2019年 02月 05日
特別展顔真卿——王羲之を越えた名筆 |
「特別展顔真卿——王羲之を越えた名筆」参観記
本日、上野東京国立博物館で開催されている「特別展顔真卿——王羲之を越えた名筆」を見た。
【「顔真卿展」参観の動機】
王羲之は三国時代に成立した楷書の第一人者の書道家として有名だが、顔真卿(しんきょう)の名を聞くことがなかった。しかし中国のネットサイトでは、唐代の政治家であり、書道家である顔真卿の直筆原本「祭姪文稿」が何故いま日本に展示されるのかを憤る投稿が多数寄せられていること、この直筆が、抗日戦争後の国共内戦で敗北した蒋介石国民党軍が北京紫禁城から重慶を経由して台湾に移送した台北故宮博物館所蔵であり、台湾でも十年に一度しか展示されることのない作品であること、しかもその内容は、若くして科挙に及第し、生涯に渡り唐代の歴代皇帝に忠君を捧げた人物として、歴代皇帝の間で受け継がれてきた書であること、この直筆を見たいがために、訪日する中国人もいることなどから、どのような人物のどのような作品なのかに関心をもったからである。
【「祭姪文稿」の記された経緯】
唐代の六代皇帝玄宗時代の安史の乱は、顔真卿が47歳の時に起きた。当時の朝廷は、玄宗の后:楊貴妃の一族に簒奪されていたが、節度使である軍閥安禄山と史思明らが楊貴妃一族の宰相の楊国忠らを打倒する反乱が始まった。宰相の楊国忠に憎まれ、左遷された平原(山東省)の太守(知事)であった顔真卿は、安禄山の反乱に備えて、平原の防衛を固めて、安禄山派の挙兵に義軍をもって抵抗し、これを撃破したという。
河北の各地が安史派に制覇されるなかで平原と300キロ離れた常山を防衛していたのが、顔真卿の従兄であった顔杲卿(こうけい)であり、その連絡係が顔杲卿の末子である顔秀明(しゅうめい)らであった。太原に通じる軍事的要所である「土門」を首尾良く奪回に成功した顔杲卿に対して、王承業はこれを手柄として横取りを画策する。すかさず反攻に転じた史思明は、顔杲卿を劣勢に追い込み、顔杲卿は王承業に援軍を求めたが、救援軍を送ることはなく、常山城は六日にして糧秣が尽き、一万余りの城兵は惨殺された。顔杲卿は「わが方に降れば、子の命を助命する」との誘いを拒否したため、顔杲卿の末子:顔秀明は父の前で惨殺され、顔杲卿は洛陽に連行され、すこしずつ肉を切り落とされる「凌遅刑」で惨殺されたと言う。
蒲州刺史となった顔真卿は、数奇な経緯を経て生還した顔杲卿の長子:顔泉明を常山に派遣し、顔杲卿と顔秀明の遺体を蒲州に移送したが、顔杲卿の遺体には舌と脚が一本欠け、顔秀明は僅かに首だけであったという。
「祭姪文稿」は、50歳となった顔真卿がこの顔秀明の死を悼む234文字の祭文の草稿である。
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乾元元年(758)、戊戌の年の九月庚午朔、3日壬申、第13番目の叔父で、銀青光緑大夫、使持節蒲州諸軍事、蒲州刺史、上軽車都尉・丹楊縣開国侯の眞卿が、酒食をお供えし、亡き姪で、朝廷から賛善大夫の官職を追贈された李明の霊魂をお祭りいたします。
お前は、ぬきん出た資質をもってこの世に生まれ、幼い頃から才徳をあらわし、我が顔氏一族の俊英として、朝廷で活躍するであろうと、常に人々の心を喜ばせており、究極の出世が約束されていました。
なのに、逆賊・安禄山が隙をうかがい、兵を挙げて反乱を起こすなどとはどうして予想できたでしょう。
お前の父、杲卿(こうけい)は、皇帝陛下に忠誠を尽くしていたため、常山群の太守(知事のこと)を拝命しており、私もその時、陛下の命を受けて、平原の太守として任地におりました。
杲卿仁兄は私を大切に思って下さっていたので、お前に伝言を持たせて私のもとによこし、お前が戻ると、力をあわせて要衝の土門閑を敵から奪回し、この土門閑が解放されたことにより、逆賊どもの勢いは大いに弱まったのです。
ところが、不忠の臣・王承業が援軍を出さなかったばかりに、杲卿が守っていた常山の城は孤立し、包囲され、父は捕慮となり、子は死に、あたかも巣が傾き、中の卵がくつがえるかのようになってしまいました。
この禍が天のあずかり知らぬところのものであったなら、いったい誰がこの苦痛を与えたのでしょうか。
お前が、こんな残酷な目にあったことを思うと、百度身代わりになったとしてもどうしても償えましょう。ああ、悲しいことです。
私は皇帝陛下の御沢を受け、転任して同州、次いで捕州の刺史となりました。お前の兄の泉明が近ごろ常山に訪き、お前の首を納めた棺を携えて戻ってきました。
お前があまりにも可哀想で胸がはりさけ、心も顔もふるわせつつ嘆きいたんでいます。しかるべき日を待ち、しかるべき所にお前の墓を設けましょう。霊魂となったお前がこのことを知ったなら、よるべない身を嘆くこともなくなるでしょう。
ああ、悲しいことです。どうかお供え物を受け取って下さい。
「芸術新聞社「墨」第127号(1997年)の記事より」
by inmylife-after60
| 2019-02-05 17:51
| 歴史認識・歴史学習
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