2019年 05月 12日
東寺:「空海と仏像曼荼羅」展を観た。 |
東京国立博物館 平成館:東寺「空海と仏像曼荼羅」展
本日、東京国立博物館で開催されている「東寺「空海と仏像曼荼羅」展をみた。
空海の長安渡航と密教の伝承についてまとめた。
空海らを乗せた遣唐使船は、延暦23年(804年)6月大坂難波を出航し、途中長崎平戸で補給後7月6日に出航、8月10日に福州(福建省福州)に到着上陸し、長安に入ったのは、12月下旬であったという。大坂から半年程の長旅である。
遣唐使が帰国の途につくと、空海は長安の名僧を訪ね歩き、青龍寺で師となる恵果に出会い、恵果は自分の死が近いことから、空海にはやく灌頂(かんじょう)に入ることを勧め、空海は6月に学法灌頂を受けたという。
学法灌頂とは密教僧になるための儀式で、灌頂を受ける僧は目隠しをして壇上に敷かれた曼荼羅に花を投げ、花が落ちた仏と縁を結ぶという。
空海はまず胎蔵界の学法灌頂を受けたが、花は大日如来の上に落ちて恵果から讃嘆された。その後、さまざまな儀式や修業を行い、七月上旬に金剛界の学法灌頂を受けた。このときも花は大日如来の上に落ち、恵果は驚き、儀式や修行を行ない、再び讃嘆したという。
恵果から授かった真言宗の祖師五人の肖像は、空海が帰国後に、龍猛と龍智という二人のインド僧を加えて、真言七祖像として東寺にいまも残るという。また、金剛盤、五鈷鈴、五鈷杵は恵果がつくらせた密教法具の一部と言われる。
しかし中国から帰った空海は、二十年の予定を二年に短縮したことが問題となり、京に入ることを許されなかったと言う。
その間、大宰府に滞在して留学の様子や持ち帰った経典、仏画などを朝廷に報告した。その報告書が「御請来日録」で、東寺に残る「御請来目録」は、比叡山に延暦寺を建てて天台宗をひろめた最澄が写したものであるという。
最澄は、短期留学僧として空海と同じ遣唐使に加わって入唐し、長安には行かなかったものの、そこで密教の重要性を認識したと思われる。すでに宮中に奉仕していて、空海の帰国報告を審査する立場にあった最澄は、空海が持ち帰った密教経典に関心をもち、報告書を写したのである。空海が都に戻ると、最澄は空海から経典をしばしば借用している。「風信帖」は空海が最澄に宛てた手紙で、両者の交友を示すと言われる。
空海が平安京に入ったのは、大同四年(809年)のことで、都の北西の高尾山の中腹にある神護寺に居を構え、弘仁三年(812年)に日本で初めて結縁灌頂を行なって、密教の普及を始めたという。
空海は承和二年(835)3月21日に高野山で没する。淳和太上天皇は、空海は真言の大家で密教の優れた指導者であり、国はその護持に頼り、動植物に至るまでその慈悲を受けた、という弔辞を送ったという。
空海によれば、密教とは、秘密の教えのことである。空海は、秘密には二つあって、ひとつは無知であるために自ら覆い隠してしまうものであり、もう一つは奥が深くて至ることができないので、あえて説かないものという。(『弁顕密二教諭』)
by inmylife-after60
| 2019-05-12 19:26
| 京都寺社仏閣
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