2019年 12月 29日
天津静園について |
津城静園〜末代皇帝溥儀旧居について
2019年12月18日、新幹線で北京から天津に向かい、天津の旧日本租界営口道周辺を散策しながら、偽満州国皇帝として担ぎ出される舞台となった清朝末代皇帝溥儀の旧居「静園」を尋ねた。
近代における日本と天津との直接的関係は、英仏独に続き日清戦争後の1896年設置された日本租界に始まる。1900年5月義和団の乱の勃発に伴って清国臨時派遣隊を送り出した地が天津であった。 翌月6月に第5師団(編成地:広島)を中心とした部隊を増派し、日本は、欧米諸国(英仏独伊露米隩)との8ヶ国連合軍を構成した。
翌年1901年5月北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担い、その後辛亥革命に伴う清朝瓦解後の1912年4月に清国駐屯軍が支那駐屯軍となったと言われる。
ここでは入園に際して頂いたリーフレット(中文)を紹介し、邸宅内の展示の一部を紹介したい。もし、北京に行ったときに天津によれる機会があれば、訪問したい場所の一つだと思う。
【津城静園(全文)】リーフより紹介する。
静園は、1921年から建設が始まり、天津市和平区鞍山道70番地にある。もともとは日本租界宮島街であり、建物は天津市特殊保護基準に基づく歴史風致建造物であり、天津市文物保護区域であり、国家3A級観光景観区である。
静園は当初「乾園」と呼ばれ、北洋政府駐日公使陸宗興の私邸であり、1929年から1931年まで、皇帝溥儀が皇后婉容を携えて、淑妃文綉と暮らし、静園と改名した。その意は、時局を冷静に捉え、皇帝に返り咲くことであった。
静園は、敷地面積3016平方メートル、建築面積約1900平方メートル、ここはレンガと木材で構成された多分にスペイン風の建造物を持ち、草木が生い茂り、静寂にして心地よい天津租界時代を代表する私邸庭園の典型である。
溥儀が天津を離れると、静園はその主人を何度か変え、変遷を辿る。2007年7月、整理を終えた静園は、観光景観区として市民に開放され、前後して「中国魅力的観光ブランド景観区」を獲得し、天津市愛国主義教育基地、全国青年文明標識と全国科学普及教育基地などの称号が付与された。
一棟の邸宅には何代かにわたる主人の枝葉末節な事柄が収められている。彼らは、北洋政府高官であり、清末の皇帝妃であり、国民党天津警務司令官であり、当代の著名な文学者と文藝家であり、名前として記憶に留まることがない市井の人である。彼らは、この一棟の邸宅のもつ重みと格式故に私たちを静園に走らせ、私たちにその幾重に織りなされた記憶と嘗ての埃に塗れた物語を語り聴かせるのである。
【静園主楼】展示解説文より紹介する。
1)元会議室
元会議室は、溥儀と老臣が帝位復活の大事を論議する場であった。老臣旧臣らの帝位復活に関する主張は一致せず、陳宝琛は「故宮に戻る」を主張し、夢振玉は「日本と連携する」と主張、鄭孝胥は「列強と共同する」と主張した。溥儀がどうすべきか落ち着かない時に日本貴族水野勝邦が密かに溥儀を訪ね、「天莫空勾践、時非無範范蠡(注1)」と書かれた日本の扇子を贈り、暗示した。溥儀は、俄に帝位復活の望みありと悟り、天津を離れて、山海関(注2)から出ることを決心した。会議室は、溥儀の天津時代後期の山海関をでる直前の全ての政治活動の生起と政治思想の転換を証言している。
注1 天莫空勾践、時非無範范蠡
「天(てん)、勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすること莫(なか)れ、時(とき)に范蠡(はんれい)無(な)きにしも非(あら)ず
「天は勾践を見捨てない、時がくれば范蠡のような忠臣が出て助けてくれる。」
注2 山海関:万里長城の東端、華北と東北(旧満州)の境界である河北・遼寧省境が渤海に会する位置にある。
2)元応接間
ここは溥儀と各地に旧臣、軍閥首領、各国租界駐在領事及び指令官など賓客との密談の場であった。ここは政治的陰謀や狐と狸の化かし合いを演ずる場でもあった。柳条湖事件以降、土肥原賢二は、天津事件(注3)を策謀し、深夜ここに溥儀を密かと訪ね、甘言を使い、旧満州に連れ出そうとした。旧臣の反応は一様ではなく、溥儀の旧満州行きに反対する「帝師」の陳宝琛は、「主拒」領袖として、溥儀の旧満州行きを支持する「主迎」派首領の鄭孝胥と、ここの応接間で、「出関」問題を巡り、激論となった。
注3 天津事件:1931年11月奉天特務機関長土肥原は、溥儀を天津から旧満州に連れ出すために、中国軍との発砲事件を起こし騒擾状態として、静園から目をそらせるとともに、溥儀を塘沽港まで護送する部隊指揮を確保することを目的とした謀略事件である。
3)元文綉の部屋
この文綉の部屋は、清朝末代皇妃文綉の日常生活の場である。1922年溥儀と婚儀を整えた時、文綉は婉容より1日前に入廷し「淑妃」の位が与えられていた。天津在住の時、文綉は溥儀が日本を頼ることを望まず、数次わたり強く勧めたことから、溥儀の反感を買っていた。溥儀の冷遇と婉容の排斥のもと、文綉は1938年8月密かに静園を離れ、溥儀に離婚を申し出した。歴史上「后革命」と呼ばれ、内外に激震が走った。文綉は、中国の歴史上皇帝に離婚を突き付けた最初の后妃となった。
(完)
by inmylife-after60
| 2019-12-29 14:24
| 中国訪問記
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