2019年 07月 28日
沖縄本島・渡嘉敷フィールドワーク |
沖縄本島・渡嘉敷フィールドワーク
【はじめに】
6月20日から26日まで沖縄米軍基地と沖縄戦を中心に沖縄本島及び慶良間諸島・渡嘉敷島を友人2名とともに各自現地集合・現地解散方式で訪問した。
案内をお願いした方は、沖縄平和市民連絡会共同代表・真志喜好一さんと沖縄平和ネットワーク事務局長・川満昭広さんである。主に沖縄米軍基地に関わる案内は、真志喜さん、沖縄戦に関わる案内は川満さんに担当して頂いた。
訪問先の概要は、以下の通り。
21日午後から6時迄、川満さんと①八重岳慰安婦民家(現在も居住民家)②八重岳野戦病院跡③今帰仁歴史文化センター④沖縄愛楽園⑤嘉手納基地(道の駅)を訪問した。
22日は9時30分より6時迄、①八重瀬公園(白梅学徒隊野戦病院跡)②糸数アブチラガマ(南部観光総合案内センター)③慰安婦跡地④沖縄県平和祈念資料館⑤平和の礎(無人案内所を含む)⑥魂魄の塔⑦山城沖縄陸軍病院本部壕跡(第一外科壕を含む)⑧ひめゆり平和祈念資料館⑨首里城(32軍司令塔壕)⑩旭丘公園を訪問した。
23日は、沖縄「慰霊の日」であり、糸満市摩文仁の平和祈念公園にて沖縄県と県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が開催される。式典周辺での抗議集会、及び沖縄県平和祈念資料館での祈念イベント(児童・生徒の平和メッセージ展など)、平和の礎周辺を見学、その後、反戦団体共催による国際反戦集会に参加し、その後、沖縄平和市民連絡会との交流会を行った。
24日9時から5時迄真喜志さんと①嘉数高台(普天間基地眺望台)②辺野古基地(ゲート前、ボート小屋、第二テント)③本部塩川漁港土砂搬入阻止活動に見学参加し、車中、72年本土復帰以降の沖縄基地問題に関する取り組みについて話して頂き、市民連絡会デスクにて、辺野古新基地建設に関連する「報道ステーション」報道ビデオ(2本)と真喜志さん作成の「辺野古・高江」の米軍新基地に関するビデオ)(1本)入りのCDと沖縄県知事公室基地対策課が3年置きに発行する「沖縄の米軍基地」(A4判530頁2018年12月)を頂いた。
25日泊港発10時のフェリー「渡嘉敷」にて渡嘉敷港にわたり、バスで①阿波連ビーチに向かい、ビーチより、島内唯一のタクシー運転手(米濱さん)の案内で②集団自決跡地(白玉の塔)、③渡嘉敷村歴史民俗資料館を訪問した。
21日、沖縄公立大学の「名桜大学」にて川満さんとの待ち合わせのために9時に県庁前を出発、名桜大に行く前に、本部方面にむかう。現在、この安和桟橋は、台風で使えなくなった代替土砂搬出地として使われており、搬出阻止活動が行われていると聞き、訪問した。しかし、この日の活動はなく、名桜大方面に向かい、食堂で昼食をすませて、名桜大に向かう。名桜大は、国際学部と人間健康学部(スポーツ健康学科と看護学科)の2000名程のキャンパスである。生協はないが、約600席ほどのカフェテリア食堂と売店があった。
13時正門にて、川満さんと会い、直ちに八重岳に向かう。八重岳に向かう前に途中で山道の坂を歩きはじめた。どこにいくのかと思い、ついていくと一軒の民家に辿り着いた。そこは沖縄戦八重岳陣地を守る部隊の慰安所として使用されていた民家だと言う。
これは6月23日午後、平和市民連絡会との交流会で、高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)から聴いてわかったことだが、44年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成して以降、沖縄本島及び周辺諸島に日本軍に従軍する形で、150ヶ所の慰安所が設置されていたという。多くは民家を強制接収し、現地人、朝鮮人、日本人を集めて、慰安所を開設していたと言う。
☆参考資料:「伊江島の慰安所について」
「伊江島における慰安所の特徴は第一に第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されていた点である。」(185頁)」
《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 183-183、185頁より》
6月21日訪問先(主に中部戦跡)
6月21日午後から沖縄戦中部戦跡(八重岳戦闘、野戦病院跡地、ハンセン病愛楽園、嘉手納基地など)を見学した。
①これから記す沖縄戦を知るうえで理解しておく必要があると思ったことを以下列挙しておくことにする。
②沖縄県には、通常各都道府県にある連隊本部はなく、1942年陸軍防衛召集規則により、44年「防衛隊」として召集を開始し、主に労働力として従軍し、戦闘員としてまともな訓練をうけることなく、戦場に動員されていた。
③1944年2月に沖縄防衛軍として日本軍32軍(第9師団:編成地:北陸3県、第24師団:編成地:哈爾浜、第28師団編成地長春、62師団:編成地太原、各独立混成旅団)が3月に編成されたが、当初の任務は沖縄諸島に15箇所の航空基地を造成する(十号作戦準備要綱)ことであった。
④沖縄本島及び諸島における造成された航空基地は、以下の通り。
1.伊江島飛行場(伊江島東・中・西飛行場を一括)
2.陸軍沖縄北飛行場(読谷飛行場)
3.陸軍沖縄中飛行場(嘉手納飛行場・屋良飛行場)
4.陸軍沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)
5.陸軍沖縄東飛行場(西原飛行場・小那覇飛行場)
6.陸軍首里秘密飛行場
7.海軍小禄飛行場(海軍那覇飛行場)
8.海軍糸満秘密飛行場
9.海軍南大東島飛行場
10.海軍宮古島飛行場(海軍飛行場)
11.陸軍宮古島中飛行場(陸軍中飛行場)
12.陸軍宮古島西飛行場(陸軍西飛行場)
13.海軍石垣島南飛行場(平得飛行場・大浜飛行場)
14.海軍石垣島北飛行場(平喜名飛行場・ヘーギナ飛行場)
15.陸軍石垣島飛行場(白保飛行場)
⑤44年年7月のサイパン陥落以降、本土空襲の激増に伴い、南西諸島の防備の強化を本土防衛の防波堤として位置づけ、日本軍は米軍の猛烈な爆撃と艦砲射撃に耐え得る堅固な地下陣地を構築し、沖縄本島の全島要塞化を推進する方針を打ち出した。
⑥44年10月10日未明、沖縄攻略のための空撮に基づき、南西諸島東近海の空母から発進した米軍第三機動部隊の艦載機は、5次にわたり、北は奄美大島から南は石垣島まで南西諸島全域に砲爆撃を加えた。沖縄戦の前哨戦と言われる10・10空襲である。
⑦44年11月第32軍の帰属する第10方面軍(司令部台湾)は、大本営命令で、第32軍所属の第9師団(編成地:金澤)の台湾への抽出(部隊移動)を決定したことから、防衛強化策として以降「防衛隊」召集及び男女の「学徒隊」を召集する。45年1月大本営は、「帝国陸海作戦大綱」で沖縄を皇土=本土とみなさず、沖縄戦を本土防衛のために敵に損害を与える時間を稼ぎ、本土決戦のための「捨て石」(第32軍参謀発言録)として闘うことを決定する。
【八重岳野戦病院跡地】
最初の戦跡は、標高453メートルの八重岳にある野戦病院跡である。八重岳陣地は、伊江島の3つの飛行場を防衛するための基地であり、200粍留弾砲などの装備を備えていた。
45年4月アメリカ軍は八重岳への攻撃を開始し、切り出された丸太の建物とガマの野戦病棟に負傷した兵士が次々と運ばれたが、次第に麻酔も足りなくなり、意識があるまま手術が行われることもあったと言う。
八重岳で戦闘が始まってから8日後、歩行できない兵士に手榴弾を1発ずつ渡されたと言う。撤退を前に、負傷兵を置き去りにする軍の決定である。本部町の記録では300人近くの兵士がこの場所に取り残されたといわれています。跡地にいくまえに慰霊塔がある。
【今帰仁(なきじん)歴史文化センター】
今帰仁城は、首里城を始めとする琉球王国のグスク及び関連遺産群の一つである。今回は、城址にはいかず、今帰仁村の歴史と文化を紹介し、今帰仁城城址から出土した壷や陶磁器を集めた今帰仁歴史文化センターを訪問した。
沖縄の本土との歴史は主に琉球処分(1872年)からはじめることが多いが、このセンターでは、今帰仁城の歴史を紐解く必要から、薩摩藩軍による琉球侵攻(1609年)パネルが展示されている。薩摩軍は、運天港を経て、今帰仁城を焼き討ち、首里城に攻め入ったとある。
沖縄では、各村毎に言葉の発音が異なり、聞き取れなかったという。今帰仁では、標準語のハ行の子音:hに対応して、子音:pが表れる。これは日本語の古い発音(平安時代)を保存しているという。パナー(花)、びー(火)、プニ(船)、びー(屁),プニ(骨)などである。
【沖縄愛楽園】
名護市・屋我地島北部、済井出地区にある沖縄愛楽園は、国の隔離政策によって、1938年に開設されたハンセン病患者の収容・治療施設である。那覇市から北に60キ口の愛楽園は、44年10月延べ1000機の一部のアメリカ軍機から、空撮写真によれば、愛楽園を配置レイアウトから「兵舎」と誤認されて攻撃され、施設の殆どが破壊されたと言う。
愛楽園では沖縄戦が始める前に日本軍による軍収容が行われ、定員450名の倍以上の913名の患者が入所することになったと言う。1名が米軍の爆撃により死亡し、防空壕づくり(早田壕など多数)を余儀なくされ、十分な食べ物がなく、十分な治療ができなくなった愛楽園では、患者のおよそ289人が亡くなったという。平和の礎には、317名の入所者の名前が刻まれていると言う。
園内に療養棟以外にある被弾跡、防空壕、記念碑を巡ったが、交流会館にボランティアで活動する鈴木陽子さんから、常設展示展コーナーの説明を受けた。沖縄におけるハンセン病患者に対する地元住民間の差別、排外、撲殺などの事例とともに、園内での暮らし、戦後のハンセン病に対する偏見との闘い、国家賠償訴訟と署名活動、2001年訴訟全面勝訴を含むハンセン病患者の闘いの軌跡が展示されている。ここには、園外からの研修受入施設があり、1泊1000円で宿泊を受け付けていると言う。
【嘉手納空軍基地(「道の駅かでな」より)】
沖縄県嘉手納町、沖縄市、北谷町にまたがり、4千メートル級滑走路2本を持つ東アジア最大級の米空軍基地。第18航空団のF15戦闘機や空中給油機など約110機が常駐し、2015年度の騒音発生回数は2万4千回。午後10時~午前6時の飛行は「米軍の運用上必要なものに制限する」とした日米地位協定にもかかわらず、15年度、その時間帯の騒音回数は1620回に及んだと言われる基地である。
嘉手納基地は、那覇より北へ23㎞の地点にあり、嘉手納町面積の83%を占める。嘉手納基地は、1240ヘクタール(飛行場、弾薬庫、陸軍貯油施設)であり、東京ドーム換算で、265個に相当します。因みに福岡空港:353ヘクタールは、東京ドーム72.6個、横田基地:713.6ヘクタールで東京ドーム157個、成田空港:1090ヘクタールで東京ドーム232.9個です。つまり成田空港より更に広いのです。
ここ「道の駅かでな」の3階にある展望階から、嘉手納基地を一望できる。弾薬基地と装着ポートを持たない普天間海兵隊基地には、所属機に対する装弾装備施設がないため、普天間から嘉手納へ飛行し、装弾し、出撃することが必要なため、使い勝手が悪いのだという。辺野古新基地は、キャンプシュアブの弾薬庫から移送する弾薬搭載ポートがしっかり就いていると言う。
6月22日訪問先(南部戦跡)
22日は南部戦跡(八重瀬公園・白梅学徒看護隊・第24師団野戦病院・糸数アブチラガマ・沖縄県平和記念館・平和の礎・韓国人慰霊塔・魂魄の塔・山城野戦病院跡・ひめゆりの塔・記念館など)を訪問した。
これから記す沖縄戦南部戦跡を知るうえで知っておくべきことを以下に列挙する。
①米軍は、本島上陸前に、3月23日より南西諸島全域を空襲し、24日本島南部を艦砲射撃し、26日に慶良間諸島の座間味島、27日に同諸島の渡嘉敷島に上陸、艦船投錨地を確保し、4月1日に読谷から北谷までの本島西海岸に上陸した。
②日本軍は、西海岸の航空基地の守備を放棄し、指令部のある首里正面に構築した主陣地(嘉数高地・前田高地)で決戦し、時間稼ぎ作戦を遂行する。米軍は9日第一防衛線の嘉数高地に達する。ここから首里陥落まで前田高地をはじめ55日間にわたる死闘となった。
③第32軍は、天皇及び大本営の米軍に対する「無抵抗状態」への非難を嫌い、5月3日、逆上陸を含めた総攻撃に出たが、失敗し、第32軍の各師団の過半の兵力を失う。首里最終防衛線のシュガーローフヒル(安里52高地)を失い、首里陥落が時間の問題となった5月22日南部撤退を決定、5月25日撤退を開始する。
④撤退にあたり、第32軍は、住民の非戦闘員避難を徹底せず、南部撤退は持久戦の一環として遂行され、米軍は6月6日八重瀬丘を撃破し、首里のある摩文仁の丘に迫り、日本軍は米軍の投降勧告に返答せず、18日大本営に訣別電報を打ち、23日牛島指令官らは自決し、組織的戦闘は終結した。
⑤沖縄陸軍病院は、沖縄守備隊32軍直属の部隊病院であり、通称を南風原陸軍病院といった。本部、内科、外科、伝染病科に分かれていたが、米軍が上陸すると、内科は第二外科に、伝染病科は第三外科となり、那覇付近と知念半島近くに分室を置き、分室にも学徒隊が配置された。
【八重瀬公園(白梅学徒隊野戦病院跡)】
白梅学徒隊(県立第二高等女学校)掲示板より
3月6日、県立第二高等女学校在学四年生55名は、軍命により第24師団第一野戦病院軍属となり、衛生看護教育隊として東風平国民学校で教育を受けた。教育隊の第一班から第三班までは、積徳高等女学校在学生55名が配置され、第四班から第五班までは第二高等女学校の在学生55名が配置された。第六班は初年兵で構成されていた。
3月24日衛生教育終了。同日夕方、白梅隊員は字富盛八重瀬岳にある、第一野戦病院へ移動配置され、3月25日~27日健康上または家庭の事情で、白梅隊員9名に帰宅命令。4月下旬第一野戦病院新城分院壕が開設され、命により白梅隊員5名配置につく。
6月3日戦況が悪化し新城分院壕は閉鎖され、隊員5名は八重瀬の本体へ帰隊した。第一野戦病院本部は戦況の悪化により、富盛の八重瀬岳から糸満市国吉の壕へ後退が決定され、直ちに移動を開始した。八重瀬岳中腹に掘られた縦横其々四、五本の入口壕でおよそ500名の患者収容能力があった。その壕には軍医、衛生兵、看護婦がおよそ190名と白梅隊員46名がいた。白梅隊の主な任務は傷病兵の食事、用便の世話、包帯の交換、水汲み汚物の洗濯であった。壕からの撤退が決まったとき、歩行困難な傷病兵に、青酸カリか手榴弾のどちらかを手渡したという。
【糸数アブチラガマ(南部観光総合案内センター)】
糸数アブチラガマとは、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある自然洞窟(ガマ)です。沖縄戦時、糸数集落の避難指定壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となったという。
軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマは600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。1945年5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態となった。その後、米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出たという。
ガマは現在、南部観光総合案内センターにヘルメットと懐中電灯を借りて、入壕できる。ガマは、外部へ逃避できる出口をもち、一番奥の立ち入り禁止エリアに脳症患者、破傷風患者、病棟ベッド、トイレ、軍医室、治療室、病棟、竃、水瓶、病棟、ひめゆり学徒隊、住民避難所、住民地域となっており、当初避難所、地下陣地、野戦病院、その後住民避難所として運営されていたと言う。住民間の食糧を巡る争いから死者を出したという。
【慰安婦跡地】
当日最初に八重岳野戦病院跡地に訪問する前に八重岳の麓で、慰安所として使われた民家(現在使用中)と摩文仁の平和祈念公園にいく途中、慰安所のあった場所(現在は建て替え利用)を紹介頂いた。
【沖縄県平和祈念資料館】
設立主旨より
「沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。」
1975年設立した資料館はしかし、靖国神社遊就館との関わりのある沖縄戦戦没者慰霊奉賛会に委託されたことにより、住民の語りより、軍事関連遺物などが中心となり、展示品の三割が銃砲や刀剣であったという。県民からの批判から、研究者と県民によって設立された「沖縄戦を考える会」などの意見をうけて、運営協議会を設置し、県民の生の「証言」を第一次資料として、現物資料は「証言」を補完する資料として添えるという方針を採り、78年改修開館したという。一時期、展示内容への批判があり、一部削除と表現変更が行われたが、99年に元に戻されたという。現在の資料館は、2000年4月に新築された。
資料館は、2階から5つの展示コーナーとなり、①「沖縄戦への道」として、琉球処分以降の明治政府による皇民化政策をすすめ、近隣諸国への侵略を開始し、満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと拡大し、沖縄は15年戦争の最後の決戦場と経緯を展示し、②「「鉄の暴風」として、沖縄戦開始前に開始された艦砲襲撃と空襲からはじまり、3ヶ月に渡る軍民の20万人に上る沖縄戦の凄まじさを展示し、③「地獄の戦場」として壕の中では、日本兵による住民虐殺、強制による集団死、餓死があり、外では米軍による砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮の地獄絵を展示し、④「証言」として忌まわしい記憶に心を閉ざした人々の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言を展示し、⑤「太平洋の要石」として、戦後の収容所生活、27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄を展示するものであった。
祈念資料館展示内容から紹介する。
「皇民化政策」:「軍国主義の高まりとともに、皇国臣民であることを証明する政策として、沖縄では標準語の奨励や風俗改良運動が強化された。しかし方言札(標準語の使用を強制させるため、学校で方言を話した者に、罰として首から下げさせた木札)の導入などの強制的な方策で行われたため、方言蔑視、郷土文化否定の風潮を生むこととなった。風俗改良運動によって大和(日本)風に名前を変える人が増え、また村ごとのウタキ(御嶽:琉球の信仰における祭祀などを行う施設)に神社を建立さえて、国家神道に組み入れる運動や、特高警察(特高)によるユタ(民間霊媒師)の取締も行われた。
「スパイ取締り」:「沖縄守備隊は、「防諜に厳に注意すべし」の方針にもとに、スパイの取締りを徹底した。多くの住民が陣地づくりに動員され、軍の情報を知る立場にあったため、軍は住民の行動を厳しく監視し、「方言を使う者はスパイとして処分する」という通達まで出した。また「国土隊」など民間人(在郷軍人)による特務組織も編成され、一般住民に対する防諜の指導や監視を行った。
「日本軍の強制による集団死」:日本軍は、住民と同居し、陣地づくりに動員した。住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許さなかった。迫りくる米軍を前に「軍民共生供死」の指導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により、親子、親類、知人同士が殺し合う集団死が各地に発生した。その背景には「天皇のために死ぬ」という国を挙げての軍国主義教育があった。」
「壕追い出し」:「自分たちの住む町や村が戦場となった住民にとって、壕や墓などが避難場所であつた。しかし出血持久作戦をとり、首里から南部へ撤退してきた日本軍は陣地として使用するという理由で、壕や墓を強奪した。避難場所を追われた多くの住民は、砲弾の飛び交う戦場で犠牲となった。
【平和の礎(いしじ)】
「平和の礎」は、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全ての戦没者の氏名を刻んで、永久に残すため、1995年6月に建設したものである。その趣旨は、沖縄戦で亡くなった全ての戦没者を追悼し、恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに、平和学習の拠点とするためのものであった。
平和の礎には、米英、台湾、朝鮮の軍民の名前がすべて記載され、毎年判明した段階で刻銘され、2019年度分として40名が刻銘されたという。また刻銘される慰霊者のために1万人に及ぶ空白の碑石が残されていた。また平和の礎に刻銘された方の刻銘位置を検索するコーナー塔があり、追悼者の便宜を図っていた。
「韓国人慰霊の塔」碑文:1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。
この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。願わくば安らかに眠られよ」1975年8月韓国人慰霊塔建立委員会
【魂魄(こんぱく)の塔)】
解説碑を以下引用する。「この地は今次大戦でも一番の激戦地であり、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。」
戦後、放置されたままの遺骨の収集が自発的に始まり、拾った遺骨は、今の魂魄の塔がある場所まで運ばれました。およそ500人の遺骨が納められた1946年2月27日、魂魄の塔と名付けられたという。
【山城沖縄陸軍病院本部壕跡(第一外科壕を含む)】
碑文より紹介する。「地元では「サキアブ」と呼ばれる自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると壕口のある広場と奥の広場の2つに分かれています。1945年3月、米軍の猛爆撃や艦砲射撃が始めると山城の一部がこのサキアブに避難しました。5月下旬南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕として、第一外科壕と第三外科壕が伊原に、第二外科壕が糸洲に置かれました。陸軍病院には沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配置されていました。廣池文吉医院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じて各外科壕を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって廣池文吉医院長をはじめとする兵士と学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになりました。
【ひめゆり平和祈念資料館】
1)「沖縄戦のひめゆり学徒隊の経過」
①「戦場への動員」:「米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校生徒222名は、教師18名とともに、那覇市東南5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に向かう。最上級生は、師範本科の19歳、最下級生は、師範予科1年・高等女学校3年の15歳であった。
②「陸軍病院の最初の戦死」:「当初は、患者を収納する壕がまだなく、壕堀りや衛生資財の搬入などを行い、本科2年生が炊事、本科1年生と3年生は看護にあった。4月中旬、中部戦線からの負傷兵が急増し、一日橋、識名、糸数に分室ができ、分散配置された。4月26日朝第一外科壕学徒が機銃掃射により戦死した。
③「壕の手術場」「手術は、奥行きの浅い壕の土間に設置された手術台で砲撃の少ない夜間に行われた。砲弾の破片で手足をもぎ取られた人、銃弾が貫通して血まみれになった人、火炎放射器の炎を浴び皮膚が爛れている人など見るも無惨な患者は壕外に溢れ、「早く診てくれ」の叫びで溢れていた。鋸で切り落とされた手足はずっしり重く不気味でした、切断した手足や汚物、手術器具の熱湯消毒、水汲みが手術室での日課でした。手術を終えた患者を各壕に運ぶのも命がけの仕事でした。
④5月25日、陸軍病院も撤退命令を受け、伊原周辺のガマを目指し、歩ける患者を連れて、傷ついた友人を担架で運び、薬品と書類を背負って、砲弾のなかを南部へ急いだ。重病患者は壕内に残されました。「あとからトラックで南部に運ぶ」と伝えられたが、実際は、青酸カリの入ったミルクを配り、自決を促した。学徒のなかに「お前達はそれでも人間か」という叫びを聞いたという。
⑤5月29日米軍が首里を制圧、陸軍病院は、山城を中心に波平、糸洲、伊原、荒崎などに分散布陣した。
⑥6月18日夜半陸軍病院で学徒に「解散命令」が下された。
⑦ひめゆりの塔の前面のガマは、伊原第三外科壕として使われ、学徒51名、病院関係者、通信兵、住民など100名がいた。解散命令の直後の6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃を受けて、80名余が死亡、ひめゆり学徒も50名(教師5名学徒45名)のうち、生き残ったのは、わずか8名、さらにその内、3名が壕をでたあとで亡くなった。
⑧沖縄全県下の学徒隊のうち、男子1489名、女子414名、教師103名、計2006名が戦場で亡くなった。
2)「ひめゆり平和祈念資料館の開設と改修の経緯」
①ひめゆり学徒の話は、小説と映画『ひめゆりの塔』によって、戦後いち早く全国に知れ渡ったが、学徒の生存者の殆どは、亡くなった学友やご遺族への「自分だけが生き残った」という自責と痛恨に苦しみ続け、戦争体験を語ることはなかった。
②戦後30年が過ぎたころ、亡くなった学友たちの三十三回忌で全ての法要を終えることになっていましたが、生存者は、これで供養を終わりにしようとは誰も思っていなかったという。「亡き友の遺影を集め、生きた証を残そう」との亡き学友に思いを馳せる余裕が生まれ、その思いが、やがて「戦争の実相を語り継ぎ、平和の尊さを訴える資料館を建設する」という目標となった。
③1982年ひめゆり同窓会総会で「ひめゆり記念館」の建設を全会一致で決議され、行政の支援を受けずに手弁当で建設にむけて動きはじめ、同窓生が一丸となって資金づくりに走り廻り、全国からの多額の寄付を頂いた。
④生存者たちによる資料委員会が作られ、7年間で延べ6400日、28名の生存者が平均2790日間、資料収集と調査にあたり、1989年6月23日、ひめゆり祈念資料館が開館しました。
⑤開館後、生存者たちは、毎日通い続け、「証言員」として参観者に自らの戦争体験を語り伝えた。証言員は当初28名、2004年まで約200万人が参観したという。
⑥これまでの資料館は、「証言員」の説明を前提にしていたものであり、「証言員」が語れなくなったことから、2004年4月リニュアールし、展示館の解説が不可欠となり、解説文を展示することうにした。
⑦文章は生存者と若い学芸員を中心にした資料委員会が討論を重ねて作成した。あわせて、戦争体験の継承と平和への思いを未来につなげる企画展示の場として増築した。
【首里城(32軍司令塔壕)】〜削除された指令部内慰安所記載〜
首里城は琉球政府の王宮であり、日本(薩摩)と中国、朝鮮とも外交関係をもつ琉球王国の王宮であり、向かって右側に「南殿・番所」、左側に「北殿」があり、これらに囲まれた中庭の広場を「御庭」といった。南殿で日本からの使者を迎え、北殿で中国からの使者は迎えたと言う。
今回、政殿などは既に参観しているため、無料参観ルートを通り、首里城周辺を一望できる展望台を経由して、首里城裏手にある32軍司令塔壕の解説碑に向かった。
解説碑より要約する。
①1944年3月西南諸島の防衛を目的に第32軍が創設された、12月指令部壕の構築を開始し、沖縄師範学校などの多くの学徒と住民を動員した。45年3月、空襲が激しくなると、32軍司令部は地下壕へ移動、米軍との決戦に備えた。壕内は5つの坑道で結ばれていたが、現在は坑口が塞がれ、中に入れない。
②指令部壕内は、指令官参謀ら1000人余の将兵と県内軍属・学徒・女性軍属が雑居し、戦闘指揮に必要な設備を完備し、通路の両脇には兵隊用二段・三段ベッドが配置された。壕内は立ち込める熱気と湿気と異様な臭いとの闘いでもあった。
③45年5月22日、日本軍司令部は、南部摩文仁に撤退を決定、本土決戦の時間稼ぎのために沖縄を「捨て石」にする持久作戦をとったためである。5月27日夜、本格的な撤退がはじまり、壕内の主要部分と坑口を破壊した。指令部の撤退に伴い、軍民が混在するなかで逃避行のなかで多くの将兵と住民が命を落とし、5月31日首里は占領され、首里城政殿をはじめ琉球王国の貴重な歴史文化遺産を失った。
尚、当初この解説碑案には指令部壕の一室に朝鮮人慰安婦20名余の配置に関する記述があったが、設置にあたり削除されたという。
【旭ヶ丘公園】
那覇市内から西に向かう「波の上」町にある公園だが、ここは、台湾との関係が深く、中国との関係がわかる史跡が集まった公園である。日本の近現代史との関係ある碑などを紹介する。
①台湾遭害者墓:1871年(明治4年)、69人を乗せた琉球の貢納船(宮古島から首里へ租税を運ぶ船)が嵐にあい、台湾の南部に漂着した。上陸後島をさまよい、原住民のパイワン族の村に迷い込み、救われたが、言葉の行き違いから54人が首を狩られ殺された。琉球王府はただの遭害事件としてかたづけようとしたが、明治政府はこれを利用し、台湾に出兵し、現地の住民を征伐した。明治政府発の海外出兵に利用された。
②海なりの像(碑文より)
「第二次世界大戦で、沖縄県は、全国で唯一地上戦が闘われ、軍民併せて20万余の尊い命が犠牲になりました。戦後62年経った今日なお、戦争で犠牲になった人びとの遺骨がいまだに山野に残されたままになっています。他方沖縄県は離島県であるが故に、海で犠牲になった県民が3405名(沖縄県調査)にのぼります。学童疎開船「対馬丸」をはじめ、軍需工場に向かった若者や女子挺身隊・少年航空兵になるために乗船した者・召集令状を受け郷里から出征しようと本土から沖縄にむかった者。満州開拓団から帰郷した者・南洋方面から軍命により強制送還された者などです。
沖縄県民が乗船して撃沈された戦時遭難船舶は26隻です。海なりの像には、対馬丸を除く25隻の船舶で犠牲になられた沖縄県民1927人(沖縄県調査)の霊を祀ってあります。二度と再び悲惨な戦争は起こしてならないと堅く誓い、犠牲になられた御霊に心から哀悼の誠を捧げます。1987年6月23日「海なりの像」を建立しました。2007年6月23日、赤城丸(406人)・嘉義丸(368人)・開城丸(10人)・南湖丸(577人)・台中丸(186人)など5隻の犠牲者(1547人)の「刻銘版」を建立しました。」
6月23日訪問先(沖縄戦慰霊の日)
6月24日訪問先(米軍基地視察)
【嘉数高台から普天間基地を望む】
嘉数の戦い(かかずのたたかい)とは、沖縄戦において、嘉数高台をめぐって1945年4月8日(7日)からの16日間にわたり行われた戦闘である。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘の1つとしても知られるほどの激戦であった。日本軍は低地に「反斜面陣地」を構築して、米軍に劣る火力をカバーし、頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。ここから、普天間基地を北側から見渡すことができた。
【普天間基地】
沖縄県宜野湾市にあるアメリカ軍海兵隊基地。総面積は約480ヘクタールで、市の4分の1を占める。正式名称は、普天間飛行場(Futenma air station)。文教地区を含む住宅密集地にあるため、「世界一危険な基地」と称される。駐留軍の中心は、海兵ヘリ部隊と空中給油機部隊である。敷地内には、幅46m・長さ約2千700mの滑走路、および管制塔・格納庫・修理施設・ガソリン補給施設等が設けられている。湾岸戦争やイラク戦争の時には、嘉手納空軍基地とともに出撃の拠点となった。最近は施設の老朽化が問題になっている。
1945年、沖縄戦の最中にアメリカが用地を接収し、陸軍基地として建設したのが始まり。60年に海兵隊に移管され、72年の沖縄返還時も日本が米軍に提供するかたちで存続が決まった。基地面積の約9割は私有地で、現在も約2千800人の地権者がいる。以前から、事故の危険と騒音に苦しむ周辺住民の間では基地閉鎖と返還要求の声が絶えない。
以下真喜志さんの解説を中心に紹介する。
1)「普天間基地の成り立ちと付近の住民について」
2018年4月作家の百田尚樹氏が、自民党改憲勉強会にて、市街地に囲まれ世界一危険とされる米軍普天間飛行場の成り立ちを「もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」と述べたことを紹介し、「田んぼで何もない」との言説は、当時の米軍の工事中の航空写真をみせて「全くの嘘である」と解説され、元の住民が元の場所(飛行場)付近に住み、閉鎖と返還を要求するのは当然であり、返還する代わりに別の場所を要求するのは「居直り強盗」と変わらないとする。
後日、この件について調べてみた。
「宜野湾市史によると、1925年は現在の飛行場に10の字があり、9077人が住んでいた。宜野湾、神山、新城は、ほぼ飛行場内にあり、大山などは飛行場敷地に隣接する形で住宅があった。最も大きかった宜野湾は村役場や宜野湾国民学校、南北には宜野湾並松と呼ばれた街道が走り、生活の中心地だった。
飛行場は、まだ沖縄戦が終結していない45年6月、住民が収容所に入っているうちに、米軍が土地を占領して建設を始めた。住民は10月以降に順次、帰村が許されたが、多くの地域は元の集落に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。」(沖縄タイムズ)
2)「普天間基地の仕様は米軍の安全基準を満たしていない」
米軍には飛行場の安全基準(AICUZプログラム)として、滑走路から一定の距離(当然、基地敷地外となる)を空けなければならない「クリアゾーン」を設定し、事故に備えた安全地帯(住宅や公共施設の排除が設けられている。しかし、ここ普天間基地は、北側クリアゾーンに普天間第二小学校があり、南側みは児童公園「さくら公園」、上大謝名公民館などがある。2006年11月当時の宜野湾市長がこの基準を見つけ、普天間基地の「安全不適格」を宣言したが、当時の麻生首相は、「当該基準はアメリカが作成運用しているものであり、政府としてお答えする立場にない」と答弁、2012年4月民主党政権下においても「政府としてお答えする立場にない」と自民党政権と同様な態度に終始したという。2012年4月環境レビュー」において、作成の米軍自身が安全基準に合わない危険な飛行場であることを公表しており、現地住民が、クリアゾーンから退去すべきなのか、米軍が普天間を閉鎖するのかは、自明である。普天間は無条件で即時閉鎖するのが唯一の解決策であるとする。
【辺野古基地】
1)キャンプシュワブ(沖縄県発行「沖縄の米軍基地」より)
キャンプシュワブは、海兵隊キャンプバトラー基地指令部のもとにある第3海兵遠征軍第3海兵師団の基地である。兵舎区域と訓練区域からなり、中部訓練基地と呼ばれる大きな演習の概ね県道71号線より北の部分であり、南はキャンプハンセンに属する。ここには、LST(戦車揚陸艦)の揚陸用ランプ(斜面)と水陸両用車が強襲揚陸演習できる海兵演習場が付属しており、そのための訓練海域がある。訓練場地区は、一般演習が行われる第4訓練場、実弾演習が行われるライフル・レンジ、シュアブ着弾地区からなる。ここでは、81粍迫撃砲、60粍迫撃砲、機関銃、小銃ピストルなど実弾射撃訓練、ヘリ訓練、水陸両用訓練、一般訓練、廃弾処理が行われる。北側に辺野古弾薬庫がある。
2)1965年空港用地調査候補地:「辺野古」と66年「海軍マスタープラン」
「辺野古」の初出は、沖縄返還に関わる日米共同声明直後の1970年11月に作成された「基地の沖縄内の移設の可能性」と題する沖縄高等弁務官府の文書であり、これは、「SACO合意(96年12月を究明する研究会)の宮城悦二郎氏が米国公文書館から取り寄せた文書である。そこには「1965年に空港用地の調査を行ったが、次の2ヶ所しか適地がなかった。本部にある空港を拡張するか、久志湾を埋めるかである」。久志湾とは、辺野古南側の海岸を指す。
99年6月海軍は65年調査からマスタープランを作成し、3000メートル級の滑走路と水深の深い大浦湾側に軍港をつくることを計画していた。しかしベトナム戦争とその敗退、双子の赤字による財政難で計画は棚上げ状態となった。
3)1997年9月米国防総省文書にみる「新基地」構想
SACO合意に絡めて、1997年9月国防総省は、運用条件と運用構想を作成した。現在進行中の辺野古建設計画との関わりを中心にその特徴は以下の通りである。
①海上施設は40年、すべての関連構造物は200年の耐久年数をもつように設計。
②弾薬を積み込む「戦闘機装弾場」を暴発に備えて兵員立入地点から300メートル離隔した地点(海上)に配備する。
③普天間は、「戦闘機装弾場」がなく、嘉手納で着弾し訓練に向かっているが、辺野古からでは遠いので、「戦闘機装弾場」が不可欠。
④軍港機能の岸壁は当初200メートルとされていたが、2013年埋立願書で271.8メートルに変更。強襲上陸艦仕様(257メートル)に対応。
つまりこの辺野古は、65年以来の念願の新基地であり、それは日本の税金で建設ささせることは願ってもないこと。しかも、強襲上陸艦を接岸し、オスプレイや戦車を運ぶことが可能な軍港をもち、尚かつ戦闘機装弾場をもつ3000メートル級滑走路2本をもつ海兵隊基地であり、それは新たな総合軍事基地で以外のものでもない。
4)辺野古基地建設反対闘争の現場
辺野古基地周辺のテント(ゲート前、ボート小屋、第二テント)を訪問し、その後本部塩川漁港土砂搬入阻止ピケに参加した。
6月25日訪問先(渡嘉敷視察)
自由行動日に渡嘉敷に向かった。集団自決の慰霊碑を見学するためである。
25日泊港発10時のフェリー「渡嘉敷」にて渡嘉敷港にわたり、バスで阿波連ビーチに向かい、ビーチから、島内唯一のタクシー運転手で集団自決跡地(白玉の塔)を案内頂き、渡嘉敷村歴史民俗資料館を訪問した。
【渡嘉敷:史跡「集団自決跡地」】〜解説碑より
■進攻軍、日本民間人の集団自殺を発見
「野蛮なヤンキー」の噂で「拷問」より死を選ぶ日本人達
琉球列島、3月29日(遅)(AP)————米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注:渡嘉敷島の人々)が死体あるいは瀕死の状態となって見るも恐ろしい光景が今日慶良間諸島の渡嘉敷島に上陸した米兵達を迎えた。
最初に現場に到着した哨兵隊に同行したニューヨーク市在住の陸軍撮影兵アレキサンダーロバーツ伍長は、「いままで目にしたものの中で最も凄惨」と現場の様子を表現した。「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は野営した。闇の中に恐ろしい叫び声と泣き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。
■散乱する死体
「明るくなってから、悲鳴の正体を調べに行くために2人の偵察兵が出て行った。彼らは。2人とも撃たれた。その少し前、私は前方6ヶ所か8ヶ所で手榴弾が炸裂し、炎が上がっているのを見た。開けた広場にでるとそこは死体あるいは瀕死となった日本人(注:渡嘉敷島の人々)で埋め尽くされていた。足の踏み場もないほどに密集して人々が倒れていた」。「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで首を絞められている女性と子どもが少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は、怪我をしながら死にきれない幼い子ども達が発するものだった。人々は200人近くいた。
「細いロープを首に巻き付け、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を絞めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に身体を倒し、窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた」。
「さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。日本兵(注:島人の防衛召集兵)の死体も6体あり、他にひどく負傷した日本兵(注:同)が2人いた」。
「衛生兵は、負傷した兵士らを海岸に連れていった。後頭部に大きなV字型の深傷を負った小さな男の子が歩き廻っているのを見た。あの子は生きていられない、今にもショック死するだろう、と軍医はいった。ほんとうにひどかった。軍医たちは死にかけている人々にモルヒネを注射し、痛みを和らげていた、とロバーツ伍長は語った。
負傷した日本人を海岸の応急救護まで写そうしている米軍の担架搬送兵を道筋の洞窟に隠れていた1人の日本兵が機関銃で銃撃した。兵士らがその日本兵を阻止し、救護活動は続けられた。
質問に応えらえるまでに回復した日本人達(注:島人の防衛召集兵)は、米国人は、女は暴行、拷問し、男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは米国人が医療手当をし、食糧と避難所を与えてくれたことに驚いていた。自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て、悔恨の情に苛まれていた。
記事引用:沖縄県史資料編3 米国新聞にみる沖縄戦報道 沖縄戦3(和訳編)
平成17年11月30日渡嘉敷村教育委員会
【白玉の塔と沖縄戦における渡嘉敷村一般住民戦没者一覧】
この集団自決地史跡に程近い場所に慰霊碑と沖縄戦における渡嘉敷村一般住民戦没者一覧などの記録が展示されていた。
それによれば、渡嘉敷全体で380名(男136名女244名)が亡くなり、3月28日に278名が亡くなり、27日から29日までの集団自決数は290名にのぼり、自決碑記載数は314名である。
【渡嘉敷村歴史民俗資料館】
この資料館は、沖縄本島泊港に向かうフェリー発着の渡嘉敷港の側にある。常設資料館だが、無人である。村役場に電話して開館をお願いする形式である。
資料館は、主に渡嘉敷の自然や風俗を展示するものであったが、沖縄戦に関する当時の写真などが多数展示してあり、自決前の32軍指令部地下壕の写真などが展示してあった。
【終わりに】
24日沖縄市民連絡会メンバーとの懇談会で、「沖韓民衆連帯」の方から、この間の取り組み紹介を終えたあとに述べられた以下の言葉が耳から離れない。
「韓国の方と交流して、実は本土の人より韓国の人に親近感を覚えることが多い」。
この背景には、3つの共通項があると思った。第一に琉球処分(1872年)以降の、いや薩摩藩の琉球進攻(1609年)以降の大和民族による「皇民化」政策と同様に大韓帝国も、朝鮮併合(1910年)以降の、大和民族による民族的な卑下・蔑視政策のもとに置かれたこと、第二に沖縄戦と朝鮮戦争という地上戦によって地上戦故に鮮明な戦争と軍隊による住民の悲劇を体験したこと、第三に沖縄は第二次世界大戦後に、韓国は朝鮮戦争後に米軍による軍事占領と軍事基地の強制配備とその反対闘争を生み出したことなどである。
沖縄と韓国は、時期を微妙に異にしながらも、その現実とこの現実への拒否闘争の関係は共有しうる関係にあることは疑いようがない。
上記の3つの沖縄と韓国の共通する実相を見たとき、列島本土の日本人は、どのようなスタンスが求められ、どのような歴史意識と歴史認識が必要とされ、自国民族を越えたどのような相互連帯を実現できるのかが問われているのだと実感した。
最後に今回私たちのフィールドワークにご協力頂いた沖縄平和ネットワークの川満さん、沖縄市民連絡会の真喜志さんに忙しいなかを、とても貴重で有益な案内と解説を頂き、心から感謝したいと思います。ありがとうございました。
by inmylife-after60
| 2019-07-28 02:12
| 歴史認識・歴史学習
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