2019年 09月 16日
澳門林則徐祈念館について |
澳門林則徐祈念館について
8月23日から30日まで香港深圳澳門を訪問したが、訪問記で詳しく触れなかった訪問先である澳門林則徐祈念館について紹介したい。
この祈念館のことは、澳門にきてから、現地発行のガイドブックではじめて知った。
澳門(マカオ)といえば、ポルトガルとカジノというイメージしかなく、阿片戦争と林則徐を知っていても、林則徐と澳門という関連はとても意外であった。阿片戦争は、極東アジアにおいてイギリスが香港を割譲(植民地化)する近代史上の最初の侵略戦争であるが、阿片も香港周辺で焼却されていたと思っていた。
この祈念館は、蓮峯廟という当地の道教名士を祀る廟のなかにあり、林則徐が、1838年に阿片対策のために広州に派遣され、澳門も視察訪問しその際にポルトガルの官吏と接見宿泊した場所である当地に建てられたという。
当時澳門は阿片の集積地になつていたことから、林則徐は、ポルトガル側に中国側の阿片厳禁政策への協力を求め、ポルトガルは中国側の措置に従ったという。
阿片は、原名を「阿芙蓉:(あうふよう)」といい、俗名を「大煙」といい、1835年までに薬剤としての吸引者を含めて200万人に達し、重大な社会問題となっていた。
38年11月林則徐は、特任大臣となり、広州・澳門など珠江周辺を視察し、39年6月3日、林則徐は、東莞虎門にて阿片(2376254斤:1200トン)を海中投棄する。
毛沢東はこの林則徐の行動を評価し、「私たちの民主革命は、この林則徐から始まり、革命は百年を要した」と述べたという。
虎門の阿片投棄
今回、この祈念館を訪問してわかったことを中心に紹介してみたい。
1)阿片投棄の現場
現場は、珠江湾周辺の広東省の広州、東莞などであり、実際、林則徐は阿片を投棄した場所は、東莞市の虎門であり、直接は香港と関わりがない。清は明代の対外貿易港であった広州をポルトガル、オランダ、イギリス、フランスなどの列強との窓口として継承し、イギリスは、1830年以降、インドで生産した阿片を広州に集積して、対中貿易赤字解消の切り札とした。
2)阿片戦争開戦の実際
38年11月特任大臣に主任した林則徐による阿片禁止命令に驚愕したイギリスは、正式に海軍艦隊の中国派遣に関わる予算を議会で提出したが、「不義の戦争」との批判が強く、議会は賛成:271票、反対262票という僅差で派兵を決定し、40年11月に開戦、珠江、厦門、南京を攻め、北京に至り、42年南京条約で香港島を割譲した。その後アロー号事件を契機にアロー戦争で九龍半島南部を、1898年に新界の租借を獲得する。
3)林則徐について
日本の教科書には、林則徐を阿片の取締大臣としてしか、記述されていないために、近代史における彼の位置に関する理解が乏しい。展示内容から林則徐の人となりについて以下紹介したい。
1785年8月福州莆田(pudian)生まれ、1811年27歳で科挙(進士で合格した4人の一人)に合格し、経世派の影響のもとに「経世致用」の志をもったという。行政官として、各地の治水利民、水利開発に力を入れ、その当時から、鎖国に反対し、世界に眼を開き、「師夷長技」として、西洋を師として技術に長けることをめざし、亡国から救うことを唱えたという。
林則徐は当時最新の西洋事情を紹介する「四洲志」を訳し、欽差大臣罷免後に魏源に依頼して出版させたのが、その後日本に翻訳され、鎖国を国是とした江戸幕府の開国への転換を促す契機の一つとなる「海国図志」(50巻)である。
4)林則徐祈念館について
今回の祈念館が澳門祈念館とあるように、林則徐祈念館は大陸各地にあると思われる。東莞市の虎門には、阿片戦争記念館があると聴く。生地である福州にもあるに違いない。広州東莞や福州莆田にいく機会があれば、参観したいと思う。
追記:阿片の処分方法
この祈念館には、阿片の処分方法の詳細には触れていないが、私もこれまで焼却処分をしたと思っていたが、以下のように処置したという。
『虎門の海岸近くの高台に一辺が約五〇メートル方形の人工池を二つ造った。この池に水を張って大量の塩を入れ、その中にボール状のアヘンを四つ切りにして入れ、半日浸した。ついで石灰を入れてよく交ぜると、アヘンはブクブクと泡をたてながら化学的に燃え、顆粒状に変質した。引き潮の時に水門を開き、変質したアヘンを池の水と一緒に海へ流した。その後、池を真水で洗った。こうした作業を二つの池を交互に使って行い、アヘンを処分した。(中国歴史人物選 第12巻 林則除』)』
by inmylife-after60
| 2019-09-16 19:32
| 歴史認識・歴史学習
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