2019年 04月 27日
白井聡「永続敗戦論」の読み方 |
白井聡「永続敗戦論」の読み方
〜敗戦を否認するが故に敗北が無期限に続く——それが「永続敗戦」〜
この本は、日本の戦後史を理解する上で重要な論点を提起していると思う。私の読み方を紹介する。その論点とは、①日本の戦争終結とその現実②日本の領土問題の本質③戦後における日本の「国体」形成過程の3つである。
1)日本の戦争終結とその現実をどのように考えるか?
日本の為政者は「敗戦」という単純な「事実」を認めようとしない
戦後の為政者の多くは、とりわけ自民党のなかでも改憲を掲げる勢力は、敗戦を認めない。その端的な表現として、8月15日を決して「敗戦記念日」とは言わない。
日本の戦争終結日をどのように考えるかは、大きな歴史認識の一つである。それは日本の「戦争終結」に関わる最初の問題であるからだ。
沖縄戦の戦争終結は、6月23日である。いまでも沖縄では、この日を沖縄戦の慰霊の日として、特別な日としている。一方で8月15日以降も戦闘が継続した地域がある。樺太と千島列島である。樺太は8月25日、千島は9月5日まで続いたと言う。
日本の戦争終結は、ポツダム宣言を受諾した8月14日から、アメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上で降伏文書が受理された9月2日までを指すと言われる。一方で日中戦争における降伏文書調印式は9月9日南京である。
日本としての戦争終結は、ポツダム宣言を受諾した8月14日であり、連合国に対する無条件降伏日として記憶されるべきであろう。
現安倍晋三内閣総理大臣は、「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかりたたきつけたものだ」と解説し、更に「ポツダム宣言をつまびらかに読んでおりません」と答弁した。
戦争終結日を、ポツダム宣言を受諾した8月14日として捉えることが、戦後史を考える上で基本的な認識であろうと思う。
以下「永続敗戦論」から引用する。
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P42
「日本の戦後は、敗戦の罰を二重三重に逃れてきた。つまり本土決戦放棄、寛大な戦後賠償、限定された戦犯処分、朝鮮特需を起点とする驚異的な成長、米軍による朝鮮と台湾に暴力的な支配の貫徹、沖縄の軍事要塞化、そして「国体の護持」、冷戦構造の進展という要素が「日本は第二次世界大戦の敗戦国である」という単純な事実を覆い隠してきた。」
「敗戦国」であるという現実を動かすことはできない。動かす方法があるとすれば、もう一度戦争をして、勝つ以外に道はない。
P47
「今日表面化してきたのは、「敗戦」そのものが決して過ぎ去らないという事態、すなわち「敗戦後」など実際には存在していないという事実に他ならない。それは二重の意味においてである。戦後の帰結としての政治・経済・軍事の直接的対米従属とその永続であり、一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽(それを否認する)するという日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造は、変化していないという意味で敗戦は二重化された構造をなして継承している。無論この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているが故に、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は「永続敗戦」と呼ぶ。」
P48
「日本帝国は決して負けていないという「信念」は、突き詰めれば、ポツダム宣言、東京裁判判決、サンフランシスコ講和条約を否定するものである。彼らは、そのような蛮勇を持ちあわせていない。ゆえにかれらは、国内およびアジアに対して敗戦を否認することで自らの「信念」を満足させながら、自分達を支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続けるといういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するが故に敗北が無期限に続く——それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。」
2) 日本の領土問題とこれを制約する本質をどう見るのか
日本の為政者は、日本の領土問題の本質的制約をみようとしない。
日本の戦後は、つまりポツダム宣言を受諾した結果からの再起である。人間が、再起を誓うときに何を糧にするのかを考えれば、誰でも、再起をしなければならなかった失敗の原因を真剣に分析し、再び同じ過ちを繰り返さないための方策を必死考えるはずである。
しかし、日本の為政者たちは、その簡単な人間の営みを省みることなく、駄々をこねて問題をすりかえて、その問題を相手国に転化し、その結果に関する責任を取ろうとしない。だからいつまで経っても問題は解決しない。尖閣しかり、竹島しかり、北方四島しかりである。問題を解決するのではなく、問題を作り出すことで、日本の戦前統治の正当性を永続的に主張できるからである。これは、謂わば「永続返還論」である。
3つの領土問題とは、つまりポツダム宣言(1945年7月26日発出を受諾した)を受諾した故の日本の避けられない「本質的な制約」によるものである。
第8項の「カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。」である。
但し、千島列島の処理はこの宣言以外の制約による。それはアメリカの沖縄戦による沖縄占領を意図した上で、ソ連の対日参戦取引としての「千島列島」の譲渡として推察される制約である。日本の全権代表である吉田首相は、このアメリカの意志と意図を忖度して、サンフランシスコ講和条約で、その放棄に同意したのである。つまり、北方4島どころか、全千島を放棄したのは、アメリカの意を汲んだ日本の譲歩によるものであり、そもそもの起源に戦勝国と敗戦国の本質関係が介在するからである。
尖閣も、竹島も、ポツダム宣言を源とするサンフランシスコ講和条約第2条(a.b.c)により、「連合国側が帰属を決する」とした諸島である。
現在係争する領土問題は、この基本原則を前提にした外交交渉が必要であり、その前提を出発点とする交渉でなければ、永遠に解決しないであろうし、日本の主張が通る見通しはないと言える。
ここでの論議ではないので、省略するが、第3条が沖縄、奄美大島、小笠原の米軍による占領分離に関する条項であり、第4条が現在韓国との関係で揉めている「韓半島」に関する旧大韓帝国と旧日本帝国両国間の債権、債務に関わる請求権に関する交渉を促す条項である。
日韓請求権協定とはなにかを理解する上で、この第4条(a)は必読である。
以下「永続敗戦論」から引用する。
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P52〜
「日本の抱える3つの領土問題にかんして日本政府がとっている「日本の固有の領土」という論理は共通していること、そして領土問題を巡って燃え上がる日本のナショナリズムがどのケースにおいてもある重大な政治的事実と歴史を見落としているという点において、3つの問題はまったく同様の問題として立ち現れている。」
P53〜
「結局のところ、国家の領土を決する最終審は、暴力である。すなわち、歴史上の直近の暴力(戦争)の帰趨が、領土的な支配の境界線を原則的に規定する。日本の領土問題にとって、この「直近の暴力」とは、第二次世界大戦に他ならない。日本社会の大半のひとが、見落としていることは、3つの領土問題が何れもが第二次世界大戦の戦後処理に関わっている。つまり、この戦争に敗北したことの後始末であるという第三者的にみれば当然の事情である。このことは、日本と他国との領土問題の処理の仕方が、ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ講和条約に至る一連の戦後処理の基本方針によって規定されざるをえないということを意味する。」
P53~
「このことが理解されない限り、領土問題の平和的な解決はあり得ず、従って、これらのそれ自体は些末な問題が、戦争の潜在的脅威である続ける状態は終わらない。しかし結論から先にいえば、この国の支配的権力は、敗戦の事実を公然と認めることができない(それはその正当性の危機につながる)がゆえに、領土問題の道理ある解決にむけて前進する能力を根本的に持ち得ない。」
P62〜
「日本の領土問題において、日本国家が大前提にしなければならない原則は、第一義的にポツダム宣言第8条によって与えられている。その条文は次のように述べている。
「カイロ」宣言の条項は履行されるべく、又は日本国の主権は本州、北海道、九州、四国並びに吾らの決する諸小島に局限されるべし」
a)尖閣問題(1895年1月14日日本領閣議決定について
P68 サンフランシスコ条約第2条(b)
「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、原権及び請求権を放棄する」
P69
「要するに、尖閣諸島が「台湾の一部」であれば、日本は、これに対する正当な領有権の主張をすることができず、同諸島が「沖縄の一部」であれば、日本の領有の主張は、国際的に正当化されうる資格をもつ。とすると、決定的な問題は、日清戦争を契機に尖閣諸島が台湾の一部として、日本領となったのか、それともそれに先だって同諸島はすでに沖縄の一部として日本領であったのかということである。」
P70
「当時の日清間の問題は、尖閣諸島のみの問題ではなく、尖閣諸島の帰属問題ではなく、尖閣諸島を含む沖縄全体の帰属問題であった。「それゆえにこそ、日清戦争以前を扱った歴史史料のなかで尖閣諸島の帰属問題を個別に取り上げた史料は皆無なのである。清国が、沖縄全体の帰属問題に異論があったのだから、尖閣諸島云々を言わなかったのは、あたり前のことである。」(羽根次郎「尖閣問題に内在する法理的矛盾〜「固有の領土」論の克服のために」『世界2012年11月号』)」
b)北方領土問題について
P78 サンフランシスコ条約第2条(c)
「日本国は、千島列島並びに日本国が、1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれの近接する諸島に対するすべての権利、原権、及び請求権を放棄する。」
P’79
この条文は、すでに確認した線後日本の領土画定の原則から逸脱するものであった。なぜなら南樺太は、日露戦争の結果として、日本がロシアから獲得したものであり、これが日本から失われることは、原則にかなっていた一方で、千島列島は1875年(明治8年)締結された樺太・千島交換条約によって、平和裡に日本に編入されたものだからである。」
「それにもかかわらず、時の吉田政権は、この条約を呑んでしまった。(中略)ここでなによりも重要なポイントは、日本が千島列島を放棄することに同意した、という事実である」
c)竹島問題(1905年1月28日閣議決定)について
P88 サンフランシスコ条約第2条(a)
「日本国は、朝鮮の独立を承認し、済州島、巨文島、鬱陵島(うつりょうとう)を含む朝鮮に対するすべての権利、原権及び請求権を放棄する」
P89
「こうした状態(52年李承晩ライン宣言による竹島編入と54年竹島駐留部隊派遣)は1965年の日韓基本条約(付随して締結された漁業協定)締結によって一応解消されたが、同条約には竹島問題は明記されず、事実上棚上げされて今日に至っている。」
P90
「但し、日韓漁業協定(65年締結99年新協定締結)で竹島周辺は、「暫定水域」として規定され、操業面では、日本側が実質的に譲歩する結果となった」
3) 戦後の日本の「国体」をどのようにみるか
昭和天皇からみれば、それは米軍をして征夷大将軍として統治させること
このテーマは白井氏の続編「国体論〜菊と星条旗」の主要なテーマでもある。永続敗戦論では上記の結論を明確に述べていないが、その痕跡は多数にある。
征夷大将軍職とは、慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令によって廃止されたものである。
国体の定義は難しいが、一言でいえば、「国のあり方」に関する基本認識を指すと言ってよい。政体ともいえるが、もっと本源的な国の有り様を指す言葉である。
私は、戦後の日本の国体は、天皇の親任する征夷大将軍としての米軍が統治する国家となったとする見解に同意する。
日本の国体を憲法から考えると、立憲主義であり、主権在民と言われる。しかし、現状はすべての主権とその行使は、征夷大将軍にある米軍にあり、その了承の範囲以外に成立しないという現状にあることを世間の人々は理解していない。あるいは、そうだとしても、それ以外に選択肢はないという判断である。
私は日本の戦争終結日を8月14日だとした。しかし、戦後史を理解する意味においては、戦後史の起点を沖縄戦の終結日6月23日と捉えなければならないと思う。
戦後の沖縄は、6月23日以降、北部への捕虜収容所への収監からはじまり、その間の本土決戦のための軍事基地建設と土地強制収容を経て、今日の沖縄における基地基盤形成が開始され、天皇による沖縄県選出議員の権利停止・剥奪(45年12月)、沖縄の行政分離令(46年1月)などを経てGHQ占領体制が始動する。
6月23日から沖縄の歩んできた米軍政下からの民主化のプロセスを知ることが不可欠であり、それなくして、日本の現在の統治構造を転換する術はないと感じてきた。
天皇制は、戦争責任を全く負うことなく、国民の象徴として憲法における位置(46年11月)を確保することができた。国体は辛うじて護持された。
しかし憲法施行から4ヶ月後に天皇メッセージを発する。
「47年9月昭和天皇はGHQ政治顧問ウィリアムジョセフ・シーボルトのもとに側近を送り、いわゆる「天皇メッセージ」を届けさせた。「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を軍事占領しつづけていることを希望している」、但し占領にあたっては日本がアメリカに沖縄を長期租借(25年から50年或いはそれ以上)させる形式をとって両国の共通利益をはかり、共産主義の脅威にたいする日本の安全を確保すべきだ」(進藤榮一:世界1979年4月号————これがその内容である。(「沖縄戦後民衆史」P11)
そして、その5か月後再び以下のメッセージを発する。
「昭和天皇は、翌48年2月に二度目の「天皇メッセージ」をシーボルトに送り、中国ソ連の共産主義勢力に対する防衛線を「南朝鮮、日本、琉球、台湾、フィリピンにかけて引くこと」を提案した。前回のメッセージで提起した日本と沖縄の分離方針を再確認するとともに今度はそれをアメリカのアジア防共戦略全体のなかに定置させようとした(進藤榮一:「分割された領土—もうひとつの戦後史」)。(「沖縄戦後民衆史」P13)
「当安保条約の署名のさい、主席全権委員であった吉田茂首相は独りで署名に臨んだ。サンフランシスコ講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、プレシディオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われたこの調印式には、他の全権委員は欠席しており、唯一同行した池田勇人蔵相に対しても「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので私だけが署名する」と言って一人で署名したという。」
(西村熊雄「サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約」1999年、P.237)
このメッセージの果たした役割は強烈であった。日本の吉田首相は対米交渉の舞台裏の「天皇」のもの謂いに抵抗できる存在にはなく、そのもの謂いのまま、米軍の全土基地方式を呑まざるをえず、日本の「独立」と引き替えに、安保条約を1951年9月吉田首相ただ一人署名したのだと思う。
以下「永続敗戦論」から引用する。
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P168
「永続敗戦のレジームが日本の親米保守勢力と米国の世界戦略によって形づけられたことは改めて言うまでもなく、その中核には日米安保体制が存在することもいまさら指摘するまでもない。
「(豊下楢彦によれば)象徴天皇制というかたちでの天皇制の存続と平和憲法(その裏面としての米軍駐留)という戦後レジームの二大支柱は、ワンセットである。」
P169
「結果として日米安保条約交渉における吉田外交が、通説に反して、拙劣なものにならざるを得なかった理由とは、ほかならぬ昭和天皇こそが、共産主義勢力の外からの進入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を切望し具体的に行動した(ダレスとの接触)形跡である。」
「その結果、1951年の安保条約は、「ダレスの最大の獲得目標であった「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を文字通り米側に保障する条約」として結ばれることになる。」
「またこれらの過程で、沖縄の要塞化、つまりかの地を再び「捨て石」とすることも決定されていった。要するに、天皇にとって安保体制こそが、戦後の「国体」と位置づけられるはずなのであり、そしてこの時、永続敗戦は「戦後の国体」となった。」
by inmylife-after60
| 2019-04-27 18:40
| 歴史認識・歴史学習
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