2018年 08月 29日
関東大震災で何故亀戸・深川で虐殺事件が起きたか? |
関東大震災で何故亀戸・深川で虐殺事件が起きたか?
〜その頃亀戸・深川はどんな街だったか〜
0)はじめに
あと数日で関東大震災の発生した9月1日を迎える。同時にこの日から1週間以内に流言蜚語を利用した朝鮮人と中国人そして社会主義者(当時は「主義者」呼ばれた)を初めとする日本人が虐殺されたことを忘れてはならない。
小池都知事は今年もこの虐殺で命を落とした罹災者を一般の震災罹災者と同列視して、特別の慰霊はしないとの態度を変えていない。
更にこの関東大震災との関係で忘れてはならないことは、震災発生と同時に勅令による戒厳令:「非常事態宣言」による軍隊が出動し、この虐殺に関わったことである。最初に出動した第一師団(皇居と天皇陛下を守る師団)麾下の習志野騎兵連隊が何故「亀戸」に直行したのかを理解するには、亀戸を含む「南葛飾(現在の葛飾区、江戸川区の全部、墨田区、江東区、足立区の一部)」の歴史を知ることが不可欠であると感じ、南葛に関連する資料を図書館で調べてきたが、南葛に限定した資料は「南葛飾郡誌」という古文書以外では、「江東の歴史」(「都教組江東支部編集発行」)がある位であった。ここでは近代以降の歴史に詳しい「江東の歴史」からこの地域の成り立ちと特性についてまとめてみた。
そこには私のように戦後東京で生まれ、その後その周辺地域に住んで抱いてきたイメージとは異なるこの地域の実相とも言える出来事が紹介されており、とりわけ明治及び大正時代の江東地域は、今日とは全く異なる存在感をもつ地域であることを知ることができた。
ここでは、江戸幕末から大正末期までの60年間程に限定して紹介したい。
1)位置と成り立ち
現在の江東区は、西は墨田川、東は荒川、北は総武線、南は東京湾(京葉線)に囲まれた比較的広域な区である。現在は、大きく3つに分かれており、それは亀戸を中心とした商業区域、深川を中心とする門前町区域、戦後埋立地として開発された湾岸区域である。
江戸は1868年(明治元年)7月に東京と改称されて、東京府が設置された。1879年(明治11年)東京府は15区と9郡を設置し、1888年(明治21年)深川地区は、東京市深川区となり、亀戸地区は、東京府南葛飾郡として亀戸、大島、砂村の三つの村となった。1898年(明治31年)10月1日に漸く明治当初からの運動の成果として、東京市が自治権を施行した。この日が都民の日となる由来である。
南葛飾郡が東京市に編入されたのは、1932年(昭和7年)であり、亀戸町、大島町、砂村町を統合し城東区が設置された。その後1943年(昭和18年)東京市と東京府が廃止され、東京都となり、1947年(昭和22年)に城東区と深川区が合併して江東区となった。
従って関東大震災時(1923年:大正12年)は、深川区と南葛飾郡であったわけだが、江戸時代から形成されてきた首都機能を生活と産業という両面で支えるという意味で、地域の一体性は非常に高いと言える。
2)軍隊との関わり
a)越中島軍事教練場
江戸幕府はペリー来航に伴い江戸城将軍を守るために、品川沖から深川州崎沖の11箇所に砲台設置のための「お台場」を計画し、日米和親条約締結までに5箇所を完成させた。1855年(安政2年)これに伴い、越中島に軍事教練場とした。
1871年(明治3年)、明治天皇は薩長土肥の親兵隊を閲兵した際に鹿児島藩の音楽伝習隊が、イギリス公使館護衛歩兵軍楽隊長フエントンが作山した「君が代」を西謙蔵の指揮で演奏した。この君が代は、1881年(明治13年)に雅楽の旋律に変更され、ドイツ人エッケルドが和音をつけて、今日の君が代になったと言われる。
現在相生橋のたもとにある「明治天皇聖蹟記念碑」は、この1871年(明治3年)の「君が代」の公式の最初の演奏を記念するために、1940年(昭和15)年9月、「紀元二千六百年記念事業」として深川区民によって計画された。
しかし海軍省からその「君が代」はイギリス人フエントンの作曲だから中止するようにとの意見が出たため、「行幸の碑」に変更された。この重さ26屯の巨大な碑は全都の小学生から一人一銭を集めて建立された。
この教練場は、1891年(明治24年)7月日清戦争に備えて、墨田川河口の立地のために陸軍糧秣廠用地に変更され、以降敗戦まで使用された。
b)竹橋事件と処刑地越中島
竹橋事件は1878年(明治11年)に起きた近衛師団砲兵大隊による反乱事件である。
「この原因は、西南戦争で近衛砲兵が大きな功績をあげたのに兵士には功立がなかったこと、大蔵省の経費削減措置によって、池小叩兵より高かった近衛兵の給与を減らとの不満を強訴するためだといわれますが、それだけにとどまりませんでした」として、以下の兵士の陳述を紹介している。
東京鎮台砲兵隊の内山定吾少尉は、兵士たちに「革命卜ハ、政府ノ不善ナルテ他ヨリ起チテ改革スルモノニテ、不良ノ事ニアラズ」と話しています。この竹橋事件は当時おこりつつあった自由民権運動の強い影響を受けていました。」
罪状は「「徒党テ結ビ暴動ニ及ブ科」で、死刑は首謀者ら53人、准流刑118人、徒刑68人、戒役15人、杖及び鋼1人、鋼4人合計259人である。控訴もない一審だけで、しかも死刑は即日執行でした。」
この竹橋事件の死刑執行が越中島教練場である。
「53人は、この十月十五日未明、愛宕下の舷倉から駕能と人力車で深川越中島の練兵場に送られました。この日は朝から豪雨でした。その土砂降りの雨の中で、刑場には標的の土塁を背景に、十字架が五本ずつ3組たてられ、一度に15人ずつ銃殺されました。午前5時にはじまり9時に終わったといいます。53人という大量の処刑は、西南戦争の24人、2・26事件の18人とくらべても、日本の陸軍史上に例がありません。」
c)日清・日露戦争と第一師団
日清戦争では、首都に駐在する東京府の第一師団は「青山停車場から汽車に乗り集結地の広島に向い、宇品港から名古屋丸、和泉丸、豊島丸に分乗し、遼東半島に上陸して旅順の戦いに参加しました。旅順は一日の攻撃で陥落しましたが、占領後四日間で、婦女子をふくむ約六万人を虐殺した旅順虐殺事件は、「日本は文明の皮膚を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣なり」と全世界の非難をあびました。」とある。
日露戦争では、「広島の宇品から出発して、第2軍に所属して遼東半島に上陸し、第31軍(司令官・乃木希典大将)に所属して旅順の戦いに参加しました。旅順の戦闘は、日清戦争と違って、105日に及ぶ死闘でした。とくに第一師団による203高地の肉弾攻撃は、全山を血で染めるほどの死傷者を出しました。旅順占領の後、第一師団は奉天の大決戦に参加しました。」
また「深川区出身者の戦死者は72人、戦傷者は13人、戦病者は25人に達しました。兵士の留守家族の生活も大変でした。深川区では「下士兵卒家族救助令」がだされ、この救助を受けた戸数は403戸で、留守家族の30パーセントでした。戦時日の調達のため、煙草・塩の専売法が定められ、物価が上がり、税金も重くのしかかりました。」
「この戦争中の不満は、ポーツマス条約が調印された1905年(明治38年)9月日比谷焼打事件となって爆発しました。深川警察署も焼打ちきれ、東京には戒厳令がしかれ、深川区には第一師団が鎮圧のため出動しました。この事件で、区内で38人の死傷者がでました。」
3)産業との関わり
a)官営工場の払い下げ
江戸時代の深川は、今日に繋がる墨田川と東京湾における佃煮、蛤、鰻、海苔の産地であるとともに一方で鍋釜鋳造、銭鋳造、造船業があり、醤油、味噌、紙の産地でもあった。
明治維新以降江東が近代産業を担う契機となったのは1880年(明治13年)の「工場払い下げ概則」による「官営工場」の払い下げであり、深川清澄の浅野セメント工場(1884年:明治17年)と石川島造船所(1893年:明治26年)によってすすめられた。
b)深川魚市場と正米市場
明治政府は、問屋仲間を解散させたが、その後漁獲物の流通をうながすため、日本橋など10ヶ所の魚市場をつくらせた。1880年(明治13年)深川蛤町と深川大島町の漁民は、魚市場の開設を東京府に願いでて、大島町に深川魚市場を開設したが、関東大震災まで営業し、震災後開設された築地に移転された。
また1886年(明治19年)明治政府は、深川に正米米穀取引所を開設し、東京の米の供給はすべてこの正米取引所と神田川、亀島、本所堅川の脇店に取引を専売させ、1941年(昭和16年)まで営業していた。
c)江東の産業革命
日清・日露戦争前後から、日本でも産業革命がはじまるが、産業革命は都市周辺の農村部からおこる。
産業革命の中心は、綿を綿糸に紡ぐ紡績業ですが、最初に設立されたのは1887(明治20)年6月、小名木川に沿った深川(現白河三丁目)の東京紡績会社だった。東京では鐙ケ淵紡績につぐ工場であった。同年8月には日本最初の民営織布工場である「小名木川綿布会社」が大島村に設立され、同年4月日本最初の化学肥料工場である東京人造肥料会社が設立された。
3年後の1890年(明治23年)には、砂村の鈴木精糖所で日本最初の砂糖の精製に成功し、大島の日本製粉などの製粉業も発展し、木場をもつ江東を代表する産業としての「製材業」も製材機械による生産も日本で民営として最初に行われた。
1900年代に入ると、1905年竪川(亀戸)のほとりに松井モスリン、1907年には亀戸に東洋モスリンと日清紡績が開業した。
1906年に、桜問機械、横川筋梁、山同地鉄工所、日東化学等の機械工場、化学工場も開業した。
明治の末に従業員1000人以上の大工場は、日清紡、米京紡、官同士瓦斯紡、東洋モスリン、東京モスリン、松井モスリンの6工場でありすべて繊維工場である。
d)一次大戦と江東工業地帯
第1次大戦前の日本経済は、輸入超過と外国からの借金の返済に追われて苦しんでいました。1922年10月、東京モスリン亀戸工場は事業不振のため職工1100人を解雇し、争議となった。
このとき、1914(大正3)年7月、第1次世界大戦がおこった。ヨーロッパ諸国が激しい戦争のため、アジアを顧みる余裕がないのをねらって、日本は中国、インド、オランダ領インドネシアなどに進出した。また連合国からの軍需物資の注文が加わって、日本経済は空前の活況を呈した。
江東地区でも、それまでの紡績業、製粉業、精糖業などの軽工業に加えて、製鋼、機械、化学などの重化学工業が盛んとなった。また浜田精機、田原製作所、東京亜鉛鍍金、増島製作所、松尾僑梁など、多数の機械工場が亀戸、砂町などにつくられた。
化学工業では、大島七丁目の中川に沿ったところに、日東化学ができて、硫酸、過燐酸石灰など化学肥料を生産した。
鉄鋼業では、1912(大正元年)年、日本鋳鋼が17年には、大島製鋼(後の日出回製鋼)が、東京鋼材(後の三菱鋼材)が大島町に、21年には砂町に宮製鋼所(後のたかさご東都製鋼、トピー工業)が、23年には大島町に高砂鉄工大島工場が設立された。
機械工業では、京橋の佃鳥にあった久原房之助の東京佃島機械製作所が一九一六年仁工場を亀戸に移しました。これが後の日立製作所亀戸工場である。
石川島造船所は、大戦中の造船ブームに乗って、10年には同社の最初の輸出船として3200トン級三隻をアメリカに輸出しました。同年、深川分工場をつくり、貨物自動車の製造をはじめた。これがいすず自動車の前身となった。
南葛飾郡は、1922年と25年の東京全体の工業生産額中、約20パーセントを占めた。この葛飾郡の中でも、亀戸、大島、砂町の人口が約3分の1をもっていることからも、江東区の中で、この三地区が江東工業地域の中心になっていたことがわかります。この地域は、東京市民への野菜や魚介類を提供する地帯から、工場群の林立する工業地帯へと確実に移行したと言える。
4)住民運動との関わり
a)「貧窮民屯集」事件
江戸幕府の崩壊の要因の一つに1966年(慶応2年)から日本各地に発生した百姓一揆と打ち壊しが世直し運動に発展したと指摘されるが、1866年9月に本所と深川から始まった「貧窮民屯集」という事件が起こった。
「「飢渇ニ堪エ難キ」貧民たちが申しあわせて、亀戸天神、霊厳寺、本所回向院の境内に土の竈をつくり、大釜を借りだし、近辺の富家や武家屋敷にでかけて、米、塩、味噌から薪まで貰いうけ、粥にして食べました。」
「各所で貧民が屯集し、神社や寺院の境内には四百、五百人と群衆し、浅草では幟をおしたてて市中を行進しました。貧民は群をなして貰いうけた米、味噌、薪を車に積み、寺社の境内に持ち帰って大釜で大粥を炊き、啜りあいました。」
「この運動の特色は、打ちこわしと違って、暴力を使わずに、多数で生活の難渋を申しでて物を借りうけたことです。役人が出向いても、何ら乱暴をしていないので逮捕することもできませんでした。」とある。
この事件は10日間ほどで静まったが、勝海舟はこの多数の群衆に対して松平慶永宛の書簡で、「下民一時の蜂起も計りがたく、人心の離散は日に見え、是は尤も恐るべきこと」と書いており、その2年後、江戸市民の蜂起の再現を恐れて、西郷隆盛との間の江戸無血開城に繋がったと言われている。
b)浅野セメント粉害事件
「深川や灰が降るとて鳴く蛙 春城」
この深川の蛙の上に降る灰とは、深川区清住(現清澄)にあった浅野セメント工場の煙突から吐きだされる煙である。この浅野セメント公害は、日本の都市公害の第一号だった。浅野セメント公害問題は、足尾鉱毒事件と並ぶ大きな公害問題として社会の注目を集めました。
1911年浅野セメントの公害は深川区民との全面対立となり、大きな社会問題となった。11年3月深川区東元町の石井電気館でひらかれた「降灰問題演説会」には、聴衆が定刻前から押しよせて満員となり、入場をことわる程の盛況でした。演題は「浅野セメント会社の撤退は同家の急務なり」「セメントの財産と沿革に就いて」「義人田中正造を想う」「青年団に嘱望す」などだった。
その後31人ら住民代表が代議士を通じて「浅野セメント合資会社粉害事件ニ関スル質問主意書」を内閣総理大臣桂太郎に提出し、浅野セメント工場の存立は「東京市ノ公益ヲ害スル以テ、速ニ之ガ作業ヲ禁止スベキ必要」があり、「人家稠密ナル帝都ヲ離レ辺廠ノ地ニ移転」せよというものだった。
深川青年団はこの運動の中心になって活動し、当局もこの住民運動のもりあがりを無視することができなくなり、政界、実業界の有力者を仲裁人として問題の解決にあたらせることとし、同年3月浅野セメント会社は、1916年末までに深川工場を撤廃するとの契約書を、深川青年団との問で結びました。これは住民の大きな勝利だった。
その後1914年始まった第一次大戦の資材不足で移転延期となり、アメリカで開発された電気集塵機による粉塵解決が可能として、残留営業を申し入れ、1917年(大正6年)12月区民代表らが集塵装置の実績を検分し、区民側もその集塵装置の性能が優れていることを認め、先の撤退契約書を破棄することにし、ここに浅野セメント公害問題は解決をしたという。
c)米騒動と江東
1914年(大正3年)に第1次世界大戦がはじまると、物価は飲食費・光熱費・被服費をはじめとして急騰し、1917年には、生計費総指数が1914年の約2倍になり、民衆は物価高にあえぎ、大戦景気も、資本家たちの懐ろを潤しただけだった。
物価を押しあげる中心は米価であり、米価をとりしきっていたのは、深川佐賀町にあった深川正米市場だった。1石あたり平均16円だった米価は、1917年春から上がりだし、18年には更に急騰し、7月には30円にも達しています。小売価格は一升(1石は100升)50銭となった。一世帯(平均四・五人)で1日1升以上は消費することから、日給1円(100銭)の人は、米代だけで給料はなくなる事態になった。
東京では、8月13日午後七時過ぎ、800人の民衆が日比谷公園に集まり、8時には民衆が1500人に達し、日本橋からわかれて一部は深川にむかいました。深川の米穀取引所が標的となった。
米価急騰は、米不足ではなく、1918年8月のシベリア出兵をあてこんで、米商人は米を数十万俵と買い占めて、その値上りのもうけをもくろみ、深川の米倉庫にはうなるほどの米が貯蔵されていました。他方、貧しい人たちはその日の米も買えずに苦しんでいた。多数の民衆は、国民の苦しみをよそに、米を買い占めて、暴利をむさぶろうとする大商人を憎んでいました。深川でとくに憎しみの的となったのは、佐賀町に店をもつ「鈴弁」とよばれた外米商鈴木弁蔵でした。
西平野、扇橋、洲崎の3警察署が永代橋に警戒線を敷き、軍隊1個中隊と憲兵隊および在郷軍人会深川分会が米穀取引所に出動しました。とくに岩崎、木村など各商店には巡査十数人が配霞されました。
日本橋から深川に向かった民衆は、洲崎行市電を破壊したが、警戒線にはばまれて永代橋を渡ることができずに引きかえしました。当時高橋にあった八十軒程の木賃宿の貧民たちも、手に小石をもって佐賀町に向かったが、厚い警官隊の垣畑にはばまれた。米騒動の年、富岡八幡の祭礼は延期された。
5)労働運動との関わり
a)労働組合の結成
当時の紡績工場の労働者は12時間労働の昼夜交代制で、昼は朝6時から晩6時まで、夜業は午後6時から翌朝の6時までであった。
1899年(明治32年)年頃の平均賃金は、男工が日給24銭、女工が14銭でした。これから食費の8銭を引かれます。女工の約半数が勤続年数1年未満です。これは肺結核などの病気で会社をやめさせられたためでした。
深川東大工町の東京紡績には1843人の女工が働いていましたが、20歳以上は558人で、1285人が20歳未満でした。今では小学校や中学校に通っている14歳未満が1276人、全女工の過半数を占めています。この14歳未満の女工のうち、949人は寄宿舎に入れられて、外出も許されず会社にしばりつけられました。
日本で労働者が労働組合を結成し戦いに立ち上がるようになったのは、1897年に高野房太郎が「職工諸君に寄す」という文書で労働組合の必要性を説き、片山潜とともに結成した機関誌「労働世界」をもつ「労働組合期成会」でした。
このよびかけに応えて1897年12月につくられたのが、「鉄工組合」であり、東京紡績をはじめに本所深川の工場で働く労働者は第6支部として結集し、翌98年には、石川島造船所労働者が、鉄工組合の第16、20、21支部を結成し石川島の支部は、片山潜の指導で「共働店」(今の生活協同組合)をつくり、米、味噌、時両日州などの日用品を労働者に安い値段で提供しました。
b)普通選挙法運動へ
1900年「治安警察法」をつくり、第17条で労働組合の結成と争議行為を禁止しました。このような労働運動への弾圧法が帝国議会で制定されたのは、選挙権が金持にだけ与えられて、当時の労働者に選挙権がなく、議会の代表が資本家や地主で占められていたからでした。そこで、労働者にも選挙権を認めよという普通選挙運動がきかんになり、全国的な組織の中心として、普通選挙期成同盟会が結成されました。
東京の普通選挙運動の中心になったのは、深川区理髪業組合の人たちでした。池田清次郎らは、1900年11月、深川公園内の茶屋で総会をひらき、組合をあげて普通選挙期成同盟会に加盟することを決めました。
1900年10月、永代橋ほとりの永代亭で普通選挙講演会を開催し、大井憲太郎、片山潜、幸徳秋水、木下尚江らが弁士に立った。労働組合とともに普通選挙運動で深川の労働者は、先駆的な運動をすすめていた。
(未完)
by inmylife-after60
| 2018-08-29 10:38
| 歴史認識・歴史学習
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