2019年 05月 13日
神田祭特別企画展 |
神田祭特別企画展を覗いてみた。
昨日(5月12日)上野の東博の特別展のあと、5月15日からはじまる神田明神祭に因んだ特別企画展として末広町に廃校となった中学校を美術館にした「アート千代田3331」で開催された「神田祭の元年」を覗いてみた。
神田明神祭に関する歴史的な経緯などの展示コーナーで、今まで知らなかったことがわかり、とても有意義な機会となった。
神田明神祭は、山王祭(溜池山王)、三社祭(浅草)と並んで江戸三大祭の一つとされている。京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本の三大祭りの一つでもある。
神田明神の祭神は言うまでもなく、平安時代中期に北関東において、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、朝敵となった平将門である。
神田明神祭は、本殿付近の上野末広町を北限に、東は浜町の清洲橋西詰、南は東京駅北口付近、西は神田神保町まで広大な地域の氏子町によって執り行われた。山王祭とともに、江戸城内を通行できる別格待遇をうけ、元禄年間に将軍の上覧を受けたと言い、丑・卯・巳・未・酉・亥の9月15日の行列は、神社の三つの宮御輿の他に、神田周辺の氏子町から36番に編成された山車とともに、附祭(つけまつり)と称して、氏子町以外からの参加者を募り、様々な仮装をして練り歩く祭りとなったとある。
しかし幕末の動乱期以降、縮小が繰り返され、「明治」改元後、城内の堀や城門の通行を許されず、新たな巡行ルートとなり、明治17年9月には46台の山車が揃い久しぶりの盛大な祭りとなったが、明治25年以降、台風の時期を避けるために祭礼日を5月に変更し、その後氏子組織の衰退、祭礼意識の変化もあり、山車や附祭は姿を消したと言う。
山車に替わり、氏子町の町御輿が登場するのは、大正時代に入ってからであると言う。
現在、山車の里帰り、附祭の復活など、神田明神祭の変幻自在な進化をすすめているという。
by inmylife-after60
| 2019-05-13 16:08
| 寺社祭礼
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