2019年 04月 26日
把”花冈事件70年”前言翻译成了日语 |
『花岡事件70年』 張国通著 河南人民出版社
2018年6月第1版前書きより(P14〜P22)
关于"花冈事件" 花岡事件について
日本强掳中国人
日本の中国人強制連行
第二次世界大战期间,日本军国主义为实现其称霸亚洲、称雄世界的野心,对中国和其他亚洲国家发动了大规模的侵略战争,其中尤以中国受战争之害最为严重。日本侵略者极力推行"三光政策",其所到之处,不仅疯狂地掠夺中国的物产资源,而且通过种种残酷、卑鄙的手段,疯狂地掠夺中国的劳动力资源,大肆强掳抗日军民和无辜百姓为日本充当劳工,从事无偿的劳役,施以非人的待遇,造成众多中国人的死亡和残疾.给无数个中国家庭带来了巨大的灾难。
第二次世界大戦の期間、日本軍国主義は、アジアに覇を唱え、世界の雄と称して、中国とその他アジアの国家に対して大規模な侵略戦争を発動し、とりわけ、中国はその戦争による被害が甚大であった。日本の侵略者は、三光政策を強行し、至る所で狂った様に中国の生産物資源を略奪し、様々な残虐で卑劣な手段で労働力資源の略奪に狂奔し、日本軍は抗日軍民と無辜の庶民を日本の労働力として思いのままにし、無償の苦役に従事させ、非人道的な処遇故に中国人の多数の死傷者を生み出し、無数の中国家族に大きな災難をもたらした。
1931年, 日本发动" 九-一八事变“、侵占中国东北三省,建立伪满洲国,l937 年7 月7 日发动"卢沟桥事变”,开始向中国的全面进攻。依据“以战养战"的日本战时基本国策,为了大量掠夺中国的资产和劳动力,为其侵略战争服务,日军于1938 年6 月在北平成立了新民会劳工协会,在青岛成立了山东劳务福利局,在济南成立了山东劳务公司等半官半民的搜刮劳工的机关。1939 年2 月, 日军又在青岛成立了大陆华工公司。1941 年7 月,日本侵略者将上述机关合为一体,组成华北劳工协会,并在北平、塘沽、石门(今石家庄)、太原、济南和青岛等地分别设立战俘劳工集中营,关押了众多的抗日军民和无辜群众。日本侵占东北后,仅从华北强掳到东北的劳工就高达800 万人,在煤矿、港湾及军事工程等地从事苦役。
1931年、日本は、柳条湖事件(満州事変)を発動し、中国東北三省を占領し、満州国傀儡政権を樹立し、1937 年7月7日盧溝橋事件(日華事変)を発動し、中国への全面侵攻を開始した。「戦争を以って戦争を賄う」という日本の国策により、中国の資産と労働力を大量に収奪し、侵略戦争に供するために、日本軍は、1938年6月北平(現北京)に「新民会労工会」、青島に「山東労務福祉局」、済南に「山東労務会社」など半民半官の労務者を捕獲する機関を結成した。1939年2月日本軍は、青島に「大陸華工会社」を結成した。1941年7月日本侵略者は、上述の機関を統合し「華北労工協会」を結成し、北京、塘沽、石家庄、大原、済南、青島に戦争捕虜徴用収容所を設立し、多数の抗日軍民と無辜の民衆を押収した。日本の東北(旧満州)占領以降、華北から東北に連行された労働者は、約800万人に達し、炭鉱、港湾、軍事工事などの苦役に従事させた。
随着战争的升级,日本国内劳动力出现严重不足。为解决这一矛盾,日本政府先后颁布了1938 年3 月的《国家总动员法》、1939 年4 月的《防止从业人员移动令》和7 月的《国民征用令》等多种法令。但是,由于对中国大陆派兵的不断增加和国内军工生产的日益扩大,国内劳动力不足的状况愈加严重。
戦争の拡大に伴い、日本の国内労働力は顕著に不足した。この矛盾を解決するために日本政府は、1938年3月の「国家総動員法」、39年4月の「従業員移動防止令」と7月の「国民徴用令」を前後して発令した。しかし中国大陸への派兵の間断のない増加と国内軍需生産の一層の拡大により、国内労働力の不足状況は、一層深刻となった。
1941 年12 月,太平洋战争爆发,更多的日本青壮年投入侵略战争,国内劳动力更加枯竭。因此, 1942 年11 月27 日,日本东条英机内阁通过了《关于向国内移进华人劳工事项的决定》,指出"鉴于内地(指日本国内)劳动供需关系日益紧张,尤其是重体力劳动部门劳力显著不足的状况,根据下述要领,将华人劳工移进内地,以便使其参与大东亚共荣圈的建设" 。根据日本东条内阁的旨意,侵华日军从1943年3 月至11 月,将1411 名中国人先行"试验性的移人"日本,从事重体力劳动。经过一年的试行之后, 1944 年2 月28 日,日本次官会议又作出《关于促进华人劳工移进国内事项的决定》的执行细则。列入《1944 年度国民动用计划》中的中国劳工人数为3 万名,从此正式开始实施无代价地大量抓捕中国人到日本从事重体力劳动的计划。这样, 从1943 年3 月开始,到1945 年5 月止,共强行移进169 批、38935名中国劳工到日本国。其中华北劳工协会34717 人,华北运输公司1061 人,华中劳工协会1455 人,南京伪国民政府机关682 人,伪满福昌华工公司1020 人。(以上是日本官方统计)
1941年12月、太平洋戦争が勃発し、さらに多くの日本青年が侵略戦争に投入され、国内労働力は更に枯渇した。1942 年11月27日、日本の東條英機内閣は、「中国人労働者の国内徴用に関する決定」で、国内労働力の需給関係が日増しに逼迫し、とりわけ重労働部門の労働力の不足が顕著であり、後述の要領により、中国人労働者を日本に移送し、大東亜共栄圏の建設に関与せしめると指摘した。日本は東條内閣の趣旨により、日本軍は、1943年3月から11月にかけて、1411名の中国人を試験的に日本に先行移送し、重労働に従事させた。一年間の試行期間を経て、1944年2月28日、日本は事務次官会議にて、中国人労働者の国内移送の促進に関する決定を行い、細則を執行した。 1944年国民総動員計画に中国人労働者を3万人計上し、これにより、正式に対価を払うことなく、大量に中国人労働者を日本に移送し、重労働に従事させる計画の実施を開始した。 このように1943年3月から1945年5月まで、強制移送は、169回に及び、38935名の中国人労働者が日本に連行された。その内訳は華北労工協会34717人、華北運輸会社1061人、華中労工協会1455人、偽南京政府機関682人、偽満州福昌中国人労工会社1020人である。(以上政府資料)
根据1990 年12 月20 日出版的,由日本田中宏等人编著的《强掳中国人的记录》一书记载, "实际被赶上船运往日本的中国人由于饥饿、疾病和迫害,乘船劫运前己死亡2823 人,强掳中国人实际应为41758 人。抓捕中国劳工到日本本土是在日本驻华日军和汪伪国民党卖国政府及华北政务委员会指导下,由劳力统制机关(如华北劳工协会)负责组织实施的。被掳往日本的中国劳工大致有如下情形:
1990年12月20日出版された日本の田中宏らの編集した「中国人強制連行の記録」によれば、実際乗船して日本に向かう中国人は、飢餓、疾病と迫害により、乗船前に2823人が死亡し、実際に強制連行されたのは、41758人である。日本本土に連行された中国人は中国駐留の日本軍と汪兆銘南京国民党政権及び華北政務委員会の指導のもとに労働力統制機関(例えば、華北労工協会)が組織して実施したものであり、日本に連行された労働者は、おおよそ以下のような状況であった。
1.中国劳工的成分及来源。被抓到日本的中国劳工从组织成分来看:一是爱国抗日的中国军队的指战员;二是没有暴露身份的共产党抗日救亡干部; 三是贫苦的农民、工商业者、教师和青年学生;四是失去日军信任或拟投八路军的原亲日伪军,这是极少数。从地域上来看,华北为35778 人,占赴日劳工的90% 以上;华中为2137 人;伪满统治区为1020 人。
1.中国労働者の構成と由来について:日本に連行された中国人労働者の組織構成は第一に、愛国抗日中国軍隊の将兵、第二に、共産党とはされなかった抗日救国幹部、第三に貧困にあえぐ農民、商業者、教員と青年学生、第四にこれは極めて少ないが、日本軍から信頼を失ったあるいは八路軍に投降したもともとは日本軍の傀儡兵である。地域構成でみると、華北35778人、これは日本の連行人数の90%以上を占める。華中が2137人、偽満州統治区が1020人である。
2.中国劳工被强制输出的分类:一是行政供出。即日军通过日伪政权和劳工协会逐级下达指标,强制其提供劳工。二是训练生。即日军在作战"扫荡"中捕俘的中国士兵以及采用"猎兔法作战"抓捕的平民百姓以八路军的名义送进集中营训练后送往日本。三是"自由"征募。主要是指华中地区,采取诱骗的方法招募工人,说"自由"并没有自由,和其他劳工一样。四是特殊提供。对具有装卸、木工等技术的现职工人,根据紧急需要强募输入。
2.中国人労働者の強制連行の供出先分類について:第一が行政機関からの供出である。つまり日本軍が、日本の傀儡政権と労工協会が逐次目標を下達して、強制的に労働者を提供した。第二は訓練生である。これは日本軍による掃討作戦で捕虜とした中国兵および「兎狩り作戦」(訳者注:巻末参照)による捕獲した民衆を八路軍兵の名義で集中兵営に入れ、訓練して日本に送り出したものである。第三が「自由」応募である。これは華中地区を指し、騙されて応募した労働者であり、自由だと言われたが、実際には自由はなく、その他の労働者と同一であった。第四が特殊供出である。積み下ろしに必要な場合に大工などに対して、緊急要請に基づき強制移送した。
3.中国劳工在日本各地的分布:从中国抓捕的战俘劳工运抵日本后,分配到日本各地的35 家企业的135 个作 业场。这些作业场从北方到南方,遍布日本本土各地。
3.中国人労働者の日本分布について 中国で捕獲された捕虜労働者は、日本到着後、日本各地の35企業の 135箇所の作業所に送致された。それらの作業所は、北方から南方まで、遍く日本各地に及ぶ。
花冈惨案
花岡虐殺事件
位于日本秋田县北部的花冈,是当时强制中国劳工的日本35 家企业的1 35 个作业场中的一个。 1944 年7 月,被日军强行抓捕的300 名战俘、农民一道,经过七天七夜的海上漂泊,首批押往花冈铜矿,被迫为"鹿岛组" (今鹿岛建设公司)做苦工。 之后,又有1945 年4 月的第二批600 人, 1945 年5 月的第三批100 人被押赴花冈中山寨集中营。这样,俘虏和被抓的三批共计1000 名中国人,除中途逃跑和被迫害致死的,押上货船的有986 人,实际到达中山寨的为979 人。
秋田県北部に位置する花岡は、中国人労働者を強制連行した日本の35企業の作業所の一つである。 1944年7月、日本軍に捕獲された300名の捕虜は農民とともに7日7晩の海上渡航を経て、主に花岡銅山に送致され、鹿島組(現鹿島建設)により、苦役を課された。その後L1945年4月に第2波として600人が、1945年5月に第3波として100人が、中山寮宿営所に送致された。このように捕虜と捕獲された者合計3波に及ぶ1000名の中国人は、途上逃亡や被迫害致死者のため、乗船した者は986人であり、実際に中山寮宿営所に入所したのは979人である。
当年的花冈中山寨,被中国劳工称作"人间地狱" 。中国劳工在当时的"鹿岛组"的监督下从事修建暗渠和修改河道的苦役。劳工们住在用木片搭起的工棚里,每天做15 至16 小时的超强度劳动,以橡子面、苹果渣充饥。严冬时节,劳工们仍身着单衣,足穿草鞋,劳动于严寒和冰冷的泥水之中。严重的饥饿劳累,加上凶恶残暴的"鹿岛组"监工们的打骂摧残,每天都有多名劳工被殴打、虐杀致死,仅半年时间,就有200多人被迫害送命。忍无可忍的中国人决心以死反抗。
当時の中山寮宿営所は、中国人労働者により、「人間地獄」と呼ばれていた。中国人労働者は、当時鹿島組の監督下で、排水溝と河川の改修の苦役に従事した。労働者らは、木片で組み上げられた小屋に住み、毎日15時から16時の重労働が課せられ、ドングリの皮やリンゴで餓えを凌いだ。厳寒の季節に労働者らは、単衣だけを身に纏い、草履で、寒さと氷った泥水の中で従事した。耐え難い飢餓と疲労に加え、残忍極まる鹿島組の現場監督らによる罵倒と殴打が続き、毎日多くの労働者らが虐殺され、わずか半年の間に200名余りが迫害されて命を落とした。忍ぶに忍びきれない中国人は、死をもって反抗することを決心した。
1945 年6 月30 日晚,仇恨难抑的近700 名中国劳工终于暴动。劳工们打死监工,逃往中山寨附近的狮子森山。一场远离中国本土的大暴动震惊了日本朝野,警方出动两万军警围捕枪杀。翌日,余生的中国劳工全部被俘,暴动惨遭镇压。重落日寇魔掌的中国劳工遭到更为残酷的变本加厉的迫害。酷暑7 月,中国劳工被捆绑双手,跪在铺着石子的共乐馆广场上, 三天三夜不给吃喝,日晒雨淋,侮辱毒打。几天过后,广场上尸体遍地,其惨状目不忍睹。此乃闻名于世的"花冈惨案",又称"花冈事件" 。被强掳花冈的979 名中国劳工,共计419 人命丧东漏。
1945年6月30日夜半、恨みを抑え切れない700名の中国人労働者は遂に暴動を起こした。労働者らは現場監督を撲殺し、中山寮宿営所付近の獅子の森に逃げた。中国本土から遠く離れたこの大暴動は、日本の朝野を震撼させ、二万人の軍隊と警官が出動し、これを包囲し銃殺した。翌日、生き残った中国人労働者をすべて捕獲し、暴動は無残にも鎮圧された。再び日本の悪魔のもとに掌握された労働者は、以前より更に酷い迫害が加えられた。酷暑の7月、中国人労働者は、両手を後手に縛られ、石の共楽館広場上に跪き、三日三晩の間、食事も飲み物も与えられず、陽に晒され、雨に注がれ、侮辱の限りに滅多打ちに合い、広場は遺体で覆われ、見るに堪えない惨状となった。これが世に言われる花岡虐殺、花岡事件であり、強制連行された979名の中国人労働者は、合計419名が日本で命を落とした。
1948 年3 月,联合国远东国际军事法庭横滨BC 级军事法庭(第八军法会议) ,以杀害虐待俘虏对”鹿岛组”的4 名监工以及2 名警察判处死刑或20 年徒刑(后均被释放) 。日本有关当局和负有直接残害中国人罪行的鹿岛建设公司,公然违反国际公约,强掳中国劳工井犯下虐待、杀害俘虏的罪行,终以国际军事法庭的判决为标志,永远地被钉在了历史的耻辱柱上。但是,遗憾的是,鹿岛组的干部和日本政府的责任都没有得到追究。
1948年3月、連合国極東裁判横浜法廷BC級軍事法廷(第八軍法会議)は、捕虜の殺害と虐待で、鹿島組の4名の現場監督と2名の警官を死刑及び20年懲役に処した(その後全て釈放された)。日本の関連する当局と中国人を直接殺傷した罪を負う鹿島建設は、公然と国際公約に違反し、中国人労働者を連行し、虐待する犯罪を犯し、捕虜を殺害する罪過を犯したことが、遂に国際軍事法廷の判決を以て刻まれ、永遠に歴史上の恥辱の柱に晒されたのである。しかし遺憾にも鹿島建設の幹部も日本政府もその責任を追及されることはなかった。
正义之声
正義の声
战后,由于历史的原因,国内花冈劳工幸存者之间失去来往,又与日本信息不通,"花冈事件"似不再被人提起。然而在日本,由于爱国华侨、有识之士和日本爱好和平人士的不懈努力, "花冈事件"纪念活动一年也没有停止过。花冈町并入大馆市后,花冈当地政府和市民坚持每年为死难中国劳工举行"慰灵仪式"和不同形式的纪念活动。
戦後、歴史的な要因もあり、国内の花岡労働者の生存者間の往来もなくなり、日本からの情報も途絶え、花岡事件は、再び人々に想起されることはなかったようだ。しかし日本では、愛国的な華僑、有識者や日本の平和愛好家らのたゆまぬ努力で、花岡事件記念活動が1年も滞ることなく、すすめられた。花岡が大館市に編入された以降も、花岡町と市民は毎年受難者を追悼する慰霊祭を開催し、様々な記念活動を行っていた。
1985 年,日本首相以官方名义参拜靖国神社,引起亚太地区各国和日本有识之士的关注。以日本爱知县立大学教授田中宏先生、律师新美隆先生为首的各界人士,于1988 年成立了"强掳中国人思考会",并会同神户"旅日华侨中日交流促进会"秘书长林伯耀先生等,着手进行关于战后遗留问题的研究,为妥善解决日本强掳中国劳工问题做了大量工作。
1985年日本首相が官職名で靖国神社に参拝したことは、アジア太平洋の各国と日本の有識者の注意を喚起した。日本の愛知県立大学田中宏さん、弁護士新美隆さんを始めとする各界人は、1988年「中国人強制連行を考える会」を結成し、同時に神戸「在日華僑中日交流促進会」事務局長林伯輝さんらが、戦後処理問題に関する研究に着手し、日本の中国人強制連行の解決のために多大な活動をすすめた。
松泽哲成及日本的有正义感的专家及有识之士多次远赴美国,查找二战档案,从中搜寻关于"花冈事件"的珍贵史料。林伯耀先生数十次频繁往来于日中之间,亲自组织寻找幸存者,调查掌握了大量"花冈事件"的第一手资料。具有强烈正义感的日本律师新美隆先生,铁肩担道义,同他的律师团一道,以正义的法律之剑,力为中国老人讨回历史的公道…
松澤哲成さんと正義感をもつ専門家と有識者は、数次にわたりアメリカを訪問し、第二次世界大戦公文書を調査し、花岡事件に関する貴重な史料を探し当てた。林伯輝さんは、数十回にわたり、頻繁に日中間を往来し、自ら生存者を訪ねる活動を組織し、花岡事件に関する一次資料を大量に調査把握した。強烈な正義感をもつ弁護士新美隆さんは道義を貫き、他の弁護団とともに、法の持つ正義の剣で、中国老人を歴史の正道に連れ戻そうとした。
1989 年1 2 月22 日,"花冈惨案"幸存者聚集北京,成立了"花冈受难者联谊会"并发表了致当年残酷地奴役过他们的鹿岛建设公司的公开信。信中向鹿岛建设公司提出三项要求: 一、向"花冈惨案"罹难者遗属和幸存者谢罪;二、分别在日本大馆市(当年的花冈町)和北京建立具有一定规模的花冈烈士纪念馆以教育下一代; 三、向"花冈事件"受难者986 人每人赔偿500 万日元,以资象征性地补偿我受难者肉体与精神上所遭受的苦难、创伤和牺牲。幸存的老人们表示,如鹿岛建设公司"执迷不悟",纵使千载之后,他们的子孙也要继续讨还"血债" 。幸存者们提出了工项要求,委托新美隆、内田雅敏、田中宏、内海爱子、林伯耀等在日人士与鹿岛建设公司进行交涉。 1989年12月22日、花岡虐殺事件の生存者は北京に集まり、「花岡受難者友誼会」を結成し、併せて彼らに残酷な苦役をさせた鹿島建設宛公開書簡を発表した。鹿島建設への3つの要求を記載した書簡である。一つは、花岡虐殺事件の罹災者遺族と生存者に謝罪すること。二つめは、日本の大館市(当時の花岡町)と北京に一定規模の烈士記念館を建立し、次世代に教育すること。三つ目は、罹災者986名に一人当たり500万円を賠償し、我々の受けた肉体的精神的な苦難、傷害と犠牲を償う象徴的な補償を行うこと。生存者の老人達は、鹿島建設が、たとえ過ちを認めず、頑固を押し通したとしても、また例え極めて希な事件だったとしても、その子孫はその償いを探し続けるものである。生存者はプロジェクトとして、新美隆、内田雅敏、田中宏、内海爱子、林伯輝らに委託し、鹿島建設との交渉をすすめてほしいとの要望を提出した。
1990 年7 月5 日,在东京鹿岛建设公司本部, "花冈惨案"幸存者及遗属代表与鹿岛建设公司副社长村上光春,就谢罪与赔偿问题进行当面交涉。谈判结束后,发表了共同声明。鹿岛建设公司承认对"花冈惨案"负有"企业责任",井表示了"谢罪之意",对于赔偿,鹿岛建设公司只是承认双方之间存在"必须通过对话努力进行解决的问题"表示待以后协商解决。这纯粹是敷衍搪塞, 一拖就是6 年,再无任何结果。
1990年7月5日、東京鹿島建設本社にて花岡虐殺事件の生存者と遺族代表と鹿島建設副社長村上光春は、謝罪と賠償問題について交渉を行った。交渉の末、共同声明を発表した。鹿島建設は、花岡虐殺事件に関する企業責任の存在を認め、併せて謝罪の意を表明し、賠償については 鹿島建設は双方に存在する「対話を通じた問題の解決」を承認したとし、その後の協議解決に待つことを表明した。しかしこれは全くいい加減でお茶を濁す態度であり、引き延ばすこと6年、いかなる結果をもたらさなかった。
艰难的诉讼
耐え難い訴訟
1995 年6 月28 日, 11 位"花冈惨案"幸存者及死难者遗属代表组成原告团,正式向东京地方法院递交了一份长达308 页的起诉书,状告鹿岛建设公司残酷虐待加害我中国劳工的罪行,并提出给予民间赔偿的正当要求。东京地方法院受理此案后,于1995 年12 月20 日首次开庭审理。 "花冈暴动"是二战期间唯一的发生在异国的暴动, "花冈事件"也是日本强掳中国人事件中在战争犯罪法庭作出历史性判决的案件之一, "花冈事件"诉讼案又是中国公民首次向日本法院控告二次大战中负有罪责的日本企业的首桩民间索赔案,因而备受中日及世界各国的关注。新华社、中国中央电视台"新闻联播"、"焦点访谈"、"时空报道" 、"东方之子"等栏目相继连续报道,海外新闻媒体也纷纷作了大量详尽的报道。
1995年6月28日、11名の花岡虐殺事件の生存者と罹災者代表が原告団を結成し、正式に東京地裁に膨大な308頁の書面をもって提訴し、鹿島建設がわれわれに対して行った残虐な虐待の罪状を告発し、併せて民事賠償事件として正当な要求を提出した。東京地裁はこれを受理し、1995年12月20日、初法廷を開廷した。 花岡暴動は、第二次世界大戦期間発生した唯一の異国における暴動であり、花岡虐殺事件は、日本の中国人強制連行はとして、戦争犯罪法廷において歴史的な判決を言い渡した事件の一つであり、花岡事件訴訟もまた中国市民が、はじめて、日本の裁判所に提訴した第二次世界大戦中の犯罪責任を負う日本企業に対する民事訴訟裁判であり、中国はもとより、世界各国からの注目を集めた。新華社、中国中央電視台の「新闻联播」「焦点访谈」「时空报道」「东方之子」などにて相次いで連続して報道され、海外目メディアも大量に詳細にわたる報道を次々と行った。
然而, 一次次地开庭, 一次次地叫人失望, 一次次地令人遗憾! 让我们从开庭时间上看:
1995 年12 月20 日,第一次开庭,开庭时间120 分钟;
1996 年2 月19 日,第二次开庭,开庭时间40 分钟;
1996 年5 月13 日,第三次开庭,开庭时间仅30 分钟;
1996 年7 月8 日,第四次开庭,开庭时间约30 分钟;
1996 年9 月30 日,第五次开庭,开庭时间约30 分钟;
1996 年11 月25 日,第六次开庭,开庭时间约30 分钟;
1997 年2 月3 日,当第七次开庭后仅15 分钟,园部秀穗裁判长突然宣布,终止审理此案,然后拂袖而去,使在场的人无不为之震惊。
这就是东京地方法院对一桩重大国际性历史惨案的全部审理。纵跨3 个年头的"马拉松"式审理,总共7 次开庭而累计不足5 个小时。
此后,原告团、律师团及日本各界友好人士,纷纷抗议法庭的非法结审行为,并一再要求重新开庭并公正审理此案,但东京地方法院始终不予理睬。
しかし開廷すればするほど、人々は次々に失望し、更に次々に落胆するばかりであった。
1995 年12 月20 日,第1回審理,開廷时间120 分;
1996 年2 月19 日,第2回審理,開廷时间40 分;
1996 年5 月13 日,第3回審理,開廷时间たった30 分;
1996 年7 月8 日,第4回審理,開廷时间約30 分钟;
1996 年9 月30 日,第5回審理,開廷时间約30 分钟;
1996 年11 月25 日,第6回審理,开庭时间约30 分钟;
1997 年2 月3 日,この第七回審理は、僅か15 分間であった。園部秀穂裁判長は、突然審理の終了を宣言し、袖を払い、憤然と立ち去り、その場にいたひとはすべて唖然とするばかりであった。つまり、これが東京地裁のこの重大で世界史的な虐殺事件の審理の全てであった。三年にわたるマラソン式裁判であったが、7回にわたる審理は合計してもわずか5時間にも満たなかったのである。
この後、原告団、弁護団と日本各界支援者は次々と、法廷の不法な審理指揮に対して抗議し、併せて再度の開廷と公正な審理を要求したが、東京地裁は、終始取り合うことはなかった。
无理判决
理不尽な判決
1997 年12 月6 日,原告团代表耿谆、张肇国、孟繁武、赵满山一行抵达东京,参加东京地方法院将于1 2 月10 日对"花冈事件"诉讼案的最后判决。
1 2 月10 日下午2 时30 分,按照法庭的指定,原告团的4 位老人在新美隆、内田雅敏、清井礼司等8 名原告律师的陪同下, 经由侧边门进入103 号法庭。这是东京地方法院最大的法庭,百十座位的旁听席远远满足不了要求,法庭外边的走廊上,挤满了来自日本各地的华侨和关心本诉讼的人们。
1997年12月6日、原告団代表耿谆、张肇国、孟繁武、赵满山らは東京に到着し、12月10日東京地裁の花岡虐殺事件の判決法廷に出廷した。
12月10日午後2時30分、法廷の指定により、原告団老人4名は、新美隆、内田雅敏、清井礼司等8 名原告弁護団の陪席のもと、通用門から103号法廷に入廷した。ここは、東京地裁の最も大きな法廷であり、110席の傍聴席さえも、傍聴希望者を収容することができず、法廷の外の廊下には、日本各地からの華僑と本訴訟に関心をもつ人々で埋め尽くされていた。
下午3 时,民事13 部裁判长园部秀穗和另外两名法官进入法庭。
紧接着,园部宣读判决结果。仅仅不到10 秒钟的时间, 他即闪电般地判决完毕。坐在原告席上的老人们尚没有反应过来怎么回事,身边的翻译也没有来得及把意思讲给原告听,已见园部裁判长匆匆推开身后的大门,逃也似的离开了法庭。旋即,法庭淹没在一片海乱的气氛中,抗议声、怒骂声此起彼伏。
东京地方法院的判决是:一、驳回原告一切请求;二、诉讼费用由原告负担; 三、原告的再上诉, 附加期为60 天。
中国原告败诉!
午後3時、民事13部裁判長園部秀穂と2名の陪席判事が入廷した。直後、園部は判決を読み上げた。10秒に満たない時間に、彼は電光石火に判決を下したのである。原告席上の老人らは、なにが起こったのかさえ判らなかった。側にいた通訳さえ、意味を原告に説明する余裕さえないものであり、ひとり、園部裁判長は、そそくさと背後の扉を開き、逃げるように法廷をあとにしたのである。法廷は、忽ちパニックに陥り、抗議と罵声で埋め尽くされた。
東京地裁の判決は、一、原告の請求は一切棄却する、二、訴訟費用は原告負担とする、三、控訴は60日以内に行うこと。であった。
中国側原告は敗訴した。
在10 日下午4 时举行的新闻发布会上,耿谆高举书写着"东京法院失公道,战犯鹿岛罪不容"的标语,严厉谴责鹿岛建设公司拒不承认历史罪恶和东京地方法院亵读法律的卑鄙行径,老人们愤怒地表示,这一判决有失公道,拒绝接受并将继续上诉,直至讨回历史公道。
他们说:这是日本法庭制造的第二起"花冈惨案" 。
东京地方法院对" 花冈事件"诉讼案的非法判决,在中国,在日本,在世界许多国家引起强烈反响,纷纷对其颠倒法律黑白的判决给予批判和抨击。
1997 年12 月12 日, "花冈惨案"的幸存原告和原告律师团一道,再度向东京高等法院上诉。
同日,东京高等法院受理此案。
10月午後4時に開催された記者会見上で、耿谆は、高く「東京地裁は正道をなくした!戦犯鹿島の罪は許されない!」を掲げて、鹿島建設による歴史的罪悪と東京地裁の法を冒涜する下劣な行いを厳しく叱責し、老人らは激怒して判決に正道はなく、受入を拒絶して控訴し、歴史の正道を取り戻すまで闘うことを表明した。 彼らは言った。これは日本の法廷が造った第二の「花岡圧殺事件」だ。
東京地裁による花岡虐殺事件の不法判決は、中国、日本、世界の多くの国家に強烈な反応を引き起こし、次々とその法律の白黒を転倒する判決に対して、批判と論駁が渦巻いた。
1997年12月12日、花岡虐殺事件の生存者原告は原告弁護団とともに、東京高裁に控訴した。
同日、東京高裁はこれを受理した。
达成和解
和解の成立
1998 年7 月15 日,东京高等法院正式开庭,审理原告们的申诉。此后,东京高等法院相继6 次开庭,进行了原、被告双方及其代理人之间的法庭口头辩论。
1 999 年9 月10 日,东京高等法院第17 民事部提出"职权和解劝告" 。经过当事双方代理人之间的20 次协商, 2000 年11 月29 日, "花冈事件诉讼"最终达成和解。依和解书条款,鹿岛建设公司一次性支付5 亿日元,设立"花冈和平友好基金",用于对986 名受难者的赔偿、慰灵,遗属的自立、护理以及后代的教育等。 达成和解的意义在于: 1 、成为受害中国劳工讨回历史公道斗争的一个突破口; 2 、成为解决日本政府强掳中国劳工问题的阶段性胜利的标志; 3 、成为花冈和解之后解决诸如西松和解等的重要参照。
1998年7月15日、東京高裁は控訴審を開廷し、原告側の訴状を審理した。その後、東京高裁は6回の法廷を開廷し、原告及び被告双方とその代理人による口頭弁論を行った。
1999年9月10日、東京高裁民事17部は、「職権和解」勧告を行った。当事者双方の代理人による20回にわたる協議を経て、2000年11月29日、双方は、花岡虐殺事件に関する最終和解に達した。和解約定書によれば、鹿島建設は、一括資金として五億円を支払い、「花岡平和友好基金」を設立し、986名の受難者の賠償、慰霊、遺族の自立と保護、次世代への教育に資することで和解した。
和解の成立の意義は、第一に中国人労働者の歴史の正道を勝ち得る闘いの突破口となること、第二に、日本政府による中国人労働者強制連行に関する段階的勝利として刻まれること、第三に、花岡虐殺事件の和解は、例えば西松建設事件などの解決に重要な参照事例となることである。
大阪·花冈对日本政府诉讼
大坂・花岡での日本政府への提訴
2015 年6 月26 日上午,大阪、花冈两地的13 名中国劳工受害幸存者及其遗属在日本大阪地方法院递交诉状,状告日本二战期间强掳中国劳工的罪行,向日本政府提起国家赔偿诉讼。 起诉书提出以下五点要求: 1 、被告向每位原告支付550 万日元以及诉状送达第二天起到支付完毕期间的年利息5 分; 2 、被告对每位原告交付另纸一的谢罪文; 3 、被告对每位原告在日本的《每日新闻》、《产经新闻》、《读卖新闻》、《朝日新闻》以及《日本经济新闻》上按另纸四的条件刊登另纸二的谢罪公告; 4 、被告对每位原告在中国的《人民日报》、《中国青年报》、《南方日报》、《光明日报》以及《文汇报》上刊登另纸三的谢罪公告; 5 、诉讼费用由被告负担。
2015年6月26日午前、大坂と花岡両地区の13名中国人労働者存命者とその遺族は、大坂地裁に訴状を提出し、日本の第二次世界大における中国人労働者に対する犯罪に対して、日本政府に対する国家賠償責任訴訟を起こした。訴状は以下の五点を要求するものである。第一に、被告は、原告への支払金550万円に対して、訴状提起以降、支払完了迄の期間に対して、利子5%を支払え、第二に、被告は、原告に対して別記の謝罪文を発出すること、第三に、被告は《每日新闻》、《产经新闻》、《读卖新闻》、《朝日新闻》及び《日本经济新闻》紙上において別記4つの条件に関する謝罪を告知すること、第四に、被告は中国の《人民日报》、《中国青年报》、《南方日报》、《光明日报》以及《文汇报》紙上に謝罪文を掲載すること、第五に、訴訟費用は、被告負担とする。
作为此次向日本政府诉讼的重要目的之一,在要求适当赔偿金的同时,要求日本政府对过去的罪责进行深刻反省,对原告方进行真诚的公开谢罪。要求的谢罪文内容如下所示:
今回の日本政府に対する訴訟の重要な目的は、賠償金に関する要求の適切さと同時に日本政府の過去の贖罪への真摯な反省とともに原告に対する誠実な謝罪を求めたものである。
要求した謝罪文は以下の通りである。
"向被强掳奴役的中国受害者及其遗属真诚谢罪"
"战争时期被强掳到日本作业场从事奴役劳动的原告李铁垂先生、张广勋先生,被强掳奴役后死亡的受害者遗属宋明远先生以及其他原告们,由于给你们造成了身体上,精神上的极大痛苦和经济上的损害,日本国在此谨表示真诚的谢罪”
「強制連行で苦役をなめた中国人被害者とその遺族に誠意をもって謝罪せよ」
「戦時中日本に強制連行され、日本の作業所で苦役を強いられた原告李铁垂さん、张广勋さん、強制連行後に死亡した被害者遺族の宋明远さん及び其の他の原告らへのあなた方の精神的な極まりない苦痛と経済的損害に対する日本国の誠意による謝罪を表明せよ!」
并且, 日本国的谢罪为时过晚,因此,这一谢罪不能完全消除你们的痛苦,不能完全缓解你们的愤怒。对此日本国也表示衷心的谢罪。
在侵华战争时期,日本国为了弥补劳动力的严重不足强掳近4 万名中国人到日本,并押送到35 家企业的1 35 个作业场从事苦役劳动。在当时的日本政府的鼓励之下,日本企业残酷奴役中国人,致使6830 余名中国人被残害身亡,使许许多多的家庭妻离子散,家破人亡。
尚かつ、日本の謝罪は、遅きに失し、この為、謝罪は完全に行われず、彼らの苦痛を取り払うことができず、かれらの憤りを完全に解消できていない。これらについて、日本は心からの謝罪は表明すべきである。 日本による中国侵略戦争において、日本は、国内労働力の深刻な不足を補うために4万人の中国人を日本に連行し、35企業の135作業所に送致し、苦役労働を強いた。当時の日本政府の奨励のもと、日本企業は残酷に中国人を使役し、6830名余の中国人を死に追いやり、膨大な家族子女との離散を強い、家と家族が喪失した。
并且,在接受波茨坦宣言以后直到现在,日本国也始终没有采取任何妥善的措施挽回中国人蒙受的损害,甚至辩解称被强掳奴役的受害者是"合同工",好像你们自愿来日本打工。这严重损害了受害者的名誉。
尚かつ、ポツダム宣言を受諾以降現在に至るまで、日本は、中国人の被った損害に対して何ら適切な措置を終始とらず、甚だしきに至っては、連行・使役された被害者は契約工であるとして、かれらが自発的に日本に働きに来たと言う。これは被害者の名誉を著しく傷つけるものである。
因此,日本国对受害者及其遗属造成了身体上,精神上的极大痛苦和经济上的损害。受害者及遗属因强掳奴役而蒙受了深重的痛苦与损害,对此,日本国作为加害国,应该承担历史、社会、道义、法律上的责任, 向所有的受害者及遗属真诚谢罪,并对殉难的中国人表示诚挚的哀悼。
"前事不忘,后事之师" 。日本国坦诚地承认中国受害者的人权被侵害的这一历史事实,并表示深刻反省。为了绝不重蹈覆辙,日本国将这一历史事实传给后代,并以实际行动维护和促进中日友好。
日本国内阁总理大臣0000 00 年00 月00 日
このため、日本は被害者とその遺族は身体的、精神的な多大な苦痛と経済的な被害を与えた。被害者と遺族は強制連行による使役によって深刻な苦痛と損害を与え、日本は加害国として、歴史的、社会的、道義的、法律的責任を負うべきであり、すべての被害者とその遺族に誠意をもって謝罪し、かつ殉死した中国人に対して衷心を以て哀悼の意を表するものである。
「過去を忘れず、未来の師とする」 日本は、誠実に中国人被害者の人権が侵害されたという歴史的事実を認め、併せて深刻に反省する。再び決してその轍を踏まず、日本はこの歴史的事実を後代に伝え、実際の行動を以って、中日友好を維持促進するものとする。
日本国内阁总理大臣○○○○ ○○年○○月○○ 日
天津"花冈暴动纪念园"开园
天津に「花岡暴動記念園」を開園
2015 年9 月1 日,值中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70 周年,位于天津烈士陵园的"花冈暴动纪念园"正式开园,成为我国第一个被掳劳工专题纪念园、它将作为一个爱国主义教育基地,弘扬以花冈暴动为典型代表的中华民族敢于抗争、不甘屈辱的精神。
2015年9月1日は、中国人民の抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70周年であり、天津に烈士霊園として「花岡暴動記念園」を正式に開園し、我が国最初の徴用工をテーマとした記念園となり、ここは愛国主義教育基地として、花岡暴動を中華民族の抗戦と屈辱に甘んじない精神の典型を表すものとして発揚するものである。
"花冈暴动纪念园"占地约2200 平方米,内设主题雕塑墙,展现了劳工被强掳、苦役,组织暴动, 回国以及遗骨送还、花冈事件和解的全过程,该浮雕高3 米多,长约28 米,其上镑刻着被强掳到花冈的劳工名单。
「花岡暴動記念園」は、2200平米の面積を持ち、彫造壁画を備え、徴用連行、苦役、暴動組織、帰国及び遺骨回送、花岡虐殺事件の全過程を表すレリーフは、高さ3メートル、長さ28メートルに及び、花岡に送致された労働者名が刻まれている。
另外,同样位于天津烈士陵园的"在日殉难烈士·劳工纪念馆"经整新后也于当日开馆。该馆建筑面积1352 平方米,是全国唯一存放在日殉难烈士劳工骨灰的纪念馆。该馆分为两层,一层为骨灰馆,存放着2316 盒在日殉难劳工骨灰;二层为展馆,展出《东赢血泪一中国劳工在日本》。自2006 年8 月1 8 日展出至今,先后有30 万人次来馆参观。此次改陈后展览共分六大部分,分别为:地狱之行、身陷囹圄、宁死不屈、回归祖国、寻求正义、还我公道。
この他、花岡暴動記念園には、「在日殉難烈士・労工記念館」が新装し当日開館した。開館面積は1352平米であり、ここは全国唯一の在日殉死徴用労働者の遺骨慰霊祈念館である。この記念館は二階に分かれ、一階は、遺骨館であり、2316名の在日殉死者の遺骨を納め、二階には、展示館として、「日本における血と涙〜中国徴用工」がある。2006年8月18日より展示し、今日に至る。前後30万人が来館参参観している。この度、陳列を改装し、6つに大別陳列し、その分類は、地獄行き、監獄幽閉、決死不屈、祖国帰還、正義求道、正道回帰である。
(完)
注記1:「三光作戦」
日中戦争で日本軍の陸軍、特に北支那方面軍などが1940年8月以降、中国華北を中心に、抗日ゲリラ対策としてその根拠地へ行ったとされる燼滅作戦(じんめつさくせん)と呼ばれる掃討作戦。北京語では「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」(中国語: 殺光、焼光、愴光)の接尾文字「光」をとって三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)。ウィキペディア
注記2:「兎狩り作戦」
1942年8月頃、我々予備隊は、千葉参謀よりどのようにしたら体力のある中国人を効率よく捕らえられることができるのかの訓練課題を言い渡された。課題として出されたことは、一個中隊を幅4キロの横広に展開(各中隊の各分隊は一列縦隊)し、各大隊はいずれも中隊を並列させて、担当する正面の網の中へ中国人を追い込むという方式である。ちょうど兎を捕る時、大きな円を描くように包囲網を作り、各人が石をたたき、缶をたたいて包囲を圧縮しながら、あらかじめ仕掛けた網に追い込んでからめ捕るのと同じ方法である。
(小島隆男 中国帰還者連絡会会員 1998年2月没)
by inmylife-after60
| 2019-04-26 13:14
| 歴史認識・歴史学習
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