことを契機に行方不明者の捜索に出かけた日本軍を中国側陣地付近の中国軍が射撃した事件。牟田口らは、この射撃を「不法射撃」として中国軍を膺懲するために攻撃命令を下す。一旦停戦協定が成立したが、武藤彰らは、これを「ゆかいなことが起こったね」として事件の拡大を画策した。参謀本部の石原莞爾は、事件の不拡大と現地解決を図ったが、部下の武藤彰から、反対する石原を「私はあなたが満州事変でやったことをやっているだけですよ」と反論し、7月28日に総攻撃を開始し、北支事変(後に支那事変)が日中全面戦争への起点となった。牟田口廉也とはその後の悲惨な作戦指揮をしたインパール作戦の第15軍司令官である。
5) 第二次上海事件(1937年8月13)淞沪会戦(しょうこかいせん)
首謀者:海軍第三艦隊司令長官長谷川清中将、上海特別陸戦隊司令官大川内伝七少将。犠牲者:大山勇男中尉。8月9日夕方、上海陸戦隊派遣本部から虹橋飛行場の中国軍防衛施設にむけて偵察と称して軍用車を走らせ、中国軍からの反撃を前提に、阻止線を突破し、銃撃をうけて、運転手とともに死亡(大山事件:中国側虹橋机場事件)。海軍は、このような事件を根絶させると称して、上海の中国軍防衛施設の撤去と中国保安隊の縮小と駐屯地の制限を要求。13日海軍陸戦隊と中国軍が日本人租界「虹口(こうこう)」で開戦する。大山勇男中尉は上記海軍司令官からの決死視察を密命されたという。
6) 南京攻略戦進軍決定(1937年11月15日)
首謀者:松井石根中支那方面軍司令官、柳川平助第10軍司令長官、武藤彰参謀本部作戦課長。上海事変は開戦後3ヶ月経っても膠着する苦戦を強いられたが、11月上旬に上海背後の抗州湾からの援軍(第10軍)と上海派遣軍の増派(第16師団)で打開し、11月中旬に戦闘は終結した。所期の目的を達した作戦だったが、第10軍は、11月15日に南京進軍を決定し19日に進軍を開始した。これに対して、参謀本部は、中支那軍参謀長あてに「作戦指示範囲を逸脱している」と打電した。24日開催された天皇臨席の第1回大本営御前会議にて参謀本部作戦部長から、参謀次長を出し抜いて「現地軍の態勢が可能ならば、南京攻略を考慮する」との発言があり、この発言への異論がなかったとして、南京進軍を決定したという。南京への進軍過程及び陥落の南京大虐殺は、11月上旬に上海戦に参戦した第10軍と第16師団の担った役割が大きいと言われる。
7) ノモンハン戦争(1939年5月11日〜9月15日) モンゴル側:「ハルハ河戦争」
首謀者:関東軍司令官植田謙大将、関東軍参謀作戦課長服部四郎、関東軍参謀辻政信少佐。ノモンハン戦争は日本では、「事件」とされるが、4ヶ月に渡る戦争である。ノモンハン戦争は、満州国とソ連の沿海州側の国境紛争である「張鼓峰事件」の敗北を経て、モンゴル側の国境紛争地であったノモンハンを舞台に沿海州側の敗北のリベンジ作戦として計画された。第一次戦争は、第23師団の東支隊と山形支隊が作戦に当たったが、東支隊はほぼ全滅、山形支隊も撤退を余儀なくされた。第二次戦争は、関東軍第二航空隊100機を使う失地回復戦として、6月27日にモンゴル側ハルハ河背後の航空基地空爆で開戦する。この空爆は国境を越えた爆撃であり、参謀本部は、関東軍参謀長宛に事前連絡のない作戦であり、爆撃中止を下命した。しかし関東軍参謀辻は、独断で司令長官名を名乗り「当軍を信頼し安心さられたく」と打電したという。再三の中止命令を無視して作戦を継続する関東軍に対して、ソ連は8月20日航空機500機による総攻撃を開始し、第23師団は壊滅したが、関東軍は、さらに関東軍の主力師団を結集し、ソ連との決戦を挑んだという。大本営は、ソ連との全面戦争を回避するために、参謀本部参謀次長を関東軍に送り、停戦させる措置をとったという。
ノモンハン戦争の敗北で関東軍司令官参謀ら幹部は、解任され予備役に編入されたが、作戦参謀だった服部と辻らは一旦外されたのちに、参謀本部の作戦課長と班長に返り咲き、ノモンハン戦争の敗北経験から北進派から南進派に転向し、アジア太平洋戦争の推進者となったという。
8)浙贛(せっかん)作戦(「せ」号作戦:中国江西省):42年5月13日〜9月30日
首謀者:関東軍参謀辻作戦課長服部四郎大佐、関東軍参謀辻政信中佐。日本本土空襲と皇居爆撃を恐れた大本営は、42年4月開始予定の19号作戦計画を変更し、B25の中国帰着地となった江西省の衢州・麗水、玉山の飛行場を破壊する作戦に変更した。現地軍司令官を無視した作戦変更は、現場の戦闘士気を削ぐものとなったという。
上記の事例は最も代表的なものであるが、日中戦争における主要な作戦に他ならない。日本の戦争と軍隊とはどのようなものだったかを知ることは極めて重要である。戦争とは一体なにか、戦争はどのように開始されるのかを知ることが不可欠である。起きてしまってからでは遅すぎるからである。
戦争はひとりでに起こるものではない。起こそうとする者の存在があって初めて起きるのだということを肝に命じたい。