削除された文章〜「ホイッスルを見つけた人—艾芬」

武漢中心病院救急科艾芬主任(部長)
ここに紹介する文章は、武漢中心(センター)病院救急科艾芬主任の、中国雑誌「人物」3月号「武汉医生」に掲載された記事原文を翻訳したものです。
艾芬主任は、昨年12月30日にコロナウイルスによる人・人感染が正に進行していることを発見し、武漢市医師ネットワークにこの情報を提供したところ、武漢センター病院监察科科长から呼び出されて、「デマを流した」とされ、訓戒処分を受けた。
その結果、1月20日まで、感染情報の病院以外への情報提供を禁止され、約3週間にわたる感染とその蔓延が隠蔽され、院内集団感染が培養され、これが医療スタッフによる家族・友人への感染を誘発し、更にこれを媒体にして感染が爆発するという「負のスパイラル」が武漢の「医療崩壊」の悲劇を引き起こしたという経緯を詳細に渡る現場情報として記述したものです。
この原文は、ネット検索でダウンロードした:削除された文章〜「ホイッスル(警笛;警告)を見つけた人—艾芬」に掲載された文章を翻訳したものです。
この「ホイッスルを見つけた人」というタイトルは、本文にも掲載されている通り、処分をされたが、私は「ホイッスルを鳴らした人」ではなく、ホイッスルを鳴らせなかった人」として、もっとこの情報を拡散すべきだったと非常に後悔していることを告白し、自分は、例えれば、「ホイッスルを見つけた」に過ぎないことを表現したものと思われる。
この文章には、病院による処分の経緯、他言を禁ずる措置による医師の感染拡大と重篤化、家族と医療スタッフ感染、また診察の実態と死亡証明書発行など、センター病院の診察現場の実態が克明に綴られている。同時に医療崩壊のなかで、艾芬主任の率いる救急科職員が理不尽な情報隠蔽による感染爆発にどう対応して、元気に活動を続けることができたのかも記されている。
この文章は、現在中国で大きな話題になっており、それは、この記事が発表されるや、直ちに削除され、削除されるや、直ちに復元・複製されている文章となっており、ネットユーザーによる今回のコロナウイルスの地方政府の初期の「情報隠蔽」に対する忌避とともに、中央政府への抗議と告発の意志表示になっている。
世界的な規模における新型コロナウイルスの発生源である武漢で、どのようにして感染が広がり、どのように医療崩壊が進んだのかを知ることは、中国政府が、自国の防疫措置を誇り、世界は中国に感謝すべきとの言説の流布を阻止するためにも不可欠です。
今回の新型コロナウイルスによるバンデミックは、もとを糾せば、武漢政府と北京政府による情報の隠蔽に起因し、共犯者であることを忘れてはならない。北京政府は、コロナウイルスとの戦いを防疫戦争として位置づけ、その制圧に勝利したことを宣言しようとしている。しかし本質は自作自演の「勝利宣言」に他ならない。
「戦争の最初の犠牲者は、情報である」という格言がある。今回の武漢に由来するコロナウイルスの感染蔓延の最初の犠牲者も、「情報」であり、この格言の普遍性を実証したものだと思う。
[武漢中心病院について]
武漢中心病院は、中国の医療機関の格付けでいえば、「三級甲等」の総合病院です。中国の医療機関は、3つの級に分類され、三級が最高位であり、「甲等」とはAクラスの意味です。病床は約4000床、職員4200人前後のトップクラスの病院です。
以下翻訳文
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削除された文章〜「ホイッスルを見つけた人—艾芬」
武漢市センター病院と艾芬本人が、過去2ヶ月以上に渡る体験とはどのようなものだったのか〜これは、艾芬が述べたものである。
前代未聞の訓戒
去年12月16日、私たち南京路医院区急診科で患者を診察していた。その奇妙な高熱は言葉にできないものだった。ずっと用いてきた薬はすべて効かず、体温は少しも引かない。22日に呼吸器科に移送し、気管支鏡検査が行われ、肺胞洗浄液が採取され、ハイスループットシーケンスに送り出した後、コロナウイルスであることが口頭で報告された。
当時、ベッドを担当する同僚が私の耳元で幾つか解説した後、「艾主任、この方がコロナウイルス患者です」と告げた。 その後患者が華南海鮮市場で働いていたことを知った。
続く12月27日、南京路医院区にまた患者が来院された。患者は私の科で働く医師の姪で40才過ぎの方だった。何ら基礎疾患を持たず、肺がダメになり、血中酸素飽和度が90%に過ぎず、下級の病院で10日間治療したが、全く改善されず、患者は呼吸器病棟に入院した。線維気管支鏡が使用され、検査のため肺胞洗浄液が使用された。
12月30日その日の正午に、同済病院の同窓生からWeChatでスクリーンショットが送られてきた。「いまは華南海鮮市場に行ってはいけませんね。高熱の人がたくさんいます...」。 彼が私に本当かどうかを尋ねてきました。その時、私はコンピューターで肺感染症の典型的な患者のCTを見ていた。11秒のCTビデオを彼に送り、これは午前中に救急科に来院された華南海鮮市場の患者だと伝えた。
その日の午後4時過ぎに、同僚は、SARSコロナウイルス、緑膿菌、46種類の口腔/呼吸コロニー形成細菌と書かれた報告を見せてくれた。 私はこの報告書を何度も読んだところ、次のように注釈されていた。「SARSコロナウイルスは一本の鎖上の正鎖型RNAウイルスです。ウイルスの主な感染様式は、近距離の飛沫感染または患者の呼吸分泌物との接触感染であり、明らかに伝染性を持ち、多臓器系に影響を与える特殊な肺炎を引き起こす可能性がある。」

最初のコロナウイルス発症を報告する検査文書
その時、私は冷や汗が垂れ、これは大変なことになると思った。 患者を呼吸器科に入院させ、ルールに従い呼吸器科から報告されるべきでだったが、保険として注意すべきだと感じて、私はすぐに武漢センター病院の公衆衛生部と医院感染管理科に電話で報告した。 当時、私たちの病院の呼吸器科主任がたまたま私のドアの前を通り過ぎていくのを見て、SARS治療に参加した先生だと思い、私は彼を捕まえて言った。 「私たちのある患者がそちらの科に移送しました。こんなものを発見しました」と告げた。彼はそれを見るやいなや、「そうだったら面倒だな」と告げた。 私もようやくこれは大変なことになると悟った。
武漢センター病院への電話を終えて、この報告書を同窓生にも配布し、「SARSコロナウイルス、緑膿菌、46種類の口腔/呼吸コロニー形成細菌」という箇所に意図的に赤丸を描いた。 それは彼らに注意を喚起させ、重要視させるためだった。 また感染予防策を講じるために、報告書を科員の医師に送った。
このことはその夜に広まり、転送したスクリーンショットは私が赤丸で描いた写真だった。これには、後に李文亮がグループで引き継いだものも含まれていた。 その時、私はそれが悪かったかもしれないと思った。10時20分、病院からメッセージが送られてきた。これは市衛生保健委員会が転送した通知だった。主なポイントは、原因不明の肺炎について、市民にパニックを引き起こさないために勝手に外部に告知してはならず、もし情報が漏れてパニックを引き起こした場合、責任を追及するというものだった。
その時、私はとても怖かったので、すぐにこの情報を同窓生に伝えた。1時間後に病院から送信された通知は、再びグループ内に関連ニュースは配布できないことを強調するものだった。 翌日1月1日午後11時46分に、病院の監察科科長から翌朝までに私と面会したいというメッセージが送られてきた。
その夜、私は眠れずに、心配で何度も繰り返し同じことを考えていた。すべてには常に二つの側面がある。たとえそれが悪影響を引き起こしたとしても、武漢の医療スタッフに予防措置を取るように想起させることは必ずしも悪いことではない。 翌朝8時にシフトを終える前に私は科長に電話した。
面会で、私は前例のない非常に厳しい叱責を受けた。
その時、面会した科長は、「会議に出席しても、頭が上がらない。某主任は病院の艾芬を批判した。貴女は、武漢センター病院救急科の主任として、原則もなく、組織規律もなく、どうしてデマをとばすのか」と告げた。これは言われた通りの言葉である。また私に職場200人にWeChatやSMSで送信してはいけない。当面は顔を合わせて話し、電話することはできるが、この肺炎についてはどのようなことも話してはならない。 「例え夫にさえも話してはならない」と告げられた。
私はとてもびっくりした。彼は私たちが一生懸命働いていないとは批判しなかったが、武漢の好調な発展を私ひとりが破壊したかのように叱責した。 当時、私は非常に切迫した状態だったが、私は真面目で勤勉であり、自分がしたことはすべてルールに従って行われ、どのような間違いを犯したのかと感じていた。 私はこの報告を読み、病院に報告した。
私は、同窓生、同僚との間で、特定の患者に関する情報を交換し、患者の個人情報を明かすことなく、医学生同士が治療案件を話し合うのと同じ様に、臨床医として患者の身体に発見した重要ウイルスがあることを知り、別の医師に問い合わせをした。貴方はどうして話さないことができようか?これは医者の本能です。そうでしょう?私は何を間違えたというのでしょうか?
私は、医者として、人として常になすべきことをやった迄だ。私が感じた誰もがすることを私が代わりに行ったのだ。
私は非常に感情的でした。このことは、私がしたことであって他の人とは何の関係もないと告げた。貴方は私を逮捕して刑務所に連れていくだけだ。 私はこのような状況のなかでこの職場の職責のまま働き続けるのはふさわしくない、しばらく休職したいと話した。 幹部はこれに同意せず、これは私に試練を与えるためのものだと言った。
私はその夜、自宅に帰った時のことをはっきりと覚える。ドアから入ると、夫に話した。何かがうまくいかなかった場合、あなたは子供を育てることができるでしょう。私の二人目の子供は幼く、やっと1歳を過ぎたばかりだったからです。その時の彼の表情はことばに言い表せない位のものだった。私は彼に自分が訓戒処分にされたことを話さなかった。1月20日、钟南山が人・人感染を話したときにはじめて、私は彼に何が起こったのかを彼に話した。 その期間、私は家族に混雑した場所に行ってはならない、外出するときにマスクを着用するように言い付けるだけだった。

感染防護服の着用点検を行う医療スタッフ
周辺病棟
多くの人々は、私がこれら八名の一人として訓戒処分を受けたことを心配してくれた。実際、私は公安局から訓戒を受けてはいなかったが、その後親友が私にあなたは笛を吹いた人ですかと尋ねた。 私は笛を吹いた人ではなく、笛に気が付いた人であると言いました。
しかし、その面談は私にとって非常に大きな衝撃でした。 帰宅して心が壊れたように感じ、本当に一生懸命働いてきたと思い、みんなからもう一度尋ねられても、答えられませんでした。
私にできることは、救急科の防護対策を集中的に準備することでした。 救急科には200人以上の職員がいます。1月1日から全員に防護対策を強化するよう指示した。 ある日、勤務中にマスクを着用しなかった男性看護士を見つけ、私はすぐに「今後は、マスクなしで仕事に来てはいけない」とその場で叱りました。
1月9日、私は退勤の際に診察台で皆に対して咳をする患者を見かけた。その日から、私は、診察に来る患者一人にマスク一枚を与えて着用するようにした。この時期は、お金を節約するつもりはなく、当時は、外には人・人感染はないとしていた時期でしたが、私はこの医院ではマスクを付けて防護対策を強化することを重視していました。全くの矛盾でした。
その時は本当に憂鬱で非常に苦痛でした。 ある医師が隔離服を外套着にできないかと提案されたが、医院の会議では許されず、隔離服を外套着にすれば、パニックを引き起こすとされた。私は、科員に隔離服を白い中国服(大褂)で覆えばと話したが、これは仕様外であり、馬鹿げていました。
私たちはなす術もなく益々多くの患者を往診し、感染区域の半径がますます広がった。華南海鮮市場と関係する可能性があり、その後感染が更に広がり、半径がますます広くなった。多くは家庭内感染であり、最初の7人は母親が食事を子供に与えることで発病した。診療所所長が発病し、注射を受けた患者に感染したりなど大変重大な事態となった。私は、人・人感染であることを知っていた。もし人・人感染がなく、1月1日に華南海鮮市場を閉鎖したのに、どうして患者が益々増えるのか?と思っていた。
私は、いつももし彼らが私をあの様に叱責しなければ、或いは落ち着いてこの案件の経緯を聴き呼吸器科の専門家と一緒に情報交換をお願いしていれば、たぶん局面はもっと良くなり、私は少なくとも院内の情報交換が多くできると思っていた。もし1月1日に皆が警戒を非常に強めていれば、このような多くの悲劇はなかったのだ。
1月3日午後、南京路医院では、泌尿器科の医師が集まって元院長の仕事の歴史を振り返り、ここに参加した胡卫峰医師は今年43歳で現在レスキュー隊員である。1月8日午後、南京路医院の22階で、江学庆主任は武漢市で乳がん患者のリハビリテーションパーティーを開催した。
1月11日早朝、私の科員から急診科救護室看護士胡紫薇の感染が報告され、彼女は、武漢センター病院で最初に感染した看護士となってしまった。私は最初に医療科科長に電話で報告したが、医院側は緊急会議を開催し、会議は「2つの肺感染症、ウイルス性肺炎」という報告を「2つの肺散発感染」に変更するように指示された。 1月16日最後の週次会議で副学長は「誰もが少し医学知識を持つ必要があります。一部の上級医師が自ら自分自身を怖がらせるべきではありません」。別の幹部が就任して続けて言った。 「人・人感染がなければ、防疫、治療、制御は可能だ」と言った。
明日1月17日、江学庆が入院し、10日後に挿管されてECMO(エクモ)を受ける予定と言う。
センター病院の代償は非常に大きく、私たちの医療スタッフの透明な情報交換がないことに関連していた。 倒れたスタッフを見ると、救急科と呼吸器科職員の症状はそれほど重くない。私たちに防護意識があれば、発病しても、すぐに休んで治療できた。 最も重かったのは、周辺の専門科であり、李文亮は眼科医であり、江学庆は甲状腺・乳腺科医だった。
江学庆は本当に高い医療スキルを持つ非常に優秀な人物であり、センター病院で二人いる医師賞受賞者の一人だ。 私たちは隣人であり、同一の社区でした。私は40階に住み、彼は30階に住んでいた。関係はとても良いのですが、仕事が忙しすぎているので、会合や病院でしか会えません。 彼は手術室や診察室で常に仕事の虫でした。 誰もが彼にわざわざ、江主任に注意し、あなたはマスクを着用すべきだと勧めることもありませんでした。 彼はまたこの件について問い合わせる時間とエネルギーを持っていなかった。彼はそれを大筋で了解していたに違いありません。「問題は何ですか?それは肺炎でしょ。」これは、彼の科員の方が私に伝えてくれたものだ。
これらの医師がタイムリーな注意喚起があれば、おそらくこのような日を迎えることはなかっただろう。当事者として非常に後悔している。今日のことは早くからわかっていた。彼らから批判されようがされまいが、我々は至る処で拡散すべきだったのだ。
私は李文亮と同じ病院にいたが、私は彼が亡くなるまで彼のことを知らなかった。医院は4,000名を越えるスタッフを抱え、いつも忙しかったからだ。 彼の死の前夜、ICU主任は私に救急部から人口呼吸器を借りたいと電話があり、李文亮は救助されるだろうと言った。私はこのことを聴いてショックを受けた。李文亮の病状に関する過程は一切わからなかった。しかし彼の病状は彼が叱責を受けた後に感ずる気持ちの後退と関係がないかどうか?私には関係がないとは思えない。なぜなら、訓戒を受けた時の気持ちは私と同じだと思えたからだ。
その後、事態はここまで発展して、李文亮の件を証明するに相応しい時期である。私は彼の心情を非常に理解することがきる。私の心情と同様に彼は興奮したり喜んだりはせず、後悔していた。はじめから声を大にして呼びかけ、またあらゆる質問を受けたときに、継続して応えるべきだったと後悔していた。私は何度も、もし時間を引き戻すことがきればどんなに良いだろうと思った。
生きていることが良いこと
1月23日封城の前夜、相関部門の友人から私に武漢市の急診患者の実情を問い合わせる電話を受けた。私は友人にあなたは個人なのか、それとも公人なのかを問うと、友人は個人だと告げた。私は個人であれば、本当のことを教えると答えた。1月21日、私達の救急科で1523人患者を診察し、それは平日の最も多い時の3倍であり、発熱患者は655人だと。
あの時期の救急科の状況を経験した人なら、一生絶対忘れられないでしょう。極端にいえば、貴方の人生観を180度転換する程のものだ。
もしこれが戦場であれば、救急科は最前線だ。しかし当時の情況は、背後の病棟はすでに満杯であり、基本的に一人の患者さえ受け入れることができず、ICUも絶対受け入れることができない状況だった。このような状況で、清潔な患者が医院に入ればすぐに汚染した。患者は絶えず救急科に湧きだし、背後への道は通れず、すべてが救急科に集まった。患者は来院し何時間も待機し、私達は退勤できる術もなく、発熱外来と急診も区別されず、ホールはすべて患者で溢れかえり、緊急救助室と点滴室はすべて患者となった。
また患者の家族から1台のベッドがほしいと頼まれたが、私の父の車はもうダメだといい、すでに地下の車庫は閉鎖され、父の車も渋滞で入ることができなかった。私は仕方なく、スタッフと応急装備を携えて車に駆け付けたが、見れば、患者はすでに死んでいた。わたしになにを感じたというのでしょうか。耐え難いことです。この方は車中で亡くなりましたが、車から降ろすことさえできないのだ。
またある老人は、妻が金银潭医院で亡くなり、息子と娘が感染していた。注射など彼女の面倒を看ていたのは娘婿であり、私は彼女を見て直ぐにとても重篤だと感じ、呼吸器科に連絡して収容し入院させることにした。彼女の娘婿は、教養と素養のある方であり、私に対して医師にありがたいなどと挨拶をしにきた。私は一刻を争う気持ちだったので、早くいきましょう、ここを逃したら元も子もないと告げた。結果収容することができたが、亡くなりました。一言の感謝は数秒だか、時間を逸するも数秒だ。この感謝の言葉に私の気持ちは沈鬱になった。
多くの方が、自らの親族を後見室に送る時は、それが彼らの最後の別れの場面で永遠の別れの時だ。
私は大晦日の朝、シフト交代で出勤した時、私は私達の写真を撮ろうと誘い、大晦日を記念する写真を撮って、友人グループに投稿した。その日は皆どんな祝福もしなかったが、生きていることがよいことなのだという思いだった。
以前、あなたが少しミスして、たとえばすぐに注射しないと、患者はみな騒ぎ立てていたが、いまはそういうひとはいない。あなたに詰め寄る人も、またあなたに食ってかかる人もいない。みんな、突然訪れた衝撃に打ち砕かれて、茫然自失しているのだ。
患者が亡くなり、親族がとても悲しんで泣く姿を見る機会が少なくなった。なぜかといえば、多すぎるからだ。多すぎるのだ。いくつかの親族は、医師に自分の家族をどうしても救ってくれとは言えず、医師にはいと従い、そうであれば、早く苦しみから解き放つしかないと思う。すでにこのような段階になってしまった。何故ならこの頃は誰もが恐れていたことは、自分が感染させられるということであった。
ある日、発熱外来入口の行列が5時間待ちとなった。並んでいた女性が倒れてしまった。見ると、彼女は毛皮服を身につけ、鞄を背負い、ハイヒールを穿いていた。多分とてもこだわりをもつ中年の女性なのかもしれない。しかし敢えて彼女のもとに駆け付けて、助けようとする人は現れなかった。彼女はそこに長い間倒れたままであった。私が大声で看護婦と医者を呼び、彼女を助けるしかなかった。
1月30日私は朝出勤した頃、白髪の老人の息子が32歳で亡くなったのだ。彼は医師が書いてくれた死亡証明書を見つめていた。まったく涙がない、どう泣くのか?泣くしかない。亡くなった彼の服装を見て、外来を担当していたアルバイトかもしれないと思った。しかし意見を述べるどのようなルートもない。最終診断を受けることなく、彼の息子は、1枚の死亡証明書へと変貌した。
これも私が行って呼びかけたかったことです。救急科で亡くなった患者は、診断をしておらず、病例を確定診断する術がないのです。この感染が過ぎ去るのを待って、私は、彼らに替わってかれらの家族になぐさめ、安らかにさせてあげたいと思う。私たちの患者は、可哀想だ。本当に可哀想なのだ。
「幸運」
医師としてこのように長く仕事をしてきて、私はずっと私を打ち砕くどんな困難もないと思ってきた。これが私の経歴であり、個性だと。
9歳の頃、私は父を胃癌で亡くし、その時大きくなったら人の命を救う医師になりたいと思った。大学入試のとき、私の志願先はすべて医学科であり、そして同济医学院に合格することができた。1997年大学を卒業し、武漢センター病院に就職し、以前は心臓血管内科に勤務し、2010年に救急科主任に着任した。
私は救急科を私のひとりの子供と思い、私はこれをこのように大きくし、みんなを団結させてきた。この局面をつくるのは容易ではなかったが、だからこそ、とても大事にして、この集団を大切にしてきた。
数日前、私の看護士が友人グループに以前の大忙しの急診科が懐かしいと投稿した。その忙しさの概念とは2つの意味があった。
今回の疫病発生の以前は、心筋梗塞、脳梗塞、消化管出血、外傷などが私たちの救急科の範囲であった。その時の忙しさは、達成感のある忙しいさであり、目的が明確で、各種のタイプの患者に対して流暢な流れを持ち、手順が決まっており、次に何をして、どのように措置し、問題に対してどれか一つを捜せば良かった。今回は、最初このような重篤な患者に対してどのように対処すべきかの方法がなく、入院を受け入れる術がなかった。また、私たち医療スタッフは各種のリスクを抱えており、本当にどうしようもありませんでした。本当に心を痛めました。
ある日の朝8時、私達急診科の青年医師が微信で私にメールをくれた。彼は今日、具合が悪いので出勤できないと言う。私達の医院にはルールがあり、ひとり具合が悪く出勤でない場合は、予め別の医師を手配しなければならない。貴方から8時になって言われも、私はどこで補充をさがせばいいのと言うと、彼は微信で私に癇癪を起こし、大量にいる擬似患者は、貴方が指導する急診科から社会に戻すべきだと言う。これでは、私たちは不忠者になってしまう。私は、彼が医師の良識として理解できたが、しかし急を要した。私は、貴方に私を訴えることができると告げた。もし貴方は救急科の主任だったら貴方はどうするべきだと思いますか?
その後、この医者は数日休んだあと出勤した。彼は死ぬことや、疲れるのが嫌なのではなく、このような情況に遭遇した場合、このような多数の患者に対面すれば、もう崩壊すると感じたと語った。
医師のなかにはとりわけ後方から支援に来る医師は、心理的に受け入れることができず、このような情況は、無知蒙昧であり、泣いてしまう医師、看護士がいる。ある人は同僚に対して泣き、ある人は自分に対して泣きます。それは、みないつ自分が感染する番になるのがわからないからだ。
たぶん1月中下旬には、医院の幹部がみな続々と病に倒れ、私達の各部門主任と3人の副院長も倒れた。医療科科長の娘も発病し、彼は自宅で休ました。従って、この時期にあってはあなたを管理できる状況にはなく、そういうあなたがそこで戦うというそういう感覚だった。
私の周辺の人も、ひとりまたひとりと倒れていなくなり始めた。1月18日、朝8時半、私達の部署で最初に倒れた医者は、CTで肺部に大きな研ぎ澄まされた影があることがわかった。しばらくして、病棟を担当する看護士責任者が隔離されたが、私に彼も倒れたと教えてくれた。夜、私達の看護婦長も倒れた。私はその時、真実だと思うことを実感した。――幸運とは、倒れるのが早ければ早いほど、戦場から離れることができることだと。
私はこれら三人とは密接に連絡を取りあっていたが、私は必ず倒れるという信念を持って日々働いていましたが、結果はずうっと倒れませんでした。全医院の誰もが私を奇跡だと言った。 自分で分析してみると、自分に喘息があれば、吸入性ホルモンを服用して、ウイルスの肺への沈殿を抑制させていたのかもしれない。
私はいつも救急科の職員を思いやりのある人だと感じていました。中国の病院では、救急科はすべての各診療科のなかで比較的低いポジションだ。いわば通路に過ぎない。患者を受け入れさえすればいいのだ。 今回の防疫でもこの軽視はずうっとあった。
初期の頃、物資が足りず、救急科に割り当てられた防護服の質が非常に悪く、私達の看護士がこのような服を身につけて勤務しているのを見て、私はとても怒りを覚え、週次会議の場でかんしゃくを起こしました。それから多くの各科の主任から自分の科で備蓄していた防護服をすべて私に提供されることになった。
さらに食事の問題が残っていた。患者の多い時には管理が混乱した。彼ら各科主任はまだ救急科の食事が粗末なものだと思っていなかった。多くの各科では勤務が終えてから、大きなテーブルで並べられた飲食用の料理が提供されていたが、ここの私達にはそれが全くなかった。また発熱外来の微信チャット内で医師らは、「私達の救急科にあるのは紙おむつだけ……」という不平が上がった。私達は最前線で戦っていて、結果がこのような状態では、時として心中穏やかではなかった。
私たちの集団は本当に良好でした。誰でもみな発病すれば、前線を離れることができたからだ。今回、私たちの救急科で40名以上が感染した。私は発病したスタッフで一つのグループをつくり、元は「救急発病グループ」と呼んでいた。看護士長がそれでは縁起が悪いというので「救急がんばれグループ」に変更した。発病したスタッフには壮絶、絶望、怨念という感情はなく、全員がとても積極的であり、誰もが助け合い、難関をともにするという心意気だった。
子供たち、若者たちはとても元気でしたが、しかし私達によって不当な待遇を受けることになった。私はこの感染が過ぎ去ったあと、国が救急科への投資を増やすことを期待する。多くの国の医療システムは、救急部門を高く評価しているからだ。
達成できていない幸福
2月17日、私は同済病院の同級生から1通のメールを受け取った。彼は私に「申し訳ない」と言うのだ。私は答えた:幸いにもあなたが伝えてきたから、直ぐに一部の人に想起させることができた。彼がもしも伝えてこなかったら、恐らく李文亮ら八名も知らず、知っている人は恐らく更に少なかっただろうと。
今回、私達の三人の女医の全家族が感染した。二人の女医者の舅と姑も感染し、一人の女医の父、母、姉、夫、彼女自身の5人が感染した。みんな早くからウィルスに感染すると感じて、結果このような大きな損失となり、その払った代償は甚大すぎる。
このような代償は各方面で続出している。亡くなった人だけでなく、患者となった人もその代償を払いつづけている。
私達の「急診がんばれグループ」で、全員がよく身体の状況を交流していたが、ある人から心拍数が120回/分になったが、大丈夫でしょうか、そうであれば、大変だ、動くと動転し、自分たちの一生に影響を与え、歳をとったときに心臓が衰弱してしまわないかと聴かれた。これはとても言いにくいことだった。他人は、山に登り、旅行に出かけることができるが、彼らはだめになってしまう。それは充分ありうることなのだ。
まだ武漢は存在する。あなたは私達の武漢がにぎやかなところだと言うが、今は、通りはすべて静かであり、多くのものが買えず、まだ全国からの応援が必要だ。数日間に広西省から来た医療チームの看護婦が勤務中に突然前後不覚になり、緊急処置をとったが、後任も動悸が激しく、やはり前後不覚になった。彼女はもしここに来なければ、自宅で楽しく過ごせただろうし、このような想定できない場面に遭遇することもなかっただろう。だから私は、武漢人は、外地の恩義の借りをまだ返していないということを痛感している、本当に。
今回の感染体験によって、センター病院の多くの職員が大きな衝撃を受けた。 私の部下の医療スタッフは、中心的職員を含めて、辞任する意向がある。この職業はこれまで持っていた概念と常識の動揺が避けられない。--あなたはそんなに一生懸命に働くのですか?江学庆と同じように。彼はほんとうに真面目に、患者を大事に治療していました。毎年、新年から手術で執刀していた。 今日、江学庆の娘さんが書かれたWeChatに父の時間はすべて患者に捧げられていたと書かれていた。
私は、自分で何度も考えていました。家に帰って主婦の役割を果たしていたのか?と。感染流行後、私は基本的に家に帰らず、夫とは別に暮らし、自宅を妹に頼み、子供らを世話してもらった。 私の二人目の子供は全く私を識別してくれない。彼に私の動画を見せても私に反応してくれません。私はとても迷いました。この二人目の子供を産むのも簡単ではなかった。彼は出生時4650グラムでした。私は妊娠糖尿病にもかかっていた。もともと母乳で育てるつもりだったが、今回もやめることにした—私がこの決断をしたとき、私はとても悲しかった。夫は私に人生にはこのようなことに逢うものだ。あなたは、一参加者ではなく、一つの部隊を率いて戦闘に参加しているのであり、それも非常に有意義なことだ。将来正常に戻れば、それは誰にも忘れられない非常に貴重な経験になるものだと。
2月21日朝に幹部が私に声をかけてきた時、いくつかの質問をしたかった。たとえば、あの日の私への批判を間違っていると感じていますか?と。私は謝罪できるはずだと望んでいた。 しかし私は尋ねませんでした。これまでいかなる処でも私にすみませんという言葉を表す人がいなかったからだ。しかし私は今でも、今回の件は、一人一人にしっかり説明し、或いは自分の確固とした考えを述べるべきなのだ。なぜならば、人が真実を話そうとするとき、そういう人がいなければならず、この世界は異なる声があることが必須だからだ。
武漢人として、私たちのなかに自分の都市を愛さない人がいるでしょうか? 私たちは今、私たちが以前持っていたごく普通な暮らしのことを思い出している。それは贅沢とも言える至福のシーンだ。私はいま赤ちゃんを抱きしめ、一緒に滑り台で遊び、夫と映画を見にいくことを想像している。これまでにないものであり、いまはそれが幸福であり、まだ達成できていない幸福だ。
以下原文
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关于武汉市中心医院和艾芬本人在过去的两个多月中到底经历了什么?以下,是艾芬的讲述——艾芬
前所未有的训斥
去年12月16日,我们南京路院区急诊科接诊了一位病人。莫名其妙高烧,一直用药都不好,体温动都不动一下。22号就转到了呼吸科,做了纤维支气管镜取了肺泡灌洗液,送去外面做高通量测序,后来口头报出来是冠状病毒。当时,具体管床的同事在我耳边嚼了几遍:艾主任,那个人报的是冠状病毒。后来我们才知道那个病人是在华南海鲜做事的。
紧接着12月27日,南京路院区又来了一个病人,是我们科一位医生的侄儿,40多岁,没有任何基础疾病,肺部一塌糊涂,血氧饱和只有90%,在下面其他医院已经治疗了将近10天左右都没有任何好转,病人收到了呼吸科监护室住院。同样做了纤维支气管镜取了肺泡灌洗液送去检测。
12月30日那天中午,我在同济医院工作的同学发了一张微信对话截图给我,截图上写着:「最近不要去华南啊,那里蛮多人高烧……」他问我是不是真的,当时,我正在电脑上看一个很典型的肺部感染患者的CT,我就把CT录了一段11秒钟的视频传给他,告诉他这是上午来我们急诊的一个病人,也是华南海鲜市场的。
当天下午4点刚过,同事给我看了一份报告,上面写的是:SARS冠状病毒、绿脓假单胞菌、46种口腔/呼吸道定植菌。我仔细看了很多遍报告,下面的注释写着:SARS冠状病毒是一种单股正链RNA病毒。该病毒主要传播方式为近距离飞沫传播或接触患者呼吸道分泌物,可引起的一种具有明显传染性,可累及多个脏器系统的特殊肺炎,也称非典型肺炎。
当时,我吓出了一身冷汗,这是一个很可怕的东西。病人收在呼吸科,按道理应该呼吸科上报这个情况,但是为了保险和重视起见,我还是立刻打电话上报给了医院公共卫生科和院感科。当时我们医院呼吸科主任正好从我门口过,他是参加过非典的人,我把他抓住,说,我们有个病人收到你们科室,发现了这个东西。他当时一看就说,那就麻烦了。我就知道这个事情麻烦了。
给医院打完电话,我也给我同学传了这份报告,特意在「SARS冠状病毒、绿脓假单胞菌、46种口腔/呼吸道定植菌」这一排字上画了个红圈,目的是提醒他注意、重视。我也把报告发在了科室医生群里面,提醒大家注意防范。
当天晚上,这个东西就传遍了,各处传的截屏都是我画红圈的那个照片,包括后来知道李文亮传在群里的也是那份。我心里当时就想可能坏事儿了。10点20,医院发来了信息,是转市卫健委的通知,大意就是关于不明原因肺炎,不要随意对外发布,避免引起群众恐慌,如果因为信息泄露引发恐慌,要追责。
我当时心里就很害怕,立刻把这条信息转给了我同学。过了大概一个小时,医院又来了一份通知,再次强调群内的相关消息不能外传。一天后,1月1日晚上11点46分,医院监察科科长给我发了条消息,让我第二天早上过去一下。
那一晚上我都没有睡着,很担忧,翻来覆去地想,但又觉得凡事总有两面性,即便造成不良影响,但提醒武汉的医务人员注意防范也不一定是个坏事。第二天早上8点多一点,还没有等我交完班,催我过去的电话就打来了。
之后的约谈,我遭受了前所未有的、非常严厉的斥责。
当时,谈话的领导说,「我们出去开会都抬不起头,某某某主任批评我们医院那个艾芬,作为武汉市中心医院急诊科主任,你是专业人士,怎么能够没有原则没有组织纪律造谣生事?」这是原话。让我回去跟科室的200多号人一个个地口头传达到位,不能发微信、短信传达,只能当面聊或者打电话,不许说关于这个肺炎的任何事情,「连自己的老公都不能说」……
我整个人一下子就懵了,他不是批评你这个人工作不努力,而是好像整个武汉市发展的大好局面被我一个人破坏了。我当时有一种很绝望的感觉,我是一个平时认认真真、勤勤恳恳工作的人,我觉得自己做的事情都是按规矩来的,都是有道理的,我犯了什么错?我看到了这个报告,我也上报医院了,我和我的同学,同行之间对于某一个病人的情况进行交流,没有透露病人的任何私人信息,就相当于是医学生之间讨论一个病案,当你作为一个临床的医生,已经知道在病人身上发现了一种很重要的病毒,别的医生问起,你怎么可能不说呢?这是你当医生的本能,对不对?我做错什么了?我做了一个医生、一个人正常应该做的事情,换作是任何人我觉得都会这么做。
我当时的情绪也很激动,说,这个事是我做的,跟其余人都没有关系,你们干脆把我抓去坐牢吧。我说我现在这个状态不适合在这个岗位上继续工作了,想要休息一段时间。领导没有同意,说这个时候正是考验我的时候。
当天晚上回家,我记得蛮清楚,进门后就跟我老公讲,我要是出了什么事情,你就好好地把孩子带大。因为我的二宝还很小,才1岁多。他当时觉得莫名其妙,我没有跟他说自己被训话的事,1月20号,钟南山说了人传人之后,我才跟他说那天发生了什么。那期间,我只是提醒家人不要去人多的地方,出门要戴口罩。
外围科室
很多人担心我也是那8个人之一被叫去训诫。实际上我没有被公安局训诫,后来有好朋友问我,你是不是吹哨人?我说我不是吹哨人,我是那个发哨子的人。
但那次约谈对我的打击很大,非常大。回来后我感觉整个人心都垮了,真的是强打着精神,认真做事,后来所有的人再来问我,我就不能回答了。
我能做的就是先让急诊科重视防护。我们急诊科200多人,从1月1号开始,我就叫大家加强防护,所有的人必须戴口罩、戴帽子、用手快消。记得有一天交班有个男护士没戴口罩,我马上就当场骂他「以后不戴口罩就不要来上班了」。
1月9号,我下班时看见预检台一个病人对着大家咳,从那天后,我就要求他们必须给来看病的病人发口罩,一人发一个,这个时候不要节约钱,当时外面在说没有人传人,我又要在这里强调戴口罩加强防护,都是很矛盾的。
那段时间确实很压抑,非常痛苦。有医生提出来要把隔离衣穿外头,医院里开会说不让,说隔离衣穿外头会造成恐慌。我就让科室的人把隔离服穿白大褂里面,这是不符合规范的,很荒谬的。
我们眼睁睁地看着病人越来越多,传播区域的半径越来越大,先是华南海鲜市场附近可能跟它有关系,然后就传传传,半径越来越大。很多是家庭传染的,最先的7个人当中就有妈妈给儿子送饭得的病。有诊所的老板得病,也是来打针的病人传给他的,都是重得不得了。我就知道肯定有人传人。如果没有人传人,华南海鲜市场1月1日就关闭了,怎么病人会越来越多呢?
很多时候我都在想,如果他们当时不那样训斥我,心平气和地问一下这件事情的来龙去脉,再请别的呼吸科专家一起沟通一下,也许局面会好一些,我至少可以在医院内部多交流一下。如果是1月1号大家都这样引起警惕,就不会有那么多悲剧了。
1月3号下午,在南京路院区,泌尿外科的医生们聚集在一起回顾老主任的工作历程,参会的胡卫峰医生今年43岁,现在正在抢救;1月8号下午,南京路院区22楼,江学庆主任还组织了武汉市甲乳患者康复联欢会;1月11号早上,科室跟我汇报急诊科抢救室护士胡紫薇感染,她应该是中心医院第一个被感染的护士,我第一时间给医务科科长打电话汇报,然后医院紧急开了会,会上指示把「两下肺感染,病毒性肺炎?」的报告改成「两肺散在感染」;1月16号最后一次周会上,一位副院长还在说:「大家都要有一点医学常识,某些高年资的医生不要自己把自己搞得吓死人的。」另一位领导上台继续说:「没有人传人,可防可治可控。」一天后,1月17号,江学庆住院,10天后插管、上ECMO。
中心医院的代价这么大,就是跟我们的医务人员没有信息透明化有关。你看倒下的人,急诊科和呼吸科的倒是没有那么重的,因为我们有防护意识,并且一生病就赶紧休息治疗。重的都是外围科室,李文亮是眼科的,江学庆是甲乳科的。
江学庆真的非常好的一个人,医术很高,全院的两个中国医师奖之一。而且我们还是邻居,我们一个单元,我住四十几楼,他住三十几楼,关系都很好,但是平时因为工作太忙,就只能开会、搞医院活动时候见见面。他是个工作狂,要么就在手术室,要么就在看门诊。谁也不会特意跑去跟他说,江主任,你要注意,戴口罩。他也没有时间和精力打听这些事,他肯定就大意了:「有什么关系?就是个肺炎。」这个是他们科室的人告诉我的。
如果这些医生都能够得到及时的提醒,或许就不会有这一天。所以,作为当事人的我非常后悔,早知道有今天,我管他批评不批评我,「老子」到处说,是不是?
虽然和李文亮同在一个医院,一直到去世之前我都不认得他,因为医院4000多号人太多了,平时也忙。他去世前的那天晚上,ICU的主任跟我打电话借急诊科的心脏按压器,说李文亮要抢救,我一听这个消息大吃一惊,李文亮这个事整个过程我不了解,但是他的病情跟他受训斥之后心情不好有没有关系?这我要打个问号,因为受训的感觉我感同身受。
后来,事情发展到这一步,证明李文亮是对的时候,他的心情我非常能理解,可能跟我的心情一样,不是激动、高兴,而是后悔,后悔当初就应该继续大声疾呼,应该在所有的人问我们的时候,继续说。很多很多次我都在想,如果时间能够倒回来该多好。
活着就是好的
在1月23日封城前一天的晚上,有相关部门的朋友打电话问我武汉市急诊病人的真实情况。我说你代表私人,还是代表公家。他说我代表私人。我说代表个人就告诉你真话,1月21号,我们急诊科接诊1523个病人,是往常最多时的3倍,其中发烧的有655个人。
那段时间急诊科的状况,经历过的人一辈子都忘不了,甚至会颠覆你的所有人生观。
如果说这是打仗,急诊科就在最前线。但当时的情况是,后面的病区已经饱和了,基本上一个病人都不收,ICU也坚决不收,说里面有干净的病人,一进去就污染了。病人不断地往急诊科涌,后面的路又不通,就全部堆在急诊科。病人来看病,一排队随便就是几个小时,我们也完全没法下班,发热门诊和急诊也都不分了,大厅里堆满了病人,抢救室输液室里到处都是病人。
还有的病人家属来了,说要一张床,我的爸爸在汽车里面不行了,因为那时候地下车库已封,他车子也堵着开不进来。我没办法,带着人和设备跑去汽车里去,一看,人已经死了,你说是什么感受,很难受很难受。这个人就死在汽车里,连下车的机会都没有。
还有一位老人,老伴刚在金银潭医院去世了,她的儿子、女儿都被感染了,在打针,照顾她的是女婿,一来我看她病得非常重,联系呼吸科给收进去住院,她女婿一看就是个有文化有素质的人,过来跟我说谢谢医生等等的,我心里一紧,说快去,根本耽误不了了。结果送去就去世了。一句谢谢虽然几秒钟,但也耽误了几秒。这句谢谢压得我很沉重。
还有很多人把自己的家人送到监护室的时候,就是他们见的最后一面,你永远见不着了。
我记得大年三十的早上我来交班,我说我们来照个相,纪念一下这个大年三十,还发了个朋友圈。那天,大家都没有说什么祝福,这种时候,活着就是好的。
以前,你如果有一点失误,比如没有及时打针,病人都可能还去闹,现在没人了,没有人跟你吵,没有人跟你闹了,所有人都被这种突然来的打击击垮了,搞蒙了。
病人死了,很少看到家属有很伤心地哭的,因为太多了,太多了。有些家属也不会说医生求求你救救我的家人,而是跟医生说,唉,那就快点解脱吧,已经到了这个地步。因为这时候每个人怕的都是自己被感染。
一天发热门诊门口的排队,要排5个小时。正排着一个女的倒下了,看她穿着皮衣,背着包包,穿着高跟鞋,应该是很讲究的一个中年女性,可是没有人敢上前去扶她,就在地上躺了很久。只得我去喊护士、医生来去扶她。
1月30号我早上来上班,一个白发老人的儿子32岁死了,他就盯着看医生给他开死亡证明。根本没有眼泪,怎么哭?没办法哭。看他的打扮,可能就是一个外来的打工的,没有任何渠道去反映。没有确诊,他的儿子,就变成了一张死亡证明。
这也是我想要去呼吁一下的。在急诊科死亡的病人都是没有诊断、没办法确诊的病例,等这个疫情过去之后,我希望能给他们一个交代,给他们的家庭一些安抚,我们的病人很可怜的,很可怜。
「幸运」
做了这么多年医生,我一直觉得没有什么困难能够打倒我,这也和我的经历、个性有关。
9岁那年我爸爸就胃癌去世了,那个时候我就想着长大了当个医生去救别人的命。后来高考的时候,我的志愿填的全部都是医学专业,最后考取了同济医学院。1997年我大学毕业,就到了中心医院,之前在心血管内科工作,2010年到急诊科当主任的。
我觉得急诊科就像我的一个孩子一样,我把它搞成这么大,搞得大家团结起来,做成这个局面不容易,所以很珍惜,非常珍惜这个集体。
前几天,我的一个护士发朋友圈说,好怀念以前忙碌的大急诊,那种忙跟这种忙完全是两个概念。
在这次疫情之前,心梗、脑梗、消化道出血、外伤等等这些才是我们急诊的范畴。那种忙是有成就感的忙,目的明确,针对各种类型的病人都有很通畅的流程,很成熟,下一步干什么,怎么做,出了问题找哪一个。而这一次是这么多危重病人没办法去处理,没办法收住院,而且我们医务人员还在这种风险之中,这种忙真的很无奈,很痛心。
有一天早上8点,我们科一个年轻医生跟我发微信,也是蛮有性格的,说我今天不来上班了,不舒服。因为我们这里都有规矩的,你不舒服要提前跟我说好安排,你到8点钟跟我说,我到哪里去找人。他在微信中对我发脾气,说大量的高度疑似病例被你领导的急诊科放回社会,我们这是作孽!我理解他是因为作为医生的良知,但我也急了,我说你可以去告我,如果你是急诊科主任,你该怎么办?
后来,这个医生休息了几天后,还是照样来工作。他不是说怕死怕累,而是遇到这种情况,一下子面对这么多病人感到很崩溃。
作为医生来说,特别是后面很多来支援的医生,根本心理上受不了,碰到这种情况懵了,有的医生、护士就哭。一个是哭别人,再一个也是哭自己,因为每个人都不知道什么时候就轮到自己感染。
大概在1月中下旬,医院的领导也陆陆续续地都病倒了,包括我们的门办主任,三位副院长。医务科科长的女儿也病了,他也在家里休息。所以基本上那一段时间是没有人管你,你就在那儿战斗吧,就是那种感觉。
我身边的人也开始一个接一个地倒掉。1月18日,早上8点半,我们倒的第一个医生,他说主任我中招了,不烧,只做了CT,肺部一大坨磨玻璃。不一会儿,隔离病房负责的一个责任护士,告诉我说他也倒了。晚上,我们的护士长也倒了。我当时非常真实的第一感觉是——幸运,因为倒得早,可以早点下战场。
这三个人我都密切接触过,我就是抱着必倒的信念每天在工作,结果一直没倒。全院的人都觉得我是个奇迹。我自己分析了一下,可能是因为我本身有哮喘,在用一些吸入性的激素,可能会抑制这些病毒在肺内沉积。
我总觉得我们做急诊的人都算是有情怀的人——在中国的医院,急诊科的地位在所有科室当中应该是比较低的,因为大家觉得急诊,无非就是个通道,把病人收进去就行了。这次抗疫中,这种忽视也一直都存在。
早期的时候,物资不够,有时候分给急诊科的防护服质量非常差,看到我们的护士竟然穿着这种衣服上班,我很生气,在周会群里面发脾气。后来还是好多主任把他们自己科室藏的衣服都给我了。
还有吃饭问题。病人多的时候管理混乱,他们根本想不到急诊科还差东西吃,很多科室下班了都有吃的喝的,摆一大排,我们这里什么都没有,发热门诊的微信群里,有医生抱怨,「我们急诊科只有纸尿裤……」我们在最前线战斗,结果是这样,有时候心里真的很气。
我们这个集体真的是很好,大家都是只有生病了才下火线。这次,我们急诊科有40多个人感染了。我把所有生病的人建了一个群,本来叫「急诊生病群」,护士长说不吉利,改成「急诊加油群」。就是生病的人也没有很悲伤、很绝望、很抱怨的心态,都是蛮积极的,就是大家互相帮助,共度难关那种心态。
这些孩子们、年轻人都非常好,就是跟着我受委屈了。我也希望这次疫情过后,国家能加大对急诊科的投入,在很多国家的医疗体系中,急诊专业都是非常受重视的。
不能达到的幸福
2月17号,我收到了一条微信,是那个同济医院的同学发给我的,他跟我说「对不起」,我说:幸好你传出去了,及时提醒了一部分人。他如果不传出去的话,可能就没有李文亮他们这8个人,知道的人可能就会更少。
这次,我们有三个女医生全家感染。两个女医生的公公、婆婆加老公感染,一个女医生的爸爸、妈妈、姐姐、老公,加她自己5个人感染。大家都觉得这么早就发现这个病毒,结果却是这样,造成这么大的损失,代价太惨重了。
这种代价体现在方方面面。除了去世的人,患病的人也在承受。
我们「急诊加油群」里,大家经常会交流身体状况,有人问心率总在120次/分,要不要紧?那肯定要紧,一动就心慌,这对他们终身都会有影响的,以后年纪大了会不会心衰?这都不好说。以后别人可以去爬山,出去旅游,他们可能就不行,那都是有可能的。
还有武汉。你说我们武汉是个多热闹的地方,现在一路上都是安安静静的,很多东西买不到,还搞得全国都来支援。前几天广西的一个医疗队的护士在工作的时候突然昏迷了,抢救,后来人心跳有了,但还是在昏迷。她如果不来的话,在家里可以过得好好的,也不会出这种意外。所以,我觉得我们欠大家的人情,真的是。
经历过这次的疫情,对医院里很多人的打击都非常大。我下面好几个医务人员都有了辞职的想法,包括一些骨干。大家之前对于这个职业的那些观念、常识都难免有点动摇——就是你这么努力工作到底对不对?就像江学庆一样,他工作太认真,太对病人好,每一年的过年过节都在做手术。今天有人发一个江学庆女儿写的微信,说她爸爸的时间全部给了病人。
我自己也有过无数次的念头,是不是也回到家做个家庭主妇?疫情之后,我基本上没回家,和我老公住在外面,我妹妹在家帮我照顾孩子。我的二宝都不认得我了,他看视频对我没感觉,我很失落,我生这个二胎不容易,出生的时候他有10斤,妊娠糖尿病我也得了,原本我还一直喂奶的,这一次也断了奶——做这个决定的时候,我有点难过,我老公就跟我说,他说人的一生能够遇到一件这样的事情,并且你不光是参与者,你还要带一个团队去打这场仗,那也是一件很有意义的事情,等将来一切都恢复正常以后大家再去回忆,也是一个很宝贵的经历。
2月21号早上领导和我谈话,其实我想问几个问题,比如有没有觉得那天批评我批评错了?我希望能够给我一个道歉。但是我不敢问。没有人在任何场合跟我说表示抱歉这句话。但我依然觉得,这次的事情更加说明了每个人还是要坚持自己独立的思想,因为要有人站出来说真话,必须要有人,这个世界必须要有不同的声音,是吧?
作为武汉人,我们哪一个不热爱自己的城市?我们现在回想起来以前过得那种最普通的生活,是多么奢侈的幸福。我现在觉得把宝宝抱着,陪他出去玩一下滑梯或者跟老公出去看个电影,在以前再平常都不过,到现在来说都是一种幸福,都是不能达到的幸福。