2020年 08月 08日
方方日记:日本語訳〜(2) |
方方日记:日本語訳〜(2)
すでに7月30日に1月25日〜2月2日までの日記を投稿した。約一週間程でようやく2月12日までの10日分の翻訳を終えた。1日に2日分をノルマとしたが、なかなかそうは簡単に進まない。最近は諦めてゆっくり1日1日分のペースでやることにした。
前便の方方日記(1)では、最大の事件は、北京からやってきた感染症対策の専門家王広発教授の1月10日の単独インタビュー記事の発表と結末である。方方女史というより武漢の人びとの政府批判の凄まじさを感じとれた。そしてそれは中国の官僚と中国人への批判に発展していくのである。
最初は、このような日記が何故削除されるのかが判然としなかったが、このあたりから、愛国的でない論評への批判が高まり、日記への罵倒が始まったのかもしれないとおもいはじめた。この北京医科大学教授の言行が、武漢人にとってあまりにこの日までに亡くなった同郷人を「犬死」と表するほどに劇的であったからに他ならない。
つまり1月10日に記者会見でこのウイルスは「人から人へは感染しない。予防と制御は可能だ」と発言し、16日にウイルスに感染したと発表され、19日になって、あの2003年広州SARS感染対策を指揮した鐘南山によってはじめて武漢人に対してウイルスが「人から人へ感染する」と公表されたのだ。まだ先のことになるが、王広発教授は、3月5日に新型コロナウイルスへの予防と制御」に貢献した先進的個人として名誉称号が授与されたと言う。
方方女史は中国の皇帝の言行を例にあげて、政府の失政と罪を明らかにする。訳文の注としても紹介したのが、罪己詔(ざいきのしょう:己を罪する詔)である。これは古代の皇帝が、自分の失敗や判決に問題がある時に、自己の過ちを調査するために記す詔書だという。
日本の現政権の宰相にもこの詔書「罪己詔」を自らに発すべきだと思う毎日である。
以下前便(1)以降の2月3日から2月12日までの10日分を掲載する。
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方方日記:日本語訳〜(2)
正月十日(2月3日)
正月10日。また今日も陽気のよい天気。昨日は、雨かもと思ったが、今日は俄に好天となった。医療を求める人びとはこの陽気が暖かな気持ちにさせる。ウイルスは感染者に多いが、あらゆる処で生き残ろうとする。だれもがウイルスによる感染を望んでいないが、生き残るために彼らもそうせざるをえないのだ。かれらにはそれ以外の道がない。感染者の心の寒さは、この冬の寒さに比べて更に深く更に重いはずだ。感染者家族が狂奔する路上で苦しむことがないよう希望する。患者に病床は転用できないが、陽光は遍く照らすことができる。
ベッドで携帯をみた。最初に見たのは、成都の地震情報である。地震は確かに驚くが、危険はない。ジョークが人を笑わせる。ひとつは、「成都で二万人ほどの武漢人をみつけることができた。さっきの地震に驚き、慌てて大通りに殺到したのはきっと武漢人に違いない。成都人は、みな自宅で足湯に浸っているからだ。」というものだ。ほんとに堪えきれずに笑わずにはいられない。成都のジョークマンは、武漢人に早朝から「気晴らしの瞬間」を味わってほしかったのだと思う。武漢人に比べ笑いの能力があるのは四川人なのだろう。ジョークマンに感謝。
ネット上には見たくない動画がある。実際とても辛い。しかし理性を保ち、辛いだけで避けていてはいけないことも自明だ。逝く者は還らず、生ける者は斯くの如くである。記憶のみが頼りである。これらの未知の人びとを記憶し、無駄死した者を忘れず、悲しみにくれた日々を思い出し、この歓喜の春節のなかで一体どんな原因で人生が途絶えてしまったのかを忘れないことだ。私達は、この世で生きている限り彼らのために正道を探求しなければならない。汚職者、不正行為者、無責任者を、私達は逐一追求し、一人も逃してならない。さもなければ、私達は遺体袋を携えて進む人びと——ともに築きあげ、ともに楽しんできた武漢人にどのような申し訳がたつというのだろうか?
今日、武漢市のプロモーションビデオを見た。良い出来映えだ。武漢の広大さと静寂さを「一時停止ボタンを押す」と形容した。そうだ。武漢は暫し停止したのだ。しかし遺体袋に包まれた人びとは、すでに還ることはない。悲しいかな、火葬職人はこれ程働いたときがないようだ。彼らは、だれもが医者が命を管理しているかどうかに注意をはらってほしいと言った。
午後、私は友人の医者に現況を教えてもらった。彼はいま第一線にいる。私の質問への回答に時間を割いてくれた。話しは複雑だが、要約するとポイントは幾つかある。第一に、武漢はまだ楽観できる状況ではなく、非常に厳しい。医療用品の不足状態が続いていること。最初この言葉を聞いて,字面を考えて、それは大変だと充分理解できた。二三日使えるだけだと言う。第二は、基礎病院が相当困難な状況にある。基礎病院は貧弱であり、感染症への関心度も低く、医療資源も少ない。友人は私にみなさんに対して基礎病院に関心を払い、援助するようアピールしてほしいと言った。
同時に基礎的自治体、居住区と村は、隔離はできても、武漢市よりもやるべきことが非常に多い。第三に、しかし発熱して感染が疑われる患者を居住区病院に収容するのは適切でない。居住区病院は専門知識に乏しく、個人防護具が不足しており、彼らにどのようなことができますか?その上、居住区の住民はこの問題を解決できるかどうかを不安に感じている。この(居住区病院への収容という)誤った決定によって武漢は更に感染を拡大し、感染が家庭に蔓延する。第四にすべての病院医師が非常に忙しく、感染症以外の医師が最前線に引き当てられている。しかし治療すべき人は多数控えており、毎日感染確定し或いは疑われる人数が急増している(新たな患者には対応できないのか?敢えて聞けなかった).第五に友人は最終的な感染者数は、非常に恐ろしい数になる。彼は、「入院させるべきはすべて入院させ、隔離すべきはすべて隔離するしか、この感染症を制御する方法はないのです」と明言した。結局これが唯一の方法なのです。今日の一連の措置から判断して、政府はついにこの認識に到ったのだ。
感染拡大が始まり、その最初の発生から爆発的感染に至るなかで、私たちの対応は、誤りによって遅延し、そして失策へと進んだ。私たちは、このような規模の代償を払いながらも、ウイルスの最前線で混乱して、ウイルスを阻止することができず、ただただ、ウイルスの後を追いかけている状態にある。岩を撫でて河を渡るという考えは正しい対処法ではない。参考となる前例が沢山あるのに、何故学ぼうとしないのか?問題をさっと掴んでやることはできないのだろうか?私の考えは単純すぎるのかもしれない。
今日、家族が橋を渡る動画をみた。橋のこちら側が重慶であり、橋を渡れば貴州である。夫婦が子供を一人か二人連れている(はっきり分からない)。男性は重慶人で女性は貴州人という。重慶を車で出て、橋を渡れば貴州という省境である。結果は、貴州側では男性の入境を許さず、貴州の女性は帰宅できる。但し重慶の男性は入れない。男性は車で戻るしかできない。重慶側では、あなた方が重慶を出でしまえば、男性は帰宅でないが、しかし女性は帰宅できる。車上の男性は前方にも行けず、後方に戻れないとすれば、まさか橋の上で暮らせということか!これは泣くにも泣けない、笑うにも笑えない動画である。私はかつて、長編小説「武昌城」を書いた。書いた時期は武昌が北伐軍に一ヶ月ほど包囲された頃である(幸運にも私は武昌市内に封鎖されました)。包囲されて、武昌城内は、無数の市民が餓死と病死で亡くなった。多くの漢口人と漢陽人が救援に駆け付け、遂に両軍は協議した。3日間の猶予を与えて市民が城外にでて食事をできるようにし、包囲軍は攻撃せず、守城軍は外出を許可した。これは1926年のこと。両軍が対峙する作戦でさえ、敵対する双方が協議できるのであれば、今日、天が落ちるような騒ぎではないのであれば、それを融通することが何故できないのでしょうか?方法は沢山あるはずだ。その後、若者たちが一体重慶に帰れたのか、貴州に入ることができたのか、分からない。
悲しいかな、人びとの暮らしは多くの困難を伴い、長い嘆息を経て始めて泪を拭うことができる。この数日、多くの人びとはこのことを書いている。
正月11日(2月4日)
今日の天気も依然として良好だ。武漢市民の暮らしも平穏である。すこし退屈であるが、しかし、生きていれさえすれば、なんとか凌ぐことができるというものだ。
午後、突然パニックになった人のことを再び聴いた。スーパーで買い物にいくと、スーパーが閉店し、飲食できなくなるのではと心配になったそうだ。私はおそらくこれはないとはおもったが、市政府は、どうやら、このためにスーパーの閉店はないとの声明を発した。理の当然で、全国の市民は、すべて武漢を支持していて、国内の生活物資の欠乏はなく、武漢市民の日常生活用品を保証しており、難しいことはないはずである。孤独な老人も困難を抱えている(感染していなくとも大変である)が、居住区と多くのボランティアが助けてくれるはずである。政府が初期にどの位の誤りがあったどうかに関わりなく、いずれにせよ、私たちは現在政府を信ずるしかなく、私たちが彼らを信任する必要がある。それ以外にこのような時期に誰を信ずればよいのか?だれに頼ればいいのか?これらのパニックなり易い人が何時パニックになるのは、どうすることもできないことだ。さっき家からゴミを棄てにいくと、我が家の門に、「すでに消毒済み」という紙が貼られていることに気づいた。またもし、発熱があれば、武昌区の何某の電話に連絡するようにとの張り紙が貼ってあった。居住区の仕事が、綿密になってきたと見て取れる。感染は大敵であり、全市民は、敵に対して共通の敵愾心をもっており、意志決定者がぼんやりとしたことさえやらなければ、だれも再び杜撰なことはしないでしょう。
今後一体どの位の人びとが感染するのか、この数字に誰もが敏感であり、この数の多くなれば、一層緊張が高まる。実際、昨日は私の微博のなかも提起されている10万人という数字は、医師のなかでは早くから知れられていて、ある医師は、対外的にもずばり明言した。今日、別の友人の医師からこの数字はすこしも間違いでないと教えてくれた。本当にたくさんの人びとが感染するでしょう。但し一点補足しておきたい。全ての感染者が、発病している訳ではないということだ。発病者は、感染者のなかの半分か三分の一である。私は特にもう一つ、感染していたとしても、発病せず、以後自然とゆっくりと良くなっていくという話しは本当なのかという質問をした。友人の医師は、肯定する語気でそうだと言った。もしそうだとすれば、これは良い知らせと見なせるのだろうか?
再度強調しておきたい。医師の説明によれば、コロナ肺炎の感染力は強いが、通常の治療さえしていれば、死亡率は高くない。湖北以外に治療の機会がある患者がこれを証明している。武漢の死亡者数は多いが、主要には、入院できないことであり、軽症者が重症になり、重症者が死に至ったものだ。加えて、隔離方法が間違っており、自宅隔離は、家庭内感染を引き起こし、患者を更に増やし、多くの悲劇を引き起こすだけである。医師の友人は、もし初期段階で措置しておけば、武漢の現有の病床で完全に重症患者を入院させることができたはずだ。但し初期に混乱し、人びとがパニックとなって、感染していない人も病院に殺到して、その後すべてが混乱した。現在政府は不断に方法を調整した。次の段階で、局面の転換ができるのか、転換点を生み出すことができるのかを見てみたい。
この他、ネット上では、昨日登場した「キャビン型病院」について、これは集中的に隔離し、患者を同じ空間に集めて、逆に感染接触を増大させないか?との質疑があった。
私はこれを野戦病院のモデルと考える。まず必要なのは、発熱し、感染の疑いのある患者を最も迅速に収容し、医師を派遣して治療に当たらせることである。これと同時に継続して隔離環境を完全にすることだ。そうでないと、走り廻る感染者が至るところに現れ、一日でも多く狂奔すれば、より多くの感染者を生み出すからだ。これでは感染は根本的に制御不能になる。現在の大きな空間は環境として理想ではないが、次の段階で、逐次小空間に分割することを躊躇なく行うであろう。これは推測なのでえ、正否はわからない。いすれにせよ、走り廻る患者を隔離することが最も喫緊の課題である。
今日、火神山医院からの動画をみた。患者の自撮りである。見たところ、この医療環境はとても良さそうであり、患者は前向きにさせるものだ。これは私の見た目である。彼らが早く良くなってほしい。すべての状況はより合理的でより有理であることを願う。
今回の感染が明らかにしたことは、人びとが力を合わせることで成就できるということだ。敵は、ウイルスひとりだけではない。私たち自身が自分の敵であり、共犯者である。
このような状況になってはじめて多くの人びとがはっきりと自覚したのである。毎日いたずらに叫ぶだけでは国のためにならないこと、毎日政治の学習と空言ばかりで、何も具体的ことをしない幹部は役に立たないこと(私たちは依然からこの輩を「口先労働者」と呼んできた)、さらに社会が常識を失い、事実に基づく真理を追究せず、結果として
口先で殺されるだけでなく、実際に殺され、且つそれは多くの人びとに及んだのである。この教訓は明らかであり、深刻なものであり、重大なものだ。私たちは2003年を経験し、しかしそれは早々と忘れさられた。いままたそれに2020年が加わった。私たちはまた忘れようとするのか?悪魔は常に背後に潜み、私たちの隙をついて、またも立ち現れ、私たちを苛み目覚めさせたのである。問題はつまり私たちが眼を覚ますかどうかにある。
SARSの年の3月を思い出してほしい。SARSが行政の隠蔽によって蔓延した時であり、広州の同級生が一大手術をする時だった。私たち数十人の大学時代の同級生は、全国各地から広州のあのSARSが猛威を振った病院に彼の壮行のために赴いた(誰一人としてマスクをしていなかった)。皆列車に乗って帰ってきた。その後SARSのことが明るみになると、全国全ての人びとがパニックになり、私たち一人一人が度肝を冷やさなければならなかった。本当に幸運にも感染していなかったのである。このとき、私は1月はじめから18日まで合計3回二つの病院で手術を受ける同窓生を見舞った。この二回ともマスクを付けていなかった。いま思うと、とても恐ろしいことで、本当に幸運であったという他ない。
正月十二(2月5日)
昨日は立春。今日の天気は果たして春のようである。我が家の門前には、老いた楠木と二輪のキンモクセイ、モクレン、枝葉はみな緑で、まるで冬を過ごしたことがないかのようだ。
今日は、依然として専門家の見通す感染ピーク期間中。確定感染者数は上昇中と言われる。私の知る著名な画家が危篤とのこと。私の同僚YLは、彼女の友人同報網のメンバーで一緒に遊び撮した三人が亡くなったという。私の友人同報網は少ないが、ありがたいことにまだ元気である。武漢の厳しい局面で、たとえ初期のような混乱がないものの、まだ緩和はできる状況ではない。ネット上では、悲しい動画や絶望的な叫びは少なくなり、これに替わって、まっとうなエネルギーが人びとを励ます役割を発揮しだした。しかしこの問題を正しく解決したのか、やはり直接削除されたのかは分からない。私たちは沢山削除を体験して、このようなやり方によって麻痺が始まるのである。昨日私は、
私たち自身も自分の敵であり、私たちも自ずと敵となると述べたが、これも正にこの種の麻痺の始まりである。現下の私たちに必要ことことは、喚起し続けることであり、自らの身体への警戒をしっかり保つことだ。私は依然として家人と友人と一日中話し続けている。外出するな、外出がダメと。すでにこんなに多くの日数閉じ込められているが、これからどの位とじこめられても気にしない。食事の質の劣化は仕方ないが、感染が終息したら、これまで何日かに食べたいと思ったレストランを順番に行って食事したいと思う。心行くまで食べさせてもらえれば、レストランも稼げるはずだ。
午後、面白い情報を見つけた。冒頭の言葉を除けば、公式メディアの様である。「武漢は堅塁攻略戦の火蓋を切った」という。しかし内容は、頗る価値がある。これを少し整理してみたい。1.患者を三階層に区分する。2.火神山医院、雷神山医院、指定医院は1級として、隔離と重症患者に責任を負う。3.既存と新規建設の合計11ヶ所のキャビン型病院を2級として、主に隔離と軽症患者に責任を負う。4.ホテルと党幹部育成学校を3級として、感染の疑われる患者と濃厚接触患者の隔離に責任を負う。5.この三層による隔離後に全市各方面の殺菌消毒を行う。6.全ての病院が通常外来を復活させる(閉鎖していた感染症以外の診療科を直ちに復活させる)。7.その他各業種が営業活動を開始できるようにする。8.重症者が緩和され軽症者になれば、すぐにキャビン型病院に移し、逆に軽症者が重くなれば、指定病院に移送する。患者の病状に従い順次調整する。これを類推すれば、この方法で患者がいなくなるまで続くということだ。私は確証できないが、常識的に推計でき、真実に違いないと思う。国軍が武漢に入境してから、武漢の効率性は明らかに向上した。このやり方は、軍隊のやり方であり、シンプルで素速い。私はこのやり方に期待する。更に各段階の隔離患者が品質が保証され、信頼される治療を受けられることを望みたい。
感染蔓延は、人びとのあらゆる生活の秩序を乱した。病院は更にだ。各街区の医師は、感染症患者への対応に忙殺されている。実際、感染がなくても、それ以外の患者が通常から非常に多いのだ。現在、これらの患者は、感染症が優先され、自ら黙々と苦痛を甘んじなければならないのではと心配していた。痛みがあっても、堪え続けた場合に、どのような目にあうのか、患者はびくびくしていたのである。しかし彼らはやはり路を譲るのである。これらの人びとは本当に大したものだと思う。私の同僚は、不幸にもこの正月に連続して二度手術を受けた。小さな病でも、小さな手術でもない。春節前に感染が蔓延し彼女は病院から自宅に送り返された。手術後には治療薬の補充と注射が必須である。自ら歯を食いしばって車を運転し病院に補充の薬をもらいにいく。傷口の恢復はうまくいかず、化膿していた。病院には人が多く、病は複合的であり、医療スタッフは敢えて彼女を毎日来院させられず、ケアパックに入れて帰宅してから薬を替えてもらっていた。ケアバックが不足すれば、薬屋で買わねばならない。
炎症がなかなか収まらず、社区内の病院で注射してもらうしかない。苛立ちと悲しみに泣くしかない。しかしどうしたらよいのか?彼女はまずいまは請け負って、感染が終息してからまた考えると話していた。私の別の同僚は、父の癌のため、今年は特別に両親ともに新年を過ごすことにした。三代の家族が自宅に集まった。何処にも行くことができず、両親も退屈し、彼女は、毎日両親とトランプなどをするしかなく、彼らの時間を安易に浪費させてしまったという。さっき電話で、ゲームは私も鬱陶しい気持ちだったと打ち明けた。実際これもリラックスできるものではなかった。さらに焦っているのは、妊婦たちである。彼女らは、耐えることができるが、お腹の赤子は耐えることはできない。この子らが生まれる環境には適しておらず、彼らが母と父となることに対して、とてもじりじりとした不安を感じている。いまは完璧な世界ではなく、赤子も大胆にも生まれてくるだろう。ここは感染地区だが、出産の現場が暖かく、清潔であることを願う。
私はこれらの事を仔細に記録し、罪在る人に伝えなければならない。死者や患者だけが、災難に遭遇した訳ではなく、私たち庶民みなが、この人為的災害の代償を払っているのです。
正月十三日(2月6日)
今日の武漢はまた雨が降り出した。空はどんよりしている。どんよりしたなかの風雨に見舞われて、人びとは殺気を覚える。外にでると冷たい風が吹き、全身が恐れおののく。
今日は、更に良い情報である。長い日々にあってはとてもエキサイティグな情報ができてきた。まず感染が収まるという放送を聴いた。ナレーターは専門家だという。少なくとも私は信頼できると感じた。その後、ネット上で広まり、米国のギリアドが研究した新薬レムデシベル(中国の専門家が「人びとの希望」と名付けられた?)は、金银潭病院で治験が開始された。武漢の人びとは、とても興奮して、もし、遵守規則で外出禁止がなければ、たぶん街頭に飛び出して大騒ぎしただろうね。こんなに長く閉じ込められ、こんなに長く待たされた後に、漸く見えてきた希望であり、それは非常に迅速に行われ、時期に適い、誰もが落ち込んでいた時期でした。その後、誰かが噂を疑い、結果はまだでていないと言う。しかし彼に関わりなく、これは良い知らせだと思う。更に三日待ってください。多分、私たちの期待について検証されると思います。
皆さんが注目するキャビン型病院が正式に運用を開始した。入院患者から、動画とテキストが掲載されていた。環境があまりよくない、まだ不満があるなどの類が寄せられている。私は、たった一日で建てられた病院はまだ慌ただしさは避けられず、まだ問題を抱えているはずだ。その後の作業として直ちにフォローアップしなければならない。このように多くの人びとが一緒にいれば、すべての人を満足させることができず、患者であれば余計にそうだ。焦り、不安、或いは気持ちが落ち着かない状況のもとで、結局その快適さは、家庭には及ばない。午後武漢大学の冯天瑜さんが情報をくれた。阎志さんから、彼らはコンベンションセンターと武漢ホールにある二つの病院を担当し、彼は患者の保護に最適を尽くすと聴いた。「数台のテレビ、図書コーナー、充電サイト、ファーストフードコーナーを設置し、各患者が、毎日、リンゴとバナナを保証し、患者を暖かく感じさせるようにする」と言う。たしかに配慮すべきことがある。キャビン型病院は、おそらく責任制をとっているはずだ。阎志さんができることは、他の責任者も大半できるはずだ。武漢は、ようやく今日のようになった。だれもがもっとも困難なときを過ごし、現在は、いっそう平静を保つことができるようになった。かつては毎日走り廻っていた患者が、安寧に室内に横たわり、隔離され、医療スタッフの治療をうけられることは、なんとしても、彼らにもみなさんにも大変良いことだ。さもなければ、このような天気のなかで、そのうち、何人かが重症化し、路上に倒れることになるのです。それで、私たちは、落ち着いて耐え、この局面を制御して、やっと全ての人びとが、安寧を得ることができるのだ。
朝、中南病院呼吸器科医師の動画をみた。彼は感染したが、九死の一生を得たという。いまは元気で過ごしユーモアを交えてこの経過を語った。彼は、患者と直接接触したことで感染した。その後彼の夫人が瀕死の彼を世話したために感染したが、軽症であった。それで、彼は皆にパニックにならずに済んだのだ。今回、搬送できずに、重症化に至ったのは、多くの場合、基礎疾患をも高齢者であった。若者はたとえ感染しても、身体体質が良いため、注射と投薬、給水、休息で恢復し搬送が容易だ。彼は今回のコロナ肺炎の特性を解説してくれた。たとえば、肺の縁に感染を起こしても、鼻水などの明らかな症状がない。経験者としての彼の話は信用できる。そこで、私たちがしなければならないことは、依然として家にいて、パニックにならないことだ。発熱したり、咳があっても、自分で取り乱して浮足立つことなく、かならず冷静に対処することだ。今日政府は、すべての人びとが体温を検査するよう告示した。病院での体温検査中にも感染するのではないかと心配し、取り乱する人もいた。しかし私の知る限り、感染の疑いがある人であり、その他の人は、電話で居住区に連絡すればいい。よって誰もが危険に曝されている訳ではない。感染防止のプロセスは、日常生活と同様に愚かなことをする愚かな人がいますが、多くは、愚かな人という訳ではなく、また必ずしもすべてが愚かなことをしている訳ではない。
私について話してみる。起きて直ぐに携帯をみると、隣人から彼女の娘が今日買い物に出かけるので、ついでに買物を我が家の門まで持ってあげるので、起きたから、取りにきてというメッセージが送られてきた。丁度食べ物を持って帰ってきたら、同じ中庭に住む叔母と姪からソーセージと発酵豆腐を持ってきたので、家の門で渡すという電話がった。それで彼女から沢山いただきました。私はこれを見てまだ一ヶ月閉じ込められても、まだ食べ切れそうもない位だと思った。災難のなかで、だれもが同じに舟のなかを助け合おうとしているのだと実感した。どうもありがとうございました。
いまさっき、ブログを書き終えた。そこへ李文亮の訃報が届いた。彼は、謹告処分を受けた八名の医師の一人であり、コロナ肺炎に感染していた。現在、全武漢市民が、彼のために泪を流している。とても悲しい。
正月十四(2月7日)
封鎖から今日まで、16日である。昨日李文亮が亡くなった。とても悲しい。直ちに友人同報網に今晩全武漢人が彼のために泣こうと投稿された。それを知って、中国全国各地で彼のために泣くだろう!泪が多すぎて、ネット上に溢れて危険で不安定な状態にある。今夜、李文亮が人びとの泪のなかを別の世界に旅だった。
今日の天気は曇り、蒼天が彼に向かって哀悼をたむけたかどうかは分からない。事実、私たちは、蒼天に語る言葉を持っていない。蒼天もどうしようもないのだ。正午武漢人は、大声で叫んでいた。李文亮の親族と子供たちを私たち武漢人によって育てられた!多くの応答者。夜、李文亮が昨夜亡くなった時刻に消灯し、懐中電灯或いは携帯で空にむけ光線を放ち、口笛を吹いた。どんよりとした夜空に李文亮のひと筋の光線が放たれた。武漢人はどのようにして自らの鬱積、悲しみ、怒りを氷解できるのだろうか?このようにしか多分できないのだ。
専門家はそもそも転換点がこの元宵(訳者注:げんしょうせつ:旧暦15日)で出現すると言った。いま見たところ、まだ来ていない。昨日来たのは、李文亮の訃報だ。今日来たのが、14日間の閉鎖延長である。悲しいかな、武漢に身を置いたことのない方には分からないかもしれないが、私たちのうけた損傷は、只単に家に閉じ込められ、外出できないという事以上のものがある。武漢人は何よりも安寧と気持ちの転換が必要なのだ。これが李文亮の死が全武漢人を悲痛のどん底に陥れた原因なのだろうか?かれらをこれほどまでに泣かせ、叫ばせているのか何故か?それは、武漢人が李文亮を自分と同じ人間であり、自分の一員であり、家に閉じ込められている自分であると思うからである。
感染は以前の予測よりも深刻だ。感染速度は予測された以上に早い。その狡猾で神秘的なウイルスは経験を積んだ医師でさえ予測不能にさせた。良くなってきても突然急転直下に死の淵に追いやられる人もいる。しかし明らかに感染していても、何も起こらない人もいる。この亡霊のようなコロナウイルスは至る処に徘徊し、いつでもどこでも人の不意を突き狙っているのだ。
損傷が激しいのは、実は医療スタッフである。彼らは最も早くウイルス感染者に接触した人である。李文亮の所属する漢口中心病院だけでなく、また亡くなったのは、李文亮だけでもない。三名の医師がこの世を去ったと聴く。友人の医師から同済付属病院の彼の友人だった外科医も亡くなったと聴いた。ほぼそれぞれの病院で何人かの医療スタッフが床に倒れたのだ。かれらはみな自らの命をもって人を救う仁の心をもつ医師である。
すこし救われることがある。多くの医療スタッフの感染はその多くが初期段階であった。「人から人へは感染しない」と言われていませんでしたか?この時に医師たちを化学防護部隊のように防護することができただろうか?それは正に、「人から人へは感染しない」と言われた時期であり、同時に湖北省は全人代開催に忙しく、開催にマイナスとなる情報を封じ、多くの医療スタッフが感染し、家族に被害をもたらした。友人の医師の重症者はこの時期のものだという。現在は防護装備が揃い、感染した医療スタッフは少ない。たとえ感染しても多くは軽症である。
彼はあえて別の話題に移した。その後に段々と多くの医師が感染しはじめたのだ。だれもが「人から人に感染する」を知っていたが、敢えて大声で言い出す者がいない。何故なら言ってはならないと禁じられていたからだ。言うのを禁じられれば、だれも言わないのか?誰もが知っている事実を誰もが言わないということが問題にはならないのか?病院の幹部は、何故言うことを禁じたのか?彼らは言うことを禁じたのだ。それで私たちも言わないのか?私たちは医師として、自らの言動に責任を負っている。かれは、自分と自分の同僚に詰問し続けたのである。私は彼がこの段階で自ら行った反省に敬意を表したい。
私はこれが私たちの李文亮の死を悲しむ原因だと思う。つまり彼は、まず先に言い始め、只自分の友人に注意を促し、やはり真実をずばり告げたのである。ただ真実を告げた李文亮は処罰を受け、命を失い、死んでも誰からの謝罪もない。誰がこのような結果について、今後どのように説明するのだろうか?人は、沈黙は金という成句を用い、自分の奥深さを表すのが好きである。しかし、今回の沈黙とは何なのだろうか?私たちはまた同様な沈黙に直面しなければならないのだろうか
武漢全市は、現在に至るも依然として整然とした秩序あるものだ。数日前に比べて、楽観的であった武漢人も抑制感と閉塞感が強まった。つまり、自宅に閉じ込められた期間が非常に長く、しかも多くの家庭の空間は広くない。仮に無限なネットワークがああっても、やはり飽きてしまうことは否めない。それに各人が自分の問題を抱えている。たとえば、私と二人の兄のように、糖尿病患者は、医師から毎日歩くようにいわれている。長兄は、以前の微信に示されていた歩数は、常に一万歩を超えていた。末兄は更に毎日午前と午後に外出して散歩することが必須であった。現在、彼はまるまる16日間外出していない。私は、一日置きに一錠薬を飲まなければならないが、明日一日分しか残っていない。病院に行こうか行くまいかためらうばかりである。
さっき、武漢市民が、八台の車を運転して、李文亮を壮行する動画をみた。8という数字は、訓告処分を受けた8名を表すものだ。かれらは眼に熱い泪を貯めて、嗚咽していた。かれらは、不屈の人でもなければ、また理知的な人でもない。おそらく、これから数日、武漢人の心の問題がますます深まり、専門的整理を必要とする。ジョークなどのユーモアで沈鬱な状況を解決できるとは思えない。
正月十五(2月8日)
今日は元宵。もともと今日になれば転換点が来ると言われていたが、明らかに来ていない。ウイルスとの戦いはまだ継続している。私たちも引き続きこれまでの姿勢を堅持する。閉門、外出禁止である以上、これからも記録を続けていく。記事を書いても削除されることもあるが、書かねばならない。多くの友人から電話をもらい、次々と励まされ、
書くことをやめないで、貴女を支持しますとの書き込みだ。大変ではと心配する友人もいるが、実際はそんなこともない。友人に冗談で、以前は地下で活動していた党は、あのような困難な時も情報を発信していた。現在はインターネットが発達しているので、記事を自動で発信できる。いずれにしろ、私たちの敵はウイルスだ。私は政府と完全に一致して、政府のあらゆる行動と協力し、理解できない人びとを説得することで政府を助け、不安で焦燥する人びとをなだめることで政府を助けたい。ただ、私たちはそれぞれのやり方が違うだけであり、私はこの記述のなかで時々自分の考えを表現するかもしれない。それだけだ。
言わなければならないことは、現在の局面は初期に比べてとても良くなってきたことだ。居住区と職場は可能な限り細心の注意を払っている。昨日居住区から連絡を受け、発熱がないかどうか、家は何人かなどを尋ねてくれた。私は逐一返答した。今日作家協会の宿直担当者の李くんから電話があり、私の身体と生活の状況を聴いてくれた。また同僚も薬がなくなったと聴いたが、替わって病院に取りに行こうかと言ってくれた。
かなり悲しかったことは、今日長兄からの情報である。彼らの学校で凄腕の教授が亡くなったという。まだ53歳である。本当に悔しい。李培校長はショートメールで彼はとても勤勉で、いつもオフィイスに泊まり込んで、地味で学識豊富な人であると言う。ご冥福を祈る。
空は昨日により随分明るくなった。午後ようやく病院に行く気になった。糖尿病患者には、投薬が途切れてはいけないのだ。病院はまだ外来が閉まっていたが、医師が助けてくれて、薬局から薬をもらうことができた。病院は平常時に比べて、人影は少なく、駐車場もそんなに空きはなかった。トラックが病院の4号棟の前に停まり、これは外地からの支援物資であった。多くのスタッフが荷下ろししていたが、医師と職員の見分けが付かない。大ホールの中に看護士が並んでエレベータを待っていた。各人が台車を押し、台車には、果物や食品が積まれ、見たところこれも各地からの支援物資のようだ。彼らは階上の患者に持っていくのだろうと推測できた。病院には動き廻る患者が少ないなり、医療スタッフの忙しく動き廻る姿が多くなってきたようだ。ちょっと聴いてみたら、いまも忙しいが,主に感染症治療に忙殺されていると言う。その通りだろう。目下の最大の緊急任務である。
街頭は相変わらず整然としている。車と通行人がいるものの、少ない。私の注目したのは、街頭で最も活躍する3種類の人びとである。第一は、受注品を宅配する若者である。彼らは、小型バイクに乗り、通りを走り廻っている。第二は警官。彼らの大半が各通りの交差点、病院の門にも立っていた。寒い街頭に立つことは、実に容易なことではない。で各層の警察の労苦は相当なもので、彼らは常に各種の人びと対面しており、必要な業務を任務として執り行っている。病気で階段を降りることができない病人を警官が連れていくこともあると聴いた。階下に運ばれた病人が死んでしまったこともあり、警官も泣いていたと言う。第三は、環境衛生職員である。彼らは、ほんとうに素晴らしい。職員は少なく、街頭はとても綺麗であり、落葉しかない。彼らは職務に忠実で、清掃は真剣であり、街区全体の衛生を確保している。感染蔓延以降現在まで、彼らは常にあの穏やかな態度が私たちの目に留まっている。最も知られていない人が彼らであり、かれらは私たちの街全体を落ち着かせてきた。
最近の感染防止に関する報道をみると、湖北以外の感染蔓延が明らかに緩和され、下降曲線となっている。湖北は依然として深刻な状況にある。感染者と疑いのある者の人数の増加傾向が続き、これらは主要に初期段階の良く制御できなかった時期の感染者である。現在モジュール型病院も軌道に乗り、効果が明らかになってきた。そのため現在パニックになる人は殆どいない。只少しの鬱積が続くだけだ。モジュール型病院の環境改善に伴い、患者たちは、院内の生活に順応しはじめていた。今日あるジョークを聴いた。
ある若者が、このモジュール型に入院したが、隣のベッドの祖父と知り合いになった。彼は若者には恋人がいないと聴き、急いで一人を紹介した。その彼女もこの医院のなかにいた。彼らが交際を始められるようになった。ジョークマンは、これを「キャビン小屋のラブストーリー」と呼んだ。これは、今日聴いた最も心温まる物語だった。今日は元宵節、心温まる話しが必要である。
私に武漢への提案として、加勢してほしいと頼まれたことがある。元宵节中央電視台バーティを開催したいと言うのだ。私は、この提案には賛成できなかった。確かに湖北は感染流行地区であり、他の他省はまだ日常の楽しい時間を過ごしている。元宵节は祝賀行事であり、電視台によるカラフルに盛り上がっている様子は、確かに一般市民も気に入るだろう。湖北人は災難に耐えて、いつものように落ち着いて暮らしている。そうじぁないですか?いずれにせよ、いまはだれもが家に閉じこめられていて、お祝い品で自らを慰撫することが特に大事だ。今日同僚が湖南衛星テレビで歌手番組が始まり、心を和ませることができたと言う。
見て下さい、湖北人と武漢人はこんな感じだ。
今日の投稿はやはり削除されるのかな。
正月十六日(2月9日)
中国の習慣では、今日で正月が終わります。起きて窓を開けると陽光の明るさが初夏のようで、気持ちが一気に清々しいものとなった。私たちにはなんとこのような陽光を大切なことか。これは街を覆うスモッグを消散させ、人の心にたまる悲しみを取り除くには不可欠だ。
食事の後に携帯を見たら、丁度多くの良い情報が来ていた。良い知らせとは感染は依然として厳しいが、局面が明らかに好転している。
まとめれば、大凡以下の通りである。1.湖北省以外の新増疑感染者数が大幅に下降している。2.湖北省感染者数と新増疑感染者が引き続き減少していること、3.全国(湖北を含む)の新増重症者数が崖から落ちるように下落したこと、この情報は、期待以上の歓迎をうけている。聴くところによれば、軽症者は基本的に治癒可能であり、死亡者の多くは、遅延した治療に伴う重症者である。4.治癒率が増え続けていること、一説によれば、治癒人数が新増確定感染人数を上回ったこと、これは確証ではない。いずれにせよ、治癒者が増えればすべての患者が希望を持てる。5.米国の抗ウイルス薬レムデシベルが、臨床患者に用いられ、効果が良好であったこと、重症者でも服用による緩和効果があること。6.感染蔓延は十日前後で終息できること。最後の項目は、人びとを鼓舞するものだ。上述のすべては、すべての各分野の友人から得たものだ。ソースは信頼できるものだと信じている。
残念なのは、死亡率がまだ下降していないこと。死者の大半は、初期段階の感染者であり、入院する機会がなく、有効な治療を得ることできず、甚だしい場合、確定診断ができないまま、急逝されたこと。このような患者がどの位いるのだろうか?私に判らない。早朝にある対話記録を聴いた。調査員による斎場女性職員との問答のようだ。女性職員は,私の小説「万箭穿心」の李宝莉のように、明晰な頭脳、鮮明な思考、爽やかな話法を備えていた。彼女が述べたことは、彼ら斎場職員は、全く休みなく作業し、彼女自身も直ぐに倒れたという。怒りの中で彼女が述べたことは、官僚を呼び捨てにして叱り、官僚を犬呼ばわりして叱った。これは私の気持ちをスッキリさせるものだった。今日、二つの悪態をつく動画をみた。
武漢人は爽快で、社交的であり、義侠心を持ち、政府への忠誠が高く、省政府の役人は大小を問わず、二度も三度も交代しながらお互いを熟知する。助け合わずにどうするのか?このような大惨事が耐えられない程大きければ、懸命に耐えなければならない。私はこの点で武漢人を尊敬する。しかし、それを支えたいと思う反面、むしゃくしゃするときがある。私はあなたに替わって支える一方で、あなたは私を叱らなければならない。武漢人は、よく人を厳しく叱るが、少しも自分の体面を損なうことなく、尚かつ祖先も巻き添えにして批判する。一部の人からすれば、武漢人によって常に死ぬ迄叱られると恐れていると思う。祖先に害が及ぶことがあっても、武漢人を責めないでください。責めたいのなら、あなた自身の軽率さと無責任さを責めてください。
最近、死亡者がどうやら私の周辺に段々と近寄ってきたようだ。隣人の従姉妹が、また知り合いの兄弟も亡くなった。友人の両親と妻が、その後旦那さん自身が亡くなりました。人びとは、泣くに泣けません。普段は、親族や友人の死をみることはないが、病気になって治療の甲斐なく死ぬのを誰も見たことがないのだと思う。親族と友人が尽力し、医師も職分を果たし、挽回する術もなく、どうしようもない事態だ。しかし人びとはしばしば受け入れ、患者は自分で命運を受け入れるのだ。但し今回の災難は、初期の感染者にとって死だけでなく、多くは絶望でもあった。つまり、それは助けを求めて救われず、医者を求めても閉ざされ、薬を求めても適わないという絶望である。患者が溢れ、病床が乏しく、病院は不意を突かれて崩壊する。残された路は死を待つ以外に私たちは何ができたのでしょうか?今回、多かれ少なかれ、患者はいつも時代も穏やかであり、病気になれば医者に看てみもらえると考えたが、しかし死に対する心の準備もままならず、更に治療を求めないという人生を体験した。かれらの死を前にして受けた苦痛と絶望は、奈落の底よりも深い。今日、友人に毎日このような知らせを聴き、気持ちが落ち込んだり、悲しんだりしないのですかと言われた。「人から人へ感染しない、制御と防止は可能」という八文字が血と泪の街と無限の辛酸に変えたのだ。
親愛なるウエッブ管理者へ
幾つか話したい。あなた方は、やはり武漢人に発言させる必要があります。発言して私はすこし気持ちがよくなりました。私たちはみな封鎖されて十数日の間、あのような凄惨な人びとのことを見てきました。苦痛をはき出すことさえ許されず、幾つかの不満や少しの反省すらも許さないというのであれば、それはまさかみんなを狂わせたいということなのでしょうか?
もういいです。狂気になることは,問題を解決することにならない。それで死んだとしても意に介されないでしょう。言わないでください。
残された日々がまだ続く。私たちはこれからも政府と力を合わせ、門を閉ざし、家を閉ざすことに徹します。ただ転換点が早く到来し、武漢が開放され、さらに患者が完全に回復することを祈ります。
しばらくは、食事のことが、常にクローズアップされなければならない。面白いことは、多くの居住区で、有能な人材が一夜にして彷彿として出現することだ。私の弟によれば、私たちの居住区で自発的に食料品の買い物グループが設立されたという。皆がグループに入ると、グループの番号で購入することができる。一家族で一つの袋が用意される。居住区の空き地に小さな袋が並べられて、各自が順次自分の番号の袋を取りにいき、お互い接触することがない。もし食料品に不満があれば、先ず受け取ってから申し出るという。再び空き地にいき、担当者に連絡し、取り換えてもらうのだ。彼らは食料品の買い物ガイドをつくり、買い物を整然と秩序を以て行うことを目指したのだ。このようにして、みながスーパーにいく必要がなくなり、一度に人びとの食料品の買い物に関する問題を解決した。今日、同僚の居住区で食料品の買い物グループが設立され、豚肉、卵などを購入していることを聴いた。各種のセットメニューがあり、千切り肉、ミンチ、肉、赤身肉、カルビなどが掲載され、分量と価格が明瞭に示されている。二十人以上集まれば、仕分けされ、食料品が届けられ、みんなが取りに行くというものだ。同僚からこんなにいいですよ。必要ないですか?と尋ねられた。もう2週間ほど過ぎてしまいましたが、今日豚肉Cセットを注文した。合計199元。生きることはなかなか大変ですが、方法はあるものだと思う。
正月十七日(2月10日)
また曇り。但し空は明るい。私たちは依然として,良い知らせを聴き或いは待っている。動画をつくる人がいる。例えば、钟南山が、何日には外出できるようになるとか、武漢を一体どうなるのだろうかとか、そして各種の鶏や鴨が群れで外に飛び立つところ、各種の威勢良く外出して気取っているところ、各種の狂ったように傲慢に通りを歩く姿などである。もともと武漢人はなにかを実行し、人を罵るだけでなく、各種の思い入れをもっていることがわかる。
全国各地の16省は、トータル包括方式で湖北省16市を支援している。医療スタッフが先を争い、派遣に応募し、ショートカットし、髪を剃り、様々な別れと各種の動画は人びとに感動を与えた。湖北省に派遣する各省は、ただ人材を支援しただけでなく、医療設備と防護具とともに油、醤油、塩、酢など諸々の食料品を厭わず持参し、この一律的な自己持参は、持参する各省になんらの負担をかけなかったということに、武漢人の感激と泪を誘った。湖北省にきた医療スタッフは、2万人を越えた。この友誼はとても重たいものだ。
もちろん、最も派遣に応えたのは、江蘇省(私は南京生まれ。あらゆる書類に「江蘇省」と記入しなければならない。この記入欄は私にとって親しみを感じさせるものだ。)だった。これは、「蘇大強」と呼ばれ、また「十三太宝」と言われる。あらゆる冗談が続き、南京の若い嫁とからかわれた。私の同僚曹軍慶は、自宅は孝感だが、余りネットはやらないので、私たちはよくこのような冗談を彼に伝えていた。一緒に集めて皆を笑わせた。私は彼に、あなたはいま太股を抱えている、しかも特大なサイズだと教えてやった。(訳者注:大腿は、特定の分野に卓越した能力を持つ物や、能力が不足しているものを指す。)
武漢の医療スタッフの死傷者は悲惨だ。これは早くから知られていた。数日前にもここで書いた。現在援軍が到着し、しかも非常に多数の来援である。頑張ったのは、医療スタッフだけではなく、すべての湖北人でもある。辛労で持久戦を継続できない湖北省医師も漸く一息つける状況になった。数日間退屈だった冗談が再びクールに活動しはじめた。
形勢の好転は、挙国の力であり、蓄積された助け合いにある。キャビン型病院の拡充、病床の増床、援軍の到着、隔離の効果、作業の有為に加えて、武漢市民の粘り強い協力、足並みを揃えた歩み、ウイルス蔓延情勢の顕著な衰退状況にある。数日経てば,更にはっきりするかもしれない。友人の医師もそうあるべきだという。封鎖延期が何故こんなに長くなった主な原因は、やはり
1.早期の遅延によるウイルスの蔓延 2.不適切な隔離による感染の激化 3.病院資源の枯渇による医療酢スタッフ発病と治療の遅れ。
これらの一切が現在変化しており、転機がいつでも起こる可能性がある。
ネット上で洪山体育館のキャビン型病院から寄せられたメッセージをみた。ある患者は、彼の家族3人は現在の病院からこの数日で退院できるという。さらに数日で多くの軽度患者がこのキャビン型病院から完治し退院できると言うのだ。治療方法は西洋と中国医学の結合であり、中国と西洋の薬を使う。キャビン型病院の食事は「艳阳天」から提供され、「艳阳天」は武漢で非常に有名なレストランである。料理は特に美味しく、患者によれば、自宅で食べるものより美味しく、体重がかなり増えたという。このメッセージは、聴衆を鼓舞するものになった。私の知る範囲では、多くの患者はキャビン型病院にいくのが恐ろしく、難しいと感じていたため、家にいた方がよいと言われていた。しかし実際は、フォローアップを続けた結果、キャビン型病院はそんなに悪くはなく、医療スタッフが面倒を看てくれることもあり、いずれにせよ家にいるよりはマシだ。キャビン型病院にはダンスなどに適したオープンスペースもあり、入院中の父方及び母方の叔母たちは、暇を玩ぶこともなく、自然と利用するようになっていった。私はこの動画に大変驚いた。武漢のおばさんたちは、ほんとにくじけることなく、ウイルスと戦うだけでなく、スクエアダンスをしっかり踊っている。私たちはこのダンスを「スクエアキャビンダンス」と呼ぶべきでしょうか?
削除されるのが恐くなってきた。私が吉報だけで、凶報は伏せておく人になりそうだからだ。実にこれは吉報であり、心底からみなさんと共有したかったものであり、長らく待ち望んでいたものだ。ネット上には驚くような論議、専門家の理に適った分析に加えて、各種のどうでも良い噂話が混在する。武漢に身をおく人びとは,雑談のなかでもそれらの話しを知りたくないのだ。私たちの現在の関心は、只自分自身のことだ。病人が少なくなっているのか、入院しているのか、治療は効果的なのか、死亡者数は減っているのか、送った料理はいつ着くのか、私たちはいつ外出できるのかということを気にかけているのだ。
悪い知らせに心が痛む。同済付属病院の臓器移植専門家林正斌教授が今日昼に亡くなった。62歳だ。エネルギーに満ち溢れ経験豊富な人だけに人びとを嘆息させた。同済病院は、華中科技大学の付属病院である。3日間で二人のエリートを相次いで失い、華技人に心痛めないものはいない。李文亮の所属する漢口中心病院眼科にすでに2名の医師が気管挿管治療(訳者注:口または鼻から喉頭を経由して「気管内チューブ」を挿入する気道確保方法。)の段階にあるという。更に悪いことに李文亮の死を契機に寄贈者が漢口中心病院に当たり散らし、病院に寄付しないと示唆したという(これは本当かどうか確認できない)。武漢中心病院の医療機器の配備は緊急を要する。もし李文亮が天からこの情報を知ったならば、他の誰よりも悲しむに違いない。
正月十八日(2月11日)
今日の天気は昨日と同じのようだ。曇りだが、少し明るい。
午後、ある写真をみた。日本から送られた支援物資に貼られた詩だ。それは「両地の青山は同じように雲で陰り、雨露で潤い、同じ月の下にいる私たちは、どうして2つの場所に身を置くというのか」というものだ。感動した。また別の動画をみた。オスカー賞受賞の際のコメントだ。彼は嗚咽しながら話せない人に替わり話したという。これも感動した。ある人がビクトル・ユーゴーを引用した文章を読んだ。沈黙はある意味虚言に等しい。これは感動できず慚愧に堪えない。そうだ!慚愧を選ぶ以外にない。
これ以上、救いを求めて怒鳴り散らす動画を見たいと思わない。私は自分がどんなに理性的であっても受け入れ難いときを知っている。同時に自分とはるかに敵わない人に対して、その人を怖がるのは自然なことだ。現在私たちにとても重要なことは顔を上に向けて希望にむけて人びとと折り合って暮らすことだ。多くの困難と向き合いながら努力する人、例えば火神山、雷神山両病院を建設する人びと、必死に暮らしながら自分らしい力を発揮する人びと、たとえば貧困にうちひしがれながらもこれまでに蓄えた貯蓄から寄付を怠らない老人(私たちはかれらの寄付を非課税にすることに賛成です)、くたくたに疲れ果てながら、敢然と職場をしっかり守る人びと、たとえば感染のリスクを冒しながらすべの医療スタッフ、また街頭を日夜走り廻る各種のボランティア達に目を向けることだ。まだまだたくさんある。かれらをみれば、直ぐにわかるはずだ。今日ここに至って、私たちは決してパニックも自滅もできないはずだ。もし私たちがパニックになったり、自滅してしまうならば、それは彼らのすべての努力が徒労に帰すからだ。従って、どんなに凄惨な動画や恐ろしいデマに遇っても、パニックになったり、自滅してはならない。
いま私たちにできることは、自分をまもり、家族を世話し、指揮に従い、完璧に協力しあうこと。歯を食いしばり、門を閉じドアを閉じることだ。大声で叫ぶこと、全く感染にかかわりのないことも問題ない。テレビドラマをみたり、以前罵られた娯楽三昧の番組を楽しんだり、これも自分が生き残るための術というものだ。これも私たちの貢献だ。
いずれにせよ、現在は確かに好転期だが、誰も期待がこんなに早く到来するとは思っていない。好転は希望に過ぎないのだろうか?湖北を除き、他省の感染状況は基本的に転換点を迎えている。湖北は、他省の支援のもとに、いま転換点に向かって邁進しているところだ。今日キャビン型病院から多くが退院した。完治した患者に笑顔が溢れていた。これは作り笑いではなく、心からの笑顔だ。この笑顔はほんの前まで街に溢れていたものであり、今日長く失われていたものを見た思いがした。しかしこのようなことが始まったとはいえ、今後街に笑顔が溢れるのはそんなに早く来るのだろうか?
そういえば、武漢のこの街に私が暮らしはじめてから、60年余りになる。2歳の時から両親に南京からこの地に連れられて、それからというもの、ここを離れたことがない。私は幼稚園、小学校、中学校、高校、大学に通い、仕事を始めた。ここでポーター(それが百歩亭である)、編集者、作家として働いた。江岸区に住みはじめ、洪山区に通学し、武昌区に定住し、江夏区で作家を辞めた。
大学を卒業して30年余り、私は各種の身分で幾多の会議に参加した。私の隣人、同窓生、同僚、同業者し、知り合い、友人、会友は殆どがこの街の一隅に身を寄せている。本当に身近にいて、既知の友人である。私はネット上の日記で、泣きながら父の救命を叫ぶ女性の父を知っている。彼も作家である。80年代、私は放送局で彼と仕事をしたことがある。この数日間、脳裡に浮かぶ彼女の父の姿をずっと追いかけていた。この死がなければ、彼のことは思い出すことがなかったかも知れない。
私の記憶の根っ子はこの街と深く繋がっていて、幼稚園から老年に至る間に知り合った武漢人と結びついている。私はそういう意味で生来の武漢人だと思っている。二日前にネットの友人からメールを頂いた。彼或いは彼女は私にある文章を転送してくれた。それは、私自身もうすっかり忘れてしまっていた文章だった。それは前世紀のある年陈晓卿が中央電視台の「人と街」と題するドキュメンタリーを主幹した時でした。その時に私が武漢をテーマにエッセイを書いたのだ。「武漢は、世界の数多の街に比べて、居心地のよい街ではない。特に気候が煩わしい。それでは一体どんなところが良いのか?その歴史文化か?その風土と人柄か?或いはその美しい湖と山か?いやすべてが違う。武漢が好きなのは、私自身が武漢を知り尽くしているからに他ならない。何故なら全世界の都市を眼前に並べられたとしても、武漢にだけ精通しているからだ。大勢の人びとがあなたに向かってきたとき、たったひとりの顔があなたに微笑みかけてくれたら、あなたも親しさを込めて笑みを返すはずだ。このひとりの顔が武漢なのだ。」このドキュメンタリーが放送された後に画家唐暁河から電話をもらい、あなたのあの段落の文章は秀逸だと褒めてくれたことを思い出した。これも私たちの考え方だ。唐先生と夫人程犁先生は、私に比べて武漢暮らしが更に長い生粋の武漢人だ。
つまり、武漢暮らしが長ければ、武漢の無数の人びとと密接に繋がり、それ故にこの街の命運に不安を感じ、その苦難に深く悲しむことになるのだ。さばさばしていて、単刀直入で訳もなく大笑いする武漢人。その話し方が大声すぎるために他省人に喧嘩と見られる武漢人。花火、忠誠、自信、絶望に満ち溢れる武漢人。あなたはよく知っているはずだ、彼らは熱狂的でしたたかだ。今日、彼らの多くが苦しみ、死に神と競い合っているのだ。私、或いは私たちはまったく助けることができない。ただネット上で注意しながら聴くことしかできない。皆さん構いませんか?敢えて聴くこともできない。返信のないことを恐れているからだ。小さい時から老いるまでずっと武漢に住んでいる人は少ないので、このような気持ちになるのは難しく、このような痛みを理解するのも難しいかもしれない。二十日にわたり、私は毎日睡眠剤を飲んで眠りに入ることができる。結局勇気が足りなかったのは、私自身のせいなのだ。もうよしましょう。
午後、自分のために4種の料理をつくり、3日間食べる分を準備した。過去数日間のその都度の食事を混ぜ合わせたものだ。ご飯も炊きあがった。我が家の16歳の老犬のドッグフードがもう既になくなった。彼は2003年のクリスマスの夜に生まれた。クリスマスプレゼントの様だ。その時私は病院で手術を受けた後でした。娘が家で驚きびっくりして、赤ちゃんを一匹一匹見ていました。白い子犬はおもちゃのようだったので、名前がつけられ留めおかれたのだ。このようにして、彼とは我が家でたっぷりと16年も暮らした。春節前に淘宝のペット病院に行き、ペットフードを買ったが、それ以来寄っていない。先方からそれはどうしようもないと言われた。封鎖の前に私はわざわざペット医院に行き、ペットフードをすこし買っておいた。予想外だが、はるかに足りなかった。電話でペット病院の医師に聴いたら、彼にご飯を食べさせてもいいと言われた。そこで以後ご飯を炊いて、彼の分を用意しなければならない。
食事を支度していた時、同僚から彼女の同窓生が午後市内の産婦人・小児科で、帝王切開で無事、8斤4両(訳者注:4200グラム)のまるまるとした子供を出産したと聴いた。彼女は、新しい命の到来は、人びとを幸せにすると話していた。これは、今日の最良の情報だ。新たな生命の誕生は、まさに神の与える最高の希望だ。
正月十九日(2月12日)
封鎖から21日目。すこしぼんやりしている。私たちはこんなに長く封鎖されているのか?私たちはそれでも仲間グルールで笑えるだろうか?お互いにからかうことができるだろうか?落ち着いて自分の食べたものが振りかえることができるだろうか?私たちは本当に強いのだと思う。
床に横たわりながら、携帯を開き、同僚の同報網を読んだ。彼女はキッチンからリビングまで3キロジョギングしたという。これはとても凄いことだ。この感覚は、東湖に沿って景色を見ながらジョギングするのとは全く違う。年を取った私なら眩暈に見舞われるに違いない。
今日の空は、とても明るい。午後になってすこし陽が射し冬空に輝きを添えた。
居住区への閉鎖令は、昨日すでに各地社会福祉エリアに通達された。すべての人が外出を許されない。この命令は、一層厳格な隔離を下達するものだ。この長い間の体験で多くの悲劇をみてきている私たちは、誰もが理解し、穏やかに受け入れた。
各家庭の食事の問題に配慮し、基本的に各居住区の現実的条件に沿って、各家庭は3日乃至5日一人買い物に外出できる。このため武漢人は数日分に分けた買い物と食品の備蓄をしなければならない。今日、同僚が夫を「ボランティア担当」に指名したと聴いた。彼らの自宅分を買うだけでなく、私と楚风家の食材を一袋分買い、且つ各玄関に直接届けるのだ。私は感染リスクの高いグループに分類されており、楚风は、腰痛で動けないので、私たち両家が支援対象となった。食材袋で買えるのは肉、卵、鶏手羽と野菜、果物である。以前の封鎖前には我が家の食材がこのように揃うことはなかった。私は以前毎日100グラムの米と一つの料理の分量があればよかったので、私は同僚にこれは三ヶ月分食べられる分量だと話した。
長兄から、彼らの居住区では一つの門だけ開閉し、各家は三日置きに一人が外出できると聴いた。末兄からは、居住区に買い出しボランティアが、毎日外で各家庭の買い物と必要食品を買うと言われた。各家庭がリストを提出し、彼らがそのリストに従って買い物に行く。末兄家は、彼らに野菜、卵、調味料、消毒剤そしてカップ麺を買ってもらうのだ。居住区の門前にて引き渡される。末兄によれあ私たちは数日外出してしなくとも大丈夫だという。漢口中心病院の真向かいにある末兄の居住区は、二日前に最も感染リスクのある居住区のトップに上がられていた。末兄は、「私たちも頑張る。二月末迄には良くなることを期待したい」と話した。
その通りだ。これは殆どの人びとの願いだ。
困難なときにも、やはり多くの心ある人びとがいる。雲南の作家张曼菱から動画が送られてきた。それは当時下放(訳者注:文化大革命時代:1966年〜76年、大学生や知識人などを再教育と称して農村に送られた)された盈江県が湖北省宛に寄贈した支援物資、100トン近くのジャガイモと脱穀米であった。彼女はここを『青春祭』の故郷と言う。『青春祭』はあの世代の誰もが見た映画だ。私たち同世代の青春の記録だ。私は何度雲南に行ったが、盈江を知らない。これを機会に深く記憶に刻みたい。
食事をとりながら、ネットをざっとみている。多くは、やはり数日前からの古い情報だ。誇張的なものが依然として多い。友人達が重複して投稿されたもの、表紙を変えただけで内容はそのままのもの、交錯して発信されたものなどだ。携帯の容量が足りなくなるので、そこでネット管理者がやるように削除ストームをはじめた。
新しいコンテンツが本当に少ない。感染がよい方向に転換し、跋扈するウイルスはどうやら衰弱する兆候を見せはじめたのかもしれない。この数日或いはより早く転換点に達したかもしれないが、初期の重症患者は依然として次々に亡くなっている。但し私はある種の不安を覚えている。救いを求める患者は確かに減っているが、同時に武漢人の自己嘲笑も減っているからだ。私の感覚には両面がある。一つは、感染防御がより秩序だって進み、関連する諸般の活動が軌道にのりつつあり、患者の救済を求めれば、対応できつつあること、もう一つは、武漢人はどうやら閉塞しはじめているということだ。
武漢では、殆どの人びとが精神的な損傷を受けている。これは恐らく不可避的なことだ。それは家に閉鎖されて二十日余り、健康な人びと(子供も含む)、或いは嘗て冷たい雨のなかで走り廻った患者、さらに親類を遺体袋に入れて車で見送った家族、及び一人一人の患者の死を見て救命に無力だった医療スタッフなどにとって言うまでもない。これらの損傷は、相当長い間苛まれ、悩まされる。感染蔓延後、恐らく多数のカウンセラーが来漢することが必要だろう。可能であれば当分社会福祉エリア毎に一人一人に対して心理治療を行う必要がある。人びとは発散し、泣き、訴え、安寧が不可欠だ。武漢人の痛みはスローガンを叫んで緩和されなることはない。
今日の気分はとても耐え難い。凄く不快な思いだ。
幾つかの都市から、武漢の斎場を支援するために人びとが派遣されている。支援者はみな、旗を掲げて、記念写真をとり、ネット上に投稿する。支援者はとても多いが、これを見たひとはどのようにしたらよいかがかわからず、心が痛めつけられ、恐れおののいている。彼らの来援を感謝したいが、一言言わせてほしい。大々的に気勢を上げることがその場に相応しいとは全く思えない。私たちを怖がらせないようにしてくれませんかと。
政府が公務員に草の根活動を要求することは大変よいことだ。私は多くの公務員が職務に尽力していることを疑わない。但し友人が私に送ってくれた動画に現場に降りてきた公務員が赤旗の前で記念写真を撮り、赤旗を掲げて立ち去るシーンがあった。観光地にきたような印象であり、苦難による沈鬱な面持ちの感染エリアですることではない。写真を撮り終わると、彼らは身に着けた防護服を道沿いのゴミ箱に投げ入れたのだ。友人は、彼は何をするつもりなのでしょうか?また何処で教育されたのでしょうか?これが彼らのやり方なのかと言った。彼らは以前から何をするにしてもまず外見的なことで自画自賛することに馴れている。もし草の根が日常的なことだとするならば、彼らは赤旗を翻して出勤するようになるのだろうか
上段の件を書いている時に、同窓生網で動画が掲載された。それは人びとに一層相応しくないと思わせるものだった。あるキャビン型病院におけるある指導者の視察動画のようだ。一群の役人と医療スタッフと患者の十数人のものだ。彼らはマスクをつけたままベッドに横たわった患者にむかって「共産党がなければ、新しい中国はない」の歌を歌っていた。この歌はだれもが歌えるものだが、病室のなかで声高にして歌う必要があるのだろうか?あなた方はベッドで寝ている患者の気持ちを考えたことがあるのだろうか?ここは感染症病棟でしょう?患者は肺で呼吸できないのではないだろうか?
今回の湖北の感染蔓延は何故このように深刻なのか?湖北の役人が何故ネット上で市民から非難されているのか?湖北の対策が何故一度ならず二度三度も失敗したのか?一つ一つの間違いが人びとの苦難を一層強めている。現在に至っても誰一人として少しも反省していないではないか?転換点にもまだ至っていない。人びとはまだ災難の渦中にあり、市民はまだ家中に閉ざされたまま、このよう時に差し迫って赤旗を掲げて党を賛美する歌を歌う必要があるのだろうか?
さらに言いたい。何時、公務員たちに出勤前に旗を掲けさせずに一緒に写真を撮らせないことを行うのだろうか?何時、指導者達は恩義の歌を歌うことも、人を騙す演技を行うこともなく視察するのか?人びとは、基本的な常識しか理解していないかもしれないが、実利と呼ばれることは知っているはずだ。そうでなければ、市民の苦難は終わりようがないのではないだろうか?
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by inmylife-after60
| 2020-08-08 17:03
| コロナウイルス
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