2020年 02月 02日
吉田裕「日本軍兵士」を読む |
吉田裕「日本軍兵士」を読む
〜中国揚州の自殺死について調査したい〜
一橋大学吉田裕最終講義(2月1日)を受講するにあって、最新著作の「日本軍兵士〜アジア太平洋戦争の現実〜」(中公新書)を読んだ。
自殺死は、四年前に中国揚州地方誌「揚州晩報」で紹介された中国の「抗戦文芸(1938年6月18日出版)」にある「揚州の日本兵自殺せり」の記事(巻末記事を参照)で、当時揚州で毎日のように「日本軍兵の自殺」が報道され、しかもその自殺が奇形化していることを知り、「自殺死」が何故、1938年前半の中国戦線で、日常化していたのかについて、とても関心があった。どのような背景と動機、そしてそのような死にいたる原因はどのようなものかを知りたかったからである。
この本の「自殺死」に関する記述は少なくない。いうまでもなく、アジア太平洋戦争で戦死した日本軍人と軍属(陸海軍に勤務する文官)は230万人(朝鮮籍、台湾籍軍人軍属5万人を含む)であり、外地人の一般邦人が30万人、原爆・空襲などによる戦災死没者が50万人、合計310万人といわれる(P23)。藤原彰氏は、この230万人のうち、戦闘による戦死者以外の、栄養失調による餓死者とこの栄養失調に伴う体力の消耗の結果)、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者は、140万人とし、餓死率を全体の61%と書いた(「餓死した英霊たち」)。(P31)
同時に形式上、戦死・戦病死に区分される場合も、実態上はそれとは異なる死のありようがあることを指摘し(P58)、以下の事例の一つとして、1944年3月硫黄島の戦闘における日本軍守備隊の死者(18000名)の内訳が紹介されている。
「敵弾で戦死したと思われるのは30%程度。残りの七割の日本兵は次のような比率で死んだと思う。
六割:自殺(注射してくれと頼んで楽にしてもらったものを含む)
三割:他殺(お前が捕虜になるなら殺すというもの)
一部:事故死(暴発死、対戦車戦闘訓練時の死者など)(「小笠原兵団の最後」)
また自殺事例として、1942年6月杭州に小銃自殺した一等兵の事例として、知的障害者の自殺をあげている。(P91)
「彼は補充交代要員として同地に到着したが、原隊出発から同地到着の間、『ほとんど無口にして戦友と談笑せるが如きこと一度もなく常に孤独』の状態であり4日目に自殺している。」「この兵士は、他の兵士に比べて、記憶力や理解力が常に劣ることを気にしており、前年9月に勤務中に逃亡し、そのために禁固五ヶ月の判決を受け、1942年2月に陸軍刑務所を出所したばかりであった。報告書は、長期の輸送、到着後の「知能検査」、作戦準備の開始など、環境激変により発作的に自殺したものと判断した。(「軍中自殺事件状況報告」)
この本を読んで、自殺死との因果関係に関わる背景として、以下の二点があると感じた。
1)「日中戦争の全面化(1937年7月以降)の大規模兵力動員に伴い、現役兵を第一乙種まで徴集し、第一補充兵役を第二乙種に拡大したこと。その結果1939年には、第二補充兵兵役要員として、第三乙種が新設、1940年1月陸軍身体検査規則を改定し、徴兵検査基準は大幅に引き下げられたこと」(P83)。つまり、精神的な問題を抱える青年も徴収する方針に転換したという。
2)「日中戦争の全面化とアジア太平洋戦争の開戦により、大量の「老兵」と「弱兵」が入隊し、軍隊内の私的制裁は自殺と脱走の大きな原因となった。そのため軍幹部はその根絶を繰り返し強調したが、下士官、下級将校のなかには、私的制裁を黙認することが根強かった(P166)。私的制裁で死亡した場合、公文書が偽造され、また私的制裁は罪とされなかったと言う。
この本には、自殺死以外にも、作戦敗北濃厚時における軍の撤退に伴う自立歩行不能者に対して「措置」という殺害を行った事例、戦闘への恐怖と厭戦に伴う逃避を意図した「自傷者」の事例など、戦場における「死の現場」が詳細に記述されている。
この本は、人間の行う戦争と戦場そしてその直接的な当事者である兵士とはなにかを知る上で不可欠な本質的な要素をもっていると感じた。
中国揚州における自殺死について、今後どのように調査をすすめるかの段取りを決めなければならない。
まず、1937年第一次上海事変以降に、上海に派遣され、その後南京に向かう部隊の内、揚州占領に関わった部隊に関する記録の有無から調べてみようと思う。一定の基礎調査の上で、国内の揚州出兵に関わった連隊記録の有無などを調べてみようと考えている。
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揚州の日本兵自殺せり(抜粋)(記者:鮑雨)
最近、揚州日本兵に一種の「狂気病」が流行している。——自殺狂である。殆ど毎日、自殺する兵士が発見され、自殺の方法は極めて残酷であり、首筋部と腹部以外に生殖器を切って自殺する。
最近、名を宮毅一郎という兵士は、まだ26歳足らずであるが、彼は、短刀を用いて顔面を切り裂き、その後に咽喉を切り裂いて自刃した。揚州市内左衛街の小さな旅館で死んだが、短刀がしっかりと咽喉に刺されたままであったと言う。
更に注意してほしいのは、彼が自殺した翌日の夜、新勝街大陸旅館(日本人慰安所)にて名を秋子という日本女性が首つり自殺した。彼女は若い美貌な女性であった。
一般の人は、宮毅秋子の死は、注目に値しない「情死」と思われるかも知れない。しかし問題は、そんなには簡単ではない。彼と彼女は、一体どのような関係だったか?なぜ自殺に及んだのか?一端詮索を離れて、旅館のベッドに残された彼の日記を見れば、一切の疑問を解決することができる。
彼は長崎の生まれであり、祖国を離れて異邦にきて、5ヶ月ほどであった。彼は7回目の出征であった。その時彼は秋子と結婚して四ヶ月も経っていなかった。彼には年老いた母と妹がいた。普段彼は小さな紙煙草の店で生計を立て、貧困ながらも暮らすことができた。そのようなところから、この広大な中国にきて、彼は家族のことを思わない日はなかった。北の戦場から東の戦場へ、大小数十回の戦闘、何度も名誉の負傷を負った。
前までの三月に妻から三通の手紙を貰い、一通を受けとる毎に煩悩が増すばかりであった。手紙で彼に国内の生活がいかに困難で、食べたり、用いたりするのに物価が段々上がり、税金と寄付金も順次増えていく、しかし自分のお店の営業は、日増しに厳しくなっていくと伝えてきた。
最近2ヶ月、彼の妻からの手紙を受けてとっておらず、彼は彼女を疑い始め、消極的になり、自殺を考えはじめていた。一週間前に、大陸旅館に何人かの新しい女性が来たと言われ、ある同僚から大陸旅館で見た女性が彼の妻の写真の顔と同じだったと告げられた。
彼はその時に彼の妻がこのような遠い異国に来られるとは信じることができなかった。今晩、大陸旅館で会い、やっと確かめることができた。彼女はもともと皇軍の慰問に徴用されたのだった。同時に彼女は、妹は徴用に反対したために牢に繋がれて、母はすでに急死した。彼は憤慨し、恥辱し、自殺の以外に道がなかったのである。
by inmylife-after60
| 2020-02-02 18:56
| 歴史認識・歴史学習
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