2019年 10月 16日
『天皇の「代替わり儀式」と憲法』を読む |
〜象徴天皇制における即位式典のあり方を考える〜
来たる22日に「即位の礼」11月14日15日に「大嘗祭」が挙行される。
この本は、この即位式典がどのような歴史的変遷を経て今日の儀式となったのか、そして何よりも、戦後憲法で「象徴天皇」となったにも関わらず、その儀式は、明治時代と変わらず、明らかに神道形式の宗教行事も国事行為として公費で実施される「代替わり儀式」の実像を憲法及び戦後皇室典範などから解き明かしたものである。
式典の個々の儀式がどのような背景と性格をもつのかを知ることによってマスコミ報道の質を検証することにもとても役立つと思う。
1)なぜ特例法(成立:2017年5月19日)になったのか
天皇の生存中の譲位は、歴史的には約半数の天皇によって行われていたが、明治維新以降、旧皇室典範の第10条の「天皇崩ずるときに皇嗣(こうし:皇位継承順位第1位の皇族:現在は秋篠宮)即ち践祚(せんそ)し、祖宗(そそう)の神器を承(う)く」と規定し、戦後の皇室典範もこれをうけて、第4条で「天皇が崩じたときに、皇嗣が直ちに即位する」と前天皇の死去を前提としてのみ新天皇の即位が可能となっていた。
従って、「生前退位」を実現するには、この皇室典範第4条を改定するか、4条を残したまま、「生前退位」を特例として認めるという特例法かの選択肢があったわけだが、与党は天皇の「生前退位」は原則として認めないとして、特例法を選択した。
この対応は、そもそも「皇室典範」には触れさせたくない、つまり現在問題になっている女性・女系天皇も憲法第2条に「皇室は世襲のものであって、国会の決議した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とだけあり、性別を規定していない。ところが、皇室典範は、第1条に「皇位は、皇統の属する男系の男子がこれを継承する」と規定していることから、この規定を改正すれば、女性・女系天皇も可能となる訳だが、皇室典範の改正でなく、特例法制定を目指した。
結局、「特例法」にしても明仁天皇の一代ではなく、招来の天皇退位の「先例」となりうるという与野党合意による特例法制定となった。
2)即位式典基本方針(決定:2018年3月31日)は事実に符合しない
基本方針は、その原則を①「憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統等を尊重したもの」②「平成の代替わり儀式」は現憲法下において充分に検討されたもの」としている。また1990年9月に提訴された平成の代替わり儀式に関する最高裁判決を援用し、合憲と協調されている。
しかしこの訴訟は諸儀式・行事が神道儀式であり、憲法の政教分離原則及び国民主権原理への違反事案として起こされたが、この判例は諸儀式・行事への知事の参加を社会的儀礼として参加を認める判断であって、国の「即位の礼」や「大嘗祭」を挙行することへの判例ではない。
これに対して、儀式執行そのものを問う1995年大阪高裁判決では、「大嘗祭」は、神道儀式であり、政教分離原則に違反するとの疑義は「一概に否定できない」として、また「即位の礼」も「天皇が主権者の代表である首相を見下ろす位置で「お言葉」を発するなど、現憲法の国民主権原則に相応しくないと思われる点など、なお存在することも否定できない」と指摘し、違憲性を否定していない。
3)代替わり儀式の変遷
天皇の代替わり儀式は、①天皇の権力のあり方②その時代の支配的思想(政治思想、宗教)の二つの要因により、時代によって大きく変化してきた。
①陵墓の変遷
天皇の陵墓といえば、伝仁徳天皇陵が有名であるが、これは古墳時代のなかでも4世紀末から5世紀にかけての一時代のみであり、それ以降の墳丘は小さくなった。この墳丘を伴う陵墓を「墳丘式陵墓」といい、中世以降は、「堂塔式陵墓」が登場する。堂塔式陵墓は、鎌倉時代以降の天皇を集置する京都の泉涌寺が有名である。
こうした流れを変えたのが、明治維新直前になくなった孝明天皇陵であり、泉涌寺内に単独の墳丘式陵墓をつくり、以降歴代天皇が継続して墳丘を造営した。
②即位儀礼の変遷
即位儀礼は、7世紀末の天武天皇が古代律令国家の確立期に唐風の即位式に新たな儀礼として、日本の稲作儀礼として大嘗祭が創設され、持統天皇の代から、「即位礼」と「大嘗祭」を催行し、火葬を開始した。さらに8世紀末の聖武天皇の即位の時から、皇位の空白をなくす為に三種の神器を継承し、直ちに即位する「践祚」の儀式とお披露目の「即位礼」に分離し、「践祚」「即位礼」「大嘗祭」の三本立てが慣行となった。
その後、中世になり、「大嘗祭」が200年以上廃絶(1466年〜1687年)され、江戸中期の桜町天皇から復活した。
また即位礼も、1287年以降孝明天皇まで、天皇を密教における本尊、最高仏である大日如来と一体し、当時の神仏習合の本地垂迹説を体現する「即位灌頂」という形式に変化します。
また即位礼に着る天皇の服装は、孝明天皇の時代まで、冊封国の国王がかぶる「冕冠(べんかん)」と「袞冕(こんべん)十二章」であったが、現在の服装は、明治(睦仁)天皇からである。
4)近代における神権的天皇の演出
①三種の神器と三大神勅
古事記は、天照が天孫降臨の際に王位を象徴する品として「三種の神器」を、言葉として「三大神勅」を授けたとする。三種とは、鏡、剣、勾玉であり、三大とは、「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉斎の神勅」「斎庭稲穂の神勅」である。
②即位式典における三大神勅の意味
三大神勅の内、「天壌無窮の神勅」を最上位概念とし、天皇とその統治する国が永遠に発展するものとされ、統治権の天皇家による独占を謳い、「宝鏡奉斎の神勅」が三種の神器のうち鏡の特別性を謳い、「斎庭稲穂の神勅」が、「新嘗祭」「大嘗祭」の由来とされる。
③明治国家の支柱としての「三大神勅」
この天皇正統説が歴史の舞台に登場するのは、近世中期の本居宣長の国学であり、幕末の復古神道と後期水戸学が大きな役割を果たす。これが明治中期において「天皇正統性」神話として形成され、天皇大権の由来であるばかりか、軍人勅諭や教育勅諭の前提として、この「三大神勅」が教科書に掲載され、式典のたびに朗読させたという。
5)明治時代の代替わり儀式の特徴とその変化
明治国家の「代替わり儀式」は、明治天皇の「即位礼」「大嘗祭」(1871年)などを踏まえ、皇室典範(1889年)を制定し、各種法令を整備したが、その特徴は以下の3つである。
第一に中国風(唐風)を廃止し、天皇正統説を前提とする「神道式」に改め、第二に近代国民国家の理念を受けて国民統合の側面を重視し、第三に西欧近代の王室の影響から欧風化、国際化を図ったという。
即位儀式の構成は、これまでの「践祚」「即位礼」「大嘗祭」と三段階で行われた儀式を「践祚」と「即位礼及び大嘗祭」に二分し、後者を「大礼」として「秋・冬」に挙行することにした。核心は、天皇正統説による儀式の演出である。
①践祚の儀式:「賢所の儀」「皇霊殿・神殿に奉告の儀」
践祚とは新天皇が三種の神器を受け継ぎ、即位する儀式であり、「賢所の儀」「皇霊殿・神殿に奉告の儀」「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」で構成される。
前二者は、天照大神を祀る賢所と歴代の天皇・皇后・皇族の霊を神道式に祀る「皇霊殿」と天皇の守護神を祀る「神殿」の「宮中三殿」にて行われる儀式であり、皇霊殿と神殿は、明治初期に造営された。この宮中三殿が最も重要な天皇正統説を継承する儀式に他ならならない。
②践祚の儀式:「剣璽渡御の儀」
「剣璽渡御の儀」は、前天皇か新天皇への三種の神器の「剣」と「璽:じ(勾玉)」の移譲の儀式であり、一番大切な「鏡」は、賢所に固定されており、京都で挙行されたため、この際は京都の春興殿に移された。
③践祚の儀式:「践祚後朝見の儀」
これは践祚した天皇が文武の高官(戦前は三権の長)を引見する儀式である。
新天皇は、上記の儀式を1年がかりで行い、それが終わって(喪が明けて)、ようやく大礼(大典)が始まった。
④「即位礼」の儀式
中心的な儀式は、「即位当日紫宸殿の儀」であり、これは即位し天皇の披露宴的な儀式であり、京都紫宸殿に置かれた「高御座」に「剣璽」をともなって登壇し、皇后は「御帳台」に登壇し、「朕祖宗の威霊に頼り、敬みて大統を承り、茲に即位の礼を行い……」と即位の宣言をした。
⑤「大嘗祭」の儀式
大嘗祭は宮中三殿に冠する儀式など6つを含むが、中心的儀式は、「大嘗宮の儀」である。これは左右対称の同じ構造の二つの神殿(東方に「悠紀殿」、西方に「主基殿」)を新造し、亀卜に定められた田から採れた新穀から造られた酒と食物をそれぞれの神殿の皇祖大神にお供えする儀式であり、午後6時から、2時間半かかけて行われた。
この大嘗祭は、戦時中の教科書に「日本が神の国であることを明らかにするもの」と天皇と天照大神と一体になる、神となることが記載されていた。尚この神殿39棟は式典後に解体焼却された。
5)昭和天皇(裕仁)から平成(明仁)天皇への「代替わり儀式」
①戦後における転換
1945年12月GHQ「神道指令」による国家神道の解体、46年1月の「天皇に人間宣言」、46年11月公布の日本国憲法によって、主権の存する国民の総意に基づくものに改定され象徴天皇の存立基盤を天照大神の神勅に求めた戦前と大きな転換が図られた。
同時に憲法は、20条で信教の自由を保障し、戦前の国家神道体制の反省から、89条で、政教分離を打ち出し、48年6月衆議院は「教育勅語などの排除」を決議された。
②戦前の形をそのまま踏襲した儀式
しかし平成(1989年〜90年)の代替わりは、戦後の皇室典範に第24条で「即位の礼」を行うことしか規定にないにも関わらず、実際は、「践祚」と「大嘗祭」を「即位の礼」の一環として強引に拡大解釈し強行した。
③「読み替え」による一部修正
同時に、戦前と全く同じやり方はできずに、第一に儀式の名称を変更(国璽と御璽の追加など)し、第二に儀式の細部を手直し(総理大臣の立ち位置の変更など)し、第三に「読み替え」のトリックを使い、国事行為と皇室行事に分けて、政教分離をクリアしようとした。
④国事行為と皇室行事のトリック
即位礼正殿の儀など5つの儀式を国事行為とし、他の儀式(践祚や大嘗祭)は宗教的性格がつよいことから、皇室行事として執行した。しかし、大嘗祭を一世一度の伝統的な皇位継承儀式として「公的性格」が強いとして、費用を皇室費内の「宮廷費」(公費)から支出した。
⑤践祚関連儀式も宮廷費支出へ
しかし、実際は、大嘗祭だけでなく、皇室行事とされた践祚(賢所の宮中三殿の儀式)など宮中祭祀・神事として内廷費(天皇家資産)で賄われるすべての儀式も、公的性格をもつ「宮廷費」(3億円)から支出したことが判明した。
⑥宮内庁の予算構成(数字は2016年予算)について
大きくは、皇室費(60億円)と宮内庁費(109億円)に分けられ、皇室費は、内廷費、宮廷費、皇族費の3つに分けられる。
内廷費(3.2億円)は天皇皇后、皇太子一家の日常生活費で、これは「お手元金」(天皇家資産)であり、宮内庁の経理上、公金とはならない。
宮廷費は、国賓接遇、行幸、外国訪問などの皇室の公的活動経費であり、公金である。皇族費は、秋篠宮他三宮家の日常生活費であり、これも「お手元金」扱いである。
6)憲法原理にふさわしい「代替わり儀式」を
①国会を場にした「代替わり儀式」の考案
大きな改革方法として、象徴天皇制の主権者たる国民の総意に源泉をもつ権威による「代替わり儀式」の考案があってしかるべきである。次善の策として、「剣璽等継承の儀」は、やらないという選択もあり、これはすくなくとも皇室の私的儀式とすべきである。また天皇の国事行事に不可欠なものとして、国璽・御璽を表に出して、国璽・御璽等継承の儀」にするということも考えられるとする。
②国事行為による「退位式」の実施について
この退位礼正殿の儀は、10に上る神事・宮中祭祀を行うとされたが、これは、最後の譲位を行った1817年光格天皇の儀式にもない儀式であり、天皇正統説による明治時代の登極令に規定された「宮中三殿」に冠する儀式をそのままもってきたものである。退位の礼も「大礼に関する儀式」として拡大解釈したものに他ならない。
③自民党2012年改憲にみる狙い
改憲案は、天皇の元首化(第1条)、元号制定規定(第4条)、天皇の公的行事の明記(第6条)さらには、20条の信教の自由規定に「特定の宗教活動の禁止を掲げ、神道儀式を「特定の宗教」ではない「社会的儀礼」「習俗的行為」として政教分離対象から外し、靖国神社への天皇と首相の公式参拝を正当化し、宮中祭祀や神事を公的なものとしてしようとしている。
いまこそ、憲法を大切にし、9条改悪に反対する個人と団体が、憲法の理念に反する今回の代替わり儀式について学び、憲法原則にふさわしい「代替わり儀式」に改定することを政府に要請することが求められている。
by inmylife-after60
| 2019-10-16 22:23
| 歴史認識・歴史学習
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