2017年 09月 24日
登戸研究所を訪ねる 〜「すぎし日はこの丘にたちめぐり逢う」〜 |
明治大学生田校地に登戸研究所を訪ねる
〜「すぎし日はこの丘にたちめぐり逢う」〜
目的は、戦場となった沖縄を除く日本で、戦争加害を知る史蹟資料館の果たす役割を正確に把握し、戦跡の発掘過程に関わる軌跡をしっかり把握することである。
登戸研究所資料館は、いまからわずか7年前に開設された資料館である。それは終戦玉音放送と同時に陸軍軍事課による敵に押収されては困る「特殊研究」に関するすべての証拠隠滅の命令から、65年後のことである。65年の歳月をかけて国内にあった軍隊と戦争に関わる記憶を知る機会がようやく私たちに与えられたということである。
それは、戦後直後から慶応義塾が借用した登戸研究所跡地を1950年に明治大学が購入し、農学部など理系学部を設ける生田キャンパスを開設したことに始まる。つまり生田キャンパスそのものが軍事遺跡であったということに他ならない。キャンパス内には、弾薬壕、動物慰霊碑、陸軍マークの消火栓、研究所跡碑とともに西南部に登戸研究所資料館がある。この資料館自体が第九陸軍技術研究所の生物化学兵器(細菌及び毒性化合物・青酸化合物)を実験研究する第二科に属する建物をそのまま保存し改修した施設である。
第九陸軍技術研究所は、1937年11月(上海事件後の3ヶ月に及ぶ上海戦期間)に登戸実験場として新宿戸山ヶ原(現早稲田大学理工学部周辺)から移転・開設された。当初は、電波兵器を開発するために、周辺に障害物がない高台でしかも陸軍中野学校、スパイなどの特務機関、憲兵隊などの連絡調整に便利な場所として、登戸台地が選定されたという。その後対米開戦を想定した陸軍の「秘密戦」を展開するための兵器開発と製造とともにスパイ作戦、謀略作戦を遂行するための施設として発展し、敗戦時に1000名に近い職員規模をもつ研究所となったという。
研究所は、戦争兵器の兵器開発を担う第一科、生物化学兵器を担当する第二科、偽造紙幣を担当する第三科、兵器製造を担当する第四科で構成されていた。
第一科による戦争兵器として実践配備されたのが、風船爆弾である。直径10メートル風船爆弾は1万発製造され、偏西風を利用して北アメリカ大陸に約1000発が到達したという。
第二科は、人体実験ではなく、主に動物及び植物を対象とした細菌兵器と青酸化合物を利用した敵地家畜及び農産物壊滅やスパイ行為に必要な動物殺害などの研究と製造であった。日本軍の細菌毒ガス戦は、哈爾浜平房にある731部隊による人体実験と細菌戦によって担われたが、登戸は主に青酸化合物による動物の殺傷と細菌による枯れ葉剤製造とスパイ戦に必要な暗殺兵器を担っていたと思われる。
第三科は、中華民国の発行する法幣(法定通貨)を香港占領(1941年12月)時に略奪した印刷機材を搬送し、エイジング(使い古し)を掛けて一圓、五圓、十圓紙幣を偽造した。規模は、1939年から敗戦迄の間に約45億円3000万元、その内約25億元(現在の物価換算で105億円)が実際に使用されたという。
登戸研究所資料館から学ぶべきことは、この施設の研究内容の一端を示す「雑書綴」の発見とともに平和教育を進める地元市民による戦争史跡に関する調査、長野県と神奈川県高等学校の平和ゼミナール活動などが一体となった取り組みである。とりわけ「雑書綴」は、登戸研究所所員へのアンケート調査に回答したタイピストが所持していたものであり、機密性の少ない記録であるが、研究所全体の研究概略を知る貴重な一次史料となり、研究内容解明の決め手になったという。
また長野県の「平ゼミ」高校生による所員訪問活動は、第二科第一班長:伴繁雄氏にインタビューし、戦犯指名もなく、その後10年間渡る委嘱勤務、細菌兵の開発研究の実際、帝銀事件捜査(1948年1月)に関わる第二科関係者の捜査などの証言を得ることができたという。戦後の証拠隠滅及びアメリカによる人体実験資料のデータ取得と引き替えに戦犯指名を回避した日本軍細菌部隊の実態の一部を戦後初めて明らかにすることができたのである。
更に1989年高校生らによって、長野の伴繁雄氏自宅の裏庭にて、731部隊石井四郎が開発した大量の「濾水器濾過器」を発見したという。松代への大本営移転に伴う上水対策として確保されたものと言う。
明治大学生田キャンパス内にある弥心神社(現生田神社)の境内に登戸研究所跡碑がある。
ここに研究所解明の原点があると言う。1982年かつて研究所に勤務した所員が再会し、親睦会「登研会」を結成、会員のカンパで碑を建立したという。
この碑文に「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」とある。戦中は、所長と上司からの秘匿命令のもとで、他人には自分の仕事を明かすことができず、他の科で行われている内容も聞くこともできず、戦後は一切の口外告知を許されたなかった旧所員たちの40年を越える長い「沈黙」故の「すぎし日は」との思いが切々と伝わる碑文であると思った。
by inmylife-after60
| 2017-09-24 20:24
| 歴史認識・歴史学習
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