2016年夏南京留学日記(8月11日〜9月7日) |
2016年夏南京留学日記(8月11日〜9月7日)
〜自由行動日記〜
2016年夏、笠原十九司教授の紹介で、南京師範大学の南京大虐殺研究主任の張連虹教授を紹介頂き、張連虹教授が、南京師範大学の日本語学科教授から紹介頂いた院生の谷俊儀くんから2週間程の個人レッスンを受けた。
授業は、1500字前後の中文で作文した中国語を提出し、発音を是正され、中文の校正及び適正な表現そして、文法的な解説を受けるというもので、1日2時間前後600元(約1万円強)でお願いしたものだ。
この時、南京を入る前に上海を訪問し、金曜日の午後から日曜日までの週末に南京を拠点に杭州、武漢、合肥を訪問した。南京市内は、授業が午前中の授業の後、訪問した。
これは、主に自由行動した時の日記である。
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第1日(8月11日)
12時半自宅を車で出発。息子の運転で成田に向かう。45分で到着。第一ターミナルのデルタカウンターに向かう。すべて自動チェックイン化されており、バウチャーの予約番号を入力したが、認識してくれない。係員に尋ねたら、パスポートでできるとのことで、パスポートを読み取り口に置くと、緊急連絡先とゲート案票がプリントアウトされ、チェックインが完了した。お土産を買ってから出発前までの1時間をカフェで過ごす。15時に搭乗口に向かう。定刻に出発。隣の席に上海ディズニーランドに向かうカップルと話す。お盆休みを利用して3泊4日の上海旅行とのことだった。
定刻18時に到着。入国手続きに25分ほど要して入国を済ませて、出口に向かう。ここで中国元をマネー口座から引き出すことと上海交通カードを買うために案内を見たが、銀行及びATMに関する案内が見当たらない。とりあえず、交通カードを買おうかと思い、案内所で尋ねたら、それは2階の地下鉄改札にあるというので、行ってみた。地下鉄改札の右側に小さなボックスで売っていた。カード代10元であとは自由に課金できるようで150元お願いした。リニアで往復80元かかるので、残り70元が市内交通費に当てると算段だ。
次は、マネーカードからの現金の引き出しである。旅行会社の客引きが居たので、銀行かATMはどこかと聞いたら、3階だという。3階に上がり、中国銀行の窓口とATMがあったので、ATMから中国元を引き出した。
ここまで済ませるのに、なんと1時間ほどかかり、7時半を過ぎてしまった。
漸くホテルに向かうことができる。リニアで市内に向かう。7時40分発に乗ることができた。時速430キロと聞いていたが、300キロ以上になかなかならない。8分ほどで「龍陽駅」に到着してしまった。なにか割り切れない気持ちだ。また昨年大連で買ったガイドブックには交通カード乗車は40元だと書いてあったが、清算したら、50元だったので、余計にがっかりである。
ここから、ホテルのある地下鉄9号線に向かう。ここで間違いを犯した。どういうわけか、この「龍陽駅」から9号線に乗れると思っていたが、地下鉄改札前の食品店で聞いたら7号線に乗り9号線に乗り換えろという。直感的にこれは、遠回りになるなと思ったが、自分の判断が間違っていたこともあり、従うしかない。やはり遠回りであった。本来であれば16号線にのり、「世紀大道駅」で乗り換えて9号線にいくのが正解であった。やっと「陸家浜駅」に着いた。すでに9時を過ぎていた。駅から徒歩で迷いながら20分ホテルに着いた。チェックインを済ませて部屋には入ったのは9時半を過ぎていた。
第2日(8月12日)
5時30分に起床。ホテル周辺の様子と距離感をつけるために、散策にでかけた。
市内中心街の南側まで約25位であった。7時過ぎに戻り、ホテルで朝食を済ませ、今日の予定を立てる。最低中共創立大会記念館、孫文故居、宋慶齢故居、南京行きの高鉄の切符を買うことにして、余裕があれば、魯迅故居に行こうと考えた。また「顧正紅紀念館(5.30事件)」がどこにあるのかわからないので、明日朝フロントで聞いてみることにした。
9時にホテル出発。北に真っ直ぐ歩く。25分ほどで「大平橋公園」西側にある「中共創立大会記念館」に着く。参観は無料。各地からの参観団で混み合った。創立大会の各地代表13名の紹介がある。長沙からの代表であった毛沢東の名もあった。日本から七高(鹿児島大)学生も代表として参加していた。
「孫文故居」
そこから歩いて孫文故居に向かう、方向を90度間違え、途中で路人に道を確認してやっと方向と距離感が判った。大きな公園の向こう側にあることが判った。建物はそんなに大きくはないが、観光バスが駐車できる余裕はあった。館内は
「宋慶齢故居」
地下鉄駅から宋慶齢故居に向かう。地下鉄で下りて歩いて10分で到着。故居は警備兵によって警備されていた。やはり重鎮なのだとおもった。記念館に入り、その後大きな芝生の庭をもつ故居館に入館する。この館の周りは、植物見本となっており、樹木が整然とし植えられ、鑑札がしっかりと張られていた。宗慶齢は、日本で孫文と結婚して、国民党と共産党の双方との関係で大きな政治的役割を果たした女性である。地下鉄で上海駅に向かい、南京行き高鉄の切符を購入した。
第3日(8月13日)
今日は周庄古鎮に行くことにした。市内から西70キロにある江南六鎮の一つで、900年以上の歴史を持つ名勝とのこと。予約はしていないが、明日夜南京移動のため、今日行ってダメであれば、明日の予約を取ればいいとの判断による。8時にホテル前のバス停から乗り、陸家浜駅から9号線で徐家汇駅に行き、1号線に乗り換えて上海体育館駅で下車、歩いてツアーバスの発着センターである上海旅游集散中心に行く。着いたのが9時10分前、地下1階にあるというチケット売り場で今日乗車できるツアーバスがあるかと聞いたら、なんと9時発ツアーバスの周遊券を買うことができた。150元という。
バスはほぼ満席で最後部座席に座り、定刻に発車した。本当にラッキーである。しかしそれからがいけない。歩き方には1時間半とあったが、周荘に着いたのは11時25分だった。土日は2時間を覚悟しなければならないと思った。ツアー車は古鎮入場口付近の駐車場に到着した。入場券は100元とあったので、バス運賃が30元だとしても、ツアーの方は時間の制約はあるが、10元程安い計算になる。
古鎮の中は、水路が縦横に走り、6人乗りの遊覧船で10分程乗船できるコースがある。この遊覧船料金は、何と1船毎に120元であり、6人乗れば20元だが、1人だと120元になる。周辺の複数の連れに声をかけて同乗させてもらうしかないと思い、子供ずれの親子にお願いして乗船させてもらった。幸いその家族連れは北海道小樽に来たことがあり、東京から一人で来たというととても喜んでくれ、日本は好きだと言ってくれた。自分たちは西安から来たというので、兵馬俑を見に行ったことがあると言うと喜んでくれた。子供は一人かと聞きたら、もう一人はお腹にいると少し膨らみかけたお腹を指指して教えてくれた。5ヶ月位のようだ。ここを終えたら寒山寺に行くという。
ここは水路を挟んで小さな店が並んでおり昔の風情を感じることができる。店で聞いたら夕方8時迄は営業しているらしい。楽しみにしていた周庄博物館は現在改装中とのことで入場できない、また開館予定もわからないと言われた。
集合時刻の3時半まで、まだ1時間半あるので酒楼とある店でビールを飲んで暑気払いすることにした。
発着センターには17時45分に到着。やはり2時間15分ほどかかった。
明日行く予定の南京西路を歩こうと思い、4号線「上海体育館駅」から「中山公園駅」へ、ここで2号線に乗り換えて、南京西路の西端「静安寺駅」で下りる。これが失敗の始まりであった。静安寺の巨大さと黄金のライトアップを体験できたのの良かったが、まず方角を間違えて5分ほど歩いてから、なかなか「南京西路」の標識が見えないので、交差点で聴くと今歩いてきた方角を指さして、あっちだと言う。逆戻りして、静安寺前の交差まで戻り、標識を確認して「南京西路」に入る。ここから「南京西路駅」まで歩こうと思い15分ほど行くと、今度は標識が「延安西路」に替わっていた。「南京西路」を歩くのは、並大抵でないと断念して帰ることにした。
第4日(8月14日)
今日は最後の上海観光。午後9時発の高鉄で南京に向かう。まずホテル前バス停から魯迅公園に行き、その後地下鉄で顧正虹記念館へ、昨夜行った静安寺へ、外灘をへて、浦東側に行き、ホテルに戻るという計画を立てた。
6時起床、周辺散策ジョギングして、朝市と公園を見学。7時半に戻り朝食後、8時半にフロントにスーツケースの預かりをお願いして、出発。日曜日だけあって渋滞気味で9時過ぎに魯迅公園についた。案内で直ぐに魯迅記念館の場所は分かったが、その建物はピンク系のシートで覆われていた。嫌な予感がして入り口に立つ係員に今日は閉館かと聞くと開いているとのこと、胸を撫で下ろして、入館した。フロントにいた職員に「魯迅故居」はどこにあるかを尋ねたら、現在改装中で9月1日にオープンすると言う。落胆の雰囲気を察したのか、魯迅のパンフレットを差し出してお詫びの意を示してくれた。
魯迅公園から地下鉄3号線で中潭路駅からマカオ通りにある「顧正紅記念館」へ向かった。10時半頃中潭路駅に到着し、20分以上かけて歩き、漸く記念館を発見した。この澳門通りは一昨年上海旅行で来たシルク製品の直売所の建物の前の通りであり、記念館とはほぼ対面の位置であった。
顧正紅とは、1925年5月、待遇改善を求める日系紡績工場労働者のストライト闘争の指導者の一人であり、日系紡績工場職制により射殺された共産党員である。このスト指導者への射殺事件は、全国の中国人労働者と労働組合の憤激を引き起こし、全国各地での抗議行動が相次ぎ、5月30日上海租界当局は国民党による大規模集会とデモを弾圧し、発砲による13人の射殺、40名の負傷者を出す事件となった。この事件は1919年の「5・4運動」を新たな段階に押し上げ、全国的な反帝国主義反植民地主義の運動と発展したことから「5.30事件」と呼ばれる。
この5.30事件の発端となったのが当時20歳であった顧正紅であり、この記念館は2008年5月の「5.30事件」83周年記念事業として開館したという。
11時前後に到着し、記念館に入ろうとしたところ、鍵がかかり、入ることができない。記念館の事務所側の出入口も鍵がかかっていた。当日は日曜日だったので閉館日かもしれないと思い、もう一度記念館正門前の営業案内を確認したが、日曜日も開館日とあった。どうして閉まっているのか、どのような表示も見当たらない。そうこうしていると、中国人が子どもを連れて来館し、私と同じく、ドアを強く叩いて「誰かいないか」と声をかけたが、応答がないので、引き揚げてしまった。私は再びここにくる機会はないと思い銅像裏の碑文や記念館裏の慰霊碑を読むなどして待つことにした。
しかし11時半を過ぎても誰も来る様子がなく、諦めるしかない。対面のレストランで昼食を食べて、外灘方面に向かうことにした。しかし食事をとりながら、どうしてこのようなことが起こるのかと信じられない思いが段々と増して、今後このようなことがないように誰かに伝えておきたいという思いを押さえることができなくなった。食事しながら、ノートに以下のメモを書いて、このレストランに伝えておこうと思った。
①中国共産党愛国教育局殿
本日11時すぎに私は「顧正紅記念館」を参観に訪れました。しかし表示もまったくなく閉まっていました。正門の表示は開放時間8:30〜16:30。周一至周日でした。
②老板殿(小章飯店)
この無記名投書を中国共産党の支部に渡してください。(再発防止のため、当事者に注意を促すため)
東京からきた日本人より
私は、書き終えてからカウンターにいた老板に渡そうとしたが、彼女は無言で全く受け取る素振りも見せずに、自分には関わりのないことだと無視する態度に終始した。私はどのように処理するかは別にして、受け取って貰えると思っていただけに残念であった。12時過ぎには老板がいなくなったので、職員にこれを老板に渡してほしいとメモを渡した。その職員は、そのメモをみて、老板とは違い、「渡します」と笑みをもって応えてくれた。読んだメモの主旨にあがなえないという笑みと感じた。
精算を終えて12時半過ぎにレストラン職員が教えてくれた最寄駅の地下鉄「長寿路」駅に向かおうとしたが、もしかして何か変化があるかも知れないと思い、もう一度入館を試みた。今度はなんと扉を開けることができた。受付には50歳すぎの女性が座っていた。私は、彼女にこれまでの経緯を説明し、どうして閉館となっていたのかを聴いた。曰く「この時間はいつも食事している」と言う。私はそうであれば、その旨の表紙をすべきだし、またその表示ができないのであれば、ここで食事して閉館時間を作らないことを考えるべきなのではと伝えた。また写真に残しておいた対面の小章飯店に渡したメモを見せた。
彼女は、今年で8年目になるが、日本人は貴方が二人目だと言って、館内の説明を中国語でしはじめた。この閉館時間については触れられたくないとの語気であった。記念館詳細の説明への謝意のあとに握手を求めたが、応じてもらえなかった。やはりあのメモが癪にさわったのだと思った。
地下鉄「長寿路」駅から静安寺駅に行き、静安寺を参観しようと入ろうとしたら、「50元」だと言う。商業主義的な寺だなと直感し、入る気をうしなった。
直ちに外滩に向かう。外灘からトンネル電車で対面にある金融街に向かう。超高層ビルの展望タワーから上海一円を展望し、ホテルに戻り、南京に向かう為ホテルに戻ることにした。
第5日(8月15日)
昨日午後7時上海のホテルを出発し、新幹線で南京駅に着いたのは、午後10時50分であった。
当初の予定では14日は周荘観光(1日周遊旅行)に行く予定であり、渋滞や事故等のトラブルを想定して、上海駅からの出発を午後9時とした。また20㎏程のバゲージを伴う移動を想定して、タクシーを利用することにしていた。
ホテル前のバス停でタクシーを待ったが、なかなか来ないので、バスが先に来たら、バスでいくことにした。丁度18路線(魯迅公園行き)のバスが来たので、乗車した。人民広場まで行き、そこからタクシーで上海駅にいくことにした。
人民広場バス停で下車し、すぐにタクシーが見つかり、運転手に「上海火車駅」と告げた。その後に「新幹線で南京にいく」と行ったのが間違いの元となった。私は上海駅の新幹線側につけてほしいという意味で言ったのだが、彼は新幹線に乗るのであれば、「虹橋上海駅」と思ったらしい。なにか言ったようだったが、良く聞き取れなかった。間もなく裏道を通って、車は、環状高速道路に入った。おかしなと思った。人民広場から上海駅への方角とは随分違うからだ。これはもしかして「虹橋」方面に向かっているのでないかと思い始めた。
確証はなかったが、運転者に「私の行きたい駅は、上海火車駅だ」と言った。すると「新幹線は「虹橋上海駅」だ」「新幹線に乗るといったではないか」と返してきた。私は「いや上海火車駅からも南京行の新幹線がある」と応答した。なかなか判ってもらないらしいので、上海火車駅に行ってほしいことを示すために、自分の切符を見せたところ、ようやく判ったらしい。
そこで私は、「通常、人民広場から上海火車駅までの料金は払うが、それ以上は払うつもりない」ことを告げ、「通常はいくら位か?」と聴くと「20元」という。「それで良いか?」聴くと「いい!」と頷いた。漸く上海火車駅地下にあるタクシー専用ターミナルに着くことができた。メーターは53元を示していたが、20元を払い、時刻は8時になる頃であった。
到着して思ったのは、いずれにしろ、タクシーで上海駅に行くには、この地下ターミナルにいくしかなく、新幹線側という場所はないというである。「新幹線で南京にいく」が禍のもとであった。しかしこの禍の被害者はあの運転手だと思った。同時に上海の運転手が「上海駅からも新幹線に乗れる」ということを知らなかったということが一番の驚きであった。
定刻に出発した新幹線は、時刻表の所要時間は1時間40分とあったが、10分ほど遅れて「南京火車駅」に着いた。最高時速を260㎞程度に落として運行しているようだ。
駅の南口に行き、タクシー乗り場で長い行列に並んだ。しかしタクシーは潤沢らしく10分ほどで自分の番となり、バゲージをトランクに積み込んで、運転手に「南山専家楼」と言って、別に書いたメモを渡した。すると運転手は、「判らない」という。そこで「南京師範大学の付近だ」と教えた。そうすると「南京師範大学?」「そんな大学はない」と言う。
そんな馬鹿な!と思い、次のタクシーに変更し、スーツケースを置いたまま、窓越しに行き先を言ったが、「判らない。住所はないのか」と言う。住所は控えて来なかったのが間違いの元とは思ったが、後の祭りである。判るタクシーを探すしかない。
三台目のタクシーに同じく行き先を告げたら、なんと「判った」といってくれたので、やっとバゲージを積み込んで乗車することができた。大学の構内に入り、まがりくねった坂を上って、南山専家楼に着いた。時計は12時になろうとしていた。料金メータは25元だったが、感謝の意を込めて釣り銭を運転手に渡した。バゲージを引き出して、運転手と別れる時に握手を求めたところ、応じてくれた。とても嬉しかった。
12時少し前に南山専家楼にチェックインした。明日10時にて予約の最終確認をしたいとのことだった。午前1時就寝。
第6日(8月16日)
朝6時に起きて、テレビ、ネット環境などを確認した。ネットに接続するパスワード以外は全く支障がなかった。7時過ぎに食堂で朝食をとり、その後に大学構内を散策し10時にフロントに行く。予約を再確認し、パスワードを教えてもらい、ネットに接続することができた。
今回大学院生で中国語の個人授業を担当する「谷くん」との待ち合わせが2時半なので、その間を利用して、南京市内の公共交通機関のICカードを購入するために、最寄りの地下鉄珠江路駅まで歩いていくことにした。15分位かとおもったが、20分ほど掛かった。地下鉄の入口は、金鷹百貨店と併設されており、地下2階が改札口になっていた。すぐにカード発行の窓口が判り、購入できた。
カード発行費用が25元。100元チャージした。百貨店内のフードコートで17元のランチをとった。帰りは百貨店前にバス停から帰ってきた。
フロント前で2時半谷くんと会えた。部屋で中国語学習に関する打ち合わせをした。その後、携帯電話の手続きを行い、学生食堂で夕食をとった。
第7日(8月17日)
朝6時起床。7時朝食。その後午後2時開始の授業で使う日本文(1500字)を作成し、中文にする作業を行う。一昨日の上海から南京までの移動に関する経過を中国文で作成するものだが、半分ほどしかできなかった。
13時に正門前のコピー店にいき、プリントアウトしてもらった。谷くんとホテルフロントで待ち合わせて、外国語学院の研究室で初日の授業を開始した。
授業は16時過ぎに終了し、宿舎に戻り、最初の南京の訪問先を中華門とした。バスで珠江路駅まで行き、1号線で4駅南の中華門駅に到着。中華門まで歩いて20分ほどかかった。
相当大きな城壁であり、城壁見学ができることが判った。50元とあった。パスポートをもってこなかったので、50元を払おうとしたら、幾つかと聴くので66歳と応えるとパスポートはあるかと聴かれた。「いまはもっていない」と応えると何年生まれかと聴くので1950年だというと判ったと、25元にしてくれた。老年料金扱いであった。その後新街口迄戻り、フードコートで熊本ラーメンを食べ、バスで帰る。部屋で今日の授業で指摘された修正を行い、完成させた。10時就寝。
第8日(8月18日)
授業終了後、ホテルに戻り、身支度して、今日は雨花台にいくことにした。中華門駅から歩いた。15分も掛からず到着。相当広い敷地に革命に倒れた志士達の慰霊館などがあるという。入場は無料。門内に入ると、園内観光用カート(20元)に乗り、15分ほどで一周し、再度行きたいところにいくことにした。烈士祈念碑、国歌と国際歌碑、烈士記念館の順で参観し、この地名の命名された所以の高塵寺と雨花閣という高台の寺に参観した。
その後、地下鉄を1号線から2号線そして3号線と乗り換えて、谷君がここにも由緒あるお寺があると言っていた鸡鸣寺に行ってみた。丁度駅に到着するすこし前に出口付近で下車駅名の発音を確認していたら、青年が話しかけかけてきた。私が鸡鸣寺にいくという、このアプリを使えと勧めてきた。それは「高徳地図」だと教えてくれた。私は南京が初めてなので、連れて行ってくれないかというといいよと行ってくれた。早速鸡鸣寺に向か10分位の間、彼は、しゃべり続けていた。そこでわかったことは、4人兄弟の26歳、インターネット関係のエンジニアであること、普通の大学を卒業し、来年新年に結婚するということであった。それ以外のことは全く何を言っているのかわからなかった。彼と鸡鸣寺駅傍の食堂で飲んだ。
第9日(8月19日)
今日からから21日まで二泊三日の杭州にいく。10時チェックアウトしバスと地下鉄で南京南駅に向い12時7分発の杭州行きの高鉄に乗る。今回アリペイを利用してインターネットで予約し、昨日口座開設した華夏銀行決済で運賃は支払済みである。
中国の高鉄駅は三層構造であり1階が到着、3階が出発、2階がプラットホームになっている。今回ネット決済のチケットがどのように実券となるのかを試す機会となった。実券にするにはチケット売り場に行くしかないと判断して、案内所でどこに並べば良いかを聞いた。
窓口番号24から26の「改验」と書かれた窓口に並べと言われた。10分程並んで窓口でパスポートを出した。パスポートで発券できると言われたからだ。しかし係の女性はパスポートだけではダメなみたいな態度だったので、昨日予約した画面のスクリーンショットを見せたが、予約番号を見せろという感じだったので、今度はアリペイを開いて、支払成功の画面を見せた。そうしたら、携帯画面を操作していたが、彼女は席を離れて、上司に確認に行ったようだった。列の後ろの方に申し訳ないと言ったら、“没事儿!”と言ってくれた。ようやく実券発券が完了した。11時15分を過ぎていた。
次は改札口への入場である。改札への待合室に入るにはチケットと身分証明書が必要である。外国人はパスポート。手荷物検査と身体チェックを受けて入場、待合室に向かう。待合室に入るためにまた同様のチェックを受けた。南京南駅は中国で一番占有面積の大きい駅である。プラットホームが48ある。一つのプラットホームをAとBの2列車が停車する。杭州行きは、B2であった。待合室に入ると今後は改札用待合室に入るために三度目のチェックを受けた。幾ら何でもやり過ぎでは閉口してしまう。もう時間は11時35分である。
定刻13時15分杭州東駅に到着。まさか出札の手荷物検査はないと思ったが、ここでも検査をうけた。これはG20開催に伴う安全対策だと考えるざるを得ないと思った。
なにしろ杭州東駅も馬鹿でかい。南京南駅と同規模はある。まず杭州交通カードを購入(カード20元+チャージ50元)し、駅の東西にある食堂街で「神麺」で食事し、ホテルに向かおうして、反対側であることが判明した。杭州東駅構内に二箇所ボランティアの観光案内所でホテルが天城路であることが判った。15分ほど歩いて予約していた「杭州天海飯店」に着いた。フロントでパスポートを見せ、チェックインしようとしたが、係の女性は、貴方からの予約を受けていないと言われた。どうしてなのかは判らない。では今日から二泊したいが、部屋はあるかと聴くと“ない”と言う。
しかし今晩の宿を決めないといけない。フロント横の喫茶室で教えてくれたWifi暗号番号を叩いてパソコンでインターネット予約サイト「http://m.elong.com/」にアクセスして、別のチエーンホテルをしかも支払いを「支付宝」に指定して予約したが、ここに行ってみると今後は「外国人」は泊まれないと言われた。仕方なくこの近くで外国人が泊まれるホテルを教えてくれと言ったら、反対側にあるホテル「杭州海景大酒店」を教えてくれた。早速そこに行き、二泊を予約しようとしたが、明日土曜の部屋はないとのことだった。仕方ないが今日はここにして今夜明日のホテルを予約することにした。
16時過ぎに身支度して西湖周辺にいく。地下鉄1号線延安路の繁華街「龍翔橋」に行き、そこから西湖側に歩くとすぐに西湖に着いた。周辺を散策しながら南側に歩いたら、湖内周遊船(40分35元)に乗船し、大まかな西湖の観光スポットを回ることができた。下船したら丁度夕日が西湖を臨む山に沈む寸前であった。西湖側からの夕陽を写真に収めた。「龍翔橋」傍にある日本ラーメン屋で夕食をとって帰る。
ホテルで明日のホテル予約のため中国宿泊予約サイトを通じて杭州東駅近くのホテルを予約した。今後はアリペイ(支付宝)を指定して予約した。
翌日朝8時過ぎにチェックアウトして、予約した「杭州火车站和顾酒店」に向かう。地図を頼りに20分以上歩いたが、見つからない。工事現場の方に地図を見せて聴くことにした。かれは通りの名称とホテルの方向を教えてくれた。教えてくれた名前の通りの近くに付いたところで再度通行人に聴いてやっとホテルに辿りついた。予約サイトの地図とは随分違う位置だった。チェックインしようとしたら、フロント職員は、予約送信を受けているが、ここは「外国人は泊まれない」と言う。仕方なくもう一度杭州東駅に戻り、案内所で今日泊まれるホテルを紹介してほしいと言ったら、西口側にあるバス集散センターで聴いてほしいと言われた。しかしここの案内所にはだれも職員がいないので、仕方なく、併設されていたケーキ喫茶コーナーでWifi暗号番号を聞き、今度は「CTrip」で予約した。国内専用ホテルへの予約を避けるためである。
第13日(8月23日)
今日は学生中研の先輩笠原十九司先生からの紹介で今回の南京滞在の招請者となって頂いた南京師範大学南京大虐殺研究主任の張連虹先生と会食した。
張連虹教授とは、昨日(22日)の授業で電話連絡するための準備として自己紹介と今回の訪問目的などを書いた中文を谷くんに添削してもらい、7時過ぎに携帯電話に連絡した。すぐにつながり面会できる日時と場所を谷くんに連絡頂きたい旨を確認した。その後すぐに谷君から電話があり、明日5時半に仙林中心で会食することになったと連絡があった。
3時に谷くんと南師裏門のバス停で待ち合わせ、20番線で地下鉄鼓楼駅に向かい、新街口で2号線に乗り換えて、仙林中心に向かった。4時前に到着して、今日の会食会場のある「金鷹ショッピングモール」D館の南京食朝館に向かった。時間はまだあるので、南師の仙林キャンパスを見学することにした。
このキャンパスは市内にある随園キャンパスとは異なり、高大なキャンパスであり、建物は、南大の黒に対して、白で統一させている。正門から正面に本の扉をあけた時をイメージした総合図書館、その左右に理系図書館と文系図書館、そして各文系学部棟(理系学部は別の紫金キャンパス)、学生寮(4人部屋)と留学生寮(2人部屋)などが配置されている。谷くんが交渉して総合図書館1階を見学することができた。
ここまで来る間に谷くんとの会話で判ったことは、南師の外国語学部は、5年制の大学であり、1年生の時に英語を徹底的に学ぶこと、従って就職に有利であること、2年生以降に志望言語を学ぶこと、仙林キャンパスは民国時代に創建された「国立中央大学」の9つのキャンパスのひとつであること、南師の随園キャンパスは陵女子文理学院を母体にしており、女子学生が多いこと、所属する外国語学部院生90人の内男性は6名であることなどであった。
5時半前に会食会場のレストランに戻り、先生の到着をまった。間もなくにポロシャツ姿の先生が現れた。とても気さくな感じの印象で食事の席を指示して食事を注文してくれた。まずお礼のお土産を渡し、自己紹介の文面を見せて読んで頂き、その後に今回の訪問の目的を書いた文面を読み上げて、その際に「20世紀歴史理解度」の調査報告書(3部)を渡し、谷くんを介していろいろとお話を伺った。
そのなかで判ったことは、笠原先生が10月末に研究会参加のために南京にくること、張先生が12月23日24日に来日し、早稲田大学で中学から大学までの歴史教育に関する研究講演会で報告すること、その発表との関係で今回貰った報告書が役にたつこと、南京大虐殺の教科書は、小学版は小学5年生、中学版は中学2年生、高校版は高校2年生に学ぶこと、抗日記念施設の見学地として安徳門48号にある「南京民間抗日記念館」を見学したらよいこと、調査の結論に関する質問と回答を聴いて中国も近現代史に関する関心が弱くなっていること、日本の戦争加害性を弱めることは日本の歴史教育の意図でもあること、アメリカとの関係を優先し従属性が強いことなどであった。
私からは報告書を日本語の判る教員に渡して頂き、感想を聞かせて頂けると有り難い旨のお願いして8時過ぎに別れた。先生の自宅近く(钟灵街?)まで車で送って頂き、9時過ぎに「新街口」からタクシーで南師に戻った。谷くんとは、明日の授業は午後1時からとして、6時から今日のお礼の会食を日式レストランで行うことを確認して別れた。
第15日(8月25日)
今日は授業を12時過ぎに終了後に宿舎に戻り、明日の合肥往復と来週末の武漢往復の高鉄切符を買いにいく。本来は明日から武漢にいく予定であったが、午前中に出発に出発する高鉄がないことがわかり、急遽予定を変更し、武漢を来週に回し、明日から合肥にいくことにした。帰りに張先生から紹介された安徳門48号にあるという南京民間抗日戦争博物館に行こうと思った。
午後2時南師を出発し、南京南駅で全て希望通りの高鉄切符を買うことができた。後ろに並んでいた台湾人から話しかけられ、お互いの行き先などの情報を交換した。台湾人は中国人同等の身分証明書を取得できるらしく、IDカードで切符を購入できるという。やはり台湾との融和と統合を推進する政策とおもわれる。
地下鉄で安徳門駅に戻る。安徳駅で民間抗日戦争博物館は、南に真直ぐ三百メートル位だというので言ってみたが、周辺で聞いたが、わからない。一旦駅付近迄戻り安徳門48号はどこか聞くと公園の向こう側というので、横切り、ようやく安徳門6号に出ることができたが、そこから48号まで相当歩いたら、「天隆門」という地下鉄駅に辿りついた。完全に一駅戻った訳である。
つまりこの博物館は、住所は安徳門だが、最寄駅は天隆門だったということである。安徳門の職員も天隆門に戻り、そこから300メートルで着くということを言ったのかもしれない。先入観で判断してはいけないことを痛感した。一時間ほど徘徊して、やっと博物館に辿りついた。すでに閉館時間をとうに過ぎていた。
第16日(8月26日)
今日は12時過ぎの高鉄で合肥にいく。合肥は周瑜墓と李鸿章故居などがあるという。安徽省の省都である合肥は南京から1時間もかからない。ここの地下鉄は今年12月に開設するらしく、現在バスしか移動手段はない。バス路線一覧表があっても使いこなせないので、唯一の頼りはタクシーである。
利济巷にある「慰安所旧址陳列館」と昨日見つけた「南京民間抗日戦争博物館」に行き、午後安徽省都「合肥」にいくことにした。
9時半に慰安所旧址陳列館につく。ここはアジアにおける日本軍慰安所に関するすべての情報が集約されている。海軍が最初に慰安所を作った上海から始まり台湾を含む全中国の慰安所とともに、韓国を始め東南アジアにまたがる慰安所の情報も展示されていた。「秋子の故事」として、慰問団として南京に来た日本の妻が、慰安所従軍を強要されて慰安婦となり、南京の慰安所で夫と再会し、慰安所でお互いに自殺した物語も紹介させていた。この悲劇は映画になったという。中国戦における慰安所に関する数量や運営の実態がよく判る資料が展示されていた。1時間半ほど見学に要した。
次の博物館に行く時間がないため、南京南駅に向かう。構内で食事して、合肥に向かう。高鉄内でメールを見たら、合肥のホテルのクレジット決済の認証に失敗したため、キャンセルし、再度予約せよとあった。これはまた杭州の二の舞になるかもしれないと覚悟した。同時に予約した同じホテルのクレジット決済に問題がないので、なぜはここがダメなのかがよく判らない。
先ずは、予約したホテルに行き、現金決済に変更してチェックインするしかない。高鉄は定刻に到着。タクシー乗り場は5つの乗車場をもつ高大なスペースであり、各々に100名以上が長い列をなしていた。30ほど待って乗車したが、運転手がホテルの場所が判らないらしい。ホテルのある場所に近くに来たらしく、後は自分で探せと言う。
しかたなく29元を払い、大きなデパートに行き、化粧品売り場の女性に住所を見せてこの場所にはどう言ったらよいかを聴いた。六七人の男女に聴いたが、キャリアウーマンらしい若い女性の返答が一番正しかった。30分ほどを費やして漸くホテルが見つかり、フロントで現金決済をお願いして一泊289元でチェックインができた。なんとか杭州の二の舞は避けることができた。ひと安心である。
明日と明後日の行動を決めるために、ホテルを探している時に見つけた小さな書店で市内地図を買い、「安農大」(安徽省農業大学の略)バス停の職員に交通カードは何処で買えるのかを聴いた。職員が少ないホテルフロントは諦めて、ホテル前にある食堂で夕食を食べながら聴いてみた。隣の席にいた二人ずれがよく教えてくれたおかげで、大体の土地勘を得た。彼らは安徽省農業大学の4年生で銀行と建設施工会社に就職すると言う。
明日は、タクシーで「客云南站」にいき、バスで周瑜墓のある「庐江镇」にいく。
第17日(8月27日)
6時起床、近くの24時間営業の食堂で朝食、タクシーに乗り、15分足らずで長距離バス南ターミナルに到着、19元だった。案内所で庐江と三河は1日で移動可能であることがわかった。まず、庐江県に行く。30元である。バスは7時半に出発した。所要時間は約一時間という。
8時50分庐江県に到着した。20分程の遅れである。有料高速道路までの渋滞による。ターミナル前からタクシーを拾い、5分ほどで初乗り運賃の4元で周瑜墓園に到着した。5元を渡したが、釣銭はなかった。
墓園はそんなに大きくはなく、中央奥に墓石と墳墓がある。右側廊下に周瑜が生まれてから36歳で亡くなるまでの16枚程の石画と解説文がある。周瑜は宦官家の出身、孫権長男の孫策と同級生であり、孫策と行動を共にした。周瑜は中国に於ける水軍の創始者であり、水に慣れた漁民、辺鄙な山村の山民、素朴な農民を集めて、訓練を行ったという。決して都市に住む商人の子弟は使わなかったと言う。この水軍の創設と特訓こそ赤壁における曹操軍撃破の要因という。周瑜は赤壁後2年後に病死するが、孫権は葬儀にかかる費用を全て国庫で賄う、つまり国葬として弔ったと言う。
見学後徒歩で11時5分に庐江バスターミナルに戻る。20分位で到着。ターミナルも墓園も同じ周瑜大道上にある。
三河鎮迄は通常のバスしかないみたいだ。10分程待って11時15分発に発車、丁度一時間程で到着した。三河ターミナル付近の食堂で食事。13時30分に三河古鎮ビジターセンターに到着。共通券の売り場を尋ねたが、ここではなく、入場口の方だと指さされた。しかしそれらしき売り場は見当たらない。そのまま見学を開始した。
シンボルである国粋閣20元、太平天国風伝館30元、大夫第30元で入館。大夫第はあまり価値にある施設でない。大平天国は、何故敗北したのかが分析されており、とても良くできた施設だと思った。
16時15分にバスターミナルに戻る。高速と普通があるらしく、直通バスは15元。4時30分乗車、40分発車。6時近くに客云南站に着いた。1時間20分かかった。タクシーでホテルに帰る。
タクシーは違法タクシーだった。運転手に南京から合肥にくるのに、高鉄で60元だったが、このタクシーはそれ以上だねと言ったら、高鉄は沢山のお客が乗るが、タクシーは一人のお客を運ぶから、話が違うと言っていた。携帯電話のメータは62元となっていたが、60元にまけてくれた。高鉄の話が効いたのかもしれない。ホテルに7時前であった。ホテル傍の24時間営業店でテイクアウトをして部屋で夕食をとった。
第18日(8月28日)
今日は合肥の最終日。6時半起床、7時チェックアウト。今日は逍遥津公園、李鴻章故居、安徽省博物館、徽園に行く。まずバスで逍遥津公園に向かい、タクシーで李鴻章に行き、ホテルで預けたバックを回収し、博物館と徽園にいくことにした。
ホテルの最寄駅から136路バスに乗り15分程で三中駅につく。バスから見えた案内の方向に進むとすぐに見つかった。西大門からなかに入ると、中は緑と池、小川で囲まれ、回遊式の小径で結ばれた公園である。子供が遊べる遊園地と植物園と動物園と博物館などがあった。ここの景観の見所は、池のほとりに建つ4層の逍遥閣と池の小島とを繋ぐ橋である。この公園のなかに三国志歴史館があるのを発見し、開館が9時との事で、8時半に開館する故居を見学してから、また来ることにした。南大門前からタクシーに乗ったが、李鴻章はすぐ側だという。初乗り8元は払うから行ってくれと頼んだ。本当3分もかからずに側に着いた。
安徽省博物館は、安徽省に纏わる歴史博物館である。安徽省出身の老子、荘子、管仲、曹操、陳独秀、毛沢東など蒼々たる人物である。その後、テーマパークにいったが、これは間違いであった。行く価値のない施設である。その時間があれば、安徽省博物館に隣接した「自然史博物館」に行くべきだったと後悔した。帰りのタクシーの運転手から、合肥は12月末に地下鉄が開通するが、バスの交通カードで地下鉄だけでなく、タクシーも決済できるカードになり、タクシーメータを指して、これが決済用メータだと教えてくれた。現状はバスだけのカードである。
夕方合肥南駅から南京南駅に戻る。
8月29日
授業終了後、玄武湖,莫愁胡,夫子庙にいく。月曜日は記念館などが閉館することが多いことから、開館の確実な訪問先として選んだ。玄武湖は、南京中心部(新街口)から北10㎞前後にある大きな湖であり、南京市民の憩いの公園である。また莫愁胡は、南京中心部から南西に5㎞程にある大きな池である。
8月31日(水)
授業終了後に中山陵にいく。フロントで聴いた20番線バスでいく。25分程でついたが、それらしい感じがしないので売店で来たら、この方向を真っすく行けとのこと、ここはどうやら駐車場の裏手にあたり、メインのバス停ではないとう感じであった.石像路門で门票を買う。ここは[针山风景名胜区]というらしく、明孝陵(70元)、音楽台(10元)、灵谷庙(35元)、美龄宫(30元)をセットで買うと100元となり60歳以上は半額になる。2時40分入園。
明考陵のまえに美龄宫に行こうと思い、案内に従って歩いたが、出口である「5号門」が現れた。引き返して小屋のひとに聴いたら、そっちだと言う。出口の職員に聴いたら、出て左に行けという。そこから又案内に従い歩く。入ってから45分ほど掛かって、漸く美龄宫に着いた。その過程で南京十朝歴史文化展覧館と明考陵博物館があることが判ったので、そこを見てから、明孝陵にいくことにした。
美齢宮は、もともと民国政府の大統領官邸であり、蒋介石の妻である宋美齢も滞在していたことから、宋美齢宮となったようだ。3階建てで地下から入る。官邸だけあって、鉄兜などが置かれた部屋などもあるが、広々した最高級の家具などを誂えた豪華な部屋が続く。館内には西安事件の際の緊迫した様子、カイロ会議で蒋介石と同席した写真など展示されていた。絵の才能もあるらしく、水彩画が展示されていた。
そこから呉(東呉)の孫堅から始まり、大平天国の秀こう全までの南京を首都とした10の王朝の歴史に関する展示館である「南京十朝歴史文化展覧館」と現在の中華料理につながる明代の生活様式と考陵にからの出土品などの展示のある「明考陵博物館」を見学し、時間は4時10分を過ぎていた。
考陵の閉門時刻が気になった。昨年瀋陽の清東陵を見学した際に5時閉館で最期の棺のある墳墓をみることが出来なかったことを思いだし、明考陵前で丁度見つけたタクシーにのることにした。考陵そばの7号門まで行ってくれといったら「30元」だという。背に腹は代えられない。普通であれば、10元も掛からない距離である。4時30分少し前に7号門に着いた。入ろうとしたら、貴方はすでに2時40分に入門しているから入れないと言われた。チケットで出入りを管理しているらしい。まだ明孝陵は見ていない。友達から連絡があり、来いと言われた(うそ)と言って入れさせてもらった。閉門は6時と書かれてあった。
ホンタイジの瀋陽にある東陵ほどではないが、考陵も広い。墳墓までの「考陵」と描かれた城郭は5階建て位ある。高大な部屋は、明19陵に関する配置図などが展示されている。たしか北京にある明の13陵を思い出し、北京は5代皇帝から17代皇帝の陵墓であること、また19陵とは朱元章の祖父と父の陵墓を数えたものであることが判った。
9月1日(木)
今日は個別指導の最終日。今回ここで行った学習方法と成果と今後の課題と謝意を書き、中文を添削してもらった。このような内容になると難しく、修正箇所が多すぎて、理解できないことがあった。やはりこれが今の限界なのだと自覚した。
昨夜から喉が痛く、少し下痢ぎみなので、どこにも行かず、华夏银行で1000元を降ろした。中国の銀行は、自動払い出し機がなく、すべて窓口処理である。「拿钱(現金にする)」したい金額を言い、係員から「密码(暗証番号〜中国では6桁)を押せと言われて、処理は決済完了である。1000元を受けとったとの書類に自分のサイン(漢字ではなく、パスポート表記のローマ字)を書き、現金を受けとるというものである。
一端宿舎に戻り、休息したあと、3時過ぎに南京駅に行き、6日南京から上海に行く高铁切符を買いにいく。列の前のイスラム人からここでは「普通票」が買えるのかと聴かれたので「都可以」と応えたが、信用していないらしく列を離れようしたので、「可以!可以!」と連呼して呼び止めた。[文乌]までの切符を買っていた。
その後、「随家仓」の日本料理屋で夕食。大学で日本語を習っているという金さんという女学生と話した。まだは話すという感じではなかったが、可愛い素顔だった。
9月2日(金)
武漢に行く。6時起床で持参するものと残すものとに分けて、4日に日本から訪問者と合流するためにホテルの所在をインターネット[百度]で調べたら、どうも、頂いた住所が違うのではないかと思われたので、参加者宛にメールで再確認と中国名のホテル名と住所を知らせておいた。中国のタクシーは、行ったことがない場所については、全く知らないらないが多く、ホテル名と住所と電話番号の3点セットが不可欠であるというのがこの間の教訓である。このホテルは、地図で見ると、夫子庙に近く、駅名は张府园からすぐであることが判った。
7時に出発。8時に南京南駅着。2階でワンタンスープを食べた。22番Aの改札に入ろうとしたら、薬局らしい販売コーナーがあったので、風邪薬と下痢薬を買った。2つ合わせて34元だった。愛想の悪い薬剤師だった。
乗った高鉄は初期の車輌らしく、席には肘掛けも席の足下に充電用コンセントがない。隣の座席の女性が携帯電話の充電にコンセントを探していたので、自分の携帯用充電器を貸してあげた。「日本人か」と言われて、「はい、武漢まで行く。そこまで充電して構いません」と告げたらとても喜んでくれた。武漢に着き、「再见!一路平安!」と言ったら、「谢谢」と笑顔で応えてくれた。
定刻12時24分武漢につく。「老漢口」で昼食し、ホテルに向かう。地下鉄改札前にある交通ガード販売所で「武漢カード」を買う。20元で30元から充電できる。普通は50元位なので、良心的なチャージ設定だと思った。それでも残るだとうと思った。
武漢駅は、市内中心部から北にあり、地下鉄で32分位かけて、ホテルのある「武昌火車駅」に向かう。駅からタクシーに窓越しに「九州酒店」は知っているかと聞いたら、あそこに見えるホテルだと教えてくれた。歩いて10分もかからずに着き、すぐにチェックインができ食券を2日分4枚を渡された。風邪気味なので一時間ほど寝ることにした。
3時半に起きて、ホテルに向かう時に見つけた長江ナイトクルーズ(黄鶴楼(80元)+夕食付きクルーズ(170元)=180元)に行きたいと思い、どこでチケットを買うのかと尋ねたら、黄鶴楼迄電4番線(トロリーバス)でいけと言われ、早速電4路で向かう。20分ほどで着く。黄鶴楼門票場の隣に旅行社で買えという。今日乗船できるというので、パスポートを見せたら、115元だという。どういう計算か判らないが、買い求めた。
集合場所と時間を聞くと東門5時半だと言う。随分早いと思ったが、ホテルに戻る時間はなく、10分程で東門の待合室で待機した。そこで再度時刻と場所を確認したら、5時15分だと言う。5時10分過ぎに待合室から移動が始まったが、そのまま座っていたら、こっちだと言われて外にでたら、大型バスにナイトクルーズの乗客の行列ができていた。バスで長江接岸地点まで行くらしい。10分程で到着。すぐに乗船する。するとそこはビュッフェになっていた。5時半集合とは、ビュッフェでの食事時間を確保すること、屋上デッキで夕涼という嗜好らしい。
船は排水量570トン、喫水時高さ15メートル、全長105メートルの客船で、一階が二等客室用、二階が一等客席用、三階が屋上デッキ、二階はだれでも使えるようになっていた。2階客室で待つことにしたが、眠ってしまい、対面の人から「开动了」と言われて、慌てて屋上デッキにでた。
ホテルに戻り、来週開催の「戦後世界史市民ネット」世話人会の開催案内をだしてから11時就寝した。2時過ぎに目が覚めてしまい、中山路からのトラックの騒音がうるさく、気になって寝ることができない。明朝部屋を替えてもらうことにした。
9月3日(土)
今日は赤壁古戦場にいく。朝食に行く際にフロントにメモ「我的房间离中山路很近,深夜载重卡车噪音相当吵,所以我昨晚睡不着。请给我换房间离中山路最远的。」を書いてお願いした。了解いただき、帰りまでに違う部屋を用意するという。
食堂改修に伴いホテルから150メートル程離れた朝食会場に向かう。インストア及びテクアウト用の一般食堂と契約しているようだ。注文カウンターで12元の牛肉麺を頼んだら、それはダメだという。6元以内のものとスープ(汤)ならいいと聞こえた。そうかだから1日に2枚の朝食券をくれたのだと納得した。明日は二枚もって行こうと思った。
武昌駅の北側にある宏基バスターミナルに向かう。歩いて15分位で着く。チケット売り場で「赤壁(chibi)」行きを45元で買い、2階の発着場で待機し発車時刻5分前に改札乗車定刻9時に出発した。11時20分に赤壁パスターミナルに着く。地球の歩き方にはここから「歩いて5分」とあった。しかしそれらしい雰囲気を感じない。表にでるとタクシーとバイクタクシーが近寄ってきて、何処にいくのかに聞くので、「赤壁古戦場」の写真を見せたら、「100元」でいいとう。そんな馬鹿なと思ったが、選択の余地はなく、お願いすることにした。
しかし、赤壁古戦場は、博物館のなかにあったが、いまはとても廃れていて、「赤壁」と書かれた壁を携帯で撮影し、またタクシーで戻り、武昌にもどった。
その後、4日から6日まで南京に滞在し、日本から三名の友人を迎え、谷くんに車のチャーターをお願いして、南京の史跡、記念館、観光地を案内し、9月7日に帰国した。