「大学の第二の死が見えてきた」を読む |
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2020年 10月 12日
「大学の第二の死が見えてきた」を読む 〜ポストコロナ時代の大学に問われていること〜 岩波「世界」2020年11月号 ポストコロナの大学論(第4回〜最終回) 吉見俊哉(東京大学情報学環教授) ポストコロナの大学論の最終回のタイトルは「大学の第二の死が見えてきた」であるが、語られているテーマは、現在の日本の大学の抱える問題をえぐり、大学のあるべき姿、使命とは何かなど、大学改革に不可欠な要素を提供したものであり、コロナ禍の中で、大きな変化と変容の過程にある大学のあり方を考える論評として以下紹介する。尚サブタイトルの「ポストコロナ時代の大学に問われていること」は筆者の付けたものです。 【学生のオンライン授業の評価】 コロナ感染拡大に伴う感染防止として開始されたオンライン授業は、オンデマンド型にしなくとも、学生は真面目に出席し、繰り返して見られるので便利との反応がある一方、授業の質への批判もある。 学生側の評価は「一日に10時間パソコンに向き合う日もある」「先生からのフィードバックがなく不安」との声とともに、さらに「質が下がった。これが授業と呼べるものなのか」、今の大学の授業は「ほとんど通信教育と変わらない。通常の学費のままでは納得ができない」との声を紹介し、授業料返還の集団訴訟にまで発展しているアメリカの事例などを挙げている。 【大学の授業評価対象への転化】 ここで配信されるオンデマンド配信コンテンツは、「元々質的に十分でない講義の、教室では見過ごされてきていた欠点が、録音配信となって隠せなくなった」のであり、教室での講義がより容易に客観的な比較検証の対象になり、教授たちの講義が学生の他のコンテンツと比較対象の俎上におかていくことになったという。 このオンデマンド配信コンテンツは今後、学生からの授業評価とAIを基盤とする様々な解析ルールを組み合わせた評価体制が立ち上がり、「大学当局による徹底した授業内容の管理システムへと転化し、授業オンライン化に広がる重大なリスクは、大学の授業内容に対するシステマチックな管理」に繋がるという。 【私学のオンライン配信への誘惑】 多くの私学がオンライン化について少人数の同時双方向型を中心に進めることは、経営的に容易ではなく、大教室授業を基本にした学生規模の拡大で経営の安定化を図ってきた大学はなかなか採れる道ではない。むしろ、大学経営の観点からすれば、「現在のST比(教員一人当たりの学生数)を維持したまま、オンデマンド配信型のオンライン授業を広げて行きたいという誘惑が大きい。つまり、有名教員を囲い込んで、大規模授業を配信して学生集めの目玉を作り、基礎教養科目は、大胆にオンライン化し、人件費を削減し、専門科目の授業もオンライン化し、コンテンツビジネスに転換するという未来戦略が見えてくるという。 【自らの首を締める大学の苦悩】 大学を巡る1990年代以降の動きを貫いてきたのは、新自由主義的な規制緩和路線にある。この路線は、高等教育政策が、旧来の許認可主義から補助金行政に軸足を移し、市場の手に委ねれたことを意味する。この大綱化は、教養と専門の境界規制を緩和し、学部と学位名称の自由化が拡大され、その結果として、教養部の教員たちが専門教育に軸足を移し、教養教育が空洞化した。補助金行政は、国の意向を過剰なまでに忖度するプランが各大学の自主性と学長のリーダーシップによって提案され、大学の横並び状態が深刻化し、新入生の獲得だけでなく、補助金の獲得のために、本来の研究と教育が疎かにされがちになったという。 【大学の意思決定主体の実態】 大学は、2000年代以降、大学経営を企業経営に見習い、その権力構造の根幹は変化させず、国立大学を初め、多くの大学では、「特任」や「客員」「非常勤」と言った条件付きの教員も関与できない学部教授会をそのままにして、教授会に代わる基礎的な意思決定主体が形成されることはなかった。 その結果として制度改革においては、一方で教授会の力が弱まり、他方では国立大学法人化以降、国も大学の「自主性」を表向きにして身を引いたことから、「いったい誰が大学の意思決定主体なのか、権力の空白が生まれた」という。教授会は、伝統的な発想や物事の決め方から抜け出せない。国家は、大学を支える役割から後退しているから、多くの大学での野心的改革が必然的に失敗する構造が生まれたという。 結局、既存の仕組みを超えて大学で何かをしようとする者は、国に代わる支援者を求め、2000年代以降、国家が後退し、財界がせり出することとなった。この主役交代に、大学も、国も、異を唱えることはなかったし、むしろこの交代で利益を見込める大学はこれを推進し、文科省も自らが舞台裏に退くことを前提に政策転換を進めたという。 【経済界の求める大学像とは】 結局財界は大学に何を求めたのか。総体として経済界が大学教育に求めたことは、いたって常識的な内容である。 すなわち、経団連が求めるのは、「創造性、チャレンジ精神、行動力、責任感、論理的思考能力、コミュニケーション能力、忍耐力、協調性」などであり、とりわけ「リベラルアーツの素養と地球規模の課題、世界情勢への関心のある学生である」とともに「倫理・哲学や文学、歴史などの幅広い教養や、文系・理系を問わず、文章や情報を正確に読み解く力、外部に対し自らの考えや意思を的確に表現し、論理的に説明する力のある学生」である。 【大学経営における手段と目的の転倒】 上記の経済界の求めは、本来大学が自ら主張すべき真っ当な内容で、産業界は企業利益に敏感なだけの学生を求めているわけではない。産業界は大学に必ずしも企業と同じようなになれとは言っていない。多くの大学人が、大学は企業のように企業経営的な手法を取らなければならないと思い込んでいたという。 つまり企業経営手法の採用は、あくまで手段であって、目的ではない。目的は「いかなる教育の仕組みを整え、どんな学生を育て、どのようにして創造的な研究を社会とともに実現していくのか」のビジョンでなければならない。 【大学における精神の荒廃】 大学における精神の荒廃とは、何より大学教師たちの意識の企業化にある。大学教授がベンチャー企業家であるかのような意識が浸透していき、器用な教授のところに大きな研究費が集まり、短期雇用の若手研究者が雇用されていく。大学という場の価値が企業のそれと区別のつきにくいものものになっていくから、そもそも経団連の述べていたような大学の規範から大学の実態が大きく乖離し、むしろ企業そのものに近い価値観が浸透していく。悪貨が良貨を駆逐したという。 【迫り来る大学の第二の死】 大学教育のこうした質の低下の先にあるのは、紛れもなく大学の第二の死である。19世紀初頭に復活した第二世代の日本の大学を死に向かわせるモメントは、人口構造に比して不釣り合いな大学膨張要因だけではない。グローバル化への対応も大学を困難な位置に追いやった。戦後日本では、比較的大きな高学歴層のための人材市場があったために、海外留学がキャリアパス上の優先課題にはならなった。そこに到来したコロナ時代における全世界でのオンライン化の劇的な進行によって、中長期的に大学の学びがますます国境を越える可能性を強めることは明らかだ。同時に第二の死は、大学とは何かという根本の理念が見失われ、大学教育の質が不可逆的に劣化していくことでもたらされるという。 【第三世代の大学とは】 第一世代の大学がそうであったように大学の根本は移動の自由にあり、これはグローバル化と深く結びついている。パンデミックの中で、世界経済が苦境に立たされいるのと同じように、大学も封鎖や隔離とは相容れない存在として、困難に直面している。 換言するならば、大学は今やその存在基盤を徐々に国民社会から地球社会に移行させつつある。中世的な都市ネットワークを基盤に誕生した第一世代の大学はそうした汎ヨーロッパ的ネットワークの分断とともに衰退した。やがて国民国家を背景に発展した第二世代の大学は、グルーバル化の中で形を変えつつある。第二世代の大学が黄昏を迎えた先にある第三世代の大学は、地球社会を基盤とする大学になるという。 今回のコロナ・パンデミックでは、ウイルスをめぐる医療分野で世界中の研究者や研究機関が、インターネットを通じて、知を共有した。風通しの良いグローバルな知の共有と交換が第三世代の大学の基盤であるという。 【第三世代大学の使命】 第一世代との重大な違いは、第三世代の社会基盤である地球社会の価値が多元的に分裂し、本源的に不安定である。第三世代の大学は、コロナなどの感染症もその典型だが、気候変動、移民・難民、ネット上の情報管理、国際租税など地球大の危機と深く結びついている。成長が限界に達し、飽和し続けるグローバル資本主義は、その内部に無数の矛盾や困難を抱えており、大学は、そうした地球規模の課題に挑戦する主要な知的アクターとなっていくであろう。 だがそれで終わりではない。地球的に共有される価値という問題が残る。第一世代、第二世代を通じて、リベラルアーツや哲学が問うてきた自由と価値の問題は、大学が大学であるための根幹である。 第一世代の大学は、リベラルアールを通じて自由なヨーロッパ人を育て、第二世代の大学は哲学や人文学を通じて、自由な国民を育てた。第三世代の大学の使命とは、世界哲学や世界人文学、様々なリベラルアーツの知を通じて、自由な地球人を育てていくことだ。 誰かが何処かで、日本の大学を、殻を破り、垂直から水平へ、単線から複線へ、通過儀礼からグローバルな知的移動のためのハブへと転換させていくその第一歩を踏み出させねばならないはずだという。 (完)
by inmylife-after60
| 2020-10-12 15:49
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