2017年 10月 15日
「隠された爪痕」「払い下げられた朝鮮人」〜朝鮮人虐殺事件記録映画をみた! |
「隠された爪痕」「払い下げられた朝鮮人」朝鮮人虐殺事件記録映画をみた!
〜「15円55銭」という踏み絵〜
昨日、第38回憲法を考える映画の会:「隠された爪痕」「払い下げられた朝鮮人」の2本の記録映画を千駄ヶ谷区民会館で見た。この映画は、朝鮮人2世の呉充効監督が制作した1923年(大正12年)に発生した関東大震災(9月1日午前11時58分:マグニチュード7.9)に乗じて発生したと言われる「不逞の輩」:朝鮮人虐殺事件に関する記録映画である。
映画鑑賞後に呉充効監督が挨拶し、多数の方々からの質問に応えて頂き、この事件に関する真相への手掛かりを掴むことができた。
小池都知事による9月1日の慰霊式典への追悼文送付拒否によって、新たな関心を呼ぶこととなり、会場には新聞記者を含めて100名以上の参加者で満席となった。
この映画は、南京大虐殺と同様に、6500人もの虐殺はありえないとの言説で事件は捏造とする歴史改竄の動きに対して、当時の体験者による証言を通じて、「大地震に乗じて発生した心ない自警団による行き過ぎた過剰防衛」とのイメージでは語りきれない真相を抉りとろうとする作品である。
関東大震災時に亀戸事件など、朝鮮人、中国人、社会主義者への虐殺事件は知ってはいたが、この映画を通じて関東全域で虐殺がどのようなプロセスで発生したのかについて、正確に理解していない自分を思い知った。
とりわけドキュメンター「払い下げられた朝鮮人」に記録されている2つの事件は、私の住まいである千葉西北部(船橋・習志野・市川)に深く関わった事件であり、今回初めて知ることとなった。
この事件に至る経過は以下の通りである。
1)関東大震災前後の陸軍、政府、警視庁の動き
8月25日:首相:加藤友三郎急死、内田康哉外相が臨時首班を兼務。
9月01日:関東大震災発生(組閣の途上で戒厳令は明治憲法第8条:緊急勅令)
・陸軍は近衛師団と第一師団を東京衛戍司令官麾下とするとの下命。
・午後4時赤池濃警視総監、内務省大臣水野錬太郎に戒厳令発令を進言。
注:明治憲法は、緊急事態法として第8条の「緊急勅令」による権利停止の適用と第14条の戦争及び事変に対処する「戒厳令」がある。震災は自然現象であり、戦争や事変ではないため、第8条を適用し、戒厳令権利停止事項の一部による「行政戒厳令」としたと言われる。この場合でも以下にある枢密顧問の諮詢を経ることなく施行されたことから、違法であるとの指摘が多い。この行政戒厳令は、1905年の日比谷焼き討ち事件が先例であり、以後の事例は1936年の2.26事件である。
9月02日:明治憲法第8条:緊急勅令による「行政戒厳令」を発令。:東京市、府下5郡。「押収、検問所の設置、出入りの禁止、立ち入り検察、地境内退去など災害時における対処としては著しく過大な権限を与えた。枢密顧問の諮詢を経るという枢密院官制上の規定にも関わらず、戒厳の勅令は枢密顧問の諮詢を受けてない。勅令は官報により公布されて有効となるとされているが、官報に記載されず、号外扱いで告知。
9月03日:午前8時15分:内務省警護局長、船橋海軍無線電信所から全国無線告知。「不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」として「各地方長官宛」に鮮人取締令の発令を告知。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎ、放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」と戒厳令発令の告知を打電。
・陸軍は仙台第2師団、弘前第8 師団、金澤第9 師団の歩兵各 2 連隊、広島第5師団の電信第2連隊及び内地各師団の工兵大隊(第 4、第 6 大隊 を除く)及び衛生機関に出動を命じ、陸軍士官学校生徒も戒厳司令官の隷下に入り、従来 の軍隊と交代して、東京各官邸、各大公使館の警備に就いた。陸軍5万人、海軍3万5千人を投入したと言う。
・関東戒厳司令官に福田雅太郎大将を任命、司令部を三宅坂陸軍参謀本部に設置。
9月5日:内務省「朝鮮問題に関する協定[極秘]」
鮮人問題に関し外部に対する官憲の採るべき態度に付、九月五日関係各方面主任者事務局警備部に集合取敢へず左の打合を為したり。
第一、内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相として宣伝に努め将来之を事実の真相とすること。従て、
イ.一般関係官憲にも事実の真相として此の趣旨を通達し、外部へ対しても此の態度を採らしめ、
ロ.(新聞紙等に対して、調査の結果事実の真相として斯の如しと伝ふること。左記朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事例は多少ありたるも、今日は全然危険なし、而して一般鮮人は皆極めて平穏順良なり。朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対し故らに大なる迫害を加へたる事実なし。
第二、朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、定に努むること。尚、左記事項に努むること。
イ、風説を徹底的に取調べ、之を事実として出来得る限り肯定することに努むること。
ロ、風説宣伝の根拠を充分に取調ぶること。
2)地震発生後の虐殺事件について(代表事例)
9月2日:・片柳事件(朝鮮人虐殺)
:判決で「東京等で朝鮮人が放火や井戸への毒物の投入などの不逞行為を行っているという風評について真実かどうかの確認の時間もなかったため、郡を通じて町村に対し、 在郷軍人会、青年団、消防団等に警察等と協力のもとに不逞の輩の襲来に備えるための 「自警の方策」をとるようにとの「通謀」を発したことにより、 自警団が日本刀などで武装して警戒し、朝鮮人に対する無差別的な殺人に及んだこと」を事実認定。
9月3日・大島町事件(中国人虐殺)
:五、六名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200名程の支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹槍、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、 中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。
今回見た記録映画で紹介されている事件は以下の通りである。
1)船橋北総鉄道労務員虐殺事件
9月4日、北総鉄道(現東武野田線)の建設工事に就労した朝鮮人をトラックで「海軍東京通信所船橋送信所」の収容所に搬送していた際に自警団により、53名(内女性3名)が虐殺された事件である。船橋の長福寺にて慰霊碑が建立された。
2)習志野陸軍騎兵連隊収容所事件
戒厳令下のなかで生命の保護を名目に朝鮮人を収容するために陸軍習志野捕虜収容所3200名を収容したが、陸軍は、その収容朝鮮人を特定して、各部落に「払い下げ」し、虐殺した事件。
この事件を知る日本人証言により真相が明かされ、この事件を知る「観音寺」住職がこの事件の慰霊を行ったと言う。
この記録映画をみて改めて、この事件から感じたことを整理してみたい。
1)時代的状況について
・日露戦争後の日韓併合を契機にした朝鮮人による日本への移住に伴い、最下層の労働者として当時の首都東京の開発工事(荒川放水路掘削・北総鉄道など)に多くの朝鮮人が就労しており、震災の流言飛語により「いわれなき差別と迫害と虐殺」を余儀なくされたことである。
・震災当日午後4時段階で朝鮮総督府官僚であった赤池濃警視総監と内務省大臣水野錬太郎によって戒厳令発令を準備し、朝鮮人を不逞の輩として、取締対象とすることで、在郷軍人会を初めとする「自警団」による私刑リンチによる虐殺を誘発し、自警団の「私刑」を朝鮮人による騒乱と喧伝しながら、流言飛語を真相とできる事例を捜せとの命令を発する内務省によって仕組まれた「虐殺事件」と言わざるをえない。
2)軍都としての千葉県北西部について
・「陸軍習志野騎兵連隊」と「海軍東京通信所船橋送信所」が上記の2つの事件に果たした役割は大きい。「陸軍習志野騎兵連隊」は現在の東邦大学習志野キャンパスにあり、「海軍東京通信所船橋送信所」は、日本大学生産工学部キャンパスにある。
・「陸軍習志野騎兵連隊」は、近衛師団に直属する騎兵部隊であり、日露戦争において ロシアコサック部隊に戦勝する等日本陸軍きっての最強騎兵連隊である。帝都守護のために戒厳司令部の直属師団は近衛師団と第一師団であり、習志野騎兵連隊はこの近衛師団麾下の直属部隊であった。9月2日午後2時に出陣した第一騎兵旅団(騎兵第13連隊と騎兵第14騎連隊)は、各隊各兵60発の実弾を装着して、亀戸方面に向かったと言う。
・「海軍東京通信所船橋送信所」は震災による通信機構の崩壊のなか、情報通信に果たした役割は計り知れない。「各地方長官宛」の鮮人取締令の発令は無線電信によって通信され、各地自警団への朝鮮人拉致と虐殺を誘発する契機となるのである。
3)朝鮮人虐殺への衝動について
・朝鮮人に対する憎悪と襲撃・虐殺への衝動は、日本の朝鮮支配との表裏の関係にある。1910年の朝鮮併合以降の植民地圧政への抵抗は、200万人が参加した1919年三・一独立運動で高揚し、この参加者への徹底的な弾圧を通じて、支配権を辛うじて維持した。しかし三・一独立運動を初めとする抵抗が陸軍と内務省の狼狽と震撼を喚起し、震災後の流言飛語を口実にした朝鮮人取締(拉致と殺害)を想定した戒厳令発令への衝動であると考える。
・自警団は、朝鮮人と覚しき人を見つけると、濁音を発音できない語句(「座布団」「15円55銭」「パピプペポ」)を言えと脅し、朝鮮人であるかどうかを認定したと言う。虐殺に加担した自警団を主導した在郷軍人会の長老達の果たした役割は非常に大きなものであったに違いない。彼らの日清日露戦役を通じて大変した朝鮮半島と中国東北部(満州)における現地経験が語り継がれたことは疑いない。
・この類の認定は、中国人はおろか、沖縄県、秋田県、大阪出身者などの日本人も誤って虐殺されることに成らざるをえない手法であったことは言うまでもない。
決して繰り返されてならない事件であることを肝に銘じたい。
by inmylife-after60
| 2017-10-15 21:15
| 歴史認識・歴史学習
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