「転換期の歴史教育と東アジアの歴史対話」を読む |
岩波書店「世界」3月号に油井大三郎の「転換期の歴史教育と東アジアの歴史対話」と題する論文が掲載された。
この論文は、2022年度から開始される高校における歴史教育において近現代の世界史と日本史を統合した新科目「歴史総合」が所期の目的を達するために何が必要かを論ずるものである。
このところ、日韓に関わる歴史認識(慰安婦)や戦時賠償(徴用工)判決を巡り政府間のコンフリクトが高まり、日韓関係は「戦後最悪」とも言われ、その行き先が懸念されている。
そのような関係のなかで、新たな歴史教育に関する取り組みとしての「歴史総合」への評価とその実現に関わる課題を提起し、今後の東アジアにおける歴史教育と歴史対話の方向を明示するものとして、有益だと感じたが、東アジアの和解はアメリカへの従属性から脱して、自律的外交政策を樹立する政治的潮流を形成することなしに和解を実現することはできないことを痛感した。だからこそ日中韓に関わる対話を推進することが不可欠だと感じた。
筆者の論点は以下の通りである。
1) 「世界史と日本史」の断絶
戦後日本の歴史教育の先駆者の上原専禄の講演「世界の動きに触媒されない、あるいは、世界史の形成に参与しない、あるいは世界史の動きから絶縁されたような民族史は絶無」と1957年に主張したとして、世界史と日本史の二本立ての教育の弊害を指摘する。
その事例として、双方の教科書の差異を比較し、①第一次世界大戦とその後の国際紛争の平和解決をめざす新外交政策に関する記述、②日米開戦に至る経緯における「太平洋憲章」に関する記述を取り上げ、両大戦をどのように教えるかは、歴史総合が一国史的枠組みを超えて対話を開くために重要な点であると指摘する。
2) 歴史総合の可能性
新科目「歴史総合」は、これまでの通史ではなく、「近代化」「国際秩序の変化と大衆化」「グローバル化」の3つの大項目に沿ったテーマ史として叙述され、各大項目は、「知識の学習」と「思考力・判断力・表現力」を両輪として位置づけ、本文と関連する資料に対応した「問い」を提起し、生徒が「考え、表現する」ことを重視し、指導要領では、上記の4つの要素を繰り返してその教授法が説かれているという。
同時に問題として、暗記教育しか経験のない教員に対する研修と十分な教育指導が実施できるかどうかとともに、問題として以下の2点を指摘している。
① 18世紀以降の近現代とその前史との関係が明らかにされていないこと。
② 先の大項目の3つのテーマ(「近代化」「大衆化」「グローバル化」)との関係では欧米中心の歴史教育になる危険性があること。
これらの弊害に陥らないために、東アジアの近現代史を中心とした「歴史総合」を構想した方がよいとする。
3) 東アジアを軸とする「歴史総合」の開発
近代化が何故植民化に結びついたのかという明治維新の結末に関する評価は、西欧列強による植民地収奪とともにアメリカの新天地開発の先住民族の駆逐と奴隷導入の評価にも繋がる共通するテーマでもあり、東アジアという場から、このテーマに迫る意味と価値は大きいとする。
その取り組みとして1990年代以降の日中韓の民間レベルの歴史対話の蓄積の上に、2012年から韓国で始まった選択科目「東アジアの歴史」に注目すべきだと言う。
この教科書のコンセプトとして、東アジア(日中韓)は、「日増しに密接になり、その相互依存性が高まったに」も関わらず、多くの対立を解決しなければならない問題を抱えており、これをどう解決し、未来を設計できるかにあると言う。
第6章は「東アジアの摩擦と和解」と題され、この間の日韓に関わる問題を取り上げ、「竹島(独島)」問題に関して日韓双方の主張」を併記しており、日本の指導要綱にいう「多面性・多角的考察」に合致するという。
4) 対話の接点としての「1920年代」評価
日中間に関わる歴史認識として、1920年代の幣原外交を評価する論評もあり、国際協調外交を評価し、満州事変以降の30年代を反省する姿勢を通じて、日中間の歴史和解にアプローチできる可能性をもつという。
また日韓の和解でいえば、日韓併合自体の「形式的合法性」を主張する政府の姿勢は、韓国民からの心からの和解は不可欠であると言う。
結語:いずれにせよ「歴史総合」の作成を東アジアの近現代史に重点を置いて、世界史と日本史を統合し、将来を担う若者が共存可能な東アジアの担い手に育つような機会とすることを期待したい。
5)私の読後感
歴史教育と歴史対話と日中韓の交流の促進に関する提案は大賛成である。この指導要綱通り日本における授業を実現してほしいと思う。
一方で、安倍政権が発表した安倍談話は、「侵略」を「力の行使」に置き換え、他方で「事変、侵略、戦争、いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争の解決する手段として、もう二度と使用してはならない。植民地支配から永遠に決別し、すべての民族の自決の権利は尊重される世界にしなければならない」と言う二面性をもつ。
ところが、現状は、辺野古に頑なに米軍基地建設を強行し、対中国包囲のために、西南諸島(与那国島、宮古島、石垣島など)に自衛隊基地を建設し、米国領ハワイとグアムへの北朝鮮の大陸間ミサイル軌道上にある秋田市と萩市演習場へのイージス基地を配備し、敵基地攻撃に有効なトマホークを配備し、護衛艦「いずも」を空母化するなど、2015年以降に行われている施策は、2015年「70周年談話」の「いかなる武力の威嚇と行使は使用しない」とする主旨に著しく背反する。
同時に日本の、国民国家としての独立と自己決定権を米軍に依存する実態は、日米地位協定をみるまでもなく、米軍基地は、日本の法令外にあり、まさに治外法権下にある。このような国をもって「すべての民族の自決の権利は尊重される世界」とするという言説もありえないと思う。
日本政府は上記の姿勢を見直さない限り、日中韓の政治的和解は永遠に実現できないと思う。