2018年 08月 28日
「沖縄と海兵隊」ノート (旬報社:2016年6月刊) |
「沖縄と海兵隊」ノート(旬報社:2016年6月刊)
「沖縄と海兵隊」ノート:旬報社:2016年6月刊
序章(野添文彬・山本章子)
P10
「いま、日本には約5万人の米軍が駐留しているが、海兵隊は、在日米軍のなかでも、海軍に次いで二番目に大きな兵力であり、その9割が沖縄に配備されている。沖縄には在日米軍の70.4%、米軍専用面積の73.8%が集中しており、在沖米軍の兵力の57.2%(約1万5000人)、施設面積の75.7%(1万7472ha=東京ドーム3717個分)を占めているのが、海兵隊である。」
P13
「まず、第3海兵隊遠征軍は沖縄駐留の擁護派すら認めているように「主要部隊の3分の1が欠けており、有事に必要が生じれば、米本国からの増援を得て完全な形になる。また近年の戦争では、海兵隊を動かす前に、海軍、空軍がまず制海権と制空権を握ってから、陸上部隊を投入するのが常識的な戦闘パターンである。こうした中で、朝鮮半島有事や台湾有事での在沖海兵隊の役割を強調する論者の論議は「具体的な安全保障のシナリオにおいて抑止力がいかに機能するのか、彼らは極めてあやふやであり、かつ大まかになりがちであると批判されている。」
P13~P14
「尖閣諸島についても、米国政府は、日米安保条約第5条の適用範囲であることを表明している一方で、その領有権については、中立的な立場をとり、日中双方が対話による解決を呼びかけている。それゆえ、尖閣防衛のために、海兵隊を投入する点については、米国の意思が強いとはいえない。何よりも尖閣防衛の一次的な責任は日本にある。こうした点から、朝鮮半島や台湾有事さらには尖閣有事において、在沖海兵隊が不可欠の戦略的な役割を果たす訳ではない。」
P15
「第一海兵師団を主力として、米軍による仁川上陸作戦が実施され、作戦は成功する。これを評価して、1952年、米議会は、「ダグラス・マンスフィールド法」を制定し、海兵隊は3個師団(1個師団:12000~18000名前後)3個航空団(1航空団48機~100機)が維持されることが決まった。これ以降、今日に至るまで、海兵隊は3個師団、3個航空団を保持している。」
P16
「朝鮮戦争休戦前後から1950年代後半にかけて、第3海兵師団や第一航空団の一部日本本土から沖縄に駐留する。それ以降、海兵隊は沖縄に駐留し続ける。」
P17
「こうして沖縄に配備された海兵隊は、1960年代にはベトナム戦争で大きな役割を果たす。北爆の開始によって、米国がベトナム戦争への本格的介入を開始した直後の1965年3月6日には、沖縄を拠点とする第3海兵師団の部隊約3500人が南ベトナムのダナンに上陸する。これはベトナムに投入された初めての米軍陸上実践部隊だった。その後、次々にベトナムに投入されて、ピーク時の1968年には、約8万人にまで膨れ上がる。」
「しかし、ベトナム戦争の泥沼化によって米国政府は、1968年を境に米軍配備の見直しを開始する。米国政府内から沖縄からの海兵隊の撤退や普天間基地の閉鎖が検討され、この動きは米軍部からの猛烈な反対を引き起こし、逆説的に在沖海兵隊が維持強化されるきっかけとなった。」
P17~P18
「その後、ベトナム戦争の終結や米中接近などアジアに緊張緩和が進展した1970年前半においても、米国政府内では、引き続き沖縄からの海兵隊撤退が検討される。これに対して日本政府は、安全保障上の不安などから、在沖海兵隊の維持を要請する。このような1970年代の在沖海兵隊を巡る日米の思惑とその相互作用のなか、むしろ海兵隊が沖縄で兵力・基地ともに増強された。」
P18
「冷戦後、新たな役割としたのが、災害救助、人道支援といった活動だった。在沖海兵隊も再編され、災害救助、人道支援を行う第31海兵隊遠征部隊(31MEU)が配備される。ところが同じ時期に少女暴行事件が起こり、基地に対する反発が強まる。この火消しのために合意されたのが普天間基地の返還である。結局、普天間基地の名護市辺野古に移設先が決まっていくが、移設先については、当初、米国政府は沖縄県内にこだわらなかったし、日本側も県外案も検討されたことが明らかになった。
第1章1950年代における海兵隊の沖縄移転(山本章子)
1 戦後初期の在沖米軍基地と海兵隊
P27
「日本本土への海兵隊配備は、1953年7月23日の国家安全保障会議(以下NSC)にて決定された。これは休戦協定が「危険ないたずらになるかもしれず、休戦後でさえ、中共が容易に紛争を引き起こすか、我々に激しい攻撃をしかけてくる可能性を危惧したアイゼンハワー大統領とダレス国務長官が、駆け込みで、増援部隊派遣を要請したことによる。大統領は、休戦協定違反を犯さぬよう、必要な場合に韓国への即時出撃が可能な日本本土への配備が最善との判断を下した。」
「第三海兵隊は休戦協定成立直後の8月から10月にかけて、日本本土の富士マクネイア(御殿場:第3連隊:1個連隊1200〜2000人)、奈良(第4連隊)、岐阜(第9連隊)の各キャンプに配備された。また大統領は、中国に休戦協定を破った場合に備え、併せて核戦力を沖縄に配備するように求め、キーズ国防副長官の同意を得た。」
2 初期の極東米軍再編計画
P28
「1953年12月3日のNSCにて、大統領は、ラドフォードJCS議長の抵抗を押し切り、韓国に駐留していた陸軍7個師団のうち、2個師団の1954年3月1日撤退開始を決定した。同会議では、休戦状態が長期化した場合、在韓米陸軍を2個師団にまで削減し、更に状況に応じて、極東からの陸軍を追加撤退させることも決定される。これを受けて、JCSは、1954年4月1日。極東米軍再編計画をウイルソン国務長官に提出した。同計画は、極東に現存する陸海軍の一部撤退・配置転換に加え、1955年7月から9月の間に海兵隊1個師団を本国に引き揚げる内容となっていた。
3 インドシナ独立と第1次台湾海峡危機
(1)インドシナ独立
P31
「インドシナ情勢の変化(54年5月ディエンビエンフーの陥落、7月ジュネーブ協定による仏軍の撤退と統一選挙の実施)は、海軍再編に大きな影響を及ばす。今後予想されるベトナム南部での共産主義勢力の活動への対応として、戦略空軍の投入という手段はそぐわないことは明白であった。そのため極東海軍は、大幅削減を免れ、戦闘兵力数や、航空母艦・戦艦・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の保有数をほぼ維持することとなった。」
「インドシナの共産化を危惧したアイゼンハワー政権は、9月8日、東南アジア地域の反共防衛機構として、東南アジア条約機構(SENTO)を発足させる。しかし、SENTOは、できる限り直接的関与を回避したい米国の思惑に反して、加盟国の軍事的貢献が期待できない、米国の軍事力に依存した多国間同盟となった。そこで統合作戦本部(JCS)は、東南アジアにまで米陸上兵力を割けないとして、同地域への中国軍の侵略に「機動打撃兵力」でもって対応する戦略を採用する。JCSは具体的には限定核攻撃を想定していたが、ウイルソン国防長官が、核の使用は政治的に困難だと反対した。こうした論議が海軍とともに海兵隊を「機動打撃兵力」の一部として、再定義することに繋がる。」
(2)第一次台湾海峡危機
P31 〜P32
「インドシナ情勢と合わせて、極東米軍再編計画の見直しの要因となったのが、第一次台湾海峡危機の勃発であった。ジュネーブ会談開催中の5月15日から20日、中国軍が台湾海峡の東磯列島を陥落させる事件が起きたのである。米国政府内には、軍部を中心に中国軍への反撃を主張する意見が強かったが、大統領は慎重な姿勢をとり、6月1日、中国軍が次に攻撃目標とすることが予想される大陳列島を海軍第7艦隊に「友好訪問」させるに留めた。」
「だが、9月3日・4日、中国軍は金門諸島への大規模な砲撃を行った。これに対する米国政府内の反応は二つに割れた。9月9日・12日のNSCにてリッジウェイ陸軍参謀総長の意見として、金門諸島に台湾防衛上の戦略的な価値はないとの見解が紹介され、ウイルソン国防長官も中国沿岸島嶼を中国の一部として認めるべきだと述べた。一方ラドフォートを筆頭にJCSの大多数は、米国による沿岸島嶼の全面防衛と中国への核攻撃を主張した。他方で大統領は、中国沿岸の島嶼の喪失が台湾の国民党政府に与える心理的打撃を懸念しつつも、沿岸島嶼のために第三次世界大戦を起こしたり、米軍に再び朝鮮戦争のような経験をさせたりすることは考えられないと主張する。」
「その一方(沿岸島嶼を条約の適用範囲としないことを条件とする米華相互防衛条約の締結)で、米国政府は、台湾海峡情勢への対応として、1954年末までに、沖縄への最初の核配備を決定し、まもなく実施した。中国大陸沿岸部までわずか400マイル(640Km)の距離にあり、台湾海峡まで爆撃機で1時間以内で到達できる沖縄は「米中戦争勃発2時間で北京を灰燼に帰す」という核の脅しを中国に与えるための拠点とされたのである。」26:Okinawa Braced for Red Attack. The Star and Stripes, February 4 .1955
4 陸上兵力削減計画の修正
(1)海兵隊沖縄移転案の浮上
P33
「(ウイルソン国防長官による陸上兵力の削減)計画の変更点は、韓国と日本に駐留する海兵隊2個師団の極東残留であった。具体的には韓国の第一海兵師団は引き続き韓国に留まり、日本の第三海兵師団については、そのうち、連隊付戦闘部隊はハワイへ(1955年2月第4連隊移転)、「残りは沖縄に移転」させるという提案がなされた。
「沖縄への1個師団再配備の利点は、米軍の配備に柔軟性を付与することだとされる。さらに一個師団の移転により自衛隊増強に伴う軍隊の過密化という問題も解決できると考えられた。その上で、ウイルソンが陸軍ではなく、海兵隊移転を決定したのは、兵力削減の最優先対象である陸軍を同地域に温存することを避けようしたからだと推測できる。ウイルソンは、(1954年)7月28日のNSCの承認を得て、8月12日、」日本本土の第三海兵師団の沖縄移転を決定した。」
P34
「ところが、極東軍指令部が、占領行政に従事する陸軍約1万2000人の駐留する沖縄には、海兵隊基地を建設する場所がない旨指摘したため、同決定は一端保留される。JCSは極東軍(=陸軍)指令官、極東海軍司令官、極東空軍司令官及び海兵隊司令官による沖縄現地調査の結果をもって最終的な決定を下すことにし、ウイルソンにその旨報告した。
「10月8日には極東軍指令官が、18日には海兵隊司令官が、真っ向から対立する内容の調査報告書をそれぞれ提出した。海兵隊より陸軍の方が沖縄移転コストが低いと主張する極東軍に対して、海兵隊は、コストの問題は解決できること、極東米軍再編の目的から考えて海兵隊の沖縄配備が適切であることを主張する。海兵隊司令官いわく、極東米軍再編の目的とは、日本と韓国から米陸上兵力を撤退させ、同盟国の陸上兵力を補完する形で、米空海軍の機動兵力に依存した水陸両用能力を極東・西太平洋地域に有し、空陸即応機動部隊に日本からインドネシアまでに連なる「島嶼地帯」を防衛されることである。」
「だが、これらの報告を受けたJCSは、海兵隊の沖縄移転に異議を唱える結論を出した。JCSの統合戦略計画委員会(JSPC)が11月5日、米ソ全面戦争時には、第一海兵師団は、開戦後3ヶ月以内に、第3海兵師団は、即時欧州へ移転する計画となっており、第3海師団の沖縄配備は現実的でないとして、陸軍第1師団の沖縄配備を勧告したのである。
「しかし、ウイルソンは、12月9日、軍事における「最大限の技術革新と最小限の人員」を求める大統領の指示に従い、韓国に駐留する第一海兵師団の本国引き揚げとその穴埋めとしての第二四歩兵師団の韓国残留を命じた。そして、極東陸軍の追加削減計画の早急な作成と、日本本土に駐留する第三海兵師団のうち1個連隊以下規模の部隊を、早急に沖縄に移転させるように、JCSに要求する。」
P35
「ハル(陸軍出身:極東軍指令官)は依然として、沖縄での海兵隊基地建設は困難だとし、第三海兵隊の韓国移転を主張した。だが1955年3月に在韓米軍の一部施設の使用を終了するにあたって、韓国政府との使用延長をめぐる協議が難航したため、韓国には新たな米軍部隊を受け入れる状況ではなかった。」
「(JCSは)各軍及び極東軍司令部との協議を経て、12月31日に提出した暫定的回答のなかで、第一海兵師団と共に、韓国から撤退した第一海兵航空団を、日本、ハワイ、本国に分散移転させることを提案し、ウイルソンの了承をえた。第一海兵航空団は、1956年7月、山口県の岩国に移転した。JCSは、翌年1955年1月11日には、極東に駐留する陸軍を2個師団まで削減することを具申し、これも了承された。」
(2)第三海兵師団第9連隊の沖縄移転
「中国の次の目標が金門馬祖諸島であると考えられたことから、台湾防衛に関する米国政府内の論議が継続され、3月10日のNSCでは、中国への核兵器使用の検討も始まる。またラドフォード(JSC議長)は、米国の台湾防衛の意思を示すためとして、極東陸軍削減中止を発表すると同時に、海兵隊1個師団の台湾に派遣し、さらに第一海兵航空団を太平洋上に配備する案を提案し、ウイルソンもこれを支持した。」
P37
「7月に第三海兵師団第9連隊が堺から沖縄のキャンプ・ナプンジャへと指令部を移し、9月には第三海兵師団の沖縄移転のための基地建設計画が承認されたのは、急遽、東南アジア情勢への対応任務を課されたためであった。同時期、米国政府は、タイにおける共産主義の脅威が高まっていると認識し、第九連隊の拠点を沖縄に移した上で、危機が迫るタイのウドーンターニーに一時駐留させたのである。」
5 在日米軍削減と海兵隊の沖縄結集
(1)日本本土の反基地感情
「第三海兵隊第9連隊の日本本土から沖縄への転出は、在日米軍削減の動きとも連動していた。同時期、日本本土では、立川・横田・木更津・新潟・小牧の米軍飛行場周辺の土地を新規接収しようとしたが、地元住民・自治体の強い抵抗を受けた。なかでも立川周辺住民が展開した「砂川闘争」は1955年に入ると、労働者・学生などの支援団体や革新政党の支援に加え、測量を阻止しようとした人々に対する警察の暴力への批判的報道によって、世論の支持を得る。結局、日本政府は、横田以外のすべての場所での新たな軍用地接収に失敗した。」
「同年8月末に訪米した、鳩山一郎内閣の重光葵外相は、旧安保の相互防衛条約への改訂を申し入れる際、将来的な米軍の日本からの全面撤退と基地使用の制限を条約案に盛り込んだ。重光構想は、ダレスの全面的な拒否と反論に遇ったが、在日米軍に対する日本国内の風当たりが強まる一方である事実を表していた。」
(2)島ぐるみ闘争
P39
「日本本土での反基地感情の高まりにもかからず、第三海兵師団第9連隊の沖縄転出後、予定されていた第三海兵師団第三連隊及び第一海兵航空団の沖縄移転は、容易に確定しなかった。海兵隊の沖縄移駐は、大規模な新基地の建設を意味したが、米軍による基地建設地の強制接収と低額な地代の一括支払いに対して、沖縄住民の反対闘争、いわゆる「島ぐるみ闘争」が展開されたからである。」
「1955年10月の企画調整委員会(OCB)報告は、「日本本土から沖縄への地上兵力の再配備は、米軍が使用する追加の土地を要求するようになったため、沖縄で深刻な問題となっており、それが日本にも波及している(=沖縄施政権返還の要求が高まっている)。OCD報告に書かれた、日本本土から沖縄へと再配備される地上兵力こそ、海兵隊のことであった。」
「そのため、今度はウイルソン自らが、第三海兵隊第三連隊および第一海兵航空団の移転先を沖縄にこだわらずに再検討するようになった。」
「(JCSからの)覚書には、現時点で沖縄に海兵隊の2個陸上戦闘連隊を配備予定だが、沖縄にこれ以上の基地を建設するのは賢明ではないというラドフォードの見解が記されていた。その上で、「軍事的観点から、海兵隊の部隊を極東、特に東南アジアの紛争の起こりやすい地域に迅速に再配備できることが望ましい。この点、グアムなら可能性があり、検討すべきだ」との提言が盛り込まれていた。
(3)ジラード事件
P40
「1957年1月30日、群馬県相馬が原演習場にて、米兵が薬莢拾いをしていた日本人女性を射殺するという、いわゆる「ジラード事件」が起こる。同事件に触発されて、1956年9月7日に静岡東富士演習場で、第三海兵師団第三連隊の兵士が、同様に薬莢拾いの日本女性を撃った事件についても、国会で野党が取り上げるようになり、日本政府が遅まきながら、調査を始めざるを得なくなった。」
「5月8日の安川壮・外務省欧米局第二課長とスナイダー駐日大使書記官との間の会談にて、日本側は、「在日米軍陸上兵力の全撤廃」、具体的には、「陸軍第一機甲部隊及び第三海兵師団第三連隊」の日本撤退を要請した。当時日本政府は、ジラード事件に対する世論の厳しい批判を無視できず、第一次裁判権を主張する米国側に抗して、日米安全保障条約調印後初めて日本の裁判権を要求した(但し実際には、日米政府間で、可能な限り刑が軽くなる容疑で起訴するという密約を交わし、執行猶予付き判決を出し、直ちにジラードを帰国させた)
P41
「1957年8月8日、海軍作戦本部長は、第三海兵師団第三連隊全部隊を日本本土から沖縄に移転させる命令を下した。同年3月に第三連隊の一部が沖縄のキャンプ瑞慶覧に来ていたが、いまだ日本本土に残留していた「地上部隊」も沖縄に移転させ、第三連隊をすべて沖縄に結集させることになったのである。」
P42
「JSCは、8月21日、第三海兵師団・第一海兵航空団の沖縄結集の戦略目的を決定した。すなわち「南ベトナムへのベトミンの侵略に対する反撃と、ラオスにおいて、共産主義勢力を鎮圧しようとするラオス国軍への支援である。インドシナ情勢に対応して「西太平洋における全面戦争の際、局地攻撃に反撃し、かつ主導的な役割を果たせる戦略的場所から、作戦を即時に実施できるよう、即応部隊を前方展開」させることがアメリカの新たなアジア戦略となったのである。」
「海軍作戦本部は、分散配備先として神奈川県の厚木基地も候補にあげたが、最終的には沖縄でも北谷のハンビー飛行場と山口県の岩国基地への第一海兵航空団の分散移転が確定する。同部隊が、普天間基地に移るのは、同飛行場が空軍から海兵隊に移管された1960年である。」
P43
6 在日・在沖米軍基地の役割の変化
P45
「50年代の極東米軍再編の過程で、1957年の陸上兵力撤退の決定を境に、在日米軍基地が文官や補給部隊が駐留する後方支援部隊へとその役割を転じたと言える。
逆に、沖縄には1960年に陸軍第一特殊部隊が配備され、さらに1961年から1963年にかけて、戦闘戦力が倍増された結果、1965年初頭の時点で陸軍1万4000人、海軍2000人、空軍1万2000人、海兵隊2万人が沖縄117ヶ所の基地に駐留するに至る。同年に米国がベトナム戦争への本格介入を開始すると、沖縄は、出撃基地としてだけでなく、対ゲリラ戦の訓練基地、補給基地、運輸・通信の中継基地として重要な役割を担うようになり、同島に駐留する米軍兵力や爆撃機と戦闘機の数はさらに膨れ上がった。」
P53
第2章 1960年代の海兵隊「撤退」計画にみる普天間の輪郭
「ジョンソン政権末期の1968年12月、米国防衛総省は、沖縄と日本本土における米軍基地の大規模な整理・統合計画を策定した。それは日本の関東平野に所在する航空基地の再編、佐世保の閉鎖と横須賀の母港化、板付の運用停止、王子病院の閉鎖を射程に収めたものであった。沖縄の海兵隊についても、普天間飛行場の閉鎖を含めたキャンプ・バトラーの事実上の運用停止が謳われた。」
P53~P54
「68年から69年は、在日米軍基地を取り巻く政治的・戦略的環境が大きく変容した時期である。米国発のドル危機と北爆停止によって幕を開けた68年は、ベトナム戦争の混迷と米国の相対的力の低下が相まって、米国と西側同盟国との関係性を大きく変容させた。日本国内では、1月に原子力空母エンタープライズが佐世保に入港し、3月には王子病院の開設を巡る反対運動が激化した。5月には、佐世保の原子力潜水艦ソード・フィッシュが放射能漏れ事故を起こし、6月には板付所属のF-4 ファントムが九大構内に墜落した。」
P55
1 海兵隊の撤退と普天間の閉鎖
(1)後景としての「ジョンソン・マケイン計画」
「太平洋軍指令官マケイン海軍大将は、8月26日から29日にかけて日本を訪問し、27日にはジョンソン駐日大使およびマッキー在日米軍指令官との詰めの協議を行った。(中略) 計画は、日本本土の余剰基地を中心とする計54の施設を対象とした大がかりなものであった。そしてそれらは2つのカテゴリー、すなわち特定の施設を完全あるいは一部を日本に返還する32の施設と米国が引き続き必要とする施設であるものの、条件によっては日本側の費用負担で日本国内の他の場所に移転しうる22施設に分けられた。
(2)国防総省の基地再編計画
P58
「計画は12月6日にまとまり、(中略)、その射程には、関東平野の所在する航空基地の整理・統合、佐世保の閉鎖と横須賀の母港化、板付の運用停止、王子病院の閉鎖、そして普天間飛行場を含め在沖海兵隊の撤退が収められていた。」
「68年時点で、米国は日本及び沖縄に238の軍事施設と87000人の軍人、70000人の軍属、そして6000人の文民、さらに60000人の外国人の合計223000人を展開していた。人件費は、毎年9億ドルに上り、国際収支は、毎年7億1400万ドルの赤字であった。
そのため、国防長官府は、『我々は、いまこのベトナム戦争の最中においてでも日本および沖縄に於ける兵力の合理化を進めなくてはならない』としさらに『在日米軍は日本防衛のために維持されているのではない』(下線筆者)とする基地の存在意義に関する重大な認識を示した。」
P59
「再編の実施は、進行中のベトナム戦争への対処を含めた軍の戦闘能力を減じるものではないとされ、さらに「特定の施設の返還については、それを自衛隊に返還」し「緊急時に共同で使用する権利について交渉する」との方針を示すことで、予想される軍部の反発に配慮を見せた。」
「さらに沖縄は抱える「政治的に複雑な状況と我々の基地使用を制約する状況」が長期にわたり継続する可能性を指摘し、そのことが、沖縄を「日本本土から移転される施設及び部隊の収容場所(repository)として位置づけることを困難にする」(下線筆者)との基地をめぐる沖縄と本土の特異な関係性に言及した。
P59~60
「なおこの時点で、沖縄には、那覇からゴザにわたって集中する陸軍の補給基地、嘉手納基地を中心とする軍事基地、那覇港および東海岸ホワイトビーチの海軍基地、東海岸に点在する3つの海兵隊基地、北部演習場、各地の通信施設などの米軍基地が存在した。また米国はNCND(否定も肯定もしない)政策から公言することはなかったが、核兵器が配備されていた。大量報復戦略から柔軟反応作戦への転換期にあたる61年3月、沖縄にメースB(戦術地対地巡航ミサイル)が配備され、嘉手納基地に配備された第5空軍下の第498戦術ミサイル団の管理下に置かれた。メースBは、恩納、読谷、連勝、金武に配備された。射程は、約2253キロといわれ、北京、重慶、西安、大同、長春、平壌、ウラジオストックなどへの核攻撃が可能であった。また核弾頭を使用できる防空用のナイキ・ハーキュリーズも配備されていた。」
3 撤退計画の撤回と普天間の機能強化
P’72
「新たな計画(69年9月5日)は、ベトナム戦争後の基地システムの「青写真」を示したものであり、前回に比して、再編の規模と範囲が抑制されていた。そして、前節でみた海軍省の計画と平仄を合わせるかのように、海兵隊の撤退案は撤回され、普天間飛行場について新たに機能強化の方向性が示された。
(1)再編の概要
(2)再編の対象
P73
①海兵隊
「在沖海兵隊については、前回の計画とは打って変わり、ベトナム戦争前の兵力維持、或いは将来的な増強の可能性を示された。69年9月時点の沖縄には、11542人の海兵隊員が駐留していたが、ベトナム戦争後は、それが22172人に増員されることとなった。それは先に見た海軍省の計画(19249人)を超える規模であった。ここで目を引くのは、第三海兵師団の数(15000人)であろう。ここに第3海兵師団の沖縄駐留継続の方針は、文官を含めた国防総省全体の総意となったと言える。また戦闘部隊が駐留する以上、前回の計画で撤退が意図されていた第3FSR(キャンプ・フォスター:在日米軍海兵隊の沖縄県における中枢機能を有している施設:キャンプ瑞慶覧)も駐留が継続されることとなった。」
②海軍航空基地
「厚木海軍飛行場の閉鎖、岩国海軍航空基地及び普天間飛行場の機能強化、フィリピンのキュービポイント海軍航空基地の整理統合、グアムのアガナ海軍航空基地の閉鎖、グアムのアンダーセン空軍基地の再編、那覇海軍航空基地の縮小であった。」
P85
第3章 1970年代から1980年代における在沖海兵隊の再編強化
はじめに
「この間、沖縄は1972年5月、日本に復帰したが、巨大な米軍基地のほとんどは維持されたままだった。むしろ沖縄返還前後の時期に日本本土の米軍基地が大幅に縮小されたことで、沖縄への米軍基地の集中が進み、この状態が定着していく。」(下線筆者)
「この時期、沖縄において、米軍陸軍の兵力が大幅に削減される一方で、米海兵隊の兵力と使用基地が増大した。兵力面では、1960年代末には沖縄に駐留する米海兵隊は、1万人弱であったが、1970年代以降、ベトナムからの第3海兵師団の移転や、山口県岩国からの第一航空師団司令部の移転などにより、1980年代には、2万人規模に膨れ上がる。(下線筆者)これに対して、沖縄の米陸軍の兵力は、1960年代末には1万人程度であったが、1980年代には、1000人に満たないまでに縮小された。施設面では、陸軍が管理していたキャンプ瑞慶覧や牧港補給施設などが移管され、海兵隊基地は増大する。」
P88
「いわば、沖縄返還から、1990年代までの時期は、在沖海兵隊はもとより、沖縄の米軍基地問題全般についての研究史上の空白があった。」
「結論は先取りすれば、日米両政府の相互作用の結果として、1970年代から1980年代にかけて、在沖海兵隊は増強されるとともに、その駐留の安定化が目指された。在沖海兵隊について、日本政府が米国の対日防衛コミットメントの明確な証拠として、その維持を望んだのに対して、米国政府は、日本政府を安心させるとともに防衛上の負担を引きだそうとこれを同盟外交上活用したのである。(下線筆者)その一方で、海兵隊への沖縄現地の反発によって、まさに同じ時期に、現在まで続く普天間基地問題といった問題も浮上したのである。」
1沖縄返還と在沖海兵隊
「69年1月に発足したニクソン政権は、(中略)1969年から1972年にかけて、南ベトナムから約47万人(主に陸軍)、韓国から約2万人(主に陸軍)、フィリピンから約1万人(主に海・空軍)の米軍を撤退させた。」
「沖縄返還が合意されたまさにその時期に、沖縄には、ベトナムから撤退した米海兵隊が再配備されていく。1969年7月から8月にかけて第9海兵連隊がキャンプシュワブへ、11月には、第3海兵師団司令部がキャンプコートニーへ、同時期に第4海兵連隊がキャンプハンセンへ、1971年8月には第12海兵連隊がキャンプヘイグへ、それぞれ再配備された。また69年11月には第1海兵師団を構成する第36海兵航空群が、普天間基地を本拠地とする。さらには、1971年4月には第3海兵水陸両用軍司令部がキャンプコートニーへ移転する。こうして在沖海兵隊は、1967年の1万人から、1972年の約1万6000人へと増大した。(下線筆者)」
「1970年1月の記者会見で、チャップマン海兵隊総司令官は、「沖縄返還後も沖縄の海兵隊基地を整理縮小または撤退させる計画はない。半永久的にこれらの基地を残すというのが、我々の計画である」(下線筆者)と宣言している。3月チャップマンが米下院軍事委員会で説明したところによれば、ベトナムから撤退した沖縄の米海兵隊はいつでもベトナムに出動できる態勢になっていた。(朝日新聞1970年3月12日夕刊)
P90
「この時期に日本本土では、「ニクソンドクトリン」の方針の下、米軍再編が進んだ。1970年12月、日米安全保障協議委員会(SCC)において、三沢、横田、横須賀、厚木、板付の米軍基地が閉鎖されるとともに、当時の在日米軍兵力の3分の1にあたる1万2000人が撤退することが合意される。これにより「在日米軍基地は『有事駐留』の予備基地の性格を強めることになる」と言われたのだった。
「ところが、日本政府は、日本本土の米軍プレゼンスの縮小によって、むしろ沖縄に駐留する海兵隊をより重視するようになっていく。1970年末の防衛庁内での論議では、在日米軍の削減によって、有事において米軍が来援するという「大きな前提の決め手の人質がいなくなる」ので「米軍が来ない危険性」があるという懸念が指摘される。(下線筆者)それゆえ、「アメリカはどこまで引くかという歯止めが必要」で、沖縄の米軍基地や海兵隊は「抑止力として最低必要なもの」だと論じられていた。」
「久保拓也防衛庁防衛局長は、1971年2月の論文で、アジアからの米軍の大幅縮小を予想した上で、日本有事において、「日本に米軍の第一線兵力がいない場合、米軍の来援が制約される可能性」があることを懸念している。なぜなら、もし日本に米軍が駐留しなければ「人質がいないので事実上米軍が自動的に介入することにならない。」ということが考えられるからだった。(下線筆者)それゆえ、久保は「米国の第一線兵力の一部が日本の領土(たとえば沖縄)に顕在することが望ましいこととなった場合、日本は、将来NATO諸国の如く、米国より防衛費の分担を要求されることのありうべきことも考慮しておく必要があろう」」と論じた。つまり久保は、沖縄をはじめとして日本国内に「人質」としての米軍は駐留し続けるため、日本政府が防衛上の負担分担を引き受ける必要を示唆したのである。(下線筆者)
P92
2 在沖海兵隊撤退をめぐる日米協議1972年〜1974年
こうした内外の情勢(72年ニクソン訪中訪米、ベトナム和平)に対応するべく、日米両政府は、米軍基地の整理縮小に取り組み、1973年1月第14回日米安全保障協議委員会(SCC)で、関東平野の米君軍基地を横田基地に統合する「関東計画」や、沖縄の那覇空港の完全返還などが合意される。ちなみに、「関東計画」実施に必要な費用や、那覇空港返還に伴って必要となる嘉手納基地建設及び普天間基地の滑走路の改修工事に必要な費用は、日本政府が負担することとなった。このように1973年1月のSCC合意は、在日米軍基地の統合に伴う移転費用の肩代わりという形で、日本政府が、在日米軍駐留経費の負担分担に踏み出す大きな一歩となった。(下線筆者)
P93
「1972年末に国防省のシステムアナリシスの専門家によって、在沖海兵隊の検討が行われた。10月に国務省政治軍事問題局のマクロムが駐米豪州大使館に語ったところでは、この検討作業では、沖縄やハワイなど、すべての太平洋地域の海兵隊をカルフォルニアのサンディゴに統合することが、「なかり安上がりで、より効率的」だという結論が出された。(下線筆者)マクロムによれば、この結論は、経済的にも軍事的にも説得的なものだが、問題は、国務省が政治的な側面から、このような動きを懸念していることだった。」
「ところが、国務省でも沖縄からの海兵隊の撤退を支持する意見が出された。1973年5月には駐日大使館がそもそも沖縄の海兵隊を「前方に配備することが米国の利益であり続けるかどうか」という根本的問いを提起した。もし利益でない場合、普天間基地と「基幹的な指令部だけを残し、沖縄の海兵隊施設のほとんどがなくなることは明らか」だと指摘したのである。」(下線筆者)
P96
「海兵隊の維持を望む日本側の姿勢は、米国政府の政策方針にも反映されたと考えられる。11月シュースミス駐日大使は、ワシントンに次のように報告している。それによれば、日本政府の一部では、沖縄の海兵隊は「日本に対する直接的な脅威に即応する米国の意思と能力の最も目に見える証拠」だと認識されている。それゆえ日本政府内の海兵隊重視が強まれば、「我々(アメリカ)の交渉上の梃子は強化されると論じたのである。」(下線筆者)
P97
このように1970年代前半、「関東計画」をはじめ、日本本土の米軍基地が大幅に縮小される一方で、海兵隊など沖縄の米軍基地がほとんど維持されることで、沖縄への米軍基地の集中が進んだのである。
3 ベトナム戦争終結と在沖海兵隊の再編1974年〜1976年
1960年代末以来、米軍部では、沖縄返還後、沖縄米軍基地が使用できなくなる可能性を見据えて、代替施設をマリアナ諸島に建設する計画を進めていた。海兵隊も訓練施設をテニアンに建設することを希望する。しかし1974年11月にはJCSは、マリアナでの基地建設を大幅に縮小することにした。JCSによれば、「明らかに、返還後の数年間で、東京は沖縄における現在の米軍のレベルを積極的に受け入れようとした」。(下線筆者)それゆえ、「沖縄の日本への返還は、当初予想されたように、米軍基地を移転させることにならなかった」というのである。
「こうした(ベトナム戦争戦費の増大、円高による在日米軍基地維持費の増大)中で、1973年8月には、在日米軍司令部は、米軍基地の従業員にかかる労務費を日本政府が支払ったり分担したりすることを提案したのである。」(下線筆者)
P98
「アマコスト(国務省政策調整部)は、日本政府による在日米軍基地駐留経費の負担分担を強く主張した人物であった。(中略)アマコストは、在日米軍基地の削減は、「日本の政治的な圧力よりも米国の予算上の決定」によって推進されるのであり、日本政府が米軍基地縮小を懸念しているのであれば、日本政府に現地の労務費など「在日米軍を維持する経費への貢献を増大させること」を提案したのである。(下線筆者)
「1975年4月、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結した。(中略)1975年1月のSCCで、白川元春統幕議長は、「日本防衛のためにいつでも米国が立ち上がるという意志の確証を与える部隊」「侵略のある場合初動の作戦に即応しうるような部隊」としての在日米軍を維持するように要請した。具体的には、陸上面で「海兵隊及び支援航空隊を含む最小限1ヶ戦略単位の陸上部隊」、海上面では空母などの海上機動部隊など、航空面では、戦術航空部隊と偵察部隊などだった。そして白川は、「少なくとも、現在の在日米軍の規模と機能を削減しないこと」を要請したのである。(下線筆者)(第16回安保運用協議(SCG)議事要旨)」
P100
「1976年1月のSCGでは、岩国の第1海兵航空師団司令部1200人の沖縄への移転計画が日本側に説明されている。ここでガリソン在日米軍司令官は、第三海兵水陸両用軍(IIIMAF)について、「わが相互防衛上の義務を支えるための即応性の高い前方展開兵力」であり、「この見事に調和のとれたミリタリー・マシンは、米国のプレゼンスへの信頼性を高める」と強調した。彼によれば、海兵隊の任務は、海軍の作戦を推進し、「水上艦艇とヘリコプターとならなる強襲部隊を使用しての海上から行う兵力投入」を行うことだが、「海兵隊の柔軟性に対する鍵は、海兵隊の空/地ティームの密接な協同連携の態勢にある」(中略)。これに対して、日本側は、「司令部要員が1200名とはいかにも多いのでないか」と難色を示したが、それ以上異論を唱えることはなかった。」
P101
「1975 年7月のSCGで、ガリソン在日米軍司令官は、在沖海兵隊を含む在日米軍は、日本の防衛だけでなく、米国のグローバル戦略の一翼を担っていることを強調する。そして「今度戦争が起こるなら、それは中近東であり、欧州に広がるであろう」との見通しを紹介した上で、これらの有事の際には「在沖海兵隊も米軍のassets(資産)と考えられうる」(下線筆者)と指摘した。
「ウイルソン海兵隊総司令官も1976年2月の記者会見で、沖縄を含む西太平洋の海兵隊は、「太平洋地域とインド洋地域における米政策支援のための緊急出動に備えたものだ」と説明する一方で、「北大西洋条約機構(NATO)地域に焦点のあわされた世界的規模の通常戦争においては、西太平洋地域の海兵隊も重要な寄与をする」とも述べた。
P102
4 在沖海兵隊をめぐる日米防衛協力の拡大と普天間返還論の浮上
P103
「防衛省首脳は、沖縄の第3海兵師団から一個歩兵大隊が米国本土へ移転したことに対し、沖縄の海兵隊が縮小され、日本の安全保障に影響を与えると懸念する。1977年年末には防衛庁は、「沖縄の米海兵隊の撤退は時間の問題」で「そうなると沖縄の全基地の3分の2は不要になる」と不安を強めた。(下線筆者)また防衛庁内では、海兵隊が沖縄から引く場合、事前協議の対象になるのかも論議されている。」
「注目すべきは、米国政府が、このような日本政府の不安を利用して、在日米軍駐留経費の負担分担を引き出そうとしたことである。(下線筆者)1977年11月、マクギファート国防次官補は、ブラウン国防長官に対して在韓米地上兵力軍撤退や海兵隊基地の再編などのため、日本政府が米国のアジア関与に不安を強めていると指摘した。その上で彼は、米国政府は同盟の信頼性を強化する手段として、西太平洋の海兵隊を強化させることを提案する。彼によれば、海兵隊は在韓米地上撤退後の米軍の「地域的機動性」や「日本における相対的な規模と可視性」という観点から重要となる。それゆえ「この地域に唯一残る地上兵力である、在日海兵隊の基地構造を改善し、それを日本政府に要請する」べきだと主張したのだった。
P104
「1978年3月、在沖米陸軍は、牧港補給施設の管理責任などを海兵隊に移管し、これに伴って、現地の基地従業員を解雇するという整理統合計画を発表した。これに対して、日本政府は、金丸信防衛庁長官のイニシアチブの下、米軍基地の施設建設費用に加え、労務費も負担する方針をかためていく。その後1978年11月、日本側が200億円強の在日米軍駐留経費を負担することに合意された。こうして日米地位協定24条はで日本政府は米軍に施設を提供するが、提供施設にかかる負担は、米軍が担うことになっているにも関わらず、日本政府は、在日米軍駐留経費を負担するという「おもいやり予算」が本格的に開始されるのである。」(下線筆者)
P105
「在沖海兵隊、ひいては米軍の日本防衛を確実にするために推進されたのが、自衛隊と在沖海兵隊の交流である。1979年11月には「日米防衛協力の指針(旧ガイドライン)」策定され、この後、自衛隊と米軍の共同訓練が公式に行われるようになった。
P107
「このように(1985年6月訪米し、基地問題を訴える)、西銘(1978年選挙で保守系沖縄県知事を選出)が特に強調したのが、在沖海兵隊の問題だった。その中で、西銘は、普天間基地の危険性を強調し、その返還をも要請する。まず西銘は、アーメテージ国防次官補との会談で、「発展する都市に今や囲まれた普天間で訓練するヘリによる事故」への不安を表明している。」
P108
「1988年2月沖縄を拠点する第3海兵水陸両用軍は、第3海兵隊遠征軍と改称された。」
「冷戦終結に向けた国際情勢の変容の対応できなければ、米軍基地について、「沖縄はそのままになるのではないか」という懸念が存在していた。また沖縄には「復帰の時も復帰後もそうだけれど、沖縄問題に対する日米政府の対応は変わらない」という不満が蓄積していた。このような動きは、革新勢力が擁立した1990年の太田昌秀県政の誕生とつながっていくのである。」
P115
第4章 ポスト冷戦と在沖海兵隊
1ポスト冷戦の31MEU
(1)低強度紛争へ
「在沖海兵隊に起きた冷戦後の変化を理解するためには、海兵隊の編成を知る必要がある。海兵隊は派遣される戦闘の種類と規模によって、3段階で部隊編成を変えることができる。(中略)たとえば、海浜から地上へ攻めあげていく通常の強襲揚陸であれば上陸部隊や輸送機など軸にし、人道支援や災害支援などであれば物資補給を担う後方支援部隊を軸に派遣部隊を編成する。」
P116
「最大編成の海兵遠征軍(MEF 約4万5000人)から中規模の海兵遠征旅団(MWB 1万5000人)、最も小降りでコンパクトな海兵遠征軍隊(MEU 2200人)が編成される。MEFは、国家間の大規模な紛争に投入され、通常は、カリフォルニアとノースカロライナの海兵隊基地から計2個MEF(約9万人)が動員される。民族紛争、宗教戦争といった地域的な小規模紛争や対テロ戦などには通常MEBが投入される。最小単位のMEUは、紛争地に取り残された米国民を救援したり、災害救援、人道支援などを担ったりする。
冷戦後在沖海兵隊はMEUを主体したシフトに切り替えた。この変化は、沖縄の基地で実施させている定期訓練「バリアントアッシャー」に現れた。」
P118
「沖縄では、第31海兵遠征隊(31MEU)が1992年9月に編成された。同部隊の輸送を担う強襲揚陸艦が同年、長崎県佐世保の米軍軍港に配置された。
P119
(2)沖縄海兵隊のリストラ
P121
「兵力削減というリストラの真っ只中で海外基地である沖縄への新部隊発足が要員配備に無理をきたさないかが懸念された。海兵隊機関誌「マリンコーガゼット」への寄港論文で31MEU沖縄配備の問題を指摘したラッセル・マギー大尉は「沖縄での新たなMEU発足は、海兵隊の現状を示唆している。海兵隊は『とにかくなんでもやります』的な態度を示すことで組織温存を図る。もはや組織は疲弊し、これ以上耐えられないとわかっているのにもかかわらず」と問題提起した。
P122
「さらに、沖縄の海兵隊基地についても、使い勝手の悪さを指摘する。地上戦闘部隊と航空部隊、後方支援部隊の基地機能が分散していて、一体運用に向いていないことや地元住民との基地が接近しているために訓練などさまざまな制約が課せられている。確かに、沖縄の海兵隊基地は、部物資を搬出入する那覇軍港と集積基地(牧港補給基地)が離れており、普天間飛行場の航空部隊と連携して運用する地上戦闘部隊の基地(名護市、宜野座市、金武町など)とは距離がある。在沖海兵隊の約4倍の広さをもつ米本土の海兵隊基地は一つの施設ですべての機能が集約されている。
「マギー大尉は、沖縄の訓練場は、狭く制約が多く、MEUの最も大事な任務である人質奪還の訓練さえ十分に行えないと指摘する。さらにMEUが出撃するための艦船は長崎県佐世保の強襲揚陸艦4隻のみだ。予備がないために、船が修繕でドッグ入りした場合、沖縄のMEUは、遠征任務が行えない状態になってしまうことを大尉が危惧した。」
「マギー大尉は論文でこう結んでいる。
第三海兵遠征軍そのものを米本土に撤退させ、そこからMEUをアジア太平洋地域へ展開させることをそろそろ検討すべきだ。そう思わざるをえない程、海兵隊の要員問題は、ゼロサムに陥った。議会が我々の存在を無用とするという恐怖に駆られた対応はいつまでも続かない。」
「沖縄に我々を引き留めているのは1945年に苦戦の末に島を勝ち取ったというセンチメンタリズムだ。韓国防衛、日本防衛は陸軍が適している。海兵隊は、遠征任務に徹すべきだ。(中略)組織の3分の1を沖縄に配備する予算、人員の余裕はない。沖縄から部隊を引き揚げ、本国のMEBを充実させるべきだ。」(下線筆者)
P124
「かねてから沖縄の海兵隊は戦略上その必要性に疑問がつきまとう。たとえば、対中国で海兵隊が上陸作戦を仕掛ける場面を想定することは困難であり、対北朝鮮は、一義的に韓国軍と在韓米軍が対処することになっている。(下線筆者)沖縄の海兵隊が機動力を手にしたとは言え、その構成要員と任務が人質奪還や人道支援といったMEUに限定される。こうした客観的な事実を並べてもみれば、海兵隊が沖縄に基地を配備する必要性に疑問が生じる。そもそも日米両政府から在沖縄海兵隊の存在意義を説明する決定的な根拠が示されないというあいまいさの中で、沖縄の海兵隊基地は存続し続けている。」(下線筆者)
3沖縄基地問題
P131
(1)ターニングポイント
「1995年9月におきた少女暴行事件は、基地問題のターニングポイントになった。12歳の少女が3人の米兵(海兵隊員)に強姦された事件は世界のメディアが報じ、沖縄の基地問題が一気にクローズアップされた。
(中略)当時の橋本龍太郎総理クリントン大統領は96年2月のサンクレメンテ日米首脳会談で海兵隊普天間飛行場の返還について協議を始めることに合意し、同年4月橋本総理とモンディール駐日大使が返還合意を電撃発表した。」
(2)沖縄でなくともよい
「ペリー国防長官はアジア歴訪を控えた同年10月NBCテレビのインタビューで「日本が求められるあらゆる提案を検討する用意がある」と話した。日本側から提案があれば、基地縮小も含めて検討する用意があるとの考えを表明したのだが、「現時点では日本からの撤退の要請は来ていない」と語っている。」(下線筆者)
「裏を返せば、米軍基地をどこへ配置するについては、日本政府の意志と米側は考えているということになる。前章でも明らかなように、沖縄に海兵隊が移転し、米国が全面撤退を検討したにもかかわらず引き止めたのは、他でもない日本政府であった可能性が高い。」(下線筆者)
「ヘンリー・キッシンジャー元国務長官も当時沖縄に駐留する海兵隊は別の場所に移転できるとコメントしている。「沖縄から海兵隊を撤退すべきかどうかについては日本政府が最終的な発言権を持っている。東アジアから海兵隊が撤退することは考えられないと考える人もいるだろうが、実際、沖縄からハワイに海兵隊を移すことは比較的容易であり、日本政府が最終的な判断をすべきである。」(下線筆者)
『沖縄の米軍基地 平成20年3月』(沖縄県知事公室基地対策課 編・刊、2008.3)
p46 「豆知識 キャンプ・フォスター、キャンプ・バトラーってどこ?」の項目で、「米軍人等からよく聞く名前ですが、日米両政府間で合意された正式な施設名等ではなく、過去の経緯から米軍が独自で使用しているものです。米軍は「キャンプ瑞慶覧」を「キャンプ・フォスター」、「沖縄に駐留する海兵隊基地すべてを含む軍組織」を「キャンプ・バトラー」と呼び(従って、海兵隊の基地名ではありません。)、その司令部は、「キャンプ・フォスター」内にあります。…なお、キャンプ・フォスターやキャンプ・キンザー、キャンプ・レスターなど、在沖海兵隊基地の名称の多くは、第二次世界大戦中、沖縄で戦死し名誉勲章を受章した兵士の名前に由来するものです。」の記述がある。
by inmylife-after60
| 2018-08-28 22:10
| 政治・外交・反戦
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