2019年 04月 15日
『花岡事件70年』を読む |
河南人民出版社:
2018年6月第1版前書きより(P14〜P22)
左:日本軍により山東省済南で捕獲された労働者(京都大学人文科学研究所所蔵)
右:日本軍により山東省青島で捕獲された労働者(京都大学人文科学研究所所蔵)
先月、中国瀋陽の満州事変の捏造事件の柳条湖(中国名:9・18事件)記念館を訪問した際に、館内の書店にこの『花岡事件70年』と題する書籍が平積みされていたので購入した。
帰国後、読んでみたが、花岡事件とその訴追に至る経緯と全容を始めて知り、この事件を是非知ってほしいと思い、著者の前書きのみを翻訳してみた。
日本の戦後補償に関わる歴代政府と企業と裁判所がどのようなレベルなのかが良くわかる事件である。花岡事件に関する一次史料はアメリカ公文書にあったと言う。日本にはその史料がないということから、戦後史は考察しなければならないという現実をひしひしと感じた。
戦後補償と加害者への謝罪とは何かを日本人に突き付けた事件として、花岡暴動と花岡虐殺は忘れてはいけない史実であることを明記したい。
韓国最高裁の徴用工判決への日本の政権(司法も)・企業の反応は、全く花岡事件への地裁判決と同じ感覚なのだと実感することができた。
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花岡事件について
日本の中国人強制連行
第二次世界大戦の期間、日本軍国主義はアジアに覇を唱え、世界の雄と称して、中国とその他アジアの国家に対して大規模な侵略戦争を発動し、とりわけ、中国は戦争による被害が甚大であった。日本の侵略者は、三光作戦政策(訳者注:巻末参照)を強行し、至る所で狂った様に中国の生産物と資源を略奪し、様々な残虐で卑劣な手段で、労働力資源の略奪に狂奔し、日本軍は抗日軍民と無辜の庶民を日本の労働力として思いのままにし、無償の苦役に従事させ、非人道的な処遇故に中国人の多数の死傷者を生み出し、無数の中国の家庭に大きな災難をもたらした。
1931年、日本は柳条湖事件(訳者注:満州事変へと至る捏造事件)を発動し、中国東北三省を占領し、満州国傀儡政権を樹立し、1937 年7月7日盧溝橋事件(訳者注:日華事変に至る演習発砲事件)を発動し、中国への全面侵攻を開始した。「戦争を以って戦争を賄う」という日本の国策により、中国の資産と労働力を大量に収奪し、侵略戦争に供するために、日本軍は、1938年6月北平(現北京)に「新民会労工会」、青島に「山東労務福祉局」、済南に「山東労務会社」など半民半官の労務者を捕獲する機関を結成した。1939年2月日本軍は、青島に「大陸華工会社」を結成した。
1941年7月日本侵略者は、上述の機関を統合し「華北労工協会」を結成し、北京、塘沽、石家庄、大原、済南、青島に戦争捕虜徴用収容所を設立し、多数の抗日軍民と無辜の民衆を押収した。日本の東北(旧満州)占領以降、華北から東北に連行された労働者は約800万人に達し、炭鉱・港湾・軍事施設などの苦役に従事させた。
戦争の拡大に伴い、日本の国内労働力は顕著に不足した。この矛盾を解決するために日本政府は、1938年3月の「国家総動員法」、39年4月の「従業員移動防止令」と7月の「国民徴用令」を前後して発令した。しかし中国大陸への派兵の継続する増加と国内における軍需生産の一層の拡大により、国内労働力の不足状況は、一層深刻となった。
1941年12月、太平洋戦争が勃発し、さらに多くの日本の青年と壮年が侵略戦争に投入され、国内労働力は更に枯渇した。1942 年11月27日、東條英機内閣は、「中国人労働者の国内徴用に関する決定」において、国内労働力の需給関係が日増しに逼迫し、とりわけ重労働部門の労働力の不足が顕著であり、後述の要領により、中国人労働者を日本に移送し、大東亜共栄圏の建設に関与せしめると指摘した。東條内閣の意志に基づき、日本軍は1943年3月から11月にかけて、1411名の中国人を試験的に日本に先行移送し、重労働に従事させた。1年間の試行期間を経て、1944年2月28日、日本は事務次官会議にて、中国人労働者の国内移送の促進に関する決定を行い、計画を執行した。
1944年国民総動員計画に中国人労働者を3万人計上し、これにより対価を払うことなく、正式に大量に中国人労働者を日本に移送し、重労働に従事させる計画の実施を開始した。
このように1943年3月から1945年5月までに、強制移送は169回に及び、38935名の中国人労働者が日本に連行された。その内訳は中北労工協会34717人、華北運輸会社1061人、華中労工協会1455人、偽南京政府機関682人、偽満州福昌中国人労工会社1020人である(以上政府資料)
1990年12月20日に出版された日本田中宏らの編集した「中国人強制連行の記録」によれば、実際に乗船して日本に向かった中国人は、飢餓、疾病と迫害により、乗船前に2823人が死亡し、実際に強制連行されたのは、41758人であると言う。日本本土に連行された中国人は中国に駐留する日本軍と汪兆銘南京国民党政権及び華北政務委員会の指導のもとに労働力統制機関(例えば華北労工協会)を組織して実施したものであり、日本に連行された労働者は、おおよそ以下のような状況であった。
1. 中国労働者の構成と由来について:日本に連行された中国人労働者の組織構成は第一に、愛国抗日中国軍隊の将兵、第二に、共産党とはされなかった抗日救国幹部、第三に貧困にあえぐ農民、商業者、教員と青年学生、第四にこれは極めて少ないが、日本軍から信頼を失ったあるいは八路軍に投降したもともとは日本軍の傀儡兵である。地域構成でみると、華北35778人、これは日本の連行人数の90%以上を占める。華中が2137人、偽満州統治区が1020人である。
2. 中国人労働者の強制連行の供出先分類について:第一が行政機関からの供出である。つまり日本軍は、日本の傀儡政権と労工協会が逐次目標を下達して、強制的に労働者を供出した。第二は訓練生である。これは日本軍による掃討作戦で捕虜とした中国兵および「兎狩り作戦」(訳者注:巻末参照)による捕獲した民衆を八路軍兵の名義で集中兵営に入れ、訓練して日本に送り出したものである。第三が「自由」応募である。これは華中地区で、騙されて応募した労働者であり、自由だと言われたが、実際には自由ではなく、その他の労働者と同一であった。第四が特殊供出である。積み下ろしに必要な場合に大工などに対して、緊急要請に基づき強制移送した。
3 中国人労働者の日本分布について:中国で捕獲された捕虜労働者は、日本に到着後、日本各地の35企業の135箇所の作業所に送致された。それらの作業所は、北方から南方まで、遍く日本各地に及ぶ。
花岡虐殺事件
秋田県北部に位置する花岡は、中国人労働者を強制連行した日本の35企業の作業所の一つである。
1944年7月、日本軍に捕獲された300名の捕虜は農民とともに7日7晩の海上渡航を経て、主に花岡銅山に送致され、鹿島組(現鹿島建設)により、苦役が課された。その後1945年4月に第2波として600人が、1945年5月に第3波として100人が、中山寮宿営所に送致された。このように捕虜と捕獲された合計3波に及ぶ1000名の中国人は、途上逃亡や被迫害致死者もあり、乗船した者は986人であり、実際に中山寮宿営所に入所したのは979人である。
当時の中山寮宿営所は、中国人労働者により、「人間地獄」と呼ばれていた。中国人労働者は、当時鹿島組の監督下で、排水溝と河川改修の苦役に従事した。労働者らは、材木で組み上げられた小屋に住み、毎日15時から16時の重労働が課せられ、ドングリの皮やリンゴで餓えを凌いだ。厳寒の冬季でも労働者らは、単衣だけを身に纏い、草履で、寒さと氷った泥水の中で従事した。耐え難い飢餓と疲労に加え、残忍極まる鹿島組の現場監督らによる罵倒と殴打により毎日多くの労働者らは虐殺され、わずか半年の間に、200名余りが迫害されて命を落とした。忍ぶに忍びきれない中国人は、死をもって反抗することを決心した。
1945年6月30日夜半、恨みを抑え切れない700名の中国人労働者は遂に暴動を起こした。労働者らは現場監督を撲殺し、中山寮宿営所付近の獅子ヶ森に逃げた。中国本土から遠く離れたこの大暴動は、日本の朝野を震撼させ、二万人の軍隊と警官が出動し、これを包囲し銃殺した。翌日、生き残った中国人労働者をすべて捕獲し、暴動は無残にも鎮圧された。再び日本の悪魔に掌握された労働者は、以前より更に酷い迫害が加えられた。
酷暑の7月、中国人労働者は、両手を後手に縛られ、石畳の共楽館(訳者注:藤田組同和鉱山の慰安施設)広場上に跪き、三日三晩、食事も飲み物も与えられず、陽に晒され、雨に注がれ、侮辱の限りに滅多打ちに合い、広場は遺体で覆われ、正視に堪えない惨状となった。これが世に言われる花岡虐殺、花岡事件であり、強制連行された979名の中国人労働者は、合計419名が日本で命を落とした。
1948年3月、連合国極東裁判横浜法廷BC級軍事法廷(第八軍法会議)は、捕虜の殺害と虐待で、鹿島組の4名の現場監督と2名の警官を死刑及び20年懲役の有罪判決を下した。(その後全て釈放された)。日本政府の関連する行政当局と中国人を直接殺傷した罪を負う鹿島建設は、公然と国際公約に違反し、中国人労働者を連行し、虐待する犯罪を犯し、捕虜を殺害する罪過を犯したことが、遂に国際軍事法廷の判決を以て刻まれ、永遠に歴史上の恥辱の柱に晒されたのである。しかし遺憾にも鹿島建設の幹部も日本政府もその責任を追及されることはなかった。
正義の声
戦後、歴史的な要因もあり、国内の花岡労働者の生存者間の往来もなくなり、日本からの情報も途絶え、花岡事件は、再び人々に想起されることはなかったようだ。しかし日本では、愛国華僑と有識者、日本の平和愛好家らのたゆまぬ努力で、花岡事件記念活動が1年も滞ることなく、すすめられた。花岡町が大館市に編入された以降も、花岡町と市民は毎年受難者を追悼する慰霊祭を開催し、様々な記念活動を行っていた。
1985年日本首相が官職名で靖国神社に参拝したことは、アジア太平洋の各国と日本の有識者の注意を喚起した。日本の愛知県立大学田中宏さん、弁護士新美隆さんを始めとする各界人は、1988年「中国人強制連行を考える会」を結成し、同時に神戸「在日華僑中日交流促進会」事務局長林伯輝さんらが、戦後処理問題に関する研究に着手し、日本の中国人強制連行事件の解決のために多大な活動をすすめた。
松澤哲成さんと正義感をもつ専門家と有識者は、数次にわたりアメリカを訪問し、第二次世界大戦に関わる公文書を調査し、花岡事件に関する貴重な史料を探し当てた。林伯輝さんは、数十回にわたり、頻繁に日中間を往来し、自ら生存者を訪ねる活動を組織し、花岡事件に関する一次資料を大量に調査把握した。強烈な正義感をもつ弁護士新美隆さんは、道義を貫き他の弁護団とともに、法の持つ正義の剣で、中国老人を歴史の正道に連れ戻そうとした。
1989年12月22日花岡虐殺事件の生存者は、北京に集まり「花岡受難者友誼会」を結成し、併せて彼らに残酷な苦役を強いた鹿島建設宛公開書簡を発表した。鹿島建設への3つの要求を認めた書簡である。一つは、花岡虐殺事件の罹災者遺族と生存者に謝罪すること。二つめは、日本の大館市(当時の花岡町)と中国の北京に一定規模の烈士記念館を建立し、次世代に継承すること。三つめは、罹災者986名に一人当たり500万円を賠償し、我々の受けた肉体的精神的な苦難、傷害と犠牲を償う象徴的な補償を行うこと。
老人らは、鹿島建設がたとえ過ちを認めず、頑固を押し通したとしても、また例え極めて希な事件だったとしても、その子孫はその償いを探し続けるものである。生存者はプロジェクトとして、新美隆、内田雅敏、田中宏、内海愛子、林伯輝らに委託し、鹿島建設との交渉をすすめてほしいとの要望を提出した。
1990年7月5日、東京鹿島建設本社にて花岡虐殺事件の生存者と遺族代表と鹿島建設副社長村上光春は、謝罪と賠償問題について交渉を行った。交渉の末、共同声明を発表した。鹿島建設は、花岡虐殺事件に関する企業責任の存在を認め、併せて謝罪の意を表明し、賠償については 鹿島建設は双方に存在する「対話を通じた問題の解決」を承認したとし、その後の協議解決に待つことを表明した。しかしこれは全くいい加減でお茶を濁す態度であり、引き延ばすこと6年、いかなる結果をもたらさなかった。
耐え難い訴訟
1995年6月28日、11名の花岡虐殺事件の生存者と罹災者代表が原告団を結成し、正式に東京地裁に膨大な308頁の書面をもって提訴し、鹿島建設がわれわれに対して行った残虐な虐待の罪状を告発し、併せて民事賠償事件として正当な要求を提出した。東京地裁はこれを受理し、1995年12月20日、初法廷を開廷した。
花岡暴動は、第二次世界大戦期間に発生した唯一の国外における暴動であり、花岡虐殺事件は、日本の中国人強制連行として、戦争犯罪法廷において歴史的な判決を言い渡した事件の一つであり、花岡事件訴訟も中国市民がはじめて日本の裁判所に提訴した第二次世界大戦中に犯罪責任を負う日本企業に対する民事訴訟裁判であり、中国はもとより、世界各国からの注目を集めた。新華社、中国中央電視台の「新聞連播」「焦点訪談」「時空報道」「東方之子」などにて相次いで連続して報道され、海外メディアも大量に詳細にわたる報道を次々と行った。
しかし開廷すればするほど、人々は次々に失望し、更に次々に落胆するばかりであった。
1995 年12 月20 日,第1回審理,開廷時間120 分;
1996 年2 月19 日,第2回審理,開廷時間40 分;
1996 年5 月13 日,第3回審理,開廷時間たった30 分;
1996 年7 月8 日,第4回審理,開廷時間約30 分;
1996 年9 月30 日,第5回審理,開廷時間約30 分;
1996 年11 月25 日,第6回審理,开庭時間約30 分;
1997 年2 月3 日,この第七回審理は、僅か15 分間であった。
園部秀穂裁判長は、突然審理の終了を宣言し、袖を払い、憤然と立ち去り、その場にいたひとはすべて唖然とするばかりであった。
つまりこれが東京地裁のこの重大で世界史的な虐殺事件の審理の全てであった。3年にわたるマラソン裁判であるが、7回にわたる審理は、合計してもわずか5時間にも満たなかったのである。
この後原告団、弁護団と日本各界支援者は次々と判事の不法な審理指揮を抗議し、併せて再度の開廷と公正な審理を要求したが、東京地裁は、終始取り合うことはなかった。
理不尽な判決
1997年12月6日、原告団代表耿諄、張肇国、孟繁武、越満山らは東京に到着し、12月10日東京地裁の花岡虐殺事件の判決法廷に出廷した。12月10日午後2時30分、法廷の差配により、原告団老人4名は、新美隆、内田雅敏、清井礼司等8 名原告弁護団の陪席のもと、通用門から103号法廷に入廷した。
午後3時、民事13部裁判長園部秀穂と2名の陪席判事が入廷した。
開廷直後、園部は判決を読み上げた。彼は10秒に満たずに電光石火の判決を下したのである。原告席上の老人らは、なにが起こったのかさえ判らなかった。側にいた通訳さえ、意味を原告に説明する余裕さえないものであり、ひとり園部裁判長は、そそくさと背後の扉を開き、逃げるように法廷をあとにしたのである。
法廷は、忽ちパニックに陥り、抗議と罵声で埋め尽くされた。
東京地裁の判決は、一、原告の請求は一切棄却する、二、訴訟費用は原告負担とする、三、控訴は60日以内に行うこと、であった。
中国側原告は敗訴した。
10月午後4時に開催された記者会見上で、耿諄は高く「東京地裁は正道をなくした!戦犯鹿島の罪は許されない!」と書かれた幕を掲げて、鹿島建設による歴史的罪悪と東京地裁による法を冒涜する下劣な行いを厳しく叱責し、老人らは、激怒して判決に正道はなく、受入を拒絶して控訴し、歴史の正道を取り戻すまで闘うことを表明した。
彼らは言った。これは日本の法廷が造った第二の「花岡圧殺事件」だ。
東京地裁による花岡虐殺事件の不法判決は、中国、日本、世界の多くの国家に強烈な反応を引き起こし、次々とその法律の白黒を転倒する判決に対して、批判と論駁が渦巻いた。
1997年12月12日、花岡虐殺事件の生存者原告は原告弁護団とともに、東京高裁に控訴した。
和解の成立
1998年7月15日、東京高裁は控訴審を開廷し、原告側の訴状を審理した。その後、東京高裁は6回の法廷を開廷し、原告及び被告双方とその代理人による口頭弁論を行った。
1999年9月10日、東京高裁民事17部は、「職権和解(訳者注:裁判所による裁定和解)」勧告を行った。当事者双方の代理人による20回にわたる協議を経て、2000年11月29日、双方は花岡虐殺事件に関する最終和解に達した。和解約定書によれば、鹿島建設は、一括資金として五億円を支払い、「花岡平和友好基金」を設立し、986名の受難者の賠償、慰霊、遺族の自立と保護、次世代への教育に資することで和解した。
和解成立の意義は、第一に中国人労働者の歴史の正道を勝ち得る闘いの突破口となること、第二に、日本政府による中国人労働者強制連行に関する段階的勝利として刻まれること、第三に、花岡虐殺事件の和解は、例えば西松建設事件などの解決に重要な参照事例となることである。
大坂と花岡の対政府訴訟
2015年6月26日午前、大坂と花岡両地区の13名中国人労働者存命者とその遺族は、大坂地裁に訴状を提出し、日本の第二次世界大における中国人労働者に対する犯罪に対して、日本政府に対する国家賠償責任訴訟を起こした。
訴状は以下の五点を要求するものである。
第一に、被告は、原告への支払金550万円に対して、訴状提起以降、支払完了迄の期間に対して、利子5%を支払え、第二に、被告は、原告に対して別記の謝罪文を発出すること、第三に、被告は《每日新聞》、《産経新聞》、《読売新聞》、《朝日新聞》及び《日本経済新聞》紙上において別記4つの条件に関する謝罪を告知すること、第四に、被告は中国の《人民日報》、《中国青年報》、《南方日報》、《光明日報》以及《文匯報》紙上に謝罪文を掲載すること、第五に、訴訟費用は、被告負担とすること。
今回の日本政府に対する訴訟の重要な目的は、賠償金に関する要求の適切さと同時に日本政府の過去の贖罪への真摯な反省とともに原告に対する誠実な謝罪を求めたものである。要求した謝罪文は以下の通りである。
「強制連行で苦役をなめた中国人被害者とその遺族に誠意をもって謝罪せよ」
「戦時中日本に強制連行され、日本の作業所で苦役を強いられた原告李鉄垂さん、張广勛さん、強制連行後に死亡した被害者遺族の宋明遠さん及び其の他の原告らへのあなた方の精神的な極まりない苦痛と経済的損害に対する日本国の誠意による謝罪を表明せよ!」
尚かつ、日本の謝罪は、遅きに失し、この為、謝罪は完全に行われず、彼らの苦痛を取り払うことができず、かれらの憤りを完全に解消できていない。これらについて、日本は心からの謝罪は表明しなければならない。
日本の中国侵略戦争で、日本は国内労働力の深刻な不足を補うために4万人の中国人を日本に連行し、35企業の135作業所に送致し、苦役労働を強いた。当時の日本政府の奨励のもと、日本企業は残酷に中国人を使役し、6830名余の中国人を死に追いやり、膨大な家族子女との離散を強い、家と家族を喪失させた。
尚かつポツダム宣言を受諾以降現在に至るまで、日本は中国人の被った損害に対して何ら適切な措置を終始とらず、甚だしきに至っては、連行・使役された被害者は契約工であるとして、かれらが自発的に日本に働きにきた者だと言う。これは被害者の名誉を著しく傷つけるものである。
このように日本は、被害者とその遺族に対して、身体的、精神的な多大な苦痛と経済的な被害を与えるものとなった。被害者と遺族は強制連行による使役によって深刻な苦痛と損害を受け、日本は、加害国として、歴史的、社会的、道義的、法律的責任を負うべきであり、すべての被害者とその遺族に誠意をもって謝罪し、かつ殉死した中国人に対して衷心を以て哀悼の意を表するものである。
「過去を忘れず、未来の師とする」
日本は、誠実に中国人被害者の人権が侵害されたという歴史的事実を認め、併せて深刻に反省する。再び決してその轍を踏まず、日本はこの歴史的事実を後代に伝え、実際の行動を以って、中日友好を維持促進するものとする。
日本内閣総理大臣 ○○○○ ○○年○○月○○ 日
天津に花岡暴動記念館が開園
2015年9月1日は、中国人の抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70周年であり、天津に烈士霊園として「花岡暴動記念園」を正式に開園し、我が国最初の徴用工をテーマとした記念園であり、ここを愛国主義教育基地として、花岡暴動を中華民族の抗戦と屈辱に甘んじない精神の典型を表すものとして発揚するものである。
「花岡暴動記念園」は、2200平米の面積を持ち、彫造壁画を備え、徴用連行、苦役、暴動組織、帰国及び遺骨回送、花岡虐殺事件という全過程を表す高さ3メートル、長さ28メートルレリーフに花岡に送致された労働者名が刻まれている。
この他、花岡暴動記念園には、「在日殉難烈士・労工記念館」が新装して当日開館した。開館面積は1352平米であり、ここは全国唯一の在日殉死徴用労働者の遺骨慰霊祈念館である。
この記念館は二階建てであり、一階は遺骨館であり、2316名の在日殉死者の遺骨を納め、二階は「日本における血と涙〜中国徴用工」という展示館である。2006年8月18日より展示し、今日に至る。前後30万人が来館参観している。この度、陳列を改装し、6つに大別陳列し、その分類は、地獄行き、監獄幽閉、決死不屈、祖国帰還、正義求道、正道回帰である。
注記1:「三光作戦」
日中戦争で日本軍の陸軍、特に北支那方面軍などが1940年8月以降、中国華北を中心に、抗日ゲリラ対策としてその根拠地へ行ったとされる燼滅作戦(じんめつさくせん)と呼ばれる掃討作戦。北京語では「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」(中国語: 殺光、焼光、愴光)の接尾文字「光」をとって三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)。ウィキペディア
注記2:「兎狩り作戦」
1942年8月頃、我々予備隊は、千葉参謀よりどのようにしたら体力のある中国人を効率よく捕らえられることができるのかの訓練課題を言い渡された。課題として出されたことは、一個中隊を幅4キロの横広に展開(各中隊の各分隊は一列縦隊)し、各大隊はいずれも中隊を並列させて、担当する正面の網の中へ中国人を追い込むという方式である。ちょうど兎を捕る時、大きな円を描くように包囲網を作り、各人が石をたたき、缶をたたいて包囲を圧縮しながら、あらかじめ仕掛けた網に追い込んでからめ捕るのと同じ方法である。
(小島隆男 中国帰還者連絡会会員 1998年2月没)
by inmylife-after60
| 2019-04-15 23:06
| 歴史認識・歴史学習
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