2020年 01月 30日
南京利済巷慰安所旧址陳列館について |
南京慰安婦陳列館は、2016年7月、笠原十九司先生から紹介された南京師範大学張連虹教授にお願いして、南京における約一ヶ月の短期留学をした際に、南京師範大学日本語学科院生の谷さんに連れられて、はじめて訪問した。そこではじめて「秋子の故事」という残酷な事件を知り、2017年3月、事件の現場である揚州を南京大学の院生とともに訪問し、その際に陳列館職員に会うために再び陳列館を訪問した。
その後、2017年12月に歴教協の南京高等学校における日中教員による授業交流企画に参加した際に、訪問した南京大虐殺受難者同胞祈念館で「性奴隷の悪夢——南京利済巷慰安所旧址陳列図集」を頂いた。
今回2019年12月に再度友人と南京を訪問し、南京慰安婦陳列館を案内し、陳列館の職員とすこしお話する機会を得て、この陳列館の紹介をしたいと思い、準備をはじめたが、館内の写真は撮影禁止であり、且つ日本語解説が限られており、どのように内容を紹介しようかと考え、以前頂いた「陳列図集」から転載するしか方法がないと考え、今回お世話になった南京市国際交流職員を通じて、陳列館にも連絡頂き、翻訳に関する了解を頂き、翻訳を公開することとなった。
翻訳の範囲は、陳列図集のうち、本文解説と被害者生存者の証言、関連記載された資料(各地慰安所規定、提訴記録、提訴経緯)であり、図集にふんだんに掲載されている写真とキャプションは除外した。その意味で、この翻訳は骨格部分だけであり、詳細は図集を手にとって頂くしかありません。
しかし、骨格部分だけとは言え、はじめて全体を読んでみて、中国及び東南アジア全域に関わる慰安所の実相がどのようなものであり、そこで何か行われたのかを知るには、とても有益だと実感した。
朝鮮人慰安婦問題を考える場合も実際の被害者の被害現場の実態把握が必要であり、そのためには中国をはじめ、東南アジアで慰安婦にされた朝鮮人婦女の証言を知ることが不可欠である。その意味で、この図集は、すべての地域の事例を伺い知ることができることが分かり、これを紹介する意味はとても大きいと感じた。
この図集には、慰安所の設立起源と拡大の背景などの解説とともに、中国と東南アジア各地の慰安所に関する記録や、陸軍の慰安所規定だけでなく、海軍(インド・アンマン)の慰安所規定なども掲載されており、その実態を知る上で重要な記録だと思い、ここに紹介したいと思います。
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「性奴隷の悪夢——南京利済巷慰安所旧址陳列図集」
(本文の日本語訳)
前言
慰安婦とは、日本軍によって性サービスを強いられ、性奴隷にされた婦女を指す。戦時に日本軍は、騙したり、拉致したり、強制的な手段により、本土から遠く離れた膨大な日本兵士のために、中国、朝鮮半島、東南アジアおよび太平洋諸島と日本本土から集めた多数の若い女子を配備し、完備された従軍慰安婦制度を作った。中国は、日本の慰安婦制度の最大の被害者であり、日本軍が中国に設立した慰安所は最も多く、最も長期間にわたり、最も規模の大きい、20万人を越える女性が日本軍の性奴隷を強いられ、相当数の女性が日本軍の残忍な性虐待によって亡くなった。
日本軍「慰安婦」制度は、人類史上空前に残忍で凶悪な制度として誕生し、実施され、これは日本軍国主義の発展の必然的な帰結であり、婦女の人権を蹂躙し、国際人道法規に違反し、戦争規定と制度に違反する国家犯罪行為であり、ファシストの女性に対する奴隷的使役の集大成であり、日本軍国主義の野蛮さ、残忍さ、暴虐さを体現し、戦争が人類に及ぼした最も痛ましく、最も心に刻むべき記憶である。
この悲惨な歴史記憶を銘記するために、2014年11月、南京市は利済巷慰安所旧址を保護修繕し、陳列公開のために活動を開始した。2015年12月、南京利済巷慰安所旧址陳列館を建設、公開した。全ての陳列は、基本陳列、旧址陳列と4つの専門的陳列に分けられ、日本軍慰安婦制度の起源とその確立、中国・朝鮮半島・東南アジア・太平洋諸島における慰安所、及び残された日本軍慰安婦の問題と関連する歴史記憶を紹介するものである。
第1部日本軍慰安婦の起源と確立
上海は、日本海軍が中国で慰安所を建設した発祥の地であり、1932年1月日本海軍は虹口に「大一サロン」などを4つの風俗店を慰安所として選定した。これが現在史料上初出の慰安所の記録である。南京大虐殺が日本軍の全面的な慰安所制度を実施する起因となったが、それは、日本軍に蔓延する性病を防止するとともに国際世論の圧力を軽減するためのものであり、日本軍上層部は、慰安婦の配置と実施を緊急に整備し、完備された慰安婦制度を逐次確立した。
一、日本軍慰安婦の起源
明治維新以降、資本主義の急速な発展に伴い、日本は、漸次軍国主義の道を歩んだ。1918年から1920年日本のシベリア出兵の過程で、蔓延する性病が日本軍の戦闘能力に重大な影響を与えた。その後日本は、婦女慰安部隊を募集することを考えた。1932年1月日本軍は上海虹口に「大一サロン」を含む4つの風俗店を海軍慰安所として指定した。1932年1月28日「第一次上海事件」が勃発し、日本陸軍は、関西から、婦女を募集し、陸軍「慰安婦」団を組織し、旲淞、宝山、庙行と真如の前線基地に慰安所を建設し、これが陸軍最初の日本軍への組織された慰安サービスである。
また日本軍は、上海にて兵士へのサービスを行うと同時に東北地方において、同種のサービスを開始した。満州事変後、関東軍らは、長春、大連などで、日本軍に対する慰安を組織し始めた。但しこれらは30年代に設置された上海の日本海軍慰安所と同様に、女性の使役は基本的に「娼妓」に属し、日本軍の管理としては、完全な制度に至っていなかった。
二、南京大虐殺と日本軍慰安婦制度の確立。
1937年12月13日、日本軍の南京進攻占領による二次大戦における特大な惨劇事件——南京大虐殺が行われた。日本軍の南京占領後最初の一ヶ月で、市内において二万件を越える強姦・輪姦の暴行が発生した。国際的激しい非難と日増しに激しさを増す性病に直面し、日本軍上層部は、緊急に慰安婦の配置と実施を開始した。上海と南京への建設が急速に日程に遡上した。南京大虐殺が日本軍の慰安婦制度の全面的配置と実施の起因となった。日本軍が中国を征服することを意図し、大量の日本軍慰安所を建て、慰安婦運営に関する厳格な管理と統制を逐次確立し、慰安婦制度を完備した。
三、日本軍慰安婦設立の要因
日本軍慰安婦は、人類史上空前に残忍で凶悪な制度として誕生し実施されたが、これは近代天皇の専制とする日本軍国主義武士道の産物であり、日本社会の男尊女卑の奇形な道徳の産物であり、これは日本軍国主義の発展の必然的な帰結であり、慰安所は日本軍隊が日本の侵略戦争の効果的遂行の必要から設立され、そのため濃厚な軍事的色彩をもち、その設立の要因は多様であり、強姦事件発生の防止を含めて、日本軍兵士の蔓延の防止、軍隊の安定、戦闘力の向上、国際世論圧力の減少である。
四、日本軍慰安所の類型と管理
日本軍による建設及び管理する慰安所、軍隊専用の慰安所、日本軍指定の民間遊戯施設を一定時間軍隊に専用させる慰安所及び占領地で女性を誘拐して日本軍拠点に入れて、暴力的実施施設など多様な各種類型慰安所を建設した。同時に日本軍は軍隊秩序を維持し、性病の蔓延を防止するために、慰安所と従軍慰安婦の厳格な管理と統制を行った。
第2部上海日本軍慰安所と慰安婦制度
清末以来、上海は、日本海軍の海外の最大拠点であり、日本海軍陸戦部隊司令部は、上海虹口にあった。1932年1月日本海軍は虹口に「大一サロン」を含む4つの風俗店を海軍慰安所として指定した。これが現在史料上、初出の慰安所の記録である。中国への全面侵略戦争の期間、日本軍慰安所は上海に大量に出現した。中国慰安婦問題研究センターの統計調査によれば、上海は慰安所が最も多く設立された都市であり、現在確認できた日本軍慰安所は少なくとも166ヶ所である。
一、上海の日本慰安所
早くも1930年代初頭、日本海軍は、その陸戦隊員への衛生的性サービスを提供し、虹口に、「大一サロン」「小松亭」「永楽館」「三好館」など4つの妓楼を海軍の軍用妓楼に指定した。1932年の日本「慰安婦」団が日本陸軍によって最初に組織された慰安婦だった。中国への全面侵略戦争の初期、日本軍は上海派遣軍の東兵站司令部管理の楊家宅慰安所を開設した。その後、日本軍直営、日本人・朝鮮人華僑経営、及び中国系経営の各種慰安所を上海各所に設立された。
二、アジア最大の日本軍慰安所————「大一サロン」
「大一サロン」は、上海東宝興路125横丁にあった。日本海軍開設指定した特別慰安所の一つである。日本人華僑近藤夫妻が経営し、慰安婦は、日本、朝鮮、中国から集められた。「大一サロン」は、1931年から1945年日本の無条件降伏まで営業し、日本軍のアジアに開設された最大の慰安所であり、世界で最も長く存在した日本軍慰安所である。
三、上海最大の日本海軍慰安所————「海乃家」
「海乃家」は、上海で最大の日本海軍慰安所であり、日本海軍から全権を委任された日本人華僑坂下熊蔵が経営し、本館と別館があった。「海乃家」は上海濾東公平路公平里12号(現公平路425号)にあり、1939年開業し1945年無条件降伏まで日本、朝鮮、中国からの慰安婦40名がいた。
四、日本軍直営の楊家宅慰安所
1938年1月13日、日本華中方面派遣軍東兵站司令部が開設した楊家宅慰安所は、翔殷路東沈家宅で開業した。ここは日本軍が実行した慰安婦制度により上海で設立・管理された正式慰安所である。楊家宅慰安所は、日本軍が強制的に良家の婦女を略取し性奴隷とした最初の慰安所であり、その規定は各地に援用された。(以下参照)
【慰安所規定(上海派遣軍東兵站司令部)】
本慰安所には陸軍軍人軍属(軍夫を除く)の外、入場を許さず。入場者は、慰安所外出証を持参すること。
一、入場者は必ず受付において料金を支払い、これと引換に入場券と「サック」一個を受け取ること。
二、入場券の料金は、左の如し
下士官・兵・軍属 金二円、軍官五円
三、入場券の効力は当日限りとし、若し入室せざるときは、現金と引換えなすものとす。
但し、一旦酌婦に渡したるものは返戻せず。
四、入場券を買い求めたるものは、指定せられたる番号の部屋に入ること、但し時間は三十分とす。
五、入室と同時に入場券を酌婦に渡すこと。
六、室内に於いては、飲酒を禁ず。
七、用済みの上は、直ちに退室さること。
八、規定を守らざる者及び軍紀風紀を紊す者は退場せしむ。
九、「衛生サック」を使用しないものは、酌婦と交わることを禁止す。
十、入場時間は、兵士は午前10時から午後5時、下士官は及び軍属は、午後1時から9時までとす。
五、上海日本軍慰安所生存者
上海の日本軍は、掠奪、誘拐などの手段で連行し、将兵の性欲を満たした。彼女らの殆どの生活は餓えと寒さにまみれてものであり、耐え難い労働は、なんらの報酬の得られない状態であり、とりわけ朝鮮と中国の婦女は、暴力と虐待の限りを強いられ、完全に身体の自由を奪われるだけでなく、いつでも殺害される状況にあった。戦後上海の日本軍慰安婦生存者は、各種の方法で、日本軍の非人道的罪状とともに歴史の検証に応えることを訴えた。
【証人証言:朱功妹】
1938年春、日本軍は崇明を占領し、崇明の寺院境内に駐屯し駐留した。常に掃討作戦に出立した。私たちは逃れる場所はなく、自宅の小さな旅館の部屋に鍵を掛けて隠れていた。ある日、数人の黄色軍服の日本兵が、歩兵銃を持ち、家屋に侵入し、家人をすべて追い出し、私を部屋に閉じ込めて入り、悪事(強姦)を働いた。私は当時妊娠3ヶ月であったが、全く関わりない有様だった。
【証人証言:陸秀珍】
1938年私が21歳の時、日本軍は、上海崇明を占領した。ある時、私は逃げ遅れ、金通訳と日本兵につかまり、崇明の寺院の駐屯地にある日本軍慰安所に連れていかれた。建物は二階建て、十数人の女性がそれぞれ一部屋を与えられていた。私は1階に住み、部屋には1台のベットがあるだけだった。部隊の駐屯地は私たちの住む慰安所に近く、そこに30歳過ぎの隊長はいつも昼間から私の部屋にきて私を強姦した。彼は二三日おきに来て、缶詰を携えて私にくれた。実際上私は隊長の支配下(性奴隷)に置かれ、彼は彼以外の日本兵が私を強姦してはいけないと定めた。
【証人証言:郭亞英】
1938年から1939年にかけて、日本軍は上海寺院境内に20余名程1個中隊が駐留していた。当時日本軍は境内中心に駐屯地と慰安所を建設し、私は二人の子どもを抱え、夫と軽食店を開いていたが、日本軍と傀儡中国人が私を脅し(輪姦受入)、もし命令に従わなければ、私の店舗をぶち壊して、夫と子どもを拘留すると命じた。
1938年から1939年中、日本軍は毎週数回我家に来て、あるときは駐屯地に連れいき、私を暴行し、あるときは私を一日中閉じ込めて、三四人の日本兵に輪姦させ、家に帰ることを許さなかった。前後一年間である。私はこの期間の鬱屈が原因で夫を失った。
第3部南京日本軍慰安所と慰安婦
日本軍による南京占領以降、日本軍は、直ちに慰安所の配置と建設をはじめた。南京は、日本軍による慰安婦制度が最も早く、また慰安所と慰安婦の最も多い都市の一つである。中国、韓国、日本の慰安婦の被害が最も激しく、また典型となった。1937年12月13日から1945年9月9日まで、日本軍が南京で設立した慰安所は、40ヶ所を越え大量の婦女を日本軍将兵の性奴隷として連行し、日本軍国主義の残忍さ、野蛮さ、暴虐さが広く露見するところとなった。
1937年12月13日南京を占領し、この世とは思えない悲惨な南京大虐殺を引き起こし、大量の無辜の婦女を強姦した。国際的非難と日増しに蔓延する性病に直面し、日本軍は、日本軍政当局の主管と支持のもとに大量の慰安所を迅速に南京で建設をはじめ、主要に集中したのは、南城、城中、城北下関、郊外では浦口、江浦、湯山などであり、多くの婦女が日本軍将兵の性奴隷となった。
一、利済巷日本軍慰安所
利済巷日本軍慰安所は、元国民党中将楊普慶が1935年から1937年にかけて建設された洋館であり、二階建ての木とレンガによる建造物である。日本軍は南京占領後、利済巷2号棟を「東雲慰安所」に、18号棟を「故郷慰安所」に改修し、日本華僑千田に経営を委託した。利済巷2号棟は、一階に14の小部屋、2階に16の小部屋があり、利済巷18号棟は、朝鮮人慰安婦朴永心が当時拘禁されたところである。2003年11月21日、彼女がかつて来た現場を指を指して確認した。2014年6月7日利済巷日本軍慰安所旧址は、南京市民政府によって市レベルの文化保存地点となった。
【証人証言:楊秀英】
わが家はこれまで利済巷に暮らし、当時両隣には日本人が住み、店を開店した時、私は日本人から日本語を学んだ。利済巷18号棟は、元の持ち主が楊姓であり、楊普慶といい、「普慶新村」と呼ばれていた。日本人が南京に進攻した時、楊が逃走し、建物は日本軍に占拠され、慰安所として開設され、「故郷楼慰安所」と呼ばれ、南に大きな鉄の門を構えていた。この慰安所は日本軍が開業し、慰安婦は日本人婦女であり、和服を羽織っていた。利済巷2号棟は、朝鮮人慰安婦であり、「東雲慰安所」と呼ばれ、朝鮮人が慰安婦であり、チョゴリを纏っていた。慰安所の店主は千田といい、いつも私の店にきて酒とたばこを買い、その時に朝鮮人慰安婦のことを知った。
二、松下富貴楼日本軍慰安所
松下富貴楼日本軍慰安所は、南京市秦准区常府街細柳巷福安里1−7号にあり、李澍生一家が1931年に建設した六棟の住宅である。南京大虐殺期間、日本軍憲兵隊は、この住まいを鉄条網で覆い、修理改修して慰安所とし、日本の売春業松下の管理と経営に委託し、大門には「松下富貴楼」のセメント碑が建てられた。ここは、日本軍慰安婦が韓国、日本、中国人の順に多く、この慰安所に来るのは、思いのまま快楽を求める将校、佐官級の将兵であった。
【証人証言:陳祥順】
私は陳祥順です。1921年の生まれ。当時の松下富貴楼は、北から南に向かって4つの楼閣が連なり、北側の二棟は、二階建てであり、南側の二棟は、青いレンガ壁に赤い瓦の平屋だった。街に面した楼閣は、非常に豪華であり、楼閣の東西の両面のセメント壁には、升ほどの大きさで縦書きの行書体で「松下富貴楼」と書かれてあった。当時南京陥落期間、昼夜に関わりなく、何台ものの日本車がこの周辺に停車し、出入りしていたのは、日本軍将官であり、凝ったいで立ちで、サーベルを腰に付けていた。2棟の平屋の後に鉄格子で囲われた門があり、この門を通るものはいなかった。楼閣内で行き来する者は、ある時は日本人の装い、ある時は中国人の装いであった。大門の両脇には日本兵が銃をもち、見張っていた。中国の一般人は、この日本軍の松下富貴楼には近づくことはできなかった。この状況は、1945年抗日戦争で勝利するまで続いた。
三、鼓楼飯店日本軍慰安所
鼓楼飯店日本軍慰安所は、南京市鼓楼区黄泥崗付近の鼓楼飯店内にあった。この旅館の外観は四合院形式の二階建ての構造であり、合わせて5つの中庭をもつ5つの建物であった。ここは、かつて二次大戦期間南京で著名な日本軍慰安所の一つであった。当時の目撃者によれば、この慰安所には二〜三十人の慰安婦がおり、すべて和服の日本人であった。
四、下関華月楼日本軍慰安所
華月楼日本軍慰安所は、南京鼓楼区下関商埠街恵安巷13号にあり、レンガと木とセメントの合成でつくられた三階建ての建物、敷地面積200平米、各階に6〜70室の部屋と中庭があった。この建物はもともと、黄姓の富豪が所有し、戦争前に家人すべて南京から逃れていたが、1937年12月日本軍に占拠され、1939年始めに慰安所として使用され、日本人夫妻により経営されていた。
【兵站指定日本軍慰安所規定】
1.各兵站指定慰安所内の特殊婦女は5日置きに憲兵隊兵站支部医官の検査を受けなければならない。
2.検査結果が不合格の者は、特殊治療所で治療を受け、許可されない者の接客を厳禁する。
3.各慰安婦の検査結果は、すべて記録しなければならず、検査結果はすべて編成冊子に集めて、随時閲覧できるようにしなければならない。
4.慰安所の開放時間は左の通り。
兵士:午前10時から午後6時
官兵:午前10時から午後9時
5.慰安所使用価格規定は左の通り
兵士:一元(一回30分)(一回延長は50銭追加)
将校:三元(一回1時間)(一回延長1時間2元追加
高等官:三元(一回1時間)
行政官:公務員:一円五十銭(一回毎30分)(1回延長30分追加支払い)
6.指定慰安所を使用する者は必ず対価を支払い、避妊具を受取、使用し、かつ事後部屋の汚れを清潔に洗い落とすこと。
7.軍人並びに軍属を除くいかなる者も特定慰安所に立ち入ることはできない。
8.酒類を携帯して指定慰安所に立ち入ることはできない。
9.酩酊者の立入を厳禁する。
10. 購入番号以外の慰安部屋に入室することができない。
11. 避妊具の使用規定に従わない者は、慰安婦との接触を厳禁する。
12. 本規定及び軍紀を遵守した者は、退出を命ず。
【証人証言】当時恵安巷16号で裁縫店にいた樊桂英(女性1923年生まれ)
当時ここにきた日本人はとても多い。昼夜なく全て日本軍人であり、入口を入るとすぐに応接間があり、一人のチケット管理者がいて、周辺の壁には娘の写真が張られ、ここの娘は名前では呼ばれず、すべて番号で呼ばれた。ここの少女は、20人以上で殆どが中国人であり、主に揚州出身者であった。ここの慰安所の管理者は日本人夫妻であり、夫は商人で、中国語が話せた。日本の投降以降、彼らは直ぐには帰国せず、南京下関木行で仕事をし、中国解放後にやっと送還され帰国した。
五、南京日本軍慰安婦生存者
日本当局は、掠奪、脅迫、たらし込みなどの手段で大量の婦女を日本軍慰安所に送り、慰安婦に充当した。日本軍慰安婦は、南京の慰安所にて、各種の非人間的損害と苦痛を与え、その多くは、日本軍の「軍需品」として、秘密裏に中国と海外の戦場に押送し、日本軍隊の蹂躙に供された。幸いにして生存された慰安婦はまったく悲惨な境遇の下に精神と肉体の二重の損傷を受けた。
1)雷桂英(南京日本軍慰安婦中国人生存者)
雷桂英(1928年〜2007年)は、江蘇省江寧県の人、貧困故に13歳で放浪の身となり、南京湯山鎮に至り、湯山高台坡山本の慰安所の賄い婦をしていたが、1年後に無理矢理日本軍慰安婦にさせられた。その間彼女は何回も日本軍兵に反抗したため、暴行を受け、右脚には打撲傷が残り、手、頭、腿に傷跡が残されている。約半年後に彼女は日本軍慰安所から逃走したが、すでに出産機能は奪われていた。2006年4月雷桂英は、養子唐家国の励ましのもとで真相を話し始めた。これは南京地区日本軍の罪悪である日本軍慰安婦制度を告発する最初の勇気ある被害者となった。
2)易英蘭(南京日本軍慰安婦朝鮮人生存者)
易英蘭(1922年〜2007年)は韓国全羅南道で生まれる。1941年2月2日彼女と韓国からきた5人の少女は南京に連行され、日本軍慰安婦にさせられた。2名の日本軍兵士に24時間の輪番で監視を受けた。彼女ら6名の少女は100名を越える軍官のために昼間は衣服の洗濯、夜は性サービスの提供を強いられた。彼女らは、南京で1年を過ごし、支那日本軍の行く中国各地に付き従い、日本軍部隊が中国各地に転戦したため、彼女は記憶も定かでないところに次々と連れていかれた。戦後彼女は中国武漢市安家に住んだ。
3)朴永心(南京日本軍慰安婦朝鮮人生存者)
朴永心(1921年〜2006年)、朝鮮平安南道南浦市生まれ。1939年求人に騙されて中国南京利済巷2号棟の「東雲慰安所」の慰安婦にされ、3年間に及んだ。その後日本軍部隊の転戦に伴い、中国各地に連れ出された。1942年日本軍の雲南松本前線に連れていかれた。1944年彼女は身もごりながらも3名の朝鮮人日本軍慰安婦とともに塹壕に逃走し、中国遠征軍(訳者注あり)に救出され、米国従軍記者によって「身重の慰安婦」として著名な写真として撮影された。1945年9月末彼女は帰還で帰国した。2003年11月彼女は老いて病を抱えながらも、再び中国に戻り当時の受難の地————南京と謄冲松山(雲南)を訪れ、死んでも日本軍の罪悪を告発したいという思いを全うした。
第4部中国各地の日本軍慰安所
一、中国南部の日本軍慰安所
完全な統計ではないが、日本軍が中国南方で以下の地区で慰安所が設置されていたことがわかっている。上海、江蘇省(南京、揚州、常州、鎮江、徐州)、浙江省(杭州、金華、舟山群島)、安徽省(芜湖、安慶)湖北省(漢口、漢陽、武昌)江西省(九江、南昌)湖南省(芷江、長沙)福建省(福州、厦門)広東省(広州、油頭)南海省(海口、三亜)など、日本軍慰安所は、中国大陸の南方占領地の殆どにあった。
1)上海、江蘇省の日本軍慰安所
・上海は日本海軍が中国で開設した慰安所の発祥地であり、日本軍が実施した慰安婦制度が完備された都市の一つである。日本軍が直接管理したもの、日本人華僑や朝鮮人華僑が経営していたもの、及び傀儡中国人が経営していたものなど各種慰安所が各地に溢れていた。中国慰安婦問題研究センターの調査資料によれば、上海は、日本軍が設置した慰安所の最も多い都市であり、現在確認できる慰安所は少なくとも166ヶ所ある。
・江蘇省は、日本軍の慰安婦制度が最初に大規模に実施された都市であり、記載資料によれば、日本軍は、南京、鎮江、常州、無錫、蘇州、揚州、南通、徐州で多くの慰安所を設置した。完全な統計ではないが、日本軍が南京に設置した慰安所は40ヶ所以上に達する。
【吉林省公文書館①】
1938年2月19日、中支那派遣軍憲兵隊司令官大木繁は「南京憲兵隊管轄地区治安恢復状況調査報告(通牒)」にて1938年2月1日から10日まで南京及び周辺市県の慰安所設置状況を報告し、南京駐屯兵は、25000人、慰安婦は141名、平均一慰安婦当たり対応する兵士は178人とある。
【吉林省公文書館②】
1938年2月28日、中支那派遣軍憲兵隊司令官大木繁は「南京憲兵隊管轄地区治安恢復状況調査報告(通牒)」にて、芜湖では慰安婦109名、上旬より84名増加し、その中で中国人慰安婦25名、朝鮮人慰安婦36名、芜湖人の慰安婦の占める割合は半数以上である。2月中旬日本軍兵士の鎮江内の慰安所への入場者は、8929名であり、上旬の5734名に比べて3195名増加したと報告している。
【秋子の物語】
新婚三ヶ月の日本青年「宮毅」は日本政府の招集により中国に従軍した。それから間もなく彼の妻秋子と近隣の姉妹らは日本政府が組織した「尋夫団」に参加した。この尋夫団は日本を離れるや強制的に従軍慰安婦に改組された。ある日揚州駐留の青年兵士は、慰安所にて一人の「軍妓」を提供された。その「軍妓」は何とあろうか妻秋子であった。揚州の「緑楊旅社」(当時の慰安所)で再会した二人はこの出会いを悲しみ、嘆き、苦しみ、この残忍極まりない戦争を忌み嫌い、「揚緑旅社」で連れ添って自刃した。
2)浙江省、福建省、江西省の日本軍慰安所
①浙江省
1937年11月日本軍は、浙江省杭州を占領後、直ちに慰安所を設立した。ここ以外に湖州、富陽、嘉興、定海、象山、金華と寧波などで慰安所を開設した。
②福建省
1941年4月22日、日本軍は福建省福州を占領後、直ぐに市内に多くの慰安所を設立した。彼らは倉前山などから多くの地元婦女を掴まえて、煙台山楽群楼の外国人華僑倶楽部に集め日本軍慰安婦にした。絶え間ない恥辱に供されて楼内はいつもその屈辱に凄まじい嗚咽が鳴り止まなかった。鼓楼区妙巷37号及び南街郎官巷の絹織物屋が日本軍に占拠され慰安所となった。
③江西省
1939年9月1日江西省南昌には日本軍慰安所が11ヶ所あり、日本人慰安婦11人、朝鮮人慰安婦100人に達していた。日本軍は江西省九江市を占領後、市内に慰安所を24ヶ所設立し、1938年11月1日調査では、日本籍慰安婦は107人、朝鮮籍慰安婦143人であった。
3)湖南、湖北、安徽
①湖南省
日本軍は湖南省を占領後、長沙、衝陽、岳陽、湘潭、株洲、華容などに慰安所を設置した。
②湖北省
1938年10月日本軍中支那方面軍が湖北省武漢を占領、11月漢口と漢陽の警備に責任をもつ第二軍は直ちに慰安婦制度をはじめ、日本軍第11軍が武漢に設立した慰安所は、第二軍より更に多かった。調査によれば、武漢の日本軍慰安所は60ヶ所以上を数える。
④安徽省
1937年末日本軍が安徽を占領し、多くの慰安所を設立、日本軍による慰安所開設が広く行われた。
4)広東、広西の日本軍慰安所
①広東省
日本軍第21軍は、広東を占領後、慰安所を開設し、広東に慰安所を広く設置し、広州以外にも、仏山、中山などでも設置され、農村に進駐した所にも開設され、また島嶼にも日本軍慰安所を設置した。
②広西省
1939年11月日本軍は広西南寧を占領後。第22軍司令部は広西各地に多数の慰安所の開設を指示した。
5)雲南、貴州の日本軍慰安所
①雲南省
1942年日本軍56師団は雲南に進攻後、拉孟(現松山)、謄越、龍陵、芒市などに大量の慰安所を設置した。日本軍は傀儡中国人に命じて拉致させた雲南当地の漢族、及び雲南タイ族など少数民族の婦女を慰安婦にさせた。
②貴州省
1944年11月末、日本軍第3第、13師団は貴陽から130キロの八賽、独山一帯に進攻、日本軍慰安婦を従軍させて貴州に進入した。第13師団は独山市内に進攻し、郊外にて数十名の当地婦女を大きな家屋に閉じ込め、臨時慰安所として、強姦に供した。
6)海南の日本軍慰安所
1939年2月、日本軍は海南島を占領後、60ヶ所の慰安所を設置した。1941年以降、大凡日本軍が駐屯した県内、市内、市鎮、郷鎮に慰安所の形跡がある。南海日本慰安婦は非常に多く、各慰安所の慰安婦は、少なくとも10名、大体30名であり、100名を越える慰安所もあった。
二、中国東北の日本軍慰安婦
日本が中国北部に進攻後、直ぐに占領地に大量の慰安所を北京、天津、山東、河南、山西、内蒙古、黒竜江など十を超える都市に広く開設した。日本軍は、思いのままに当地婦女を掠奪し、慰安婦にさせ、中国人婦女に深刻な惨禍をもたらした。
1)北京、天津の慰安所
①北京
1937年7月30日、日本軍は北平(現北京)を占領後、傀儡中国人に閉鎖されていた妓楼を再開させ、日本人華僑に多くの慰安所を設立させ、日本軍人を接待させた。大多数の慰安婦は、掠奪連行された中国婦女である。
②天津
天津は、日本軍の中国侵略上の華北における重要な基地であり、日本軍の天津における最高軍事機関防衛司令部には慰安所はなかった。傀儡中国人に掠奪連行して、若い婦女を慰安婦にさせていた。前線部隊の要求を満たすために、中国人娼婦を徴用し慰安婦にさせていた。
2)河北、山東、河南の慰安所
①河北省
盧溝橋事件以降、日本軍は河北に進攻し、1937年末までに河北全域を占領し、各地に広く慰安所を設置した。一般市民を慰安婦として強制徴用した以外に、河北の各前線拠点にて、多くの中国人女子兵士捕虜を慰安婦にさせていた。
②山東省
日本軍が山東を占領した期間が比較的長く、範囲も広く、日本軍は傀儡中国人を使い、慰安婦を提供していた。日本傀儡との契約のもとに慰安所は、大凡全省に広く、青島、曲阜、淄州、徳州などに設置されていた。
【水野靖夫言説】
山東青島の慰安所がどの位の数かは不明だが、日本軍16師団の駐屯地付近に3ヶ所の慰安所があった。60人の慰安婦の内、朝鮮人40人、中国人と日本人が各10名であった。毎日慰安所前には長蛇の列となり、各兵士の慰安時間は5分ということになった。
③河南省
1937年11月5日日本軍は、安陽陥落後、河南に進攻し、翌年新郷慰安以南の河南を占領した.日本軍は、河南に広く慰安所を設立し、当地傀儡中国人と結託し、至る処で中国婦女を捕縛して慰安婦にさせていた。
3)山西、内蒙古の慰安所
①山西省
1937年秋、日本軍は山西に進攻後、各地に慰安所を開設し、日本軍の指揮のもとに各地傀儡政権は、中国人婦女を公開公募し、慰安婦に充当した。また大量の当地婦女が日本軍に捕縛連行され、日本軍駐屯拠点で蹂躙された。
②内蒙古省
【蘇智良採取】
日本軍は、草原に駐留する兵士のために1940年より次々と鉄道沿線地区に若干の慰安婦を建設した。ここには殆ど中国籍慰安婦を使い、多くの婦女は、捕虜となった女性兵士及び現地で掠奪された婦女であった。その価格は、朝鮮人慰安婦2日本円、中国人慰安婦1.5日本円であった。ここの慰安所施設は、極めて粗末で、多くは、中国住民が住んでいたレンガ造りであり、冷たく、湿った家屋であった。中国人婦女は、破れた部屋で、一日中陽が当たらず、更に加えて栄養不良により、多くの慰安婦が病に倒れ亡くなった。
4)黒竜江、吉林、遼寧の慰安所
黒竜江から遼寧まで日本軍は広大な黒土上に、大量の慰安所を設立した。
ただ日本軍16師団はすでに長春、瀋陽、旅順、大連、満州里、斉斉哈爾など広く慰安所をもっていた。
三、中国その他の日本軍慰安所
1941年太平洋戦争勃発後、日本軍の占領地区が拡大したことに伴い、慰安所の設置範囲は、中国大陸から、香港などに拡大した。この時期の日本軍慰安婦は、中国、朝鮮、日本から連行された性奴隷であった。
1)台湾
台湾各地の慰安所数はとても多く、台北、基隆、嘉義、台南、高尾などに多数設立された。学者の研究によれば、台湾慰安婦は、少なくとも2000人に上るという。
2)香港
太平洋戦争没発後、日本軍は香港を占領した。1942年2月20日、日本軍は、香港総督府を発足させ、中将磯谷廉介、平野茂正副総督が就任した。日本軍将兵の肉欲を満たす為に総督府は、慰安婦の設立を命じ、平野茂が直接計画した。資料によれば、海旁街の湾仔周辺に長さ800メートルの場所を指定し、数百の部屋をもつ特大の慰安所を建設し、また九竜旺角弥敦道の元倫智中学校に慰安所を設立した。
四、中国各地の日本軍慰安婦生存者
中国学者の調査と研究によれば、中国人慰安婦は20万以上、多くは、日本軍によって略取ないし誘拐に慰安所に連行され、年齢は10数歳から40数歳に跨り、相当数の中国婦女は、日本軍の残忍な虐待によって亡くなり、また生存したとしても心身ともに激しい損傷をうけた。
1)中国大陸の日本軍慰安婦生存者
中国大陸において、すでに数百人の慰安婦生存者が発見され、彼女らは、黒竜江、吉林、遼寧、山西、安徽、湖北、雲南、湖南、広西、江蘇、浙江、上海と南海省に分布している。戦時における日本軍の蹂躙と暴行は、彼女らの肢体とともに出産養育を損傷し、精神的損傷を受け、以降の生活は、苦痛のなかにあった。中国学者の完全な統計ではないが、2015年末、現在の日本軍慰安婦の生存者は20名に過ぎない。
【周紛英1916〜2008】
1916年江蘇省如皋白浦鎮楊園村の生まれ。1938年春日本軍が白浦鎮に進攻した際、彼女と叔母は近隣の家の挽き臼の下に隠れていたが、日本軍に見つかり、彼女らは日本軍の村の兵営にある慰安所に連れ出された。一緒に捕まって連れて来られた他村の20名余りは、簡易な家屋に閉じ込められ、日本軍専用の慰安婦となった。日本軍は、彼女らに番号をつけ、周紛英が1号であった。彼女らは毎日日本軍の淫行が繰り返し行われ、一旦服従しなれば直ちに滅多打ちの仕打ちを受けた。慰安所には常に彼女達の悲惨な慟哭で溢れて、彼女の眼は次々と泣き腫らしたために視力が減退しその後失明した。彼女の記憶によれば、合わせて48名の娘達がここの慰安所に拉致された。二ヶ月後、周紛英は身請けされて慰安所から開放された。2008年7月6日、周紛英は自宅で病に倒れた。享年92年であった。
【李連春1924〜2004】
雲南省龍陵の生まれ。1942年5月、日本軍が滇西に進攻した際、李連春は、日本軍に捕らえられ、腊勐慰安所の慰安婦にさせられた。慰安所にて彼女は心身の損傷をうけて、何度も逃走を考え日本軍による厳しい監視で成功しなかった。1943年冬のある夜、放牧にきた遠い親戚の援助のもと、放牧用の衣服に着替えて脱出することに成功した。
【万愛花1929〜2013】
内蒙古河林格爾生まれ。1937年万愛花は、山西孟県に人身売買された。1943年春日本軍が山西に進攻した時、15歳の万愛花は、共産党員の婦人救済会主任として不幸にも逮捕され、残酷な性虐待を受けた。彼女は何度も逃走し、何度も日本軍に捕まり洞窟に閉じ込められて日本軍性奴隷となった。1944年初頭洞窟から逃走し、生きも絶え絶えのところを親戚に助けられた。しかし日本軍による残酷な仕打ちにより、万愛花の身体は至る処に銃創をうけ、かつ出産能力が奪われていた。1992年万愛花は、「日本の戦後補償に関する国際 公聴会」に参加し、中国大陸で立ち上がり、世界にむけて日本軍の性奴隷制度を告発する最初の中国人暴行被害者となった。2013年9月4日逝去、享年84歳。
【劉面換1927〜2012】
山西省孟県西潘郷羊泉村生まれ。1943年4月同村の冯壮香、劉二荷とともに日本軍に捕らえられ、進圭村司令部に連行、慰安婦として蹂躙された。家人により身請けされ、治療に専念し、治癒後、再び拉致されることを恐れ、山中に隠れ、日本軍が撤退後にようやく帰村した。
【袁竹林1922〜2006】
湖北省武漢生まれ。18歳の時袁竹林は、騙されて湖北省一の慰安所に連れられ、日本軍慰安婦にされた。その後何度も逃走を試みたが、未遂に終わり、滅多打ちの仕打ちをうけ、出産能力が奪われた。袁竹林は早くから、その被害経歴を世間に公開し、日本政府の謝罪と賠償を要求した被害者である。
【劉慈珍】
1928年湖南省湘潭生まれ。1942年冬、日本軍に捕縛され、性奴隷となった。後に日本軍の各地への転戦に従軍させられた。1944年夏中国解放軍に救助された。
【林亜金】
黎族、海南省保亭県南林郷羅葵什号生まれ。1943年10月彼女と姉妹達は、稲田で日本軍に捕まり、什漏村に送られ、筵小屋に閉じ込められ、翌日、三人の日本兵に輪姦され、什漏村の10日間の内、9日間日本軍に暴行された。10日後南林村日本軍兵営に連行され、小さな鉄皮の小屋に閉じ込められ、慰安婦をさせられ、一ヶ月後林亜金は、病に倒れて、ようやく帰宅した。その後も、何度も日本軍に輪姦された。
【蔡愛花】
1926年海南省澄迈県中興鎮生まれ。15歳の時に捕まり、日本軍慰安婦をさせられ、逃走し山中に隠れて、最後に日本軍に投降した。
【韋紹蘭】
1924年生まれ。1944年冬、日本軍が広西荔浦県に進攻したとき、韋紹蘭は、零歳児を背負い、逃げる途中で日本軍に捕らえられ、慰安婦にさせられた。慰安所で日本軍に蹂躙された間に妊娠し、慰安所を逃れて、子供を産んだ。彼女はこの子供を羅善学と名づけた。他人はこの日本幼い子供を違う眼で見て、同年齢の友達らは、皆彼と一緒に遊びたがらず、現在に至る迄、70歳になる羅善学は、まだ独身を続け、所帯をもたず、母と一緒に暮らしている。
【陳桂英】
1922年生まれ、上海闸北生まれ。1940年上海から応募して黒竜江に赴き、その後、東寧県「乔燕堂」日本軍慰安所に押送され、日本軍慰安婦にさせられた。あの時は本当に辛かった。「一人の人間としての最高の時間が奪われ無為にされたということ。余りにも不運なことだ。」と語った。
2)台湾・香港の日本軍慰安婦生存者
学者の研究によれば、台湾に少なくとも2000名以上の婦女が慰安婦にさせられた。1992年台北市婦女救援基金会提訴専用回線の設置以降の台湾慰安婦の生存者調査では58名がいることが確認された。2011年現在11名が健在である。台湾、香港慰安婦達は、心身の障害が長期に渡り消えず、彼女らの生涯に影響を与えた。
【沈中阿姨1927~2013】
台湾花連生まれ、太魯閣族人。1944年12月駐屯地内の雑役と騙されて、日本警察に駐屯地内慰安所の慰安婦にさせられた。昼間は雑役をさせ、夜になると、慰安婦として性サービスをさせられた。三度妊娠し、三度流産した。
【満妹阿姨1926〜2011】
1926年9月台湾中坜生まれ。3歳の時、家が貧しく、両親により親戚の養女となった。1943年騙されて海南島で日本軍慰安婦にされた。妊娠に伴い、台湾に帰国し、生き続けた。(享年不明)
【芳美阿姨】
1931年9月台湾対台中州能高群生まれ。太魯閣族人。1945年家政婦と騙されて、台湾花蓮日本軍駐屯地慰安所で慰安所をさせられた。毎日心身の苦痛と辛酸を舐め、妊娠後流産した。
第5部 朝鮮半島出身者の日本軍慰安婦
1910年8月22日、日本は、大韓帝国を脅し日韓併合条約を締結し、朝鮮半島を正式に日本の植民地とした。1937年7月7日、日本は全面侵略戦争を発動し、日本は戦時を利用し、朝鮮民族滅亡策を実行し、その一つとして、大量に朝鮮半島の未婚女子を日本軍に特殊任務に強制的に従事させ、慰安婦にさせた。おびただしい朝鮮女性は、詐欺或いは脅迫により、中国大陸、東南アジア、沖縄などに連行し、性奴隷にさせて、悲惨な損傷を受けた。韓国学者研究統計によれば、戦時朝鮮半島婦女慰安婦の総数は、14万人から20万人である。
一、朝鮮半島出身者の日本軍慰安婦
1904年日露戦争の暴発後、日本は朝鮮政府を威圧し、第一次日韓協約を締結、1905年第二次日韓協約(乙巳条約)、1910年8月22日、朝鮮併合条約を締結、朝鮮半島は、正式に日本の植民地となった。この植民地化の背景のもと、日本は全面的中国侵略戦争を開始し、おびただし朝鮮若い女性が、詐欺と脅迫で日本軍慰安所に送り、日本軍の性奴隷にさせた。
二、朝鮮半島出身者の日本軍慰安婦の生存者
朴永心を代表とする朝鮮人日本軍慰安婦生存者は勇気をもって立ち上がり、日本の第二次大戦における詐欺と脅迫による慰安婦強制の罪状を告発した。日本側によるあらゆる言い逃れと慰安婦制度の罪状否認に対して、これら朝鮮日本軍慰安婦生存者の証言は、抹殺しようもないものであった。
【毛銀梅】
本名朴蛾姫、朝鮮人。17歳の時、日本人に中国の工場で働くことがきると騙され、日本人と中国に行き、最後は武昌に着き、慰安所に入れられた。慰安所には十数人の慰安婦がおり、一人に或いは二人に一部屋に入れられ、周囲は兵営であった。毛銀梅とともに来た朝鮮人女性は2名が河に飛び込み自殺し、同棟の女性はある人は妊娠し、引きずり回されて堕胎され、再び戻ることはなかった。
【李風雲】
本名李寿段、1922年朝鮮平壌の貧農生まれ。19歳の時、母親の重病の治療費のために日本の工場に身売りされ、日本人に従って、黒竜江阿城に連れていかれ、その後日本兵に捕まり、東寧要塞の慰安所に連れていかれ、日本降伏まで、慰安婦をさせられた。やっと苦痛の世から開放され、東寧県大肚川鎮で身分を隠して住み着いた。
【金淑蘭】
金淑蘭、朝鮮平壌生まれ。19歳の時、騙されて東寧の日本人経営の慰安所に連れてこられた。その後また騙されて石門子の慰安所に連れていかれた。そこでは、毎日40名の日本兵に相手をさせられた。慰安所では常に娘達が苛まれて亡くなり、彼女は、ある日三人の娘達の遺体を搬出した。同じ部屋に住む15歳に満たない娘は、日本兵に輪姦され、大量失血で死んだ。
三、韓国の日本軍慰安婦生存者
二次大戦中、日本の植民地として、韓国は多数の女性が植民地当局による詐欺と脅迫により、日本軍慰安婦にさせられた。戦後一部の生存者は韓国に帰国し、勇気をもって立ち上がり、日本軍慰安婦制度の罪状に対する証人となった。金学順を代表とする日本軍慰安婦生存者が最も早く立ち上がり、日本兵矢口の日本軍慰安婦制度の罪状への否認言説に対して長期にわたる闘いをすすめた。
【朴来順】
朴来順、韓国慶尚南道威安群内谷里生まれ。1941年日本の「戦地后勤奉仕隊」に参加させられ、その後中国遼寧省撫順市の兵営の慰安婦にされた。1942年1月日本軍配属変更で海南島まで南下した。
【斐春姫】
斐春姫、韓国慶尚北道星州群生まれ。1941年彼女は、日本人に騙されて、中国の慰安所に連れていかれ、当日夜、日本将兵に強姦された。その後毎日、11人から15人の将兵に強制的に淫行され、病気であろうが、生理期間であろうが、獣の将兵たちは、見逃すことはなかった。
【姜日出】
姜日出、韓国慶尚南道尚州群安東面生まれ。1943年自宅で警察官に強制連行され、中国牡丹江につれていかれた。目的地に到着後、日本軍軍人病院に連れて行かれ、身体検査を受け、日本と台湾から来た少女と小さな小屋に閉じ込められ、名前を呼ばれて、小屋からできることができた。当時、慰安所には30名余の女性がいた。そのあと、単独に小さな部屋に案内され、毎日、少なくとも7〜8名の日本兵に淫行を強制された。
【文必基】
文必基、韓国慶尚南道生まれ。1943年彼女は、中国吉林省長春にある日本軍慰安所に身売りされ、日本軍性奴隷にされた。その後、毎日一日中、慰安所にて日本兵の淫行を強制され、屈辱の日々を2年に渡り過ごした。慰安所には、30名の慰安婦がいたが、全て朝鮮人であり、大多数は、北方の少女であり、年齢は、18歳から19歳の間であった。平日は、大体一日10名前後の兵士と淫行を強制され、土曜日と日曜日の状況は、一様ではなく、兵士達は、朝8時から絶え間なく訪れ、30人から40人の兵士との淫行を強いられた。
【金順徳】
金順徳、韓国慶尚南道宜寧群生まれ。1937年彼女は求人応募で騙され、長崎の日本軍兵営に連れられ、当日夜、日本兵に強姦された。一週間後に彼女は、中国上海の日本軍慰安婦に押送され、駐屯軍に従軍した。その後南京に連れていかれた。1940年彼女は韓国に送還された。「慰安婦は、毎日朝7時に起床し、平均一日、30人から40人の日本軍将兵と接待した。」と語った。
四、対日本軍慰安婦制度犯罪の告発
1990年、韓国梨花大学尹貞玉教授が代表となって、韓国女子挺身隊問題協議会を正式に発足し、日本軍慰安婦制度に関する研究と広報活動を開始した。韓国民衆に呼びかけ、当時大統領盧泰愚のもとで、戦時韓国子女の日本軍慰安婦に関する歴史経緯を全面的な調査を展開した。韓国の民衆団体は国連人権委員会に訴えて、韓国慰安婦生存者の対日賠償請求への支援要請を行った。慰安婦生存者は、民間義捐金により、ナヌルの家を設立し、日本軍慰安婦歴史館を建立した。
【金学順】
金学順は、吉林生まれ、二年後父が亡くなり、母にしたがい、韓国平壌に戻った。1941年17歳の時、金学順は、養父に従って赴いた中国北平で、日本軍将兵に強制連行、強姦され、鉄格子の慰安所に連行され、日本軍性奴隷にされた。「日本軍人は、だいたい午後に慰安所を訪れたが、しかし戦闘から戻った時には、翌早朝からに、兵士達が押し寄せ、一日7〜8人の軍人を接待した」と語った。
第6部太平洋戦争と日本軍慰安婦制度の罪状
1941年12月7日、日本軍は、アメリカ真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した。日本軍の占領地域の拡大に伴い、慰安所の設置範囲は中国大陸からシンガポール、ビルマ(現ビルマ(現ビルマ(現ミャンマー)))、タイ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ベトナム、東インド諸島、南太平洋諸島と日本本土に拡大した。この時期の日本軍慰安婦は、中国、朝鮮、日本から強制連行された性奴隷以外に東南アジア当地の婦女に留まらず、東南アジアに住む欧州婦人も不運な災難から逃れることができなかった。
一、太平洋戦争暴発と日本軍慰安婦制度の拡大
1941年12月、太平洋戦争勃発後、日本軍は東南アジアと西太平洋諸島に進攻した。日本軍は1942年6月までにフィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ビルマ(現ビルマ(現ミャンマー))、タイなどを占領した。日本軍部は、日本軍将兵の士気を鼓舞するために直ちに慰安婦制度を東南アジア各国に計画的な適用を推進し、大量の婦女を日本軍慰安婦にさせた。
二、東南アジア及び太平洋諸島の日本軍慰安所
東南アジア及び太平洋諸島を占領した後、日本は、即刻慰安所を計画的に各地に設置推進した。慰安所の配置範囲は、中国大陸からシンガポール、ビルマ(現ビルマ(現ミャンマー))、タイ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ベトナム、東インド諸島、南太平洋諸島に拡大した。日本軍による東南アジア及び太平洋諸島の慰安所は、中国戦線の慰安所とは大きく異なる。日本軍は占領すると、即刻、欧米植民者が当地に所有する豪華住宅や別荘地を接収し、白人既婚婦人達を「欧米人の統治から解放するとの号令の下、日本軍将官の専用慰安婦にさせた。
【鈴木俊雄:元日本兵証言】
電話ボックス位の大きさのチケット売り場には、十七〜十八名程の兵士が並んでいた。一軒の家屋に着くと、そこに、6〜7床のベットが並び、布で仕切られていた。その他の慰安所は、朝鮮人のようであったが、ここはすべてフィリピン人であった。私がちらっと覗いたところ、彼女は、顔を傾けて、横になって面を食べて、両足を広げていた。兵士達は、たった5〜6分で終わり、次の兵士に譲り、全く慌ただしい光景であった。巡視する衛生隊員の任務の一つが、兵士に衛生サックの着用を指示することであった。
(資料)フィリピン島軍政監部ビサヤ支部イルイル出張所設立の慰安所規定
「慰安婦規定(第一慰安所、亜細亜会館)」
一、本規定はフィリピン島軍政監部ビサヤ支部イルイル出張所が管理する慰安所に関する事項を定める。
二、慰安所の監督指導は、政監部が掌握するものとする。
三、警備隊医官は、衛生事項に関する監督指導に責任を負い、毎週火曜15時より、慰安婦を性病する。
四、本慰安所利用者は、正規軍人並びに軍属のみとする。
五、慰安所経営者は、以下の事項を厳守しなければならない。
1.家屋を維持し、寝具を清潔にし、且つ日光消毒すること。
2.洗浄・消毒施設を完備すること。
3.衛生サックを使わずに交わることを禁止する。
4.性病をもつ慰安婦を接客させることを禁止する。
5.慰安婦の外出を厳禁する。
6.毎日入浴させること。
7.規定以外の性交を禁止する。
8.営業者は政監部に毎日の営業状況を報告すること。
六、慰安婦を利用する者は、以下の事項を厳守しなければならない。
1.スパイ規定を絶対厳守しなければならない。
2.慰安婦及び事業主に対する暴力や脅迫行為をしてはならない。
3.料金は、軍票をもって事前に支払わなければならない。
4.衛生サックを使用し、尚かつ入浴を怠らず、性病予防に万全を期すこと。
5.(資料)軍政監部ビサヤ支部イルイル出張所長の許可なく、慰安婦を連れて、外出してはならない。
七、慰安婦は、毎日午前8時〜10時迄散歩すること。これ以外を除き、フィリピン島軍政監部ビサヤ支部イルイル出張所長の許可を得なければならない。散歩区域は付属図を参照すること。(図は省略/原注)
八、慰安所は、外出許可証(或いは代替証明書)を使用しなければならない。
九、営業時間及び料金は以下の通りである。
種類 営業時間 遊興時間 料金(軍票円):第一(亜細亜会館)
兵士 9時〜16時 30分 1.0(1.5)
下士官 16時〜19時 30分 1.5(2.5))
見習い将校 19時〜24時 1時間 3.0(6.0
(資料)矢野麗子(慰安婦問題研究)
フィリピン群島——マニラ慰安所は、一部慰安所は、軍の管理下におかれたが、民間人経営の慰安所の女性は、通常スペイン人とフィリピン人の混血児だった。料金は、10〜20円であり、軍の監督下の慰安所の料金は日本人と朝鮮人女性が2−3円であった。料金差別が激しかったが、民間慰安所は歓迎されたが、これは、そのような女性が少なかったためである。
【証人証言:当時特務諜報員の日本軍官:於ラオス、バンコク】
女性は30人から50人の集団をつくり、前線後方の陣地を巡回し、兵士の性欲を満たしていた。その日は、性病予防の日で、駐留の全ての女性を集合させて、5人単位に分かれて、赤十字と書かれた大きなテントに入っていた。
【証人証言:朴玉蓮】
朴玉蓮は夫に日本人に身売りされて、1944年日本軍南太平洋の軍事基地に送られ、日本軍慰安婦にさせられた。「軍人たちの強制淫行など夢にも思ったことがなかったが、食事時間を除き、一歩も家屋から離れることができなかった。以後の日々は、私毎日2〜30人の日本軍に淫行を強要されるというものであった。
【証人証言:騙されて南洋の慰安婦生存者】
1943年、たった16歳の時、日本人に南洋軍福利サービスに応募して騙され、南洋に連れられた。私たちは、椰子の樹皮で覆われた大きな家屋に着き、外側に慰安所という看板か掲げられていた。3〜40名の少女が朝5時から午後5時の勤務時間で、主に日本軍及び台湾兵士と毎日3人から5人を相手にさせられた。その他の少女は、私より3歳年上で。私は、この忍び難い生活から逃れたい思いで、二度自殺を図った。
資料(アンマン慰安所規定:インド)
昭和20年3月18日
第12特別根拠地隊司令部海軍伊利用内部規定は以下の通り。
一、海軍慰安所の管理・経営は、海軍司令部で統一的に執行する。
二、無料賃貸住宅事業者は基本的に必要な家具は暫時貸し出す。事業者は、貸し出し物件の保全管理に責任を負うものとする。
三、事業者は、清潔に維持し、衛生面については、司令部指示に従わなければならない。軍医長は、毎月第二と第三の火曜日健康検査を行い、検査結果を報告し、不合格者は、接客を停止すること。
四、海軍慰安所区分は、鶴の家、亀の家、松の家、竹の家、梅の家の5つとする。
五、鶴の家、亀の家(準下士官以上)に関する規定は以下の通り。
甲:時間と料金
一晩:15円
短時間:7円(24時迄の1時間が目途)
乙:利用対象者
(1)海軍準士官等級及び以上
(2)公務員一級待遇以上の海軍文官と軍属
(3)司令部許可を受けた商社職員
(4)その他特別に司令部に許可された者
丙:その他
慰安所内飲食禁止
六、松の家(下士官と兵士)の利用規定は以下の通り。
甲:時間と料金
下士官:30分 3円
兵 士:30分 2円
乙:利用対象者
海軍下士官兵
丙:その他
(1)慰安所内飲食禁止
(2)21時から23時まで準士官利用可。但し短時間(一時間以内)5円とする。
七、竹の家(施設部隊用)の利用規定は以下の通り。
甲:時間と料金
60分以内 5円
乙:利用対象者
施設部隊員:
丙:その他
慰安所内飲食禁止
八、梅の家(施設部隊以外の軍属・商社関係者)の利用規定は以下の通り。
甲:時間と料金
60分以内 5円
乙:利用対象者
施設部隊員以外の軍属・商社関係者
丙:その他
慰安所内飲食禁止
九、各慰安所の料金支払いに関する規定は以下の通り。
甲:司令部において、慰安所利用券を発行し、各部隊(艇、部、所)に別に定める基準により配布する。
乙:利用者は、本券(料金は前項所定の通り)を購入後、慰安所で直接事業者に渡すものとする。
丙:各部隊(艇、部、所)長は、半月毎に書面を以て主計長に上述料金の統計を報告しなければならない。
丁:事業者への料金の支払いは、総収入から生活費及びその他の費用を控除し、事業者に支払うこと。
戊:慰安所内における現金支払いを厳禁する。
十、毎月8日を定休日とする。
十一、利用者、事業者は、家屋及び付属設備の使用には細心の注意を払い、毀損、逸失を避けなければならない。
十二、不適格者と判断した場合は、事業者の営業を停止、或いは、該当する利用者の立入を禁止する。
【李容女】
李容女、韓国京畿道骊州群生まれ。1942年彼女は、日本人に騙されて、ビルマ(現ミャンマー)に連れられ、ヤンゴンで慰安婦にされた。当時の経緯を彼女は、「
私は騙された。人生の悲劇の始まりだった。ヤンゴンで私は、日本軍に暴力と脅迫によって慰安婦にされた。当時慰安所には50名程の慰安婦がいた。私の名前は原田容女と改名された。1年後、私たちは山奥に移された。そこには食事さえも満足にできず、毎日日本軍によって苦しみを受けて、悲しみと苦痛の極みにあった。
三、日本本土の慰安所と慰安婦
日本軍は、中国侵略戦争の開始とともに国内で慰安所を設立し、多くは、妓楼を建設し、慰安所に当てた。太平洋戦争勃発後、日本軍の強烈な要求により、日本国内で慰安所を建設し始めた。1944年2月25日「決戦非常措置要綱」を発布し、大部分の高級旅館、芸者館、妓楼などの営業を停止し、妓楼の施設は、戦時サービスとして使用され、軍隊用の慰安所に転換した。
1944年11月11日、日本長野県松本の大本営地下施設の建設を始めた。1944年12月から開始し、日本軍は、毎月100円の賃料で、部屋を借り、慰安所として改造した。4名20歳前後の朝鮮人女性をここに送り、日本軍慰安婦にさせた。
【裴奉奇:韓国籍慰安婦、於:沖縄渡嘉敷】
裴奉奇は、騙されて日本沖縄に連れられ、日本軍慰安婦にされた。彼女は、世界メディアにより最初に報道された韓国慰安婦の生存者である。裴奉奇は、人身売買仲介者から、稼げる仕事があるとの餌に騙され、日本軍沖縄渡嘉敷に連れられ、日本軍慰安婦にされた。慰安所内では秋子と呼ばれ、毎日、綺麗な色の和服を着せられ、日本兵を接待させられた。日本敗戦後、裴奉奇は島を放浪したところを保護された。
四、東南アジア各地の日本軍慰安婦
日本軍が東南アジア各地を占領後、日本と朝鮮など慰安婦を連行し、東南アジアの戦地に送った。
【ロザリオ・ノブエ:フリィピン日本軍慰安婦生存者】
日本兵は、現地の住民を虐殺し、しかる後に私を駐屯地に連行し、性虐待を受けた。その後、日本兵は、アメリカの攻撃が始まると、戦線を離れる際に、私たち40名のフリィピン慰安婦を斬首した。
【マリア・ラサ・ハンセン:フリィピン日本軍慰安婦生存者】
勃起しないことに腹を立てた日本兵は、私の手で彼の生殖器をなでさせたが、まだ勃起しなかった。外で待っていた別の兵士が待ちきれずに拳で壁を叩き催促したため、件の男は離れる外なかった。離れる前に、力ずくで私の乳房を握り、私の髪を引っ張った。これらは常に遭遇した境遇であり、兵士の満足しない時は、その怒りを私の身体に発散させた。
五、オランダ籍日本軍慰安婦
日本軍慰安婦制度は、アジア系女性に実施しただけでなく、日本軍が占領した東南アジア地域において、少なくない白人女性も日本軍に脅迫されて慰安婦にされた。そのなかに。オランダ籍のヤン・ルフ・オハーンがいた。これら白人慰安婦は、数は少ないが、日本軍慰安婦制度の問題の大きさを映し出した。
【ヤン・ルフ・オハーン:1992年12月東京国際公聴会時の証言】
三橋(日本軍軍官)は、私の衣服を引き裂いて、それらを脱ぎ剥がした。私が裸でベットに晒されたとき、軍官は、ゆっくりと匕首を私の身体の上から下まで、繰り返し撫でた。軍官は、衣服を脱ぎ捨て、わたしの身体に威力で押さつけ、私は軍官の下で、どうすることもできなかった。私は軍官を打って、彼を掴まえようとした。しかし軍官は、頑強すぎた。軍官が、私を強姦された時、私の泪があふれ出し、彼はまるで終わりがないかの様であった。
第7部日本軍慰安婦問題と歴史記憶
20世紀80年代以降、中国、日本、韓国の良識ある学者と市民の取組によって、日本軍慰安婦問題の真相は、徐々に広く社会に認知され、日本軍慰安婦に関する公文書が相次いで発見され、国際社会は日をおって、日本軍慰安婦問題への関心が集まった。しかし日本側は極力、慰安婦の史実を否認し、かつて被害を受けた国家とその民衆から強烈な憤激を引き起こし、国際社会の広範囲にわたる批判を招いた。2014年3月、中国の6つの公文書館は共同で慰安婦の歴史的文書を世界記憶遺産への登録を申請し、世界民衆にこの歴史に関する理解と、更なる女性の人権擁護を促した。
一、日本右翼勢力による慰安婦歴史の否認
1993年8月4日、日本の内閣官房長官河野洋平が談話を発表し、日本が長期にわたり、多くの地方に、慰安所を設置したことを認め、これ以降の日本政府の慰安婦問題の基本的スタンスとなった。しかし以後、日本政府は、ここに留まり、前にいっていない。しかもこの数年、一部の日本政界要人や右翼勢力は、ふたたび誤った言説を発表し、日本軍慰安婦制度の歴史的犯罪を否認した。
二、日本軍慰安婦生存者の告発
20世紀の90年代から、中国、韓国、フィリピンの慰安婦制度の被害者達は、法的手段をもって、第二次大戦期のアジア地域の女性への性奴隷犯罪二関する訴訟を開始した。彼女らは絶えず、日本各地の法廷で訴訟を提起し、日本政府の謝罪、賠償を要求したが、結果は、一件の勝訴はなかった。
資料(1991年〜2010年各国慰安婦被害者の日本政府への訴訟案件一覧)
1991年12月06日 東京地裁 韓国被害者金学順等 日本政府 敗訴
1992年12月25日 山口地裁 韓国釜山被害者 同上 1998.04.27一審敗訴
1998年05月01日 広島高裁 同上 同上 2001.03.29二審敗訴
2001年04月12日 最高裁 同上 同上 2003.3.25 最終審敗訴
1993年04月02日 東京地裁 フィリピン46名 同上 1998.10.09 一審敗訴
1998年10月23日 東京高裁 同上 同上 2000.12.6 二審敗訴
2000年12月20日 最高裁 同上 同上 2003.12.25最終審敗訴
1993年04月05日 東京地裁 在日韓国人被害者宋神道 同上 1999.10 一審敗訴
1999年10月07日 東京高裁 同上 同上 2000.11.30 二審敗訴
2000年12月12日 最高裁 同上 同上 2003.3.28 最終審敗訴
1995年08月07日 東京地裁 中国被害者劉秀梅外3名 同上 2001.05.30 一審敗訴
2001年06月12日 東京地裁 同上 同上 2004.12.15 二審敗訴
2004年12月27日 最高裁 同上 同上 2007.03.27 最終審敗訴
1996年02月23日 東京地裁 同上 同上 2002.03.29 一審敗訴
2002年 東京高裁 中国被害者郭喜翠、侯功蓮 同上 2002.03.29 二審敗訴
2005年 最高裁 同上 同上 2007.04.27 一審敗訴
1997年04月14日 静岡地裁 韓国被害者元女子挺身隊 同上 2000.01.27 一審敗訴
2000年 東京高裁 同上 同上 2002.01.15 二審敗訴
2002年 最高裁 同上 同上 2003.03.27 最終審敗訴
1998年10月30日 東京地裁 中国被害者万愛花等10人 同上 2003.04.24 一審敗訴
2002年05月08日 東京高裁 同上 同上 2005.03.31 二審敗訴
2003年04月 最高裁 同上 同上 2005.11.18 最終審敗訴
1999年03年1日 名古屋地裁 朝鮮女子挺身隊 同上 2005.2.24 一審敗訴
2005年03月9日 名古屋高裁 同上 同上 控訴審入り
1999年7月14日 東京地裁 台湾被害者大桃ら9名 同上 2002.10.01 一審敗訴
2002年10月 東京高裁 同上 同上 2004.02.09 二審敗訴
2004年02月18日 最高裁 同上 同上 2005.02.25 最終審敗訴
2001年07月16日東京地裁 中国海南省黄有良、林亜金ら9人同上 2006.8.30 一審敗訴
東京高裁 同上 同上 2009.03.26 二審敗訴
最高裁 同上 2010.03.02 最終審敗訴
三、国際社会の日本軍慰安婦問題
国際社会は日増しに慰安婦問題に注目し、日本政府に犯した罪を認め、謝罪し、賠償するように早急な解決を促した。1997年4月1日、国連法律家は、国連人権委員会に「戦時性奴隷」に関する報告を提出した。2000年12月8日、東京で「日本軍性奴隷を裁く女性国際戦犯法廷」を開催した。2007年、アメリカ下院外交委員会は、日本軍慰安婦決議を圧倒的多数で採決し,日本に正式謝罪を要求した。カナダ、オランダなどは、日本軍慰安婦暴行に関する説明を行い、正式謝罪と賠償を要求した。
【国際社会の日本軍慰安婦犯罪に関する責任追と訴訟年史】
1992年:韓国被害者毎週水曜日ソウル日本大使館前で抗議活動開始
1995年:中国被害者、東京地裁に提訴
1996年:国連人権委員会による慰安婦————性奴隷奴隷を報告
:アメリカ「タイムス」に「慰安婦:消せない歴史の風呂敷」を掲載
し、はじめて、西側読書に日本軍慰安婦の真相を暴露した。
2000年:東京裁判慰安婦制度民間法廷活動を開始
2001年:ハーグ法廷慰安婦制度民間法廷結審
2007年:アメリカ下院121号法案可決、日本の二次大戦におけるアジアその
他の国の婦女の慰安婦強制に関する譴責を追求。
オランダ議会は全会一致で動議し、日本に第二次大戦に慰安婦強制へ
の謝罪、生存者への賠償要求を決議した。
EU議会は、決議案を採択し、日本政府に慰安婦問題への謝罪被害者
と親族への経済的賠償を要求した。
フィリピン国会議員は、日本の謝罪要求議案を提案
中華人民共和国外務大臣李肇星は第10回全人代第5回会議記者会見
で、慰安婦強制は、日本の第二次大戦における苛烈な犯罪の一つであ
り、日本政府は、歴史的史実を認めるべきと指摘した。
2008年:韓国国会など決議
2012年:アメリカ国務長官ヒラリーが慰安婦は性奴隷と発言。
2013年:韓国大統領朴槿恵が韓国国民の日本の謝罪拒否への不満に言及。
2014年:国連人権理事会は、「日本の人権審査結論」報告を発表し、日本は、
第二次大戦における慰安婦問題に対する責任を承認すべきとした。
中華人民共和国外務省スポークスマン秦剛が記者会見で、慰安婦強制
は、慰安婦強制は、日本軍国主義による甚だしい犯罪であると指摘し
た。
国連が開催した第58回婦人の地位委員会において、中華人民共和国
常駐国連副代表王民が、日本軍の二次大戦における慰安婦強制の犯罪
を譴責した。
アメリカ上院は、慰安婦問題を含むアメリカ2014年度予算法案を可
決し,可決案は、日本の第二次大戦におけるアジアの各国婦女を日本
軍の性奴隷に強制したことの責任を負うことを求めるものであり、日
本に慰安婦問題に関する歴史的政治的責任を負い、正式に謝罪するこ
とを要求した。
中華人民共和国外務省スポークスマン華春宝は記者会見で中国は一
貫して、世界記憶遺産登録を申請し、現在9件の文献を記憶遺産に登
録された。中国側は、南京大虐殺と日本軍慰安婦強制に関する歴史的
公文書は、「真実であり、貴重なものであり、かつ歴史的に重要な価
値を有する」として登録基準に合致する。申請目的は、歴史を銘記し、
平和を探求し、人類の尊厳を守るためであり、この人道に背き、人権
を侵すものであり、反人類的行為として再び、繰り返されてはならな
い。」とした。
2015年:ドイツメルケル首相が日本に訪問し、慰安婦問題の承認を促した。
【日本軍性奴隷制度女性国際戦犯法廷】
国際社会は日本政府の先送りと謝罪と賠償を拒絶する策謀を明らかにするために、更に人々の関心を高め、日本軍の第二次大戦における戦犯行為を明らかにするために2000年12月8日から12日まで、日本軍性奴隷を裁く女性国際戦犯法廷を東京で開催した。中国、韓国、フィリピン、インドネシア、マレーシアなどはそれぞれ代表団を組織して参加し、イギリス、アメリカ、日本、オーストラリア、ケニア、国際ハーグ法廷、国際法律家協会等ベテラン法律家、弁護士が参加し、民間法廷の裁判を主管した。中国代表団35名は、団長を中国慰安婦問題研究センター主任蘇智良が務め、中国侵略日本軍南京大虐殺受難同胞紀念館館長朱成山が性暴力被害者楊明貞弁護人を務めた。世界の143社ニュースメディア305名の記者が今次裁判法廷を取材し、世紀の大法廷と称した。法廷は、最後に日本の昭和天皇裕仁に人道に関する罪とともに日本政府が日本政府慰安婦制度被害者に対する八項目の謝罪と賠償に応ずるべきことを判定した。2001年12月、法廷は、ハーグにおいて、最終判決を行い、一審判決は有効であることを確認した。
四、日本軍慰安婦問題と世界記憶遺産
1998年韓国民間活動家は、日本政府慰安婦生存者は、資金を募り、生活の家————ナヌムの家を建設した。1999年上海師範大学慰安婦問題研究センターが正式に発足し、強力に中国慰安婦問題の調査研究に推進した。2014年3月中国の6つの公文書館は共同して「慰安婦————日本軍性奴隷公文書」をユネスコに世界記憶遺産への登録を申請した。韓国女性家族省は、韓国及び中国、東南アジア地区における日本軍慰安婦の記録を申請することを宣言した。
あとがき
1945年8月15日、日本は敗戦、投降し、犯罪的な日本軍慰安婦制度は消滅した。しかし、日本軍が戦場で行った慰安婦制度は、中国、韓国など多数の被侵略国の婦女に決して消すができない心身にわたる損傷をもたらし、戦争の終結と停止にも関わらず、悪夢の記憶は、慰安婦生存者の一生に付きまとった。
歴史は忘却することはできず、罪の責任は否認されてはならない。今日に至るまで、日本の右翼勢力は、極力戦時の慰安婦制度の歴史を否認し、責任を逃れることを意図し、これは、日本軍慰安婦生存者に対する二次損傷であり、人類に対する良識と平和への挑戦である。
今年は、中国人民の抗日戦争と世界ファシスト戦争勝利70周年にあたる。この時期に相応しく本閲覧図集を編集出版したことは、人々が歴史をしっかり記憶に留めることを呼びかけることはもとより、日本軍による人権と道義に反する罪状を叱責し、更に、平和的生存と未来への発展を切り開くためのものである。
奥付要約
書名:性奴隷の悪夢————南京利済巷慰安所旧址陳列図集
作者:朱成山
出版:南京出版社
出版人:朱同芳
版数:2015年12月
図書コード:ISBN 978-7-5533-1129-6
価格:80元
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訳者注:
1)上海「大一サロン」について
立命館大学齋藤敏康訳「蘇智良著『上海の慰安所施設〜「大一サロン」旧日本軍史上最初の慰安所の真相を暴く』に詳しい。
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/64616.pdf#search=%27南京慰安婦陳列館%27
2)中国遠征軍
中国抗日戦争中に中華民国政府(重慶が日本軍に対するビルマ植民地のイギリス軍を支援し、中国ビルマ国境の南西部防衛のための国民党部隊。
3)決戦非常措置要綱
決戦非常措置要綱は、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、国家総動員の実効を上げるため、閣議決定されたもの。
1944年2月25日、国民向けの「決戦非常措置要綱」を閣議決定した。
学徒動員や女子挺身隊の強化、地方への疎開の推進などの空襲対策、旅行の制限、高級享楽の停止(待合、カフェー、遊郭、劇場などの休業)、官庁の休日削減など、国民生活に多大な影響を及ぼした。 また電力開発などの公共事業が停止され、設備の修繕も最小限にとどめられたため、空襲も相まってインフラが荒廃し戦後の復興の足かせとなった。Wikipediaより
by inmylife-after60
| 2020-01-30 22:25
| 歴史認識・歴史学習
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