2019年 04月 09日
大連・旅順・哈爾浜・長春・瀋陽・撫順を訪ねて |
大連・旅順・哈爾浜・長春・瀋陽・撫順を訪ねて
〜2019年春満州史跡スタディツアー企画・訪問記〜
1 はじめに
昨年7月頃に友人の満州に行きたいという要望を聞き、2015年夏に大連にある遼寧師範大学の短期留学時の週末に訪問した、哈爾浜(2泊3日)、長春・吉林(2泊3日)、瀋陽・撫順(2泊3日を二回)、旅順(日帰り2回)の経験をベースに、11日間の旅程で企画案を作成したのは、昨年8月はじめだった。周辺の友人に声をかけたところ、4名が参加することになり、8月25日に新宿で全員が集まり、訪問施設を日本の近代史の歴史認識にかかる史跡と世界遺産として選定した計画の概要を説明、了解を得て、9月11日に東京〜大連間の航空券を予約した。後戻りできない満州史跡スタディツアー企画がスタートした。
これまでの個人ベースの観光旅行とは異なる対応を以下の通り準備した。
1)プール金の導入
今回は、参加者が私を含めた5名ということを想定して、複数の施設を遅滞なくスムーズに訪問する手立てを考え、手配しなければならなかった。すくなくとも以下の点を配慮することが不可欠であった。
①言葉の問題を含めて5名がそれぞれ支払い決済するのはとても面倒であり、時間がかかりすぎること。
②入場料は年齢で半額、無料が決まり、不公平感が否めない。平均化した方がよい。
③タクシーの場合、2台に分乗することに伴い、経路などの違いで、支払い代金が同一にならないことから、これを是正することが必要であること。
④現地経費の明細と総額のコントロールが必要。
そこで、今回初めて「プール金」制を導入することとした。これは、2回参加した歴教協の南京高校との授業交流企画旅行もこの方式で総額と費用支払いを管理したことをふまえたものであり、上記の問題を解決する方法として提案、了承をえて、会計係を決めて、一元管理することにした。
そのために、事前振込をお願いした航空券、高鉄旅費、宿泊費以外の現地費用として、朝食・昼食・夕食・移動費(タクシー、地下鉄。バス)・入場料の予算を設定し、それに共通費用以外の個人出費やお土産などを想定した総額(一人当たり4万円)を現地にて両替し、会計責任者に一括預託することにした。このプール金から、各自に600元を渡し、個人出費やお土産などに使って頂いた。後日会計係から、日別、分類別費用一覧を提出頂くことにした。
2)2台のタクシーのハンドリング
今回は参加者が5名ということで、厄介な問題として、2台に分乗するタクシーのハンドリングがあった。ご存じのように、中国のタクシーは4人乗りであり、これは不可避の対応であった。
そのため中国語のわからないグループになった3人には掴まえたタクシーの運転手に目的地名称と住所を書いたメモを渡し、その場で運転手に確認して出発してもらうことにした。
3)周辺都市の複数施設訪問への対応
今回の旅程管理との関係で一番、厄介な問題は、宿泊都市から離れた都市への複数施設訪問への対応であった。大連から旅順・瀋陽から撫順という2つ都市への訪問である。2台のタクシーをタイミングよく掴まえ、訪問施設間を遅滞なく移動するのは、事実上無理であった。すくなくとも5人が同時に移動する手立てを講じなければならない。
そこで、今回は、ホテルにその手当をお願いし、大連のホテル所有のマイクロバスで旅順(訪問箇所6ヶ所)を1日1000元で手配して頂くことができたが、瀋陽のホテルは、マイクロバスを所有しておらず、撫順(訪問箇所4ヶ所)はタクシー2台による訪問(1台600元)となった。
費用的には高くなったが、上記問題をクリアーするにはやむを得ない。
2 旅程順訪問記
1日目(3月25日):成田から大連
成田発全日空便で大連へ。全日空便はすべて自動チェックインであり、また預託バゲージのタグも同時にプリントされた。しかし、搭乗券のプリントアウトはわかったが、バゲージ用タグもプリントアウトされることを思っていなかったのっで、忘れてしまい、慌てて取りに戻ったが、自分以外のタグも溜まっていたので、忘れる方が多いと察した。
ほぼ定刻に到着し、市内行きタクシー乗り場にいく路上で、白タクが150元でいくというので100元だったら乗ると言った。最終的に120元にすると言うので、乗ることにした。ホテルは大連駅まえの大きなホテルだったが、確実にホテルに同時につくにはやむを得ない。
しかし、ホテルフロントに着き、チェックインをしようとして、ズボンの右後ポケットにいつも仕舞ってある日本の財布がないことに気づいた。服及び携帯ポーチ、バゲージを探したが、見つからず、あの白タクの助手席で落としたのだと察した。しかし領収書も、タクシーのナンバーもわからないので、放棄するしかないと諦めるしかなかった。
とりあえず、チェックイン処理を済ます。補償金を1200元支払い、部屋をアザインし、各自部屋に入り、各部屋のファシリティ上の問題(WIFI,トイレ、テレビなど)を点検していたら、部屋の電話が鳴った。何だろうかと手にすると、タクシーの運転手が財布を届けにきたというフロントからの連絡であった。
すぐに降りてフロントに向かうと、件の白タクの運転手が立っていて、フロントデスクには私の財布がおかれていた。現金は6千円位だったが、銀行カード、クレジットカードなどがあり、手続きを家内にメールでお願いするしかないと思っていた。運転手に感謝のことばとともに御礼として100元を渡した。大連での最初の行動でこのトラブルが起こり、参加者も行く末に不安を募らせたに違いないと反省していた矢先に予期せぬ幸運が起こったのである。以降後ポケットはテッシュを詰め込むことにした。
その後、プール金手当の不足分の両替とともに大連駅で予約済みの高鉄の実券を入手したが、731部隊旧跡にいく列車はもうないと購入することができなかった。
ホテルに戻り、明日の旅順行の手配をお願いする中国語を書いて、フロント職員に渡した。営業マネジャーを名乗る金さんという方が対応してくれた。すぐにOKと返事が返ってきた。運転手付きで一日1000元だという。本日の二度目のラッキーであった。
その後フロントに集まり、全員で市内地下街、新華書店、現地百貨店などを訪問し、フロントに勧められた中華店で夕食をとった。
2日目(3月26日):大連から旅順
今日は、旅順への1日旅行。ホテル所有の15人前後の乗れるマイクロバスに乗車して、旅順に向かう。
旅順と大連を一括して「旅大」と呼ぶが、大連市内から旅順への鉄路は統合されておらず、路面電車、高架鉄道に分断され、尚かつ高架鉄道は、旅順市内にはバスかタクシーに乗るしかないとても不便な状況にある。従って殆どの人は、大連北口広場から発着する路線バスを最も便利な手段として使う。
大連から旅順までは、高速道路が整備されていて、海上をいく上下二段(一方通行)の専用道路が開通していたが、朝のピークもあり、1時20分かかり、万忠墓祈念館に到着した。しかし運転手から今日は休みだと告げられた。
今日は火曜日である。通常中国の歴史記念館や博物館は月曜日が殆どであり、火曜日とは意外であった。二日間かけて訪問する日程は組めないので、諦めるしかない。またしても、参加者の期待に水を掛ける不手際となってしまった。以降の参観予定の博物館をチェックしたが、他はすべて無休か月曜日であった。
万忠墓祈念館は、日露戦争で起きた日本軍と憲兵隊による2万人も上る中国人が虐殺された事件の紹介と犠牲者を慰霊する施設である。さらに当時仙台の東北大学医学部に留学していた魯迅は、この虐殺事件に関するスライドのあるシーンを教室でみて、中国にいま必要なのは、医術でなく、心術であるとして、医師ではなく、文学者の道に進路を変更したという。そのシーンとは、日本軍兵による中国人の惨殺を笑って傍観する中国人の姿であったという。魯迅は、生涯100に及ぶペンネームをもつ中国有数の作家になり、中国の封建制からの脱却と民衆の人格形成に大きな役割を果たした。
しかたなく、計画にない「白玉山」にいく。ここは日露戦争の旅順口を巡る争奪戦の激戦地であり、終戦後日本軍がここ白玉山山頂に戦死した日本人の慰霊碑を建立したものである。眼下に旅順港が一望できる。靄がかかっていたが、中国軍艦船を捉えることができた。
日露旅順監獄旧跡
次に日露旅順監獄旧跡に向かう。ここは哈爾浜駅構内で安重根が伊藤博文を暗殺し、逮捕後に収監され、処刑された監獄である。当日なぜか館内で韓国KBSクルーが取材活動をしており、安重根に関するインタビューを求められたので、自分の評価をのべた。つまり安重根は、明治天皇のことばを素直に評価し、朝鮮の保護国化は、韓国人の開放のためと理解したが、伊藤はその天皇の意図を理解せず、朝鮮を隷属国化する悪漢であると捉えていたことである。しかし、現実には、伊藤は韓国併合には消極的存在であり、彼はそれを見誤った可能性があると思うと述べた。KBS通訳がどの程度理解したかはすこし心許ない。
現在、順監獄旧跡には以前訪問した際にはあった「処刑場」と「安重根陳列館」は公開されていなかった。改装中とのことであったが、真相はわからない。
その後、運転手推薦の中華料理店で食事後、旅順駅を見学後、関東軍司令部旧跡にむかう。ここは旅順博物館の裏手にある建物だが、残念ながらまだ閉館のままであった。万忠墓祈念館に続く2連敗である。建物には2019年末には開館の予定と記されていたが、改装を伺わせる雰囲気はまったくなかった。
その後、日露戦争の激戦地203高地と乃木将軍とステッセル将軍の会見場である水師営面会所跡地を見学した。面会所跡地は、1966年文化大革命の際に破壊されたが、その後再建されて、現在にいたる。前回行った時と同様改修されておらず、旧跡にふさわしい古びた建物である。会見所にいた通訳の女性から、ここは日本人しか訪問しない施設で、なかなか修理改修する予算もなく、大変苦しい状況だと言う。会見した部屋には、満鉄時代の所縁の展示があり、そこに1916年満鉄製という直径5センチほどの球形の懐中時計があったので、カンパだと思い、購入(600元)した。ゼンマイ式だか、いまでもしっかり動いている。ホテルに帰る途中、旧日本人街とロシア人街を散策した。
夕食は、ホテル近くで見つけたセルフ式焼き肉、海鮮の食べ放題、飲み放題の食堂で食べた。ここは入店の際に前払いで一括料金を支払うのだが、60歳以上は半額だという。まさか、そういう仕組みとは知らず、2名はパスポートを持参せず、その恩恵に浴することはできなかった。会計報告によれば、5名で435元(一人87元・1500円弱)であった。飲み放題で残量のある白酒とマオタイ酒は持ち帰れるかと聞くとOKだと言う。人気があるらしく若者や若い家族ずれが多かった。
3日目(3月27日): 大連から哈爾浜
今日は大連から長躯哈爾浜にむかう。満州平原のほぼ半分の約1000Kmを最大時速300km、4時間半爆走する。
漸く哈爾浜西駅に定刻到着。直ちに地下タクシーターミナルからホテル(哈爾浜龍达時代酒店)に向かう。タクシーのなかで「高徳地図」(検索ソフト名)で調べると「(装修中)」とあり、すこし不安を持ちながら、ホテルの住所に近い地点付近に到着した。やはり工事中の様子で、正面玄関前はトラックで塞がれており、工事関係者が作業にあたっていた。「中に入れるか」と聞くと「ダメ」だという。「誰かいるか」と聞くと「なかに誰もいない」という。直ぐにホテルの電話番号に電話したが、繋がらない。改装中でもなかに別の受付があり、何らかの案内人がいるのではないかとの期待は全く裏切られた。寒さと空腹からまずはWIFIのある食堂を探した。近くの麺専門店にはいり、うどんを注文した。
まずアゴダの日本語サービスデスク(国際電話扱い)に電話する。電話にでた田中さんに、「いま御社から予約し、予約確認を頂いているホテル付近から電話しているが、現在改装中でホテル関係者は不在、電話も繋がらない。どうなっているんだ!」と詰問した。「直ちに代替ホテルを予約して、こちらに連絡しろ」と怒鳴った。30分位待ったが、連絡が来ない。仕方ない。この付近にある一番ちかいホテルに電話して、ツインルーム3室を確保することにした。幸いにも「天天濱館」という歩いて3分もかからないホテルを予約できた。
ここはなにかあるかわからないと思い、所在と部屋などを確認するためにまず自分で行ってみることにした。グレードは下がるが、背に腹は代えられない。麺専門店に戻るとアゴダから連絡があったらしく、ホテル代金の全額戻し、謝罪としてホテル代金相当分の現金戻し、駅からホテルへの移動及びホテル間移動に関する実費はアゴダポイントで支払うとの提案があったという。帰国後アゴダと再確認をして、交渉することにした。(交渉結果は巻末参照)
ホテルチェックイン後に哈爾浜駅構内にある安重根記念館に向かう。哈爾浜駅中央の左側にあるので、哈爾浜駅で待ちあせて見学する手はずであったが、哈爾浜駅に到着して、まず哈爾浜駅(南口)前が大規模な改修工事中であり、しかも、以前あった「安重根記念館」がなくなっていたことがわかった。構内に入り、係の方に聞くと3年前になくなったという。記念館がどこに移転したのかどうかもわからないという。
仕方ない、相方グループの到着を哈爾浜駅の仮設ブリッジの最上部に止まりまつことにしたが、30分経っても到着しない。携帯電話とメールでも連絡が付かなかった。反対側に行くのには東西側に歩いて20分以上かかると思われる二つのルートがあり、行き違いになることを恐れ、駅前にある「李先生」(簡易食堂の全国チェーン)で待つことにして、交代で哈爾浜駅仮設ブリッジ上に待機することにした。
それから15分程して「李先生」で3人に再会することができた。哈爾浜駅の工事と廃館は想定外とは言え、哈爾浜駅の集合地点(せめて南口か北口)を明示・指示しなかったのが失敗のすべてであった。誤算に失敗が重なり、2時間程貴重な時間を喪失した。(「安重根記念館」に関することは、巻末に後日談あり)
その後中央大街に向かった。
4日目(3月28日):哈爾浜
今日は、本命の731部隊罪証陳列館にいく。前回の訪問時にはまだ完成しておらず、ブルドーザー越しでも陳列館の全景をみることができなかった。以前とは入り口が別に設置されており、メイン通りに面した位置に変更されていた。そこから入館した。
731部隊とは日本陸軍直属の関東軍防疫給水部本部を指す。資源の乏しい日本が、ジュネーブ議定書(細菌戦禁止)違反を承知で侵略戦争に勝つための手段に不可欠と判断し、天皇の裁可命令のもとに設立され、中国各地に支部をもつ細菌兵器の開発、人体実験、生体解剖、動物実験を行う部隊として、大規模な細菌戦を実施し、中国人のみならず日本兵に多くの被害を与えた細菌戦部隊の本部であった。
部隊本部長石井四郎はソ連参戦と同時に証拠隠蔽のため関東軍に研究実験施設及び関連施設の全壊及び人体実験用マルタ(人体実験に使う中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人らを指す隠語)の処分(虐殺)を要請・実施し、所員に対しては、部隊にいたことを絶対に他言してはならず、また知り得たことは絶対に漏らさず、死ぬまでこの情報を話すなと厳命し、満鉄の特別仕立ての列車で731部隊の資料を持ち出し、朝鮮経由で日本に移送したという。
米国は、戦後直後から細菌戦に関わる人体実験データ入手との交換条件に極東裁判の戦犯訴追を行わず、731部隊関係者の日本における安全を確保する措置を執ったという。
陳列館では15元で日本語の案内機器の貸し出しサービスを提供している。この内容はとても充実しており、参考になった。これを全員に音読し、紹介することができた。参加者から、展示施設にあった数字が増えていく電光掲示板の案内は何を示していたのかがわからなかったという質問があり、併せて日本語版の小冊子を頂くために再度入館し、中央カウンターを訪れた。数字はここで亡くなった人体実験を含めた犠牲者の数を表しているとの説明をうけた。
その後、受付職員が日本に興味があるらしく、日本の給与体系や退職金や老後年金に関する質問をうけることになった。筆談を含めて大卒給与などを話したら、自分の給料は1ヶ月2000元(日本円で約34000円)でありとても低いのだと言う。年内に日本に行く(観光らしい)ことを考えているという。市内に戻るために一番近い地下鉄駅とそこにいく下車停留所(新中新集団)を教えて頂き、陳列館をあとにした。
市内に向かう地下鉄「哈南駅」の側で昼食をとり、聖ソフィア大聖堂へ向かった。
しかし、聖ソフィア大聖堂も改装中で館内の展示をみることができなかった。再び昼の中央大街を北上して、防水記念塔と凍結した松花江などスターリン公園の一部を見学して、夕食は中央大街の華梅西餐庁でとり、ホテルに戻った。哈爾浜は実に敗戦の連続であった。
尚731部隊に関する展示内容の詳細は別途報告したい。https://inmylifeao.exblog.jp/30596545/
5日目(3月29日):哈爾浜から長春
今日は、哈爾浜から長春へ。ホテルから偽満皇宮博物院にむかう。
日本は、1932年3月元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする「満洲国」を傀儡政権としてデッチ上げ、長春を首都とし、新京と改称した。
ここ偽満皇宮博物院はその傀儡政権溥儀の執政公邸と皇居の旧跡である。溥儀は1934年3月満洲国皇帝:康徳帝となり、清朝時代に2度(1908年第12代清朝宣統帝と1917年:張勲復辟による復位:10日間)即位し、この「満州国」の即位と併せると3度即位したことになる。
宮内府敷地内に仮宮殿建設された東洋式外観の仮宮殿は、相賀兼介が設計を担当し、戸田組が施工を担当。1937年施工1938年末に竣工し「同徳殿」と命名されたが、関東軍の盗聴を恐れて溥儀自身は使用しなかったという。
博物院には、執務室などの公邸と私邸、溥儀の数奇な生涯を描く展示とともに「満州国」当時の行政府や関東軍司令部などの写真が展示させており、往時の雰囲気を感じることができる。
しかし、ここから東北地方陥落歴史陳列館へ行こうとしたが、この建物区域は、現在改装中であり、公開していないことがわかった。また公開予定に関する情報も掲示されていなかった。この陳列館は満州事変以降の満州国のながれがよくわかる展示館であったことから、偽満皇宮博物院より学ぶことが多いと判断していただけに非常に残念であった。
急遽訪問予定になかった「長影旧址博物館」にむかったが、4時入場制限のため、入館することができなかった。
夕食は、ホテルから歩いて20分位の中華火鍋専門店にてとった。
6日目(3月30日):長春から瀋陽
今日は長春から瀋陽へ移動。瀋陽北駅前のホテルから地下鉄で瀋陽故宮に向かう。
瀋陽故宮は、地下鉄2号線の青年大街で1号線に乗り換え、懐遠門駅で下車し、歩いて7〜8分のところにある。
瀋陽故宮は、1625年に建てられた後金の2人の皇帝・ヌルハチとホンタイジと皇居の旧跡であり、清の入関(1644年)後は、離宮となった。規模は北京故宮の12分の1程度という。
1616年ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(赫図阿拉)で汗位に即き、国号を金(後金)とし、八旗という軍事組織を創始し、満州人による基盤を築き、その後ヌルハチの第8子ホンタイジが汗位に継承し、明との決戦の前に朝鮮を攻撃して支配下に収め、さらに内モンゴルを制圧して体制を固めた。その上で、1636年4月に国号を中国風に清(大清)とし、皇帝(廟号は太宗)となり、ヌルハチは太祖の廟号を追号されたという。
側にある張氏師府に向かう。
張氏師府とは、奉天軍閥の総帥であり満州統治者である張作霖・張学良の官邸および私邸を指す。
張作霖は、後述する皇姑屯事件で日本軍によって爆殺され、政権を息子張学良が引き継いだ。張学良は、父張作霖の日本との癒着構造を断ち切り、1928年12月北洋軍閥時代の五色旗に替えて、国民政府の国旗である青天白日旗を東北全域にかかげさせ(易幟:「えきし」という)、国民党政府との合流を果たした。
さらに 1936年12月に張学良は、西安に転戦し、国民党第17路軍指令官楊虎城らとともに唐玄宗と楊貴妃の別荘地:華清池「五間庁」に司令部を置き、剿共(共産党殲滅作戦)戦を優先する蒋介石を武装急襲し、拉致監禁する「西安事変」を首謀し、第二次国共合作を主導した。そのため張学良は楊虎城とともに国民党より軍紀違反で禁固処分となり、その後ほぼ一生涯に亘る拘束を受け、張学良は21世紀まで生き102歳で逝去した。
歴史に「たられば」は禁物だが、私は張学良がいなければ、日中戦争及びその後の中国建国までの道のりはもっと波乱に満ちたものになったに違いなく、それほど張学良の存在は大きいと思っている。
ホテルに帰り、ホテルのフロントで紹介された瀋陽北駅(南口)の東側に隣接したビル1階にある中華料理「李連貴(北駅分店)」にてとった。
7日目(3月31日):瀋陽
瀋陽二日目。今日は九・一八歴史博物館と皇姑屯事件歴史博物館にいく。
ホテルから歩き瀋陽北駅南口北バスターミナルから268路で九・一八歴史博物館にむかう。以前にはなかった博物館側にいく陸橋をわたり、9時の開門を待った。
博物館前には、日めくりカレンダー形式の記念碑、「国の恥を忘れるな」と書かれた梵鐘とともに、1931年9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、張学良らの東北軍が満鉄の線路を爆破したとする記念碑などが展示されている。
この事件は、敗戦後(極東軍事裁判)に至るまで、爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には関東軍の部隊によって実行された謀略事件であった。事件の首謀者は、後述する皇姑屯事件(張作霖爆殺事件)の計画立案者とされた河本大作大佐の後任として赴任した関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐である。
満州事変は、関東軍が自ら守備する線路を爆破し、中国軍による爆破を受けたと発表する自作自演(偽旗作戦)の計画的行動により引き起こされ、1933年5月塘沽協定成立に至る日本と中華民国との間の2年半に渡る満州全域に及ぶ戦闘である。
関東軍は、まず熱河方面における騒擾状態を作りだし、東北軍の主力部隊を尾引だし、手薄になっていた北大営守備隊を撃破・占領する作戦を練っていた。
北大営の戦闘には、独立守備隊第二大隊の主力が投入され、翌日19日早朝に北大営を制圧した。東北軍の北大営放棄は、張学良が日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたことに由来する。
関東軍は、20日までに奉天、長春、営口の各都市を占領し、21日には林朝鮮軍司令官が独断で混成第39旅団に越境を命じ(天皇の統帥権干犯)、部隊は国境を越え関東軍の指揮下に入り、32年2月ハルビン占領に至るまで、5ヶ月で全満州を占領した。
今回二回目の訪問だが、前回の展示内容に比べて、満州事変以降の「満州国」全体で行った事件や虐殺、細菌戦、経済収奪などの戦争被害に関する展示が重視されており、731部隊によるマルタと呼ばれる人体実験などのジオラマなどの展示されていた。
2時間の見学をおえて、バスで皇姑屯事件歴史博物館に向かう。
皇姑屯事件(こうととん事件・張作霖爆殺事件)はどうして起こったのかを博物館開設資料から以下に紹介する。
1928年5月、北伐軍が北京天津地区に迫った時、日本は奉天張作霖政権の瓦解が近いと感じ、且つ自らの手中に最大限の利益を掠め取ることを考えた。そこで、張作霖を一面で支持し、北伐軍に対抗するために山東に出兵し、一面でまた張作霖に圧力を加え、張作霖を脅し、東北から早く退去させ、満蒙を中国から分離し、日本の勢力下に置くことを意図した。
北伐軍が北京に肉薄した時、日本駐華公使は、張作霖に対して、「将来奉天軍が負け、北伐軍が山海関に至れば、日本軍はこれを武装解除しなければならない」と脅した。張作霖はこれに対して「東北三省及び北京・天津は、中国領土であり、主権は中国にある。軽視することは許されない。」と答えた。ここに至って日本は張作霖の抹消を決断した。
1928年6月張作霖は、これ以上北伐への抵抗はできないとして、北京から東北に戻ることを決断し、北京経由の瀋陽行きの列車で帰る準備をした。関東軍指令官村岡長太郎は、張作霖の刺殺計画を考えたが、この計画の隠蔽は容易ではないことから、河本大作高級参謀に列車爆破を計らせ、工兵を使い、張作霖が帰奉する列車の通過点である瀋陽皇姑屯駅の付近にある南満鉄道と京奉鉄道の交差陸橋(三洞橋)に爆薬を配置することにした。
6月3日未明、張作霖は、北京を離れてからも、至る処を警戒した。しかし三洞橋は、南満鉄道上にあり、日本軍の付属地であり、防禦することが出来なかった。6月4日早朝5時18分列車は皇姑屯駅を通過し、列車は三洞橋で5時30分爆破された。
皇姑屯事件では、その場で黒竜江省督軍吴俊升が死亡、張作霖は重傷を負った(4日後に死亡)。6月4日午前9時30分時点では、この二人以外に18名が爆死し53名が爆破負傷し73名が死傷した。日本はこの真相を隠蔽するために、「南方便衣隊」の仕業として事件をでっち上げた。
1946年7月に至り、日本の戦犯を審議する極東国際裁判で、日本の前田中内閣海軍大臣岡田啓介が出廷し、証人となって張作霖爆破は関東軍の作為であると自供した。
皇姑屯事件歴史博物館は、室内と室外併せて3000平方の敷地を有する。建物は、エントランス部分の改造が施されてはいるが、基本的に原型(奉天皇姑屯病院旧跡)を踏襲し、あせて6つの展示ホールに分けられている。展示ホールは駅舎の内部空間を模擬し、彫像や石像形式にて1928年6月4日の世界を震撼させた皇姑屯事件を再現している。
第1展示ホールは、皇姑屯市民の風貌、往時の町並みなど全景の復元、商店商人達の往来、当時の歴史風景を重視している。第2展示ホールはレリーフによって20世紀の東北地域における中国・日本・ロシアの勢力分布を表し、主要な展示は、張作霖の初期の活動経歴及び当時の東北と中国内外紛争、圧迫の史実、第3展示ホールは、直皖大戦と直奉大戦の歴史と北洋政府の激動と変容を記載し、第4展示ホールは、張作霖が日張密約へのサインを拒否する場面を復元し、中央に井戸を模した砂盤を配置し、地下空間を利用して、皇姑屯爆炸事件の状況を再現している最後の展示ホールは、皇姑屯事件以降に続いた影響と事件に対して省みるべきことを記録している。
博物館の裏には、先ほど紹介した満鉄と京奉鉄道の交差陸橋(三洞橋)の現場が再現されており、爆破された京奉鉄道の列車も原形で復元されていた。
ホテルに戻り、夕食は、一度ホテルの紹介のあった餃子店にいったが、ファミレス店であったため回避し、ネットで検索した隣駅にある楽天百貨店(ロッテ)内にある「老屋川菜」という川菜店でとった。
8日目(4月1日):瀋陽
瀋陽三日目。今日は世界遺産のヌルハチの陵墓である東陵とホンタイジの陵墓である北陵にいく。ホテル前のバス亭からバスで東陵に向かう。1時20分程かかった。12時過ぎに一端ホテルに戻り、地下鉄を2駅乗り、北陵公園駅で下車し、5分程で北陵に着く。
この二つの陵墓の構造はほぼ、同じである。違いは、東陵が小高い丘に造られており、108段ほどの階段を上らなければならないこと、また東陵は墓が丘のままであるが、北陵は城壁で囲まれており、その強固さを感じさせた位だった。
北陵ではじめて、建物の両サイドに建てられている「華表(フォアピァオ)」と言われる支柱とは異なる「望柱」という支柱が建てられていることを発見した。
華表の役割に関して、普通は4つの説をもつという。第1は、尭舜時代の「誹謗する木」を起源として、皇帝への直言“意見箱”。第2は古代からの楽器が進化して、宋時代の“登って太鼓を打つ”に由来する;第3は、原始の部落のトーテム崇拝に起源して、華表の上「見張り」役を果たす動物(望天犼)を指す。第4は天文の器具を観測するのです。この4つの説はすべて根拠があって、寓意を含むという。
天安門の前の華表頂点にある望天犼は、左右で意味がことなり、一方は、「望君出」と謂い、帝王は、民情を体験し、民心を掴むために頻繁に外出を促す意味をもち、一方は、「望君帰」と謂い、帝王は、梨園で楽しむのはよいが、恋に走らず、宮中に思いを馳せ、朝廷を収めるべきことを促すものであるという。
華表と望柱の違いについて、北陵にある特別展にいた職員に聞いたところ、最上部の形状の違いであり、華表は「龍の息子」、望柱は「海ざくろ」と教えてくれた。
また参加者から、各楼閣の最上部にある瓢箪のようなものはなにかと聞くとあれは飾りで意味はない、また陵の城壁を歩いたが、道が傾斜している理由はなにかと聞くと、排水のためと答えてくれた。また建物の支柱は何製かと聞くと木製だと言い、地下に玉石が支えていること、また重たい建造物の場合は、「贔屓(ビーシー)という亀に似た台座を使うと答えてくれた。(辞書によれば日本語の「贔屓(ひいき)」意味はまったくないという。)
ホテルに戻り、夕食は、ネットで検索した近くのビジネス街にある「森林大厦」にある韓国料理店でとった。
9日目(4月2日):瀋陽から撫順
瀋陽最終日。今日は、タクシー2台に分乗し、瀋陽から東に50キロほど離れた撫順にいく。タクシー運転手にルートと直列運行をメモにして協力をお願いした。
まず撫順戦犯管理所旧跡陳列館へ。1時間程で到着する。
撫順戦犯管理所は、1936年満州国が撫順監獄跡地に設置され、1950年7月ハバロフスク捕虜収容所に監禁されていた日本人捕虜を移管し、1955年に中国人民解放軍藩陽軍区戦犯管理所となった。
1949年12月ハバロフスク戦犯裁判にて、戦犯として関東軍司令官山田乙三や、731部隊(関東軍防疫給水部)、100部隊(関東軍軍馬防疫廠)などを裁き、50年7月ソ連から引き渡された969人の日本人戦犯を含む満州・国民党の戦犯1300名が撫順戦犯管理所に収監された。「満州国」皇帝溥儀もその一人である。
中国検察院は1955年9月155名を起訴、7名に死刑、3名に執行猶予付き死刑を求刑したが、戦犯政策の総指揮をとった周恩来の人道主義的待遇政策の下で、減刑され、55年11月に死刑求刑が却下され、起訴免除者は即日釈放となって1956年7月に帰国した。また実刑判決を受けた者も満期前に釈放され、1964年3月までに日本人戦犯が全員帰国し、一人の処刑者を出さなかったという「撫順の奇蹟」と呼ばれる日本への帰還を果たした。
帰国した日本人らは1957年に中国帰還者連絡会を創立し、認罪に基づく 加害証言活動を行ったが、中国帰還者連絡会は2002年、高齢化により解散し、撫順の奇蹟を受け継ぐ会へ受け継がれている。2006年、撫順戦犯管理所旧址として、中華人民共和国全国重点文物保護単位に登録された。
続いて撫順平頂山惨案記念館へ向かう。
平頂山事件(へいちょうざんじけん)を知るためには、「撫順炭鉱」に関する知識が不可欠である。
「撫順炭鉱」は「南満州鉄道(1906年創立「満鉄」)が接収(占領)し、拡大を図った満州国最大の「満鉄付属地」であり、これは、1909年の「間島協約」による日露戦争後の満州に関わる満鉄敷設線路及び撫順と烟台の鉱山割譲と保有協約に由来するものであり、ここ撫順炭鉱はともとも満州国成立以前の満鉄の領有地だったという理解が必要である。
平頂山事件とは1932年9月16日に起きた日本軍、警察、満鉄警護隊による撫順炭鉱付近に住む住民3000人を虐殺した事件である。この事件は、抗日ゲリラによる炭鉱事務所攻撃への報復として地元住民を平頂山麓に追い込んで銃殺し、山腹を爆破して遺体を遺棄したものである。
ウキィペディアによれば、平頂山事件を、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊(井上小隊)がゲリラ掃討作戦をおこなった際に、楊柏堡村付近の平頂山集落の住民が多く殺傷された事件としているが、これは正確ではない。事件は、前日9月15日に調印された「日満議定書(満州国承認)」に抗議する反日ゲリラによる炭鉱夜襲事件への報復として行われたのである。
この掃討作戦は、日本軍守備隊だけではなく、日本警察及び憲兵隊と満鉄の「炭鉱防備隊」の三位一体の作戦として行われたと言う。この「炭鉱防備隊」とは「在郷軍人(退役軍人)」を含む日本人満鉄社員で構成される「武装部隊」であり、この事件当日も炭鉱長代理であった久保孚が直接指揮したと言う。満鉄は「武装部隊」をもつ会社であった。
「撫順平頂山惨案記念館」は、3つのエリアで構成されている。事件に至るまでの経過と事件後における慰霊事業そして日本政府への損害賠償請求に関する「惨案記念館」と虐殺遺骨などをそのまま保存展示している「惨案遺跡」と「平頂山殉難同胞記念碑」である。
付近の食堂で昼食後、撫順炭鉱博物館に向かう。
撫順炭鉱は、日露戦争後南満州鉄道株式会社(満鉄)の付属地として約40 年間にわたり、日本の植民地支配によるモノとヒトの収奪の拠点であった。1936 年には石炭産出量は962 万トンに達し、「満州国」産炭量の70 %、中国産炭量の30%に相当する。敗戦迄に約2億トンの石炭を略奪し、「帝国の宝庫」と称された。
関東軍憲兵隊は1938年初頭より「満州国」で拘束し捕虜にした抗日ゲリラの関係者らを撫順炭鉱に連行し、さらに1941年4月以降、華北で集めた中国人を東北に連行し、特殊労働者(特殊労工)として徴用した。そのうち撫順に連行された者は、敗戦までに4万人余に上るという。
また「満州国」政府は、華北から連行してくる労工だけでは不足するため、「満州国」内での一般民衆の徴用を開始、1941 年には、住民を強制的に徴用する法律を制定し、指名する者を各現場に出頭させた。1942年5 月に国民勤労奉仕制創立要綱を可決し、21歳から23歳の男子で兵役に就かない者を国民勤労奉仕隊に入隊させることを決めた。勤労奉仕期間は3年間で延べ12カ月、戦時には期間を延長するとされた。また、監獄と矯正補導院に収監している服役者も労工として徴用した。1907 年から1930年までの24年間の死者数の合計は7143人で、平均すると毎年298人が死亡したとされる。
撫順炭鉱博物館は撫順炭鉱(露天堀)の南側に位置し、3階建ての建物の上に展望台が設置され、露天堀を一望でき、広場には、石炭を運ぶ蒸気機関車、ディーゼル機関車とともに石炭を採掘する大型のクレーン車や掘削機械が展示されている。
続いて、雷鋒記念館にいく。
雷鋒記念館
雷鋒記念館は、1940年湖南省城望県(長沙市より北西40㎞)の生まれ、7歳の時母を自殺でなくし、天涯孤独の身となった雷峰(幼名:雷正興)の諸活動への献身性とその精神をたたえる記念館である。
雷正興は56年、16歳で城望県公務員となり、58年18歳のとき雷鋒と改名し、長沙を後にして北上し、遼寧省鞍山鉄鋼入社した。60年1月人民解放軍へ入隊し、ダム事故危険救済活動で表彰され、60年8月撫順市望花区の小学校と中学校の校外指導員として勤務、60年1月中国共産党入党。1962年8月15日撫順輸送部隊配属先で倒れたトラックを立て直す作業を指揮、支柱棒の直撃により殉職した(22歳)青年である。
記念館には1960年10月に担当した望花区建設街小学校(現雷鋒小学校)で取り組んだ「三件宝」活動が紹介されていた。彼は小学生を指導し、第一の宝箱として、自家製の貯金箱をつくらせて、お小遣いを貯金させること、第二の宝箱として「節約箱」をつくり使い古しのネジや釘等を集めて再利用させること、第三の宝箱として「裁縫包」を持たせ、自分で衣服やボタンなどを繕うことができるように育成したという。
夕食は、タクシー運転手に勧められた東北料理店「八大碗(大東店)」でとった。
10日目(4月3日):瀋陽から大連へ
今日は、瀋陽から大連へ移動する。ホテルより大連満鉄旧跡陳列館と大連現代博物館へ向かう。
大連満鉄旧跡陳列館は、旧満鉄本社内にある陳列館とされるが、事前の連絡を要求する施設であることを後で知った。中山広場を魯迅通りにむかって5分程の場所である。入り口には鍵がかかっていて、入ることができない。そこで大連鉄路事務所とある本館正面に向かい、その職員に大連満鉄旧跡陳列館への参観を告げると、電話をしてくれて、陳列館に入ることができた。
日本語を話す陳列館職員が対応してくれたが、そこには陳列館に関する案内が一切なく、いきなり一人50元といい、2階の展示会場に案内してくれた。早口の日本語で、ここは撮影禁止であると言う。しかし満鉄総裁室を案内すると、特別サービスだと言い、総裁イスに座っていいといい、5人の写真をそれぞれ撮ってくれた。
陳列館を案内するが、展示図版を順番には説明してくくれず、自分の言いたいことだけを説明する方法であった。
私が理解できなかったのは、館内の展示室にある満鉄金庫にあったという小型地銀の由来である。彼は、これは西太后が日本への賠償金に相当する銀貨をわざわざ日本に運ぶのは大変なので、大連に本社のある満鉄に渡したのだと言う。その時はそうなのかと思ったが、日清戦争の終結は1895年であり、満鉄の創業は1906年である。西太后はまだ健在だと思うが、その時はまだ満鉄は存在しない。西太后の賠償銀貨が満鉄金庫にあるのかの理由の説明にはならないと思った。
どうもこの連満鉄旧跡陳列館には胡散臭さを感じた。最後に名刺を渡し、あなたの名刺がほしいと言ったが、名刺はくれなかった。素性を明かすつもりのない意志が手に取るようにわかった。館内の通路廊下にある「愛国教育基地」(これも勝手に借用したのかもしれない)とだけ朱で書かれた看板が泣くなと実感した。
タクシーで大連の日清戦争以降の発展の軌跡を市民に多数のジオラマを交えて伝える大連現代博物館を訪問・参観したあと、ホテルに戻った。
夕食は、日航大連と民主広場の間にある日本食を提供する日本人街の「まる」という日本食店でとった。
11日目(4月4日):大連から成田へ
今日は日本への帰国の日。なんとか旅程を終えて日本に帰国できそうであり、とても嬉しかった。しかし「百里の道も九十九里をもって半ばとする」と言う気持ちで帰路に就いた。
後日談:
①哈爾浜駅構内「安重根記念館」について
帰国後にこの訪問記を書くために「安重根記念館」の所在について調べていたら、朝日新聞ネットニュース配信(2019年3月31日21時49分)記事を発見した。
「中国・黒竜江省のハルビン駅にある朝鮮独立運動家・安重根(アンジュングン)の記念館が改装を終え、30日に再開した。安重根が初代の韓国統監だった伊藤博文を暗殺した現場に2014年に設けられたが、駅の改装で取り壊されていた。中韓関係の悪化と日中関係の改善を受け、韓国メディアからは「再開されない可能性もある」との観測も出ていた。
スペースが拡張されたが、展示物の量や内容に大きな変化はなく、再開に関する式典もなかった。」とあった。
私たちが哈爾浜を訪問したのが、3月27日なので、新装の記念館は見学できなかった訳だが、哈爾浜駅の係員と検札管理者の婦人の2名に聞いたが、全くこの情報について伝えくれなかったということになる。
②哈爾浜ホテルの補償交渉について
帰国後アゴダの日本語サービスデスクに電話して、補償に関する交渉を行った。当初補償金は、1泊目の宿泊費のみとしていたが、現地哈爾浜における田中さんとの連絡では、「1泊のみとの確認はしていない。現地での録音記録を確認してほしい」と2泊分の補償を要求し、録音記録上、1泊に限定した発話はないとの確認を頂き、2泊分の補償金を返金頂くことになった。
そこで、参加者に
A)アゴダからの補償金(35700円)の分配
B)当初ホテル代金と代替ホテル代金の差額(15300円)戻しとして一人当たり1万円を返還することとした。
3 11日間の旅程を終えて
1)訪問先情報の計画段階における取得について
今回は前回の西安洛陽の訪問に続く二回目のツアー企画であったが、行程・訪問先の規模も異なるものであり、一定の準備をしたが、所期の訪問先のすべてを参観することができなかった。入館できなった施設は以下の通りである。
○旅順〜①万忠墓記念館(火曜日定休日) ②関東軍司令部旧址(閉館中2019年末改修)③旅順監獄(一部処刑場などを閉鎖)
○哈爾浜〜①安重根記念館(改装閉館中)②聖ソフィア大聖堂(改装中)
○長春〜①東北地方陥落歴史陳列館(改装閉館中)②長影旧址博物館(入館時刻過ぎ)
今回もネット上で情報を取得していたが、多くの場合、最新情報が改定させている状況ではなく、計画策定段階で、訪問予定日に入館可否と展示制限について明確な裏付けをとる必要がある。
このためには、各施設そのものへの問い合わせが不可欠だが、中国の場合、施設に公式URLの表示がない場合が多く、その場合、国際電話で確認するしかない。
ネット上では不明な点に関する確認をどのようにとればよいかを検討し、入館できない場合の代替施設などの対応を事前に準備することが必要である。
やはり現地のツアー企画会社と連絡をとるしかないかも知れない。
2)5名以上のマイクロバス手配について
4人以上のグループは、2台以上のタクシーが不可避であり、5名以上搭乗可能なマイクロバスの手配を事前に日本から行えるルートを探すことが必要である。
大連の九州国際大酒店のようなホテルではないため、ホテル予約段階のリクエストとその可否に関する情報を確認するともに、ない場合の手配ルートについて検討することが必要である。
3)宿泊ホテル周辺の夕食手配について
今回、事前の情報を把握せず、すべて「高徳地図」ソフトによる検索で手配したが、概ね問題がなかったが、人数の多い場合事前の予約を考えることが必要であり、対策について検討しておくことが必要である。
4 ルートと費用について
1)旅程ルート一覧:記録係報告より
3月25日(月)大連九州国際大酒店
10:10成田→12:15大連→タクシー13:30ホテル→両替・切符購入→15:30市内観光→17:30再集合・夕食→ホテル
3月26日(火)大連九州国際大酒店
8:00集合→朝食→9:00ホテル出発→10:25万忠墓記念館(定休日)→10:40白玉山塔→11:10旅順監獄→12:10昼食→13:20関東軍司令部旧址(閉館中)→13:40 203高地→14:45水師営→日本人住宅・旧ロシヤ人街→17:15ホテル着→夕食→ホテル)
3月27日(水)哈爾浜天天濱館
7:30ホテル出発→8:30大連北駅(高鉄)→12:06)哈爾浜西駅→ホテルトラブル・食事&別ホテル手配→安重根(閉館
)→17:40中央大街→夕食→ホテル
3月28日(木)哈爾浜天天濱館
8:00ホテル出発→9:00 731部隊記念館(~12:10)→昼食→14:50聖ソフィア大聖堂(改装中閉館)→15:50中央大 街→16:20スターリン公園→夕食→ホテル
3月29日(金)長春泰玖嘉旗假日酒店
7:30ホテル出発→9:11哈爾浜駅北口(高鉄)→10:45長春駅着→ホテル→お茶屋→ 12:30昼食→13:15旧関東軍司令部
→13:40偽満皇宮博物院→16:15「長影旧址博物館」(4時入館〆切)→ホテル
3月30日(土)沈阳珀麗酒店
8:30ホテル出発→10:23長春駅(高鉄)→11:55瀋陽駅着→駅で食事→ホテル→14:10瀋陽故宮→15:00張氏師府→18:0
0食事→ホテル
3月31日(日)沈阳珀麗酒店
8:00ホテル出発→8:30九・一八歴史博物館(~11:20)→12:00昼食→12:50皇姑屯→近くで懇談→16:30ホテル→瀋陽
駅繁華街探索→ホテル→食事→ホテル
4月1日(月)沈阳珀麗酒店
9:00ホテル出発→10:10東陵(~11:30)→12:30ホテルの近くで昼食→13:30北陵(~15:10)→15:40ホテルに戻る →18:00再集合し食事へ→ホテル
4月2日(火)沈阳珀麗酒店
8:00ホテル出発(タクシー)→11:10平頂山惨案館(~12:30)→12:40昼食→撫順炭鉱(露天堀)→15:00雷鋒記念館( ~15:00)→16:45ホテル戻り→18:00食事→ホテル
4月3日(水)大連九州国際大酒店
8:15ホテル出発→9:15瀋陽北駅発→11:24大連駅着→11:50ホテル→12:10昼食→13:30大連満鉄旧跡陳列館→15:00 大連現在博物館→18:00ホテル→食事・日本食→ホテル
4月4日(木)
8:00ホテル食事集合→10:00ホテル出発→11:00大連周水子空港→13:10大連発(管制塔離陸許可が遅れ14時頃離陸)→成田(30分ほど遅れて到着)
2)ツアー費用概算(会計係報告より)
一人当たり費用は以下の通りである。
①航空券+高鉄代=61080円
②宿泊代=28300円(哈爾浜ホテル返金分10000円は算入していない)
③移動費(タクシー、マイクロバス代を含む)=11600円
④食費(朝食、昼食、休憩食、夕食)=13300円
⑤入場料=4100円
合計:118380円
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追記:2019年5月7日
アゴタとの哈爾浜ホテルの補償交渉について
1)為替レート負担について
アゴダとの交渉は既述の通りであるが、クレジットによるホテル代の請求書が届いてびっくりした。予約段階での円換算請求金額に比べて、8%ほど増額されていた。従って一人当たり1600円を負担して頂くことをお願いした。
これは、アゴダの支払い請求はすべてドルベースで行われていることによる。中国元と日本円の為替レート上では、予約日と実行日とは殆ど変化がないので安心していたが、実際は8%も違いということが判った。予約段階の為替レートと決済段階の為替レートがどの基準で行われるのかを聞いたが、本社決済レートであるという以外に全く答えてくれなかった。
次回から、予約段階での決済レートで支払い完了する方法で宿泊を予約する方法にする。
2)アゴダコイン請求について
今回、現金返済ではなく、アゴダコインとして補填される項目として、トラブルに伴う移動費用と国際電話費用があった。移動費用は、領収書と支付宝支払画面のスクリーンショットをメール送付してそのまま了承されたが、国際電話費用について、少し揉めた。アゴダは、アゴダ側の相手先(中国にいる私宛)への通話を当初認めなかったが、最終承認して頂いた。しかし中国国内でのCメール(1回100円)は否認した。
3)アゴダコインの有効期限について
上記のアゴダコインで実損を回復できると思っていた、登録された「アゴダコイン」の有効期限はわずか3ヶ月であった。予約ベースの有効期限であるとはいえ、3ヶ月はあまりにも短すぎると判断して、一人当たり1100円の負担をお願いした。
4)アゴダの為替差益による利益構造について
アゴダのビジネスモデルは、もしかすると為替差益収益が膨大なのではないかと思った。仮設だが、予約段階で安く見せかけて、実行決済段階で高く請求するというモデルを追及しているのではないかと思った。これは巧妙なアメリカだからできる為替レートのマジックであると感じた。もうすこし利用してその仕掛けを解明したいと思う。
by inmylife-after60
| 2019-04-09 23:48
| 中国訪問記
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