2017年 11月 17日
関東大震災と虐殺事件について |
関東大震災と虐殺事件について
〜陸軍・内務省・特高警察・官憲・自警団による虐殺記録を読む〜
0)はじめに
10月14日千駄ヶ谷区民会館で開催された関東大震災に伴う朝鮮人虐殺に関する記録映画を観て、改めてこの事件の初動から収束までの動きに大きな関心をもつと同時になにか腑に落ちない気持ちを拭い去ることができなかった。
それは、この虐殺が何故引き起こされたのかという事件の本質がこの映画だけではどうしても理解できなかったからである。
その最初の疑問は、1923年9月1日午前11時58分発生した関東大震災後に最初に出動した第一師団(皇居と天皇陛下を守る師団)麾下の習志野騎兵連隊が、何故「亀戸」に直行したのかということである。亀戸を含む「南葛飾(現在の葛飾区、江戸川区の全部、墨田区、江東区、足立区の一部)」は、このとき震災被災の甚大さに劣らない程の「凄惨な殺戮の場」となっていた。震災後1ヶ月以上後の10月10日になって初めて明るみにでた南葛労働組合指導者を一網打尽に拉致虐殺した「亀戸事件」がその象徴である。皇居と天皇を衛戌(えいじゅ)する師団が「南葛」に直行しなければならない意図があったはずである。
もう一つは、「流言蜚語」の発生源である。流言蜚語は、最初の流言者が存在するはずである。この流言蜚語を真実と思い込む土壌があって、初めて群集心理を動かし、騒擾を生み出すものである。その土壌となったのが、鮮人(朝鮮人)と主義者(社会革命家)への差別と恐怖、敵愾心である。とりわけ人びとを疑心暗鬼と恐怖に陥れた最大の流言蜚語は、「鮮人来襲」である。これが地域住民に自警団をつくらせ、日本人による朝鮮人と中国人、そして日本人らも私刑虐殺に駆り立てる契機となった可能性が高いと言える。
三つ目は、「流言蜚語」に伴う官憲側の要請で結成された自警団が一転して殺害訴追へと逆走することへの違和感である。ある目的を達成した段階で、本当の狙いを覆い隠すための策略ではないかと思えてきたことである。つまり自警団の組織をそそのかした官憲がその自警団襲撃者を訴追する茶番劇を演ずることで何を実現しようとしたのかを探ることが不可欠だと思ったからである。
以上の疑問を晴らすために、「現代史資料(第6巻〜関東大震災と朝鮮人)」、「いわれなく殺された人びと―関東大震災と朝鮮人」、「関東大震災と亀戸事件(関東大震災・亀戸事件四十周年犠牲者追悼実行委員会篇)」、「亀戸事件〜隠された権力犯罪」を読み、関東大震災と虐殺事件(朝鮮人・中国人・日本人)の実相について改めて検証してみた。
1)第一師団麾下の習志野騎兵旅団派兵による虐殺について
a)軍隊の始動について
警視庁(赤池濃警視総監)が、近衛師団に出兵要請者を提出したのは、関東大震災の発生直後の9月1日午後4時頃だが、しかし軍はすでに出動していた。
9月1日午後1時10分(震災発生後1時間12分後)陸軍は「緊急警備に関する命令」を発し、近衛師団と第一師団の担当分担を、甲武線(現中央線)、新宿、四谷見附、赤坂見附、虎ノ門、日比谷公園、憲兵司令部、永代橋、両国橋、両国停車場、総武本線の北側を近衛師団、南側を第一師団として但し線上は近衛師団と発令した。
b)軍隊による朝鮮人虐殺について
陸軍の動きを越中谷利一日記からその要旨を紹介する。第一師団騎兵第14連隊は、「9月2日正午前に出動したが、乗馬整列まで30分しか与えられない緊急出動であり、二日分の糧食と馬糧、予備蹄鉄と実弾60発を支給されて、将校らは自宅から真刀をもって指揮号令した。千葉街道を一路砂塵を揚げてぶっ続けて飛ばし、亀戸には午後2時に到着し、活動の手始めとして「列車改め」を開始した。抜剣した将校のもとで、発車間際の列車の内外を調べ、一名の朝鮮人を発見、引きずり下ろされて、背後から切り倒された。避難民から思わず嵐のような万歳歓呼の声があがった。兵隊が斬ったのは多く此の夜である」とある。亀戸では、2日午後2時段階で軍隊による虐殺が始まったのである。
c)不逞鮮人を悪用する「主義者」を狙った虐殺について
第一師団長は、2日午後4時の「訓示」の「不逞鮮人の動作について」の項目では、以下のように指示した。
「一、計画的に不逞の行為をなさんとするが如き形勢を認めず。
「二、鮮人は、必ずしも不逞者のみにあらず、之を悪用せんとする日本人あるを忘るべからず、宜しく両者を判断し、適宜の指導を必要とす。」
さらに3日付け「訓示」にはこの「悪用せんとする日本人」には「今後主義者に乗ぜられるることなく、人心を安定せしむることに努力を望む」として、日本人の社会主義者などに対する警戒と捕縛を明確に意図した取締を指示したのである。
つまり、9月1日午後1時から9月2日午前に近衛師団と第一師団への出動命令までに示されこの指示事項は、流言蜚語を利用した日本の主義者(社会革命家)と朝鮮人の乗ずる「機会」を奪う作戦行動であったと言える。
2)南葛における朝鮮人虐殺について
a)避難民による証言
亀戸周辺にいた避難民:湊七良による「その日の江東地区」と題する報告から紹介する。
「その夜半(2日)のことである。いきなり半鐘が鳴るので、火事かな、もう沢山だと思っていると、津波だとする声がする。津波ではない、朝鮮人の来襲だという者がいる。東京を襲撃している朝鮮人は、横浜刑務所を脱獄し、社会主義者といっしょになって、東京を荒らし回っているのだとまことしやかにいう者がいた。3日から大島三丁目の友人宅2階を仮の宿にした。近くの大島製鋼所方面で、ピストルの襲撃音が聞こえた。朝鮮人騒ぎではないかと直感し、外に出てみた。大島製鋼所の周辺には、葦の生えた湿地帯があって、その付近で憲兵がピストルをかまえて何かを捜している。「何を捜しているのか」と聞くと飲料水に毒を投げ込んだ鮮人が、葦の中に逃げ込んだのだという。しばらくして、25、6歳の青年が憲兵と自警団に追い詰められて捕らえられた。その青年は、無残にも、頭を打ち抜かれて殺された。」
「亀戸五ノ橋に朝鮮人の婦人の酷たらしい惨殺体があるから見てこいと言われた。(中略)一目みただけで、血の気が失われるような身震いを覚えた。惨殺されたのは、30を少しでた程の朝鮮婦人で、性器に竹槍が刺されていた。しかも妊婦である。いったい、誰がこの女性をこのような残酷な殺し方をしたのか、われわれと同じ日本人であろうか。またどうして殺してからこのようなことをしたのであろうか。とにかくこの惨殺体のことは考えないことにした。」
b)住民による証言
小名木川ほとりの砂町に住んでいたフランス文学者となった田辺貞之助の記した「女木川界隈」から紹介する。
「それは地震から4日目ほどのことであった。番小屋に詰めていたとき、隣の大島6丁目に死体が沢山並べてあるから見に行こうと誘われた。そこで夜が明け、役目がおわるときとすぐに出かけた。
石炭殻で埋め立てた4、5百坪の空き地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空き地に東から西へ、ほとんど裸体に等しい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250と聞いた。ひとつひとつ見て歩くと、喉を切られて、気管と食道とふたつの頸動脈がしらじらと見えるのであった。首の落ちているのは一体だけだが、無理にねじ切ったと見えて、肉と皮と筋がほつれていた。ただひとつ哀れだったのは、まだ若いらしい女性が腹をさかれ、6、7ヶ月になろうかと思われる胎児がはらわたのなかにころがっていたことだ。その女の陰部にぐさりと竹槍がさしてあった。(中略)日本人であることをあのとき程、恥辱に感じたことがない。」
c)臨時火葬場における非火災焼圧死者について
弁護士山崎今朝弥は、この江東、南葛の虐殺者数の占める割合の高さを指摘しているが、ここでは警視庁の屍体焼却数から朝鮮人の虐殺がいかにすさましかったのかについて紹介する。
「屍体処理の必要から、多数の臨時火葬場がつくられ、5万8千体を焼いた。南葛郡の火災焼圧死者は、わずか125人に過ぎないが、南葛郡内の臨時火葬場で焼かれた屍体数は砂町八石広場、砂町火葬場、亀戸火葬場、荒川放水路火葬場、荒川放水路堤下空き地、小松川橋空き地、大島町羅漢寺の7箇所で合計1335体に上る」という。つまり、火災焼圧死者とは異なる1210人に上る屍体を処理したということになる。
3)南葛における中国人虐殺について
a)王希天の虐殺について
南葛には約1000人を越える中国人がいた。そのなかで最も有名な事件が「王希天事件」である。王希天の消息は、50年後に公表された「久保野茂次日記」(久保野茂次:千葉県市川国府台所在の「野重砲第1連隊第6中隊所属」)によって明らかにされた。
王希天は、9月12日未明、国府台にあった第一師団野戦重砲兵第一連隊第六中隊の中隊長佐々木兵吉大尉らの将校によって、亀戸9丁目の逆井橋のたもとに連れていかれた。そこに待機していた垣内中尉が「まあ一服でも」と誘い、王が土手に腰を下ろした瞬間、軍刀で王の肩から背中にかけて切りつけて殺害したと言う。殺害を隠匿するために、顔面と手足を切り刻み、服を焼き捨て、所持品10円70銭と万年筆を奪い取ったという。
王希天は、当時28歳で、生活苦に喘ぐ中国人労働者の救済のために1912年暮れに大島町3丁目に設立したセツルメント「僑日共済会」の会長であった。
b)中国人を狙った虐殺事件について
さらに、中国人を狙った虐殺事件を「現代史資料6巻」に記載された山陽新聞(10月23日)記事から紹介する。
「日本の軍隊と警察と自警団が連合して、中国人労働者及び朝鮮人と社会主義者を殺戮する暴行を行った。在日中国人留学生で監禁されて殴られて死んだ者は100人近くいる。9月2日夜9時頃、大島町8丁目にある中国人宿舎に押しかけ、中国人を脅迫し、家財や金子を持ち出し、宿舎の外にある空き地に誘い出し、地上に臥して難を避けよといい、地上に伏したところを突然押し掛かり、中国人労働者174人を悉く殺した。そのうち1人だけ死んだふりをして難を逃れた。このような事件は、大島だけでなく、三河島方面でもあった。」
南葛における中国人の虐殺との関連でいえば、先に紹介した大島6丁目の250人とされる死体には中国人が多く含まれていたとの証言があるという。
政府調査の「朝鮮人と誤認したものであり、中国人を対象とする事件ではない」との見解は事実ではないと言う。
4)南葛及被災地における日本人「主義者」の虐殺について
a)亀戸事件とは
日本人「主義者」と自警団員に対する虐殺事件である「亀戸事件」は、発生後実に1ヶ月以上経って公表された。
亀戸事件とは、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、同月4日~5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件である。また、9月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。
この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により発表された。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付された。軍隊・憲兵隊によって人々の不安が煽られ多数の朝鮮人が民衆によって虐殺される事件が起こった。江東地区では自警団による朝鮮人虐殺がかなり広い範囲で行なわれた。
b)亀戸事件が発覚する経緯について
この亀戸事件が公表される発端となった事件が「甘粕(あまかす)事件」である。甘粕事件とは、9月16日、アナキスト(社会主義思想家)の大杉栄と作家で内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が不意に東京憲兵隊特高課に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵隊(憲兵大尉甘粕正彦と曹長森慶次郎ら)によって首を絞めて殺害され、遺体が井戸に遺棄された事件である。
この甘粕事件から亀戸事件が明るみに公表される経緯は以下の通りである。
a)16日淀橋警察署長から警視庁官房主事正力松太郎への通報
b)18日警視長官房主事正力松太郎の湯浅警視総監への照会
c)湯浅警視総監の内務省警保局を経由した福田戒厳司令官への照会。
d)福田戒厳司令官の小泉憲兵指令官への照会。
e)小泉憲兵指令官の大杉連行の「否定」。
f)福田戒厳司令官への小泉憲兵指令官による「連行否定」報告
g)憲兵隊否定を聞いた湯浅総監の後藤新平内相への報告
h)後藤新平内相の山本権兵衛首相への報告
i)山本権兵衛首相の田中義一陸相への調査命令
田中陸相から質問をうけた小泉憲兵司令官は、この時甘粕の犯行を認め、これを賞賛するかのような口ぶりであった。後藤内相は、仲の悪かった田中陸相ではなく、直接山本首相に報告し、田中陸相は、部下の小泉憲兵指令官の殺害を知らなかったために烈火の如く憤り、小泉憲兵指令官を謹慎処分に命じた。翌19日閣議で甘粕事件調査が指示され、24日正式に事件を公表したのである。
大杉殺害についての記事が全面解禁されたのは、軍法会議の第一回公判が開かれた10月8日であった。 この軍法会議公判で実行犯の東京憲兵隊本部付(特高課)憲兵曹長の森慶治郎による「亀戸警察署では、8名計りを遣付けたというような話も皆が致して居りました」との陳述によって、亀戸事件の「虐殺の事実」が確認されたのである。
c)陸軍憲兵隊の市ヶ谷刑務所への出動について
もうひとつは、東京憲兵隊の注目すべき動きとして、市ヶ谷刑務所の約1000名囚人及び未決拘留被告、とりわけ震災3ヶ月前の1923年6月5日未明に発生した第一次共産党事件で未決勾留中の27人とアナキストら合わせて40~50人の政治犯に対する憲兵隊司令官の措置である。
政治犯たちは、震災発生に伴い、所内広場に解放されてはじめて情報交換が可能となり、代表を決めて囚人全員の釈放を要求して交渉を開始したという。この動きは、社会主義者の煽動で囚人が暴動を起こしたと喧伝された。弁護士布施辰治は、1日夜市ヶ谷刑務所に暴動発生との流言を耳にし、翌2日午前1時頃に刑務所を訪問し、政治犯と面会したという。
囚人代表と刑務所当局との交渉は、2日午前11時ごろに刑務所における前代未聞の団体交渉が開始されたと言う。囚人代表は、第一の要求である囚人の釈放は、倒壊するような状況ではないことを理由に拒否されると、午後2時頃、第二の要求である「囚人親族者の安否確認派遣」を求める演説を始めたが、その半ば頃、刑務所がその演説を阻止しようとして揉み合いになった時、「軍隊が来た」と叫ぶ声があり、広場側に抜剣した将校のもとに立ち撃ちで構える一個小隊(30~50人)の兵士が散兵したことから、交渉の力関係は逆転したという。
この銃剣下の団体交渉は、刑務所当局の主導となり、更に監獄側は夕食前に死刑囚による獄舎放火を政治犯たちの煽動ではないかとの警戒から、兵隊による巡視が頻繁となり、夕食後守衛はふたたび手錠を掛け始めしかも全員にかける手錠がないために一人は右手に、一人は左手に数珠つなぎで手錠をかけられ、病監にいた政治犯まで手錠をはめようとしたと言う。囚人代表は戒護主任に「もし病人に手錠をはめるなら殺人の意思があるものとして訴える」と抗議して、やっと施錠を止めさせたと言う。
d)東京憲兵隊による政治犯引渡とその対応について
3日午後、東京憲兵隊(陸軍の憲兵部門のトップ)は、市ヶ谷刑務所長に対して数台の護送用自動車を用意し、共産党事件の被告全員を即時引き渡せと膝詰め談判したという。大野数枝所長は、「被告たちは憲兵隊から預かったものではない。裁判所からの命令がない限り一人の被告といえども、憲兵隊に引き渡すことができない」と拒否したという。もし所長が引き渡したとすれば、それは、亀戸事件、甘粕事件にも劣らなぬ日本人「主義者」虐殺事件が引き起こされた可能性が高い。
5日から10日にかけて、各警察署、警視庁特高係(後の「特高警察」)、東京憲兵隊は労組活動家、農民運動家、労働運動家、総同盟本部職員ら多数を、順次暴力的に拘束検挙したと言う。
5)朝鮮人虐殺を誘発したとされる「流言蜚語」とその発生源について
a)流言蜚語の性格について
関東大震災後の「流言蜚語」は、大きく二つに分類される。朝鮮人が「井戸に毒を入れた」「放火した」との流言と「朝鮮人が首都を騒擾した」「朝鮮人が来襲する」との蜚語である。そしてこの両者が相互作用で増幅し、内務省警護局と戒厳司令部の通達で「事実」として喧伝され、自警団の私刑的殺戮が促される要因となった。
「朝鮮人が来襲する」との蜚語は、軍隊と憲兵隊と特高警察の権力を背景にした在郷軍人会らの自警団が「朝鮮人狩り」に狂奔し、集団的惨殺事件誘発の要因となった。その発生源は一体どこから発生したのかに関する検証は現在まで明確には解明されていない。
b)流言蜚語の発生について
ここでは、「流言蜚語」の発生源に関する記述を1963年出版の「関東大震災と亀戸事件(関東大震災・亀戸事件四十周年犠牲者追悼実行委員会篇)に発表された江口渙「関東大震災と社会主義者・朝鮮人の大虐殺」から紹介する。
「流言蜚語」は9月1日夜に横浜で、その後2日晩から京浜と東京で発生したという。
「大地震のドサクサに紛れて、朝鮮人が集団で火をつけて歩く。爆弾を投げる。略奪をほしいままにする。それを社会主義者がうしろから煽動している。あるいは革命がくるかもしれない。というデマがいたるところに乱れ飛んだ。」
「このようなデマは、いつどこからどのようにして起こったか。その事の起こりは、9月1日夜に決行された横浜港税関倉庫の襲撃にはじまる。(中略)税関の倉庫には輸入食糧が一杯あると誰が言い出したともなしに広がった」という。
ここで避難民ともいう立憲労働党総理を名乗る山口正憲が登場する。名前は立憲労働党だが、山口は左翼ではなく、明確な右翼であった。事あるたびに、赤旗を立て、赤ハチマキを巻いて練り歩く左翼風の行動をとっていたという。山口は、「こういうさいには税関であろうと何であろうと食糧をねかせてなんて法はない。ようしおれがやってやる。みんな!ついてこい!」と立ち上がった。女房と子分十数人のもつ赤旗と赤ハチマキの威勢のいい格好をみて群衆たちも関税倉庫を襲ったと言う。この襲撃による食糧確保により飢餓は免れることとなった。
c) 朝鮮人に責任を擦り付けた流言蜚語
しかし蜚語はここからはじまった。政府保管の食糧を勝手に略奪・処分・分配することを煽動した山口は、その責任追及の手から逃れるために、その仕業を朝鮮人になすりつけたのだという。
朝鮮人が「爆弾で税関の倉庫をぶちこわした」「倉庫を破って食糧を掠奪した」と赤ハジマキで赤旗を押し立てて、焼け跡を歩き回ったという。この赤旗と赤ハジマキと税関倉庫の掠奪を同一視し、朝鮮人と主義者が一緒になって爆弾を投げて放火・掠奪したとするデマが広がった」と言う。
この流言は京浜地区と八王子の二手に分かれて東京に向かい、東京には9月2日午後から朝鮮人騒ぎが始まり、2日夕方までには東京全市に広まったと言う。同時に横浜から徒歩で東京に向かった憲兵によって、2日午前10時に内務大臣水野錬太郎に届けられたと言う。
d)司法省による流言蜚語の調査について
「現代史資料6巻」掲載の司法省「震災後における刑事事犯及び之に関聯する事項調査書」によれば、立憲労働党総裁山口正憲に関する記述を紹介する。
「立憲労働党総理山口正憲(当時35歳)は9月1日午後4時、横浜市中村町平楽ノ原に於いて開催された避難民大会で、避難民約1万人に対して食糧品掠奪に関する演説を為したる際、鮮人が夜間内地人を襲撃して危害を加えるの説あるを以て互いに警戒せざるべからざる旨の宣伝を為したるより鮮人の不逞行為の声一時に伝わるに至れり、山口に対しては横浜地方裁判所検事局に於いて強盗罪として起訴を為し、目下審理中に属す、審理進むに従ひこの説の真偽或いは判明するに至らむ」とある。
「亀戸事件〜隠された権力犯罪」では、「警察は、山口らの行動を放任していたが、3日以降出動した軍隊が、9月10日夕刻「日鮮人合同の過激派」として山口以下十数人を逮捕した」と言う。山口は、起訴され、懲役2年、執行猶予3年の判決を受けたが、この著書には判決の事実認定と情状事由は記されていない。
6)軍隊・官憲による不逞団体蜂起通達と自警団対策について
a)「朝鮮人蜂起」に関する最初の通達
9月3日午前8時15分、内務省警護局長は、海軍船橋通信所より、以下の内容を各地方長官宛に打電した。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て十分周到なる視察を加へ、鮮人の行動に対して、厳格なる取り調べを加えられたし。」
これが最初の各地地方長官に送られた情報である。当時の地方長官(現在の知事・市長)は内務省よる任命であり、内務省管轄の地方官であり、絶対権限を握られていた。つまり事実上、政府からの命令に他ならない。この通達をうけた地方長官のもとで、自警団による私刑虐殺が横行したと言われる。
この打電とともに、関東戒厳司令長官は、戒厳令の発令をうけて9月3日付け以下の告諭を出した。
「今般勅令第401号戒厳令を以て、本職に関東地方の治安を維持するの件を任せられたり。本職麾下の軍隊及び諸機関は全力を尽くして警備、救護、救恤に従事しつつあるも、此際地方諸団体及び一般人士も亦極力自衛協同の実を発揮して、災害の防止に努められんことを望む。現在の状況に鑑み、特に以下の諸件に注意を要す。
一、不逞団体蜂起の事実を誇大流言し、却て紛乱を増加するの不利を招かざること。帝都の警備は、軍隊及び各自警団により既に安泰に近づきつつあり。
二、糧水欠乏の為、不穏、破廉恥の行動に出て、若しくはその配分等に方り秩序を紊乱する等のことなかるべきこと。
内務省警保局と陸軍戒厳司令部告諭を重ね合わせて読めば、「朝鮮人が不逞の目的を遂行しており、鮮人の行動を厳格に取り調べ」、「地方諸団体と一般人も自衛協同し、不逞団体蜂起を事実として対処すべき」ことであることを示しており、戒厳令は事実上、不逞団体即ち朝鮮人の鎮圧を意図したものであると言える。
b)「朝鮮問題に関する協定」:「鮮人の暴行を事実として宣伝せよ」
9月5日、内務省警務部は、臨時震災救護事務局会議にて以下の協定を行った。
「内務省「朝鮮問題に関する協定[極秘]」から紹介する。
「鮮人問題に関し外部に対する官憲の採るべき態度に付9月5日関係各方面主任者事務局警備部に集合、取敢へず左の打合を為したり。
第一、内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相として宣伝に努め将来之を事実の真相とすること。従て、
イ.一般関係官憲にも事実の真相として此の趣旨を通達し、外部へ対しても此の態度を採らしめ、
ロ.新聞紙等に対して、調査の結果事実の真相として斯の如しと伝ふること。左記朝 鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事例は多少ありたるも、今日は全然危険なし、而して一般鮮人は皆極めて平穏順良なり。朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人も同様の危害を蒙りたるもの多数あり。皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対し故らに大なる迫害を加へたる事実なし。
第二、朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、定に努むること。尚、左記事項に努むること。
イ、風説を徹底的に取調べ、之を事実として出来得る限り肯定することに努むること。
ロ、風説宣伝の根拠を充分に取調ぶること。」
ここでは、朝鮮人による暴行を事実の真相として宣伝し、将来これを真実の真相とするとの立場から、外部及び新聞報道にかくの如しとし、現在は平穏である旨を伝えること、風説をできる限り事実として肯定することを求めたと言える。また、朝鮮人だけでなく日本人も危害を受けたが、朝鮮人故の大きな迫害を加えたことはないとの見解は事実に反すると思われる。
c)自警団による殺戮多発と対処について
9月1日夜以降、朝鮮人の非行及び来襲という情報から、地方政府と警察は各地に自警団を組織し、地元町内の警戒警備を促した。各地町内に結成された自警団は、青年団、消防団、在郷軍人会がその主力の構成員であった。とりわけ在郷軍人会の果たした役割が大きいと思われる。
在郷軍人とは、予備役,後備役,帰休兵,退役軍人で構成され、陸軍であれば、「五芒星」(陸軍の徽章)を付けることが許される戦地戦場から離れて国内で暮らす兵籍を有する将兵である。在郷軍人は、日清戦争、日露戦争、義和団事件(北清事変)、日韓併合後の朝鮮駐箚軍2個師団(その後朝鮮軍)、シベリア出兵など日本の海外出兵にした経験を有するからである。
自警団は、警戒警備に当たり疑わしき者を誰何尋問し、濁音を発音できない語句(「座布団」「15円55銭」「パピプペポ」)で朝鮮人であるかどうかを認定し、徒党を組んで朝鮮人とともに中国人や誤認された日本人を私刑殺戮したと言う。
軍隊と警察の私刑殺戮の放任が一層の殺戮を生み出す要因となったが、臨時震災救護会議事務局は、軌道を逸した私刑暴行殺戮に対して、その取締と規制を実施した。
4日戒厳令発令に伴い設置された臨時震災救護事務局の警備部は以下の方針を決定した。
一、検問所の勤務は、警官のみならず、軍隊も之に協力すること。
二、軍備の配備させられあるを周知せしむる方法を採ること。
三、民衆の凶器携帯を禁止すること、之が為め法律上携帯を禁止しあるものの取締を厳格にし棍棒類も使用方法不当なるものを取締る事、及凶器の押収は自覚を促す方法に依りて行ひ、押収の実施は警察官、軍隊共に之を行うこと。
四、鮮人保護の方法を講ずる事
五、民衆自警団に統制を加ふる事。
翌5日午前10時、打合せ事項の一つに「自警団に対する取締の励行」を掲げ、以下のように指示した。
4、人民自警団に対する取締を励行すること。
イ、自警団は、警察及び軍隊に於いて適当に部署を定め、総て之をその指揮監督の下に確実に掌握すること。
ロ、自警団の行動は、之を自家付近の盗難火災の警防等に限り、通行人の推問、抑止其の他の権力的な行動は一切之を禁止し、勢に乗して徒らに軽挙妄動するが如きは厳に之を禁止すること。
ハ、自警団の武器携帯は之を禁止し、危険無き場所に領置し置くこと。尚漸次棍棒其の他の凶器の携帯を禁止すること。
ニ、自警団を廃止せしむる様に懇諭し、可成急速に之を廃止せしめ便宜町内の火災盗難警護の巡邏を許すに止めること。
この指示を読めば、4日段階の自警団による挙動がどのようなものであったを知ることができる。
d)自警団殺害に関する起訴事件について
官憲は、自警団による私刑と虐殺に対する取締を開始したが、政府発表(11月15日)によれば、関東各県にて起訴された自警団事件に関する概要は以下の通りである。
自警団事件による虐殺事案被告者数は日本人に対する事案では、殺人罪124名、同未遂1名、傷害致死34名、傷害28名の187名、朝鮮人に対する事案では、殺人罪303名、同未遂24名、傷害致死25名、傷害15名の367名、中国人に対する事案では、殺人罪9名、同未遂9名、傷害2名、傷害15名の20名で合計574名である。
このなかには軍人による殺害事案が1件あるが、その大多数は、在郷軍人を含む地元住民(1名の単独犯〜37名に上る共犯)による集団的犯罪による殺人罪として起訴されたものである。
またこの事案の発生日付は、9月2日18件、3日32件、4日35件、5日13件、6日3件、7日1件であった。ピークは9月3日と4日の2日であり、全体の65%を占めた。
また、上記事案で特定され、80%を占めた凶器は以下の通りである。
一位は日本刀・薙刀・短刀・銃剣(41件)、二位は棍棒・杖・木刀・丸太などの木製棒(39件)、三位は鳶口・手斧・鉄管など(25件)、四位は竹槍(18件)、五位は拳銃(10件)であった。
この数字は、全体の虐殺者数に対してあまりに少ない数値であるが、関東大震災における虐殺発生の日時、被疑内容、凶器など全体像を理解する上で参考になるものだと思う。また日本人の虐殺に関する被告者数が187名に上ったことは、虐殺被害者が、朝鮮人や中国人だけでなく、一般の日本人の多数に及んだことを忘れるわけにはいかない。
e)朝鮮人に関する起訴事件について
ここで、政府発表にある朝鮮人の犯罪に関する記録を検証する。朝鮮人虐殺は捏造だとする論者の持ち出す論拠の一つがこの記録だからである。
第三章「鮮人の犯罪」の文章全文を以下に紹介する。
一、今回の変災に際して鮮人にして狂暴の行為を為すものあると喧伝され、就中大火の原因は、鮮人の放火に基づくものにして、予て企図せる不逞計画の一部を此の機会に於いて実現せむとしたるものなりと為す者あり、又その間社会主義者との連絡ありと為す者なきに非ず。依て極力之が捜査を遂げたるも別紙に記す犯行ありたるを認め得るに止まり、一定の計画の下に脈絡ある非行をなしたる事跡を認め難し。但し過激思想をもつ朴烈事・朴準植等十余名が内地人と共に不逞の目的を以て秘密結社を組織せる事実あるを発見したにより之を起訴し尚ほ重大なる犯罪の疑義ありて目下取調中なり、然れども同人等は、震災直後に検束を受けたるをもって震災後に於ける犯罪には直接の関係なきこと明らかなりとす。
二、鮮人の犯罪として明らかなるものは、別表に掲記するが如く、殺人2件、同未遂2件、同予備2件、放火3件、強盗4件、強盗傷人1件、強盗強姦1件、強姦2件、傷害2件、脅迫1件、橋梁破壊1件、公務執行妨害1件、窃盗17件、横領3件、賍物(ぞうぶつ)運搬1件、流言浮説2件、爆発物取締法違反3件、銃剣火薬取締罰則違反1件の多きを算すれども、犯行の当時殺害されたる者あり、逃れて所在不明なる者あり、又は犯人の不明ななるものありて起訴の手続きを為したる者が12名なり。」
別表には42件の事案が記されているが、「犯人氏名不詳」事案が20件「目下調査中及び行方不明逃走中」が10件あり、氏名及び容疑内容の明確な事案は21件である。その20件の罪名は、強盗1件、強盗強姦1件、殺人未遂1件、爆発物取締法違反1件、銃剣火薬取締罰則違反1件、窃盗横領2件、窃盗12件、賍物(ぞうぶつ)運搬1件である。また窃盗12件の内、焼銭を窃盗したとする者が3件である。
政府発表の内容を要約すれば、
ア)朝鮮人による一定の計画のもとに行われた非行はなかったこと。
イ)犯罪はあったが、起訴可能な事案は限られた者であり、軽微犯であること。
ウ)過激思想団体の不逞鮮人は震災直後に拘束起訴したので、震災後の犯罪とは無関係であること。を示すものであった。
更に奇怪なのは、この種の犯罪に関する調査は朝鮮人のみであり、日本人に関する記載はない。日本で近年の地震災害時に発生する留守宅窃盗事件などをみれば明らかなように、当時でも窃盗事件は日本人にもあったはずである。
これは、9月5日の内務省機密事項にある「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、定に努むること」による捜査によるものと思われるが、実際には軽微な窃盗事案しか検挙できなかったことを逆に証明したものと言える。
f)自警団起訴事件への対応について
すでに触れたように日中韓に関わる自警団による殺人罪被告数は、436名に上ったが、これら自警団員の逮捕・起訴に対して、大きな批判が巻き起こった。それは、自警団の組織と地元警護を要請したのは、他ならぬ内務省警保局・警察・行政組織であるにもかかわらず、その結果生まれた私刑と殺戮を何故自警団だけが訴追されなければならないのかという点にあった。
法学博士上杉愼吉「警察官憲の明答を求む」(10月14日国民新聞夕刊)から紹介する(要約)
一、9月2日から3日に渡り朝鮮人来襲、放火、暴動の訛伝謡言が伝播し、人心極度の不安に陥り、関東全体を挙げて動乱の情況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張に依る大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うるべからざる事実である。然るにその後に右は全然事実に非ずして、虚報であったと云ふことは、官憲の極力明言し打ち消して居る所である。然らば警察官憲が無根の流言蜚語を流布し民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたることに対して責任を負わねばなるまい。
二、当時警察官憲は人民に向かい、○○○○(←不逞鮮人)の検挙に積極的に協力すべく自衛自警すべきことを極力勧誘し、武器の携帯を容認したのであった。(中略)それらの自警団其の他の暴行者は素より検挙処罰すべきこと当然だが、さて之に対する官憲の責任は如何。
三、仮に警察官憲は之を誘発教唆したのではないとしてもあれだけの大騒擾大暴動を起こして之を予防も鎮圧もできなかったと云ふ、職務を尽くさざりしの責任はどうする。
四、当時警察官憲は、各種の人民を見界なく検挙して殴打した。遂に之を殺戮し、其の死体は焼き捨てたと云うことは亀戸事件でも見えている。この警察官憲の暴行には軍隊も協同したと云うことであるが、警察官憲は無責任(でよい)というわけには行くまい。
五、憲兵は大杉を殺した事件には、警察官憲の諒解承認又は依頼勧誘があったものと疑われて居る。(中略)之を述べる所以は、これだけの事は明らかにならぬと云うと、数百万市民の胸が治まらぬからである。」
これらに関する政府からの明確な回答はなく、激甚震災という情況のもとで致し方ないという見解を表明したままとなったと云う。
7)まとめ
関東大震災に伴う虐殺事件は、朝鮮人、中国人のみならず、一般の日本人も殺戮されまた社会主義者、労働運動家等に対する捕縛と殺戮が行われたことは、明らかである。
それは、明らかに震災という自然災害とは全く異なる人為事犯であり、尚かつ軍隊及び憲兵隊並びに特高警察と官憲による権力犯罪であった。
冒頭の疑問点を念頭に、検証をまとめてみたい。
a)何故陸軍第1師団騎兵第一旅団は亀戸に向かったのか?
これに関する直接的な記録は発見されてはいない。従って情況的検証として以下の3点を指摘できると考える。
それは、第一師団が天皇と皇居を衛戌する軍隊であり、最初に始動したこと。つまり近衛師団と第一師団の第一義的な責務が国体(天皇親政)護持を脅かす勢力を軍事的に制圧することにあったことに起因する。
第一に、亀戸を中心にした南葛地域は、首都東京にむけた軍事及び生活物資の備蓄拠点であり、銚子方面と東京湾方面からの生活物資とともに紡績、鉄鋼、工業生産などの工場生産物資の生産拠点であったことによる。実際、現在の「錦糸公園」は元陸軍の糧秣廠であり、第一及び近衛師団に供給する軍事物資を保管し、蔵前など米を初めとする生活物資の営業倉庫が多数存在したことなどをみれば、その緊急性は明らかであること。
第二に上記に記したように、南葛及び東葛は、江戸時代から続く江戸と東京の首都機能を支える工業地帯であり、朝鮮人や中国人労働者が勤務し、生活していた。同時にここは、虐げられた労働者達による労働運動の拠点となり、労使紛争に介入する官憲との闘争が絶えることがなく、そのなかで最も先鋭的な労働者運動が展開されていたこと。
第三に1919年3・1朝鮮独立運動など国体を揺るがす運動への危機感から、大震災前年の1922年5月国体の変革をめざす社会主義運動を弾圧し(第一次共産党事件)、政府は「過激社会運動取締法」とともに「労働組合法」「小作争議調停法」の制定を意図し、先鋭的な労働者運動への弾圧を狙っていたことにある。亀戸事件は、この象徴である。
b)「流言蜚語」はいつどこから発生したか?
朝鮮人の仕業として内務省と官憲が立証しようとした「放火」「強盗強姦」や「鮮人来襲」による暴動などは政府自身によって否定されたが、流言蜚語に関する記述で実名としてあげられているのは、9月1日夕刻右翼の「立憲労働党総裁山口正憲」による横浜税関倉庫襲撃である。赤旗と赤ハジマキによる襲撃とその後朝鮮人の仕業との転化によって、朝鮮人による来襲と主義者(赤旗)の結託による暴動と来襲が流言蜚語の発生源となった可能性が極めて高いと思われる。
ここから大きな騒擾と私刑殺戮・虐殺として発展した基本的問題は何か?が問われなければならない。
第一に全国への「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。」との発信となり、現地警察の要請による自警団が組織され、無法状態のなか、朝鮮人、中国人が狙われ、日本人も誤認されて、私刑殺戮の対象となったこと。
第二に朝鮮人と主義者による暴動という予断は「流言蜚語」ではなく、内務省・戒厳司令部・憲兵隊・警視庁特高係(後の特高)・警察が捏造したシナリオであり、それは明確に社会活動家と労働活動家の拘束・捕縛・殺害を目的とし、明確な確信犯つまり国家犯罪を犯したこと。
第三に政府及び官憲は、朝鮮人の来襲を鵜呑みにして流言蜚語を各地にまき散らして、結果として無辜の市民を虐殺し、その後一切の戒厳令発令と軍隊・及び官憲の責任を負うことなく、その事件の究明の道を絶ち、それを特赦して釈放することで自ら権力犯罪を放免したことである。
c)自警団による私刑殺戮黙認と裁判の実態について
自警団による私刑殺戮は9月2日から始まり、3日4日をピークに進んだものと推察される。
天皇主権説を主張し、天皇機関説論者と激しい論争をした憲法学者上杉愼吉さえ指摘したように、私刑殺戮に至る要因の一つは明らかに国家権力側にあった。9月5日になってから漸く、自ら引き起こした騒擾騒乱への対処を始め、「自警団を廃止せしむる様に懇諭する」という方法で自警団の解散を促すという柔軟な姿勢に終始した。その間における虐殺規模が如何に拡大したかは想像に難くない。
10月14日の映画上映会にて、船橋の朝鮮人貰い受け事件に関する裁判は、市内の料亭で行われ、検察官から自白すれば、軽い刑になると云われ、1人殺害で懲役2年執行猶予3年、2人殺害で懲役3年、執行猶予4年という基準で判決したという証言を聞きた。自警団はすでに触れたように、3年後には釈放されたという。
関東大震災と日中韓に関わる虐殺事件は、あと6年後の2023年に100年を迎えようとする今日でさえ、戒厳令下に一体、何が起こり、どのような惨劇が繰り広げられたのかの一端さえ闇のなかにある。
今日、憲法改正論議のなかで、「非常事態法の制定」が遡上に上っているが、日本の大正時代の非常事態法(戒厳令)下において一体なにが起こったのかを改めて知り、私たち自身が、虐殺を捏造と語る論者の跳梁跋扈を決して許さない認識を持つことが不可欠と言える。(完)
写真は「現代史資料6巻〜関東大震災と朝鮮人」より転写。
by inmylife-after60
| 2017-11-17 19:42
| 歴史認識・歴史学習
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