2020年 07月 30日
方方日记:日本語訳〜(1) |
方方日记:日本語訳〜(1)
「方方日記」とは、どんな日記なのか、以前から気になり、ネット上で検索して、7月17日に原文を見つけて、読み始めた。
方方日記は、武漢封鎖から2日後の1月25日から3月24日までの60日間にわたる武漢におけるコロナ感染をめぐる政府や市民そして本人のありのままの日常と現状に対する強い想いを綴ったネット上に掲載された日記である。
中国における「方方日記」の出版は、現地取材記者によれば、「愛国的でない」と批判するネットユーザーの投稿が多く、方方女史への風当たりが強く、出版される見通しはない。圧力を恐れて出版社が尻込みし、現在事実上の発禁状態という。海外では、8月中旬に英訳と独訳版の発行が発表され、日本では、河出書房新社より9月9日に出版されるという。
方方女史の「方方日記」を支持する投稿をしたとされる大学教授が、6月中旬に「共産党の政治規律に違反し、社会に悪影響を与えた」として、党籍剝奪と学生への指導資格取消の処分を受けたという。
方方女史は、本名を汪芳といい、1955年南京生まれ、武漢育ちの漢族である。高校卒業後港湾関係の会社に勤務し、1978年23歳で武漢大学中国文学部に入学、卒業後湖北電視台に勤務し、その後作家となった。湖北作家協会主席も務め、魯迅文学賞も受賞した武漢を代表する作家のひとりである。
ここに掲載する日記の翻訳は、1月25日から2月2日までの9日分である。
今後順次掲載する予定である。
以下日本語訳
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方方日记:日本語訳〜(1)
元旦(1月25日)
微博に投稿できるかどうかはわからない。少し前に、微博は路上で若者が集団 で悪態を吐くことを許さず、削除された(私はいまも私の信条を守る:愛国心を表現するためでさえ、私たちは路上で集団として非難できることを誇りにできないのです。これはエチケットとして問われるべきことです)。苦情を告げる術も、公訴する術がない。それで私は新浪ネットに非常に失望し、微博をもう決して開けないつもりだった。
しかし、いまの武漢がこれほど重大な事件になると思わなかった。武漢が全国の中心となり、武漢は閉鎖され、武漢は嫌がられ、私の街は閉鎖された。今日、政府は再び命令した。中心街は零時以降の自動車の通行が禁止された。私は中心街に住んでいて、多くの人から質問を頂き、プライベートなことを書く方もいます。皆関心を持ち、健康を気遣い、家に閉じ込められた私たちへのこれまで以上に温かい言だった。
ちょうど今、「収穫」の程永新から、「封鎖城:封鎖された都市」を書いたほうがよいとのメールがあった。これを聞いて、微博がテキストを送信し続けられれば、私は続けることもできるし、武漢の実際の状況をみんなに知らせることもよいことだと思った。
ただし、この記事が継続できるかどうかはわかりません。閲覧できた友人があればコメントを残して、私に伝えて頂きたい。微博にはあるテクニックがある。つまり、それはあなたが投稿したと思っても、実際に誰もそれを見ることができないのです。そのようなテクニックがあることを知ってから、私は、悪事を引き起こすという点において、高度技術は感染蔓延より少しも弱くはないということを理解しました。
まずお試しください。
正月2日(1月26日)
皆さんの注目と関心に感謝します。武漢人はまだ危機的状況にあり、最初のパニック、無力感、不安、緊張から抜け出したものの、今では多くの人が穏やかで安定しているが、依然として皆さんの慰めと励ましが必要です。 今日、少なくとも武漢のほとんどの人々がもはや動転して慌てふためく状態ではない。 私は当初、12月31日からはじめて、私が、警戒段階から気を緩めていた時期までの過程をレビューしたかったが、それは長すぎると思い、私は直近の感情からリアルタイムに綴り、それからゆっくりと「封鎖記録」を書こうと思った。
正月2日、まだ風も雨も冷たかった。よい情報も悪い情報もあった。良い知らせは、国家支援の度合いは益々大きくなり、更に多くの医療スタッフが武漢へ派遣されていることであり、武漢人に多くの安心をもたらし、これらのことは皆さんのご存じの通りだ。
同時に私たち自身にとっての良い情報は、現在のところ、私の親類には感染者がいないことである。私の弟は、感染区域の中心地の華南海鮮卸売市場と漢口中心病院のそばに住んでいました。弟の身体はあまり良い状態とは言えません。以前から中心病院に出入りしていたが、幸い弟も嫁も感染していなかった。弟はすでに10日分の食糧を備え、全く外出していない。私と娘はまだ長兄の家に一緒に武昌に住んでいる。長江を対岸としているので、リスクは漢口に比べて低く、安全である。たしかに、自宅に閉じ込められているとはいえ、むしろ退屈とは感じられなかった。私達はみな、この家に慣れ親しんでおり、ただ海外から帰省してきた姪と彼女の息子がすこしいらいらしていた。
本来、彼女らは、1月23日(訳者注:武漢閉鎖開始日)に新幹線で武漢を離れ、夫と母と合流して広州にいくことになっていた。(実際本当に行きたかったはず、武漢にいるより良い生活ができたかもしれない。)丁度その日武漢が封鎖されて、離れることができずに、封鎖はいつまで続くのか、仕事は問題にならないか、学校はどうなるのか、全部が問題となった。彼らのパスポートは、シンガポールのものであり、昨日政府からの通知で、近日中に武漢に迎えにくる飛行機があるという(武漢人のシンガポール華僑は少なくない)。彼らは帰国後に二週間の隔離が必要であったが、この知らせは皆を安堵させた。
さらに良い知らせは、私の前夫が、上海で入院したが、最初のレントゲン撮影で、肺に影があったが、昨日、警報が解除されて、普通の風邪であるとの診断を受け、新型ウイルスの感染者ではないとされ、今日退院できたことである。これで、最近父と食事をともにした娘は、隔離生活を送ることなく、ここに暮らすことができた。(大晦日に私が雨のなかを食事に連れていっていた。)こういう良い情報が毎日続けば、街が閉鎖され、自宅が閉鎖されていたとしても、少なくとも心情的にはリラックスできるものだ。
悪い知らせは相変わらず入ってくる。昨日昼に娘から、彼女のよく知る人の父親(肝臓癌患者)が感染を疑われ、病院に送られたが、救命治療ができず、たったの三時間で亡くなったと告げられた。これは大凡二日前のことである。電話を受けて、彼女はとても心を痛めていた。そして昨夜、職場の李くんから、電話があり、私の住む文化芸術連合会会員居住区で、二名の感染者が見つかったと告げられた。30歳少しで、同じ居住区である。安全に注意しなければならない。彼らの居住区は、私の家から300メートルのところにある。但し私の住まいは、独立住居で、従ってそんなに心配することはないが、彼ら達とは、同じアパートの隣人であり、少し緊張した。今日、同僚からも聴いたが、彼らは、軽微な感染だが、家から隔離して治療を受ける。若年層には体制が整い、感染病症も軽く、早く恢復するだろう。彼らが一日も早く恢復することを願う。
昨日の湖北省の記者会見は、とても熱いものとなった。多くの記者の不満を聴くこととなった。3人の職員の表情はいらいらし、疲れており、頻繁に間違え、説明が混沌としていた。実際とても可哀想であった。彼らも家族が武漢に住み、彼らも責任を感じていることは間違いないが、事態はつまるところ、どうして、今日に到ったのか、今後どのようにするのかが知りたいところなのだ。
武漢当局は、初期の感染対策を軽んじ、封鎖前後の当局者達は為す術もなく、市民を恐怖のどん底に落とし入れ、全ての武漢人に損害をもたらした。これらのことは、この文章で仔細に書いていく。しかし、現在の私の感覚では、湖北当局の態度は実際中国当局の平均的な水準であるということだ。彼らは、その他の当局者との差もなく、気負いの差もない。当局者達は、これまでも文書で仕事をこなし、文書がなければ、どうしていいのかわからないのだ。今回の事件が同時に他の省で発生したとしても、当局者達の態度は、湖北より良好とは思えない。
当局者達の逆淘汰の悪癖の結果、事実から真実を求めずに政治的正しさについて空虚な話をする弊害、そして人々に真実を語らせず、メディアが真実を報道することを妨げることの愚かさを、私たちは皆一つずつ味わうことになった。武漢が最初の修羅場となったが、只食べたものがとても大きなものだったのだ。
正月3日(1月27日)
引き続き皆さんからの関心と注目に感謝する。喜んで引き続き実際にあったことを知らせたい。
現在、誰もが基本的に大きな問題は心配していない。心配は無用であり、感染していなければ、皆楽観的になる。
現在、市民達の心配は、マスクの欠乏だ。今日ある番組を看ていたら、一人の上海人がマスクを買いに行くと、薬店で一枚30元(450円)だという。この上海人は、癇癪を起こし、携帯電話でその様子を撮影し、大声でこの薬店を非難し、必ず買う場合は、領収書をもらえと訴えた。彼はホントに私より賢明であり、勇気がある。敬服!
マスクは消耗品であり、使用量が多い。しかも専門家によれば、N95マスクだけが、ウイルス感染防止に有効であるという。しかし実際上私達は、ともともそのようなマスクを買えない。ネット購入は、年末にならなければ、手に入らない。弟はすこし幸運だった。彼ら居住区の家族に親族から1000枚のN95マスクが送られてきたという。(なんて素晴らしい親戚!)弟は10枚分けてもらった。彼はまだ優しい人がいるんだねと感慨深く言った。しかし兄の家は、そんな幸運はやってこなかった。かれのところにはN95は一枚もない。ただ姪がもってきた使い捨てのマスクがあるだけだった。これに数の限度がある。家で何度も洗って使うしかなく、アイロンで消毒し、再度使う。すこし惨めである。そういえば、姪が言う、シンガポールが彼らを帰国させるという話しはまだ最終確定していない。私に微博で説明させてほしいと思った。
わたし自身も同じようなものだ。正月18日に病院に看病に行こうとしたが、とにかくマスクが必要である。しかし、我が家に実際一枚もない。突然思い立って12月中旬に成都に行ったが、教え子の徐旻が一枚マスクをくれ、成都は空気が良くないという。実は武漢も空気が良くないが、私は悪い空気に馴れていたので、マスクは、一切付けていなかった。今は緊急事態。幸いN95がありました。私はそれを付けて、病院に行き、空港に行く、またそれを付けて、マスクを買いにいきました。数日間このマスクを付け続けたが、全く無力でした。
我家には、私以外に16歳になる犬がいる。22日午後、ペットフードがないことに気づいた。すぐにペット店に電話して買いにいくことにした。外出のついでにマスクをすこし買えるかもと思った。そこで、我が家付近の東亭路の薬店に向かった。彼らは、丁度N95を持っており、但し一枚35元(525元)(上海より5元高い)であった。1パック25枚入りで875元(13125円)という。私は、彼らにこのような時にこのように陰険なやり方をするのと非難した。彼らは、卸が値上げている以上、我々も値上げせざるを得ない。需要の急増で、高い価格でも買わざるを得ない。そこで、まず4枚を買い、その後はまた考えることにした。ところが、彼らのマスクは一枚単位では包装されておらず、店員が直に手で持っていた。私はちょっと看て、こんな衛生状態なら付けない方がましだと思い、買わなかった。
その日の夕方も、私は外出してマスクを買い求めた。あらゆる薬店は、閉店していたが、ただ夫妻の営む商店はまだ開いていた。この店がN95 を売っていたのだ。沂蒙山というブランドで、色はグレー、単体梱包、一枚10元である。私は4枚買った。やっとホッとすることができた。長兄家にはマスクがないことを知り、すぐに兄と二枚に分けて翌日送ることを約束した。しかし翌日、長兄は、やはりでかけるなと言った。幸いにも皆外出する訳でもなくマスクはあまり使う機会がない。
さっきまで同僚と微信でやりとりしていた。最大の問題は、やはりマスクであった。時々外出して商品を買うときには必ず必要だからである。ある同僚の友人が送ってくれたが、却って受け取れなかった。買い物はブランド品ではなく、ネット上で回収したマスクをリサイクルして再販するとの情報を知って恐くて使えないと思ったからだ。大体皆は一二枚しか残っておらず、お互いに励まし合って、節約して使うしかない。スレッド上の言説は、全く間違いではなく、マスクは豚肉にとって替わり、私達の新年の最も人気アイテムとなった。
マスクの欠乏は、私の兄、私と同僚に止まらない。武漢の普通の市民もマスクの不足を感じた人が多いに違いない。またマスクは在庫の欠乏ではなく、欠如しているのは、状況に関する市民への開示の方法である。この点では、迅速な企業が早く機動的に動き、武漢の物流の速度を更に高め、私達の難関を助けてくれることを期待したい。
正月4日(1月28日)
天気は昨日からよくなり始め、雨は上がった。今日の午後にすこし陽が差した。空は明るく、人びとの心をたくさん潤した。ただ自宅に閉じ込められた人びとは、苛立ちが収まらない。封鎖が始まってから、既に六日近くになる。5日中に、外出して語らう機会どころか、家族の喧嘩さえもない。各家庭はかつてこのように日々を過ごすことはなく、とくに部屋の少ない家族ではありえない。その他、長い期間外出しておらず、大人はいいかもしれないが、子供達は、相当辛かっただろうと思う。心理学を学んだことのある方が武漢の人びとを慰められるのかどうかはわかりません。いずれにせよ、私達は、まだ14日間、自らを閉じ込めるしかありません。聴くところによれば、この二日で感染は感染爆発期に入ると言う。医師の长叮咛の言葉:「家にいて、お米を食べなさい、白飯です。そして外出はなりません。」そうしましょう。医師の言葉に従いましょう。
この日も依然として喜悲半ばである。昨日、中国通信社編集長で同窓生夏春平の微信による私へのインタビューが行われた。午後、彼と一緒に写真を撮った。意外にも私にN95を20枚もってきてくれた。正に雪里の人びとに炭を贈るようなもので、待望のマスクに大喜びした。丁度私達が文連ビルで写真を撮ったり、話しをしていたりした時、私の同級生耿さんがお米を買って戻ってきた。かれは私達を凝視した。私が、彼が自分達河南人を真面目に使ってほしいという気持ちから、「貴方は何処の方ですか?何故、私達のビルの前にいるのですか」と叫んだ。彼の様子を見て私は直ぐに彼に叫んだ。彼の眼が直ぐに優しく親しげなものに変わり、本当に同級生の時に毎日いつもおしゃべりした時以来の久しぶりの再会となった。夏春平は中国史であり、当時中国文学と中国史は同一の寮で過ごしていた。お互いに紹介しあった途端に、とても嬉しくなってしまった。耿さんは武漢と海南に住んでいるが、私と同じ居住区である。彼は今年海南には行くことができず、私達は、同じ境遇に相哀れんでいて、ともに同じ居住区で苦難をともにしていた。耿さんは私に同じ居住区8棟の2名の感染者がすでに入院したと告げた。これでようやく住民が一息つくこととなった。病院治療は自宅隔離より効果があるはずだ。彼らが一日も早い恢復を願うばかりだ。
夏春平を送り出すと、自宅に戻り、初期に「廬山の別荘で世話をやく」と「漢口租界」の編集を担当した袁さんが私の微博を読んで、私に3箱のマスクを贈ってくれた。感動した。古くからの友人は頼もしい。私のマスクは急に私を裕福にしてくれた。昨日までともにマスクの欠乏を憂いていた同僚と山分けすることになった。先ほど同僚がマスクを取り来て、私に野菜を持参してくれたのだ。私は、今度のことで、本当に苦難をともにしたという思いだ。同僚には三世代の老若男女と患者がいる。彼女は、一日おきに外出して野菜を買いに行かなければならない。80年代生まれと言っても、そんなに簡単ではない。さらに仕事のことも気になる。私は、彼らのネット上の会話を聞き、この間の投稿が送られているのだろうかと思った。武漢のこのような状況にある私達が、このような不運を脱することができないというのだろうか?
悪い知らせが自然と空一杯に飛び交っている。何日か前、百步亭の四万人の大宴会の情報を知った時、私は直ぐに友人宛にメールして批評した。この話しはとても重要なことなのだ。このような時期に居住区で大型の宴会を行うことは、基本的に犯罪行為と見なされる。この話しは1月20日のことである。まさか21日にも省内で引き続き、大型の舞踏宴会が挙行されたとは思わなかった。人びとの常識はどこに行ってしまったのか?これほど硬直した愚かで優柔の効かない現実離れのことがどうして可能なのか?ウイルスはみな、君たちはほんとに私を見下していると思っただろう。この類のことに多くを語りたくない。悪い情報は正に百步亭からのものだ。彼らの中にすでに新型肺炎の確定患者がいた。この情報について私は突っ込んで確認していないが、直感で判断して私に知らせてくれた人は嘘をつく人ではない。思うにこれだけの大勢の大宴会に感染者がいないということはあり得ない。専門家が言うには、今回の武漢肺炎の死亡率は、高くないという。だれもがこの話しを信じたい、私もだ。しかし伝え聞く情報は人びとを怖がらせるものだった。1月20日から21日までに頻繁に会食した人びとは、それぞれ気をつけようね。ウイルスは、市民であろうが幹部であろうが、全く意に介さない。
ついでに周市長の帽子について少し触れたい。昨日から今日にかけてネット上でかれに対する不満が広がっていた。平時の時であれば、私も追随して嘲笑の対象としたかも知れない。しかし当時の周市長は政府官吏を連れて疫病と戦い、各地を奔走しており、一見して疲労と不安がみてとれた。わたしは、多分彼は、事が無事に済んだら、どう身を引くかを考えていたに違いない。ひとはこういう時に抱く罪悪感、自責の念、後悔、そして自戒は不安以上のものだと思う。しかし、かれはやはり市政府の首脳であり、なにが何でも、気持ちを奮い起こして、目前の大仕事に当たらなければならないのだ。彼もただの人である。聴くところによれば、周市長は、実利を重んじ、評判もずっとよく、湖北の西山から一歩一歩頑張ってきた。人生のなかでこれ程の大事件に遭遇したことがなかった。従って私は、暖かい視点で、彼のトップ問題を考えることはできないかと思っている。たとえば、このような寒冷な天気では彼は帽子をかぶっていたかもしれないが、首相としての帽子はかぶっていなかったのではと思う。彼は首相よりも若いので、かぶっていては失礼に当たると考えて、帽子を助手に渡したのだ。そう思ってみたが、どうだろうか?
このように記しておくこととする。
正月5日(1月29日)
大胆にも正午まで寝た。(実際いつもと余り変わりなく遅い。いつも自分のせいだ。昔の武漢人は収穫の日に正午まで寝るのは辛かったと言う。午前と午後まで寝ているとは、なんと大胆でしょう)
床に横たわりながらちょっと見た携帯電話で友人の医者から送られてきた情報を読んだ。
ご機嫌いかがですか、外出するな!外出するな!外出するな!今度も強調される4文字は、とても人の心を揺さぶるものだ。思うに、この数日間が感染爆発期ではないかと思う。急いで、娘に電話すると、彼女は、丁度居住区のスーパーに弁当を買いに行くと言う。私は行くなと求めた。たとえ白飯を食べるだけでもよい、この数日は外出するなと。旧暦元旦に中心街は、機動車は通行禁止と聴いていたので、私はすでに娘に彼女が生きるために必要な十日分の食材を送ってあった。私は彼女が手を動かすのが億劫で、外出して食べ物を買い求めようとしたのだと思った。幸いにも彼女も死を畏れていて、私の話しを聴くと外出しないことに同意してくれた。すこししてから私に白菜料理の作り方を聴きてきた。(彼女は意外にも白菜を冷蔵庫の冷凍室に備えていた。)彼女の居住区はまだ給食がない。いつもは、帰宅して食事するか、テイクアウトを食べていた。とても良いことだが、自分で自炊し始めたのだ。これは、意外な収穫ではないか?私は、彼女と比べてもっと快適であり、隣人が蒸した揚げパン料理を差し入れてくれた。私達二人はまだマスクをつけてつき合わなければならないが、パンはやはり勇気をもって食べてなければならない。
今日は日差しが散々と輝いている。この日は、冬の武漢で最も快適な日差しである。暖かくでやさしい。感染が終息したら、我が家の周辺は、きっと渋滞で車が溢れているに違いない。東湖緑道が近くを通り、ここは武漢人の好んで訪れる場所だからだ。しかし現在の東湖緑道はガラガラである。二日前に同級生の導師とぐるりと走って一周した。この緑道には彼一人しかいない。武漢でどこが最も安全かといえば、恐らく東湖緑道がその一つだと思う。
家に閉じ込められた武漢人は、感染さえ逃れられれば、基本的に誰もがみなホッと落ち着く。最も気の毒なのは、病人とその家族だ。病棟の病床のひとつさえ求め難く、彼らはなお辛酸を舐めているのだ。火神山病院の建設現場は、熱気を帯びてすすめられているが、遠くの水は、近くの火を消し止めることはできない。彼らが最大の被害者である。打ちのめされた家族がどれ程かは分からない。いくつかのメディアは、掲載したが、多くのメディアは、早くも沈黙を決め込んでいる。私はできる限り、記録するだけである。朝がた、母親が元旦に亡くなり、父親と長男が感染したという文章を読んだ。ひどく気が塞がれた。一家は中産階級である。
更に貧しいところはどうなのか?どのようなのかが分からない。その数日前にビデオで何人かの医療職員が疲れ果てている姿と病人の倒れる姿を見て、今まで感じたことのない悲しさと無力感を覚えた。川鄂(湖北大学教授)は毎日、泣きたい思いだという。だれかいないのか?私は友人達にはっきりと人災の比重が増してきたと伝えた。
終息したときには、汚職したものは、一人として許されないし、一人として逃さない。しかしいまは、難局を乗り切るためにまずは全力で走るしかない。
自分のことを少し話す。内面を除けば、日常の違いはないし、生活の変化は全くない。以前の新年もこのようなものであった。ただ元旦三日に叔父の楊家に新年を伺い、ともに食事をした。(今年も何度か取り消された。叔父は年老いて虚弱であり、身体を大事にしなければならない。)正月の私は基本的に何処にも行かない。実は毎年冬に私は気管支炎を患っていた。これまで三年続けて春節前後の頃に病院通いだった。そのために、ここ数日、病気にならないように自分に言い聞かせていました。何日か前に頭が委託、昨日は少し咳をしたが、今日はどこも問題はない。以前に蒋子丹(彼女は中国医学研究者)は、私の感冒疾病を根拠に「冷たい火」と言っていた。
それから冬になると、私は毎日、蓮華、忍冬、菊、クコ、赤ナツメ、西洋を使って、赤ナツメと桑の葉茶を沸かす。私はこれらから名前から「雑煮」と呼ぶ。毎日沢山飲んでいる。感染が蔓延し始めた時、朝晩、一錠のビタミンCの錠剤と一杯のビタミンCの発泡剤を沸騰したお湯に加える。夜入浴の時、熱いお湯で長い時間ベストにそそぎ、さらに購入した蓮の解毒用カプセルを飲んでいた。学友は「密室法」を時々静かに読むように教えてくれた:「全身の毛穴を閉じます!風と寒さを入れない、邪悪を侵されない、正義を保つ。そして悪を行わない!」 彼は一途にこれらが歴代の秘伝であり、迷信ではないと言った。あらゆる装備を使え(密閉法以外はすべて)、明らかにそれらは有用である、現在の状況はまだ悪くない。自分を大事にすること、それが助けになると説く。
ちなみに前日の微博への投稿の一部が、ブロックされていた。投稿は思っていたより長生きのようだ。思いもよらず、多くの人びとが、再投稿してくれたようだ。私が、直接微博でこの書き込み蘭に書くのが好きなためである。何故ならここに書くことが一番快適なので(私はランダムに書くのが好き)、思ったことが何でも書ける。しかし校正が丁寧ではなく、誤字脱字が多い。(武漢大学の中国文学部に対して少し恥ずかしい。)
大目にみてください。実のところ、私は、いま誰かを批判するつもりはない。(老人は秋が過ぎれば、けりがつくだろうと言う)。つまり現在、私達の主要な対象は、急性感染病である。私は、政府と武漢人が一緒に立ち上がり、全身全霊で感染症に必ず打ち勝つ。政府が市民に提起するすべての要求は、私も100パーセント協力する。只当時書いたことを反芻することも必要だ。すこし考えたい。
正月六日(1月30日)
今日は快晴。冬最高の快適さである。私も冬の最も素敵な一日を楽しみたい。但し感染蔓延は、人びととの心を悉く打ちのめした。夥しい程のこの景観を誰一人として堪能できない。
残酷な現実が、眼前を覆っている。起きて情報を読む。一人の農民が、真夜中に土壁に遮られて、通行を許されなかったという。どのような懇願にも守衛は通行を許さなかったという。この厳寒の深夜に、件の農民はどこに行ったのだろうか?心が痛んでならない。
感染防止規定はもちろん素晴らしいが、しかし基本的人権さえないところで執行することは許されないはずだ。何故、私達の各階層の官吏たちが一片の文書でこのようなことが決定できるのだろうか?ただ一人がマスクをつけて、農民を空き部屋につれていき、そこで一晩隔離すれば済むことではないのか?
また一人の脳性麻痺児童が、父親が隔離されたために一人で五日間取り残されて、餓死したことを知った。
感染症は、無数の人びとの生きざま、中国各地の官吏の基本的レベル、更には社会の病理を顕わにさせた。これらは、コロナウイルスよりもより悪質であり、より長期的治療を要する疾病である。しかも、治癒期間が見通せない。医者がいないため、治療する術がない。このことを思うと、比べようもなく悲しい。丁度数分前に友人から職場の青年が発症後二日目で呼吸困難となり、疑いはあるものの、未だ確定できないので、入院できないという。非常に忠実で正直な青年だという。私と彼の一家とは身近な知り合いである。普通の風邪であり、凶とならないことを祈るばかりである。
多くの方から私に情報をくれる。彼らは、中国通信社の私へのインタビュー(そういえば、インタビューア夏春平は同社副社長・副編集長です。私のブログで編集長と書きましたが、間違って一階級昇進させてしまいました。夏春平とともに本当の編集長にお詫びします)を読んだが、私の言うことが正しいと言う。実際インタビュー内容は削除されていたので、理解できるという。しかし幾つかの文章を残してあるので、大丈夫です。
自分を癒す話題として、私はやはり「最も重要なことは、これらの感染した患者と逝去された家族であり、かれらが遭遇したものが、更に惨めになり、痛手が更に深く、甚だしくは、終生癒されない記憶にならないために、政府は人びとの人心を安らかにさせること」にあると思う。
振りかえて、拒否された農民のこと、餓死した子供、助けを求める無数の人びと、それから主を亡くした犬のように至る処で放浪して走り回る武漢人(多くの子供達を含めて)など、このような損傷を恢復するには一体どれだけの時間を要するかは分からない。国全体の損失であることだけは言うまでもない。
昨日から今日までネット上を席巻しているのは、専門家が武漢を訪れた時の行動についてである。彼らは、優雅に暮らし軽率で軽薄な専門家が人びとに下した「人には感染しない」「制御可能」とする結論を大罪と見なした。もし良心があり、受難の人びとの現状を知っていれば、心に自責の念をもつはずではないか?自ずと湖北省首脳は国と人びとの安全に責任を負うはずである。未だ国が守られず、人びとが安らかではない。彼らは、どうして責任がないと言えるのか?
感染がここまで到れば、必要なことは、多様な努力による結果である。彼らは、言い訳の余地はない。現在、私達は彼らが気持ちを入れ替えて、償いの気持ちと責任感をもって、引き続き湖北市民を率いて困難から脱け出し、これらを通じて、市民の寛大さと許しを得てほしい。武漢が頑張れば、全国各地も頑張るだろう。
私の親族は殆ど武漢にいる。幸いにも現在全員がまだ健康だ。実際皆老人である。長兄と義姉は70歳過ぎで、私と次兄も奔七路にいる。私達は患うこともなく、国に協力することだけである。幸い、姪たち母子は、今日早朝無事シンガポールに帰国し、彼女らはリゾートホテルに隔離されたという。洪山交通局に深く感謝しなければならない。姪の昨日の報告によれば、シンガポール機は、今日午前3時に離陸し、夕方早くに空港に到着したという。
道路封鎖もあるが、長兄は車が運転できない。姪たち母子を空港に連れて行く交通手段がない。そこでこの仕事は、私に振られることになった。長兄の家は、中華技術大学の所属する洪山区にあるので、私は洪山交通管理局に私の車で通行が可能かどうかを問い合わせした。彼らの部署に多くの私の読者がいた。
それで、かれらは貴女はやはり家で書き物をしてください、この仕事は私達に任せてもらいたいと言ってくれた。そこで昨晩警官の肖さんが派遣されて姪たち母子を空港に送ってもらった。私達親族は彼らの協力にこころから感謝したい。何かあった時に警察に来てもらうことはとても難しい。これが一番確かな方法である。姪たち母子の無事の帰国は、今日のなかで唯一嬉しいことだ。
今日は既に正月6日、封鎖から8日である。言わなければならないことは、武漢人は、天性として楽観的であり、武漢の仕事は、徐々に整ってきたが、現状は、依然として厳しいということだ。
正月七日(1月31日)
今日は正月七日。実に燦々とした陽光に溢れた天気である。これは良い兆しなのだろうか?感染との戦いで鍵となる期間は、今週である。専門家に従えば、正月15日目までにウイルスに感染した患者は、多くの人が発症するという。その頃がターニングポイントという。従って、私達はこの一周間しっかりと頑張りましょう。この周が過ぎれば、感染者は殆ど隔離され、感染していない人は、外出ができて、自由にすることができる、そうではありませんか?封鎖から今日まで、私たちはすでに閉じ込められて9日です。もう峠を越えました。
起きる前に携帯を見た。特別に良い情報である。私の職場の青年が「感染せず、今日完全に正常なった。昨日は下痢で薬を飲み過ぎた。このウリ坊主め!感染蔓延が過ぎたら、お客様として迎えて、皆さんをびっくりさせてやりたい。」と告げた。
笑いながら読み終われると別の情報を読んだ。私の多くの友人が知る省の歌舞団に所属する友人が、発病以来入院を順番待ちであったが、入院許可の通知があったが、先ほど亡くなったという。また聴くところによれば、湖北省官吏が感染し、何人か亡くなったという。悲しいかな、武漢人がどれ程、この災難のなかで、家が潰れたのだろうか?いまに到るも、いまだ責任や謝罪をする人がいない。ただ無数の言い訳の言説と文章があるだけだ。
生き残った人たちは、誰を責めればいいのか?記者のインタビューで作家が「完全な勝利」をいう二字を使ったのを見た。何と言っていいか分からない。武漢はみなこのようになってしまうのか!全国各地がこのようになってしまうのか!勝利は何処にあるのか?どこが完全なのか?皆同業者だが、私はすこし傷ありなので申し訳ない。
誰かが賢明でないとでも言うのだろうか? いや違う。上司への歓心のために彼らは賢明なのである。幸いにもすぐに、私は別の作家の批判する文章を見て、彼に言葉を選んで厳しく聴くつもりだ。これは私に良心的な作家はまだたくさんいるはずだと教えてくれた。現在私は、湖北省作家協会の代表ではないが、しかしまだ作家である。私は、武漢の同業者に、彼らの殆どが礼賛文言を書くことを要求されるだろうが、書き始める時にあなた達が礼賛する対象は誰かを数秒考えてほしいと働きかけるつもりだ。たとえ媚びることが必要でも、すこし程度を保ってほしい。私はたしかに老人ではあるが、私の批判精神がまだ決して老いていない。
午後の間、料理づくりに励んだ。夕方娘に届けた。彼女は22日に日本旅行から帰国し、夜半12時過ぎに帰宅した。帰国後直ぐに封鎖に直面し、家には食べるものが全くない。私は大晦日と元旦に幾らのものを届けた。数日食べたあともうもちこたえられずにテイクアウトを買いたいという。私と夫はテイクアウトを買うことに反対した。そこで私は、自分でつくって届けることにしたのだ。私と娘の家はそんなに遠くない。車で10分位行けば着く。警察に問い合わせて,通行は問題ないという。ついでに御飯とおかずをつくり、荷造りして届けた。いわば紅軍が兵糧を届ける感覚である。居住区のなかに入ることはできない。私達は、居住区入口で立ち話をした。我が家の第二代、彼女一人で武漢に住み、私がしっかり保護することが必要なのだ。
私達の玄関は第二環状道路の通りにあり、車と人がひっきりなしに行き来しているところだ。しかしいまは車も少なく、人はもっと少ない。基幹道路の灯りは明るいが、脇道は店が閉まりとても薄暗い。
世界軍人運動会(2019年10月18日至10月27日)の時には、基幹道路の部屋全てをイルミネーションで飾り、東側に灯りを点けず、西側を点滅させていた。その時は、眼を患い、いらいらしていて、すこし煩わしい気持ちだった。いまこの寒々とした閑散とした通りを走ると、あの活気に満ちた光沢のある灯りは人びとに安心を誘う。ほんとうはこれも一瞬である。
ミニスーパーは依然として開いている。路上でも野菜がおいてある。私は道ばたで野菜をすこし買う。また市場で卵と牛乳を買う(第三スーパーにきてやっと卵を買うことができた)。彼らにこの時刻でも開けているのか、感染は怖くないのかと尋ねた。彼らの答えは落ち着いた。曰く、私達は生きていかねばならない。あなたもそうでしょ。彼らは生活をしなければならない、私達も生活しなければならない。まさにその通り。私達はいつも彼ら勤労市民を敬服する。
彼らと交わした幾つかのことばが、わたしの心に言い尽くせない安堵となって広がっていく。武漢の慌ただしいこの数日は寒い冷たい雨となった。殆どガラガラになった通りを一人衛生従事者が雨のなかを几帳面に清掃していた。かれらをみて、あなたも緊張して不安をもつ自分を恥ずかしいと思い、暫くの間、落ち着くことだろう。
正月八日(2月1日)
今日も良い天気。正月8日。意外にも我が庭は何時もよりにぎやかだ。
朝早く起きて、まず携帯の情報を読んでみた。まず1月分の統計データを見た。データは明らかな結果を示す。武漢の感染者と擬似患者は依然として増加したが、その速度は下降し、更に三日連続で減少した。重症患者数も減少し、死亡率も以前と同様に2%前後のままである。
また治癒患者も擬似解除患者も増加した。これは相当良い情報である。これは最近の感染防止策の効果は明らかであるとの説明だ。これは長兄が自宅の私に送ってくれたものだ。私は、これが正しいものかどうかが分からないが、これが本当の正しい説明であってほしい。この話しは武漢にも全国にとても歓迎すべきものだ。
思い起こせば、私達に最初にウイルス感染を伝えてくれたのは、長兄だった。私達は親族用同報網をもっており、メンバーは4人の兄妹である。義姉や姪はいれていない。2人の兄は大学教授である。彼らの同窓生と同僚はこれらの情報がいつも豊富だ。とりわけ長兄は精華大を卒業後、その後華技大教授となり、そのためその分野で価値ある情報が多い。12月31日午前10時、長兄がある文章を転送してくれた。それは、「武漢に出現した原因不明の肺炎」であり、SARSに括弧をつけていた。
長兄はこれが本当かどうかわらないと言う。次兄は直ぐに全員に外出しないように注意した。次兄は瀋陽で働いており、瀋陽で避難を受け入れることができると言ってきた。瀋陽は零下20度、どんなウイルスも生きられない。しかし長兄は、SARSは高温を恐れている。2003年のことは覚えているかと聴いてきた。その後長兄は再度情報をよこし、国家衛生委員会専門家がすでに武漢に到着したと告げた。
末兄は感染が集中して起こった華南海鮮市場の近くに住んでいることを驚いていた。私は、お昼になってこのことを知り、直ぐに当分病院には行くなと伝えた。末兄は、身体が良くなかったために、主に漢口中心病院に通っていたが、そこは武漢の大部分の肺炎患者が集中する病院であった。末兄は、直ぐに恢復したが、かれが階下を見たときは、漢口中心病院はいつものように変わりなく、記者が沢山いたと言う。直ぐに同窓生同報網で華南海鮮市場と漢口中心病院の動画情報を見た。すぐに親族同報網に転送した。末兄に外出時は必ずマスクをするように注意し、更に元旦が開けたら我が家に来たらどうかと提案した。私は当時江夏郊外に住み、漢口からかなり離れていたからである。末兄は事態の推移をみてまた話そうと言った。次兄はそんなに慌てることもないと考えていた。政府はまだ情報を遮断していない。そうでなければ一般市民に申し訳ないことだ。私は次兄の考えと大差なく、こんな大きな事件なので、政府は情報を遮断できない。市民に真相を知らせない訳にはいかないのだ。
正月元旦の午前中に長兄がまた「武漢晩報」の華南海鮮市場の営業停止と見直しに関するニュースを転送してきた。末兄は彼の自宅付近に変化はなく、みななすべきことをしていると言う。実は私達は一般市民としては、この事件を極めて重視していたことになる。言及されている措置は、現在と違う処がなく、マスク着用、自宅滞在、外出禁止である。
私が繰り返し語るのは、今日朝王広発医師の単独インタビュー(翻訳者注:2020年1月10日)にもあったからだ。
王医師は、最初に武漢を訪れた専門家である。彼は「人から人へは感染しない、予防も制御も可能だ」と話した後に自らが感染してしまった。私は、彼が少し自責或いは後悔また反省したかとは思うが、今回の誤りは、彼自身とは関わりがないかもしれないが、いずれにしろ専門家組織の決定に他ならない。しかし専門家組織の一員として、少なくとも武漢人に軽率な結論を与えた。湖北武漢官吏がいかに無能であったにせよ、或いは武漢の繁栄を善意から覆い隠したかったにせよ、王さんの医者としての表現は、もうすこし慎重にできたのではないか?そして、それはあまりにも明瞭なことではないか?王さんが1月16日に感染したことによって、明らかにウイルスは「人から人へと感染すること」が事実として知れ渡ったのだ。同時に私達はまだ、王さんから、以前聴いた八文字を自ら訂正したことも聴かず、また大きな声で警告をならしたことも聴いていない。三日後に钟南山が武漢を訪れて、やっと人びとに真相がずばり指摘されたのである。
王さんのインタビューは昨日行われた。武漢人の不本意な春祭り(武漢人の支持にもかかわらず)、患者の悲惨な状態、死者に打ちのめされた家族、封鎖による国家全体の損失、王さんの同僚達の比類のない辛労と壮挙は全国の人びとが見ている。但し特有の責任を負うべき王さんはこのインタビュー中に一糸の慚愧も、一点の謝罪もなく、更に自分に功労があったかのように感じさせるものであった。彼は、「私は花見に武漢に生きたかったのです。もし病棟にも発熱外来に行かなければ、自分は感染していない。逆に入ったために感染したのです。この感染蔓延が深刻であることを誰もが知っていた。」と述べた。この話しを読んで、私は言葉がなくした。王さんは、武漢人に罵倒されることを恐れていないかのようだ。
悲しいかな!中国人は、誤りを認めようとしない、少しも慚愧を感じない、更に罪悪感を簡単には感じない。これは文化と習慣に関係するかもしれない。医者として専門家は病を救い、傷を癒すと見なす人びとが多い。自分の言説で、病にもがき絶望して死んでいくことにだれでも幾ばくかの自責を感ずるはずである。自分はどうなのか?そんなに簡単に自分を開放させられるものなのか?内心に一点の罪悪感も感じないものなのか?よく使われる仁という気持ちはないのか?どうしてこんなに淀みなく自慢できるのだろうか?国難の時に皇帝さえも時として罪己詔(訳者注:ざいきのしょう:己を罪する詔注1参照) を発することを理解していた。王さんは(専門家集団も含む)どうなのか?本当に武漢人に対すて謝罪するつもりがないのだろうか?ほんとうに自分が医者の生涯から学んだことを自覚しているのだろうか?
よしましょう。いまは、これ以上は言いたくない。王さんが、今後患者を救出するために尽力してくれることを祈りたい。他人を救うとともに自分を救ってください。
注1
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罪己诏(ざいきのしょう:己を罪する詔)
「罪己诏」とは、古代の皇帝が自分の過ちや法廷に問題があり、国が自然災害に見舞われ、政権が危機に瀕しているときに、自らの過ちを調査するために使用する一種の口論または文書です。 これは通常、3つの状況で発生します。1つは天皇と大臣の転位であり、もう1つは自然災害によって引き起こされた災害であり、3つ目は政権が窮地にあるときである。
正月九日(2月2日)
今日は9日。私達はもう何日になるのだろうか?もう数えるのも億劫だ。だれか機転の利いた話題を出されても携帯を読むかどうか分からない。今日は何曜日?きっぱり報告すべきと言われたが、本当に残酷である。だれか曜日を覚えていますか?正月9日とおおぼえているだけでも悪くないはずである。
天気はまた暗くなり、午後には雨が降り始めた。奔走する患者には、一層気の毒だ。武漢では、外出してみると、灯りを灯す限られた人を除けば、その他の一切のすべては、整然として秩序だっている。生活物資に基本的欠乏はない。病人にならなければ、その家族はみな安全だ。想像するような煉獄ではない。武漢は静かに綺麗で活気ある都市だ。しかし一旦家族に病人が現れるや、めちゃめちゃになる。これが感染症というものなのだ。病院のリソースはそんなに多くはない。市民はよく知っていて、医者自身の親族が発病し、たとえ重症でなければ入院できないという。この数日は正に専門家の推計する感染暴発期間である。私達はより深刻な情報を相次いで聴いたり、見たりするでしょう。
今日、とても辛かったのは、霊柩車のうらで号泣する娘の動画だ。母が死に、車に運ばれたが、彼女は葬送できなかったのである。将来もしかすると遺骨がどこにあるのかもわからないかかもしれない。生きることを軽んじて死を重んじる伝統文化をもつ中国では、これはおそらく少女らの心の最も大きな痛恨となるに違いない。
実際に方法がない。だれにもその方法がない。唯一の方法は一切を背負い続けることだが、病人もうまた病人の家族もたぶん背負い続けることはできない。背負えないが、しかしどうしたらよいのか?私はかつて、時代という灰燼は、人びとの頭上に留まり、それはひとつの山であると言った。こう言ったときには、まだ深い体験がなかった。今回は本当に心に深く刻み込まねばならないと感じた。
午後若い記者と連絡をとった。彼は深い無力感を感じたという。人びととは数字だけを看ている。しかし数字の後に何を期待しているのかと。これからの若者は厄介である。これらの若者には、すこし厳しく対応することが必要だ。争い、死、許されない指示、私も同じ気持ちだ。しかし発想を変えて、私たちは、元気づけること以外に何かができるというのだろうか?私達は、患者を助ける術を持っていない。只自ら直面する一切を背負うことしかできないのだ。他者を助ける余裕がある時は、他者を助けながら背負うのです。いずれにしろもう一周彼とつき合う。
その他にましな情報がある。一つのデータだ。前述の通り、湖北以外の患者数は減少して、治癒率は高く、死亡率は低い。これら湖北省の数字は正確さに欠き、死亡者数が多く、医療リソースの不足がその原因である。そのため、死後に感染が確定されたり、死に瀕したまま入院したりしているのです。つまりこの病は、治らない病ではない。発病した段階で、治療が施されていれば、制御することが可能なのだ。同時に近隣の医療機関が待機状態にあり、受入患者は少ないとの指摘もあった。AからBに感染することはありうるが、Bから更にCに感染することは希である。二三はあるが、Cが感染しているかどうかは分からない。
従って武漢の医療スタッフが同乗する救急車で、厳重な感染防止策を前提に一定の患者を近隣他省の感染症病院に転送することを提案したい。武漢は、内陸の中心部で多くの省と隣接し三四時間で移動できる。患者は治療の機会が得られれば、死神から逃れることが可能だ。この提案が妥当かどうかはわからないが、自分としてはすこし道理があると思う。
しかしさっき同窓生から火神山病院の患者受入が明日から始まるとのことだった(確証はない)。ここの病床は多く、医療に適した施設であり、外来患者を支援する看護スタッフも多い。もし明日、患者の収容が可能であれば、この省外への移送提案は不要になる。そうであれば、私の願いはすこし小さくなりますが、発症した患者が行く病院があるということを患者のために祈るばかりです。
また武漢の若者たちをすこし褒めたいと思う。数万人のボランティアの若者は、感染蔓延の最前線で活躍している。彼らは、純粋に自発的なボランティアで、微信を経由して活動に参加する。かなり凄いと思う。以前私は若者がますます功利的になっていくことを心配していた。元気溌剌に活動する若者を見て、老人達はなにをそんなに心配しているのかと思う。実はどの時代にも彼らと気脈の通じる人びとがいて、老人たちの杞憂に過ぎないのだ。
昨晩、陳村から武漢の若者が都市封鎖後の毎日を撮影したビデオを転送してくれた。何日も撮影されたビデオを一気に見終えたが、それはとても素晴らしいものだった。この若者に将来会う機会があれば、彼に私の本を贈って、彼に敬意を表したい。彼にこの寒々とした憂い悲しむ夜半のなか、このビデオが私を励ましてくれたことを知らせたい。
(つづく)
by inmylife-after60
| 2020-07-30 21:02
| コロナウイルス
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