2018年 08月 11日
北京・済南・曲阜・青島・煙台・蓬莱・威海旅行記 |
5時25分、自宅発。葛西駅から成田行きリムジンに乗る。成田に定刻7時到着。アシアナ航空でパスポート自動チェックイン。バゲージの受託手続きで長い行列、30分程で終了。アシアナ便は定刻9時少しに出発。仁川に定刻11時過ぎに到着。15分前後でトランスファーを通過。3時間ほど空港内で待機。昼食をしなければと思い、案内に聞くとウオン以外は使えないという。仕方なく、帰りの分を含めて3000円を28290ウオンに両替した。缶ビールが5500ウオン(日本円580円)、面類が8000ウオン(日本円850円)だった。
仁川は30分遅れで出発、到着は10分遅れだった。30年ぶりの北京。1987年にはこの空港はなく、現在国内線のハブ空港になっている。入管に行こうとしたら、安全対策として指紋認証を求められた。20台ほど並んだ自動認証機で、パスポートをスキャンし、両手指紋を登録する。登録済証をもっていないと入管できないことが徹底されていた。
入管を済ませて、外にでると自動的にプラットフォームにでた。もう地下鉄に乗れるのかと思ったが、そうでなく、入管とバゲージターンテーブルと関税処理を繋ぐシャトルトレインのようだった。5分程でT3-C駅に到着。交通カードを150元で購入(デポジット20元、チャージ130元)。17:20、航空線で北京の中心部を走る環状線(2号線)に接続する東直門駅に30分程で着く。2号線に乗換え、朝陽門駅で6号線に乗換、ホテルのある南锣鼓巷駅に着く。
第2日(7月24日:火)
夜半からの雨が上がらず、午前中は雨のなかの行動となった。今日は、支付宝を利用するために、銀行口座への振り込みをしなければならない。昼食時迄に入れておきたいと想い、近場の博物館として、紫檀博物館と軍事博物館をいくことにした。
前者は中国語のラジオテキストに紹介されていた民間博物館であり、紫檀を使い、朝廷の調度品、家具、装飾品なの実物だけでなく、天壇や城壁などを10:1縮尺で再現し、また各種建造物を5:1縮尺で再現している。
後者は、日本軍の兵器が多数陳列されているとのことで、参観した。記念館は、1階がロケット、飛行機、水雷艇などであり、地下に高射砲、戦車などが陳列されている。旧日本軍兵器は、飛行機は1機だけであったが、地下には速射砲、カノン砲、装甲車、戦車などが展示されていた。また地下に最近進水した50:1縮尺の空母「遼寧」が展示されていた。
その後一旦ホテルに戻り、宗慶齢旧居を参観し、バスで恭王府に向かったが、方向を間違え、乗り換えようとしたが、該当番線のバス停が見当たらず、丁度居合わせた三輪タクシーに地名を見せて、わかるかと聞くとわかるというので幾らかと聞くと30元だと言う。高いなと思いながら、乗り込んだ。するとすこし走ってから「遠い」「遠い」と呟くと、「50元」だという。それはないと思い、最初貴方に場所を確認して30元と言ったはずと抗議したが、ダメだった。丁度その時、30元がなく、100元札を出すと50元しか戻らなかった。50元というのは極めて法外な価格である。タクシーで行っても、10元も掛からない距離である。観光二輪タクシーは乗らないことにする。
7時頃にホテルに戻り、バスで王府井に行く。王府井歩行街北側から入る。そこは小吃街であり、観光客が屋台で買って食べ歩く500メール位の通りであった。サソリや昆虫を串刺しで売る店が何軒かあった。
全聚徳の看板が目立った。全聚徳で作った烤鸭を商品として販売する店が並んでいた。お土産品としての利用を狙ったものだと思う。全聚徳本店は10建てほどの黒塗りの大きなビルになっていた。10時過ぎにホテルに帰る。
第3日(7月25日:水)
ホテルを7時半に出発、北京西駅8時過ぎに到着。蘆構橋行きの路線バスはフロントで案内された339路でなく、309路だった。約30分で到着した。1元だった。記念館は9時開館なので、まず蘆構橋(260m)を往復、欄干を飾る虎の彫刻を堪能する。皆異なる風貌と様態を持ち、飽きない。
9時30分記念館入館。ここは、最初に北京にきた1987年2月に一度来たことがあるが、そこに城壁(宛平城)のなかにあったという記憶がない。場所が変更させて新しい記念館として新築されたものと思われる。
2時間ほど見学した。各地に抗日戦争記念館があるが、やはりこの記念館が最も総合的であると感じた。展示は、日本の台湾出兵から説き起こされ、蘆構橋事変を境にした抗日運動と闘争が描かれる。最後の展示は、台湾同胞抗日史実展であった。台湾を意識した展示だと思った。
蘆構橋から、2時過に北京西駅に戻り、パスターミナル前の食堂街で食事。魯迅旧居博物館に向かう。ここは最近建てられた記念館であり、展示はあまり充実したものではなく、やはり紹興市にある魯迅旧居、上海にある魯迅博物館と旧居と比べると貧弱であった。
ホテルに戻り預けたバゲージを受取り、济南行きの高鉄に乗るため、北京南駅に向かう。4時過ぎに到着。高鉄のチケット(8月2日烟台-威海と8月3日威海-济南の2枚)は、日本出発までに発券メールが届かず、現地手配をしなければならない。そこで現金払いで新規予約を掛けることにした。するとパスポートで座席予約が登録されているらしく、支払いの発生がなく実券が発券された。後で済南に到着後、ホテルで確認したところ、8月3日の威海-济南は、発券されたとのメールがあったが、8月2日の烟台-威海はまだ発券通知がないことがわかった。なぜ実券発券が出来たのかがよくわからない。結果オーライだが、何故そのようなことが起こったかを日本に戻ってから調べることにした。
済南西駅には定刻3分遅れで午後7時40分に到着。高鉄で北京に3日ほどの旅行を終えて済南に戻る17歳と小学生の女児をもつご夫妻と相席となり、いろいろな話をした。私の語彙が不足して聞き取れないことがありながらも、日本の経済、賃金、観光地などが話題となった。同じ山東省で青島には地下鉄があるのに、済南には何故ないのか?と聞いたら、済南は地下水が豊富で泉が多く、地下の採掘に技術的な問題が多かったと言う。あと2年すれば、開通すると言われた。別れ際に済南西駅から済南駅への移動方法を聞いたが、直通のバスはないと言われた。やはりタクシーしかないことがわかった。済南西駅の地下のタクシーターミナルから済南駅に向かう。30分で着く。歩いて10分位でホテルに着く。ホテルに戻り、近くの商店街に向かい、食堂で遅い夕食をとる。11時就寝。
第4日(7月26日:木)
7時起床。今日は孔子の生誕地で世界遺産の「孔子廟」のある曲阜を日帰りする。済南駅発9時、曲阜東駅発6時半の高鉄で行く。済南の駅に構内に入ろうしたら、殆どの入り口が自動安全検査機に変わっていた。自動化が一気にすすんでいることにショックを受けた。身分証明書を持たない一般外国人は一番の隅に設置されている軍人を含む特別対応窓口になっていた。
曲阜東駅からK01路でいく。約30分で孔子廟南門に着く。そこからチケット売り場にいく。さすがに人気の観光地であり、沢山の観光客が並ぶ。孔子廟(孔子を祀る廟)と孔子府(儒教学習研鑽府)と孔子林(孔子と後継者の墓)の3つを参観するチケットを頼んだら、60歳以上は買う必要はないと言われた。中国の場合、仏教や道教施設には殆ど無料チケットがなく、あっても半額であることから、全く期待していなかったが、通常140元が「免費」となった。嬉しい想定外である。11時に入門し、孔子府も廻り、昼食を済ませて、2時30分頃孔子林に向かう。ここから40分程歩いて孔子林につく。そこから更に20分位歩いて漸く孔子の墓の前に辿り着いた。孔子府から約1時間を要した。
さすがに帰りは、三輪タクシーの誘惑に負けてしまい、乗車することにした。今度はぼられることはなく10元で済んだ。やれやれである。ホテルに7時半帰る。
第5日(7月27日:金)
7時半ホテル出発。今日は山東博物館と千成山、済南事件(1928年5月3日(中国名:五三惨案事件:蒋介石の北伐を阻止するために北京と青島から派遣された日本軍と国民党軍との衝突事件、国民党軍撤退後民間人を虐殺)記念碑と済南人の憩いの場である趵突泉を見学にいく。
済南駅からBRT(地下鉄のない都市でよくある専用優先レーンを走る快速バス。しかしここは紹興市のような特別のフラットホームも優先レーンもなかった)でいく。山東省博物館前に9時着。
10時50分に博物館から千成山にいく。ここは、仏像が多数鎮座する自然公園になっている。名古屋の資産家から寄贈させた黄金色の巨大な大仏が鎮座していた。
そこからK51路で五三惨案記念碑に向かう。この記念碑は趵突泉のある通り沿いにあった。五三惨案記念碑
瀋陽にある柳条湖事件満州事変(中国名:9.18事変)記念館と同様の「日めくり型」の記念碑であった。昼食後に趵突泉にいく。趵突泉の一番奥から帰ろうとしたら、大きな梵鐘碑を発見し、何だろうと思い、近づくと左側に2階建ての建物があった。そこには済南惨案記念堂とあった。この記念堂は済南事件に関する史料館であった。これは日本では紹介されていない施設である。
4時少し前に見学を終えて、大明湖へ。対岸までいく遊覧船(25元)にのり、そこで見つけた蓮を下船した後に写真に収めて、夕食は日本食が食べたいと思い、近くの日本食の店を高徳地図(全国ベースの交通ナビゲーションソフト)で探し、地元では有名な歩行街である芙蓉街にある「烏単亭」という居酒屋に向かう。大明湖から20分程、居酒屋は芙蓉街の関羽廟の傍にあった。そこに店主の中国人が女性を連れてやってきた。日本語を話すオーナーであり、5年程大分大学に留学したという。現在大学院生でありながら、今年3月に居酒屋を開業したという。納豆を頼んだが、練り辛子がなく、仕方なくわさびで食べることになった。10時過ぎにホテル帰着。
第6日(7月28日:土)
9時ホテル発。高鉄で済南駅から青島駅に向かう。12時半青島駅着。地下鉄駅構内で自動販売機で交通カード(50元:琴岛卡=保証金30元、乗車料金20元)を購入。地上にでると直ぐ前が海岸線であり、海水浴場となっており、左側奥に青島のシンボルでもある桟橋が見えた。重慶麺の食堂に入り、青島ビールと米线缅を注文し、ビールを飲んでいたら、窓際の席でピッチャーを囲んでビールを飲む家族連れを発見。早速女将さんにたずねたら、生ビールで1杯(扎)38元(700円弱1.5リットル)だと言う。中国ではじめて生ビールが飲めそうだとおもった。市内バス26路でホテルのある浮山所駅にいき、そこから15分程歩いて15時半ホテル到着。身支度後、青島のもう一つのシンボルと言われる「5月の風」(鉄制の塔のような彫像)のある五四広場に向かう。青島は現在2本の地下鉄が運行しており、ここ五四広場駅が乗換駅となっていた。ここから対岸にある2008年北京オリンピックボート会場まで一時間ほど掛けて往復した。
一旦ホテル近く迄戻り、夕食のあとに青島の最大の繁華街「台東」自由歩行街にいくつもりであった。食事を済ませて、台東に向かう浮山所バス停で後から肩を叩かれた。一体誰だろうと振り返るとあの食堂の店内外を徘徊していた老人だった。何かと言うと、「金を払ったか」と聞く。当然払ったよと言って自分の携帯電話の「支付宝」(「微博」と並ぶアリババの開発した決裁システム)を見せて、何故こんなことをするのかと詰問して、店主に報告すべく、同伴させたが、店の近くにくると腕を振り払って逃げてしまった。店主に仔細を報告すると「支払いはすべて決済されている。問題はない。」とのことだった。この店とあの老人がどのような関係なのかはわからなかった。店を後にして台東に向かう市バスは非常に込んでいた。バスに揺られながら、何か後味の悪い気持ちを払拭できなかった。
台東は、北京の王府井のように、小吃街と屋台街が一体となった通り(威海路)と大通り広場で構成され、土曜日とあって、歩くのがままならない程であった。9時半過ぎの帰りバスも満員で、乗り切れない状態であった。なにしろ凄まじい光景であった。10時半過ぎにホテル着。ホテルに着くや否や、あの食堂のことを忘れることができず、翌日店に持っていこうと思い、二度とこのようなことが起きないように対処すべきというメモを書いた。
致 湖南人相菜馆 老板
昨天那个老人做的事是也许出于善意招来了。但是难免菜馆的责任。如果猜客人不付费走,他应该先在前台确认客人是否付费,就他具体实行了。他的行动招来了客人的不快。为了防止复发菜馆应该采取什么对策。我祝您的工作一切顺利。
从日本东京来的旅游者2018年7月29日 写下。
第7日(7月29日:日)
6時半起床、ホテルの前にある食堂で朝食。ここの「豆腐脳」は5元だが、とても辛みが効いて美味しかった。毎日ここで朝食をとることにした。ホテル8時出発。昨日書いたメモを件の食堂に持っていくが、朝食の提供はないらしく、閉まっていた。仕方なく、ドアの床に差し込んでおくことにした。
9時15分青島ビール博物館に着く。ここも60歳以上は免費だった。この博物館は、生産プロセスの見学と試飲、各種展示コーナー及び食堂で構成されていた。1903年ドイツ人が創業し1916年から45年まで日本(大日本麦酒)が経営、49年以降国営となる。一般の市販ビールは発酵に不可欠なイースト菌が濾過され、透明になるが、この参観コースで最初に提供される試飲用ビールは「無濾過」ビールであった。すこし赤みがかった濁ったビールをはじめて飲んだが、絶品の味だった。見学終了後にも試飲ビールがあるが、これは通常市販の透明ビールであった。これもうまいが、無濾過ビールを先に飲んだ者になにか物足りない味であった。
その後、ガイドブックに元青島神社の石段が残されていると書かれてあったので、歩いてみたが、一時間ほど徘徊して、所在地の青島児童公園を見つけることはできたが、入園する入り口がわからず、断念した。その後元の博物館前の通りに戻り、青島生ビールを飲みながら昼食をとった。ここも38元であった。翌日も近くの海鮮料理店でも頼んだが、これも38元であった。すべて同じサイズの同じ価格、つまり青島市内はすべて38元のようだ。
ここからドイツ総督府旧跡博物館を経て、康有為故居をたずねる予定だったが、タクシーは空車にも関わらず一切止まらず、バスを乗り継いだが、付近に着いてはいるが、其の場所には行けず、付近を通る年配の住民に聞いたら、そばにいくから一緒に行こうと連れてってくれた。見学後青島市内を一望できる小魚山公園を見つけて立ち寄った。そのあと39年製造のソ連製駆逐艦3隻と原潜開発用の潜水艦を観覧できる海軍博物館に行った。
青島は、幹線道路は6〜8車線で広いが、海岸から小高い丘を開発した街であり、迂回や蛇行と勾配のある細い道が多い。高徳地図のデータベースが不完全であり、近くに行けば行くほど、特定できない状態となった。青島はそれだけ入り組んだ道路であるということがわかった。
7時半にホテル帰着。ホテルの前の「海鮮大排挡」というネオンサインのある海鮮店で夕食。ここも青島ビールの38元のピッチャーを堪能した。
第8日(7月30日:月)
7時起床。今日は崂山にいく。崂山は市内東40キロにある明代から最盛期を迎えた道教の聖地である。崂山は幾つかの遊覧区に分かれており、今回は、標準観光コースである「太清遊覧区」に行った。この崂山遊覧区は、市内から行く場合、市内バスで大河原遊客服務センターまで行き、そこから遊覧区内をピストンするシャトルバスに利用し、各遊覧区にいくという仕組みらしい。市内からの104路バスは、自動改札機はなく、女性の車掌さんに行き先を言って利用するタイプのバスであった。1時間ちょっとで大河原センターにつく。ここでチケットを購入したが、やはり60歳以上は40元であり、各遊覧区間の移動交通費用は各自負担になっていた。ここからシャトルバスにのり、20分位で「太清遊覧区」に着く。
10時過ぎに太清宮に入り、老子像の巨像を仰ぎ見て11時過ぎに下山し、明霞洞に向かうケーブルカー駅前で営業する露店の前で女将に呼び止められた。日本からきたというと歓迎してくれて、椅子を持ってきて座って休めと言ってくれた。烏賊げそ焼きをつまみにビールを飲んた。するとケーブルカーのチケットがあると言うので、買った。80元という。買ってチケット売り場で、案内を見たら、60歳以上は免費と書いてあったので、引き返して返品をお願いした。しかし実際の窓口でパスポートを見せて買おうとしたところ、外国人は適用外と言われたので、もう一度露店に戻り、購入して、ケーブルカーに並んだ。
このケーブルカーは「雷峰太索」と書かれてあり、ボランティア志願者の協力により建設されたことが記されていた。ケーブルカーは35分ほど待って乗車して10分程で着いた。明霞洞まで30分程きつい登りを歩き、到着したが、大した洞窟ではなく、直ぐ下山、途中の山小屋風の食堂で食事して、ケーブルカーに再び並び15時過ぎに露店の店に戻った。そこで露店でお世話になり、シャトルバスに乗り16時半に大河原センターに戻り、16時45分発の市内バスで浮山所に18時少し前に着く。一旦ホテルに戻り、バスで青島第一海水浴場にいく。まだ明るく海岸では泳ぐ観光客で賑わっていた。レンタルロッカーは1日30元(保証金10元)という案内があった。海水はあまり綺麗でなかった。ホテル前の海鮮店で夕食後、ホテルに帰る。
第9日(7月31日:火)
7時半ホテル発。今日は青島から煙台への移動日。午前中八大関景区にある「花石楼」にいく。その前に孫文が日本に送った蓮の返礼として青島に送られた蓮池があるという中山公園に立ち寄った。蓮を撮影し、八大関景区に向かう。
花石楼には、蒋介石に由来する戦後の国共内戦以降の経緯について大枠以下のような解説がされていた。
「45年9月日本軍が無条件降伏すると、国民党軍は共産党支配地を攻撃し、国共合作は崩壊した。46年7月から国共内戦が本格化し、人民解放軍は48年に東北を奪回し、49年に北平(現北京)に入城、4月南京を占領する。蒋介石は、政権を広州に移すが、自身は、米軍基地のある青島に逃走した。蒋介石は、米軍の青島駐留を望み、秘密協定を結び、一時20万人を駐留させた。5月人民解放軍は、青島攻略を宣言し、6月2日米軍は撤収した。」
米政府は、「沖縄の長期保有の方針」を意図したと言われており、もし青島に米軍駐留が継続していれば、沖縄に極東最大の米軍基地の建設はなかったもしれない。その意味で、青島は、戦後の極東アジアの軍事的政治的関係において極めて重要な位置にあったと言える。
その後蝶蝶楼を見学した後にホテルに預けたバゲージを回収し青島北駅に向かう。13時50分発、15時30分煙台到着。16時過ぎにホテルに到着。ホテルで身支度した後に、煙台山公園に向かった。17時25分過ぎに公園内に入ろうとしたら、守衛から今日はもう入園できないという。まだ17時30分前なのに何故入れないのかと言ったが、ダメだという。そうするとご婦人が近寄ってきて、守衛に「外国人が折角来たのだから、入れてやってください」と言ってくれ、ようやく入園することができた。もしこのご婦人の言葉がなかったら、煙台の施設は全く見学することができなかった。ここの灯台から、煙台を一望するビデオを撮影することができた。その後、第一海水浴場にいく。ここの海岸は遠浅だが、岩が多く、海水は青島より濁っていた。7時半ホテル帰着。ホテル前の海鮮店で夕食後、10時就寝。
第10日(8月1日:水)
今日は仙人伝説で有名な蓬莱に長距離バスの日帰り旅行でいく。煙台汽車総駅でチケット(27元)を買い、7時54分発に乗る。9時30分終点の東駅で下車。9路に乗り換えて、蓬莱閣景区にいく。ここは割引がなく一律70元であった。ここは仙人伝説を壁画に描いた蓬莱閣と田横山、備倭都司府、登州博物館、蓬莱古船博物館などがあり、蓬莱閣チケットですべてを参観することができ、域内には昼食とお土産を提供する大きなフードコートをもち、ほぼ一日ここで過ごすことができた。
備倭都司府は、明代に頻発した倭寇から登州を守るために2000キロにわたる高い城壁をもち、高台に灯台をもつ軍港の司令部にあたる遺跡である。倭寇の襲来の経緯と歴史とともに和船や武器などが陳列されている。
登州博物館は、蓬莱を拠点とする登州に関する博物館だが、蓬莱は日本の遣隋使と遣唐使の受入港としての歴史をもち、ここから西安や洛陽に向かったと言う。蓬莱古船博物館は近年の発掘研究成果に基づいた船に関する博物館であり、近郊で発見された古船の実物が展示解説されていた。
蓬莱は、仙人伝説だけでなく、遣唐使や倭寇との関係を含めてとても重要な日本との深い関係をもつ都市であったことを実感することができた。
3時半に蓬莱閣をあとにし3時50分に東駅に着く。出発寸前の煙台行くバスに乗車できた。煙台に5時15分に到着。6時にホテル着。ホテル前の食堂で夕食、10過ぎに就寝。
第11日(8月2日:木)
今日は煙台から威海への移動日。今回煙台駅発の高鉄を予約することができず、煙台南駅8時30分発の列車となった。ホテルを6時半にチェックアウトし、付近のバス亭「華僑新村」駅から煙台南駅に向かう。45分程掛かった。定刻時に8時57分威海駅に到着。駅から少し離れたバスターミナルから威海の最大の観光地劉公島に向かう。乗車したバスで隣に座っていた子供がスマフォで私のもつ高徳地図とは違うソフトで盛んに検索していたので、そのソフトは何かと聞くと「车来了」と言う。全国版であり、必要に応じてその都市データをダウンロードして使うらしい。小学3年生だという彼に同級生もスマフォをもっているのかと尋ねるとそうだという。学校には持っていけないが、家や外出の時に使うと言う。ホテルは市街地から少し離れたリゾートタイプのため、ホテルにいかずに直接劉公島付近のバス亭で降りて20分程歩いて、劉公島行の定期船乗り場に10時過ぎに着く。1階売店にバゲージを預け(20元)、チケット売り場に向かう。劉公島観光は、渡航船と訪問先選択で6種類のチケットを販売している。一番最低の往復船票と景点門票のセット138元を頼んだら、60歳以上は31元であると言われた。31元は乗船券だけの負担であると思った。30分程待って200人乗りフェリーに乗り20分程で劉公島に着く。11時20分に下船。ここには幾つかの施設があるが、甲午戦争記念館陳列館、甲午戦争博物院、歴史選択展館の3つを見学した。
甲午戦争記念館陳列館は、日清戦争に関する中国最大の記念館であり、威海側に面した海岸線に建てられており、康有為らの戊戌の変法以降の清朝改革、洋務運動を経て、北洋艦隊の創設、日清戦争の平壌開戦、黄海海戦、旅順口戦役、金州における親子10人の日本軍強姦を恐れた投身自殺秘話、旅順占領後の2万人虐殺(旅順にこの事件の記念館がある。魯迅はこの時の虐殺事件のスライドで虐殺を傍観する中国人の姿をみて、医者から文学者の道を歩んだと言われている)、山東半島戦役における威海衛・煙台戦役、劉公島戦役など陸戦、馬関下関春帆楼会談(これは当時の春帆楼の和室の間を再現)に至る日清戦争の全容が展示されている。
最後に「七子之歌・威海衛」は海防のために死を覚悟して出兵する兵士が母に捧げるものであり、威海の精神を受け継ぐ意味をもつと思われる。日本ではあまり知られていない黄海海戦以後の中国各地での陸戦における虐殺破壊強姦の実態がよく残されていた。
その後、誕生から消滅までの北洋艦隊の司令部と日清戦争に出撃した艦船の遺品などを展示した記念館、共産党史を学ぶことができる歴史選択展館を参観した。
党史はアヘン戦争以降の列強による中国簒奪、大平天国の改革運動、洋務運動、義和団運動、辛亥革命、北洋軍閥の跋扈を経て創立された中国共産党がその後どのような路線選択を経て、中華人民共和国を建国したのかが描かれていた。最後に習主席の言葉と1/50縮尺の空母遼寧と宇宙開発にむけた未来への挑戦に関する展示で結ばれていた。
展示パネルがとても解像度がよく鮮明な写真によって作られていた。そのなかで印象に残ったのは、第二次上海事件以降日本軍の空爆により上海南駅で廃墟のかなで辛うじて命をとりとめた幼児の泣き叫ぶ姿であり、ピューリッツア賞がその頃にあったら、受賞に輝くかも知れない戦争の真実を語りかけるショットだと思った。(冒頭の写真)
3時半過ぎにフェリーで出航し、15分程で威海に戻る。市内バスルに向かう。5時過ぎにホテル着。市内に出て夕食を取り、ホテルに戻る。9時過ぎに就寝。
第12日(8月3日:金)
7時起床。ホテルで朝食後ホテルにバゲージを預けて、8時に市内の環翠楼に向かう。市内で一番高い威海のシンボルらしい。猛暑の中、264段の階段を上り、楼閣入り口に到着したが、チケットが必要という。やむなく再び30段近くに下がった処にあるというチケット売り場でチケットを買おうとすると60歳以上は免費であるという。チケットを受取りまた30段程登り、8時40分にやっと楼閣に入場できた。しかし楼閣のなかにはまったくこの楼閣に関する資料もなく、地元の絵や彫像等が陳列されているだけであった。メリットは、最上の展望階から威海を一望できる点である。
すぐに下山して、9時40分に近くの中国銀行にいく。しかし、両替は直ぐにできない、1時間半後にきてくれと言われた。他に行きたい処もないので、海水浴場を探すと、バスで30分くらいのところに威海国際海水浴場があるのを見つけて、行ってみた。
ここは、これまで行った青島、煙台に比べて格段に海水が綺麗な海岸であることがわかった。海岸に出店している露店で荷物の保管と着替えで20元という。早速着替えて入水した。遠浅でなく10メートルも行くと背が立たない。しばらく泳いで露店で着替えたあと、露店でバイトする青年と話す機会があった。どこで中国語を覚えたのかと聞かれた。日本から来たというと目を輝かせて、日本で働いたら1ヶ月どの位の収入になるかと聞かれた。この売店で働いても1ヶ月で3000元(5万4千円位)だという。日本ではあれば、コンビニであれば、1日5時間位で10万円位になるかもしれないと言うと、日本に行きたいと言うので、日本語を勉強して日本に来たらいいと話した。
12時過ぎにバスで中国銀行環翠支店にいき、支付宝用に1万円分の人民元(593.8元)を両替した。レートは1元=16.84円。ここの職員から中国の銀行は土曜日が閉店休業で日曜日は開店するという。済南か北京で華夏銀行口座に入金する。
1時半過ぎに銀行を出て、ホテルに向かい、バゲージを回収して、12時過ぎにホテルから威海駅行きバス亭「黄泥構」駅でバスが来るのを待った。駅までいくには、環翠楼のある「威高広場」に乗り換えなければならない。15分過ぎてもバスがこないので、2時22分頃タクシーに乗り、乗換駅までいき、そこから威海駅にいくことにした。運転手にバゲージをトランクにしまうように言われて、収納後出発すると、もう一人別の客を乗車させたので、了解の上、時間がないので自分の行き先を優先してほしいと告げた。行き先はほぼ同じだったので、問題はなかったが、タクシーを降りて料金精算して次のバス亭の場所が気になり、すっかりトランクにバゲージを忘れてしまったことに10秒くらい経ってから気づき、振り返って探したが、後の祭りであった。
領収書もなく、ナンバープレートも、会社名の記憶もない。運転手の横顔しか記憶にない。もしかしてトランクにあるバゲージに気がついて、降ろした「威高広場」に戻ってくるかも知れないという淡い期待から15分位その周辺に止まるタクシーの運転手の顔を確かめたが、確認できなかった。仕方なく、すぐ傍にあった「威高広場」臨時交番にいき、「タクシートランクにバゲージを忘れてしまった。どうしたらよいか」と尋ねると、「城里派出所」に行けという。「派出所」とはいえ、日本でいえば、警察署に近い大きな建物であり、そこには交通警官が5名ほど集まった詰め所みたいな処に案内された。そこに20台ほどのデスクトップ型のパソコンが配置させて、各パソコンから指定された時間と場所の監視カメラの過去画像を閲覧できるようになっていた。携帯にある乗車駅と降車駅を見ながら、大体の時間を特定して、乗車時間は2時22分、下車時間を2時29分として、その前後から、監視カメラの映像を30分程見てタクシーの特定を行ったが、覚しきタクシーは特定できたが、ナンバープレートを特定できなかった。
そこで「西門運輸管理事務所」に行けと言われた。タクシーで向かう。この事務所も大きな建物の1階にあり、カウンター越しに10名くらいのボックスがあり、そこで担当者が主に電話連絡をしていた。またここは市内のタクシーに関する運行管理をしているところらしく、警察と同じように時刻と場所を告げた。15分位待機していると、車番と会社の連絡先がわかったので、携帯番号を教えろという。私宛に連絡があるらしい。10分位まっていると電話がなり、電話に出たが、早口でよくわからないので、係の人に出てもらった。ここにバゲージを持ってきてもらうようにするが、費用を支払えという。了解して持参頂くようお願いした。
すでに高鉄の出発時刻は過ぎていたが、最終の済南行きの高鉄5時40分には間に合うかも知れないとおもったが、バゲージを積んだタクシーは、ようやく5時少し前に到着した。しかし運転手は違う方だった。お礼を言って、威海駅まで行ってほしいとお願いした。駅に到着したのは、7時15分を過ぎていた。高鉄売り場はとても混んでいて、5時25分まで買わないと普通列車しかなく、済南には今日中には着かない。やはり5分遅れで高鉄は買うことができず、一番早い列車である大明湖行き8時46分発、済南には翌日5時42分着の K412 に変更して発券をお願いした。
この代金は81元だったが、追加の料金は請求されなかった。中国の列車の清算システムはよくわからないが、原券が178元位だったが、退票には「82.5元」と記入されていた。切符の変更手数料は一律5元なので、推測では、原券から新券を差し引き、変更手数料を追加したものがキャンセル料という計算かもしれないと思った。列車の変更後、直ぐに済南のホテルに電話し、最終の高鉄に乗り遅れて、到着は明日6時になる、必ず行くので部屋を確保しておいてほしいとお願いした。
10秒間の気の緩みが招いた重大トラブルは漸く終結した。なにはさておき、パソコンを詰めたバゲージが再び戻ってきたことに感謝しなければならない。そして、トランクへのバゲージ収納は、降車時の回収に手元に現物がないだけに忘れるリスクが非常に高いことを痛感した。一方で今回タクシーに忘れ物をしたときの対処を体験することができたことは不幸中の幸いとしなければならない。
K412 は定刻に大明湖に着き、バスでホテル近くのバス亭に7時少し前に着いた。フロントで退室は12時迄と言われた。済南西駅から北京行きは13時11分なので、丁度良い時刻と納得した。
第13日(8月4日:土)
午前11時起床。タクシーで済南西駅に向かう。今度は財布を入れた貴重品バックを含めてトランクに入れることにした。そうすれば、代金の支払いのために、トランクを開けなければならない。絶対に忘れることはない。中国のタクシーは相乗りが前提なので、大きなバゲージはトランクに入れるように言われるので、手元に置けない雰囲気がある。日本ではバゲージを積み混んで乗車することは可能だが、中国で試したことがないが、嫌がられるだろうと思う。その割にはトランクの置き忘れを注意する気配もない。どこでもそうだが、自己管理しかない世界なので、失敗は致命的な事態になることを肝に銘じた。
北京南駅には定刻より30分早く着いた。ホテルに一番近い華夏銀行で400元を入金。次回訪中時に使うためである。
中国ではICT化が急速に進んでいる。バスも現金以外に交通カードだけでなく、支付宝や微博による決済ができるようになっていた。また露店の店も支付宝で決済ができるところが増えつつある。但し充電がなくなると利用できないこと、またその店が決済可能かを事前に確認しておかないと現金が不足した場合恥をかくことなどを注意しなければならない。
ホテルに入り、身支度して、午後4時過ぎに天安門広場にいく。天安門の天安门前の「华表」を見に行くためである。「华表」の由来が説明され、最初は意見箱として設置され、その後標識として使われ、装飾化し、現在の望天犼になったとある。
またこの「华表」の意味は、一方の「华表」は「望君出」であり、君主は外にでるべきとして、民意を掴めと諭し、一方の「华表」は「望君归」であり、君主は内に帰るべきとして、宮中を収めることを諭すものと記されている。
华表最初都是木制的,从东汉开始改用石质,也正是在这个时候开始,华表失去了最初作为“意见箱”的作用。同时,华表也不再设置于全国的各个重要路口,而是成为帝王宫殿、陵墓的专属,演变为一种起到警示作用的装饰品。在后来的演变中,华表越来越复杂,不仅加上了须弥座,还固定地使用蟠龙、祥云等浮雕。上面也被加上了“小怪兽”——望天犼。
天安门前原有两对华表,上面望天犼的朝向却不相同。一对朝外,名曰“望君出”,意思就是提醒帝王应该多多出去体察民情,掌握民心向背,不要在宫中成为“天囚”。另外一对朝内,名曰“望君归”,意思是梨园虽好,不是久恋之家,帝王在外应该时刻想着回宫中处理朝政。
今回の旅行は、失敗が幸いにも許容される範囲で収まり、はじめて訪れた街で言葉を交わし、日本と中国の古代からの友誼と戦争の歴史を学んだ。威海で忘れたバゲージを届くれたタクシーの運転手から「もう決して忘れ物はしてはいけない」と諭されたあとに「日本と中国は一衣帯水であり、友人になりえても、敵とする関係にしてはならない。」と言われた。その言葉は普通の中国の人々の願いでもあると思った。彼らは戦争を決して望んではいない。
第14日(8月5日:日)
帰国日。6時起床し、地下鉄を乗り継いで、北京国際空港へ行く。アシアナ航空は7月上旬に機内食メーカーの火災で代替取引先の開発を巡り混乱して大幅な遅滞トラブルを起こしたことから、とても心配したが、問題は全くなかった。機材も機内食も接客も遜色なく快適に使えた。定刻に成田に着き、無事帰宅できた。感謝したい。仁川ではウオンに両替しないと利用できないとおもっていたが、「支付宝」で決済できる店をみつけた。実際は利用しなかったが、今度韓国経由の中国便はウオンに両替しなくても空港内売店を利用できるのではと思った。
(完)
by inmylife-after60
| 2018-08-11 23:46
| 中国訪問記
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Comments(1)
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